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« 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七 | トップページ | 芥川龍之介 手帳8 (21) 《8-24/8-25》 »

2018/01/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八

 

     

 

 椀貸穴を以て龍宮の出張所の如く見た例はまだ幾らもある。前に擧げた信州上伊那郡松島村の龍宮塚はその一つで、同郡勝間村の布引巖と共に、やはり證文を差し入れて人々は穴の中から色々の道具を借りて居た。其でも終に返却を怠つた者の爲に、中止の不幸を見たことは同樣で、現に村の藤澤其某方に持ち傳へた古い一箇の盆は、龍宮の品であると云ふ話であつた。愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川と云ふ處の民、常に龍宮から種々の器物を借りて自用を足して居た中に、或時皆朱(かいしゆ)の椀を借りてその一箇を紛失した爲に、亦貸すことが絶えたと云ふ。利根川の流域にも多くの椀貸古傳が分布して居るが、其上流の上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧の如きは、瀧壺が龍宮に通ずると傳へて、是にも膳椀の借用を祈つたと云ふ。翌朝その望みの食具を出して置かれたと云ふ大きな岩が、今でも瀧壺の上に在る。龍宮の乙姫此水に住んで村民を守護せられる故に、膳椀を賴んでも貸して下されぬやうな祝ひ事は、神の思召に合はぬものとして中止するので、乃ち若い男女等はこの瀧に來て緣結びをも祈つたと云ふことである。

[やぶちゃん注:「信州上伊那郡松島村」既注

「同郡勝間村の布引巖」サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌 下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用開始》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(この中央(グーグル・マップ・データ))。ストリートビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』るようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える

「愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川」愛知県新城(しんしろ)市門谷(かどや)鳳来寺にある鳳来寺山はここであるが、小字などを調べたが、「瀧川」は確認出来なかった。識者の御教授を乞う。ただ、調べるうち、竹尾利夫氏の論文「奥三河の口承文芸の位相―椀貸し伝説をめぐって―」(PDF)の中に、宝永四(一七〇七)年刊の林花翁著の地誌「三河雀」の「朱椀龍宮の事」という一条を引いておられるのを見出した(「三河文献集成・近世編上」が引用元。なお、恣意的に概ね漢字を正字化し、ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   *

鳳來寺の麓滝川と云所に住る民、常に龍宮より種々の器物をかりて自用をたしぬ、有時皆朱の椀を借り來て、壱 つの椀を失て返さざりしゆへ、その後は更に借す事なし[やぶちゃん注:ここに竹尾氏による『(後略)』の注記がある。]。

   *

これについて竹尾氏は、『柳田国男によれば、文献的に椀貸し伝説の確認できるものとして』、宝暦七(一七五七)『年刊の「吉蘇志略」や』、安政二(一八五四)『年の自序をもつ「利根川図誌」に所収の話を掲げるが、管見の及んだ限りでは』、この「三河雀」の記載『が、記録に見える椀貸し伝説の最も古いものかと思われる。したがって、『三河雀』等に見えるように、遅くとも近世初期には、椀貸し伝説が今日伝承されるような内容の話として成立していたものと判断される』と述べておられるのは、非常に貴重な見解である。柳田國男はこのような「椀貸伝説」の伝承の具体的な成立濫觴時制の考証や、一次資料としての提示確認をここ以外でもはなはだ怠っているからである。

「上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧」現在の群馬県沼田市利根町追貝にある著名な「吹割の滝」(正式銘は「吹割瀑」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。群馬県沼田市利根町老神温泉「吟松亭あわしま」(私はここに泊まったことがある)の「吹割の滝」の解説ページに、

   《引用開始》

吹割の滝は、その昔「竜宮」に通じていると信じられていました。そのため、村で振舞ごとがあるたび吹割の滝を通じて竜宮から膳椀を借りたそうです。お願いの手紙を滝に投げ込むと前日には頼んだ数の膳椀が岩の上にきちんと置かれていました。ところが一組だけ返し忘れてしまったことがあり、それ以来膳椀を貸してもらえなくなったそうです。今でもそのとき返し忘れた膳椀は「竜宮の椀」と呼ばれ大切に保存されています。

   《引用終了》

とある。リンク先は商業サイトながら、瀧を中心とした写真も豊富なので、ご覧あれ。]

 蓋し斯んな淋しい山奧の水溜りに迄、屢〻龍神の美しい姫が來て住まれると云ふのは、基づく所は地下水と云ふ天然現象に他ならぬ。天の神が雲風に乘つて去來したまふと同じやうに、水の神は地底の水道を辿つて何處にも現れたまふものと信じて居たのである。殊に山陰や岩の下から造り出る泉の、絶えず盡きず淸く新しいのを見ては、朝夕其流れを掬み又は田に引いて居る人々は、之を富の神、惠の神と考へずには居られなかつた筈である。椀貸傳説の終局が何れの場合にも人間の淺慮に起因する絶緣になつて居るのも、言はゞ神德に對する一種の讃歎であり、遠くは鵜戸の窟の大昔の物語に始まつて、神人の永く相伴ふこと能はざる悲しい理法を説明した古今多くの神話の一分派で、稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬのである。

[やぶちゃん注:「鵜戸の窟の大昔の物語」「鵜戸の窟」は「うどのいはや(いわや)」と読む。現在の宮崎県日南市大字宮浦にある鵜戸神宮。同社は日向灘に面した断崖の中腹の海食洞の岩窟内に本殿が鎮座する。神社としては珍しい「下り宮」の形態を採っている(これは海底の龍宮という異界へのアクセスを示すものと私は思う。祭神(後述)の母である豊玉姫はしばしば龍宮乙姫と同一視されるからである)。ウィキの「鵜戸神宮」によれば、『「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し』、主祭神の名の「鸕鷀(う)」(日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと):彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)後の引用を参照)『が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充て』たものであるという。「みやざきの神話と伝承101」の「鵜戸の窟」には鵜戸神宮の由緒として、以下のような神話を記す((アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

 その昔、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)は、兄・海幸彦から借りた釣り針をなくした。それを捜しに出掛けたワタツミノミヤ(海宮)でトヨタマヒメと出会い、結婚。ヒメは鵜戸の窟で出産することになり、急いで鵜(う)の羽の産屋がつくられた。

 ヒメはミコトに告げた。「私のお産の後、百日を過ぎるまでは、私も御子も決してのぞいて見てはいけません」

 しかし、ミコトはその百日が長く、待てなかった。見てはいけないと言われればなおさらである。ついに九十九日目に葺萱(ふきかや)の戸の間から、一割(ひとわれ)のたいまつをともして、産屋の中をのぞいてしまった。

 ミコトがそこに見たのは、ヒメの姿ではなかった。海宮では言葉で表せないほど美しいヒメが、今は十六丈(約四十八メートル)ほどの大蛇となり、八尋(約十二メートル)のワニ[やぶちゃん注:言うまでもなく、大鮫。]の上に乗り、御子に乳を与えている姿であった。

 ミコトは大変驚き、恐ろしくなった。一方、ヒメは自分の本当の姿をミコトに見られたことを恥ずかしく思い、海宮に婦ることにした。ミコトが言葉をつくして引き留めようとしたが、それもかなわなかった。

 ヒメは御子のために左の乳房を引きちぎり、窟の腹に打ちつけて帰っていった。今も残る「乳房石(おちちいわ)」がこれ。そして海宮への扉も閉じてしまい、海宮へ行くことはできなくなった。

 ヒメが自分の蛇身の姿を見られた恥ずかしい思いの炎と、わが御子への恋しいあこがれの炎、そしてミコトに愛別された情炎、この三つの炎は今も絶えることなく燃え上がっている。霧島山の御神火がそうだと伝えられる。

 その後、海宮からは海神の大郎女(おおいらつめ)のタマヨリヒメが遣わされ、御子の養育にあたった。この御子がヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコトである。地神第五の神で、人皇第一代の天皇である神武天皇の父神にあたる。

   《引用終了》

ここは私も叔父(私の母は鹿児島の出身である)に連れられて行ったことがある。海に面した非常に好きな神社である。

「稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬ」「他ならぬ」かどうかは微妙に留保するが、この比較神話学的解釈は面白いと思う。但し、「他ならぬ」と断言するのであれば、その照応性を核心から解かなければ説得力はない。]

 塚の底や窟の奧に隱れ住んで人民の便宜を助けたと云ふ靈物には、他にも色々の種類がある。加賀の椀貸穴で古狐が椀を貸して居たことはすでに述べたが、それよりもさらに意外なのは佐渡の二つ岩の團三郎貉である。二つ岩は相川の山續き、舊雜太(さわた)郡下戸(おりど)村の内で又二つ山とも謂ふ。岩の奧に穴があつて貉の大一族が其中に住み、團三郎は卽ち其頭目であつた。折々化けて町へ出で來たり人を騙して連れて行くこともあるので、島民は怖れて其邊へ近よる者も少なかつたが、彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある。一説に最初は金を貸しあまり返さぬ者があるので後に膳椀だけを用立てたが、其も不義理な者が多い所から終には何も貸さぬことになつたと云ふ。兎に角至つて富裕な貉であつた。佐渡は元來貉の珍重せられた國で、每年金山の吹革の用に貉の皮數百枚づゝを買上げたと云ふのは、彼等に取つて有り難くも無いか知らぬが、俚諺にも「江戸の狐に佐渡の貉」と言ふ位で、達者で居ても相應に幅が利いたと思われ、砂撒き貉の話なども遺つて居る。右の團三郎などは二つ岩の金山繁昌の時代に、日雇に化けて山で稼いで金を溜め、後次第に富豪となると言ふが、しかも金を貸すのに利子を取つたと云ふ話はない。越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺は後に長岡の城下へ移つたが、元の寺の裏山に天文の頃、團三郎の住んで居たと云ふ故迹がある。衆徒瑞端と云ふ者を騙したこと霹顯し、時の住職より談じ込まれて佐渡へ立退いたとも言へば、他の一説には寛文年中まで尚越後國に居たとも言ふ。龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある。團三郎二度目に惡い事をしたによつて、庄屋の野上久兵衞村民を語らひ、靑杉の葉を穴に押込んで窮命に及ぶと、彼は赤い法衣を着た和尚の形をして顯れ來たり、段々の不埒を詫びてその夜の中に佐渡へ行つてしまつた。其跡は空穴となつて彼が用いた茶釜折敷(をしき)の類の殘つていたのを、關係者これを分取して今に持傳へて居る者もあると云ふ。

[やぶちゃん注:「佐渡の二つ岩の團三郎貉」「貉」は「むじな」。であるが、ここでは狸(たぬき)の異名。この団三郎狸は私の特に偏愛する佐渡の妖怪の親玉で、昨年の三月には、この団三郎を祀った二ツ岩神社へも行った(ブログ記事参照)。私の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」・及び同書の「窪田松慶療治に行事」「百地何某狸の諷を聞事」・「井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事」などの本文と私の注を是非とも参照されたい(同書は作者不詳(但し、佐渡奉行所の役人と考えてよい)で安永七(一七七八)年成立の佐渡に特化した怪談集である)。この中の二話と同一の話柄は根岸鎭衞の「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」にも載せられている(リンク先は私の古い電子化訳注)。

「彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある」辻正幸氏のサイト「狸楽巣(りらくす)」内の「禅達貉の伝説」(この禅達は団三郎の配下の化け狸の名であるが、子分のやることは親分の指示と考えてよかろう)に山本修之助編著「佐渡の伝説」の引用があり、そこに「膳椀を貸した善達貉」という話が載る。

   *

 徳和の東光寺にいる善達貉は、禅問答で有名だが、また膳椀を貸した話もある。

 むかし、人のおおぜいが集まる時には、膳や椀がたくさん必要であった。

 そんな時、この善達貉の棲む岩穴の前で、お願いをすると翌朝はかならずお願いしただけの膳や椀を揃えてくれた。そして、使ったあとは、かならず、その岩穴へ返さなければならなかった。

 村の人たちは、長い間。その恩をうけていた。

 その後、ある時、つい膳椀を返さない者があった。

 それからは、いくらお願いしても善達貉はかしてくれなかった。

   *

この東光寺(曹洞宗)は新潟県佐渡市徳和に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田は後に「妖怪談義」(昭和三一(一九五六)年刊)に載せる「團三郎の祕密」(初出は昭和九(一九三四)年六月発行の『東北の旅』)でも団三郎の金貸しの件に触れて、その後に別の膳椀貸しの話を述べているが、散漫な記述で読むに足らない。

「吹革」これはちくま文庫版全集では「ふいご」とルビする。「鞴」である。金の精錬に欠かせない。だから、もともといなかった狸(狐は現在もいない)を幕府は佐渡に持ち込んだのである。

「砂撒き貉の話」佐渡郡赤泊村(前注の徳和の近く)にある辻堂坂を夜通ると、砂を撒くような音がし、それは「砂撒(すなま)き狢(むじな)」の仕業だ、とする話が、「国際日本文化研究センター」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに載る。柳田はやはり後の「妖怪談義」に載る「小豆洗ひ」の中でもこの話にごく僅かに触れているが、これも読むに足らない。

「越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺」現在の新潟県長岡市日赤町に現存する浄土宗の寺。ウィキの「法蔵寺(長岡市)」によれば、『「日本歴史地名大系」では』応仁二(一四六八)年『に、妙見村の会水城主である石坂与十郎が三河国赤坂宿(現在の岡崎市)の法蔵寺の僧侶である入誉白鸚を招いて六日市で開創した。一方で』、『「大日本寺院総覧」では』、享禄四(一五三一)年に『越後国古志郡出身であった入誉が石坂氏の招きに応じて』、『帰郷して開山したとしている』。『その後、蔵王堂城主により蔵王に移転し、さらに長岡城築城に伴って、元和年間中に長岡城下の上寺町に移転するが、城地の都合で現在地に再々度移転した』とあって、柳田の言う事蹟は必ずしも当てにならないことが判る。されば、「元の寺の裏山」というのも本当にあったのかどうか、怪しい。団三郎伝説のプレ話であるが、私は誰かが後代に創作した可能性が高いように思う。とすれば、団三郎伝説の原型を考察する上では、この話は百害あって一利なしである虞れさえあることを述べておく。

「天文」一五三二年から一五五五年.

「衆徒瑞端」不詳。そもそもこの本土新潟での団三郎の話、ネット検索を掛けても、柳田以外の叙述が一向に出て来ない。団三郎が佐渡に渡る以前に新潟でこんな悪事を働いていた、それが露見して佐渡へ逃げた、という基本話柄が、事実、佐渡渡島以前に確かに本土に存在していたならば、それが今ではまるで知られていないということ自体、これ、おかしなことではあるまいか? ますますこの話、私は信じ難い。柳は年号まで出して妙に詳しく書いているが、一体そのソースはどこにある(あった)のか? 団三郎ファンとしては是非とも知りたい。御存じの方は、是非、御教授下されたい。

「寛文」一六六一年~一六七三年。佐渡金山の発見と開発開始は慶長六(一六〇一)年のことである。但し、戦国時代に現在の金山の山の反対側の鶴子銀山(佐渡鉱山の中でも最古とされる)で銀の採掘がなされていた。また「今昔物語集」の巻第二十六には「能登國掘鐡者行佐渡國掘金語第十五」(能登の國の鐡(くろがね)を掘る者、佐渡の國に行きて金を掘る語(こと))という段があり、佐渡で金が採掘出来ることは十一世紀後半には知られていたことが判っている(ここはウィキの「佐渡金山その他に拠った)。

「龍昌寺」新潟県長岡市六日市町にある曹洞宗のそれか。(グーグル・マップ・データ)。そんな以下に示された具体な話も今は伝わらないようである。ますます不審である。

【2018年11月2日追記:藪野直史】退屈な日常に埋没している人間たちに見放された私でも、愛しい妖怪たちは忘れずにいて呉れた。本朝、メールを開くと、中の一つに、昨日の逢魔が時に送られてきたメールがあった。開いてみると、最後に《
団三郎狢の子孫より》とあったのだ!!! 以下、ここに関わる諸情報を当の、実に! 今も生きておられる団三郎狢の末裔の方が(これは実はおちゃらけた比喩ではないのである。以下の本文を見られたい)、確かな今に残る私の愛する「団三郎狸」の情報を寄せて下さったのだ! 以下に、メール全文を示す。

   《引用開始》

初めまして 石坂与十郎の検索で貴ホームページを拝見し、団三郎狢の伝説の情報をお探しのようでしたので連絡いたしました。

六日市地区には団三郎狢の伝説が確かに存在します。記録としては柳田氏も資料として多用している明治二三(一八九〇)年頃の「温故の栞」が上げられ、昭和一一(一九三六)年の「古志郡 六校会 郷教育資料」にも同様の内容で記載されています。

しかし、「温故の栞」には龍昌寺以下の内容は書かれていません。柳田氏はどこで採取されたのかわかりませんが、野上久兵衞家は現存します。千手観音堂を護持する旧家で武家の出身の伝承を持っています。また、団三郎狢伝承の故地には石仏がありますが、団三郎狢の住処の穴の場所は伝わっていません。しかしながら、地元には式内三宅神社の伝承に祖神が来臨した「鎮窟」が存在し「鬼の穴」として近郷に有名です。

『龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある』とありますが、「窟」と呼んでいるので、この「鎮窟」の可能性が高いと思われます。また当家は龍昌寺裏に「狢屋敷」の字名を持つ山林を所有していますが、恐らく伝説に関する故地と思われます。

地元には他にも弥三郎婆、猫又、カワウソ、カッパ等の伝説伝承が豊富ですが、未開の遺風だと勘違いして誰も関心持たないのです。地元の式内社の伝承すら興味が薄いのですから。それが表に出ない最大の理由です。

団三郎、弥三郎、甲賀三郎、伊吹弥三郎は、いずれも「三郎」を名乗る魔性の者ですが、いずれ、人間に違いありません。

製鉄と穴は「三郎」に共通で、古代の山の民(国津神)の末子相続制を表したものでしょう。

また地元の猫又の伝承は甲賀三郎のものとほぼ同一で、地下の異界往来譚となっています。山幸彦の伝承の山バージョンです。神仙思想を山の民が先行して受容したことの記憶でしょう。

団三郎狢に興味を持って頂いて有り難いです。更にご興味があれば追って資料を提供いたします。よろしくお願いいたします。

団三郎狢の子孫より

   《引用終了》

これは恐らく現在、望み得る至上の真摯な情報と見解で、読みながら、手が震えた。ここへ掲げて、深く謝意を表するものである。]

 越後の寺泊から出雲崎へかけての海岸では、春から秋のあいだの晴れやかな夕暮に、海上佐渡の二つ山の方に當つて雲にも非ず藍黑き氣立ち、樓閣城郭長屋廊下塀石垣などの皆全備して見えることがある。これを俗には二つ山の團三郎の所業と言つたさうである。相川の町などでも團三郎に連れられて彼が住む穴に入つて見た者は、中の結構が王公の邸宅の如く、家内大勢華衣美食して居るのに驚かぬ者はなかつた。ある醫者は夜中賴まれて山中の村へ往診に行き、此樣な立派な家は此邊に無い筈だがと思つて居たが、歸宅後段々考えてみて始めて二つ岩の貉の穴だつたことを知つたと云ふ話もある。或は又此穴の中の三日は浮世の三年に當ると云ふ浦島式の話もある。或は又此仙境で貰ひ受けた百文の錢は、九十九文まで遣つても一文だけ殘して置けば夜の中に又百文になつて居て、其人一生の間は盡きることが無いと云ふ話もある。主人公が貉であるばかりに特に珍しく聞えはするが、他の部分に於ては長者の福德圓滿を語り傳へた多くの昔語りと異なる所が無いので、其れではあまり變化らしくないとでも考へたものか、穴の中で見て來た事を人に語ると立處に命を失うと云ふ怖い條件を一寸添えてはあるが、しかも右申す如く既に世上の評判となつて居るのだから何にもならぬ。

[やぶちゃん注:以上の話は、概ね、先にリンクさせた私の「佐渡怪談藻鹽草」に尽きており、本土から見た佐渡に蜃気楼が見え、それが団三郎によるものだとする話柄もよく知られた話である。アカデミストの柳田國男は知られていない怪談集を一次資料として示すのを躊躇ったものかも知れぬ。尻の穴の小さい男だ。]

 

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