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2017/12/09

老媼茶話巻之六 彦作亡靈

 

     彦作亡靈

 

 出羽の國村山郡白岩は八千石酒井長門守、知行所也。

 白岩の名主喜太夫といふ者、百姓へ無理非道を度度(たびたび)申懸(まうしかける)ける間、彦作といふ百姓、直(ぢき)に目安(めやす)を添田八左衞門方へ差上(さしあげ)ける。喜太夫、是を聞(きき)、八左衞門方へ金銀を澤山にまひないける間、喜太夫、まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)、彦作は非公事(ヒクジ)に成、

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびやくしやう)の見せしめ。」

とて、彦作は萬松院河原の松原にて成敗(せいばひ)に逢(あひ)ける。

 このとき、彦作、けんぶつに向ひ申けるは、

「郡(こほり)奉行添田八左衞門、幷(ならび)に、喜太夫め。己(おのれ)、わが欲にふけり、上をかすめ、非を以(もつて)理(ことわり)となし、ほしいまゝに百姓に過役錢(くわやくせん)をかけ、取(とり)つぶす。我、是を見るに忍びす、惣百姓に代り、今、非命の死を請(うく)。各(おのおの)見玉へ、八左衞門・喜太夫兩人子孫迄、とりたやし、三年とは延(のぶ)まじき也。」

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

 半年程過(すぎ)て、八左衞門家に、彦作亡靈、晝も、折々、あらはれ出(いで)ける。

 祈願・祈念をなしけれ共、少(すこし)も印(しるし)なく、此故にか、八左衞門、亂心し、平兵衞坊といふ十七歳に成惣領、妹十三才になるを切殺(きりころ)し、其身も自害し果(はて)たり。亂心の所行とて、後(あと)、絶(たえ)たり。

 其頃、やき澤の百姓與四郎・孫三郎といふ者、萬松院河原へ畑打(はたうち)に行(ゆき)けるに、何方(いづかた)よりともなく、彦作、與四郎が側(そば)へ來(きた)る。

 與四郎、見て、驚き、

「彦作。そちはいかゞして、爰へ來(きた)るや。去年(こぞ)、此所にて御成敗に逢(あひ)、其怨念の、いまだ此地に留りて中有(ちゆうう)にさまよふものならん。」

 彦作、聞(きき)て、

「いかにも其通りなり。我、罪なくして刑に逢(あひ)ける。恨み、こつずひにとふり、その魂、此土に殘り、則(すなはち)、八左衞門をば子孫迄、取(とり)たやし、今、喜太夫が惡逆、司錄神(しろくじん)にうつたへ、是もゆるしを得て、宿報をとぐる折(をり)を待(まつ)といへども、喜太夫、いまだ運命のつゞく宿善(シユクゼン)有(あり)て、我、志を達せず。來春、彼等三人、はりつけに行るゝ陰惡(いんあく)、有(あり)。是、我(わが)宿意をとぐる折(をり)也。」

といふ。

 與四郎、聞(きき)て、

「魂といふ事は有(ある)事か、無(なき)事か。地獄極樂は、いかゞ。」

と云(いふ)。

 彦作、聞て、

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故、善惡の決談(けつだん)なし。御成敗に行はるゝ首の場にのぞみ、魂(たましひ)、骸(からだ)を放れ出(いで)、飛(とび)て、我身、松の梢にありて下を見下(みおろ)すに、我(わが)骸(からだ)を切(きり)、罪(つみ)する人、有(あり)て、首をごく門に懸(かけ)て有(あり)。是を見るといへども、我(わが)魂に、少しも、いたみなし。只、煙雲霞(けぶりくもかすみ)のごとく、きへては、また、結び、こりては、また、散ず。爰に魂ありといへども、すべて、きかつのうれいなく、寒暑のくるしみもなく、妻子をかへり見べきこゝろも、なし。只、わが恨める心、天より高く、地よりもあつし。最早、歸り去(さる)ぞ。」

といふ、とおもへば、一たいの陰火となりて、煙、ぜんぜんに消(きえ)て、さりける。

 與四郎も孫三郎も不思義の事に思ひながら、人にも語らずしてありけるが、其(その)明(あく)る春、喜太夫父子三人、同村の與次右衞門といふものに非道を申懸(まうしかけ)、是、又、公事に成(なる)。

 此時に至り、前々の惡事、委く顯(あらは)れ、喜太夫は最上の長町河原といふ所にて、すべて、三拾人、はりつけに懸る、その壱人なり。子ども弐人、成敗になり、家迄、公義へ召上(めしあげ)られける間、妻子、乞食となり、ちまたに袖をひろげ、道に倒れ、餓死(うゑじにし)けるとなり。

 

[やぶちゃん注:「出羽の國村山郡白岩」出羽国村山郡寒河江荘白岩は現在の山形県寒河江(さがえ)市白岩(しらいわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。後の石高から見ても、ここを中心とした広域と考えてよかろう。戦国時代より白岩城があり、江戸初期、短期に白岩藩(領)が置かれた。ウィキの「白岩城」によれば、『白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江広元宗廟吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。斯波兼頼との争いで父・大江元政を失った時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男・溝延茂信の子・政広を配した』。『白岩氏は』四代の『白岩満教を溝延氏から迎えると、両者は関係を強めながら』、『次第に自立性を高め』、『領主権を拡大するが、戦国時代末期』、『寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り』、『松根光広を養子として迎えた』が、『慶長出羽合戦では庄内から六十里越街道を経て侵入した下秀久に攻め落とされた』。元和八(一六二二)年に『最上氏が改易になると、白岩には旗本・酒井忠重(庄内藩主・酒井忠勝の弟)が入った。しかし忠重は苛政を布き』、寛永一〇(一六三三)年『には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった(白岩一揆)。これが原因となり』、寛永一五(一六三八)年『に酒井忠重は改易され』、『その後、白岩領は幕府領となり、代官の支配下に置かれた』とある。さすれば、本話柄はこの「白岩一揆」のプレ段階と考えて良かろうから、作品内時制は元和八(一六二二)年より後、寛永一〇(一六三三)年よりも前となり、凡そその閉区間の約十年の間に絞られることとなる。なお、本書の成立は寛保二(一七四二)年であるから、百年以上も前の古い話となる。

「八千石酒井長門守」酒井忠重(慶長三(一五九八)年~寛文六(一六六六)年)。出羽国村山郡白岩領八千石領主で旗本寄合。酒井家次三男で祖父酒井忠次(徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる家康第一功臣。但し、死後養子)の養子。ウィキの「酒井忠重」によれば、元和元(一六一五)年に『家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出され』、二年後には『従五位下長門守に叙任』、先に述べた通り、元和八年、出羽国村山郡白岩の領主(当初は四千石)となった(後に八千石に加増)。しかし、寛永十年、領内に於いて一千人余りに及ぶ餓死者を出すなどの苛政を強いたことから、『白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴え』出(白岩一揆)、四年後の寛永十五年、『江戸奉行所の判決により』、『白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられ』た。さらに寛永一九(一六四二)年には、『忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚』、十年後の承応元(一六五二)年には、『忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かった』ことに腹を立て、『幕府に提訴』、忠勝の長男で新藩主となった酒井忠当(ただまさ)から金二『万両を贈られて義絶され』てしまう。それでも懲りないこの男は、寛文五(一六六五)年、『息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり』、またしても『改易され』、その翌年の九月、『夜中、何者かに襲われて死亡』してしまったという。享年六十九。この救いようのない愚か者にこそ、彦作の亡霊の怨念は向かっていたものかも知れないな

「目安(めやす)」訴状。

「添田八左衞門」不詳。

「まひないける」「賂(まひない)」し「ける」。

「まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)」内容は明らかに喜太夫の負け(敗訴)が明らかな案件であったが、賄賂を受けた添田は悪しき「忖度」を喜太夫に有利に加え、喜太夫側の弁解には十分に正当な道理があるという裁定が下され。

「彦作は非公事(ヒクジ)に成」彦作の公訴は正当な訴えとして認められなかったばかりか。

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびゃくしやう)の見せしめ。」「お上(御主君)を軽んじて、かくも分不相応な言いがかりを公訴するは、不届き千万! 領内の総ての百姓らの見せしめじゃ!!」。

「萬松院河原」不詳。但し、一般にこの戦国明けのこの時期の刑場は藩庁(城)からそう遠くない位置にあったと考えてよく、白岩城は寒河江川の左岸近くにあったので、附近(グーグル・マップ・データ。この中央付近が白岩城跡と推定される)の寒河江川の河原ではないかとも考えたが、最後の出る刑場「最上の長町河原」は名前から明らかにずっと東の最上川の河原であろうから、これも寒河江川のもっと下流(東)かも知れない。

「けんぶつ」「見物」。

「郡奉行」(こおりぶぎょう)は室町中期以降に現れた武家の役職で、領国を数区域に分け、農政を担当した。江戸時代には諸藩では一郡に一人の郡奉行を配置し、郷目付・代官・手代などの部下を配して年貢の収納・訴訟・農民統制などに当らせた。郡奉行自身が現地で実務業務を行うこともあったが、通常は城下の郡役所で事務を司り、現地では代官などの属吏が実際の業務を行なった。

「かすめ」「掠め」。この場合は「騙(だま)す・欺(あざむ)く」の意。

「過役錢(くわやくせん)」ここは過剰な年貢。

「非命」天命ではなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。

「とりたやし」憑(と)りついて絶やし。

「三年とは延(のぶ)まじき也」「きゃつらに祟って亡ぼすには、おう! 三年とはかかるまいぞ!」。

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

「やき澤」不詳。

「中有(ちゆうう)」既出既注であるが、再掲しておく。仏語で四有(しう)の一つ(後述)。死有(しう)から次の生有(せいう)までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までを指す。「中陰」とも言う。「四有」の「有」は梵語の漢訳で「生存」「存在」の意で、「衆生の存在の在り方」を期間別に四種に分類したもので、死んでから次の生を受けるまでの期間を「中有」、それぞれの世界に生を受ける瞬間を意味するのが「生有」、その新たな生を受けてから死ぬまでの一生の期間を「本有」、その生あるものが死ぬ瞬間を意味するのが「死有」である。

「こつずひにとふり」「骨髓に通(とほ)り」。

「此土」仏教的な謂いならこの世で「穢土」で「ど」であるが、彼は百姓なので私は「つち」と訓じたい。

「司錄神(しろくじん)」地獄の裁判に於ける「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「はりつけ」「磔」。

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故」こうした恨みを持った魂は例外的に四十九日に拘束されないのである。

「善惡の決談(けつだん)なし」冥府に於ける十王による現世での善悪の裁定自体を全く受けていない。

「ごく門」「獄門」。

「きかつのうれいなく」「飢渇の憂ひ無く」。

「あつし」「厚し」。

「一たい」「一體」。一つの分離出来ない塊り。

「ぜんぜんに」「漸漸に」次第次第に。だんだんに。

「其(その)明(あく)る春」二人の農夫が彦作の亡霊を見たのは、彦作の処刑から半年後、でその翌年の春というのであるから、最大長でも一年半余り二年未満で、彦作の呪った三年未満という言葉もここで成就している。

「委く」「くはしく」ではおかしい。底本ではこの「委」の右に編者による『*』が附されてある(衍字・誤字等と判断したことを示す。但し、示すだけで内容は書かれていない)から、私はこれは草書の判読で誤り易い「悉」ではないかと思う。「ことごとく」はここの決めの言葉として相応しいと感ずる。

「最上の長町河原」不詳。寒河江川は東流して最上川に入る。]

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