フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 芥川龍之介 手帳8 (26) 《8-33/8-34》~多量の抹消俳句稿の出現部 | トップページ | 芥川龍之介 手帳9 (1) »

2018/01/25

芥川龍之介 手帳8 (27) 《8-35~/8-40》 / 手帳8~了

《8-35》

○ぞろぞろと白楊(どろ)の並木も霞みけり

[やぶちゃん注:この句は抹消されていない

「白楊(どろ)」キントラノオ目ヤナギ科(ポクラ)ヤマナラシ属Populus のポプラ類であるが、本邦に自生する種はヤマナラシ属ヤマナラシ(山鳴らし:ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii)・ドロノキ(泥の木:ヤマナラシ属ドロノキ Populus suaveolens)・チョウセンヤマナラシ(Populus tremula var. davidiana)の三種で、それに対し、明治期に導入された外来種を一般には「ポプラ」と呼んでいるようである。外来種は、ウィキの「ポプラ」によれば、『外来ポプラの和名は非常にややこしく、整理された和名がない。そのため同一種でも別名や別表記が多く、学術論文ですら混乱しており、植物園などの表記にも不統一なものが多い。以下の名称も統一名称ではない』とした上で、以下の三種他を挙げてある。『Populus nigra ヨーロッパクロポプラ  別名・ヨーロッパクロヤマナラシ。ヨーロッパ原産。日本には明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた』。『Populus nigra var. italica セイヨウハコヤナギ 別名・イタリアポプラ/イタリアヤマナラシ。ヨーロッパクロポプラの改良種。直立する羽状の美しい樹形で知られ、並木に適する』。『Populus tremuloides カロリナポプラ(Carolina Poplar)別名・アメリカポプラ・アメリカヤマナラシ・カロライナハコヤナギ等。北アメリカ東部原産。イタリアポプラのように高く伸びず、樹高が低くて管理しやすく暑さに強いため、市街地の街路樹としてよく利用される』とある。後者の外来ポプラの街路樹を見馴れている我々は直ちにそれらしか想起出来しない可能性が高い。この「どろ」というルビを重く見るなら、在来種の「ヤマナラシ」或いは「ドロノキ」を指すことになるが、俳句の音数律に合わせた可能性の方が遙かに優先することを考えれば、ここは外来種のポプラでよいように思う。但し、この句が遡る中国特派の終り頃の回想吟であるとすると、俄然、中国東北部にも植生するドロノキ Populus suaveolens である可能性が高まるとは言える。]

 

○まんまろに入日かかるや野路の杉

○鶯や茜さしたる雜木山

[やぶちゃん注:この二句(抹消なし)は底本新全集にはなく(現存する本「手帳8」と仮称する原本には、ない、ということである)、旧全集に載るものである。新全集ではここより一条前で見開き《8-34》が終わっている以上、落丁の疑いは極めて低く、良心的に考えるならば、投げ込みか、貼りつけとなるが、実は、この後の以下の「この村の白楊もそろり」以下、実に、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が、旧全集では脱落していることを考えると、何か、不審な感じがする。単に落丁であるなら、新全集の編者が再検証した際に、この有意なページ落丁に気づくであろうし、それが新全集後記に記されていない以上、寧ろ、旧全集編者が、何らかの理由で(ただの凡ミスも含めて)活字化しなかった可能性が高いように私には思われる……実は、この劣化した原物は、私の家から徒歩一時間もかからぬ、私の眼と鼻の先の、藤沢市文書館に所蔵(死蔵)されているのである(劣化対策もされず、画像撮影とそのブラッシュ・アップといった最新処理が成されていない以上、「死蔵」というのが正しいと私は思う)。見たいが、アカデミストでない私には見せてくれないに決まっている。ああ、見たいなぁ……

 

○この村の白楊もそろり

[やぶちゃん注:抹消なし。前注で述べた通り、ここから、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が旧全集では脱落している。]

 

○倉屋敷703  里見

[やぶちゃん注:「里見」不詳。晩年の知人作家なら里見弴であるが、彼はその後なら、永く鎌倉に住んでいたが、鎌倉には昔も今も「倉屋敷」などという地名は、ない。大正末から昭和初年にかけて里実がどこに住んでいたかは知らぬ。]

 

○マジメ――コツケイ

○スキイ

     >去ル原因

 危險思想

   {名ヨ慾

○怪談{金錢欲

   {作家慾

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。「慾」「欲」の違いはママ。]

 

産兒擴張

○産兒擴張? 宗教? 哲學? 工業? 商業? 家庭制度

《8-36》

曹雲西

[やぶちゃん注:「曹雲西」元代の文人画家曹知白(一二七二年~一三五五年)の号。華亭 (江蘇省)の出身。一時、官途に就いて、水利の専門家として灌漑事業などによって巨富を築き、後は豪奢な生活と文人画家らのパトロンとして数々の逸話を残した。山水画を得意とし、元代の李郭派山水画様式の典型ともされる。]

 

〇八大=逆襲

[やぶちゃん注:「八大」(命数? 名前?)が何を指すのか、これでは判らぬので、不詳であるが、芥川龍之介が好み、作品も入手していた清初の画家朱耷(しゅとう 一六二六年~一七〇五年)の号は「八大山人」で、ウィキの「八大山人」によれば、『江西省南昌に在した明朝の宗室で、洪武帝第』十七『子の寧王朱権の』九『世の孫で、石城王の一族出身。朱謀𪅀の子、朱謀垔の甥。少年の頃から詩文を詠むなど秀才であった。官吏を目指し、科挙試験を受けるため』、『民籍に降り、初頭段階を経て応試の資格を得』たが、一六四四『年に明朝そのものが瓦解したため、その夢は断たれた』。『清軍の侵攻を避けて臨川県・進賢に逃げ』、一六四八『年に出家』し、『その地の禅寺である耕香庵に入った。一説には、清朝が庶民に強制した辮髪を避けるため』、『とも言われている。そこで仏道修業に励み、数年後には宗師となった』。『仏門に入って』二十『年後、百人近い弟子を持ち、寺の外にも評判が聞こえていた』ことから、『警戒され、県令の胡亦堂の命により官舎に軟禁状態とされた』。一時は『拘禁に耐えていたが、ついには僧服を焼き捨てて』、『南昌へ』遁走したが、『仏曹界から離れ、政治力の無い一庶民となったことにより』、『警戒も解かれた』。『その後、妻を娶ったことから、清の俗である辮髪にしたものと考えられている。世間との交流を避け、数少ない飲み友達と酒を飲み、絵を描く生活を送った。画でも高い評判を得たが』、『それを売って富を蓄えるようなことはせず、知人に惜しげもなく与えたり、訪ねた寺の小僧にせがまれて渡したりする程度で、山人は貧窮の生涯を送った』。『水墨花鳥画の形式を基本とし、花卉や山水、鳥や魚などを多く題材としつつ、伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。だが、八大山人の筆を評するに、その描く鳥の足を一本のみで表したり、魚などの目を白眼で示すなど』、『時に奇異とも取れる表現を用いている点を避けることは出来ない。白眼は、阮籍の故事に倣い中国では「拒絶」を表現するものとされる。そこから汲み取れるように、その作画の中には自らの出目であり滅び去った明朝への嘆きと、その眼に侵略者と映る清朝への、屈してしまったからこそ』、『心中でより激しく沸き立つ反抗が暗に表現されている』。『晩年に近くなってからの号「八大山人」には、その由来について諸説』あり、『僧でもあった経歴から』、『仏教用語に由来を求める説がある。「六大」というあまねくものを網羅する意を』、『更に拡げ』、『「八大」としたとの内容だが、発狂』(これは以上の、僧衣を焼き捨てて遁走したことなどを初めとする奇矯な行動によるもので、例えば平凡社の「百科事典マイペディア」の記載には『狂人のような行動が多かった』と明記されてはいる。しかし、これはある意味、中国史の賢者が権力や汚穢した世俗を避け、拒絶するためによくやる「佯狂(ようきょう)」であろうと私は思う。近現代なら、一本足の鳥(実際に鳥は一脚で立つことはしばしばある)や白眼の魚を描いたからといって、それを即、狂人とする者は、まず、おるまい)『して棄教した山人が名乗るには似つかわしくないとの反論もある』。一方で、彼はこの号を署名するに、『「八」「大」「山」「人」の四文字を潰し気味に』しており、それは『一瞥して八大の二文字で「哭」や「笑」』、四『文字あわせて「哭之(これをこくす)」とも見えることから、清朝のものとなった世への厭世感』(或いは「逆襲」としての拒絶)『に苛まれ、むしろこれらの字を崩して名としたとの説もある』(下線やぶちゃん)とある。以上の彼の奇矯な生涯を考えると、この「逆襲」の意味が腑に落ちるような気も私はするから、或いは「八大」とは彼のことなのかも知れない。]

 

○畫帖

○新羅 仿古人物帖

    山水(人物)

    人物(山水)

[やぶちゃん注:「新羅」(?~一七五六年頃)は清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。

「仿古人物帖」既に述べた通り、「仿」は「倣(なら)う・模倣する」の意であるから、画家新羅が、先達の画家の描いた人物画を模写した画集の題と読める。

「山水(人物)」「人物(山水)」意味不明。妙なメモだ。「仿古人物帖」と名打った画集であるのに山水と人物が交互に描かれているというのか? 或いは山水画の中に同時に人物が描かれており、人物画の背景に必ず山水の風景が添えられているというのか?]

 

《8-37》

○北の山

○珠州久滿元祿の星辰にやとるやよひの末

[やぶちゃん注:お手上げ。ただ「珠州久滿」(「すずひさみつ」と読んでおこう)は、これで人名のように、まず、採れる。さすれば、これを切り離してみると、「元祿の星辰にやとるややよひの末」は「元祿の星辰(ほし)にやどるややよひの末」と下五が字余りながら雑排或いは芝居の台詞らしい感じになるから、或いは、珠州久滿は俳人か作劇中の登場人物か? と考えたが、しかし、この名も文句も、ネットでは一切、ヒットしない。だから、やっぱし、お手上げなのだ。]の

 

    {元祿甲申

○■■■{

    {支考序

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。

「元祿甲申」は元禄十七年。但し、これは元禄の最後の年で、元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日) に宝永に改元されているから、事実上は二ヶ月半弱しか存在しない。「支考序」で三文字の誰かの撰集(であろうと踏んだ)という条件で探すと、あった! あった! 涼菟編の各務支考の撰集「山中集」自身が序を書いている(こちらのページのデータに拠る)。これか?

 

○ありのまま 闌更撰

[やぶちゃん注:「闌更」俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。この「ありのまま」というのは正しくは「有り儘」で、彼の編した撰集。明和六(一七六九)序。因みに彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、まさに「ありのまま」を詠むことを節とした。]

 

○霞形

○浪花上人發句集

[やぶちゃん注:浪化(元禄一六(一七〇三)年~寛文一一(一六七二)年:東本願寺十四世琢如の第十五子。諱は晴研・晴寛、法名は常照。延宝五(一六七七)年に得度し、越中国の名刹井波別院瑞泉寺に入寺、元禄三(一六九〇)年には応真院と号した。向井去来の紹介により、京都嵯峨野の落柿舎で松尾芭蕉の門下に入った)の幕末に幸塚野鶴が編した「浪化上人発句集」の誤り(一般でもしばしば見られる)であろう。]

 

○去來文 寛政三

[やぶちゃん注:「去来文」「きょらいぶみ」(現代仮名遣)と読む。岸芷(がんし)編になる書簡形式の俳論書。寛政三(一七九一)年岸芷序。「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」のこちらで画像でもPDFでも総てが見られる(但し、草書)。

 なお、以下には底本自体に一行空けがあるので二行空けた。特異点。

 

 

○生田長江 秋田雨雀 長與 中村吉藏

      小説

 小山内薰<  長田秀雄 岩野泡鳴

      飜譯

 内藤鳴雪 長田幹彦 井泉水

[やぶちゃん注:以上の一条(「○生田長江」以下「井泉水」まで)は底本では、全部、一行で繋がっている。ブログのブラウザの不具合を考えて、かく特異的に改行を施して示した。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。鳥取県生まれ。芥川龍之介の作品もよく読み、よく批評している。特に「一塊の土」(大正一三(一九二四)年一月『新潮』)を芥川龍之介が新しく一歩出た作品として高く評価しており、芥川龍之介の盟友佐藤春夫も最初に彼に師事しているから、面識はあったものと思われる。

「秋田雨雀」(明治一六(一八八三)年~昭和三七(一九六二)年)は劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)生まれ。彼の名が芥川龍之介の全著作物の中で出るのは恐らくはここだけであるから、親しくはなかったと考えてよい。

「長與」長与善郎(明治二一(一八八八)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家・劇作家・評論家。東京生まれ。同時代作家ではあるが、白樺派でも頓に人道主義作家としられたから、芥川はあまり親しくはなかったと思われる。書簡には長与のドストエフスキイ崇拝を批判的に揶揄する記載なども見られる。

「中村吉藏」(明治一〇(一八七七)年~昭和一六(一九四一)年)は劇作家・演劇研究家。島根県生まれ。作品中に二度、名が出るが、親しくはなかったと考えて良かろう。

「小山内薰」(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年)は劇作家・演出家・批評家。「小説」「飜譯」とあるが、近現代演劇の革新に携わった以外にも、多くの小説やロシア作家の小説の翻訳なども手掛けている。ウィキの「小山内薫を参照されたい。芥川龍之介にとっては第一次『新思潮』の先輩であり、芝居好きでもあったし、主なテリトリーが演劇で異なっていた点で却って常に意識していても平気な作家であったことは疑いあるまい。

「長田秀雄」(ながたひでお 明治一八(一八八五)年~昭和二四(一九四九)年)は詩人・小説家・劇作家で演劇人(昭和一四(一九三九)年に築地小劇場が会社組織となった際の代表取締役)。東京生まれ。芥川は特に親しくはなかった模様である。

「岩野泡鳴」(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)は小説家・詩人。名東県津名郡洲本馬場町(現在の兵庫県洲本市)生まれ。ここに挙がった作家の中では唯一、芥川龍之介が親しく交わった作家である。何より、彼の文学サロン「十日会」(当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年から十二年の大震災までの時期は、万世橋の西洋料理店「ミカド」で徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らの主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。毎月一〇日に泡鳴からの案内ハガキにより会費制で開かれていた)に芥川龍之介も大正八(一九一九)年六月十日の会に参加し、当時の自然主義の平面描写論(小説は主観を交えずに事実をありのままに描くべきだとする考え方。田山花袋の命名)に対抗して岩野がぶち上げた一元描写論(小説では作者の主観を移入した人物を設定し、その視点から描写を一元的に統一すべきだとする考え方)について親しく議論をしている。因みに、恐らくはこの時の参加者の中に、後の芥川龍之介のファム・ファータルと化すことになる歌人秀しげ子がおり、龍之介は一目惚れしてしまったものと考えられる。

「内藤鳴雪」(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士で、後に明治政府の官吏となった俳人(歳下ながら、正岡子規の弟子)。詳しくは『子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 身辺に現れた人々』の私の注を参照されたい。

「長田幹彦」(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)は小説家・作詞家。先の長田秀雄の弟。芥川は兄同様、親しくはなかった。

「井泉水」荻原井泉水(明治一七(一八八四)年~昭和五一(一九七六)年)は自由律俳句の俳人。『層雲』を主宰し、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた(私は中学時代から二十代前半まで同派に属し、大学の卒論は「尾崎放哉論」であった。拙サイトには「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版正字體版)」他もある)。芥川龍之介に兄事した作家滝井孝作は『層雲』の俳人でもあったが、芥川龍之介は多少、新傾向俳句に色気はあったものの、自由律には批判的であったと思われ、また、井泉水の持つ一種の精神主義的求道的立場は芥川の嫌うところと私には思われるから、直接の接触はなかったのではないかと思う。]

 

《8-38》

○小公子 佐々木 Burnett

[やぶちゃん注:「小公子」(Little Lord Fauntleroy:「小フォントルロイ卿」)はフランシス・イライザ・ホジソン・バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett 一八四九年~一九二四年:イギリス生まれのアメリカ人作家)が一八八六年に書いた児童向け小説。「小公子」という邦題は、最初の邦訳者若松賤子(しづこ 元治元(一八六四)年~(明治二九(一八九六)年)が明治二三(一八九〇)年につけた。]

 

O久保田

[やぶちゃん注:盟友久保田万太郎か。]

 

○好色今美人 一册(永田■)

標題知らず 四册 桃林堂 序

好色またねの床 一册(■■■)

好色とし男 一册

[やぶちゃん注:「好色今美人」数多の好色本浮世草子の一種であろうが、不詳。「永田」とのセット。フレーズでもネットに掛からない。

「桃林堂」桃林堂蝶麿(とうりんどうちょうまろ 生没年未詳)江戸前期の浮世草子作者。元禄八(一六九五)年から宝永二(一七〇五)年にかけて、江戸で「好色赤烏帽子」など十数冊の好色本を残した。彼については、松尾芭蕉の門人であった天野桃隣(?~享保四(一七二〇)年:芭蕉と同じ伊賀上野の生まれで、各務支考によれば、芭蕉の従弟だとする。四十を過ぎた頃、芭蕉の援助を得て、俳諧師として独立した芭蕉が没した(元禄七(一六九四)年)後は、後ろ盾を失って次第に零落し、晩年は惨めな暮らしであったとされる)と同一人物とする説がある。

「好色またねの床」「好色亦寐の床」。五巻一冊。江戸前期の浮世絵師で版元の奥村政信(貞享三(一六八六)年~宝暦一四(一七六四)年)著・画になる浮世草子。宝永二(一七〇五)年板行。丸括弧内は三文字の判読不能字であるが、政信の三字の号には「芳月堂」「丹鳥斎」などがある

「好色とし男」作者不詳の浮世草子で元禄八(一六九五)年刊のそれか(全五巻か)。國學院大學図書館デジタルライブラリーの画像で総て(五巻分)読める。]

 

○大森山上二六一九 廣島龍太郎

[やぶちゃん注:住所・氏名ともに不詳。]

 

○丸山97  お若

[やぶちゃん注:杉本わか(生没年未詳)。長崎丸山遊廓の待合「たつみ」の、東検番の名花と謳われた芸妓照菊の本名。芥川龍之介は大正十一(一九二二)年五月十日から同月二十八日まで長崎に滞在したが、五月十八日に「たつみ」に遊んだ際に知り合った。芥川は彼女を非常に気に入り、「堂々としてゐて東京に出て來ても恥ずかしくない女」と評し、この滞在中、芥川龍之介畢生の名作「水虎晩歸圖」を銀屏風に描き、「萱草も咲いたばつてん別れかな」の句も与えている。後年、料亭「菊本(きくもと)」の女将となった。この女性。]

 

《8-39》

〇六番町3  南

○横須賀汐入124  加藤由藏(牧星)

[やぶちゃん注:「加藤由藏」(明治二三(一八九〇)年~?)は小説家。「牧星」はペン・ネーム。青森生まれ。新全集の「人名解説索引」によれば、『若年の頃から労働者となり、各地を放浪』、のちに『プロレタリア文学』系の『商業雑誌「新興芸術」などで作家として活躍』、『「富良野川辺の或村」などの小説を発表した』とある。旧全集書簡番号一二〇四(大正一三(一九一四)年(年は推定)六月二十二日附岩波茂雄宛)では、彼を岩波茂雄に紹介し、便宜取り計らいを請うている。]

 

○シナノ町鹽町の間 柳原愛子のそばのかじ

[やぶちゃん注:「シナノ町」現在の東京都新宿区信濃町(まち)。

「鹽町」旧四谷区には四谷塩町(現在の新宿区四谷本塩町及び四谷)があった。

「柳原愛子」「やなぎわらなるこ」(現代仮名遣)と読む。安政六(一八五九)年生まれで、昭和一八(一九四三)年没。明治天皇の典侍で大正天皇の生母。幕末の議奏(天皇に近侍して勅命を公卿以下に伝え、また、議事を奏上した職)柳原光愛(みつなる)の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪に当たる。]

 

○西信濃町二  佐藤春夫

[やぶちゃん注:盟友佐藤春夫。彼は大正一三(一九二四)年、西信濃町の弟秋雄方に寄寓している(十一月まで)。因みに、春夫は本名で春四月九日生まれだかららしく、彼の弟には夏樹もいる。]

 

○北四川路西安樂里23 鍋島政男

[やぶちゃん注:先に示した通り、「この村の白楊もそろり」から、ここまでが、旧全集にはない。

「北四川路」旧上海の地名。

「鍋島政男」不詳。中国特派の際に知り合った人物か。]

 

○山峽の杉冴え返る谺かな

○土用浪砂吸ひ上ぐるたまゆらや

○蒲の穗はほほけそめつつ蓮の花

○水をとる根岸の糸瓜ありやなし

○枝豆をうけとるものや澁團

[やぶちゃん注:旧全集では下五が「澁團扇」。そちらの方が腑には落ちる。]

 

○初霜の金柑のこる葉越しかな

○菜の花は雨によごれぬ育ちかな

○三月や茜さしたる萱の山

○線香を干したところへ桐一葉

○山茶花の莟こぼるる寒さかな

○丈草集 野田別天樓

[やぶちゃん注:野田別天楼(のだべってんろう 明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久郡磯上村(現在の岡山県瀬戸内市)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から、正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句した。教師で、報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり、関西俳壇で活躍、後に『雁来紅(がんらいこう)』を創刊し、主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった(以上はウィキの「野田別天楼に拠った)。「丈艸集」は彼の編になる蕉門の内藤丈草の句文集で、大正一二(一九二三)雁来紅社刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

○芭蕉研究 樋口功

[やぶちゃん注:以上の二条は旧全集には、ない。

「樋口功」(ひぐちいさお 明治一六(一八八三)年~昭和一八(一九四三)年)の、芭蕉研究書としては評価の高い「芭蕉研究」は大正一〇(一九二一)年文献書院刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

《8-40》

○山岨に滴る水も霞みけり

○藤の花軒端の苔の老いにけり

Kyobashi bow 9

[やぶちゃん注:旧京橋区弓町。現在の銀座の西部の内。]

 

High field woods

[やぶちゃん注:不詳。京都府南丹市美山町に高野森という地名がある。人名かも知れない。或いは「高埜森」という待合かも知れぬ。文夫人に判らぬように、愛人などと落ち合う場所をかく記した可能性は芥川龍之介の場合、十二分に、ある。]

 

Douris and the painters of Greek vases  Edmond Pottier  Dutton & Company  New York

[やぶちゃん注:以上の英文三条は旧全集には、ない。フランス人美術史家で考古学者でもあったエドモン・フランソワ・ポール・ポティエ(Edmond François Paul Pottier 一八五五年~一九三四年:生まれはフランス国境に近いドイツのザールブリュッケン)「ドゥーリスとギリシアの装飾壺の画家」(一九一六(大正五年相当)年刊)。「Douris」(ドゥーリス)は紀元前五〇〇年頃から前四六〇年頃にアッチカで活躍した古代ギリシアの赤像式陶画家の名(赤像式(せきぞうしき)陶器(red-figure pottery)とは、古代ギリシア陶器の一様式で「赤絵式陶器」ともいう。絵の部分を明赤褐色の素地のままに残し、周囲を黒く塗り潰して、絵の内部の線を細い筆で描くことで抑揚をつけて仕上げる。この新技法は起源前五三〇年から前五二〇年頃の短期間に現われ、それまでの黒像式陶器(赤褐色の陶土の素地の図像の部分を黒い顔料でシルエット状に塗り潰し、焼成後に眼や口・髪・衣装の文様などの細部を、鋭い尖筆で線描する技法)に比べ、非常に自由で豊かな表現力を有する描法であったことから、黒像式に代わって隆盛し、パルテノン時代にかけて頂点に達した。赤像式の技法は前三二三年頃に消滅した。稀れに全体を黒く塗りつぶした素地の上に赤褐色顔料などで絵付けしたものもある。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。素描の巧みさと優れた画面構成で知られ、多くの作品を制作した。

 以上を以って「手帳8」は終わっている。]

 

« 芥川龍之介 手帳8 (26) 《8-33/8-34》~多量の抹消俳句稿の出現部 | トップページ | 芥川龍之介 手帳9 (1) »