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2018/01/11

甲子夜話卷之四 23 奥州に掘得たる古鈴

 

4-23 奥州に掘得たる古鈴

 

Suzu

[やぶちゃん注:図のキャプションなどを活字化し、注しておく。

・上図

鈴上に、「片面」。鈴左に「大如圖八文目九分三厘」。頭は「大いさ、圖の如し重さ」と読む。

図は鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」。同左下に「孫」の(へん)の「系」。

上部は本文にある通り、他に「壽延長」の文字が配されているとならば、上部左右にそれらの孰れかの一部(恐らくは「壽」と「長」か)が見えているはずであるが、恐らくは見にくくなるだけなので省略したものであろう

「八文目九分三厘」(「文目」は「匁」(一匁=三・七五グラム)と同じ(は三十三・四八七五グラム。現在の一円玉三十三枚或いは百円玉七枚弱だから、かなり大きな鈴であることが判る。

・下図

鈴上に、「底」。鈴下に一行目「地古銅ト見ユ」二行目「上金ノ燒ツケナルベシ金色存ス」三行目「内ノ鳴丸」。鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」、同左下に「孫」の(へん)の「系」。

図は上部右に「子」。同左に上部が少し切れた「孫」。下部右に「榮」、同左下に上部が少し切れた「盛」。

反時計回りに読むと、本文に出る通り、「子孫盛榮」(子孫繁栄の意)と読める。

「鳴丸」は「めいぐわん(めいがん)」或いは「なりだま」「ならしだま」と訓じているかも知れぬ。]

 

近藤重藏【號、正齋】嘗て話て曰。奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村と云あり。其處に八幡社あり。其社地より一小鈴を掘出す。其鈴に八字を刻す。福壽延長子孫盛榮の文也。傳言ふ。彼地は往昔金商橘次信高なる者の宅址にして、義經の遮那王と申せしとき、鞍間より隨從して陸奧に下り、秀衡のもとに入れしとき、先づ此地に置き、尋で秀衡に寄託すと云。此鈴は其宅趾の邊を過しとき得たりとなり。想ふに橘次が舊物なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「近藤重藏【號、正齋】」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は幕臣で探検家。ウィキの「近藤重蔵」他によれば、間宮林蔵・平山行蔵(こうぞう)とともに「文政の三蔵」と呼ばれた。明和八(一七七一)年、御先手組与力『近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ』、八『歳で四書五経を諳んじ』、十七『歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯』に六十余種千五百余巻もの『著作を残している』。』父隠居後の寛政二(一七九〇)年、『御先手組与力として出仕』、『火付盗賊改方としても勤』めた。寛政(一七九四)年には、『松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格』している。寛政七(一七九五)年には長崎奉行手付出役となり、二年後の寛政九年に江戸へ帰参した後も『支払勘定方、関東郡代付出役と栄進』した。翌寛政十年、『幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱』に任命され、四回に亙って『蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に』あったロシアの標柱を抜き去り、『「大日本恵土呂府」の木柱を立て』た。『松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させ』たが、享和三(一八〇三)年、『譴責により小普請方』に下った(理由不詳)。しかし、文化四(一八〇七)年に『ロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い』、『再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り』を果たし、『その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索』した。『江戸に帰国後、将軍・家斉に謁見を許され』、その際に『札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた』。文化五(一八〇八)年には『江戸城紅葉山文庫の書物奉行とな』ったが、『自信過剰で豪胆な性格が見咎められ』、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷』となった。『この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた』、『重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた』という。文政四(一八二一)年、『小普請入差控を命』ぜられ、『江戸滝ノ川村に閉居』した。ところが、文政九(一八二六)年、長男の近藤富蔵が『屋敷の敷地争いから町民』七『名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に』お預けとなってしまう。その三年後の文政十二年に逝去し(享年五十九歳)、死後三十一年も経過した万延元(一八六〇)年になってやっと赦免されている。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年であるから、この執筆時は恐らく存命で、不遇を託っていたものと思われ、字背に静山の彼への追懐が偲ばれるように私には思われる。

「話て曰」「はなしていはく」。

「奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村」宮城県旧栗原郡金成町で、現在の栗原市金成。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八幡社」現在、その栗原市金成地区にある金田(かねだ)八幡神社と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「宮城県神社庁」公式サイト内のこちらによれば、平城天皇の大同二(八〇七)年に『坂上田村麻呂が再び奥州に下向し、ここにら金神金山彦神を祀った。これが、八幡宮の地主神である。(太田南畝「一話一言」所収、金田八幡記録)』天喜四(一〇五六)年八月、『陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が金田城の鬼門鎮護のため』、『勧請したと伝えられ、金田荘の総鎮守として崇敬された。その後』、寛治(一〇八七年~一〇九四年)の頃に、『藤原清衡がこれを再興したと伝えられる。当社の社家は日枝神社と同様に、従五位下清原業隆でその子孫十二代を経て紀伊守祐隆が』天授二(一三七六)年に『羽黒派修験道に入り』、『紀伊守宥義と称し、その四世から清浄院と改め代々別当をつとめた』とある(下線やぶちゃん)。

「福壽延長」幸福で長命であること。

「文」「ぶん」。文字。

「傳言ふ」「いひつたふ」。

「金商」鉱物の金を商うこと。

「橘次信高」「きつじのぶかた」。所謂、「金売吉次(かねうりきちじ)」の名で知られる平安末期の商人。ウィキの「金売吉次」によれば、吉次信高・橘次末春とも称される。「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに登場する伝説的人物で、『奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三條の橘次と云(いひ)し金商人」、「源平盛衰記」では「五條の橘次末春と云(いふ)金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」として出る。「平治物語」によれば、『義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある』という。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では』『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では吉次の方から話を持ちかけるシチュエーションをとる。『吉次は義経と共に奥州へ向か』い、『下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず』全く以って『不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている』から、『吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない』。従って『現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ』、『殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲』となり、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。

「義經の遮那王と申せしとき」源義経(平治元(一一五九)年~文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)の「牛若丸」は彼の幼名で、義経は十一歳の時、鞍馬寺(現在の京都市左京区)へ預けられたが、その稚児名を「遮那王(しゃなおう)」と称した。

「鞍間」鞍馬寺。

「入れし」「はひられし」と訓じておく。

「尋で」「ついで」。次いで。

「過し」「よぎりし」。本文を見るに、どうも近藤がこの鈴を持っているように読めるから、附図もあり、細かな記載から見ても、これは彼がそこを「通り過ぎた」際に発掘したものと読んでおく。本来、社地なのだから、神社に渡す(奉納する)べきものではある。いけませんよ、近藤さん!

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