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2018/01/15

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 三

 

    

 

 椀貸傳説の存在する地方には、往々にして借りて置いて終に返さなかつたのが是だと言つて、その一人前だけを持傳へて居る舊家がある。その物を見ると何れも模樣などの附いた立派な塗物であると云ふ。さうでなくても貸したのは多くは木具(きぐ)であつたと云ふが、德島縣だけには茶碗や皿を貸したことになつて居て、事に由ると其が素燒の氣味の良くない品であつたのかと思はれぬことも無い。飛彈の學者なども、昔は墓に其人の使用した臺所道具を埋めて居た所から、斯う云うふ話が起つたのかと説いて居る。しかし我々の祖先が木製の食器を用いて居たことゝ、木具の土中にあつては早く朽ちることゝを考へて見ると少し疑はしい。其よりも更に有力なる反對の證據は、膳椀を貸したと云ふ場所が必ずしも古墳ばかりでは無いことである。現に阿波でも家具の岩屋と稱して、この口碑を伴ふものに天然の岩窟が幾つもあり、假令天然で無くても墓穴では無い岩屋の中に、この話を傳へた例は各地に存するのである。

 例へば淡路の三原郡下内膳村先山の某寺で、あたかも上州館林の文福茶釜の如く、客來のある每に椀其他の雜具を借りたと云ふのは、天の磐戸とも稱した大洞穴であつた。淸めて穴の口に返して置けば何時の間にか取入れた。今から百六十年前の寛延年間まで貸したと云ふ。駿州吉原在にも膳を貸したと云ふ處が二箇所あり、[やぶちゃん注:底本は句点だが、ちくま文庫版で特異的に読点に訂した。]その一つは傳法村膳棚と云ふ畑地の中の小さな石塚、今一つは石阪と呼ぶ地の石の穴であると、山中共古翁は話された。美濃では稻葉郡古津村の坊洞、一名を椀貸し洞とも謂ふ村の後の山の下にある岩穴である。また一箇所は武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)の半腹に在る洞、この二つは後に水の神の話をする時に詳しく言ふ。越後では北蒲原郡加治山の一峰要害山と稱する山の半腹に在る窟で、其名を藏間屋(くらまや)と呼び、是は九十年前の文政年間まで貸していたさうである。ちやうど葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃には、まだ盛に實行して居たことになるのである。此岩窟は每年正月の元朝に震動し、山下の民其響の強弱によつて年の豐凶を卜したと云ふ説もあつて、頗る村の信仰生活と交渉して居る。能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである。

[やぶちゃん注:「淡路の三原郡下内膳村先山」現在の兵庫県洲本(すもと)市(淡路島の中央部)下内膳(しもないぜん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、この地区では両墓制(墓石のある「参り墓」と実際の遺体を埋葬する「捨て墓」の二つを有する墓制)が現在でも受け継がれているから、或いは、この「捨て墓」がこの「洞窟」なのではないかとも私には思われる

「某寺」同地区で大きな寺院は真言宗盛光寺であるが、柳田がわざわざ伏せた以上、軽々にこことは名指せないし、そのような「大洞穴」が境内にあるという資料もないから、或いは廃寺となった寺なのかも知れぬ。柳田が書いた当時で既に荒廃が著しく、存続が望めなかった有様なら、彼は「某寺」と言いそうな気もする。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「天の磐戸」確認出来ない。

「寛延年間」一七四八年から一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「駿州吉原」現在の静岡県富士市吉原。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「傳法村膳棚」現在の静岡県富士市伝法の内か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「石塚」「石阪」柳田先生、同伝法の字中村には伊勢塚古墳が現存しますぜ(ここ(グーグル・マップ・データ))! それに「いせづか」や「いしざか」は「いしづか」と発音も似てますぜ! これも偶然ですかねえ? 古墳だったとしたら、自然の「石の穴」じゃあ、ありませんぜ。さても、そもそもが柳田國男がこれを書いた頃には古墳時代以前の遺跡は殆んど学術的に精査されておらず、古墳なのに、ただの自然の洞窟や穴だと思われていたものが私は非常に多かったと思っている。されば、柳田が頻りに古墳でない場所の椀貸伝説を力説するこれらも、今は古墳やそれ以前の繩文や彌生の集落・住居・墳墓跡であった可能性が私は頗る高くなると踏んでいるのである。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「稻葉郡古津村」現在の岐阜市長良古津(ながらふるつ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。字坊ヶ洞が地名としては現存し、「坊ヶ洞山峰」「坊ヶ洞林道」の呼称もある。しかし、「村の後の山の下にある岩穴」の紹介は見当たらぬ。不思議。崩落して潰れてしまったのか?

「武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)」現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。

「北蒲原郡加治山の一峰要害山」現在の新潟県新発田市東宮内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藏間屋(くらまや)」不詳。

「文政年間」一八一八年から一八三一年。第十一代将軍徳川家斉の治世。

「葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃」葛飾北斎(宝暦一〇(一七六〇)年?~嘉永二(一八四九)年)の「北齋漫畫」は初編の序文によれば、文化九(一八一二)年秋頃に下絵が描かれており、文政より少し前であるから、正確な謂いではある。この謂いは、この要害山の蔵間屋の椀貸の絵を北斎が「北斎漫画」中に描いていることを意味するわけだが、私は所持していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像「山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 絵本の世界」(但し、一部)で見られるが、如何せん、目次や検索が出来ないので、暫く見て、諦めた。発見したら、リンクを張る。悪しからず。

「能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである」私は思うにこれは、私も何度か行ったことがある、現在の富山県氷見市大境にある「大境洞窟住居跡」のことではないかと考えているここ(グーグル・マップ・データ)。北直近に石川県の県境がある(因みに、この県境の鼻は「百海」と言って私の父の秘密の釣り場で、私もよく連れて行って貰った。人生で腐るほど鉄砲鱚を釣り上げたのもここだった)。そうして、その間の海岸の海水浴場の名を御覧な、「灘浦海水浴場」だろ? ということは、この洞窟のある大境は嘗て「灘の南村」と呼ばれてたんではないかい? 柳田國男さんよ!)。大境洞窟住居跡(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、六つの文化層を持つ繩文中期から中世にかけての永い時間をドライヴしてきた複合遺跡である。ウィキの「大境洞窟住居跡」によれば、『この住居跡は、氷見市大境漁港の近くにある白山神社裏手の洞窟内にあり』、大正七(一九一八)年に『社殿を改築しようとしたところ、骨や土器が出土した。その後、東京大学人類学研究室の柴田常恵らによって詳しい調査が行われ、縄文時代から中世にかけての土器、陶磁器や人骨、獣の骨が出土した。この時に実施された調査は、日本初の洞窟遺跡の発掘調査であるとともに、本格的な層位学的発掘調査の嚆矢となるものであった』(下線やぶちゃん)とある。柳田國男さんよ、これだとしたら、確かに元は自然の作った海食洞ではあろうが、これ、立派な人工の古代遺跡なんだぜ。天然自然の人の入らない穴ぼことは訳がちゃうんだ! まあ、許したろ。なんたって、この「隱れ里」は『東京日日新聞』大正七年二月から三月の連載だからな。鬼の首捕ったように、ここでこの洞窟を椀貸伝説の人工無抵触の自然洞窟として挙げてるあんたは、あんな辺鄙な糞ド田舎に、そんな繩文から中世に至る長大な時間軸を保持した洞窟文化があったなんて、これっぽっちも実は思ってなかったんじゃあないか? 正直に言いな! それがあんたの鄙を無意識に馬鹿にした中央アカデミズム的浅薄さだとは、これ、思わんかね?

いやいや! 癌はそんな根の浅い所にはない! この際だから、怒りついでに言っておこう!

あんたは《自分が民俗学の研究対象として採り挙げた対象を考古学者や歴史学者に横取りされるのが不快だった、されるんじゃないかといつも怖れていた》だけなんじゃないか?

寧ろ、《本来ならば学際的であるべき民俗学を、自分の学術領分として折口信夫と結託して勝手に線引きしてしまい、自分をアカデミックな数少ない新進の学問たる民俗学の「学者」として保身したかった》んじゃないのか?

そういうところをこそ、南方熊楠は痛烈に批判したんだよ。

《「伝承」を何より第一基本原理とし、自分の勝手で杜撰な解釈(思いつき)を伝家の宝刀のように思い込み、都合の悪いデータや性的な内容(こちらはお上を憚って)には、極力、目を瞑って見えないことにし、しかも、他の学問領域の科学的手法を積極的に自己の手法に組み入れようとはしないという、悪しきアカデミズムの領分・親分意識》

それが、日本の民俗学を、今のような鬼っこのような奇妙なものにしてしまったのではないか?

これだけはどっかで言っておかねばならない私の柳田國男への疑義なのである。

 同じ越中の西礪波郡西五位村大鳥倉には、少しばかり奇な一例がある。この村の山の上にも、近郷の民に器物を用立てたと云ふ深い洞穴があつて、その山の名をトカリ山あるいはカタカリ山またモトヾリ山ともいつた。かつて或農夫拜借の道具の立派なるに心を取られ、返却を怠つて居た者があつた。此家に生れた一人息子十五歳になる迄足立たず、夫婦之を悲しんで居ると、其年の秋の取入時に米俵を力にして始めて立つたので、悦びの餘りに更に一俵を負はせて見たら、其まゝすたすたと此山の方へ步み去り、跡を追ふも及ばず、終に洞穴の奧深く入つてしまつた。あつけに取られて立つて居ると、中では話の聲がする。一人が貸物は取つて來たかと問ふと、漸く元だけは取つて來たと答へた。これが元取山の名の起りである云々。

[やぶちゃん注:「西礪波郡西五位村大鳥倉」「モトヾリ」山現在の富山県高岡市福岡町(まち)五位(ごい)ではなく、その南東の高岡市福岡町鳥倉(とりくら)にある元取山(もとどりやま)。標高百九十五・七メートル。(グーグル・マップ・データ)。後半の展開が息子でなく馬という設定で今一つつまらぬ(その分、悲惨ではなくなりはする)が、フジパン」公式サイト民話の部屋の「伝説にまつわる昔話にあ富山県元取山(再話・六渡邦昭氏)も参照されたい。]

 

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