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2018/01/03

老媼茶話拾遺 菊渕大蛇

 

老媼茶話拾遺

 

 

     菊渕大蛇

 

 大猷院樣御代とかや。本多作左衞門と云(いふ)人あり。三千石を領す。大力武勇の人たりといふとぞ、大(おほい)に變りたる者也。御役義御免(おんやくぎごめん)の御願(おんねがひ)、申上けるに、御免なかりければ重(かさね)て願申出(まうしいだ)し、

「私、年寄(としより)、老衰仕(つかまつり)候へば、殿中へ罷上(まかりあが)り立居(たちゐ)不自由にて候まゝ、御免下され遊ばされましきなれば、女の手引、御免。」

にて、夫(それ)よりして、美女二人、召連(めしつれ)、登城いたしける。

 此節、將軍樣御出頭(しゆつとう)の大名衆へ、諸大名何(いづ)れも、追從(ついしやう)進物、品々贈られける間、彼(さく)作左衞門家長(おとな)の者、作左衞門へ申樣、

「時世の習ひにて、御出頭御大名方へ、折節、御勤被成候(おんつとめなされ)樣に。」

と申(まうし)ければ、作左衞門きゝて、

「其方、申分、尤(もつとも)也。」

とて、赤鰯十疋藁苞三拵(こしらへ)、一ツは松平伊豆守信綱へ持參し、久世大和守廣元へ持行(もちゆき)、殘り一は酒井讚岐守忠勝の玄關へ自ら持行(もちゆく)。

 取繼を以て、

「是式(これしき)、如何に候へども、身、不肖の某(それがし)ぞんじながら、御不音(ぶいん)仕(つかまつり)候。宜しく御執成賴入(おとりなしたのみいり)候。」

と、いかにも丁寧に謹(つつしみ)て申ける。

 取次の士、かねて、

「作左衞門、天下に隱(かくれ)なき變人也。」

と聞及(ききおよび)し間、赤鰯の藁苞を臺に居(すゑ)、主人の前へ持行(もちゆき)、

「本多作左衞門殿、御自身御持參にて、玄關に御控(おひかへ)御座候。」

よし、申ける。

 忠勝、聽て打笑(うちわらひ)、書院へ通し、對面し、

「作左衞門殿、不入(いらざる)御進物に預(あづかり)候。御志(おんこころざし)、過分にて候。」

と、のたまふ。

 作左衞門、手をつき、首(かうべ)を下げ、

「我等、天性輕薄を存不申(ぞんじまうさず)候まゝ、上樣へ御執成(とりなし)申上る人御座なく候まゝ、似合(にあひ)の御奉公仕(つかまつり)候へども、かやう小身(しやうしん)に罷在候。乏少(ばうせう)進物を致(いたし)、かやう御賴申(おたのみまうす)も如何(いかが)候得ども、此(これ)已來(いらい)、我等身上(しんしやう)の儀、宜敷(よろしく)御とりもち被成(なられ)下され候へ。賴入(たのみいり)候。」

と申す。

 忠勝も、相應、取合(とりあひ)申され、作左衞門、返されける。

 其後、作左衞門、上野(かうづけ)の内へ所替(ところがへ)仰付(おほせつけ)られ、入部(にゆうぶ)しける所に、老たる百姓を召(めし)よせ、懇(ねんごろ)に教戒しけるは、

「我、今、此所に主(ぬし)と成(なり)、我は汝等をたのみ、汝は我を賴むべし。一日片時(かたとき)も主從と成(なる)事、宿緣(しゆくえん)、淺からず。然(しかれ)ども、善惡の賞罪は天下の大法(たいはう)也。少しの罪と云(いへ)ども宥(ゆる)すべからず。少善(せうぜん)と云ども稱すべし。若(もし)、我領内、善惡によらず、民の損益と成(なる)事有(あら)ば、早速、申出(まうしいだ)すべし。」

と云付(いひつく)る。

 百姓ども、謹(つつしみ)て承り、工夫致し、しばらく有りて申けるは、

「此所上野の内にて上田地(じやうでんち)にて候。旱魃(かんばつ)のせつは、向(むかふ)の山の北岸に菊渕(きくぶち)と申(まうし)て廣大の大沼、御座候。是より所々の田地、伏樋(ふせどひ)致し、水を取候間(とりさふらふあひだ)、天下大旱魃の節も、旱魃の愁(うれひ)、是なく候ひしが、八、九年程以前、此沼、水、湧上(わきあがり)、大風雨・震動・雷電仕る事、七日、其後、大蛇、住(すみ)て、水を引(ひき)候事は扨置(さておき)、沼岸へ寄(より)候者は取喰(とりくらふ)。よつて、人畜ともに恐(おそれ)候(さふら)いて、一里四方へ參り候者、なし。旱(ひでり)の節は旱魃に逢(あひ)し、亦、菊渕の主(ぬし)、祟(たたり)して、七月七日には、かならず大風雨いたし申候。」

と、くわしく是を語る。

 作左衞門、巨細(こさい)に聞屆(ききとどけ)て、

「汝等、菊渕へ道しるべせよ。とかく我(われ)、直(ぢき)に行(ゆき)て、事の樣子をうかゞひみるべし。」

と云(いふ)。

 百姓ども、うけ給り、

「畏(かしこま)り候得ども、只今申上候通(とほり)、最早、八、九年、誰(たれ)にても行(ゆき)て沼をみ候もの、無御座候(ござなくさふらふ)。一里四方へ、大木(たいぼく)、透間(すきま)もなく生茂(おひしげり)、晝も眞闇(まつくら)にて、晝夜の分ちもなく候よしうけ給り傳(つたへ)候斗(ばかり)にて、道もしかじか存不申(ぞんじまうさず)候。爰(ここ)に九十餘の老翁、御座候。此者、道を存候。彼(かの)者を案内に御連被成(おつれなされ)候へ。」

といふ。

 作左衞門、則(すなはち)、件(くだん)の百姓を召連(めしつれ)、明日、菊渕へおもむく。

 道すがら、岩山、峨々として、山路、險阻(けはし)く、大木、幾く重(へ)ともなく生茂(おひしげり)、古木は風に倒(たふれ)、道、塞(ふさぎ)、蔦楓(つたかえで)いぶせく、やうやう、沼に近付(ちかづく)事、十町斗(ばかり)にして、彼(かの)老人、蹲踞(ひざまづき)、作左衞門に申けるは、

「私、御道しるべ仕る事、是迄にて候。是より奧へ行(ゆき)候者、二度かえり來(き)候事、無御座候(ござなくさふらふ)。御自分樣にも是迄にて御歸候へ。」

と云(いふ)。

 作左衞門、聞(きき)て、

「尤(もつとも)也。其ほう、私宅へ歸るべし。沼端(ぬまはし)へ行(ゆき)、直(ぢき)に沼主(ぬまぬし)に對面すべし。事なくば鐵砲を打放(うちはな)すべし。鐵砲の音、響(ひび)かせば、其折(そのをり)、供の者ども、來(きた)るべし。」

とて、拾兩の鐵砲、みづから肩にかけ、彼(かの)沼岸へ行(ゆく)。

 供の士ども、是非なく、

「供せん。」

といゝけるを、強く留(とどめ)て、只壱人、菊渕へ行(ゆき)みるに、聽(きく)より猶、廣大無邊の大沼にして、水色、藍(あゐ)のごとく、水底(みなそこ)の限り知るべからず。

 岸には、年舊(としふる)大杉・大松、いやが上、生茂(おひしげり)、大盤石、聳へ立(たつ)。

 所は深山(みやま)の奧なれば、鳥の鳴(なく)聲も絶(たえ)て、獸(けもの)の通(かよ)ひもなし。

 作左衞門、沼岸に突立上(つつたちあが)り、大音(だいおん)あげ、申(まうす)やう、

「武藏の國の住人、本多作左衞門橘(たちばなの)輝景、此度、當將軍樣より此地を賜(たまはり)、爰(ここ)に來(きた)れり。此(この)沼主(ぬまあるじ)、大蛇に對面せん。其(その)正體を顯はし爰に出(いで)よ。」

と呼(よばは)る。

 時に、山谷、鳴りどよみ、雨風、大(おほい)に吹荒(ふきあれ)て、水底、鳴(なり)はためく事、夥しく、一浪(ひとなみ)、ゆり出(いで)て、岸を洗(あらふ)。

 黑雲につれて、二丈斗(ばかり)、まつくろなるもの、虹の如く立上(たちあが)り、銅(あかがね)のごとくなる眼(まなこ)を見張(みはり)、口をひらき、舌をひらめかし、作左衞門に向ふ。

 作左衞門、少(すこし)も騷がすして申樣(まうすやう)、

「某(それがし)、汝を平(たひら)げんとて來(きた)るにあらず。其方、年久しく此沼に住と聞(きき)、對面の爲、來れる也。左樣のあらく冷敷(すさまじき)形(かた)ちにては、一言もまじへ難し。別に姿をかへて出(いづ)べし。我におゐて、少しも害心(がいしん)、なし。」

といふ。

 大蛇、聞受(ききうけ)たる氣色(けしき)にて、則(すなはち)、水底へ沈(しづみ)、五十四、五才斗(ばかり)なる勿體(もつたい)らしき男に變じ、上下(かみしも)・大小にて出)いで)て、作左衞門に對面す。

 作左衞門、躇据(ひざまづき)、

「扨、自由自在神變不思儀を得玉(えまた)へり。此後(こののち)は此(この)山岸に社を建(たて)、『菊渕大明神』と祝ひ、四時(しじ)、祭禮致(いたす)べし。我(わが)守護神と成(なり)、武邊長久に守らせ給へ。但(ただし)、其(その)形(かた)ち、至(いたつ)て輕少に其(その)本體を顯し、我(わが)手の中(うち)へ居(を)りたまへ。謹(つつしみ)て拜(はい)し奉らん。」

とて、手を差出(さしいだ)しければ、詞(ことば)の下より一寸斗(ばかり)の金龍と成(なり)て、作左衞門が掌の上へ蟠(わだかま)

 作左衞門、敬しておし戴(いただき)けるふりをして、大口を明(あけ)、唯(ただ)一口に嚙(かみ)くらひ、其後、又、大音上(おんじやう)、

「此沼主、出(いで)よ。對面すべし。」

と、數度、呼(よばは)るに、答へるもの、なし。

 作左衞門、相圖の鐵砲打(うち)ければ、供の者ども、我先にと駈來(はせきたる)。

 作左衞門、申樣、

「我、先刻より、沼の大蛇に對面せんと幾度か呼(よば)われども、別に變りたる事なし。汝等、又、同音に呼わるべし。」

と、皆皆、

「沼岸の大蛇に對面せん。」

と幾度(いくたび)か呼われども、別に變りたる事、なし。

「汝等、猶、又、同音に呼わるべし。」

と、皆皆、岸沼にたちならび、山谷(さんこく)、響(ひびか)し、大音聲(だいおんじやう)に呼わりけれども、何の別事(べつじ)なかりければ、

「扨は。此沼に大蛇の住(すむ)と云(いふ)は僞(いつはり)也。」

とて、杣人(そまびと)を入(いれ)、菊渕のあたり、一里餘り、生茂りたる大木を伐盡(きりつく)し、道を造り、水口(みなくち)を開(ひらき)、旱魃の節、用水に用ひけれども何の怪(あやし)みもなかりしといへり。

 彼(かの)作左衞門、御殿中へ女の手引連(つれ)られし、といふは僞りなるべし。然ども人の物語の儘、爰に記すのみ。

 

[やぶちゃん注:本話と同じ手法によって魔を封ずる(魔を喰らってしまう)類話は非常に多い。本「怪奇談集」でも幾つか電子化している。

「菊渕」底本は敢えて「渕」の字を用いており、これは原典が「淵」ではなく「渕」の字を用いているから推定して、ママとした。なお、この沼は「上野」とあるからには群馬県内と思われるが、不詳である。

「大猷院樣御代」大猷院は第三代将軍徳川家光(在職:元和九(一六二三)年~慶安四(一六五一)年)の諡号。

「本多作左衞門」不詳。家康に仕えた同姓同通称の本多重次がいるが、時代が合わない。

「家長(おとな)」作衛門の家老格の重臣。

「松平伊豆守信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主で老中(寛永一〇(一六三三)年六月に老中に任ぜられ、寛永一五(一六三八)年十一月に老中首座)。

「久世大和守廣元」不詳。或いは、「久世」で「大和守」から時代的に見て下総関宿藩主で若年寄、後に老中(寛文三(一六六三)年)となった久世広之(慶長一四(一六〇九)年~ 延宝七(一六七九)年)か。彼は寛永元(一六二四)年に将軍徳川家光の小姓となっている

「酒井讚岐守忠勝」(天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)は武蔵川越藩第二代藩主で、後に若狭小浜藩初代藩主。家光から次代の家綱時代の老中・大老。寛永元(一六二四)年十一月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となり、寛永一五(一六三八)年十一月に土井利勝とともに老中を罷免されて、大事を議する日のみの登城を命ぜられ、これが後の「大老」職の起こりとなった

「是式(これしき)、如何に候へども、身、不肖の某(それがし)ぞんじながら」謙遜の辞。自身が変わり者で礼儀を弁えぬ人間であることを明確に述べている。

「不音(ぶいん)」しかるべき挨拶や、節季の贈答などがないことを指す。

「我等、天性輕薄を存不申(ぞんじまうさず)候まゝ」拙者は、天性の自分の驚くべき軽薄さを自分自身、全く理解しておりませぬままに、この年までずうっとやって参り、といった卑称表現であろう。

「似合(にあひ)の御奉公」そうした知り合いもなき軽薄者に分相応なる御勤めを頂戴し。

「乏少(ばうせう)」如何にも贈答品として少なく、不十分であること。これは赤鰯では事実なだけに謙辞ではない。

「上野(かうづけ)の内へ所替(ところがへ)仰付(おほせつけ)られ」石高は変わらないし、農民が「此所」は「上野の内にて上田地(じやうでんち)にて候」と言っているから、不利な所替えではないようである。

「伏樋(ふせどひ)」地表面に接して蓋をした或いは地中に木製用水路を通したのであろう。

「巨細(こさい)」こと細かく詳しいこと。

「十町」一キロ九十一メートルほど。

「御自分樣にも是迄にて御歸候へ」道案内はしたものの、古老は作左衛門の命を慮って、ここで引き返すことをも薦めたのである。

「拾兩の鐵砲」銃自体の重さとしてはあり得ない軽さである(三百七十五グラムにしかならない)。「拾」の前に数字が脱字しているのではなかろうか?

「二丈」六メートル強。

「水口(みなくち)を開(ひらき)」菊渕(沼)に旱魃時のための、伏樋のようなちゃちなものではなく、本格的な緊急用水の掘削を行い、大規模な用水路と、そこからの取水口を設置したのであろう。]

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