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2018/01/19

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十一」

 

    二十一

 

 友は次のような松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘、彼がふるさとたる東京を指して帰って行って、その第一篇を紹介した僕は、此続篇をも公にする事を妥当と信じている。

   日記より(二)

               芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して単にそれが過去に属するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な属性を除き去つても、尚是等の物がその芸術的価値に於て、没却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は独り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺(げつせうじ)に於ける松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の増加をも決して忌憚しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山の公園に建てられた光栄ある興雲閣(こううんかく)に対しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌悪の情以外に何物も感ずることは出来ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に対しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全国の都市の多くは悉くその発達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な発達の径路に縁(よ)ると云ふ事ではない。否寧ろ先達たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特権である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屡(しばしば)外国の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電灯とを以て広告と称する下等なる装飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹の養成とである。自分はこの点に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも処々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空気とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に関しても松江はその窓と壁と露台(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天恵(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

               芥川龍之助

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の実をつづる下に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように[やぶちゃん注:「ように」はママ。]靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子(がらす[やぶちゃん注:ルビは全集版では「ガラス」に変更されている。]))板のやうな光沢のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら随所に空と家とその間に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此処に住む人間の耳に伝え[やぶちゃん注:「え」はママ。]つゝあるのである。この水を利用して、所謂水辺(すゐへん)建築を企画するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる関係に立つてゐるのである。決して調和を一松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委ぬべきものではない。

 自分は、此盂蘭盆会(うらぼんゑ)に水辺の家々にともされた切角灯籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匂にみちた黄昏(たそがれ)の川へ静な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雑な印象記を井川恭氏に獻[やぶちゃん注:正字はママ。]じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(おはり[やぶちゃん注:ママ。全集版では「をはり」。])

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

 

    二十一

 

 友は次のやうな松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘(まま)彼がふるさとたる東京を指して歸つて行つて、その第一篇を紹介した僕は、此續篇をも公にする事を妥當と信じてゐる。[やぶちゃん注:これは勿論、井川恭の筆になるもので、恣意的に底本のそれを正字正仮名に改めておいた。]

 

   日記より(二)

                   芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して單にそれが過去に屬するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な屬性を除き去つても、尚是等の物がその藝術的價値に於て、沒却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は獨り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺(てんりんじ)の禪院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の增加をも決して忌憚(きたん)しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山(じやうざん)の公園に建てられた光榮ある興雲閣に對しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌惡の情以外に何物も感ずることは出來ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に對しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全國の都市の多くは悉くその發達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な發達の徑路に緣(よ)ると云ふ事ではない。否(いな)寧ろ先達(せんだつ)たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特權である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屢(しばしば)外國の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電燈とを以て廣告と稱する下等なる裝飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹(がいじゆ)の養成とである。自分はこの點に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入(はひ)ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも處々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空氣とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に關しても、松江はその窓と壁と露臺(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天惠(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

                     芥川龍之助

 

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の實をつづる下(した)に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門(なだもん)の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子板(がらすいた[やぶちゃん注:ルビは全集版では「がらす」は「ガラス」に変更されている。])のやうな光澤のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に變るまで、水は松江を縱橫に貫流(くわんりう)して、その光と影との限りない調和を示しながら隨所に空と家とその間(あひだ)に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此處に住む人間の耳に傳へつゝあるのである。この水を利用して、所謂水邊(すゐへん)建築を企畫するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる關係に立つてゐるのである。決して調和を一(いち)松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委(ゆだ)ぬべきものではない。

 自分は、此(この)盂蘭盆會(うらぼんゑ)に水邊(すゐへん)の家々にともされた切角燈籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匀[やぶちゃん注:底本では「匂」であるが、岩波版旧全集が「匀」であり、芥川の好んだこちらを採用する。]にみちた黃昏(たそがれ)の川へ靜(しづか)な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雜な印象記を井川恭氏に獻じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(をはり)[やぶちゃん注:この一文は全集では全体が一字下げでしかもポイント落ちとなっているが、底本に従った。]

 

   *

「月照寺(げつせうじ)」島根県松江市外中原町にある浄土宗の名刹。芥川龍之介の言うように境内には松江藩主松平家の廟所があり、現在、国史跡に指定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「月照寺(松江市)」によれば、かつて『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として』寛文四(一六六四)年に、『この寺を再興』、『浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた。直政は二年後の寛文六年に『江戸で死去したが、臨終の際』、『「我百年の後命終わらば』、『此所に墳墓を築き、そこの所をば』、『葬送の地となさん」と遺した』第二代藩主綱隆(直政の長男)は、父『直政の遺命を継ぎ』、『境内に直政の廟所を営』み、その際、『山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後』、九『代藩主までの墓所となった』。『茶人藩主として著名な』第七代藩主松平治郷(はるさと:号の「不昧(ふまい)」で知られる)の『廟門は松江の名工・小林如泥』(じょでい 文化一〇(一八一三)年~宝暦三(一七五三)年:木彫・木工家で、代々、出雲松江藩主松平家大工方として仕えた。酒を好み、常に酔って泥の如しであったと伝え、不昧公よりこの「如泥」の号を賜ったという)『の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。明治二四(一八九一)年に『松江に訪れた小泉八雲は』、『この寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。また、第六代藩主宗衍(むねのぶ)の『廟所にある』『碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ』、『下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという』(これは私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)』を参照されたい)。『この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は』三十『キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり』、『「親孝行岩」として現在も信仰されている。現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある。

「天倫寺」松江市堂形町にある臨済宗の寺。宍道湖が眼下にあり、その眺望は「宍道湖十景」や「松江八景」に挙げられた絶景である。「島根県観光連盟」の「しまね観光ナビ」の同寺の解説によれば、慶長一六(一六一一)年、『松江開府の祖堀尾吉晴の創建した龍翔山瑞応寺(りゅうしょうざんずいおうじ)を、堀尾氏のあと』に『入封した京極氏が宍道湖南の地に移して円成寺とした。この跡地に松平直政が』寛永一六(一六三九)年に『信州から僧東愚を招き、神護山天倫寺(臨済宗妙心寺派)を開山、今日に至っている。なお』、『その後』、『一時、興陽山本城寺と称していたこともある。鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で、細密精巧な彫刻がほどこされ、また「高麗国東京内廻真寺(こうらいこくとうけいないかいしんじ)」の鐘銘が刻まれて国の重要文化財。もともといまの簸川郡多伎町田儀の本願寺にあったが、堀尾吉晴が陣鐘にするため徴発、城内においた。しかし』、『松平氏になってから』、『城内に梵鐘は不吉だと天倫寺に寄進されたもの』である。江戸中期の『文人画家池大雅(いけのたいが)』『はこの鐘声を賞(め)でて、当寺に逗留し、大幅』「赤壁図(せきへきのず)」の秀作を残した、とある。リンク先には地図もあるので、位置はそれで確認されたい。

「忌憚」ここは「嫌って厭(いや)がること」の意。

「興雲閣(こううんかく)」既出既注であるが、再掲しておく。旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農工銀行」明治二九(一八九六)年に制定された「農工銀行法」に基づき、各府県に設立された特殊銀行。農工業の改良発達のための貸付を目的としたが、大正一〇(一九二一)年に「勧農合併法」が制定され、漸次、日本勧業銀行に合併された。その松江支店は現在の松江市殿町(県庁の東)にある「松江センチュリービル」の位置にあった(ここ(グーグル・マップ・データ))。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治四一(一九〇八)年十月に新築されたとあり、その新築記念絵葉書で芥川龍之介が評価したハイカラな建物を見ることが出来る

「街衢(がいく)」「衢」は四方に分かれた道で、「人家などの立ち並ぶ土地・町」の意。

「井然(せいぜん)」整然に同じい。

「幽鬱(ゆううつ)」文中で注した通り、歴史的仮名遣は「いううつ」が正しい。「憂鬱」に同じいが、ここは、木が周囲が暗くなるほどに盛んに茂ることの意で、ネガティヴ一辺倒のマイナスの陰鬱の謂いではない。

「灘門」「なだもん」と読む。この「翡翠記」を井川による長歌とすれば、それの応じた相聞歌に当たるものが、実は存在する。「翡翠記」以上に読まれることが少ないと思われるものであるが、この旅で井川と芥川が交わした連句で現在、岩波新全集で「松江連句」という仮題で初めて活字化されたもので、松江を舞台として春夏秋冬を描いた壮大な二人による百韻である。私は既にやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺でそれを電子化注しているが、その中に、井川の「冬」の句として、

 

 灘門(なだもん)に人のけはひす夜を寒み

 

及び、

 

 雪あかり灘門とざす女かな

 

という二句が登場している。「灘門」については筑摩全集類聚版脚注では『「水門」か』と推理している。ここで言う「水門」とは、宍道湖には中海経由で潮水が入ってくるため、それが堀に逆流して田畑に塩害をもたらさないために作られたものを指すと思われるが(江戸末期の古地図を見ると、そのような水門が二箇所に視認は出来る)、しかしこれを句の「灘門」と解するには私は非常な無理があると考える。何故なら、これら二句は孰れも夜の景で、おまけに後者では灘門を閉じているのは女性だからである。万一、想像されるそれなりに大きな海水を閉鎖するための水路「水門」を、雪中の夜、女性が閉じに来る、という景は、一般的感覚では奇異にして不審だからであるこの「灘門」については、このやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を公開した後、そこで疑問を呈したところ、現地の方々の非常な協力を得、問題を解決することが出来た。同ページの注でも記してあるが、ここに引くと、松江では、堀や川に面した部分を持つ住居にあっては、それらの家が面している水域を「灘(なだ)」と呼称し、その水場(みずば:水仕事を行えた)への出入り口を「灘門(なだもん)」と言ったのである。以下にその写真を掲げる(なお、本写真は著作権の確認が出来ないが、本件では重要な資料であるので紹介する。万一、著作権抵触の指摘を受けた場合は公開を停止する。但し、以下の証言者の家が映っている以上、撮影者はその家の持ち主から逆に写真の取り下げを求められる可能性もあることを附記しておく)。本件への回答を下さった方(まさにこの注に相応しい女性の方である)の灘門の回想が素敵なので一部、公開する(表記の一部に手を加えた)。

Photo08

   *

(前略)灘門はね、下のほうに、十センチぐらいだったかしら? 少し隙間があるんです。水が増えてくると、そこへ降りる段段へ、それこそ「だんだん」水があがってきて、小さな魚や亀なんかが、うちのなかへ入ってくる状態になるんです。それが嬉しくて、楽しみで、大水になると日に何度もそこへいって見たものです。「○段目まであがったよー!」って親に報告するわけです。六、七段もあったでしょうか?

   *

因みに、この回想回答された方の御宅は、まさに、上の写真の中にある、とのことであった。

LIFELIKE」ここは「あたかも生き物であるかのような」という意。底本の後注では、芥川龍之介が大正三(一九一四)年四月に『心の花』に「柳川隆之介」の署名で発表した「大川の水」の一節を引いている。同箇所(前を少し増やした)をリンク先の私の電子テクストで引いておく。

   *

 海の水は、たとへば碧玉(ヂヤスパア)の色のやうに餘りに重く緑を凝らしている。と云つて潮の滿干を全く感じない上流の川の水は、云はゞ緑柱石(エメラルド)の色のやうに、餘りに輕く、餘りに薄つぺらに光りすぎる。唯淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷な青に、濁つた黄の暖みを交へて、何處となく人間化(ヒユーマナイズ)された親しさと、人間らしい意味に於て、ライフライクな、なつかしさがあるやうに思はれる。

   *

引用部の語はリンク先で私が詳注しているので参照されたい。

「アアサア、シマンズ」イギリスの詩人で文芸批評家のアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)。「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」は庄子ひとみ氏の論文「コスモポリタンのまなざし――アーサー・シモンズのヴェネツィア紀行」(PDFでダウン・ロード可能)の記載からみて、紀行文“Venice”(“Cities”一九〇三年/“Cities of Italy”一九〇七年の合本らしい)の中の一節らしい。

「松崎水亭(まつざきすゐてい)」宍道湖湖畔の当時の松江を代表する料亭。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治六(一八七三)年の創業で、現在は玉造に移って「松の湯」という温泉旅館となっている、とある。旧所在地は、その記載から、この中央附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「盂蘭盆会(うらぼんゑ)」芥川龍之介が訪れた時を旧暦に直すと、松江到着の八月五日が旧暦六月二十五日、八月二十一日が旧暦七月十一日に当り、旧暦七月十五日よりも前になる。しかし、この文章は彼がその実景を見ているように書いているから、既に当時、松江では、新暦の八月十五日に盂蘭盆会をやっていたと読むべきであろう。

「切角灯籠(きりこどうろう)」盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形になっている吊り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すか)し模様や六字名号(南無阿弥陀仏)などを書き入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある(小学館の「日本大百科全書」に拠る)。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)の私の注を参照されたい。]

 

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