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« 芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十五」 | トップページ | 芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種 »

2018/01/21

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十六」~「翡翠記」全電子化注完遂

 

    二十六

 

 雨がふりしきるので僕たちは一の床まで下りてそこの亭(ちん)の竹椽のうえにあがって行厨(べんとう)をひらいた。雨をしぶく山かぜが襦袢一枚の身に沁みて寒さが肌へ透る。

「斯う成ると常福寺入道の汗くさい襦袢もありがたいわ」と弟が首を縮(すく)めて笑った。

「寒いなあ。これでも幾らか足りに成るだろう」と言いながら僕が行厨を包んで来た風呂敷を頸から肩に巻き付けると、龍之介君それに倣(なら)うた。

 風に吹かれて白い雲はちぎれちぎれに飛んでいた。大きい水盤に一杯に張った水の面を誰かが戯れに息を吹き吹き曇らしているように湖水のうえは晴れたりくもったりした。ある時は雲の群れが山や谷間を躍り越えおどり越えて迫って来ては、すっかり山を包んでしまった。

「あの黒い杜(もり)が天倫寺の山、左りに続くのが荒隈(あらわい)の松原、それから手前にぽっちり見えるのは此間行った摩利支天(まりしてん)の丘だよ。あの辺から毛利の軍勢が繰り出して、田の畔(くろ)や藪のかげをとおって攻め寄せたんだね」

「こゝから好く見えたろうな。併しまったく景勝の地だね。天主閣から見下すのから見ると、この眺めは大分大規模だね」

「だが寒いね。いやにさむいね」と寒がらずには居れなんだ。

 スケッチなんかやっている内に雨が止み間になったので三人はびちゃびちゃぬれた草履(ぞうり)をふみながら山を下りはじめた。雨の雫を一杯に宿した草の葉末が脛(すね)にあたって痒くてたまらない。

 雲を洩れて来るうすい日の光はほそぼそと伸び繁る艸の穂先にほのかに光って、黙って山を下りて行くものの心にさびしい懐古の情をみなぎらせた。折々左手(ゆんで)の山の背の灌木の茂みのあいだから黄鶯(うぐいす)の声が湧いて静かな谷間に流れた。忘れられた人が忘れた人にむかしの恋をうったえる歌のひびきがその声のうちに籠っていた。

 弟は眼に触れる草花を折り折り山を下った。萩や桔梗や女郎花(おみなえし)やくずの花やがその手にあまるほど摘まれたころには僕たちは既にとおく麓に下りていた。常福寺に帰ると和尚さんは松江に出て留守であった。三人は本堂の広稼に裸のまゝ涼んだ。僕たちの為にわざわざ御飯を炊いて昼飯の用意がしてあったけれど、もう弁当をたべたあとなので、それならと言って梵妻(ぼんさい)さんは素麺(そうめん)の御馳走を出した。僕たちはお腹(なか)が太いので弟が代って三人分のそうめんをぞろりと呑んだ。給仕に出た女がすゝめる好意を無にしかねて龍之介君はしよう事なしに皿の南瓜(とうなす)や油揚げをたべた。

「どげだい寺は精進料理で不味(まみ)ないだけんお口に合いませんわね。そんなら此漬物なりとあがってごしなはいませ。旦那はんやつが漬物はお寺の羊羹(ようかん)だててみんな賞翫(しょうかん)しなはいますけん」とすゝめて置いてその女は土瓶を持ってお湯を注しに行った。

「なる程お寺の羊羹は美味(うまい)ぜ」と僕は年を経たらしい瓜の奈良漬の味をほめた。

「お寺の羊羹か。はゝゝゝ」とわらいながら弟は片っ端から奈良つけや沢庵をたいらげはじめた。

「南瓜(とうなす)はおてらの饅頭で油揚はお寺のカステラなんだろう」とわらって来たので誰れもおかしいのを堪えて顔を見合わせた。雨はあがって涼しい風が本堂のなかに通っていた。三人の巴陀迦尊者(はだかそんじゃ)は各自(めいめい)思い思いの行動を取りはじめた。龍之介君は仏像や仏画をスケッチして入念な顔に仕立て上げた。弟は下手な鯱鋒(しゃちほこ)立ちのけい古をはじめた。僕は睡眠不足の頭を広椽の茣蓙(ござ)のうえにころがしてすずしい午睡を貪ろうとこゝろみたが、仏縁拙なくして夢は香はしい果(み)をつかれた頭脳のなかに結ばなかった。

 四時すぎる頃三人は山門を出てぶらりぶらり帰り途をたどり始めた。粟の毬(いが)がたく山枝から覗いている山際に沿うて魚(はえ)の群れのはしり泳ぐ小川の岸を径はうねっている。その小川の浅い流れの底をのぞいては魚を捕ってやろうかなと何辺もつぶやきながら歩んだ。

 

     附  記

 朝の湖水(みずうみ)のあなたの山際に一とすじのほそい煙が白く立ちのぼるのを俥の上からながめながら、大橋を渡った僕は今停車場の一隅(いちぐう)に上りの汽車の来るのを待っている。僕の滞松の時間もあと廿分と迫った。従ってこの翡翠記も篇を終ることにする。

 

[やぶちゃん注:「天倫寺」既出既注

「荒隈(あらわい)の松原」松江市国屋町にあった荒隈城(あらわいじょう)跡。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「荒隈城」によれば、『宍道湖に突き出す丘陵端に位置し、現在丘陵の東西は佐田・松江方面共に陸地となっているが、当時は佐田水海と湿地帯が拡がっており、天然の要害をなしていた』。『白鹿城攻めに先立ち』、『毛利元就により築城されたが、宍道湖に面し』、『水運の利もあることから、白鹿城の落城後も尼子氏が降るまで出雲侵攻の拠点として機能した』。『関ヶ原の戦いの後、出雲に封じられた堀尾氏が再取立てを検討したが、石高に比して城域が広大との忠氏の意見を入れて』、『亀田山を選地し、以後』、『城郭として使用されることはなかった』とある。

「摩利支天(まりしてん)の丘」底本の後注に、『松江城下北西部の平地にある小高い山。頂上に摩利支天神社がある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「魚(はえ)」鮠(はや)のこと。オイカワ・カワムツ・アブラハヤ・ウグイ・タモロコ・モツゴなどの条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae に属する川魚の中で、細長くて流線形をした動きの素早い小魚の総称。

「滞松」「たいまつ」。松江滞在(里帰り)の意。

   *

 以上を以って井川恭の「翡翠記」の全篇が終わっている。なお、底本編者の寺本善徳氏の論文(一九九〇年刊「島根女子短期大学紀要」所載。冒頭には『資料紹介』となっているが、底本の最後の附された本「翡翠記」の追跡と考察の解説と、ほぼ同じコンセプトの内容)井川恭翡翠記と芥川龍之介「松江印象記」がPDFで閲覧出来るので是非、参照されたい。

 最後に、芥川龍之介がこの旅の間と後に友人に送った旅関連の三通、旅から帰った後に井川に送った旅の御礼及びその後の旅絡みの感懐や奇体な夢などを認(したた)めた五通の書簡を電子化して、終りとしたい。頭の数字は岩波旧全集書簡番号。注は原則、附さないが(表記注記等は別)、不審な部分や私が判らなかった箇所には特異的に書き入れた。

 まず、前者。

   *   *   *

一七二

(八月十四日附・松江発信・友人藤岡藏六(一高以来の友人で後に哲学者となった)宛・自筆絵葉書)

松江へ來てからもう十日になる大抵井川君とだべつてくらしてゐる湖水や海で泳いだりもした本は殆よまない少し胃病でよわつてゐる松江は川の多い靜な町である町はづれのハアン先生の家もさびしい井川君のうちは濠の岸にある濠には蘭や蒲が茂つでゐる中で時々かいつぶりが鳴く丁度小さな鳴子をならすやうな聲だ廿日頃に東京へかへる 匆々

    十四日牛後   芥川生

   *

一七三

(八月二十日(松江出立の前日)・松江発信・浅野三千三宛(府立三中時代の後輩で後に薬学者となった)・絵葉書)

出雲は楯縫秋鹿(アイカ)十六(ウブ)類など云ふ地名から中海にあるそりこ舟まで何となく神代めいてゐますこの大社も社殿の建築が上代の住宅の形式と一つになつてゐるので一層古事記めいた興味を感じます杵築は靑垣山をうしろに靜な海にのぞんだ神さびた所です[やぶちゃん注:「アイカ」のルビは「秋鹿」の二字に、「ウブ」は「十六」に対して附されてあると読んだ。「楯縫」(たでぬひ(たでぬい))と「秋鹿」(あいか)は明治二九(一八九六)年四月一日 の郡制の施行まで存在した旧郡名であるが、「十六(ウブ)類」は「十六島」の誤伝か誤記憶か、或いは芥川龍之介に教えた誰かが、或いは、芥川龍之介自身が勝手に「るい」という音に「類」の字を当てたものかも知れぬ。「十六島」は「うっぷるい」(現代仮名遣)と読み(所詮、当て字であろうが)、島根県出雲市の地名(現在の島根県出雲市十六島町。ここ(グーグル・マップ・データ))である。]

   *

一七五

(八月二十四日(松江から帰京した二日後・田端発信・石田幹之助宛・葉書)

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)

   ○○○○○○○

   冷巷人稀暮月明

   ○○○○○○○

   秋風蕭索滿空城

   ○○○○○○○

   關山唯有寒砧急

   ○○○○○○○

   搗破思郷萬里情

關山は一寸洒落れてみただけ天主閤も町も松江は大へんさびしい大概うちにゐますびまだつたらいらつしやい[やぶちゃん注:ここに出した漢詩は、後に示す、先行する井川書簡に、結句の頭を「擣」、「萬」を「万」とした初稿で出、そちらで訓読しておいた。]

   *   *   *

 次に井川恭宛。

一七四

(八月二十三日(帰京翌日。こういうところは芥川龍之介は非常に義理堅く礼節に則る人間である)・封筒を欠く)

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがびない かんにんしてくれ給へ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつたそれから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏[やぶちゃん注:不詳。松江発の際、たまたま同道になった井川の知人か。]が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵の人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

    波根村路

  倦馬貧村路

  冷煙七八家

  伶俜孤客意

  愁見木綿花

    眞山覽古

  山北山更寂

  山南水空𢌞

  寥々殘礎散

  細雨灑寒梅

    松江秋夕

  冷巷人稀暮月明

  秋風蕭索滿空城

  關山唯有寒砧急

  擣破思郷万里情

    蓮

  愁心盡日細々雨

  橋北橋南楊柳多

  櫂女不知行客淚

  哀吟一曲采蓮歌

[やぶちゃん注:前の二篇は既に注で紹介し、そこで訓読したから、ここでは後の二篇を訓読しておく(訓読には一部、筑摩書房全集類聚版のルビを参考にはしたが、必ずしも従ってはいない)。

 

  松江秋夕(しうせき)

冷巷(れいかう) 人 稀れに 暮月(ぼげつ) 明らかなり

秋風(しうふう) 蕭索 空城(くうじやう)に滿つ

關山(くわんざん) 唯だ有り 寒砧(かんこ)の急(きふ)なる

擣破(たうは) 思郷(しきやう) 万里の情

 

  蓮(はす)

愁心(しうしん) 日を盡くす 細々雨(さいさいう)

橋北(けうほく) 橋南 楊柳(やうりう)多し

櫂女(たうぢよ) 知らず 行客(かうかく)の淚(なみだ)

哀吟(あいぎん) 一曲 采蓮(さいれん)の歌(うた)

 

「櫂女」は小舟を漕ぎ行く女の意。]

 

君にもらつた葡萄がいくら食つても食びつくせなくつて弱つた 最後の一房を龜岡[やぶちゃん注:京都府亀岡市。京都駅の西方約十八キロメートル。]でくつた時には妙にうれしかつた 桃は横濱迄あつた 施行案内のすみへ

  葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画[やぶちゃん注:ママ。]の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた[やぶちゃん注:「北垣靜處」筑摩類聚版脚注は不詳とするが、調べてみたところ、松尾敦子氏の論文「画家、豊嶋停雲について」(『美術京都第四十六号(二〇一五年三月刊)所収。PDFで閲覧及びダウン・ロード可能)で判明した。彼は京都の日本画家である。同論文によれば、『北垣は、京都の絵画振興を標榜し、自らを含む青年画家二十名を集め』、明治三五(一九〇二)年一月に「鴨緑茶話会」という画家団体を結成している『北垣は、京都府知事、北海道長官などを歴任した男爵北垣国道の子息で』あるとある(下線やぶちゃん)。この父親はかなりの著名人で、琵琶湖疏水を作ったのも彼である。ウィキの「北垣国道」を参照されたい。]

一しよにのんだぺパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である一しょに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその青年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間際に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである[やぶちゃん注:「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:芥川龍之介より一つ年下)の誤り。岐阜県出身のピアニスト。東京音楽学校器楽科大正四(一九一五)年卒であるから、まさに芥川龍之介が逢ったのは卒業した直後である。大正一四(一九一四)年にドイツに留学し、レオニード・クロイツァーに師事し、帰国後は母校で教えた。昭和二五(一九五〇)年、北海道大学教授となり、その後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他に、国内音楽コンクール、ウィーン国際音楽コンクール及びワルシャワ国際音楽コンクールの各審査員をも務めた。また、現在の皇后美智子にもピアノを教えている。著書に「ピアノの弾き方」「ショパン名曲奏法」がある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。因みに、ここで「一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いた」とする「シヨルツ」というのは恐らく高宮の師であったパウル・ショルツ(一八九九年~一九四四年:大正二(一九一三)年から大正一一(一九二二)年まで東京音楽学校ピアノ教官)のことと思われる(ショルツの件は個人ブログ「calafMusic Life」のこちらの記載に拠った)。]

僕はこの二人の妙な人に偶然逢つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた[やぶちゃん注:「アミエル」はスイスの哲学者で詩人・批評家アンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の日記「アミエルの日記」(Tagebuch(ドイツ語(「ターゲブーフ(ホ)」)で「日記」の意。死後刊行されたもので、一八三九年から一八八一年まで四十二年に亙って記された、一万七千ページにも及ぶものである。私は学生時代に一部を読んで討死にした)。依頼していた本のそれが届いていたということ。]

皆様によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ[やぶちゃん注:「完ちやん」不詳。筑摩全集類聚版脚注で『恒藤』(井川)』『の弟か』とするのにかなり賛同する。「もう一つの手紙」は現存しない模様。]

    廿三日夜九時

   井川恭樣

   *

一七六

(八月三十一日(年は旧全集編者による推定)・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戸をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に焼けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十鏡だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の眉の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた塀があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を抜き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口ヘ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 来るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 従つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

 

   粽解いて道光和尚に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉   芥川龍之介

  井川恭樣

一七八

(九月十九日・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が三字下げである。]

 

  詩四篇

 井川君に獻ず

 

   Ⅰ 受胎

いつ受胎したか

それはしらない

たゞ知つてゐるのは

夜と風の音と

さうしてランプの火と――

熱をやんだやうになつて

ふるへながら寐床の上で

ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり

夜明けのうすい光が

窓かけのかげからしのびこんで

淚にぬれた私の顏をのぞく時には

部屋の中に私はたゞ獨り

いつも石のやうにだまつてゐた

さう云ふ夜がつゞいて

いつか胎兒のうごくのが

私にわかるやうになつてくると

時々私をさいなむ

胎盤の痛みが

日ごとに強くなつて來た

あゝ神樣

私は手をあはせて

唯かう云ふ

 

   Ⅱ 陣痛

海の潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛に

私はくるしみながら

くりかへす

「さはぐな 小供たちよ」

早く日の光をみやうと思つて

力のつゞくだけもがく小供たちを

かはゆくは思ふけれど

私だつてかたわの子はうみたくない

まして流産はしたくない

うむのなら

これこそ自分の子だと

兩手で高くさしあげて

世界にみせるやうな

子がうみたい

けれども潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛は

何の容赦もなく

私の心をさかうとする

私は息もたえだえに

たゞくり返す

「さはぐな 小供たちよ」

 

   Ⅲ めぐりあひ

何年かたつて

私は私の子の一人に

ふと町であつた事がある

みすぼらしい着物をきて

橦木杖をついた

貧弱なこの靑年が

私の子だとは思はなかつた

しかしその靑年は

挨拶する

「おとうさまお早うございます」

私は不愛相に

一寸帽子をとつて

すぐにその靑年に背をそむけた

日の光も朝の空氣も

すべて私を嘲つてゐるやうな

不愉快な氣がしたから

 

   Ⅳ 希望

こんどこそよい子をうまうと

牝鷄のやうに私は胸をそらせて

部屋の中をあるきまはる

今迄生んだ子のみにくさも忘れて

 

こんどこそよい子を生まうと

自分の未來を祝福して

私は部屋のすみに立止まる

ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で

          一九一五 九月十九日

                  龍之介

一七九

(九月二十一日・「京都市吉田町京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君」宛・消印九月二十二日・書簡クレジット九月二十一日夜・田端発信)

あれ以來每日平凡にくらしてゐる 學校は今季年から火木金土の午前だけしか出ない だから大分ひまだ 論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない 尤も氣になつても何かしてゐるが

トーデの本でミケルアンジエロのシスチナのチャペルの畫をみて感心した 感心したでは足りない 頭から足の先までふるひ動かされたとでも云つたらいゝかもしれない あゝ行かなくつちやあ噓だと思つた 何しろ今の所画[やぶちゃん注:ママ。]ではミケロアンジエロほど僕の心を動かす人はない あればたつた一人レムブランド[やぶちゃん注:ママ。]だ レンブランドは二度目のおかみさんの肖像の Colour reproduction [やぶちゃん注:原色複製画。]を手に入れてよかつた レムブランドが落魄した時に自畫像なんかたつた三ぺンスでうつたさうだ 今はどんな複製でも三ペンスよりは高い 次いではゴヤだ ゴヤはドンナイサベラと云ふのに感心した かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる[やぶちゃん注:「トーデ」ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七 年~一九二〇年)はドイツのルネッサンス期を研究した美術史家。芥川龍之介が読んだ当該書は不詳。]

櫻の葉が綠の中に点々[やぶちゃん注:「点」はママ。]と鮮な黃を點じたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黃色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がしたので一層いやに心細くなつた ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした

新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた[やぶちゃん注:井川が『松江新報』に載せた自分の「翡翠記」を送ったのである。芥川龍之介が感心しているのは「十六」。]

定福寺の詩は未に出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた[やぶちゃん注:「竹枝詞」(りくしし)は漢詩の一体で(楚で北方異民族の蛮俗を詠んだものを起源とすると言われる)、その土地の風俗や人情を詠じたものを指す。]

   黃河曲裡暮姻迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版のルビを参考に、訓読しておく。

 

黃河 曲裡(きよくり) 暮姻(ぼえん)迷ふ

白馬 津邊(しんぺん) 夜月(やげつ)低し

一夜 春風(しゆんぷう) 客を吹きて恨む

愁聽(しうちやう) 水上(すゐじやう) 子規(しき)の啼くを

 

無論、「子規」はホトトギスのことである。]

あまりうまくない

矢代幸雄氏は美術學校の講師になつた 西洋給畫史と彫刻史の講義をやるのだから盛である そこで彫刻の本をさがしに美術學校の國書館へはいつたらたつた一册うすい本があつた しかもそれが Famous Tales of Italian Sculptors 云ふのだからふるつてゐると思ふ 尤も美術學校の先生中でABCがよめる人は矢代氏獨りなのださうだ すべての方面で隨分いろんな事がいゝ加減に行つてゐるらしい いつまでそれですんでゆくわけもなからうからその内にどうとかなるのだらうが それにしても大分呆れ返る

   わが指の爪のほそさに立つ秋のあはれはいとゞしみまさりけむ

   秋風はふきぬべからし三越の窓ことごとく白く光れる

   ふき上げの水もつめたくおつるおつる橡(マロニエ)の實のわらけちるあはれ(これは大分窮した)

   橡(マロニエ)の黃なる木ぬれにゆきかよふ風をかなしときゝつゝ行くも(同上)

どうも今日は歌をつくるやうな氣分になつてゐなさうだからやめる又かく

    廿日夜            龍

   恭君

   *   *   *

 最後に、近日中に、新全集に載る芥川龍之介の「松江印象記」(後世の仮題)の草稿を私の『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加で電子化する予定でいることを添えて、終りとする。]

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