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2018/01/28

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その2)

 

 今年慶安四年辛卯(かのとう)四月廿日、大將軍家光公御他界の折を幸と悦び、正雪、忠彌が方へ來り申けるは、

「天の與ふる時節にて候。かねがねの大望、當七月廿六日曉を限りにおもひ立申(たてまうす)べし。某(それがし)、かねて御城の堀の淺深を探置(さぐりおき)候。丹波國より金掘(かなほり)を呼寄(よびよせ)、御城の水下を掘ぬき、御城へ死間(しくわん)を入(いれ)、二の鹽焇藏(えんしやうぐら)へ火を付(つけ)、御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし。其上、福原右馬介が孫福一鬼とて、能(よく)猿(さる)遣ふ者、有(あり)。此頃、密(ひそか)に道灌山へ猿廿疋程、集(あつめ)、火を付(つく)る事を教(をしへ)候。此猿どもを大名衆の屋敷屋敷へ忍入(しのびいら)せ、火を付(つけ)させ申べし。又、七月廿六日は天ほう日と申(まうし)て、大風の吹(ふく)日にて候。又、江戸の町々へ、二、三百人の忍びを入(いれ)、諸所より火をかけ、虛空生(こくうむしやう)に燒立(やきたて)、江戸中の用水、玉川の水上(みなかみ)、とめ、事を闕(かか)せ申べし。又、鐵炮上手にて物馴(ものなれ)たる者ども、二、三百人程、火消裝束に出立(いでたた)せ、腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮を以て、御老中其外大名登城の節、撰打(えらみうちに)打落(うちおと)し、面立(おもてだち)たる大名屋敷へ、五十人、六十人、一組に組合せ、火炮(くわはう)鳴物(なりもの)を以て人の耳目を驚(おどろか)し、前後左右より亂入(みだれいり)、散散(さんざん)に切殺(きりころし)申さすべし。駿府の御城は、我(われ)、幾度か忍行(しのびゆき)、淺間山へ登(のぼり)、とくと、懸り場・引場(ひきば)迄の事、細(こまか)に見置(みおき)たり。乘取(のつとり)候に手間(てま)入(いり)候まじ。神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候。其家士、御當家を恨(うらみ)奉るよし承る。其上、駿河大納言忠長卿、爲差(さしたる)御咎(おとがめ)にてましまさゞるを、大將軍、神君へ申させ玉ひ、安藤右京亮へ御預(おあづけ)、寛永十年十月、御腹召させ玉へば、忠長卿御一門を御つぶし、品川辻門(つじもん)に被成(なされ)しを、京童(きようわらべ)、

『此門は亞相(あしやう)忠長樣御首の獄門のかわり也。』

と沙汰いたし候。加樣に、四民、背申(そむきまうし)候は、我等の幸(さひはひ)に候。我々、後(うしろ)だて、紀伊大納言樣の御名を借(かり)申べし。賴宣公は剛勇無雙の御大將也。世、以て、恐(おそれ)奉る事、唐の項王の如し。今日の敵は明日の味方となるもの也。久能山御城、乘取候はゞ、集置(あつめおか)れし金銀を以て、諸牢人召かゝへ申べし。必(かならず)、手配、違(たがひ)玉ふな。御身(おんみ)、勇(ゆう)は萬人に勝ㇾ候(すぐれさふら)へども、短慮、なるが第一の大疵(おほきず)にて候。此事、能能(よくよく)愼み給へ。」

とて、立別(たちわかれ)けるが、又、立歸り、又、申樣、

「唯今申述(まうしのべ)候通り、愼(つつしみ)候へ。當月廿六日を成納(なしをさめ)の大吉日と定(さだめ)、一時に事を斗(はかり)申べし。能々、徒黨の方の面々へしめし合(あはせ)候へ。」

迚(とて)立別ける。是は正雪が永き冥途の別(わかれ)なる。

[やぶちゃん注:「慶安四年辛卯四月廿日」一六五一年六月八日。

「大將軍家光公御他界」同日、病気のため、徳川家光は逝去している。

「七月廿六日」グレゴリオ暦九月十日。

「を限りにおもひ立申(たてまうす)べし」を以って予てよりの行動を実行に移そうと存ずる。

「御城」江戸城。

「死間(しくわん)」「孫子」の間者(かんじゃ:スパイ)の一種。潜入させるが、自分からわざと捕らえられて、偽(にせ)の情報を自白して相手を攪乱させる間者のこと。処刑され、生きて帰れないことが前提のスパイである。但し、もう少し広義に、噓の情報を巷に流し、それと同時に、同胞のスパイにもその偽情報を本当と信じこませて流し、結果的にそれを探査する敵のスパイを誑かす間者の意もあるようだ。

「鹽焇藏(えんしやうぐら)」煙硝蔵(焔硝蔵・焰硝蔵)。鉄砲弾薬の火薬庫。江戸城の安全性を考えて、和泉新田御焔硝蔵(現在の杉並区永福の明治大学和泉キャンパス。京王線の「明大前」駅は以前は「火薬庫前」と称した)と千駄ヶ谷御焔硝蔵(新宿御苑の南東端の貼り出した附近。ここ(グーグル・マップ・データ))の二箇所に配されてあった。

「御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし」江戸城周辺で二つの大火災が発生すれば発生すれば、飛び火や延焼を確認し易くするために、江戸城内の灯りは当然、ごくごく制限されるからであろう。

「福原右馬介」安土桃山時代の武将で大名の福原長堯/直高(ながたか/なおたか ?~慶長五(一六〇〇)年)か。初め、豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えた。福原右馬助を称した。後に馬廻衆。慶長二(一五九七)年で十二万石を得、府内新城へ転封された。後は豊臣秀頼に仕えていたが、慶長四(一五九九)年の石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められて、当時の五大老筆頭であった徳川家康により府内領が没収され、臼杵六万石のみの領有となった。翌年の「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、敗北、後に自刃した(一説に殺害されたとも。ここはウィキの「福原長堯」に拠った)。

「孫福一鬼」不詳。

「天ほう日」不詳。「ほう」の表記も不詳。識者の御教授を乞う。

「虛空無生(こくうむしやう)」四字で一語と見た。完全に灰燼に帰して、生きているものがないような状態。

「事を闕(かか)せ」消火活動が出来ないようにさせて。

「腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮」管打式短筒銃。現在の短銃・拳銃の類。所持していることが見破られ難い。

「撰打(えらみうちに)」選り取り見取りに。

「火炮(くわはう)」通常は大筒(大砲)であるが、ここは普通の鉄砲でよかろう。しかも、この場合、嚇しだから、弾丸を入れない空砲でも構わない。

「淺間山」この浅間山は駿府城西方直近にある静岡市葵区宮ケ崎町の現在の静岡浅間(せんげん)神社の後背地、現在の賤機山(賎機山)公園であろう。確かに(グーグル・マップ・データ)からなら、駿府城はよく見下ろせる。

「懸り場」舟の寄せ場をかく言うが、この場合は城壁等でとっ懸かって最も侵入し易い箇所の意であろう。

「引場(ひきば)」退却ではなく、ある程度、攻めた後に、一時、待つか、少し後退したと見せておいて、敵を待って再度、攻めるに都合の良い箇所の謂いであろう。

「神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候」近世史に疎いため、この家康逝去の際にお取り潰しとなった両加藤家というのが、誰を指すのか、全く判らぬ。お恥ずかしながら、識者の御教授を乞う

「駿河大納言忠長卿」(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)は秀忠の三男で家康の孫。母は浅井(あざい)氏。父母の寵愛を一身に集め、兄家光をさしおいて世子に擬せられたが、実現しなかった。元和二 (一六一六) 年、甲斐に封じられ、寛永二(二五)年さらに駿河・遠江を加増されて五十五万石を領した。翌年八月には従二位大納言に叙任したが、寛永八年五月、乱行を理由として甲州へ蟄居を命ぜられ、翌年には上州高崎へ移されて二年後の同十年、高崎の大進寺で自刃した。

「大將軍、神君へ申させ玉ひ」この辺の言い方も判らぬ。家光が家康の御霊(みたま)に申し上げなさって、その御神霊の許諾を得、蟄居を命ぜられた、というのか。そもそもが幕府転覆を画策する由井正雪が、「大」将軍とか、「神君」とかいうのは、これ、変だと素人の私でも思うのだが?

「安藤右京亮」上野高崎藩第二代藩主安藤重長(慶長五(一六〇〇)年~明暦三(一六五七)年)改易となった徳川忠長を預かって、高崎城に幽閉した。

「品川辻門(つじもん)に被成(なされ)し」後の京童の洒落も含めて、意味が判らぬ。識者の御教授を乞う

「紀伊大納言」ウィキの「慶安の変によれば、『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』とある。

「久能山御城」戦国時代からあった山城。現在の静岡県静岡市駿河区根古屋で、久能山東照宮がある。(グーグル・マップ・データ)。以下の正雪の謂いを見るに、ここに家康の埋蔵金伝説でもあったのであろう。

「成納(なしをさめ)」絶対の祈願成就決定(けつじょう)の謂いか。]

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