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2017/12/21

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 上京後の数年

 

      上京後の数年

 

 松山時代の子規居士には、あまり遠くに遊ぶという経験がなかった。僅に明治十四年(十五歳)の時に松山城南八里なる久万山(くまやま)、岩屋に友人と遊んで一泊したことがあるのと、その翌年大洲(おおす)に遊んで四、五泊して帰るということが伝えられているに過ぎぬ。それが一躍して東京遊学を決行するに至ったのだから、この東上は居士最初の大旅行でもあったわけである。けれども旅行の顚末を記した「上京紀行」は神戸旅舎に至って断えているので、その後の委しい事はわからない。六月十四日に東京の地を踏み、日本橋から本郷へ行く途中、小伝馬町(こてんまちょう)通で鉄道馬車の鉄軌(てっき)に逢着して、踏切っていいかどうか躊躇しているうち、傍の人の横切るのを見てこわごわそれに倣ったという話もある。そうかと思うと上京後間もなく、加藤恒忠氏を向嶋(むこうじま)に訪ねる途で、言問団子(ことといだんご)へ入って悠然と団子を食っていたという逸話も伝えられている。彼の話は多少居士の風丰(ふうぼう)を窺うべきものがあるかと思う。

[やぶちゃん注:現在の愛媛県上浮穴(かみうけな)郡久万高原町(くまこうげんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千メートルを超える四国山地に囲まれた町(久万山というピークがあるわけではない)で、四国では比較的、冷涼な気候であり、「四国の軽井沢」と呼ばれることもあるという。

「大洲」現在の愛媛県南予地方に位置する大洲市。ここ(グーグル・マップ・データ)。肱川(ひじがわ)の流域にある大洲城(旧大洲藩藩庁)を中心に発展した旧城下町。「伊予の小京都」と呼ばれる。

「上京紀行」不詳。以下の東京着後の記事は、随筆「筆まか勢」第一編の「東京への初旅」(明治一七(一八八四)年筆。署名は「四國 沐猴冠者」)に基づく。冒頭では、

   *

去年六月十四日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ 人力にて日本橋區濱町久松邸まで行くに銀座の某を通りしかば 東京はこんなにきたなき處かと思へり

   *

と記している(「久松邸」とは旧松山藩主久松家。当時の当主は最後の藩主であった松平定昭の養子で軍人の伯爵久松定謨(さだこと 慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年:静岡県の元旗本松平勝実三男)であるが、子規の訪問したのが明治一六(一八八三)年六月、定謨はその五ヶ月後の十一月にフランスへ留学している。何よりここは、子規の帝都のカルチャー・ショックの基本は「汚ない」であったことに着目したい。

「小伝馬町(こてんまちょう)通」「東京への初旅」出は先の引用に続いて、

   *

やしきにつきて後川向への梅室といふ旅宿に至り柳原はゐるやと問へば 本郷弓町一丁目一番地鈴木方へおこしになりしといふ 余は本郷はどこやら知らねど いゝ加減にいて見んと眞直に行かんとすれば 宿の女笑ひながらそちらにあらずといふにより その教へくれし方へ一文字に進みたり 時にまだ朝の九時前なりき それより川にそふて行けば小傳馬町通りに出づ こゝに鐵道馬車の鐵軌しきありけるに余は何とも分らず これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内 傍を見ればある人の橫ぎりゐければこはごはとこれを橫ぎりたり

   *

と続いて出る(「こはごは」の後半は原文では踊り字「〲」)。この「小傳馬町通り」は現在の「江戸通り」で、中央区日本橋小伝馬町の、この附近(グーグル・マップ・データ)と推測される。

「加藤恒忠」(安政六(一八五九)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。松山藩大原有恒(先に出た儒者観山のこと)の三男。明治九(一八七六)年に司法省法学校に入学、中退後、仏学塾に学んだ。明治一三(一八八〇)年には廃絶していた縁戚の加藤家を継いで御家を復興、明治十六年、パリ法科大に入学、同十九年、帰国(従ってこの話が事実とすると、彼は明治十六年にパリ留学前(久松定謨と同じく同年十一月)の加藤を訪問したことになる)とともに外交官試補となり、フランス公使館に勤務した。その後、ベルギー公使を経て、万国赤十字会議全権に就任したものの、政府側と対決して辞職、衆議院に立候補、当選した。後に大阪新報社長に就任。大正元(一九一二)年、貴族院議員、大正八(一九一九)年の「パリ講和会議」には随員として出席、シベリア派遣臨時大使となり、反赤軍を支援した。大正一一(一九二二)年には松山市長に就任している。なお、彼の三男忠三郎(阪急電鉄車掌・阪急百貨店職員)は子規の妹リツの養子となり、正岡家の祭祀を嗣いでいる

「言問団子」隅田川に架かる桜橋の向島側の橋詰(現在の東京都墨田区向島五丁目)にある和菓子店及びそこで販売されている団子の商品名。ウィキの「言問団子」によれば、元は『植木の植木師の外山佐吉が江戸時代末期に創業』したもので、『「言問」の名は、在原業平の和歌「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」(『古今和歌集』)にちなむもので』、『この歌の舞台が隅田川沿いと目されていることによる。この店が著名になるにつれ』、『一帯の別称ともなり、現在は桜橋の下流に架かる言問橋等にその名が見られる』。近代以降は多くの文人墨客に愛された。『団子は小豆餡と白餡、味噌味の餡の』三『つの味が楽しめる趣深い菓子である』。『団子は四文銭が流通する前は串に』五『つ刺さって価格』五『文が常であったが、四文銭が流通すると蕎麦の』十六『文のように』四『の倍数での支払が多くなり、団子も』四『つ刺さって』『四文となった。現在でも』、『その形が継承されているが、言問団子は串には刺されておらず、土産用としては箱の中に味ごとに分かれて入って売られている。店内で賞味することも可能で、』三『つの団子に緑茶の付いた三色セットが標準メニュー。入店して着席すると、後述の最中を頼まない限り、黙っていてもこの団子が運ばれてくる』。四『つから』三『つにかわったのは、言問団子創業の年に貨幣が両から円に変わったことによるともいわれている』とある。]

 上京後の居士は赤坂丹後町の須田学舎に入り、次いで共立学校に入学した。当時の共立学校には高橋是清氏が英語の先生として、パーレーの『万国史』などを講義していたそうである。『荘子(そうじ)』の講義を聴いて、こんな面白い本はまたとあるまいと思ったのも、共立学校時代であることが「哲学の発足」なる文中に記されている。

[やぶちゃん注:「赤坂丹後町」現在の赤坂四丁目内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「須田学舎」当時の進学予備校。

「共立学校」後の開成中学、現在の開成高等学校。

「高橋是清」(嘉永七(一八五四)年~昭和一一(一九三六)年)は元仙台藩士で官僚・政治家。立憲政友会第四代総裁・第二十代内閣総理大臣(在任 : 大正一〇(一九二一)年~大正一一(一九二二)年)。彼は少年時に横浜のアメリカ人の医療伝道宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年:ヘボン式ローマ字の考案者として知られる)の私塾であるヘボン塾(現在の明治学院大学)で英語を学んでいた。

「パーレーの『万国史』」アメリカの作家・児童文学者サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ(Samuel Griswold Goodrich 一七九三年~一八六〇年:ペン・ネーム/ピーター・パーレー(Peter Parley)が亡くなる前年に完成した『万国史』(Universal History)。ウィキの「サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ」によれば、本書は『全世界で読まれ、日本でも』一八八〇年代(明治明治十三年~二十二年)『頃には全国の小学校の英語の授業で原書を読んでいたとされる。また』一八七三年に出版された、A pictorial Natural Historyは明治八(一八七五)年に『須川賢久訳、田中芳男校閲で『具氏博物学』として翻訳され、明治』十『年代の小学生の博物教科書として使われた』とある。

「哲学の発足」「筆まか勢」第一編の「哲學の發足」(明治二一(一八八八)年筆)。]

 明治十七年(十八歳)の七月、大学予備門の試験を受けて及第した。同級生でこの試験を受けた者が数人あったが、合格したのは居士と菊池仙湖(謙二郎)氏と二人であった。後年の『墨汁一滴』の中にこの時の回想が出ているが、共立学校の第二級であった居士は、試験に対する自信がなく、殊に英語の力に不足を感じていた。戯に受けて見る位のつもりであったのが、意外のまた意外に及第したのだという。同級生が片隅の机に陣取っていて、英文のむずかしい字の訳を隣から伝えて来る。或(ある)字の意味がわからないので困っていると、隣の男が「封間(ほうかん)」と教えてくれた。どう考えても幇間では意味が通じないが、知らない字だから仕方なしに幇間と訳して置いた。隣の男も実は英語不案内で、更に二、三人先から順々に伝達して来たのを、そのまま教えてくれたのであったが、按ずるにホーカン違いで、法官が封間になったものらしい、という滑稽もこの際の事であった。

[やぶちゃん注:以上の「墨汁一滴」(明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで新聞『日本』連載)の「六月十四日」のクレジットを持つ条々に出る。「青空文庫」のこちらで読め、それを見て戴くと判るが、先の「高橋是清氏が英語の先生として、パーレーの『万国史』などを講義していた」という記載内容もここがネタ元であることが判る。

「明治十七年」一八八四年。

「菊池仙湖(謙二郎)」(慶応三(一八六七)年~昭和二〇(一九四五)年)は教育者・歴史研究者。仙湖は号。正岡子規や夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。]

 試験は幸に通過し得たが、依然語学の力足らざるを憂い、十七年の夏は本郷の進文学舎に通って英語を勉強した。その時『ユニオン読本』の第四を講義してくれたのが、坪内雄蔵氏であつた。「先生の講義は落語家の話のようで面白いから、聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのような初学な者には英語修業の助けにはならなんだ」と『墨汁一滴』に見えている。

[やぶちゃん注:「進文学舎」進学予備校の一つ。洋学・漢学を扱った。かの森鷗外もここでドイツ語を学んでいる。

「ユニオン読本」アメリカの教育者・著作家チャールズ・ウォルトン・サンダース(Charles Walton Sanders 一八〇五年~一八八九年)は多数の教科書・読本の編纂執筆によって知られたが、特に彼の編纂になる英語教科書や読本の多くは、「ユニオン・リーダー(Union Reader)」の語を表題に含み、明治時代の日本では「ユニオン読本」、「ユニオンリードル」などと称され、代表的な英語教科書の一つとして盛んに使用された。「リーダー」は番号順に水準が高くなっていくように編纂されており、当時の上級学校に於いては英語の試験範囲を「ユニオンの第四リーダー程度」などと告知することも一般化していた(以上はウィキの「チャールズ・W・サンダースに拠った)。

「坪内雄蔵」坪内逍遙(安政六(一八五九)年~昭和一〇(一九三五)年)の本名。]

 或時何かの試験に居士の隣席の人が英文で答案を書いている。別に英文の必要はないのに、自分の勝手ですらすらと横文字を書いているのを見て、居士は自分の英語の力と同級生との相達に想い到り、いよいよ心細くなったが、この英文の答案者が間もなく文壇に打って出た山田美妙斎(びみょうさい)だったそうである。居士が学年試験に落第したのは、幾何学の点が足らぬためであり、当時は数学の時間に英語以外の言葉を使わせぬ規則であったので、幾何学よりも英語の方で落第したという方が適当であろう、と同じく『墨汁一滴』の中に記されている。

[やぶちゃん注:以上も以上の「墨汁一滴」(明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで新聞『日本』連載)の「六月十四日」のクレジットを持つ条々に出る。

「山田美妙斎」言文一致体及び新体詩運動の先駆者として知られる作家・評論家山田美妙(慶応四(一八六八)年~明治四三(一九一〇)年)。子規より一歳歳下。]

 居士が東上した当時の目的は政治家たらんとするにあった。これは前年来の自由民権の影響と、漢学的教育の結果、文学芸術の如きは余伎(よぎ)として見る習慣とによるものであろう。次いで哲学者たらんとする志望を懐くに至ったのは、如何なる動機によるかわからぬが、真に哲学を目的として誰がすすめても変るまいと思い込んだのは、明治十八年(十九歳)の春だとある。但この目的なるものもいまだ漠然たるを免れなかった。

[やぶちゃん注:以上も「筆まか勢」第一編の「哲學の發足」(明治二一(一八八八)年筆)にある。]

 一面において居士の文学趣味は次第に濃厚になりつつあった。貸本屋から頻に春水の人情本を借出して読耽ったのも、『経国美談』(矢野竜渓)や『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』(春廼屋朧(はるのやおぼろ))などの新著に瞠目したのも、皆この上京後の出来事である。殊に『書生気質』には深く傾倒し、『小説神髄』に示された議論と相俟って、この種の小説、この種の文体より外にわれわれが執るべき筋道はないと思ったとあるが、当時の居士としては進んで作家たらんとするまでには至らなかったであろう。居士自ら整理した俳句稿「寒山落木」には十八年以後の句を録してあり、

 

 朝霧の中に九段のともし哉

 

の如きも十八年中の作である。しかし居士の俳句に対する態度はむしろ消極的で、特にこれに力を傾注しようとするような抱負はなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「春水」為永春水(ためながしゅんすい 寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年)は戯作者で、「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)など人情本の代表作家。本名は佐々木貞高。

「経国美談」元佐伯藩士で官吏・著作家・ジャーナリスト・政治家であった矢野龍溪(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年:太政官大書記官兼統計院幹事・『郵便報知新聞』社長・宮内省式部官・清国駐箚特命全権公使・大阪毎日新聞社副社長を歴任した)の政治小説。二冊から成り、前編は明治一六(一八八三)年三月刊、後編は翌年二月刊。ウィキの「経国美談によれば、『古代ギリシャの歴史に取材し、ペロビダスとエパミノンダスの』二『人を主人公に』、『テーベ勃興の一部始終を描写する。前編はテーベの士たちが国に民政を回復するまでを描き、後編はスパルタの侵略を退けてテーベがギリシャの盟主となる過程を描く。翻訳と創作の中間的な作品で、雅俗折衷体の文体による。本の「凡例」には参照したギリシャ史の書名を挙げ、史実に価値を置く姿勢を表明しているが、登場人物に「智」「仁」「勇」の観念を当てるなど、読本(具体的には曲亭馬琴『南総里見八犬伝』)の系譜にも連なっている。講談や演劇にもされ、広く流布した』。『作者自身が属する立憲改進党の理想も盛り込まれている』とある。

「当世書生気質」坪内逍遙(春廼屋朧は彼の別号)の小説。明治一八(一八八五)年から翌年にかけて刊行された。ウィキの「当世書生気質によれば、『「はしがき」において、逍遥は、本作が、『小説神髄』で示した、勧善懲悪を否定し、写実主義を主張する文学論を実践したものであることを明らかにしている(『小説神髄』は本作より先に執筆されているが、版元のトラブルのため、出版は本作より後となった』『)。『明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ様子も描く。日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開された理論の具体化であるとされる』が、『文体は戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説類をすべて〈別冊〉にくくりこん』でいる。『この小説は当時から世評が高く、長く読み継がれたため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解されるのを苦にした野口英世が清作という本名を英世に変えたという、思わぬエピソードも生んだ』とある。

「小説神髄」坪内逍遙の文芸評論。明治一八(一八八五)年から翌年にかけて刊行された。ウィキの「小説神髄によれば、『上巻において、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、下巻において具体的な方法を示す』。『明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するための政治小説が中心だったが、『小説神髄』は道徳や功利主義的な面を文学から排して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与した』とある。

「朝霧の中に九段のともし哉」底本は「ともしかな」であるが、原典に徴して訂した。「ともし」とは東京招魂社(現在の靖国神社)の社前にあった、石積みの台の上に二層の望楼があり、屋根の上に金色の大きな玉が載って風見の矢がある、高さ二十メートルほどの常燈明台(じょうとうみょうだい)のこと。当時は現在ある場所とは反対の、九段坂を挟んだ真向かいの辺りに建っていた。以上はサイト「伊予細見」の東京の子規に拠った。]

 十八年の夏、居士は上京以来はじめて松山に帰った。京都に遊び、厳嶋(いつくしま)に遊び、厳嶋で祭礼を見たというのは、多分この帰省の途次であろう。翌十九年(二十歳)の夏は帰省は断念したが、旧藩主の令息たる久松定靖氏に供して日光及(および)伊香保に遊んだ。この時の事は後に回想して記した「十年前の夏」なる一文に詳(つまびらか)であるが、当時としては漢詩十数首を得たに過ぎなかった。文学的感興を鼓(こ)するに足る材料はあっても、後のような作品を生むだけの素地が出来ていなかったのである。

[やぶちゃん注:「久松定靖」(明治六(一八七三)年~?:「さだやす」と訓じておく)は旧第十三代高松藩主松平勝成の子。

「十年前の夏」確かに全集には載るが、所持しないので、いつか図書館で確認してみたい。これはちゃんと読んでみたい気がする。題の子規の文章を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来が、これは抄録と思われる。なお、その冒頭には、『はや十二年の昔とはなりぬ』とある点で、標題通りの、かっきり十年前ではない。さすれば、この回想随筆は明治三〇(一八九七)年か翌三十一年の作と思われる。]

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