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2018/01/23

芥川龍之介 手帳8 (23) 《8-27~8-29》

《8-27》

○北淸事件の時 天王寺の脚病院長の後備の二等軍醫 或商人と結托し 小さい運送船を仕立て酒保と稱し カンヅメ ビイル等をのせ天津に向ひ 太沽につけ ダルマ船四艘にて白河を天津より通州へ溯り 掠奪品を船へつむ 朝日ビイルを一本一圓二十錢 竹楊子を五十錢などに賣る(太沽の岸につけし船へかひに行く)(尤も英佛とも北京の掠奪品を牛車にてはこび 軍艦につみこむ)掠奪品は馬蹄銀 被服類 この類のもの三組大阪より來る 大成功 つかまらず 産を成す 眞鍋少將の如きはこの船に分取品を托せりと傳へらる

當時は北京通州の麥畑中に馬蹄銀充滿す 北――通間の路は銅貨にてつくりし位なり(砂利がはり)

楊村にては團匪 チリメン ドンスの綑包にて土壘をつくる 我軍それを白河に打ちこみ 橋臺をつくる(天州通州間)

[やぶちゃん注:「北淸事件」既出既注であるが再掲しておく。北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。

「脚病院長」脚気(かっけ)専門の病院の院長の謂いか。旧全集ではここを『□□病院長』と二字分として、しかも判読不能としている。

「太沽」「大沽(たいこ)」であろう。現在の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)にある地名。天津から海河に沿って南東に下って、渤海に至った河口(大沽口)地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここにはかつて、明・清が諸外国からの攻撃に備える目的で構築された砲台があった。清は義和団の乱の最中、外国列強から大沽砲台の引き渡しを求められたが、これを拒否、列強は大沽砲台を攻撃して占領したため、清朝は列強に宣戦布告するも惨敗し、その和平協定である「北京議定書」の中で、この大沽砲台を撤去する事が明記された(砲台についてはウィキの「大沽砲台」に拠った)。

「白河」後の「通州」は現在の北京市通州区(ここ(グーグル・マップ・データ))であるから、天津の北側を流れる、現在の「新潮白河」及びその上流の「潮白河」のことか、或いは、その前身の河川であろう。

「馬蹄銀」二十世紀前期まで中国に於いて用いられていた秤量貨幣の形態を取る銀貨であった「銀錠(ぎんじょう)」のこと。ウィキの「銀錠」より引く。『単位は重量単位と同じ両(「銀両」』『)であり、その英語表記よりテールtaelと呼ばれた。なお、日本では銀錠が馬の蹄の形をしていることから、馬蹄銀(ばていぎん)と呼ばれ広く用いられているが、実際には明治期の日本人が名づけたものとされ、実際には多種多様の形式の銀錠が存在し、中国においても馬蹄銀の名称は』殆んど『用いられてはいなかった』。『灰吹法の導入により』、十六『世紀中頃より南米のポトシ銀山、日本の石見銀山などで銀の産出が著しく増大し、ポトシ銀山の銀はヨーロッパを通じて、日本の銀は生糸貿易の対価として中国に多量に輸入されるようになった』。『日本では産銀は一旦』、『丁銀に鋳造され、長崎において銀錠に吹き直され』た上で、『多量に中国へ流出した』。『材質は南鐐(なんりょう)と呼ばれる純銀に近い良質の灰吹銀であり、量目は』一両(三十七グラム)から五十両(一キロ八百六十五グラム)『程度と』、『大小様々なものが存在する』とある。

「眞鍋少將」陸軍軍人で貴族院議員・男爵であった真鍋斌(あきら/さかり 嘉永四(一八五一)年~大正七(一九一八)年)。最終階級は陸軍中将。ウィキの「真鍋斌」によれば、長州藩士の長男として生まれ、明倫館で学んだ。大坂兵部省屯所に入営、明治四(一八七一)年、『陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て』、翌年、『陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省に入った。明治一〇(一八七七)年四月から十月までは西南戦争にも出征している。その後、陸軍省内の課長心得や課長や連隊長・師団参謀長『などを歴任』、明治三〇(一八九七)年七月、『陸軍少将に進級』した。明治三三(一九〇〇)年七月から十月まで義和団の乱に歩兵第九旅団長として出征したが、『その際、清国の馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり』二年後に休職となっている。『将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は』、この『馬蹄銀事件により閉ざされた』。その後、留守第五師団長を経て、明治三八(一九〇五)年に陸軍中将となったが、翌年に休職、二年後には『予備役に編入され、大正七(一九一八)年四月一日を以って退役している。旧全集では『□□少將』として姓が判読不能字とされているが、或いはこれは、旧全集元版の編者の政治的判断によって伏せられた可能性が疑われる。

「北――通間」意味不明。「北京――通州間」の意か。

「楊村」中華人民共和国鉄道部京滬(けいこ)線(北京市から上海市に至る)の北京駅から十一番目、天津西の手前三つ目の駅に「楊村」(天津市武清区)がある。か(グーグル・マップ・データ)。

「團匪」一般名詞としては、特に中国に侵略していた日本は、政府や日本に敵対する集団を「盗賊」と同じ意味の「匪賊(ひぞく)」と呼び、集団をなす匪賊をかく呼んだが、ここは義和団の異称と考えてよい。

「チリメン」「縮緬」。

「ドンス」「緞子」。繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。なお、「ドン」も「ス」も孰れも唐音である。

「綑包」「こんぽう」(現代仮名遣)で「梱包」に同じい。紙などで包んで、紐を掛けて荷造りすること。或いは、そのようにした荷物・対象物を指す。

「天州」天津は清代、一時期、「天津州」と改名されたから、天津の異称と考えてよかろう。]

 

天津居留地の防備も bariier は大豆 砂糖 反物等 殊に ridiculous なるは時計なり ボンボン時計 金側 銀側 ニツケルの時計等

[やぶちゃん注:「Ridiculous馬鹿馬鹿しい、可笑しい。]

 

○金澤高岡町

○野花潘花城

○中野圍ひ

○恩地幸四郎

[やぶちゃん注:以上の四条は旧全集には載らない。

「金澤高岡町」ここ(グーグル・マップ・データ)。室生犀星の招待で金沢(大正一三(一九二四)年五月十五日から十七日)へ行った際の知人か店の住所メモか。

「野花潘花城」不詳。

「中野圍ひ」意味不詳。

「恩地幸四郎」(明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)は東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家。竹久夢二・北原白秋・室生犀星・萩原朔太郎と交流があり、萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀で頓に知られるが、芥川龍之介とは終生、直接の接点はなかった(宮坂覺氏の旧全集の人名索引にも載らない)。]

 

《8-28》

○地震後スゴイ話をする 人にもてる 捏造 ■■

○産後廿一日目カツケになり入院 嬰兒脚氣 乳をのませず 地シン オぺラバツクを忘る 金なし ミルク買へず 乳はやれず 美術協會の池の水をのませる 後やつと精養軒より牛乳を貰ふ 夫は日本橋に燒死す

施療患者の悲慘 産氣つく

○背負ひてにげし飯くさる

○腹に水バケツに一ぱいたまる 手術十一時にすむ タンカ 看護婦四人 醫一人 やつと助かる

出の帶 金通しの丸帶七寶を繡ふ(織物のやうに)(模樣はハカマ) 證文は待合のお上 少し派手すぎる 200150圓位にしてくれと云ふ 200圓の帶出來上る 150圓にして持つて行く 女將200圓かかれるコトを知り 150圓に買ふ 藝者に話さずに置く 藝者見る 女將「200120圓なりと云ふ 藝者之を120圓に買ひ 又外の帶を買ふ 三人ともその事を云はず

[やぶちゃん注:数字は総て半角横書(横転)。以上は、大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した「貝殼」の「六 東京人」の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       六 東京人

 

 或待合のお上さんが一人、懇意な或藝者の爲に或出入りの呉服屋へ帶を一本賴んでやつた。扨その帶が出來上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百圓の帶を百五十圓におさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。

 お上さんは金を拂つた後、格別その帶を藝者にも見せずに簞笥の中にしまつて措いた。が、藝者は暫くたつてから、「お上さん、あの帶はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帶を見せ、實際は百五十圓拂つたのに藝者には値段を百二十圓に話した。それは藝者の顏色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた爲だつた。が、藝者も亦何も言はずにその帶を貰つて歸つた後、百二十圓の金を屆けることにした。

 藝者は百二十圓と聞いたものの、その帶がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帶をしめさせることにした。何、莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由來かう云ふ莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。

 

   *]

 


《8-29》

○白い布についたしみはとれぬと云ふ言葉より白髮染の trick を發見す

○鐘消えて花の香は撞(ツク)夕かな(都曲集) 元祿三年 47

[やぶちゃん注:言わずもがな、この句は松尾芭蕉の中でも私が飛びきり好きな一句である。

「都曲集」「みやこぶりしゅう」(現代仮名遣)と読む。芭蕉と同時代の俳人池西言水(いけにしごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)の元禄三(一六九〇)年の撰集。原典の表記は正確には、

 

 鐘消て花の香は撞(ツク)夕哉

  (かねきえてはなのかはつくゆふべかな)

 

である。「元祿三年 47歳」とは作句時期と芭蕉の当時の年齢であるが、「元祿三年」は「都曲集」の跋のクレジットであり、作風から見ると、現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。]

 

是だけは心得置くべし an humorous essay

○光を通す gramopho.

[やぶちゃん注:綴り不審。「gramophone」ならば「蓄音機」のこと。或いは「gramophone record」をピリオドで略したとするならば、光を透過する合成樹脂(プラスチック)性のレコードの意味かも知れない。但し、我々が知っているソノシート(Sonosheet:英語:Flexi disc)は、第二次世界大戦後の一九五八年(昭和三十三年)にフランスの「S.A.I.P.」というメーカーで開発されたもので、当時は存在しない。]

 

○猫イラズ 羊羹その他甘味を持つ どれか入れてのまんとす

○野蠻人ニ現代文明を批判せしむ Frazer

[やぶちゃん注:「Frazer」名著The Golden Bough: a Study in Magic and Religion, 1st edition(「金枝篇:呪術と宗教の研究」 一八九〇年刊)で知られるイギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(Sir James George Frazer 一八五四年~一九四一年)。

 

○三つの死 戰死 水死 狂死

[やぶちゃん注:作品としてはピンときそうで、実はぴったり三拍子揃ったものはちと難しい。しかし恐らくは死の直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表した「三つの窓」の初期構想のメモではないかと私は思う(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

○鬼ごつこをする女の兒の顏の seriousness 結婚をする時の女の顏の seriousness

[やぶちゃん注:「seriousnessは「真剣さ・真面目」。これは昭和二(一九二七)年二月発行の雑誌『苦樂』に初出する「鬼ごつこ」のメモである。短いので、以下に電子化する(底本は岩波旧全集を用いたが、底本は総ルビであるのをパラルビとした)。末尾クレジットは作品集「湖南の扇」で附されたもの)。

   *

 

 鬼ごつこ

 

 彼は或町の裏に年下の彼女と鬼ごつこをしてゐた。まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯(がす)のともる時分だつた。

 「ここまで來い。」

 彼は樂々と逃げながら、鬼になつて來る彼女を振りかへつた。彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて來た。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。

 その顏は可也(かなり)長い間、彼の心に殘つてゐた。が、年月(としつき)の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。

 それから二十年ばかりたつた後(のち)、彼は雪國の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。窓の外が暗くなるのにつれ、沾(し)めつた靴や外套の匂ひが急に身にしみる時分だつた。

 「暫くでしたね。」

 彼は卷煙草を銜(くは)へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顏へ目を注いだ。近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の兩親や兄弟のことを話してゐた。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。と同時にいつの間まにか十二歳の少年の心になつてゐた。

 彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。が、彼はその時以來、妙に眞劍な彼女の顏を一度も目(ま)のあたりに見たことはなかつた。

          (大正一五・一二・一)

   *]

 

○田舍より許嫁の女をたづねて上京す 女は人の家に假寓すと思ふ 然るに already wife despair

[やぶちゃん注:「already wife despair「既にして、妻は絶望している」。]

 

○兵士 Caféの女給の妻なるを發見す
 

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