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2017/12/19

芥川龍之介 手帳7 (4) 天壇から陶然亭、黑窑廠・宜武門を経て白雲觀へ

 

○瓊島春陰(乾隆)の碑 右 檜柏 白壁 柳 倚晴樓

[やぶちゃん注:「北海公園」の描写の続き。瓊島北麓の湖畔を取り囲む長さ三百メートルの二層式回廊である半円形の「延楼長廊」の東西には、それぞれ「倚晴樓」と「分涼閣」が建ち、それは、さながら、色艶やかな絹の帯のようで、それはまた「瓊島」と「瑤池」(北海湖)をしっかりと繋いで、その風景を見事に引き立たせる効果を持っている、と、中国観光専門サイト「感動大陸」のこちらにある。]

 

○芦山動き出す 實は一輪車

 

○天壇 大理石橋――橋下一面の芦 齋宮の1門――大理石橋――2門齋宮は赤壁、綠瓦 門、槐の大木 1門を出ると祈年殿を見る 何とも云へぬ紺色なり 楡槐の上宮はうす雲

[やぶちゃん注:「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。先に注した九壇の一つ。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。総敷地面積は約二百七十三万平方メートルにも及ぶ。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在である。ここにあった祈年殿は一八八九年に落雷より一度消失したが、一九〇六年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。]

 

○圓邱 檜林 芦皆片葉 蓬多し 大理石の華表 朱扉朱壁 瓦ハ一種特色のエナメル藍(ルリ) 石道 草 □用の鐵柵 内外壁共華表あり 外は壁方形 内は圓形 天壇は三疊 一疊毎に大理石欄をめぐらす 大蟻 犬の糞

[やぶちゃん注:「圓邱」天壇の中の「圜丘壇」。ウィキの「天壇によれば、『皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所である。毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いを行った』。『形は天円地方の宇宙観に則り円形である。また欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である』九『や、その倍数で構成されている。各壇の直径を合計すると』四十五『丈であり、これは単に』九『の倍数という意味だけでなく、九五之尊』(「易経」の「乾卦」に由来する言葉で、「飛竜天に在り」を意味しこれは天子を表わす表現であるとする)『という意味も持つ』とある。『天壇では』『祈年殿が有名であるが、本来的な意味では圜丘殿こそが最も重要な場所である』ともある。

「□」は判読不能字。]

 

○皇穹宇――兩廡――宇の石階の下 右邊に立ちて叫べば五聲響く(反聲境 天聲閤と云ふ)金碧 褐色 ルリ色の瓦 頂上金□

[やぶちゃん注:「皇穹宇」天壇の一部。ウィキの「天壇によれば、『皇室の皇に、大空を表す穹と、宇宙の宇という字を書く。圜丘で祭事が行なわれる時、壇の上に置かれる天の神や、歴代の皇帝の位牌をふだん安置しておく所』とある。

「兩廡」「りょうぶ」で、ある建物の左右に配された回廊状部分を言う。

「□」は判読不能字。]

 

○祈年殿 祈年門 大理石の欄ある三重圓盤 桂は朱と金唐草 天井は金碧 大理石の壇上に金の龍を彫つた屛風のやうなもの ○廊は埃みつ 廊のこはれ目より出づれば古檜 空地ニ七星石 八つあれど一つは數へず

[やぶちゃん注:「祈年殿」ウィキの「天壇によれば、『天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる。祈年殿では皇帝が正月の上辛五穀豊穣を祈りを捧げた。祈年殿は直径』三十二メートル、高さ三十八メートル。二十五本の『柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇。中国建築史上』、『重要な建造物とされる。木造で宝頂は金メッキがなされている。屋根は瑠璃瓦葺きの三層になっており、明の時代には上から青、黄、緑となっていたが』、一七五一『年にすべて青色に変えられた。』一八八九年に『落雷により焼失したが』、一八九六年に再建された、とある。

「七星石」旅行案内サイト「All Aboutに写真入りで解説がある。事実、八個ある。その八個目の意味が書かれているので、解説を引用させて戴く

   《引用開始》

明代、ある道士が広く空いた敷地を見て嘉靖皇帝に不安定さを説き、皇帝が七星石を置かせたと伝わっています。当初は名前通り7つの石が置かれていましたが、清の乾隆帝が支配民族である満州族が中国に加わり、一つの国となったという意味を込めて、満州族発展の地である東北の位置に小さめの石を一つ配したとされます。現在、石は全部で8つですが、東北にある一つだけ他よりも小ぶりな石となっています。

   《引用終了》]

 

○天壇を出れば廣場 死刑をする所 役者が聲を試みる所 ひるね多し

[やぶちゃん注:これは北京日記抄 五 名勝のコーダを戦慄的に装飾している。

   *

 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋萋(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の廣場に出づるに忽(たちまち)一發の銃聲あり。何ぞと問へば、死刑なりと言ふ。

   *

しかし、メモには銃声を聴いた感じはない。或いは、芥川龍之介の創作かも知れぬ。或いは、「聲を試み」ている「役者が」人を驚かすために、銃声の真似をしたのかも、知れぬな。]

 

○城南公園 入場料五錢 籐椅子十錢 木椅子五錢

[やぶちゃん注:同名の公園が現在、北京に東北方にあるが、天壇から離れ過ぎており、あり得ない。以下、天壇周辺のメモが続くので、天壇内の整備された公園と思われる。]

 

○茶店より門二重(赤かべ) ○雲壇 右 地祇壇(正門北面)左 天神壇(正門南面) ○地――大理石の華表 黑瓦 壇方形一重 石龕五(五岳)四(四海)老松美なり 野菊 〇天――石龕五(雲)

 

○藉田――親耕臺 黃綠瓦 大理石欄 上に寫眞屋(バラツク) 寫眞は校書のみ 天子藉田親耕を見るの所

[やぶちゃん注:「藉田」(せきでん)は親桑とともに勧農と豊饒を祈願するために行われた農耕儀礼で、「周礼」「礼記」などにすでにその記事が認められが、実際には前漢文帝の治世以後に実施されるに至ったとされる。新石器時代以来の社会通念である〈夫耕婦績〉に則り、皇帝が藉田を、皇后が親桑(親蚕とも称する)の儀礼を分担する。皇帝と皇后とは夫婦として性別による分業を示し、天下の匹夫匹婦に農桑に努むべきことを教導した。藉田親桑とも三春(一月~三月)のうちに執行された(平凡社「世界大百科事典」に拠る)これは現在の本邦の皇室でも酷似した儀式が行われている。

「寫眞は校書のみ」意味不詳。その写真屋に飾られていた写真は公式文書の写しのみ、ということか?]

 

○花木の間を出ればテニスコオト 支人テニスす 左に先農壇(方形) 周圍老檜 鵲 蘇峰哲人皆談る

[やぶちゃん注:「蘇峰哲人皆談る」意味不明。或いは、徳富蘇峰がぶち上げ、後の「八紘一宇」を生み出すことになるような白哲人(白人)排斥主張をそこにいる人々が議論していたというのであろうか? しかし、蘇峰はそれ以上に警戒していたのは、日本人と同じ辛酸の歴史を経てきた中国人をこそ対等な手強い敵と考えていたんだが。]

 

○大歳殿 今は忠烈祠 袁世凱造る 今は東西兩廡も巡査教練所なり 簾 鼎 朱柱 金碧簷 側に巡査拳法の形を使ふ

[やぶちゃん注:袁世凱が作ったんじゃ、現存してないだろう。]

 

○陶然亭 古刹慈悲淨林 黑煉瓦の門 大楡 石だたみ 門中江藻の陶然の額 門聯 門外時聞長者東 壺中別有仙家日 ○庭――石だたみ――大楡 鉢の杏竹桃 大理石の經塔 庭を挾んで慈悲院あり 鉢植の石榴 文昌閣 城壁 芦 城外の樹木

[やぶちゃん注:清朝時代からある北京陶然亭公園。(グーグル・マップ・データ)。

「慈悲院」「慈悲庵」として現存。(グーグル・マップ・データ)。]

 

○黑窑廠 窑臺 ――三門閣 閣下ひるね人多し 芦 北京のクリイ夏は外省へ出稼ぎに行く その留守の女房賣淫す(15錢位) 芦長き故人目つかず

[やぶちゃん注:「黑窑廠」(こくようしょう)は、窯厰と同義で、煉瓦や陶器などを焼く工場のこと。陶然亭公園の北に延びる直近に地名(街路名)として残る。(グーグル・マップ・データ)。

「芦」が「長き故」(ゆゑ)、蘆叢の中で野合していても「人目つかず」の意。まさに「上海游記 十四 罪」に登場した「野雉」“yĕzhì”(イエヂィー:街娼。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えた)の苦力(クーリー)の暇稼ぎ版である。]

 

○陶然亭樓上 土塀 遼の經塔 塀外柳 芦 窑臺の茶屋 夏天 天井 竹組み 郭公の聲 窓は麻(靑)張り 蔀樣の卍障子

 

○宜武門 護城河 柳 西使門 驢 羊

[やぶちゃん注:「宜武門」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

○白雲觀 牌樓 門 橋(石) 鐘樓 鼓樓(識運戲)

[やぶちゃん注:「白雲觀」は北京市の西便門外約一キロメートルの位置にある道観(道教寺院)。(グーグル・マップ・データ)。道教の二大教派の一つである全真教の本山(根本道場)。ウィキの「白雲観によれば、『当地には、唐代には当時の幽州に、玄宗が建立した天長観が建てられていた。それが、現在の白雲観の故地に相当する。以後、遼代・金代を通じて、この道観は、この地方の道教の中心的な役割を果たした。金代には、明昌中』(一一九〇年~一一九六年)『に、孫明道が道蔵の雕印を完成させた。『大金玄都宝蔵』と称されるもので』、実に六千四百五十五巻あった。『この道観が、全真教との関係が出来たのは、大定末年』(一一八九年)『の頃からである。丘長春ら全真七真人が、金朝の勅令によって、ここに止宿したのが、その端緒である。以後』、一二二四『年に丘長春が西域より帰還した時には、金室より長春宮の称を賜っていた。同時に、全真教天下第一叢林の位置を確立することとなった』。『現在の境域は、丘長春の遺骸を葬った処順堂を、その中心とする配置をとっており、その造営は、丘長春の法嗣である尹志平(清和真人)の手によって指揮がなされた』。『後代、全真教は、多くの分派が生まれたため、白雲観は、全真教の龍門派の総本山的位置にある。また、明版の『正統道蔵』が完本で所蔵されていることでも著名である』とある。

「識運戲」不詳。]

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