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2018/01/13

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 始動 / 「一」

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」



Akutagawaragyouikawaga

[やぶちゃん注:芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷手を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しをつけた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(従って「松江印象記」という題名は芥川龍之介自身によるものではないと考えるべきである)。この芥川龍之介の書いた部分は、実は私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』(正字正仮名版)として電子化している。ちなみに、この時が「芥川龍之介」という筆者名を用いた最初であり、この折りの水の町松江の印象は芥川の決定的な文学的原風景として残ることとなったと言ってよい。本篇はその芥川龍之介の文章も含めた井川恭著「翡翠記」の全篇の電子化プロジェクトである。「翡翠記」は最後まで読んで戴くと判るのであるが、これ、全体が、実は、井川恭の親愛なる無二の友芥川龍之介への、非常に繊細にして幽遠なオマージュの形式を採っている作品である。なお、題名の「翡翠」は作中、井川が見かける、松江の濠を翔る翡翠(かわせみ:鳥綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)を指すのでルビを振っていない点、以下の底本などでも読みを一切問題としていない点から考えても、「かはせみ(歴史的仮名遣)」(現代仮名遣:かわせみ)ではなく、「ひすいき」と読んでいると採る。「ひすい」はそれでも第一義が鳥のカワセミの雌雄を指すから、何ら、音読みして問題ないからである。

 芥川龍之介の畏友井川(恒藤)恭(いがわ(つねとう)きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年:井川は旧姓。婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江に、旧津和野藩士士族の出であった島根県庁の官吏で郡長も勤めた井川精一(漢詩人でもあり、号を雙岳と称した)の第五子次男として生まれた。後に法哲学者で法学博士となった。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べている)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。なお、私は先日(二〇一八年一月二日)、恒藤の「友人芥川の追憶」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』(「芥川龍之介追悼号」:芥川龍之介自死(昭和二年七月二十四日)直近の翌々月号)初出)も電子化している

 底本は一九九二年寺本喜徳編島根国語国文会刊によって復刻された井川恭著「翡翠記」を底本とした。但し、これは新仮名遣・漢字新字体表記・編者によるパラルビ化が施されたものである。私のポリシーから言うと、歴史的仮名遣で漢字は正字としたいところであるが、原本を持たないから、底本に従った。但し、癪なので、編集権への抵触を避けるためにも、ルビは私が必要と判断したもののみに限った。踊り字「〱」は正字化した。一部にストイックにオリジナル注を附した。

 芥川龍之介の書いた部分は、先に示した通り、私の作成した正字正仮名版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』があるので、そちらも、こちらと合わせて併読されんことを強くお薦めする。

 なお、冒頭に掲げたスケッチは、底本の見開きの著者と書名の下に、編者によって恒藤恭「急友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)より転載された、井川恭がこの旅(大正四(一九一五)年八月)の途中の出雲海岸で描いた「裸形の芥川龍之介」のスケッチ画である。【2018年1月13日始動 藪野直史】]

 

 

  翡翠記

 

               井川 恭


     

 一年振りにふらりと松江に帰って来た。

 あらゆる身の周囲の物たちは、それぞれに遠慮無く自己の存在を主張して、僕のあたらしい生活のうちに一角の領域をつくり始めた。

 わけも無く十日あまり経ってしまった。そのあいだに僕の心は、此旧くて新らしい環境に対してぴったりと調子を合せながら思うところへ動いて行く工夫を重ねて、いつかしら巧みな成功を贏(か)ち待ていた。

 この環境には到るところに豊富な「時間」が充ちていた。他(ほか)に贅沢を為る途を知らない僕の心は、このゆたかな賚賜(たまもの)を思いの儘に使って奢侈(おごり)をこゝろみる方法を考えついた。

 人口が無暗に膨張し、生産が止め度も無く過剰と成って、労力も貨物(かぶつ)も次第に低い価値(あたい)に見積られる傾向の在る今の世の中では、伸縮の融通の利かない時間と云うものゝ価値は殊に高かる可き筈である。斯(こ)う考えて見ると「時間の賛沢」に金箔が附いて大変ありがたいものを授りでもしたように愚かな心が得意に成った……「日長うして太古の如し」と歌った昔の人は疾(と)うからそんな奢りに馴れていたのだに。

 斯うした奢りに思いあがった心がいつしか周囲の物にしっくりと調子が合うように成った気楽さに自己表現を求めはじめた――斯うしてこの一篇はうまれ出したのである。

 だから時間と云うものを分秒の微に圧搾して出来得るだけ充実した収穫をおさめたいと考えるような人たちは決してこの記録を読んでいたゞかないが好い。と――斯うおろかな心が僭越にもつぶやいている。[やぶちゃん注:太字「しっくり」は底本では傍点「・」。以下で違った傍点が用いられるので注意。

 でも、そうは云うものの自分だって現実に対する執着からまったく脱離したと云うわけでは無い。むしろ反対に現実を強く緊(し)っかりと把握し度い為に、時間の観念の強迫から逃れ出ようとあせっているのであると――斯うその後から愚かな心が弁解がましいことを附け加え度がる。[やぶちゃん注:「度がる」「たがる」。]

 かの夏艸(ぐさ)は茂り度いだけ茂る。この記録は、かき度いだけ記(か)くと――再びそれに続けておろかな心は我儘な言い草を言う。

 こんな事を呟く愚かな心は現在の境遇に置かれる前一と月ばかりの間と云うものは、或る事情からして重い且つ苦しい圧迫の下(もと)に喘いで渇ける者が水を求めるように 「時間」の欠乏のことばかり考えていた。

 その事情とは多くの人には経験があるであろうが、他でも無い試験というものであった。やがてその圧迫は取り除かれたが、根がおろかな心のことであるから、忽ち嚮(さき)の「時間」の不足になやんだ境遇を忘れてしまって贅沢な真似を為はじめた。しかもいろいろの勝手な理屈をそれに附け加えて安心しようと努めて居る……愚かなこゝろよ!


 

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