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« きみ遠く去るにかも似ん…… | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(2) 二 哺乳類の前肢 »

2018/01/06

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 二

 

     

 

 是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である。すこしづゝの異同に由つて分類をして見ると、第一に氣がつくのは讃州の大子殿の如く、その地に神樣があると云ふ點である。靜岡縣島田驛から一里の上流、笹ケ窪の楠御前と云ふのは、楠の茂つた森の中の祠であつた。此祠でも願によつて膳椀を貸したと云ふ。立派な朱の家具であつて、其が知らぬ間に宮の前の岩の上に置いてあつた。謝禮には竹の筒二つに酒を入れて社へ捧げたとあつて、僅ながら借賃を收められた珍しい例である。同縣安倍郡安東村のワンバコ樣は、熊野神社の東にある社地一坪ほどの小さな祠であつたが、やはり住民が膳椀に不足する場合に、借用の祈願すると翌朝必ず效驗があつたさうである。此地は靜岡市の郊外で、明治三十年に練兵場を設けた際、斯程の神樣を村の西谷某方の稻荷に合祀して、型なしにしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である」と云うのは誤りである。彼が挙げる古墳絡みの伝承の中には、現在のその古墳周辺に「椀貸伝説」があるからである。後で述べるように、柳田國男は古墳或いはその出土品と「椀貸伝説」を古い在野の研究者が結び付けていることを嫌っているから、こんないい加減なことを言っているとしか私には思えない。以下の私の柳田への批判を参照されたい。

「笹ケ窪」現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「楠御前」不詳。現存しないか。

「同縣安倍郡安東村」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「熊野神社」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「西谷某方の稻荷」近い位置に現存する稲荷は三加番(さんかばん)稲荷神社であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、ここは現在、安東ではなく、東草深町であり、本文の謂いから見ると、「西谷某」という個人の屋敷内の稲荷へ合祀したと読めるから、ここではないと思われるものの、この神社、調べてみると、祭神が保食大神(うけもちのおおかみ)で、これは伊勢外宮に奉祀する豊受大神と同神で、食料と衣料を司る神であるから、或いは? とも思われた。郷土史研究家の御教授を乞う。]

 

 ワンバコサマは後の埼玉縣の例を見ても分る如く、文字に書けば多分椀箱であらう。貸すのは神樣であつたらしいが、これも讃州と同樣に塚が一つあつて、櫻の古木がある爲に櫻塚とも呼んでいたさうである。神樣が塚に據られると云ふことは近頃餘り言はぬことであるが、此種の話に限つて塚があるのは注意すべき第二の點である。例へば飛彈吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町の龜塚一名椀塚、長野縣では上伊那郡松島の龍宮塚、富山縣では射水水戸田村大字市井の甲塚、三重縣では安濃郡曾根村東浦の椀塚、德島縣阿波郡西林村の箭塚、美馬郡郡里(こほさと)村友重の双塚等、何れも似たり寄つたりの昔話を語り傳へ、人の心が不正直になつた故に、今では貸さなくなつたと云ふこと迄が同じである。

[やぶちゃん注:「飛彈吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町」現在の岐阜県高山市国府(こくふ)町広瀬町。ここ(グーグル・マップ・データ)。「龜塚」「椀塚」という呼称は確認出来なかったが、この地区の南東部に「こう峠口(こうとうげぐち)古墳」(ひらがなはママ)という、築造推定六世紀後期とされる全長七十二・七メートルもある(飛彈地方最大で石室の大きさでは県下最大級)前方後円墳があり、鴻ノ宮遺跡・度瀬遺跡・広瀬石橋遺跡・広瀬十王堂遺跡・作料遺跡が約一キロメートルの間に連なっているから、思うに、ここ(グーグル・マップ・データ)がそれなのではないかと私は推定する。私は「ワンバコサマ」は古墳から出土した古墳時代の土師器(はじき:弥生土器の流れを汲む素焼きの土器)・須恵器(陶質土器。青灰色で硬い)がその伝承の濫觴の一つであると思っている。実際、以下の注を見て戴くと判るが、多くの「ワンバコサマ」伝承地が、古墳或いは古墳近くであるからである(事実、次の段落で柳田國男もそういう古い説を紹介している。但し、彼はそれを疑わしく思っていることが軽くいなした言葉の端からはっきり判る。「蝸牛考」での方言周圏論や非科学的な「海上の道」論なんどで都合のいいデータだけを提示し、自身の直感は大事にする癖に、他者の意見は常に留保し眇めで見る――明治のアカデミストの正体がよく判るというもんだ)

「上伊那郡松島」現在の長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島か。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴くと判るが、同地区の北北西の箕輪町中箕輪には松島王墓古墳があり、サイト「龍学」内のこちらに「龍宮塚の椀貸穴」として出るから、ここが確実にそれである。そこに昭八(一九三三)年山村書院刊の岩崎清美「伊那の伝説」よりの引用で(一部に私が推定で読みを補った)、

   *

中箕輪村松島の北の端(はず)れに瓢形(ひさご)の古墳があって、これを王塚と称して居る、敏達天皇の皇子頼勝親王の墓だと伝えられて居るが、それは分らない。その傍(かたわら)に龍宮塚と称(よ)ぶ小さい塚があって、その蓋石(ふたいし)の下が穴になりそれが龍宮まで届いて居ると云うのである。お客のある時、龍宮へ頼んで入用の膳椀を貸して貰うので大へんに重宝がられて居た所、一度借りたお椀を毀(こわ)したままで返さなかったために、それからは如何に頼んでも貸して呉れぬようになったと云って居る。

   *

とある。「敏達天皇」(五三八年~五八五年)は欽明天皇の子で第三十代天皇。「頼勝親王」不詳。別名松島王とする。

「射水水戸田村大字市井」現在の富山県射水(いみず)市市井(いちのい)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「甲塚」(「甲」はちくま文庫版全集に『かぶと』とルビ)は確認出来ないが、調べてみると、同地区の南の端に富山県史跡指定された大塚古墳という円墳があるの中央附近と思われる。グーグル・マップ・データの航空写真)。横穴式石室で五世紀頃の造立と推定され、高さ約六メートル、直径約三十五メートルある。ある解説によれば、明治時代にはこの近くに別に五基の古墳があった(大正期までに消滅)ともあるが、円墳と「甲塚」という呼称は相性がよい

「安濃郡曾根村東浦」三重県津市安濃町曽根。ここ(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「阿波郡西林村」現在の徳島県阿波市阿波町の南西の一角。この附近(グーグル・マップ・データ)。「箭塚」(ちくま文庫版全集に『やづか』とルビ)は確認出来ないが、調べると、同阿波町北岡には北岡西及び東古墳という円墳があることが判った。サイト「古墳マップ」の北岡東古墳の方の解説によれば、直径約十五メートル、高さ約五メートルで、埋葬空間は墳丘南東側に開口する両袖型の横穴式石室で、玄室部は天井を前後から斜めに持ち送る構造(段の塚穴型)になっており、近くの北岡西古墳とともに「段の塚穴型石室」の分布の東限となっているとある。この塚は次の段落でも語られている。「箭塚」の呼称は或いは出土した副葬品に鏃があったからではなかろうか。

「美馬郡郡里(こほさと)村友重」徳島県の旧美馬(みま)郡郡里町(こおざとちょう)で、現在の美馬市美馬町の東の半分に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「双塚」というのは恐らく美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある二基の古墳、国指定史跡の「段の塚穴」のことである。この古墳は、孰れも古墳時代後期(約千四百年前)につくられたと推定されるもので、約二十五メートルの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳を「太鼓塚古墳」、西の小さい古墳を「棚塚古墳」と呼んでいると「美馬市」公式サイト内のこちらに地図入り・写真入りで、ある。二つが「双」(なら)ぶ「塚」であるから、これは間違いない。]

 

 たしかハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」に、佛蘭西にも塚に賴んで鍋を借りて居たと云ふ話があつたと記憶する。小人が人間の無心を聽いて名劍を鍛へてそつと出して置くと云ふのも、多くは塚の邊であつたやうである。しかも日本だけの話で見ると、いわゆる椀貸の話が古塚に伴ふのは、その塚に口が開いて居た爲であるやうにも見える。例へば阿州などでは、少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る位で、現に右に申す西林の箭塚の如きも、元祿中まで椀を貸していたと云ふにも拘らず、百餘年前の著書に「瓢形にして後部に塚穴あり」とある。郡里村の双塚も亦二つの塚穴であつて、その中に以前は二つの髑髏があつたと云ふ。其他麻植郡森藤村の塚穴、那賀郡日開野(ひがいの)村の塚穴等、食器を貸したと云ふ話が古くからあつた。そこで阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である。

[やぶちゃん注:『ハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」』イギリス・ロンドン生まれの民俗学者エドウィン・シドニー・ハートランド(Edwin Sidney Hartland 一八四八年~一九二七年)のThe science of fairy tales : an inquiry into fairy mythology(「妖精物語学――妖精神話に就いての研究」。一八九〇年)。原著ならば「Internet Archive」のこちで画像で読める(フル・テクスト版も有り)。ざっと探しては見たが、原文では私には到底、歯が立たなかった。

「阿州」阿波国。徳島県。

「少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る」徳島ではないが、南に接する観音寺市坂本町には、まさに「椀貸塚古墳」という公式名の古墳さえ存在する。同市公式サイト内のこちらを参照。そこにはしっかり、昔話「椀貸塚伝説」の地としても知られている、とある。

「元祿」一六八八年から一七〇四年。

「百餘年前の著書」柳田にしては不親切。出典が記されていないので確認しようがない。「百餘年前」とあり、本論文は大正七(一九一八)年の作であるから、(かんせい)は天明・寛政・享和頃の作となる。出典を御存じの方、御教授を乞う。

「麻植郡森藤村」徳島県の旧麻植(おえ)郡森藤(もりとう)村で、現在の吉野川(よしのがわ)市鴨島町(かもじまちょう)森藤。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区にも三谷古墳・城ヶ丸古墳・向原古墳・壇古墳群がある。また、ここは銅鐸の出土地でもある。

「那賀郡日開野(ひがいの)村」現在の徳島県阿南市日開野町(ひがいのちょう)。(グーグル・マップ・データ)。この町の中央に鎮座する王子神社は数基の古墳からなる王子山古墳群がもとである。

「阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である」前の段落の私の柳田國男を批判した注を参照のこと。私は実際に使ったか使わなかったを問題にしているのではない。古えに塚を暴いたところ、立派な須恵器などを見つけて使用していたが、罰当たりなことと考えて戻した。そうした事実を濫觴としてこの伝承が形成されたと考えることが、何故、「一寸」「尤もらしく」は「聞える」が、何とも好事家が考えそうな巷説であると(少なくともここでは)柳田は言いたい口振りではないか。如何にもインク臭いいやらしい言い回しではないか。]

 

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