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2018/01/10

芥川龍之介 手帳8 (1) 冒頭パート(Ⅰ)

芥川龍之介 手帳8

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年の大阪毎日新聞社発行の手帳。

 現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻の「後記」によれば、『破損の度合いが激しく、判読不可能な箇所が多い。原資料は月日が印刷されているが、一月一〇日までの頁が欠損している』ことから、新全集は欠損部の冒頭部分を同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を『底本とし』、それよりも後の部分は『原資料を底本とした』とする。但し、『破損個所、判読不能の箇所は』旧全集『により補訂した』とある。また、一部に有意な旧全集に欠けている箇所があり、逆に現存原資料にはないのに旧全集には載る部分もある。私の電子化では、そこは孰れも本文でその事実を逐次示すこととする。

 従って、底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。但し、旧全集の句読点は旧全集編者がほどこしたものであることは明白(これまでの芥川龍之介の手帳の癖及び新全集の本手帖の原資料からの活字化様態から)なので総て除去した。除去の跡は基本一字空けとしたが、私の判断で除去して詰めた箇所もある。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示したが、ブラウザの関係上、非常に困難な箇所は、旧全集の当該箇所を画像でトリミングして示した上、注記で電子化することとした(例えば冒頭の条)。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《8-1》というように見開きごとに通し番号を附けた。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、本「手帳8」の記載推定時期は大正一三(一九二四)年から晩年にかけて記されたものと推測している。]

 

Tetyou81

○叔父目惡くなる 祖父さんの罰と云はる 佛壇をとざして位牌を見ざらんとす

[やぶちゃん注:第一条は当初、ワードでやってみたが、どうしてもブログ・ブラウザでは不具合が生ずるため、旧全集のページをトリミングして示した(万一、岩波旧全集編者から不当引用の申し立てがあった場合は、除去し、総てをオリジナル画像で作り直す)。第二条は或いは前条と同じ「叔父」の可能性があるので、並べて示した。第一条は画像の通り(冒頭注で述べた通り、句読点は除去した)、頭に、

 

○叔母(妹)

 

とあり、その下に、罫線が引かれて、それが左右に分かれ、右に、

 

姉(20

 

左に、

 

妹(18

 

とあって、そこからそれぞれ中央に向かって斜線が引かれて繋がり、その下に、

 

似た夢を見る

 

とあって、その下が系図方に左右に分かれ、右手に、

 

魚三匹 雨戸をたたき「つれ合ひなくてさびしき故さがしてやつてくれ」と云ふ

 

と記され、左には、

 

一人廊に立つ 月明 池光る 水漣立つ 手燭をつけて子供たちをよびにゆく 返事せず ひとり見る 漣光魚となる その魚をよく見れば鮒なり(默してかたらず)

 

とある。一方、冒頭の「叔母」の「叔」の左手から横罫線が伸びて、

 

叔父(食客)(池に面せし座敷)夢中の廊下に近き部屋に臥す

 

の「叔」の字の右手へと系図風に連結している。]

 

○直江津(信州より)へ學校中ゆく(12の時) 沖に大船あり 小舟にて通ふ 外の學校の生徒も來る 外の學校の先生抱きて外の船にのす 驚と恐と愉快 おのれの學校の先生うけとりに來る あやまつて曰 うちの生徒にそつくりです

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の『文藝春秋』に掲載されたアフォリズム風の小品集貝殼(リンク先は私の古い電子テクスト)の「三 或女の話」で以下のように作品化されている(底本は旧全集。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

       三 或女の話

 

 わたしは丁度十二の時に修學旅行に直江津へ行きました。(わたしの小學校は信州のXと云ふ町にあるのです。)その時始めて海と云ふものを見ました。それから又汽船と云ふものを見ました。汽船へ乘るには棧橋からはしけに乘らなければなりません。私達のゐた棧橋にはやはり修學旅行に來たらしい、どこか外の小學校の生徒も大勢わいわい言つてゐました。その外の小學校の生徒がはしけへ乘らうとした時です。黑い詰襟の洋服を着た二十四五の先生が一人、(いえ、わたしの學校の先生ではありません。)いきなりわたしを抱き上げてはしけへ乘せてしまひました。それは勿論間違ひだつたのです。その先生は暫くたつてから、わたしの學校の先生がわたしを受けとりにやつて來た時、何度もかう言つてあやまつてゐました。――「どうもうちの生徒にそつくりだもんですから。」

 その先生がわたしを抱き上げてはしけへ乘せた時の心もちですか? わたしはずゐぶん驚きましたし、怖いやうにも思ひましたけれども、その外にまだ何となく嬉しい氣もしたやうに覺えてゐます。

 

   *]

 

○山鳥の尾羽根の節十二以上になると化ける 尾より火をひく 薄明を放つ

○松の枝は水音をきくと下る

○テツビンの底の煤に火うつる時は風ありと知るべし

○役者見物中の女とちぎる 女と後あひし時狸女に化け首をのばす 役者切る 後女にあふ 狸の化けしを見知る されど仲絶えたり

○草刈の名人 他人は草の多き所に刈る おのれは路傍にても小草あれば刈り集む 鎌は朝とげば刄先を使ひ 次に中をつかひ 次に元をつかふ 常人は全體一度に使ふ。

○祖父傾城を買ひ(東京)かへりてその時習ひし歌を祖母に教ふ 祖母祖父歿後もその唄を愛唱す「この度諏訪の戰に松本身内の富江樣大砲かためにおはしますその日の出で立ち花やかにいさみ進みし働きは天つ晴勇士と見えにける敵の大玉(オホダマ)身にうけて是非もなや惜しき命を豐橋に(スハの先の地名)草葉の露と消えぬとも末世末代名はのこる」(大津繪)

[やぶちゃん注:「オホダマ」はルビ。ここに出る「唄」は大正一一(一九二二)年七月発行の『中央公論』に掲載された、私の非常に偏愛する旧家の没落と一族の衰亡を描いた名篇庭」の「中」で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 その内に又春になつた。庭には生(を)ひ伸びた草木の中に、乏しい桃や杏が花咲き、どんより水光(みずびか)りをさせた池にも、洗心亭の影が映り出した。しかし次男は不相變、たつた一人佛間に閉ぢこもつたぎり、晝でも大抵はうとうとしてゐた。すると或日彼の耳には、かすかな三味線の音が傳はつて來た。と同時に唄の聲も、とぎれとぎれに聞え始めた。「この度諏訪の戰ひに、松本身内(みうち)の吉江(よしえ)樣、大砲固(おほづつかた)めにおはします。……」次男は橫になつた儘、心もち首を擡(もた)げて見た。と、唄も三味線も、茶の間にゐる母に違ひなかつた。「その日の出で立ち花やかに、勇み進みし働きは、天(あ)つ晴(ぱれ)勇士と見えにける。……」母は孫にでも聞かせてゐるのか、大津繪の替へ唄を唄ひ續けた。しかしそれは傳法肌の隱居が、何處かの花魁(おいらん)に習つたと云ふ、二三十年以前の流行唄(はやりうた)だつた。「敵の大玉(おほだま)身に受けて、是非もなや、惜しき命を豐橋に、草葉の露と消えぬとも、末世末代名は殘る。……」次男は無精髭の伸びた顏に、何時か妙な眼を輝かせてゐた。

   *

と丸ごと使われている。「大津繪」は俗曲の大津絵節の略称で、現在の滋賀県大津市がまだ宿場町であった頃に遊里柴屋町の妓女たちが歌いだしたのが初めとされる、滋賀の民謡の一種。同地の土産として売られていた災厄除けの一枚絵の「大津絵」の画題を綴り合わせた内容が元歌であるが、江戸後期に全国的に流行して多くの替歌が作られ、現在でも唄い継がれている。古くは「大津の名物二上り」と称した。筑摩全集類聚版脚注には、「諏訪の戰ひ」とは、幕末の元治元(一八六四)年『十一月二十日、諏訪市和田峠で、水戸浪士武田耕雲斎一党の上洛を和田・松本両藩が防いだ戦い』で、『松本藩の死者の中に』この『吉江衛門太郎』『の名があり、その墓は和田峠近くの字慈雲寺にある』とある。]

 

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