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2018/01/26

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その1)

 

     由井正雪

 

 慶安年中、駿河國油井と云(いふ)所に正雪(しやうせつ)といふものあり。元賤しき紺屋(こんや)の子也(なり)しが、十三の歳、高松半平と云浪人者を師として手習をならひ、隙に小瀨甫庵(おぜほあん)入道が作(つくり)し「太閤記」をみて、謀叛の志(こころざし)あり。十六の春、信濃國淺間嶽に立(たち)玉ふ水守大明神(みづもりだいみやうじん)とて楠(くすのき)が守り本尊を登りける。此(この)神主と示合(しめしあはせ)、神前の乾(いぬゐ)の角(すみ)の大杉の下をほり、石櫃(いしびつ)一箇(いつか)を埋(うみ)、其内、菊水の旗・甲(かぶと)一刎(ひとはね)・吉光(よしみつ)の九寸五分の脇差を埋(うづ)み、其後、年月、遙(はるか)に移り、東武淺草に來り、

「紀州家の牢人也。」

といふ。楠(くすのき)流の軍法を教(をしへ)、諸旗本の歷々を取(とり)、「平家物語の評判」廿四册を作り、我(わが)智を人にしらしむ。

[やぶちゃん注:本編は長いので、部分部分で注することとし、注の後は一行空けた。筆者は由井正雪とその謀叛話が非常に好きで、既に前でも記しているが、本最終巻は最後の二篇(切支丹物)を除き、総てがその関連譚である。注も既に記したものが多いが、最後なの煩を厭わず、再掲することとした。

「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「慶安」一六四八年から一六五二年(慶安五年)までであるが、慶安四年年七月二十六日(グレゴリオ暦一六五一年九月十日)、由井正雪の幕府転覆計画は未然に知られてしまい、計画遂行のための駿府城の乗っ取り計画実行のために駿府に赴いていた正雪は、宿泊した駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に於いて、駿府町奉行所の捕り方に囲まれ、自決している。

「駿河國油井」現在の静岡県静岡市清水区由比。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高松半平」ネット情報や「絵本慶安太平記」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像のここ)では、江戸を逐電してきた福島家の浪人とし、正雪が修学のために奉公した吉岡家の菩提寺清光寺(禅宗。所在不祥)の住職の親類筋に当たる人物とある。

『小瀨甫庵入道」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)。豊臣秀吉の生涯を綴った「太閤記」(初版は寛永三(一六二六)年。全二十巻)や、織田信長の一代記「信長記(しんちょうき)」の著者として知られる(但し、「太閤記」や「信長記(信長公記)」は彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作が複数ある。その中でも小瀬のそれは著名なもので、単に「太閤記」といった場合は小瀬のものが最も知られる)。

「水守大明神(みづもりだいみやうじん)」不詳。現在の浅間山の祭神としては見られない。調べてみるに稲荷神に「水守」を多く冠する。謀叛を祈念するには稲荷の妖力は頗る腑に落ちるが、以下で「楠(くすのき)」を「守り本尊」とするとあるから、もっと古い北欧神話の「ユグドラシル」(古ノルド語:世界樹)のような大樹崇拝の神か。浅間は火山神であるから、それを鎮めるための「水守」であるのかも知れぬが、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「乾(いぬゐ)」北西。

「刎(はね)」兜(かぶと)などを数えるのに用いる助数詞。「跳ね」と同語源とされるともあるが、これはもう、首を刎(は)ねるのそれであろう。

「吉光(よしみつ)」十三世紀鎌倉中期の刀工粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)。正宗と並ぶ名工で特に短刀作りの名手として知られた。

「九寸五分」二十九センチメートル弱。

「紀州家の牢人也。」

「楠(くすのき)流の軍法」楠木正成を祖とする軍略法。

「取(とり)」教授の門下に取り入れ。迎え入れ。

「平家物語の評判」小学館「日本大百科全書」によれば、新井白石が『正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀(れんじゃく)町の五間(いつま)の裏店であったこと、『平家物語評判』という書物を著したこと、などを書き残している』とあり、「慶安太平記 下巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像)にも「正雪平家物語評判記を作る事」という章がある。]

 

 或時、弟子大勢の前にて語けるは、

「我、此間、每夜、ふしぎの夢をみたり。『楠大明神也』と自(みづから)名乘(なのり)、甲冑(かつちう)を帶(おび)玉ふ人、我(わが)枕がみに立(たち)、『汝は我(わが)再身(さいしん)也、必(かならず)、疑ふ事なかれ、其印に我(わが)軍神、淺間嶽水守大明神、乾の老松(おいまつ)の下を掘(ほり)てみよ、必、印あるべし』といふ。三夜續(つづけ)て見申(みまうし)たり。如夢現泡影(によむげんぱうやう)とて、兒女子(じぢよし)だに、是をとらず。かやうの夢物語仕(つかまつり)候も、おこがましく、はぢ入申(いりまうす)。」

といふ。

 鵜野九郎兵衞、進出(すすみいで)、

「尤(もつとも)左樣に候へども、亦、夢にも神夢(しんむ)靈夢と申(まうす)事候へば、強(あながち)、はかなし、とて、捨(すつ)べからず。」

と申(まうす)。

 其後、五、六人、申合(まうしあはせ)、乾の大杉の下を深く掘(ほり)、見るに、果たして石櫃あり。弟子とも不思義におもひ、ふたをひらくに、しころなき桃形の甲一刎(はね)・眞向に銀にて正成(まさしげ)と象眼(ざうがん)を沈(しづめ)たる菊水の旗一流・九寸五分の小脇差・軍書一册、有(あり)。

 弟子ども、互に目を見合(みあはせ)、

「扨は正雪は楠が再來、必ず、疑ふべからず。」

と立歸(たちかへり)、正雪に、

「かく。」

と語(かたる。

 正雪、僞(いつはり)て淚を流し、

「此事、深くかくして玉はるべし。」

と、皆々の口を堅め、夫(それ)より密(ひそか)に「楠正雪」と、あらためける。

[やぶちゃん注:おう! モロ田舎芝居! 奸計じゃのう、楠正雪!

「如夢現泡影(によむげんぱうやう)」如何にも仏典や禅語に有りそうな文字列だが、そのまんまは見当たらないようだ。「夢現(ゆめうつつ)のごとき泡影(ほうえい:水の泡と物の影法師で、儚い対象を譬えて言う語)なり」の謂いか。或いは後半は四字熟語で「夢現泡影のごとし」と読む方がそれらしいか。

「鵜野九郎兵衞」門人として「慶安太平記」や「正雪記」に登場する。]

 

 是より聞傳(ききつたへ)て、正雪を重んじ、其名、夥しく世に弘(ひろま)り、爰(ここ)に東武弓町に四國浪人丸橋忠彌秀勝といふ者あり。生(うまれ)不敵にして、人を人ともおもわず、管鑓(くだやり)の師として、隙もなく大勢の弟子にもてなされありける。弟子どもに語(かたり)けるは、

「我父は太閤秀吉公より三代の孫也。關白秀次公、文祿四年の七月五日、人の讒言(ざんげん)に依(より)て紀州高野山にて御生害(ごしやうがい)の折節、愛妾の賤き御子(みこ)をはらむもの有(あり)。此女、四國の丸橋に逃來(にげきた)り。我祖父を儲(まうけ)、我に至り。我(わが)氏(うじ)、豐臣也。」

と語。諸人、是をきゝて誠(まこと)とす。

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