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2018/01/20

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十五」

 

    二十五

 

 急勾配に逆落(さかおと)しに成っている谷を瞰下(みおろ)しながら山の脊梁を伝うて城跡(しろあと)の二の床あたりまで登り着いたころわびしい山の雨がかすかな雫を仰のうえに落しはじめた。

 一の床には常福寺の和尚さんがこの春かに建てた小亭があるので、僕たちはその雅趣に富んだ小建築の茅屋根の下に雨を凌ぐことが出来た。携帯して来た弁当の包だのサイダアの瓶だのをそこへ置いたまゝ更に本丸の跡にのぼって、矢張そこにも建てて小亭の下に立って四方(よも)に眼を走らせた。

 眼の届くかぎりの天は雲に充(みち)みちて漂うていた。併しその雲はのべつにちっている一つの塊りでは無くて、広いひろい空のそれぞれの部分にさまざまの働きをいとなんでいる雲の個体の群れであった。彼れ等の中の或る者は日本海の涯に近(ひく)く垂れて沖をもの凄く暗ませていた。他の或る者は湖の南の山々の肩を掠めて瓢々と飛んで行き、又ある者は松江の市街と脚下の山とのあいだを低徊して僕たちの眼から町や城山やを隠そうとこゝろみていた。雲の群れと雲の群れとの間にいくらかの隙目(すきめ)が出来ると日の光は耀やかしくそゝぎ落ちて、それを浴びた山の傾斜が他のけしきの暗い中に一際目立って明るく鮮かな草木の緑りを匂わせた。

 巾三四間[やぶちゃん注:五・五~七・二七メートル。]、長さ廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]にも満たないと思われる山の頂の一角に「山中鹿之助銅像建設地」と書いた木杭(もくひょう)が立っている。これは常宿寺の和尚さんの発企(ほっき)でこの山のうえに建てらるる銅像の敷地らしい。

 僕は龍之介君と語り合った。好い加減な銅像なんか建てる事は止して寧ろいろいろの旧記や遺物を考証した上、その昔の城廓の形を模した建築をこの頂にこさえたらどんなものだろう?今日帝都其他の地に存在している銅像の多くは、現代並びに後世の識者の苦笑を永(とこし)えに買うために存在をつゞけている観がある。優秀な意匠と卓抜な技能との結合から生まれなかった劣悪の製作品は、白痴威(こけおど)しの銅像に過ぎない。

 殊に戦国時代だの封建時代だのの風尚(ふうしょう)[やぶちゃん注:人々の好み。その時代の人の好み。]を、元来が西洋から帰って来た銅像趣味の中に叩き込んで現し出そうとするのは、中々容易に成功しそうな努力では無い。それよりか小さい廟を建てゝ素朴な木像でも祭った方がはるかに奥床しい仕事のように考えられる。

 仮りに例えば鹿之助が三日月を拝んでいる銅像を山頂に建てたとして見る。そのときはるばる山をのぼつて来て其銅像に対した瞬間に、我われの胸のうちに縹緲(ひょうびょう)[やぶちゃん注:これは「はっきりとは分からないさま」の意。]として描かれていた勇ましくなつかしい戦国の勇士の悌(おもかげ)は、そこにある彫刻家の頭脳から型をあたえられ――そして不当に自己を古英雄代表者と主張しながら存在している、一塊の青銅のたふめに遺低(いてい)無く裏切られることであろうと思う。[やぶちゃん注:「たふめ」ママ。意味不詳。「遺低無く」意味不詳。前者は「ために」の衍字か。後者は「余すところなく、徹底的に」の意か。不学な私には判らぬ。]

 雄々しかった戦国の武士たちは山を削り谷を掘って、真山という巨きい山全体を以て、尼子の武名を幾千年の後までも伝えるべき絶好の記念物を造った。「時(たいむ[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])」は荒廃の手法の若干を夫れと和して山は自(おのず)からなる二会術品の風貌を具えるに至った。一基の銅像はあるいは俗衆の眼を惹くに足るかも知れないが、山の威厳と古城の寂びとに何等の貢献を加えることが出来よう?若し何等か後の人の為すべきものありとしたならば、其昔の武人の経営の跡を偲ぶよすがをこゝろつゝましく造りもうけることにありはしまいか?

 

[やぶちゃん注:「山中鹿之助」山中幸盛(天文一四(一五四五)年?~天正六(一五七八)年)は尼子氏の重臣で富田城主尼子義久の近習。後世の軍記物その他の記録では「鹿之介」或いは「鹿之助」と記されている場合が多いが、本人の自署は孰れも「鹿介」となっている。鹿介の名が初めて「雲陽軍実記」や「陰徳太平記」などの軍記物に登場するのは、永禄61563)年に毛利元就軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、この時、尼子軍は敗退し、以後、尼子勢は富田城に籠城して落城、尼子氏は滅亡した(既注)。落城後、出雲を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久を擁して、島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、結局、毛利の援軍と布部山(ふべやま・現在の安来(やすぎ)市)で戦って大敗、出雲奪回の夢は断たれた。しかし、その後も執拗に再興を図って、各地を転戦、織田信長を頼って、その西征に望みを繫いだ。天正五(一五七七)年、信長の部将羽柴秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加、上月(こうづき)城(現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町)に主君勝久とともに籠ったが、毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、結局、勝久は自殺して落城し、遂に降伏した。鹿介は備中松山城(現在の岡山県高梁(たかはし)市)の毛利輝元のもとに護送される途中、高梁川(たかはしがわ)の渡しで殺された。その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾心に徹したものであった(小学館の「日本大百科全書」に拠った)。]

 

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