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2017/12/26

原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 滑走

 

 滑走

 

 雁江の病室には附添ひの看護婦がゐた。彼女と同じ位の年輩だつたが、看護婦の方が遙かに大人びてゐた。長い患ひが、この頃やうやく癒えて來ると、雁江は身體だけでなく心までがすつかり變つて來るやうな氣がした。病室には早咲きのシクラメンがあつた。看護婦は四六時中雁江の部屋にゐた、もう一カ月あまりその部屋の空氣を一緒に呼吸して來たのだつた。病氣に罹ると云ふことを雁江はもともと厭でなかつた。父がまだ生きてゐる頃など父の愛情が急に濃く細かに感じられた。女學校時代も卒業後も友達が持てなかつた雁江は、それでなくても現實の脅迫が強すぎた。病床に就いてしまへば、それがともかく逃避出來た。雁江は滿たされない感情のためにも、いくぶん虛無的な、生命を弄びたがる傾向があつた。傍(はた)の眼には大人しすぎる、沈鬱な女であつたが、内部には柔い夢想が育まれてゐた。ただ、何處かに障碍があつて、彼女は環境と和合出來なかつた。そのため、日常生活と云ふものは彼女にとつて、厭らしい重荷であつた。彼女は結婚のことを考へると、更に悲觀的になつた。男性は一面彼女を最も脅す存在であつた。崇高な男と云ふものは實在しさうになかつた。男は彼女を傷けるためにゐた。雁江は絶海の孤島に生きてゐた。

 その孤島へ始めて訪れて來たのが今度の看護婦だつた。絹江と云ふ看護婦は、始めて彼女を普通の人として取扱つた。雁江の方にも隨分讓步があつたにはあつた。人から口をきかれた時、大概短い返事でぽつんと突放す癖のある雁江が、絹江から始めて口をきかれた時には、病氣の所爲もあつたが、努めて長い言葉を用ひた。それに雁江は相手がやはり努力して口をきいてゐるのを見てとつた。人扱ひに慣れたこの女が、雁江に對してもどかしさうにしてゐるのを見た時、雁江はふと微笑を感じた。それから二人の友情は長い間、或るもどかしさを以つて進んだ。雁江には人と口がきけるのが珍しかつた。絹江はある日、自分の戀人の話をして聞かせた。その看護婦に附文する男が五指を出でると聞いた時、雁江は耳まで赤面してしまつた。すると、絹江もそれに氣づいて、濟まなささうな表情をして默つてしまつた。雁江は今度は自分の方から好んでその話を聞きたがつた。異性の話から二人の友情はまた少し接近した。雁江は聞かされる側ではあつたが、それでも絹江にまだ眞實の戀人はないと告白された時には吻と安心した。二人は一緒に一人の異性を戀しはすまいかと云ふをかしな考へが生じて、雁江は面白さうに笑つた。

 

 退院後も絹江の方から暇な時にはよく訪ねて來た。二人は狹い田舍の街や郊外を散步した。キネマや、喫茶店や、汁粉屋へ入ることを雁江は慣れた。絹江は細卷の煙草をいたづらに吸つたりした。一年足らずのうちに雁江はすつかり外貌を改めた。雁江は前から漠然と希望してゐた上の學校へ入學することをその頃になると本氣で主張した。義理の母とは衝突もあつたが、ともかく叔母を賴つて上京することになつた。絹江も將來上京してまだ學問する筈だつたので、一足さきに雁江の方が行つて待つと云ふ約束だつた。出發の日に絹江が見送りに來て呉れなかつたのは物足りなかつた。しかし上京すると直ぐに絹江から便りがあつた。絹江は彼女の居なくなつたのを無性に淋しがつてゐた。感情に飢ゑてゐた雁江は直ぐに長い返事を書いた。

 やがて學校が始まると、雁江は直ぐに友達を作つた。雁江の動作は何彼につけて能動的になつた。自分から働きかければ、すべては手を開いて呉れ道は開かれる――と思つた。慣れない環境を怖れないで、勝手に進んで行つた。雁江達にとつて、學校はとにかく社交場となつた、そしてそれは街にまで延長されてゐた。流行とか、尖端とか云ふものを彼女は意識的に愛好した。陰鬱な女學校時代の内攻癖がすつかり解放されて、自分に自分で反逆して行くことが嬉しかつた。病弱だつた身體は不思議に元氣づいて來た。友達同士の紹介で男の友達も容易に出來た。男性は雁江にとつて面白いものとなつた。

 夏休みが來て雁江が田舍へ歸ると一番に絹江が訪ねて來た。絹江は手紙で、あなたも前とは隨分變つたでせう、それも止むを得ないことでせうと云つてゐたが、今眼の前に雁江を迎へた、絹江の方は幾分沈み勝ちになつたところもあつたが、前と變らなかつた。雁江は服裝や、化粧や、云葉や、態度を見せびらかせた。絹江はもしかすると結婚するかも知れないと打明けた。いい人でも出來たのかと思つて、雁江は、おめでたうと云ふと、さうではなかつた。家の事情から止むを得ず、ある男のところへ嫁ぐのだと聞かされた。

 秋になつて學校が始まつた時、雁江は絹江の結婚の通知を受取つた。何か裏切られたやうな寂しさや、あの女も案外、古風な平凡な女だつたのかと云ふ感慨やで、雁江は頻りに反撥を欲した。ダンスホールや酒場などの空氣に浸ることを覺えた。學問はもうどうでもよかつた。叔母の眼を誤魔化しては男の學生と新宿で逢つた。その學生は彼女の腕を執つて巧みに氷の上を滑走させてくれた。

 絹江からは以前と同樣によく手紙が來た。絹江は不幸な結婚生活の愚痴をありのまま綴つて、貧乏に耐へて行く悲しみを底にたたへてゐた。雁江は自分の方が勝つたと思へた。それらの手紙は境遇に從順すぎたり、純情すぎるものの不幸を雁江に教へて呉れるやうなものであつた。男の友達は入替つては出來た。しかし雁江は異性よりも、浪費に今は夢中であつた。金を浪費することの無邪氣な悦びと、浪費した後の嘆きとが彼女の生活の振幅であつた。彼女は活(いき)々と金を欲しがつた。女學校時代、金は何か卑しいもののやうに評價されてゐたのが、今は金の華やかさにすつかり感嘆した。しかし義理の母の方からは送金額が多すぎることを批難して來た。叔母とも衝突が重なつた。何故、浪費してはいけないのだらう、一生に一度しかない華やかな時期ではないか、雁江は自分が働いてゐないために浪費が批難されてゐると意(おも)つた。それなら働けばいい、と雁江は單純に結論をつけた。そして叔母の家を飛出した。

 

 それから一年後、雁江は絹江の死亡通知を受取つた。爛れた生活を脊負ひながら雁江は、外見はますます明朗であつた。淋しく死んで行つた不幸な友のことを憶ふのも、秋雨のなかを酒場の方へ步いて行つて、秋雨を淋しがるのと似てゐた。酒場のレコードは今日も憂鬱な音を立ててゐた。絹江は嘗て彼女に二人の友情は戀に似てゐたと告白したことがある。あれが戀と云ふものかしら、と雁江は懷(おも)つた。今の私にはあなたの氣持はぴつたりしない、しかし長い生涯にはあなたのことを憶ひ出して心を締めつけられることがあるかも知れない――雁江はそんな風に考へた。

 

[やぶちゃん注:「吻と」「ほつと(ほっと)」と訓ずる。]

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