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2018/01/27

芥川龍之介 手帳9 (3)

 

○足の非常に長い蜘蛛(胴ハ淡褐也) ハジキ飛バセシニ足ダケ一本疊の上ニ動イテヰル

[やぶちゃん注:これはまず、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目ユウレイグモ科 Pholcidae の幽霊蜘蛛類(世界で約八十属、記載種は凡そ千種で、本邦では八属十八種が確認されている)であると比定してよい。さらに、頭胸部と腹部の(これを一体で「胴」と表現しているのもユウレイグモに相応しい。頭の先が狭く、腹部との間のくびれもあるにはあるが、腹部は長円形で一定の距離で見ると、一見、棒状・桿状・胴体状に見えるからである。特に不気味に思ってよく観察しようとしなければ、なおのこと、一つの「胴」のように見える)色が淡いこと、及び屋内であることを考えると、その中でも高い確率でユウレイグモ属イエユウレイグモ Pholcus phalangioides であろうと私は思う。教員になり立ての頃、数年暮らした鎌倉岩瀬の山家のアパートには室内外に無数にいた。脚を震わせてユラユラと覚束な気に動く姿はまさに幽霊そのものであった。]

 

○宿屋で植木屋が二三人茶をのんでゐる そのそばを通る 皆默る それだけでも不快なり

○⑴猿(寫生用)雌黃を食はんとす 少し食へば下痢 多く食へば死 ⑵鷄 卵をうむ時學校中さがしまはる ⑶七面鳥は牝牡と價異る(モデル賃)牡を借りしに卵をうむ

[やぶちゃん注:美術学校か美術研究所での実話記録であろう。されば、晩年最も親しかった盟友で画家の小穴隆一の記憶かも知れぬ。彼は太平洋画会研究所出身で、かの中村不折に師事している。

「雌黃」(しおう(現代仮名遣):orpiment)は第一義的には砒素の硫化鉱物で「雄黄」「石黄」とも呼び、中世ごろまでは画材の黄色顔料として広く利用されたが、毒性があるため近現代では使用されなくなったのでこれは違う。されば、これはやはり黄色顔料として画材として用いられたガンボージ(gamboge)の別名としてのそれである。インド原産のキントラノオ目フクギ科フクギ属ガルシニア・モレラ Garcinia morella からとった黄色の樹脂である(辞書類ではキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae に属する植物であるとするが、紀井利臣著「新版 黄金テンペラ技法:イタリア古典絵画の研究と制作」(二〇一三年誠文堂新光社刊)の「題二章 工程と製作」に載る記載(グーグルブックスを使用)に従った)。黄色絵の具として日本画などで用いられ、「草雌黄」「藤黄(とうおう)」などと呼ばれ、東アジアでは数百年以上も昔から絵具として使用された歴史がある。主としてインド、中国、タイ等に自生するから採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われ、日本画にも盛んに使用された。主として水性絵具・揮発性ニス・金属ラッカーの用途がある。紀井氏の解説によれば、『有毒で、非常に辛い苛烈な味がすると言われ、古くから漢方薬として』も使用されたとあり、さらに、『水練りにして使用しますが、練る指先に傷がないように注意して下さい』とある。他のネット記載では、現在は毒性はないとするものもあるが、強い成分があることは確かで、鶏が多く食えば頓死するというのは腑に落ちる。なお、現在、通常の黄色絵具は化学顔料にとって代わられつつある。]

 

○十三人の子を産んで家出せし妻 世間――十三人も子のある癖に 妻――十三人も子を生せられただけでもやり切れない

○障子へ戸の穴より風景映る

○歷史上の人物を一人づつ書き如何に作者がその人物を愛し或は敬してゐるかを示すもの

○河童國――遺傳的義勇隊

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された、知られた怪作「河童」(リンク先は私の電子テクスト)の「四」に出る、ポスターに(斜線は改行)『遺傳的義勇隊を募る!!!/健全なる男女の河童よ!!!/惡遺傳を撲滅する爲に/不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!」』とあるのに、主人公が『僕は勿論その時にもそんなことの行はれないことをラツプに話して聞かせました。するとラツプばかりではない、ポスタアの近所にゐた河童は悉くげらげら笑ひ出しました。』『「行はれない? だつてあなたの話ではあなたがたもやはり我々のやうに行つてゐると思ひますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令孃が運轉手に惚れたりするのは何の爲だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的に惡遺傳を撲滅してゐるのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合ふ義勇隊ですね、――ああ云ふ義勇隊に比べれば、ずつと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思ひますがね。」』と返されてしまうシークエンスの内容の構想メモである。]

 

○孝子 性欲的に母を慰む

[やぶちゃん注:これは遺稿の「侏儒の言葉」の、

   *

 

       或孝行者

 

 彼は彼の母に孝行した、勿論愛撫や接吻が未亡人だつた彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

 

   *

及び、「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」の中で、「僕」が「アナトオル・フランスの對話集」と「メリメエの書簡集」を買い、

   *

 僕は二册の本を抱(かか)へ、或カッフェへはひつて行つた。それから一番奧のテエブルの前に珈琲の來るのを待つことにした。僕の向うには親子(おやこ)らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等(ら)は戀人同志(こひびとどうし)のやうに顏を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等(ら)を見てゐるうちに少くとも息子は性的(せいてき)にも母親に慰めを與へてゐることを意識してゐるのに氣づき出した。それは僕にも覺えのある親和力(しんわりよく)の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例(れい)にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陷るのを恐れ、丁度珈琲の來たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讀みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフォリズムを閃かせてゐた。それ等(ら)のアフォリズムは僕の氣もちをいつか鐵のやうに巖疊(がんじやう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱點の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飮み了つた後(のち)、「何でも來い」と云ふ氣になり、さつさとこのカッフェを後ろにして行つた。

   *

というシークエンスにも生かされている。私のブログ版の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者』も内容がダブるが、是非、参照されたい。]

 

1七面鳥 2寫眞機 3アンマ 4This キリノ box? 5本屋? 6八百屋の禁煙 7風呂 8畫の古びる話 9畫を描いてゐるうちに風景のかはる話(壁 庭木 人物)

[やぶちゃん注:「4」はよくメモの意味が判らない。「これっ切りの箱」か「この桐の箱」か。もっと謎解きがあるか?]

 

f, m, f sister ― Frühling ヲ感ズ à la Maupassant.

[やぶちゃん注:「f」はfemale、「m」はmale(孰れも英語)であろう。

Frühling」はドイツ語(音写:フリューリンク)で「春」の意。

à la Maupassant.」フランス語で「モーパッサン風に。」。]

 

○利休と太閤

[やぶちゃん注:これは面白いものが出来たであろうに。惜しい。]

 

○濱田彌兵衞 德川家康 老いたる人形

[やぶちゃん注:「濱田彌兵衞」(はまだ やひょうえ 生没年不詳)は江戸初期の朱印船の船長。長崎出身。寛永四(一六二七)年に発生した「タイオワン事件(ノイツ事件)」の実行者。二百八十八年後の大正四(一九一五)年に贈従五位されている。ウィキの「浜田弥兵衛」によれば、『寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領』(一六二四年)、『ゼーランディア城を建て』(Zeelandia:熱蘭遮城:現・安平古堡:私の「女誡扇綺譚 佐藤春夫  一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の注を参照されたい)、『この地における交易には一律』十%『の関税をかけはじめた』。寛永四年、『長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツ』(Pieter Nuyts 或いは Nuijts 一五九八年~一六五五年)『を人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功した』とある。事件については、遙かに先行する「芥川龍之介 手帳4-16~18」の「臺灣事件」の私の注を参照されたい。

「老いたる人形」意味不明。]

 

○寫首筋竹石 目遊瘦石枯槎上 心寄寒秋老翠邊 寫罷茶經踏壁眠 古爐香嫋一糸煙 新羅山人

[やぶちゃん注:「新羅山人」(?~一七五六年頃)は清代の画家で既出既注。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。以下、自己流で訓読しておく。

 

   古樹・竹石を寫す

 目は 瘦石(さうせき)枯槎(こさ)の上に遊び

 心は 寒秋の老翠(らうすゐ)の邊りに寄す

 茶經を寫すを罷(や)め 壁を踏みて眠る

 古爐(ころ)の香(か) 嫋(じやう)として一糸煙(いつしえん)

 

「枯槎」は老樹の枯れた差し出た複数の枝の謂いか。「茶經」は唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書を指すか。「壁を踏みて」超し掛けて足を上げ、壁を足の裏で踏み押さえて、の意でとった。「嫋」嫋(たお)やか。]

 

○木こり夫婦 負傷 七階より飛び下る男

error のある事卽ち humanity ない事は divinity or machinery.

[やぶちゃん注:「divinity」神性。]

 

Saint for his virtue. We for our sins. 不公平も甚し

[やぶちゃん注:「彼の持つ美徳ゆえの聖人。その罪によって在る私たち。」か。]

 

手紙をかく Psy.

[やぶちゃん注:「Psy.」は「psycho」で精神病患者の意と思われる。]

 

○アンマ アンマの妻――二等を知る話 上機嫌

[やぶちゃん注:当時の列車の二等車のことか。]

 

○障子より光まつすぐにはひる 蠅光りつつ來る

○水陸洲 税關官舍 傳家洲 英國領事館 湖南 廣東 黃興 宋教仁 支部亡國紀念會 秦力山 湖廣總督 張之洞 武昌の兩湖書院

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』に掲載され、後、生前最後の創作集の題名ともなった「湖南の扇」の構想メモ(リンク先は私の注釈附き電子テクスト)。

「水陸洲」湖南省の長沙城の西の湘江の中にある砂州である水鷺州の俗称。古くは橘洲と言い、現在、その古名が長沙市岳麓区橘洲として駅名や公園名に復活しているのが判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「傳家洲」前の橘洲の北にある砂州。岳麓区傅家洲村。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は橘洲と橋で繋がっていることが航空写真で判る。

「黃興」(一八七四年~一九一六年)は一九一一年十月十日に清の武昌(現在の湖北省武漢市武昌区。ここ(グーグル・マップ・データ))で起きた、辛亥革命の幕開けとなる兵士らの反乱事件である「武昌蜂起」を指導し、孫文ともに辛亥革命の革命家として双璧を成す人物。南京臨時政府陸軍総長兼参謀長。長沙出身。

「宋教仁」(一八八二年~一九一三年)は清末民初の政治家。武昌蜂起に参加し、湖南省都督府代表となったが、後に袁世凱と対立、革命組織を改組した「国民党」を組織し、事実上の党首として活躍したが、袁世凱のヒットマンによって上海で暗殺された。湖南省桃源県出身。

「支那亡國紀念會」日本へ亡命していた革命家章炳麟(しょうへいりん 一八六九年~一九三六年)。孫文や後に出る秦力山と親交を深めた彼が、明治三五(一九〇二)年に東京で開催しようとした、正しくは「支那亡國二百四十二年紀念會」のこと。ウィキの「章炳麟」によれば、「支那亡國」とは『南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は明崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより』、『満州王朝への復仇心の扇動を計画した。会の宣言書は章炳麟が起草したが、その内容は革命遂行を提唱するものであった。清国公使の要請により』、『明治政府は当日になって紀念会の開催を禁止したが、これ以後』、『在日留学生の多くが排満革命に靡き、革命結社が続々と結成されるようになった』とある。芥川龍之介は中国特派の旅で、上海で彼に逢って親しく対談している。「上海游記 十一 章炳麟氏」を参照されたい。

「秦力山」(しんりきざん 一八七七年~一九〇六年:本名は秦鼎彝(ていい))は湖南省長沙出身。鞏黄(きょうこう)とも称した。戊戌政変(一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター)後、一九〇〇年に唐才常の自立軍に参加し、安徽大通蜂起を起したが、失敗、日本に亡命した。『國民報』を発刊したが、病気のため、二十九の若さで亡くなった。

「湖廣總督」清の地方長官の官職で湖広省(湖北省・湖南省)の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。

「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)清末の洋務派官僚。曽国藩・李鴻章・左宗棠とともに「四大名臣」の一人に数えられる。彼は直隷(現在の河北省)南皮の出身であるが、湖広総督となっている(在任は一八八九年八月から一八九四年十一月まで)。主に武漢を拠点に富国強兵・殖産興業に努めた。

「兩湖書院」書院は各省がその省都に設立した学問所。政府から経費を割り当てて教師と学生に食費を供給した。書院の学長は師長と呼ばれ、本省人かそうでない外省人かは不問であった。武昌のここは張之洞が一八九〇年に建学したものである。]

 

the Curious Love of Precious Stones.

[やぶちゃん注:「美しい貴重な石に対する奇妙な愛」であるが、これは、次に名が出る、アメリカの鉱物学者 George Frederick Kunz(ジョージ・フレデリック・クンツ 一八五六年~一九三二年)が一九一三年(初版)に刊行した、ざっと見では、貴(稀)石や石造文化に関わる評論書らしい。私が小泉八雲の原文探しでよく使う“Internet Archive”のここで原書が読める。]

 

the Magic of Jewels & Charms (George Frederick Kunz)

[やぶちゃん注:ジョージ・フレデリック・クンツの一九一五年刊。「宝石と御守りの魔術」か。作者は前注参照。]

 

○戊戌の變 譚嗣同 詩的 畢永年 僧になる 哥老會 湘潭

[やぶちゃん注:ここもやはり「湖南の扇」の構想メモ。

「戊戌の變」先に注で出した戊戌政変。一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター。

「譚嗣同」(たんしどう 一八六五年~一八九八年)は清末の思想家。湖南省劉陽出身。初め、科挙を志したが、日清戦争を契機として西欧思潮に接することで、古い学問を捨て、康有為・梁啓超らの説く変法自強の主張に共鳴、梁啓超を湖南時務学堂に迎えて、長沙に南学堂を建てて同志を集め、『湘報』を出すなど、革新運動に没頭した。「戊戌の新法」の際、招かれて四品卿軍機章京となって活躍したが、戊戌政変が勃発、約百日にして西太后派に敗れ、亡命の勧めを断って、北京の菜市で刑死した。所謂、「変法派」の中では最もラディカルな立場をとり、死後、日本で刊行された主著「仁学」では、あらゆる儒教倫理の破壊を主張している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「畢永年」(ひつえいねん 一八六九年~一九〇二年)は長沙出身の革命家。譚嗣同と親しく交わり、革新を目指す集団の連合の一つである「興漢會」(ここに記されている湖南のた馬福益を頭目とした「哥老會」と広東の「三合會」が連合したもの。但し、結局、互いに理解し合えず、組織としては有名無実に終わった)の結成に深く関わった人物であったが、病気のため、三十三で若死にしている。ここで、是非、気がついて貰いたいことがあるそれは「湖南の扇」の中で、芥川龍之介らしき主人公を長沙で迎える、主人公と『同期に一高から東大の醫科へはいつた留學生中の才人』の名である。彼は『譚永年(たんえいねん)』なのである。これはまさに実在した政治革新を目指して処刑された「譚」嗣同と、彼に共鳴した愛国の革命家であった、この畢「永年」の名をカップリングしたものなのである。なお、以上は劉耕毓(リュウ ゲンギュウ)氏の非常に興味深い論文『「湖南の扇」論―中国革命との関連をめぐって―』(PDFを大いに参照させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

「湘潭」現在の湖南省中東部、長沙の南の湘江上流に位置する湘潭市。唐代に湘潭県が置かれ商業都市として発展し、「米市」「薬都」と呼ばれ、また、蓮の栽培が盛んなことから「蓮郷」とも呼称され、現在は毛沢東の出身地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○曾國藩 瞿鴻機 紅牌樓 小西門外(日本人) 赭石砂岩層

[やぶちゃん注:「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家で学者。弱体化した清軍に代わる湘軍を組織して「太平天国の乱」の鎮圧に功績を挙げた。一八六八年には漢人として初めて地方官最高位である直隷総督となった。先に挙げた「四大名臣」の一人。湖南省湘郷県出身。「湖南の扇」の冒頭に彼の名は出るが、以下のメモは現行の作品自体とは関係がない。

「瞿鴻機」(くこうき 一八五〇年~一九一八年)は清末光緒年間に軍機大臣・政務大臣などを歴任した人物。湖南省長沙府善化県出身。翰林院(勅書の起草・国史編纂担当部署)編修にも就いており、詩も残しており、文化人でもあった。辛亥革命後に上海に逃れ、その後、病死した。ここは書道用品会社「トモナリ」公式サイト内の「中国墳墓」の記載を参考にさせて戴いた。ここ、写真入りで解説もしっかりしており、なかなか見応えがある。

「紅牌樓」四川省成都市武侯区に紅牌楼という街はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小西門」不詳。台南にならあるが。]

 

○フランネル(鼠+靑) 袖口よごる 背廣茶のコオル天のズボン 黒タイ 額脂うく 金齒 顏に目金の影

[やぶちゃん注:「コオル天」英語のコーデュロイ corduroyの転訛語で、フランス語の「コルド・デュ・ロア」(corde du roi:皇帝の紐)から出たとも、corded velveteen(畝(うね)織りのビロードの意)からともある。「天」は「天鵞絨(ビロード)」の略である。パイルで縦畝(たてうね)を表わした織物で、畝幅は通常二~三ミリメートルを基準とする。繊維は綿で、地組織は平織・綾織。用途は婦人子供服・背広上衣・ズボン・足袋・椅子張地など。

「目金」「めがね」。眼鏡。]

 

○はんぺん さつまあげ つみいれでごさい アンケサツ

[やぶちゃん注:「つみいれ」摘入。「つみれ」のこと。魚の擂り身を適宜に丸めて茹でた「摘み入れ蒲鉾(つみいれかまぼこ)」の略。

「アンケサツ」不詳。「サツマアゲ」をひっくり返した「揚げ薩摩」か。]

 

○時計を炬燵へのせると熱で暖まりぐるぐるまはる

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