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2017/12/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 始動 / はしがき・明治二十二年以前 自筆の墓誌

 

[やぶちゃん注:柴田宵曲の正岡子規の評伝「子規居士」は昭和一七(一九四二)年三月に三省堂より刊行された。後、三省堂及び当時の著作権者(現在は柴田宵曲(昭和四一(一九六六)年八月二十三日没)の作品はパブリック・ドメイン)の諒承を岩波文庫で「評伝 正岡子規」と改題して、一九八六年に刊行された。

 底本は上記の岩波文庫版(新字新仮名)を元としたが、私のポリシーに則り、宵曲が引用する正岡子規の著作物及び関連した他者の著作物の引用は、基本、漢字を正字化して示すこととした。これは、それが原著作者たちの意志により添うものと判断するからであり、原著に当たれるものはそれで宵曲の引用と校合し、宵曲の引用に誤まり(表記の違いは言及せずに訂正した)があった場合は、注でそれを注で指摘した上で、本文自体を正すこととする。これも現著作者を尊重する意図に基づく。加えて、表題まで変更した岩波文庫版とはこれによって有意な差別化がされ、岩波書店の編集権を冒さないものと判断するからでもある。但し、私は「子規全集」を所持していないことから、例えば子規の書簡などは原文の確認が全く出来ない国立国会図書館デジタルコレクションの画像を主として、ネットで探って参考になるような場合は可能な限り、原文に即して書き換えを行ったが(底本とは異なるものに書き換えた場合は注記した)、全く原典が判らぬ場合は、不本意乍ら、そのまま手を加えずに示すこととした。但し、原典に当たれぬ場合(校合不能)でも、明らかに原文は正字漢字で示されていると推定し得る漢詩などのケースでは、恣意的に漢字を正字化して示してある(後者の場合は特に注していない)但し、原典に当たれず、底本のママにせざるを得なかったケースでは、それぞれの形式段落の最後に注を附すこととした。また、漢詩には底本では、各句の下に丸括弧附きで蜂屋邦夫氏の手に成る訓読文が附されてあるが、訓読文に読点を用いるなど、私が違和感を覚える点で、参考にさせて戴きつつも、オリジナルに訓読し、当該漢詩の後にそれを回すこととしたなお、詩歌俳諧の前後は一行空けた。

 また、ストイックにオリジナルな注を附す(原則、各形式段落末)ことともする。

 ブログ・タイトルの表題も著者の意志を尊重し、「子規居士(「評伝 正岡子規」原題)」で通すこととした。読みは、岩波編集部による附加が行われているので、一部を採用するに留め、擬古文の場合箇所へのそれは歴史的仮名遣に変換して附した

 なお、私は既に本ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・俳諧関連随筆七種・「俳諧博物誌」の電子化オリジナル注を完遂している。【始動:2017年12月19日 藪野直史】] 

 

 子規居士 

 

     はしがき

 子規居士三十六年の生涯の輪郭を描こうとして筆を執ったら、本書のようなものが出来上った。便宜上年代を逐って書いたため、一応伝記のような体裁になったけれども、これを伝記と名づくべきかどうかは固より疑問である。微に入り細を穿ち、一物をも剩(あま)さざらんとする最近の伝記の傾向からいえば、粗大に失するものというべきであろう。

 つとめて居士の全般に触れようとしたため、部分的には意を悉さぬ箇所が少くない。当然挙げなければならぬ材料も挙げず、加えなければならぬ説明も省いて、なおかつ予定した紙数を大分超過してしまったのは、著者の不手際によることは勿論であるが、記すべき事柄が余りに多いためでもある。要するに画ならば白描の如きもので、これに色彩や濃淡を施すには、他日を期して出直すより仕方がない。

 出来るだけ多くの事を要約して述べようとした結果、多少前後錯雑したところがある。年によって別(わか)って置きながら、過去の事実に遡ったり、逆に後年の事に言及したりしたのは、前後の関係上やむをえぬというものの、やはり著者の不手際に帰せなければなるまい。

 著者はこの書を成すに当り、何ら特別な材料を用いておらず、独自の研究と称すべきものも持合せていない。かくの如き小著によって子規居士の面目を伝え得たとは信ぜぬが、もし幸にして甚しい誤(あやまり)がなかったならば、著者はそれを以て満足すべきだろうと考える。

   昭和十六年十一月三日夜

[やぶちゃん注:「子規居士三十六年」正岡子規(本名は「常規(つねのり)」、幼名は「處之助(ところのすけ)」、後には「升(のぼる)」と改めた)は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれで、明治三五(一九〇二)年九月十九日に亡くなっているから、満三十四歳と約十一ヶ月であった。

「昭和十六年」一九四一年。] 

 

  明治二十二年以前


[やぶちゃん注:「明治二十二年」一八八九年。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれであるから、満二十二歳以前となる。] 

 

     自筆の墓誌 

 

 明治三十一年七月十三日、子規居士が河東銓(かわひがしせん)氏に与えた手紙の中に、「アシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ石碑立テヽモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ッテ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノヂャケレド、万一已ムヲ得ムコツデ字ヲ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ盡シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字增シテモ餘計ヂャ、但シコレハ人ニ見セラレン」とあって、次のような自筆の墓誌が添えてあった。

[やぶちゃん注:書簡は、底本ではひらがな書きで「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、むしろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで字を彫るなら、別紙の如き者で盡しとると思うて書いて見た。これより上一字増しても余計じゃ、但しこれは人に見せられん」あるが、個人ブログと思しい「伊予歴史文化探訪」の子規自撰の墓誌の解説に一部が電子化されており、それを参考に、一部は類推して全面的に書き換えた。将来的には「子規全集」に当たって字を確定したいとは思っている。

「明治三十一年」一八九八年。子規、満三十歳。子規の最初に喀血は、明治二一(一八八八)年八月の鎌倉旅行の最中で、翌明治二十二年五月には大喀血を起こし、医師に肺結核と診断されている。

「河東銓」可全とも。子規の友人で、河東碧梧桐の兄。

 以下の自筆の墓碑銘は底本では全体が二字下げである。]

正岡常規又ノ名ハ處之助マタノ名ハ升又ノ名ハ子規マタノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓

[やぶちゃん注:以上は、秋尾敏氏のサイト「秋尾敏の俳句世界」の「子規の墨跡」に掲げられた自筆に基づいて電子化した。底本に句読点があるが、排除した。]

 この墓誌は居士の歿後直にその墓に刻まれはしなかったが、昭和九年の三十三回忌に、この墓誌を刻んだ碑が新に大竜寺の墓畔に建てられた。居士の筆蹟そのまま銅板に鋳て板碑風の石に取付けたのを、その後改めて石に刻んだものとなっている。

[やぶちゃん注:「大竜寺」現在の東京都北区田端にある真言宗和光山大龍寺。(グーグル・マップ・データ)。]

 子規居士はどうして明治三十一年にこの墓誌を撰し、河東銓氏にこれを送ったか、その理由は固(もと)より明(あきらか)でないが、居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助(おちところのすけ)なる名を用いていた。

[やぶちゃん注:「日本人」国粋主義団体政教社の総合雑誌。明治二一(一八八八)年より、三宅雪嶺を中心に雑誌『日本人』として発行していたものを、後(明治三五(一九〇二)年)、『日本及日本人』改題継承して創刊、大正一二(一九二三)年に雪嶺は退社し、その後は右翼の手に移って昭和二〇(一九四五)年に終刊した。]

 越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふうのぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽(らんちゅう)して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事にある。居士が獺祭事屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「又ノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。

[やぶちゃん注:「又ノ名」は底本では「マタノ名」であるが、先の校合した原典に徴して訂した。

「李義山」は晩唐の政治家で妖艶と唯美の名詩人であった李商隠(八一二年或いは八一三年~八五八年)のこと。ウィキの「獺祭魚」同「李商隠」によれば、彼は『作中に豊富な典故を引いたが、その詩作の際』、『多くの参考書を周囲に並べるように置いた』ことから「獺祭魚」と呼ばれた(前者では自らそう号したとあるが、後者に従った)という。]

 孫悟空の如意棒は伸(のば)せば三十三天より十八層地獄に及び、縮めれば一、二分ばかりの縫針となって耳の中に蔵(かく)すことが出来る。子規居士の一生も縮めれば有余字の墓誌に収(おさま)るが、扱い方によってほどの辺まで伸びるか、ちょっと見当がつかない。以下、本書の頁数と筆者の能力との許す範囲において、その引伸しを試みることにする。

[やぶちゃん注:「三十三天」仏教の天上界の一種で、六欲天の第二の天である忉利天(とうりてん)のこと。須弥山の頂上、閻浮提の上、八万由旬の処にあり、中央に善見(喜見)宮がある。四面それぞれ八万由旬の大きな城があり、そこに帝釈天が住し、四方には各八つの城があり、その所属を支配する天部の衆徒や神々が住んでいる。故に、これらに善見城を加えて計三十三天となる(ウィキの「忉利天に拠る)。

「十八層地獄」中国の道教の影響を受けた地獄(我々の馴染み深い地獄思想自体が中国で形成されたもので、原始仏教では地獄はただ永遠の闇の世界でしかない)の十八の階層。本邦ではあまり言わないが、まさに「西遊記」には吊筋獄・幽枉獄・火坑獄・酆都獄・拔舌獄・剝皮獄・磨捱獄・碓搗獄・車崩獄・寒冰獄・脱殼獄・抽腸獄・油鍋獄・黑暗獄・刀山獄・血池獄・阿鼻獄・秤桿獄が挙げられている。] 

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