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2018/01/06

老媼茶話拾遺 諏訪越中

 

     諏訪越中

 

 奧州會津に諏訪越中と云(いふ)大力の大人あり。或春の末つかた、川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり見に、遠乘(とほのり)乍(ナガラ)、破籠(わりご)・吸筒(すひつつ)、取(とり)もたせ、供、二人三人(ふたりみたり)、召連(めしつれ)、「春風(はるかぜ)」と云(いふ)遠(とほ)がけの馬に乘(のり)、塔のへつりに至り、岩窟堂(いはやだう)の虛空藏にて酒をのみ、歸路におもむき、闇川橋(くらがはばし)を通りけるに、橋姫の宮の邊(あたり)にて、丈高(たてたかく)、したゝかなる座頭の坊、びわ箱を負(おひ)て、

「がたり、ぴしり。」

と、杖をもつて橋柱をさぐり居たり。

 越中、馬を扣(ひか)へ、

「座頭の坊、何をするぞ。」

といふ。

 座頭、聞(きき)て、

「此橋は、昔、聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し其内にて、御よしつたへうけ給り候。誠にて候哉(や)。」

といふ。

「成程、夫也。」

と云(いふ)。

 座頭、申(まうす)やう、

「吾等、先年、音に聞(きこ)へし信濃なる彼(かの)木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候。木曾の掛橋と氣色(けしき)同じ事ながら、橋の風景には歌詠(うたよむ)人もなき哉覽(やらん)。木曾の橋を西行法師の春花の盛(さかり)に通りたまいて、

 

 生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋

 

 又、源賴光中納言、平の維仲卿の御息女を戀させ玉ひ、

 

 中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ

 

 かへし、

 

 掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり

 

 此外色々の歌も侍るよしうけ給(たまはり)候。」

といふ。

 越中、聞て、

「見かけは辨慶ともいふべき人柄奉れども、心だての殊勝さは喜撰法師にもおとるまじ。」

と譽(ほめ)、夫(それ)より道連(みちづれ)をして、野寺の觀音近く成(なる)と、座頭、傍の石につまづきて、うつふしに倒(たふれ)けるが、起直(おきなほり)、腹を立(たて)、

「道端にあつて往來の障(さはり)と成(なる)。」

と、二、三十人斗(ばかり)にても動(うごかし)がたき大石の角に手を掛(かけ)、

「曳(えい)、やつ。」

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「さてさて。御座頭は大力かな。我も少し力あり。何と慰(なぐさみ)ながら、力競(ちからくらべ)せまじきか。」

といへば、座頭、聞(きく)と、

「御慰になるべくば、御相手可仕(つかまつるべし)。」

といふ。越中、

「然らば。」

とて、野寺の觀音堂の拜殿へ上り、越中、申樣(まうすやう)、

「其方(そのはう)、盲人にて角力(すまひ)はなるまじ。腕(うで)おしか天窓(あたま)はりくらか、此二のうちにせん。」

 座頭、申すは、

「然らば、しつぺい張(はり)くらべを仕(つかまつり)候はんまゝ、其天窓(あたま)を御はり候へ」

と云(いふ)。

 越中、

「しからば、請(うけ)候へ。」

とて、座頭があたまへ、したゝかにしつぺいを、はる。

 座頭、おぼへず、頭をちゞめ、面(つら)をしかめ、暫し、あたまを撫(なで)て、

「扨(さて)、強き御力かな。そなたは聞及(ききおよ)びし諏訪越中な。さらば、某(それがし)も慮外ながら一(ひと)しつぺい仕らん。請(うけ)て御覽候へ。」

とて、越中がつぶりを撫見(なでみ)、一口、笑(わらひ)、一さし指に鼻油(はなあぶら)を引(ひき)てしつぺい張(はら)んと、齒嚙(はがみ)をなし、立上(たちあが)りし面魂(つらだましひ)、さながら、鬼のごとく、扨(さて)冷(すさま)じかりしかば、越中、密(ひそか)に立(たち)て、鐙(あぶみ)をはづし、座頭がしつぺいを鐙の鼻にて受(うく)る。座頭、乘掛聲(のりかけごゑ)をかけ、

「曳(えい)、やつ。」

と、

「はつし。」

と張(はり)、鐙の、雉子(きじ)のもゝのまがりめ、二に張碎(はりくだく)。

 越中、鐙を投棄(なげす)て、馬に乘(のり)、一さんにかけて逃行(にげゆく)。

 座頭、腹を立(たて)、

「比興(ひきよう)也。何國(いづく)へ逃(にぐる)ぞ。」

と、大聲あげ、追(おひ)かけしが、忽ち、雲、起(おこり)、眞闇(まつくら)に成(なり)、大雨、降出(ふりいだ)し、雷電、稻光(いなびかり)して、大風、吹(ふく)がごとく成(なる)音して、座頭は、いづくに行(ゆき)しやらん、跡方もなく、成(なり)たり。

「定(さだめ)て天狗か化物の類ひなるべし。」

と、聽(きく)人、云傳(いひつたへ)たりと云(いへ)り。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後は一行空け、和歌は濁点を打たずに示した。さてもこの話、泉鏡花の随筆「怪力」の中で、類話(講釈物で本篇をもととしたものらしい)と並べて、本篇をそっくり、小説風に原文引用に評言を添える形で面白く紹介している(初出は明治四二(一九〇二)年六月及び七月春陽堂発行の『新小説』)。出所が「老媼茶話」であることは鏡花は記していないけれども(論文じゃない随筆なんだから全然問題ない)、本話の伝承形態が明らかにされているので、是非、一読をお薦めする。岩波の「鏡花全集」の「卷廿八」の「雜記」パートに載る。新字旧仮名であるが、「青空文庫」のこちらでも読める(しかし、どうも、鏡花の新字というのは偽物臭くていけない)。

「諏訪越中」諏訪越中守ということであるが、こちらの「諏訪家 家臣団」に諏訪越中守(生没年未詳)として『諏訪一族。一説に粟沢城主』とある。粟沢城は長野県茅野市玉川にあった戦国時代の山城であるし、そもそもが戦国時代の武将で信濃諏訪氏当主で武田信玄と息子の勝頼に仕えた諏訪頼豊(?~天正一〇(一五八二)年)の官途名が越中守であり、城郭サイトのこちらを見ると、織田軍の攻撃によって粟沢城は落城、その際に城主諏訪頼豊も討死した、とあるから同一人物であろう。しかし、ここでは場所が会津なわけで、この「諏訪越中守」「諏訪諏訪頼豊」ではないことは明白である。或いは、その生き残りの末裔ででもあったか、などと考えたくなるわけだが、そこはそれ、前に示した「怪力」で鏡花がちゃんと不審がって一つの面白い仮説を導いて呉れている。ちょっと引く(岩波の全集を底本としたが、読みは一部に留めた)。

   *

 で、主題と云ふのは、其その怪力の按摩と、大力(だいりき)無双の大將が、しつぺい張(はり)くら、をすると言いふので。講釋の方は越前國一條ケ谷(たに)朝倉左衞門尉義景十八人にんの侍大將の中(うち)に、黑坂備中守と云ふ、これは私の鄰國(りんごく)。隨筆の方は、奥州會津に諏訪越中と云ふ大力の人ありて、これは宙外(ちうぐわい)さんの猪苗代から、山道三里だから面い。

 處で、此の隨筆が出處(しゆつしよ)だとすると、何のために、奥州を越前へ移して、越中を備中にかへたらう、ソレ或ひは越中は褌(ふんどし)に響いて、強力(がうりき)の威嚴を傷つけやうかの深慮に出(で)たのかも計(はか)られぬ。――串戯(じようだん)はよして、些細な事ではあるが、おなじ事ことでも、こゝは大力が可(い)い。強力、と云ふと、九段坂(くだんざか)をエンヤラヤに聞えて響(ひゞき)が惡い。

   *

実に言葉の響きを掬すように大切にした鏡花らしいお洒落な微笑ましい解釈ではないか。なお「宙外さん」とは友人で小説家の後藤宙外(慶応二(一八六七)年~昭和一三(一九三八)年:鏡花(明治六(一八七三)年生)より六つ年上)のこと。彼の生まれは出羽国仙北郡払田村(現在の秋田県大仙市払田)であったが、明治三三(一九〇〇)年に春陽堂に入社してまさに『新小説』編集主任(鏡花の「怪力」が載ったのもこれ)となると、翌年の五月から、田園文学の実践として福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建てて、そこから月に一週間ほど上京して編集事務を勤めるという生活を明治四〇(一九〇七)年十月に鎌倉に移り住むまで続けたことから(ここはウィキの「後藤宙外」に拠った)、鏡花は数年前の彼の田園生活を思い出して、かく書いたのである。

「川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり」現在の福島県南会津郡下郷町白岩地区の(ここ(グーグル・マップ・データ))直ぐ直近の阿賀川沿いにある「塔のへつり」(福島県南会津郡下郷町弥五島下タ林。ここ(グーグル・マップ・データ))という景勝地。塔のへつり(とうのへつり)は、福島県南会津郡下郷町にある景勝地。ウィキの「塔のへつり」によれば、『河食地形の奇形を呈する好例として、国の天然記念物に指定されている』。『「へつり」とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことである。なお、「へつり」は「岪」』『という漢字表記があるが』、他に使用しない漢字であるため』、『かな表記が標準化している』。『福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、大川羽鳥県立自然公園の一角を占め』、『一帯は第三系凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩などが互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による侵食と風化の作用によって形成された柱状の断崖である。一帯は樹木に覆われており、新緑や紅葉の頃は一際』、美しい。全長二百メートルに『わたって、大規模な奇岩が整列している。主なものには屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩などがあり、これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、吊橋を渡している舞台岩周辺以外は』現在は『立ち入り禁止となっている』とある。

「破籠(わりご)」檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって、被(かぶ)せ蓋(ぶた)をする。現在の弁当箱に相当する。

「吸筒(すひつつ)」竹筒を用いた水筒。但し、飲料水よりは酒を入れることの方が多く、ここもそれであろう。竹を一節分、輪切りにしておいて、その一方の端に飲み口の穴を空けたもので、通常、使い捨てにした。「ささえ」「さすえ」などとも呼ばれた。

「岩窟堂(いはやだう)の虛空藏」現在、福島県耶麻郡西会津町奥川大字高陽根大出戸(いでと)に岩屋虚空蔵尊があるここ(グーグル・マップ・データ)。同町の公式サイト内の「岩屋まつり」 参拝客でにぎわうに五百年続く祭祀が村民によって続けられているという記載があるのだが、しかし、先の「塔のへつり」とは、ここは全くの方向違いで、ここは直線でもそこからは北西に五十四キロメートル以上もあり、馬の遠乗りとは言え、遠過ぎて明らかにおかしい。他に同名の場所が「塔のへつり」の手前にでもあったものと推測する。何故なら、次の「闇川橋(くらがはばし)」の私の比定位置が、「塔のへつり」の下流八~九キロメートルの位置だからである。郷土史研究家の御教授を俟つものである。

「闇川橋(くらがはばし)」既出既注であるが、再掲する。私はこの中央付近ではないかと推測した。この中央附近に架かっている会津鉄道の橋梁の名が「闇川橋梁」という名称だからである。因みに、本話当時、この「若郷湖」という湖(ダム湖)は存在しない。

「橋姫の宮」不詳。橋姫伝説は日本全国に広がっており、橋詰めにこれを祀るのはごく一般的ではあった。詳しくは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』以下、十回分をお読みあれ。

「したゝかなる」「強かなる・健かなる」で、「なかなか手ごわそうなこと・見るからに一筋繩では相手に出来そうもない偉丈夫な様子」の意。

「がたり、ぴしり」底本は「かたり、ひしり」。杖で橋柱(欄干であろう)を打つオノマトペイアと採って、濁点と半濁点を打った。因みに鏡花も「怪力」で「がたりぴしり」と記している。鏡花はこの杖の音にまず、怪異の端緒が始まるように読んでいるのが、流石!

「扣(ひか)へ」引き留め。

「聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し」不学にしてこのような伝承は私は聴いたことがない。

「木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候」これもなんだかおかしい。「木曾の掛橋」というのは、川に掛ける橋ではなく、断崖絶壁に支えの柱を下に斜めに打ち込み、その上に道とする木を横に打ち込み、それを連続させて上に板などを当てて通り道とした、所謂、「棧道(さんどう)」なのであって、「橋」ではないからである。ここで、この怪しい座頭の言っているのは、まさに日本三奇橋として知られる、山梨県大月市にある「猿橋」のように、谷が深いために橋脚(ここで言う「橋枕」)が立てられないため、橋脚を一切使わず、両岸から張り出した幾層かの(猿橋は四層)の組んだ木材によって橋を支えたものに、橋の固定と通行人の落下を防ぐための鎖を渡したものを言っているようにしか見えぬからである。

「生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋」整序すると、

 

 生(おひ)すがふ谷の梢(こずゑ)を蜘蛛手(くもで)にて散りぬる花蹈む木曾の掛橋

 

であるが、私は知らない。西行のものでは「山家集」所収の、

 

 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曾のかけはし底もみえねば

 さまざまに木曾のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ歸る山人

 駒なづむ木曾のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり

 

辺りが知られる。

 

「源賴光中納言」丹波国大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で知られる源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:平安中期の武将で摂津源氏の祖)が「平の維仲卿の御息女」と恋仲になったというのは、例えば、大久保龍著「少年源頼光と四天王(大江山鬼退治)」(大正一五(一九二六)年大同館書店刊)の「(八)賴光と中納言維仲の娘」に詳しい(最後にこの一首も出る。但し、そこでは初句が「ながなが」(後半は踊り字「〱」)、「はなさで」が「はなたで」となっている)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。平惟仲(これなか 天慶七(九四四)年~寛弘二(一〇〇五)年)は桓武平氏平高棟流で従四位上(贈従三位)美作介平珍材の長男。官位は従二位・中納言であった。この娘は実は養女で実際に源頼光の妻となった。元は藤原忠信の娘で「五節の弁」と同一人物ともされる。

「中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ」「中中」の後半は底本では踊り字「〱」。整序すると、

 

 なかなかに言ひも話さで信濃なる木曾路の橋の掛けたるはなぞ

 

「信濃なる木曾路の橋の掛けたる」は「危いこと」を意味すると同時に話し「かけたる」を文字通り、掛けているか。或いは繋がり「かけたる」は「缺たる」を含んで、繋がりが途絶えたことの残念さを含むものか。

「掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり」整序すると、

 

 掛け染めし木曾路の橋も年(とし)經(ふ)れば中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり

 

これは分かり易い。かくして「中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり」は杞憂となり、この縁で「中」(仲)良くなった二人は目出度く、夫婦となったのであった。因みに、鏡花の「怪力」では、返しの女の歌のみが頼光の歌として示されている。しかもそこでは、

 

 戀染(こひそ)めし木曾路の橋も年(とし)經(へ)なば中(なか)もや絶えて落(おち)ぞしぬめり

 

となっていて、何だか、おかしい。鏡花の見た「老媼茶話」の写本がいい加減なものだったのかも知れない。

「野寺の觀音」現在の会津若松市門田町堤沢字上村にある野寺薬師堂の誤りか。「極上の会津プロジェクト協議会」(会津若松市役所観光課の組織)のこちらを見られたい。ロケーションからが問題がないが、薬師は如来だし、ここには観音堂はないと思う。

「うつふし」「打伏」。濁音化は敢えてしなかった。

「曳(えい)」「曳」の音は確かに「エイ」で、「曳(ひ)く」(引きずる・引き寄せる)の意でもあるわけだが、ここはそれを掛け声の感動詞に掛けた使用法で、甚だ面白い。

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「力競(ちからくらべ)せまじきか」「力比べをしてみてはどうであろう?」。この助動詞「まじ」は近世に頻繁に用いられた単なる推量の用法である。

「腕(うで)おし」腕相撲のことであろう。

「天窓(あたま)はりくら」頭を叩き合って有意に揺るがなかった方が勝ちという力比べか。

「しつぺい張(はり)くらべ」「竹箆(しつぺい)」による「天窓(あたま)」の「張り比べ」。竹箆(しっぺい)は本来は禅で用いる竹製の棒で、座禅する者の気の緩みを戒め、気合いを入れるために肩を打つ例の長い竹の箆(へら)のことだが、ここはまさに今も我々が用いている「しっぺ」、則ち、人差し指と中指を揃えて、それを竹箆に見立てて、手首辺りを打つ指竹箆(ゆびしっぺ)のことであろう。但し、ここでは、座頭の所作を見ると、打つのは人指し指一本で、それで脳天を打つものか。普通、「張る」というのは頭部側面を打つことを指すのだろうが、しかし、座頭が張られて「頭をちゞめ、諏訪が後で座頭のそれを鐙で受けたというのだから、ここは真っ直ぐに頭頂を打ったものと解したい。

「慮外ながら」御無礼なことであるが。

「つぶりを撫見(なでみ)」諏訪の頭を撫でるように見回し。

「一口、笑(わらひ)」ちょっと笑い。

「立上(たちあが)りし」突っ立った。

「面魂(つらだましひ)」その顔つき。

「冷(すさま)じかりしかば」凄まじいものであったので。

「密(ひそか)に立(たち)て」相手から判らぬようにそっと馬に寄り添って立ち。

「鐙(あぶみ)」馬具。鐙革(あぶみがわ)で鞍から左右一対を吊り下げ、騎乗する際に足を乗せるもの。現代は金属やプラスチックであるが、ここは木製であろう。

「鐙の鼻」鐙の前方の丸く突き出た部分。

「乘掛聲(のりかけごゑ)」ある動作をする際の気合の掛け声を言っているものと思う。

「雉子(きじ)のもゝのまがりめ」鐙自体が雉子の形に似ているから、かく言ったものか。

「比興(ひきよう)」卑怯。本来は「比興」で「卑怯」は当て字かとされる。但し、歴史的仮名遣は「ひけふ」であるから、この当て字もおかしい

「何國(いづく)」「何處」。「國」は単に「別な場所」の意であろう。]

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