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2018/01/17

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十四」 / 芥川龍之介「日記より」(その一)

 

    十四

 

    日記より

               芥川 龍之介

 松江へ来て、先自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縦横に貫いてゐる川の水と其川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流の多い都市は独(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其処に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鉄橋を架けてしかも其醜い鉄橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波旧全集版「松江印象記」では「の」に変えられてある。]一つに数へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版画家によつて、屡々其構図に利用せられた靑銅の擬宝珠(ぎぼしゆ)を以て主要なる装飾としてゐた一事は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜悪なる鉄の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人もこれに対してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出来るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の実利主義は全国に亘(わた)つて、此大いなる中世の城楼を、何の容赦もなく破壊した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壊も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである。今日に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壊者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に伝へむとする天主閣の数は、僅に十指を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を数え[やぶちゃん注:ママ。]得る事を、松江の人々の為に心から祝したいと思ふ。さうして芦と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に与へた物は満足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない訳にはゆかなかつた。否、独(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鉄網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帯びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鋳造の材料として積重ねてあるのも見ない訳にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鋳たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壊する必要が何処にあらう。まして其目的は、芸術的価値に於て卑しかる可き区々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる為であるとすれば、かくの如き無細工な石垣の築造は、其風趣を害する点に於て、正しく当初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に対して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機会を待つて語らうと思ふ。

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

    十四

 

日記より

   芥川 龍之介

 

       一

 

 松江へ來て、先(まづ)自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縱橫に貫いてゐる川の水と其(その)川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流(かりう)の多い都市は獨(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其處に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鐵橋を架けてしかも其醜い鐵橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波全集版では「の」に変えられてある。]一つに數へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版畫家によつて、屢々(しばしば)其構圖に利用せられた靑銅の擬寶珠(ぎぼしゆ[やぶちゃん注:全集版は「ぎぼし」。])を以て主要なる裝飾としてゐた一事(いちじ)は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬寶珠を、灰色を帶びた綠の水の上に望み得た懷しさは事新しく此處に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜惡なる鐵の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡來と共に、はるばる南蠻から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人(なんびと)もこれに對してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出來るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の實利主義は全國に亙(わた)つて、此大いなる中世の城樓を、何の容赦もなく破壞した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壞も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に參與した薩長土肥(さつちやうどひ)の足輕輩(はい)に理解せらる可く、餘りに大いなる藝術の作品であるからである。今日(こんにち)に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壞者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に傳へむとする天主閣の數(かず)は、僅に十指(じつし)を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を數へ得る事を、松江の人々の爲に心から祝したいと思ふ。さうして蘆と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に與へた物は滿足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない譯にはゆかなかつた。否、獨(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鐵網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帶びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鑄造の材料として積重ねてあるのも見ない譯にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鑄(い)たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壞する必要が何處にあらう。まして其目的は、藝術的價値に於て卑しかる可き區々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島[やぶちゃん注:「ケ」は全角。以下同様。これは全集版も同じ。]の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる爲であるとすれば、かくの如き無細工(ぶざいく)な石垣の築造は、其風趣を害する點に於て、正(まさ)しく當初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁(せきたいをう)をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に對して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸(さいはひ)にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機會を待つて語らうと思ふ。

   *

「櫛形鉄橋」普通はこれは、橋脚が有意に数多く配されてあって、恰もそれが櫛のように見える(短い橋が何本も繋がって長い一本の橋のようになっているかのように見える)鉄橋を指す。芥川龍之介の憂鬱の中にあるのは、恐らくは明治三七(一九〇四)年(芥川龍之介十二歳)に木橋から鉄橋へ架け替えられてしまった、彼の幼年期の思い出の中にあった両国橋(但し、現在ある位置より二十メートルほど下流で、厳密にはそれは櫛形鉄橋ではなく、曲弦トラス三連桁橋である)への郷愁であろうと思われる。或いは龍之介はトラス構造の方を「櫛形」と言っているように私は感ずる。確かにあれは、河川の景観に骨のように蟠った怪物のように醜く、私ははなはだ厭だ。

「古日本(こにつぽん)の版画家」江戸時代の浮世絵師を指していよう。

「大橋」固有名詞。現在の島根県道二六一号母衣町雑賀町線上にある大橋川に架かる橋。「松江大橋」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この時、芥川龍之介が見た「大橋」は最早、木橋ではないので注意が必要である。大橋は明治二四(一八九一)年にまさに龍之介の嫌悪する異様なトラス橋に架け替えられ(この橋と古い木橋のそれとを比較した小泉八雲(当時はまだラフカディオ・ハーン)は『しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた』と述べている。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』を参照されたい)、その後、明治四四(一九一一)年に鋼桁橋となった際、橋上が曾ての木橋のような擬宝珠を持ったものに擬似復元されたものであるウィキの「大橋(大橋川)」の記載からの推定)。

の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄も「神橋」現在の栃木県日光市上鉢石町山内の日光東照宮への参道に架橋されている、これ(グーグル・マップ・データ)。この橋は神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用されたもので、現在も一般人に通行は出来ず、一般参詣者や観光客は少し下流にある日光橋を通行する。これ(グーグル・ストリートビュー。向うに見えるのが「神橋」で、手前の何の変哲もないつまらぬ橋が龍之介の言う「醜悪なる鉄の釣橋」の後継橋である「日光橋」)。

「千鳥城」松江城の別称。既に登場しているが、ここで注しておく。講談社の「日本の城がわかる事典」によれば、松江城は『島根県松江市殿町にあった平山城(ひらやまじろ)』で、『江戸時代初期に幕府の山陰側の拠点として築かれた』。『関ヶ原の戦いの戦功により』、『出雲・隠岐』二十四『万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして』、慶長七(一六〇七)年『に松江の亀田山に築城を開始した。松江城が完成したのは』慶長一六(一六一一)年で五『層六重の天守閣を中心に』六『基の櫓(やぐら)を構えた近世城郭である。天守の鉄砲狭間(てっぽうはざま)、軒裏の石落とし、地階には籠城用の大井戸や兵糧蔵など、実戦を想定して築城されたことが随所にみられる。堀尾氏は』三『代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが』、『嫡子がなく断絶』、寛永一五(一六三八)年に『信州松本から松平直政』『が入封し』、以後は松平氏が十代二百三十年間に亙って居城し、『明治維新まで続いた』。明治八(一八七五)年に『有志らの奔走で天守閣は解体を免れたが、それ以外は取り払われてしまった。現存する天守閣の中で、姫路城、松本城、松江城だけが』五『層の天守閣を持っている。旧態をよく残し、山陰地方における代表的な近世城郭として国史跡に指定され、天守閣は国の重要文化財に指定された。天守、石垣、土塁』、『櫓台、堀などの遺構が整備され、発掘調査などをもとに』二〇〇一年には、『南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元された』とある。

「天主閣」高さは本丸地上より約三十メートルで、天守台上からは二十二・四メートル。

「天主閣は其名を示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物である」この芥川龍之介が断言するカトリックの「天主」が起源とするという天主閣(天守閣)の呼称の由来説は、その一つに過ぎず(織田信長が最初に命名したというのも一仮説の域に過ぎない。但し、天守閣様の構造物が城に造立されるようになるのは室町末期からではある)、決して定説ではないので注意。日本の「驚く可き」文化「同化力」を賞揚しようとする龍之介の一つの方便としては上手いとは言える。

「エキゾテイツク」exotic。異国の情緒や雰囲気のあるさま。異国的の。異国風の。

「天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである」この「可(べ)く」は「べくもないような」「べきものでは到底ないほどに」、則ち、「維新にヨイショした勤皇派の薩摩・長門(長州)・土佐・肥前(佐賀)の、そうした最下級の足軽ふぜいに理解出来るようなレベルの低い(薩長土肥の足軽の方々、御免なさい)ものではない」という特殊な用法である。

「日本の騎士時代」本邦の戦国以来の武士の時代を指すが、そこを敢えて「騎士」としたのは天守閣「天主」由来説をやはりサイドから賞揚するためである。

「偶像破壊者(アイコノクラスト)」iconoclast。原義は聖像(偶像)破壊者で、八~九世紀の東ヨーロッパのカトリック教会で起こった、聖人の画像礼拝の習慣を打破しようとした人々を指し、後に広く因襲打破を唱える因襲打破主義者を指す。元はギリシャ語由来。

「松平直政」徳川家康の孫であった松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)は上総姉ヶ崎藩主・越前大野藩主・信濃松本藩主を経て、出雲松江藩初代藩主として寛永一五(一六三八)年二月十一日、出雲松江十八万六千石及び隠岐一万四千石を代理統治へ加増移封されて国持大名となった。参照したウィキの「松平直政」によれば、『直政は』松江藩『領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい』とあるが、芥川龍之介の天守閣=天主説にはあんまり都合がよくないから、黙っておいた方がいいかしら?

「昭代(せうだい)」(現代仮名遣「しょうだい」)は前の「泰平」と同義。「よく治まっていて栄えている世の中・太平の世」の意。

「区々(くく)たる」小さくて、採るに足らないつまらぬ様子を言う。

「嫁ケ島」(よめがしま。現行は「嫁ヶ島」と表記)は島根県松江市嫁島町の西約二百メートルに位置する宍道湖唯一の島。全長百十メートル、幅約三十メートル、周囲二百四十メートルの小さな島で、約千二百万年前に噴出した玄武岩の溶岩から成る無人島である。参照したウィキの「嫁ヶ島」によれば、『島には弁財天を祀る竹生島神社の祠』(慶長一六(一六一一)年に堀尾氏第二代藩主堀尾忠晴が祭った)と鳥居(明治四〇(一九〇七)年に『琵琶湖疏水設計者の田辺朔朗が寄進)があり』、『周囲には松が植わっている』。昭和一〇(一九三五)年には松江出身の前内閣総理大臣『若槻礼次郎が数本の松しかなかった島に』二十『本の松の苗を植樹し』ている。現在は(芥川龍之介が嫌悪した)『消波ブロックとして、如泥石(松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる円柱形の来待石)で島の周囲が固められている』とある。『島の名は伝説(嫁ヶ島伝説)によるが、この伝説には姑にいじめられた嫁が湖で水死した際に水神が浮き上がらせたとする伝説など』、『いくつかの悲しい伝説が残されている』。「出雲國風土記」の意宇郡(おうのこおり)の『条においては「蚊島」と表記されて』おり、『当時は周囲が約』百十メートル『と今の半分ほどの大きさで、島の中央には径』七~八センチメートルほどしかない『木が一本生え』ているだけで、磯には『貝や海草が見られたとある』。夕陽の美しい『スポットとして知られて』いる。『島に続く東側の湖底には』、『周囲より少し高くなった水中参道があるが』、『江戸時代初期までは対岸の袖師に連続した玄武岩の岬があり、松江城築造に伴う石材として掘削され岬がなくなったと伝えられていることから』、『玄武岩の掘削跡による浅瀬である可能性もある』という。『松江城創建者の堀尾吉晴が天守閣からの眺めに感動して』、『嫁ヶ島を「湖中の一勝地なり」と評したのをはじめ、水郷松江のシンボルとして文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきた』。『松江市都市計画部都市景観課職員によると、松江城から嫁ヶ島を眺める線上には高い建物を建ててはならないという不文律があるという』。『大正初期に如泥石が防波堤として置かれた際には恒藤恭が新聞紙上で「この湖の礼儀にかなわぬ無作法漢」、「』四、五『本の松が小さな祠を護り、白い砂浜のはてに青葦が波に揺れる様こそ趣があった」、「やさしい島の面影が滅びてしまった」と批判』、『芥川龍之介も、「松江印象記」のなかで宍道湖の美しい景観を壊すものとして如泥石の防波堤を批判した』と、ここにまで井川と芥川のコンビとこの龍之介の文章までもが登場しているのが、すこぶる嬉しい! 『作家の丸谷才一も嫁ヶ島越しに見る宍道湖の落日美を「純粋に審美的な風景美」と評し、山崎正和も国内でも稀な「眺めるためにだけある島」であることを指摘し、吉田兼好の言葉を借りて「田舎の人はそばに行って手で触ったり足で踏んだりしないと納得しないが、その意味において都会的センスのある島」と述べ、丸谷、山崎両者ともに松江が洗練された趣味の町である証しとして、人があまり近づかなかった当時の嫁ヶ島の在り方を高く評価した』とある。

「一幅淞波誰剪取 春潮痕似嫁時衣」歴史的仮名遣で書き下すと、

 

 一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せんしゆ)せん

 春潮(しゆんてう)の痕(あと)は似たり 嫁時(かじ)の衣(い)

 

で、これは底本の後注によれば、永坂石埭(ながさかせきたい)(後注参照)が『松江の漢詩結社』であった「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」『の求めに応じて』結社名を巧みに詠み込んで『作った七言絶句「碧雲湖棹歌」の転結句』とある。そこに起承句が示されてあるので、全体を以下に示し、自己流で訓読する。

 

  碧雲湖棹歌

 美人不見碧雲飛

 惆悵湖山入夕暉

 一幅淞波誰剪取

 春潮痕似嫁時衣

   碧雲湖棹の歌

  美人見えず 碧雲 飛ぶ

  惆悵(ちうちやう)す 湖山の夕暉(せきき)に入るるを

  一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せつしゆ)するか

  春潮の痕(こん) 似たり 嫁時(かじ)の衣(きぬ)に

 

「碧雲湖棹の歌」の「碧雲湖」とは宍道湖の雅名で、そこに「棹(さおさ)すの歌」の謂い。……「美人」は先の悲劇の伝承の入水した「嫁」であり、「惆悵す」は「恨み歎く」、「湖山」は宍道湖とそれを取り囲む山並み、「夕暉」は夕陽(ゆうひ)、「淞波」は江蘇省の太湖から、長江に流れる淞江(呉淞江)の景勝(+結社名)に掛けたもので、当地松江をそれに擬え、宍道湖の松江に寄せる「波」としたものであろうと読む。しかもそれを「一幅」の山水画に譬えた趣向だろう、そうして「淞」から「松」で、その枝を「剪」る(+結社名の掛詞)、則ち、一幅の絵として全体からそれを切り「取」ることは――いや、あまりの美しさ故に出来ぬ――というのではないか? さても――春の潮の満ち引く、その浪の白い「痕」(あと)は、あたかも、嘗てここへ花「嫁」御寮(ごりょう)として幸せな思いで参った、悲劇の彼女の嫁入りの衣裳に似ているではないか――勝手な解釈であるからして、大方の御叱正を俟つ。

「石埭翁」医師で書家・漢詩人として知られた永坂石埭(弘化二(一八四五)年~大正一三(一九二四)年八月:本名は永坂周二。芥川龍之介は前年に亡くなった彼へのオマージュとしてこれを出しているのでもあろう)。尾張国名古屋出身。森春濤・鷲津毅堂に詩を学び、春濤門下の四天王に数えられた。明治七(一八七四)年頃に上京、神田お玉ケ池の梁川星巌旧居址に居を構え、「玉池仙館」と称して医業を開業した。書に巧みで、「石埭流」の名を恣(ほしいまま)にした(以上は日外アソシエーツの「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

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