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2018/01/24

芥川龍之介 手帳8 (24) 《8-30/8-31》

《8-30》

○相愛の女結婚す その夜(雪ナリ)電報を打つ「タカサゴヤタカサゴヤ」名なし 女も夫も祝はれたと思ひ目出度がる

[やぶちゃん注:少なくともロケーションは芥川龍之介の人生最大のトラウマとなった吉田弥生との一件とは違う。破局を迎えたのは大正四(一九一五)年の一月中旬と推定されているものの、彌生が陸軍将校金田一光男と結婚したのは、同年四月末か五月初めで、雪のロケーションとは合わないからである。但し、この構想メモには彌生の影が付き纏っているようには読める。]

 

○美しい村

Proletariat の群に加はりつつ しかも Proletariat 出ならざる事を苦しむ loneliness.

[やぶちゃん注:旧全集では「美しい村」は丸括弧附きで、後の行の末に配されてある。これは芥川龍之介の草稿断片「美しい村」のメモと思われる。この原稿用紙九枚の草稿については、旧全集の同篇の末尾に『(大正十四年頃)』という編者による付記があるだけで、新全集でも新たな情報は記されていないのであるが、新全集の宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年二月二十二日に『作品の取材のため、千葉県八街(やちまた)』(現在の千葉県北部ある八街市。ここ(グーグル・マップ・データ))『に出かけ』ていることが書簡から判明しており、その取材をもとに『「美しい村」が起筆された』が未完に終わった旨の記載がある。なお、草稿小説内では八街を「淺井村」(但し、『今は村ではな』く、町とする)という設定に変えてある。なお、あるブログ記載によれば、これは八街で実際に起きた小作争議(恐らくは鈴木邦夫氏の論文「農民運動の発展と自作農創設 千葉県印旛郡八街町を事例として(PDF)に詳述されるものと思われ、その論文によれば、八街での本本格的な小作争議の開始は大正一二(一九二三)年秋とあるから、まさに当時の龍之介にとってアップ・トゥ・デイトなものであったことが判る)をモデルとしているとあるのだが、残念ながら、私が馬鹿なのか、現存草稿(原稿用紙九枚ほど)からはそうしたテーマを判読することは少なくとも私には出来ない。しかし、この一条のメモはそうしたものを感じさせるものでは、確かに、ある。]

 

○運轉手赤旗を靑旗と見あやまりカアブを半ばまはらんとす 旗ふり急に旗をふる 運轉手大聲に曰 まちがひましたー!

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の『文藝春秋』に掲載された小品集「貝殼」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 或運轉手」の素材(底本は旧全集。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

       四 或運轉手

 

 銀座四丁目。或電車の運轉手が一人、赤旗を靑旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。が、間違ひに氣づくが早いか、途方もないおほ聲に「アヤマリ」と言つた。僕はその聲を聞いた時、忽ち兵營や練兵場を感じた。僕の直覺は當たつてゐたかしら。

 

   *]

 

○銀時計と思ひニッケルをとりし賊の憤怒は大盜と思ひ小盜を捉らへし刑事の怒りに似たり

enthusiastic ニモノヲ云フ時片目ツブリ鏡ヲ覗クヤウニスル人 野中

[やぶちゃん注:実は、以上の「○美しい村」の後の条には、底本の新全集では編者による柱としての「○」がない。しかし、旧全集では以上のように「○」が配されてある。私はどう見てもこれらが「美しい村」と直連関したメモとは思えないので、底本新全集に従がわず、旧全集の形で柱の「○」を配したことをお断りしておく。

[やぶちゃん注:「enthusiastic」熱狂的。

「野中」人名らしいが、不詳。]

 

○カアネエシヨンは音樂を嫌ふ

○小穴 lover と共にあひし女と後あふ 突然赤面す 女は知らず

[やぶちゃん注:「小穴」既出既注の小穴隆一。]

 

 

《8-31》

umpire psychology 思はず間違ひ それを逆にとりかへさんとし 一方を寛にす 好きな pitcher 好きな玉には反つて判斷の strict になる

[やぶちゃん注:「寛に」「おほらかに」或いは「ゆるやかに」と訓じておく。

strict」厳格な・厳正な・寛容さがなく妥協を許さない。]

 

洋食のくひ方を苦にし neurasthenia になる 式に出て洋食を食ふ なほる 愈くひたくなる 食ふ機會なし

[やぶちゃん注:これは昭和二(一九二七)年五月発行の『新潮』に発表した「たね子の憂鬱」の中のワン・シーンへの素材メモ。一見、滑稽で皮肉な場面を想起するが、実際のそれは、まさに主人公たね子の置かれた近代人の病的な神経症的状況の象徴的一齣として採用されることとなる。当該箇所(夫と練習するプレ・シーンもあるが、そこは省略する)を抜き出してみる(底本は岩波旧全集を用いた)。

   *

 帝國ホテルの中へはひるのは勿論彼女には始めてだった。たね子は紋服を着た夫を前に狹い階段を登りながら、大谷石や煉瓦を用いた内部に何か無氣味に近いものを感じた。のみならず壁を傳はつて走る、大きい一匹の鼠さへ感じた。感じた?――それは實際「感じた」だつた。彼女は夫の袂を引き、「あら、あなた、鼠が」と言つた。が、夫はふり返ると、ちよつと當惑らしい表情を浮べ、「どこに?……氣のせゐだよ」と答へたばかりだつた。たね子は夫にかう言はれない前にも彼女の錯覺に氣づいてゐた。しかし氣づいてゐればゐるだけ益々彼女の神經にこだわらない訣には行かなかつた。

 彼等はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角隱(つのかくし)をかけた花嫁にも時々目を注いでゐた。が、それよりも氣がかりだったのは勿論皿の上の料理だつた。彼女はパンを口へ入れるのにも體中(からだぢう)の神經の震へるのを感じた。ましてナイフを落した時には途方に暮れるより外はなかつた。けれども晩餐は幸ひにも徐ろに最後に近づいて行つた。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものゝ出て來た時には食事もおしまひになつたと思へ」と云ふ夫の言葉を思ひ出した。しかしやつとひと息ついたと思ふと、今度は三鞭酒の杯を擧げて立ち上らなければならなかつた。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだつた。彼女は怯づ々々椅子を離れ、目八分に杯をさし上げたまま、いつか背骨さへ震へ出したのを感じた。

   *

文中の「三鞭酒」はこれで「シャンパン」と読んでいよう。なお、全文は「青空文庫」ので読める。

neurasthenia神経衰弱(発音を音写すると「ニューラスティニア」)。なお、現行では(少なくとも「神経衰弱」という日本語は)精神疾患(病態)名としては、最早、用いない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱とは、一八八〇年(明治十三年)に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは』、『都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから』、この『病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから』、『病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。]

 

○皆傳 免許 目錄 切紙

socialist martyr

[やぶちゃん注:「martyr」(音写すると「マータァア」)。本来は特に「キリスト教の殉教者」を指すが、そこから「信仰・主義に殉ずる人・殉難者・犠牲者・受難者」の意で広く用いる。「社会主義者の殉教志願者・受難狂」とは芥川龍之介好みの言い回しではないか。]

 

○浮島ケ原 梶原 陣中 土佐坊夜打 靜の家

[やぶちゃん注:「浮島ケ原」静岡県愛鷹山南麓で駿河湾を臨む、現在の静岡県富士市中里辺り(この附近(グーグル・マップ・データ))。南北朝から室町初期に成立したと考えられている「義経記」で、治承四 (一二八〇) 年の「富士川の戦い」(十月二十日)に勝利した頼朝に義経が対面したとされる場所であるが、史実ではなく、実際の対面場所は黄瀬川の「陣中」(現在の静岡県駿東郡清水町。この附近(グーグル・マップ・データ)と推定されている)でああったとされる。しかし、どうも後の記載とは時制が違い過ぎる。

「梶原」梶原景時は多くの軍記物で頼朝に義経を讒訴した悪玉に仕立て上げられている。「石橋山の合戦」で頼朝を逃がした彼は、頼朝の再起に逸早く降伏し、養和元(一一八一)年正月には頼朝と再び対面して、既に有力な御家人として列していた。

「土佐坊」元僧兵で鎌倉幕府御家人となった土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん 永治元(一一四一)年?~文治元(一一八五)年)。ウィキの「土佐坊昌俊によれば、『大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加した』。『頼朝と弟の源義経が対立した』文治元(一一八五)年、頼朝は遂に京にいる義経を見限って、誅すべく『御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折』り、『昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている』。『昌俊は弟の三上弥六家季ら』八十三『騎の軍勢で』同年十月九日に鎌倉を出発』同月十七日、『京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い』、『自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが』、『義経の郎党に捕らえられ、』同月二十六日、『家人と共に六条河原で梟首された』(「吾妻鏡」に拠る)。義経は襲撃翌日の』十八『日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始し』ている。なお、「吾妻鏡」によれば、『頼朝は昌俊に対し』、九『日間で上洛するように命じているが、義経の元には』十三『日に暗殺計画が伝えられており、同日』(右大臣(当時)九条兼実の「玉葉」では十六日)『に義経は後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って義経らは、昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性が高い』(なお、「平家物語」の延慶本では、昌俊らは九月二十九日に『鎌倉を出発し』、十月十日に『京に到着したことになっている)』。『また、昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが、治承・寿永の乱に従軍していた御家人を連れて京都を出発、関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者との引き離しを終えていた。さらに頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた』二十二『日には、勝長寿院に』於いて『二十四日に開かれる予定の源義朝の法要のために、各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。これらの状況から、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであった』、『との見方もある』。『なお、昌俊が頼朝から派遣された刺客であるとするのは』、『義経側の主張であって、編纂物である』「吾妻鏡」や「平家物語」が『示すような鎌倉(頼朝)側の動きを立証する同時代史料が存在しないことから、兄・頼朝との対立を避けられないと考えた義経が』、『先に頼朝追討を決意した結果、在京あるいは畿内周辺に拠点を持つ御家人が動揺し、その中にいた土佐坊昌俊・三上家季兄弟らが、頼朝への忠義から率先して義経排除を決意した、とする説もある(三上氏は近江国野洲郡の出身とされるため、昌俊兄弟の元の本拠地も同地であった可能性がある)』とある。

「靜」言わずもがな、義経の愛人静御前(しずかごぜん)。「吾妻鏡」によれば、この直後、義経が京を落ちて、一度、九州へ向かおうとすう際、静は同行しているが、この時、義経の乗った船団が嵐に遭難し、岸へ戻されてしまい、静は、一時、義経が隠れた吉野に於いて彼と別れ、京へと戻っている。しかしその途次、裏切った従者に持ち物を奪われ、山中を彷徨うううち、山僧に捕らえられて京の北条時政に引き渡され、文治二(一一八六)年三月、母の磯禅尼(いそのぜんに)とともに鎌倉に送られた。それ以降のことは、北條九代記 義經の妾白拍子靜の本文と私の力(リキ)を入れた遠大な注を、是非、参照されんことを望む。]
 

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