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2018/01/28

芥川龍之介 手帳9 (4) / 手帳9~了

酸化炭素CO.2パアセント 薔薇色になつて死ぬ(窒息)

[やぶちゃん注:「2」は縦書なので全角で示した。この体色変化はかなり有名な死体変容として有名る。ただ、芥川龍之介の謂いは、一酸化炭素が密閉空気中に二%で死に至るという意味のメモのようだが、これでは即死・瞬殺である。ガス会社の「空気中の一酸化炭素濃度と吸入時間による中毒症状」のデータによれば、

0.04%:一~二時間で前頭痛や吐き気、二時間半から三時間半後に頭痛

0.16 二十分間で頭痛・めまい・吐き気を発症して二時間で死亡

0.32 五分から十分で頭痛・眩暈に襲われて三十分間で死亡

1.28 早ければ一分、長くても三分間で死亡

(因みに、リンク先には0.04%の分量は標準的な浴室(五立方メートル)に二リットルのペットボトル一本分の一酸化炭素を混ぜたほど、とある)。この猛毒性は、ヒトの血色素であるヘモグロビンが酸素よりも一酸化炭素と親和性が強いために、結びつき易く、急速に体内が低酸素状態になることによる。なお、このバラ色に美しく変色するのは、一酸化炭素と結びついたヘモグロビン(COHb)がピンク色を呈することに起因する(酸素と結び付いたヘモグロビンはオレンジ色又は朱色)。但し、貝毒による中毒死でも同様の症状が起こるので、断定は禁物。この手の毒物や中毒症状の話は私の得意分野である。]

 

○下瀨火藥 徹甲榴彈 魚雷

[やぶちゃん注:「下瀨火藥」(しもせかやく)は大日本帝国海軍軍属(技官)下瀬雅允(まさちか 安政六(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:工学博士)が実用化したピクリン酸(Picric acid:芳香族フェノール誘導体のニトロ化合物。水溶液は強力な酸性を示し、不安定で爆発性の可燃物質)を成分とする爆薬(炸薬(さくやく:爆弾などに詰めて爆発(炸裂)させるのに用いる火薬の一種で、本来は日本海軍で用いられた用語。地雷・砲弾・魚雷などに用いられる。これらの爆発の威力は炸薬がいかに速く燃焼するかにかかっており、性能を維持・向上させるために不可欠な要素となる反面、火薬の中でも信管以外によるいかなる衝撃や加熱によっても爆発しない鈍感な性質のものが理想とされる))。ウィキの「下瀬火薬」によれば、『日露戦争当時の日本海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。なお、大日本帝国陸軍では黄色薬と呼ばれていた』。『ピクリン酸は』一七七一『年にドイツで染料として発明され、その』百『年後に爆発性が発見された。猛烈な爆薬であるが、同時に消毒液としての効果もある。しかしピクリン酸は容易に金属と化学結合して変化してしまう』ため、『鋭敏な化合物を維持する点で実用上の困難があった。下瀬雅充は弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間にワックスを注入してこの問題を解決した』。『なお、日本海軍規格の下瀬火薬/下瀬爆薬は、ほぼ純粋なピクリン酸で』あった。『爆薬として用いた場合の爆速は』秒速七千八百メートル。『日本海軍は』明治二六(一八九三)年、『この火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。これは日清戦争』(一八九四年~一八九五年)『には間に合わなかったが、日露戦争』(一九〇四年(明治三十七年)~一九〇五年)『で大いに活躍した。海軍は』『、ただでさえ』、『威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な信管(伊集院信管)を用いて榴弾』(狭義には砲弾の種類を指す。爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散するように設計されている)『として用いた。敵艦の防御甲鈑を貫通する能力は不十分だったが、破壊力の高さと化学反応性(焼夷性)の高さから、非装甲部と乗組員に大きな被害を与えた』。明治三八(一九〇五)年五月二十七日の「日本海海戦」で『ロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬であ』った。『下瀬火薬は、メリニット『(一八八五年、爆薬の研究で知られるフランスの化学者フランソワ・ウジェーヌ・テュルパン(François Eugène Turpin 一八四八年~一九二七年)の発明で、純粋なピクリン酸とされている)『のサンプルを下瀬が分析し、純粋ピクリン酸を炸薬に用いるアイディアを得て、研究の末に国産化したものとされる』。『下瀬火薬が実用化された後に、フランスが「新型火薬」を日本に売り込んできた。フランスに派遣された富岡定恭は、「新型火薬」のサンプルの微量を爪の中にすり込んで持ち帰った。この微量のサンプルを分析した結果、下瀬火薬と同様のピクリン酸であると判明したという』。『下瀬が、下瀬火薬(純粋ピクリン酸)の試作に成功した後も、当時の日本の技術レベルでは手工業的な生産しかできず、量産は困難であった』(ピクリン酸は一般にはフェノールを濃硫酸と濃硝酸でニトロ化することで製造する)。明治三一(一八九八)年一月から一年間、『下瀬雅允は、ピクリン酸製造技術の導入のため、欧米を視察した。ドイツのグリーシャム社の元技師長であるバーニッケと会い』、五『万円の代価で、ピクリン酸合成工場設計図』二十『枚余、及びピクリン酸製造技術の提供を受ける契約を結んだ。しかし、代価の』五『万円は支払われず、バーニッケは』一九〇六年四月に『契約履行を迫る書簡を送り、下瀬はこれを受けて斎藤実海軍大臣に上申を行ったが黙殺された』とある。その後、『下瀬火薬は旧式化して一線を退くが、太平洋戦争で再び使用されるようになる。トルエンを原料とするトリニトロトルエン(TNT)が石油原料を必要とするのに対して、ピクリン酸は石炭酸(フェノール)を原料としていたため、極度の石油不足状態にあった戦時中の日本でも』、『石炭から作る事のできる下瀬火薬は問題なく製造できたのである。その多くは砲弾などの強い衝撃がかかる物を避け』、『九九式手榴弾などに使用されていた』。『下瀬火薬を使用する艦砲の自爆事故(膅発』(とうはつ:砲弾(榴弾もしくは榴散弾)が砲身内で暴発する事故のこと。)が相次いだ。これはピクリン酸そのものの欠陥ではなく砲弾に火薬を充填する技術の未熟さが原因ではなかったかと推測されている』。『ピクリン酸は鉄などの重金属と反応して非常に衝撃に敏感な塩を作る性質があるため、砲弾内部の漆とワックスにごくわずかでも隙間があって砲弾本体と触れると』、『自爆の危険性は激増することになった。欧米諸国では、この欠点を解消するため、ピクリン酸をアンモニウムなどアルカリと混合して塩にした』『爆薬を開発し』ている。また、『ピクリン酸は毒性が高い物質』でもあるため、『下瀬火薬は、のちにTNTや環状ニトロアミン系高性能爆薬』『に代替されることになった』。『下瀬火薬は、経年劣化により衝撃に対して過敏になる傾向があるため、旧日本軍の不発弾の取扱には細心の注意を要する』ともある。

「徹甲榴弾」徹甲弾の弾頭に比較的少量の爆薬を搭載し、装甲や障害物に突き刺さってから炸裂する弾丸。]

 

5%(酸素あれば15%)空氣より二倍半重し 舟澤山のトンネル破壞 工夫頭七日に七尺上へ行く(水をのむ) 草鞋を食ふ 酸素21%窒素79%鐵道官吏(四人) 技師腰に酸素(ボンボイ)(壓搾酸素)前の奴炭酸瓦斯中毒にかかる(それより前に大勢蠟燭などをつけて見物に入る故)

[やぶちゃん注:アラビア数字と「%」は総て横転半角。

「炭酸瓦斯」今度は二酸化炭素中毒のメモ。二酸化炭素中毒でも死に至る。濃度が三~四%を超えると、頭痛・眩暈・吐き気などを催し、七%を超えると、呼吸不全を起こして数分で意識を失う。この状態が継続すると、麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る。無論、芥川が言うように、酸素より重いから、低い位置に横臥して睡眠しているところに、多量の二酸化炭素を流入させれば、窒息死する(ドライアイスを使ってそれを密室で行って殺害するというダサい日本の推理小説を読んだ記憶がある。作者が思い出せない。思い出したくないくらい、ダサかった)。

5%」意識喪失の数値か。

「酸素あれば15%」前注通り、楽観的数値でダメ。

「空氣より二倍半重し」温度湿度によって変わるが、密度でなら、酸素原子の原子量は約十六、炭素原子の原子量は約十二であるから、酸素分子の分子量は三十二、二酸化炭素の分子量は四十四となり、一・四倍弱で「二倍半」はおかしい空気は大方、窒素で窒素は空気よりやや軽いけれども、それでも二酸化炭素は空気の一・五倍ぐらいにしかならないから、やっぱりおかしいぞ

「舟澤山のトンネル破壞」いろいろなフレーズで検索を試みるも、全く不詳。識者の御教授を乞う。

「七日に七尺上へ行く(水をのむ)」崩落した後、七日間かけて七尺(二メートル十二センチ地表方向へ掘り進んだという意味か。

「酸素21%窒素79%」乾燥状態で酸素は二〇・九四%、窒素七八・〇八%、他にアルゴン〇・九三%、二酸化炭素〇・〇三%他。

「(ボンボイ)(壓搾酸素)」ドイツ語の「Bombe」由来の「ボンベ」の音写か。ネイティヴの発音を聴くと「ボムベ」或いは「ボンボェ」と聴こえる。但し、ドイツ語の「Bombe」は「爆弾」の意味で、本来は圧搾した気体を封入する鉄製円筒の意は、辞書にはあるものの、現代になってから添えられたようで、全く並べて一緒に『アイスクリームを詰めたメロン形の氷菓子』というとんでもない意味が記されてある(「同学社版 新修ドイツ語辞典」一九七二年(初版)の一九七七年(七版))。因みに、英語では「oxygen cylinder bottle」である。]

 

Mustard-Gas(Iprelite). lewisite. ○五六時間後より 目とのどとひふ 淚 嚏 鼻汁 咳 血へど死ぬ 八時間後皮膚障害 粟粒位の火ぶくれ(火傷の如く痛む)一錢銅貨位になる 二日乃至四日死ぬ 5%15%重症(六箇月)

[やぶちゃん注:「Mustard-Gas(Iprelite). lewisite.」近代化学兵器として知られる、2,2'-硫化ジクロロジエチル(2,2'-Dichloro Diethyl Sulfide)という化合物を主成分とした、糜爛(びらん)剤(皮膚をただれさせる薬品)に分類される毒ガス兵器。硫黄を含むことから「サルファ・マスタード」(Sulfur mustard gas)とも、また、第一次世界大戦のベルギーのウェスト=フランデレン州のイーペル(オランダ語:Ieper・フランス語:Ypres:カタカナ音写:イープル)戦線で初めて使われたことから「イペリット」(Yperiteとも呼ばれる。芥川龍之介の「Iprelite」は綴りの誤り英語でも「Ipritで全く違うウィキの「マスタードガス」より引く。『主にチオジグリコールを塩素化することによって製造される。また、二塩化硫黄とエチレンの反応によっても生成される。純粋なマスタードガスは、常温で無色・無臭であり、粘着性の液体である。不純物を含むマスタードガスは、マスタード(洋からし)、ニンニクもしくはホースラディッシュ(セイヨウワサビ)に似た臭気を持ち、これが名前の由来であるが(他にも、不純物を含んだマスタードガスは黄色や黄土色といった色がついている為に、マスタードの名が付けられたという説もあ』り、『さらに皮膚につくと傷口にマスタードをすりこまれるぐらいの痛さという説もある)』。『実戦での特徴的な点として、残留性および浸透性が高いことが挙げられる。特にゴムを浸透することが特徴的で、ゴム引き布を用いた防護衣では十分な防御が不可能である。またマスクも対応品が必要である。気化したものは空気よりもかなり重く、低所に停滞する』。『マスタードガスは遅効性であり、曝露後すぐには被曝したことには気付かないとされる。皮膚以外にも消化管や、造血器に障害を起こすことが知られていた。この造血器に対する作用を応用し、マスタードガスの誘導体であるナイトロジェンマスタード』(nitrogen mustards)『は抗癌剤(悪性リンパ腫に対して)として使用される。ナイトロジェンマスタードの抗癌剤としての研究は第二次世界大戦中に米国で行われていた。しかし、化学兵器の研究自体が軍事機密であったことから戦争終結後の』一九四六『年まで公表されなかった。一説には、この研究は試作品のナイトロジェンマスタードを用いた人体実験の際、白血病改善の著効があったためという』。『マスタードガスは人体を構成する蛋白質やDNAに対して強く作用することが知られており、蛋白質やDNAの窒素と反応し(アルキル化反応』(alkylation)『)、その構造を変性させたり、DNAのアルキル化により遺伝子を傷つけたりすることで毒性を発揮する。このため、皮膚や粘膜などを冒すほか、細胞分裂の阻害を引き起こし、さらに発ガンに関連する遺伝子を傷つければ』、『ガンを発症する恐れがあり、発癌性を持つ』と言える。『また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出やすい』。一八五九年、『ドイツの化学者アルベルト・ニーマン』(Albert Friedrich Emil Niemann 一八三四年~一八六一年)『により初めて合成』された。『彼は皮膚への毒性を報告するが』、二『年後に』本剤の『中毒が原因と思われる肺疾患により死去』している。一八六〇年には『イギリスのフレデリック・ガスリー』(Frederick Guthrie 一八三三年~一八八六年)『も合成して毒性を報告している』。一八八六年、『ドイツの研究者ヴィクトル・マイヤー』(Viktor Meyer 一八四八年~一八九七年)『が農薬開発の過程で合成法を完成』したが、『彼はその毒性に手こずり、実験を放棄』している。一九一七年七月十二日、『第一次世界大戦中にドイツ軍がカナダ軍に対して実戦で初めて使用し、約』三千五百『人の中毒者のうち』八十九『人が死亡。その後、同盟国・連合国の両陣営が実戦使用した。大戦中のドイツ・フランス・イギリス・アメリカの』四『ヶ国での生産量は』計一万一千トンにも及んだ。一九四三年十二月には『イタリア南部のバリ港にて、アメリカの貨物船「ジョン・ハーヴェイ号」がドイツ空軍の爆撃を受け、大量のマスタードガスが流出し、アメリカ軍兵士と一般市民』六百十七『名が負傷、』八十三『名が死亡し』ている。『旧日本陸軍も「きい剤」の名称で、「マスタード・ルイサイト」(後注参照)を『保有していた』。『イラン・イラク戦争時、イラク軍はイラン軍および自国のクルド人に対し、マスタードガス、サリン、タブンを使用したと』も『言われる』。

lewisite」は同じく糜爛剤毒ガス兵器として用いられる有機ヒ素化合物「ルイサイト」ウィキの「ルイサイト」によれば、ルイサイトは即効性があることから、遅効性のマスタード・ガスと組み合わせ、「マスタード・ルイサイト」として使うことがある。繊維やゴムを透過する性質があるため、通常の防護服では防ぐことが出来ない。『皮膚、気道に直接接触すると』、『直ちに痛みと刺激を感じ』、三十『分以内に皮膚』が『発赤』し、十二『時間後に水疱が生じる』。『呼吸系に吸い込むと』、『胸が焼け付くような痛みと』、『くしゃみ』・咳・『嘔吐などを伴う。また、肺浮腫を引き起こして死ぬ場合もある』。さらに、『細血管透過性を亢進する作用があるため、血管内体液量減少、血液量減少、ショック、臓器鬱血が生じ、これにより消化器症状を伴った肝、腎壊死が起こる。 眼に触れると激しい痛みを感じ、直ちに洗浄しなければ視力を失う』。『アメリカ人の化学者ウィンフォード・リー・ルイス』(Winford Lee Lewis 一八七八年~一九四三年)『にちなんで名付けられた。ルイスは』一九一八『年に』、『この化合物の合成法を説明するJulius Arthur Nieuwlandの論文を発掘』、一九二〇年代には『アメリカ軍によって実験が行われ』ている、とある。

「嚏」「くさめ」或いは「くしやみ(くしゃみ)」。]

 

Sneezing Gas,  Vormitting Gas. 三十分間戰鬪を失ふ(1000萬分の一あると)

[やぶちゃん注:「Sneezing Gas」「Sneeze」は「くしゃみをする」、「Vormitting Gas」の「vomit」は「嘔吐する」で、これらは鼻や目などを強く刺激し、くしゃみや吐き気を起こさせる毒ガス兵器のことを指す。有害な有機砒素化合物の一種であるアダムサイト(adamsite)や、同じ砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)などがある。旧日本軍では「あか剤」と呼称し、保有していた。]

 

○酸アセチリン瓦斯を熱すると攝氏2500度出す 鐵(1700度でとける)はその爲にアメリカでは一尺位迄ます それでもこもる爲

[やぶちゃん注:「酸アセチリン瓦斯」アセチレン(acetyleneは酸素と十全に混合させて完全燃焼させた場合、その炎の温度は最高摂氏三千三百三十度にも及ぶ。現在では「溶解アセチレンガス」というアセチレン・ガスが、各種可燃性ガスの中では最も高温で燃焼し、金属の溶接・溶断加工に適し、作業性や効率も高いガスだと、「太陽日酸ガス&ウェルディング株式会社」公式サイト内のこちらのページにある。

「それでもこもる爲」意味不明。]

 

Chloraceto phenome(weeping gas).  Diphenylchlorasine(sneezing gas).

[やぶちゃん注:「Chloraceto phenome」催涙剤の一種クロロアセトフェノン(chloroacetophenone)。ウィキの「クロロアセトフェノン」によれば、現在、ごく普通に『防犯グッズの催涙スプレーとして市販されて』おり、『また、世界各国の警察が暴徒鎮圧用として使用し』、『日本の警察も保有している』とある。『塩化フェナシル(phenacyl chloride)、CNガス とも呼ばれる』とある。

weeping gas」催涙ガス。

Diphenylchlorasine」先に注した砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)の綴り違い。]

 

Phosgene(瓦斯)(肺氣腫)より染料を作る (孔雀石 green. 靑 黃)平氣で作る 死ぬ人かへり見られず European War 以來大へんに重大視さる ○酸化炭素と酸素とにて Phosgene. ○靑化加里 氷ザタウ 金の精錬に用ふ 小指ほど食ふ ○伜自殺す 親父遺書をうけとり 驚きかけつけ 喉のかわきし爲そこの水をのむ 靑化加里の水溶液の爲に死ぬ(カリウム)

[やぶちゃん注:「Phosgene(瓦斯)」炭素と酸素と塩素の化合物で「二塩化カルボニル」などとも呼ばれる非常に強い毒性を持つ気体「ホスゲン」。ウィキの「ホスゲン」により引く。『化学工業分野で重要な化合物であり』、一八一二『年に初めて合成された』。『一酸化炭素と塩素から多孔質の炭素を触媒として合成される。ポリカーボネート、ポリウレタンなどの合成樹脂の原料となる』。『有機合成分野でもホスゲンはアルコールと反応して炭酸エステルを、アミンと反応して尿素あるいはイソシアネートを、カルボン酸と反応して酸塩化物を与えるなど用途が広い』。但し、『猛毒の気体であるホスゲンは実験室レベルでは使いにくく、近年では炭酸ビス(トリクロロメチル)(通称』で『トリホスゲン)が代用試薬として用いられるようになった』。『また、フロン類(クロロフルオロカーボン、ハイドロクロロフルオロカーボン)が加熱される事でも発生するので、特に冬季など暖房器具を使用する時期には中毒事故が発生しやすかった。室内の空気に塩素を含む有機性のガス、あるいは塩素と有機性のガスが存在する場合に、放電式の空気清浄機を使用すると、中毒事故が起こる可能性がある』。『毒性が強く、化学兵器(毒ガス・窒息剤)とされている』。『第一次世界大戦では大量に使用され』、『旧日本軍では「あお剤」と呼称して』所有していた。『現在の日本では化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律の第二種指定物質・毒性物質であり、同法の規制をうける』。摂氏二十度 『では気体である。沸点は』摂氏八度『で、純粋なホスゲンは独特の青草臭であるが』、『毒ガスに使われるような低純度なもの、希薄なものは木材や藁の腐敗臭がするといわれている』。『水があると』、『加水分解を受け、二酸化炭素と塩化水素を生じる』。『高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる』。『無症状の潜伏期を経』た後、『肺水腫』(pulmonary edema:肺の実質(気管支、肺胞)に水分が染みだして溜まった状態をいう。溜まった水分により呼吸が障害され、呼吸不全に陥る)『を起こす』。『潜伏期は数時間から、場合によっては』二十四『時間以上持続する場合もある』。『肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると』、『咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が出る。肺水腫によって肺胞毛細血管への酸素運搬が阻害され、低酸素症を引き起こす。また』、『体液が肺胞に流出することによって血液濃縮を起こし、心不全に進行する』。『低濃度のホスゲンに長期曝露した場合には』、『肺に障害を与え、繊維症、機能障害を生じることがある。また、数日が経過してから感染症による肺炎を起す場合がある』。『解毒剤は存在しない。治療は主に肺水腫への対処を行うことになる。目の角膜が損傷する危険がある場合は洗浄を行う。肺炎などの感染症への予防措置を取る。防護措置としては、吸入をしないために、ガスマスクが用いられる』。『第一次世界大戦で毒ガスとして用いられた時には、拡散して低濃度になったホスゲンに長時間曝露した兵士が』二十時間から八十『時間後に突然症状が悪化して死亡する事例が多数あった。このため、曝露した場合は低濃度であっても』三『日程度の経過観察を行う必要がある』。

「孔雀石」(くじゃくいし:malachite:マラカイト)は緑色の単斜晶系の鉱物で、最も一般的な銅の二次鉱物。ウィキの「孔雀石」によれば、『孔雀石の名は微結晶の集合体の縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する。英語起源のマラカイトなど欧語表記はギリシア語(アオイ科の植物の名称)に由来する』。『孔雀石は紀元前』二千『年ごろのエジプトですでに宝石として利用されていた。当時のエジプト人はラピスラズリ(青)や紅玉髄(赤)などと組合せ、特定のシンボルを表す装身具に用いた。現在でも、美しい塊は研磨して貴石として扱われ、アクセサリーなどの宝飾にも用いられるが』、『柔らかい鉱物であることから、硬度』七『以上を定義とする宝石には合致しない』。『銅鉱石として利用されたこともあるが、現在では高品位の銅鉱石と競争できないため、ほとんど使われていない』。『孔雀石の粉末は、顔料(岩絵具)として古来から使用されている。この顔料は「岩緑青」、「マウンテングリーン」などと呼ばれる。青丹(あおに)はその古名』。『銅の炎色反応を利用した花火の発色剤としても重用される』とある。

European War」第一次世界大戦。

「靑化加里」青酸カリ。シアン化カリウム(青酸カリウム)。毒物の代名詞的存在だが、工業的に重要な無機化合物でもある。水酸化カリウムとシアン化水素の反応によって得られる、無色で潮解性のある粉末。水によく溶け、アルコールにも溶ける。水溶液は加水分解してアルカリ性を示す。猛毒で、致死量は〇・一五グラム。金・銀の冶金や鍍金(メッキ)などに利用する。

「カリウム」Kalium(ドイツ語:英語:potassium周期表第一族に属し、アルカリ金属元素の一つ。ナトリウムとともに化合物として古くから人類によって利用されてきた。]

 

○生姜や唐辛子を食ふとぽつくり死ぬ 瘦せ衰へしは(惡病)うづむ ヤセウマ――背負ひ子

○坂みちを人一人下り來る ネクタイピンの如きもの赤し 何かと思へば長きパイプの先に卷煙草の火赤きなり

○大孤山の病院の話

[やぶちゃん注:中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「手帳6」に既出既注。]

 

○山田さんの話 寺の家で自殺

[やぶちゃん注:「山田さん」不詳。]

 

○狂 Pigmy tree. a morality. 道德的侏儒

[やぶちゃん注:「Pigmy treepygmyの誤記であろう。ここは侏儒。「侏儒の木」「矮木」はよく判らぬ。「侏儒の言葉」(生前のそれは大正一二(一九二三)年一月一日発行の『文藝春秋』から連載)の別タイトルを考えていたものか。]

 

○インクのセピア色に血を感ず 十錢 Right ink. サカサマニハイツテヰル ラデイオ

[やぶちゃん注:「サカサマニハイツテヰル ラデイオ」不詳。]

 

○丹前を着た三人の男川の對岸に來り 寫眞をとる(宿の) 我をうつされし如く無氣味なり

barbar.  Café 赤い壁 寫眞屋 溫室――川向う 崖崩れ 狆に櫛を入れる女

○岩の動くを感ず

 

○ 9yubisasi_3  の札 life-like なり

[やぶちゃん注:底本より画像を読み取って挿入した。手の矢印は底本通り(縦書)上を向けた。その手の絵札が「生きている実物の手のよう」で、気持ち悪いほどであった、ということであろう。]

 

○小穴に手紙を出さうとして宿所を忘れる

[やぶちゃん注:「小穴」小穴隆一。後も同じ。]

 

○靑池に白鯉

○大導寺信輔の半生 眞田隼太郎の半生

[やぶちゃん注:「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)の作品名(主人公名)の別案らしい。]

 

○天然を愛するは天然の怒つたり嫉妬したりせぬ爲なり

[やぶちゃん注:「侏儒の言葉」の以下の草稿と言える。

   *

 

      自  然

 

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺いたりしないからである。

 

   *

私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自然』も参照されたい。]

 

○キニイネ――解熱 ゼネガシン ブロチン――祛痰劑

[やぶちゃん注:「祛」の字の(へん)は底本では「衤」。

「キニイネ」キニーネ(オランダ語: kinine:英語:quinine(キニン))南アメリカ原産のキク亜綱アカネ目アカネ科キナノキ属アカキナノキ Cinchona pubescens の樹皮に含まれるアルカロイド。白色粉末で苦い。「日本薬局方」では「硫酸キニーネ」「塩酸キニーネ」などが収載される。原産地では経験上、古くからマラリアの治療薬として使われていたが、記録上では、一六三〇年ペルー駐在スペイン総督キンコン伯の夫人が、キナノキの樹皮でマラリアを治療した実績から、ヨーロッパに輸入されたと伝えられている。一八二〇年、フランスで製剤化に成功し以降、マラリアのほか、強力な効果を持つ解熱剤・鎮痛剤としても多用され、抗生物質の出現(一九四一年のペニシリンの治療効果の確認を最初とする)までは、熱性疾患に対する有力な治療薬の一つであった。他に子宮収縮作用及び抗不整脈作用もある。飲食物に苦味を加える食品添加物としても認可されており、しばしば劇薬と考えている人がいるが、キニーネは薬事法上、「劇薬」には指定されていない。これはストリキニーネ(strychnine:リンドウ目マチン(馬銭)科マチン属マチン Strychnos nux-vomica の種子から得られる非常に毒性の強いインドールアルカロイドの一種。強力な中枢興奮作用を示し、激しい強直性痙攣・後弓反張(体が弓形に反る)・痙笑(顔筋の痙攣により笑ったような顔になる)を起こし、最悪の場合は呼吸麻痺等によって死に至る)との混同等による誤認である。

「ゼネガシン」このような薬剤名は現在は存在しない。セネガシロップのこと。「日本薬局方」に於いては、マメ目ヒメハギ科ヒメハギ属セネガ Polygala senega 或いはヒロハセネガPolygala senega var. latifolia の根を生薬「セネガ」としている。これは去痰作用があり、セネガシロップ(現在もこの名で販売されている)として使うほか、お馴染みの「龍角散」や「改源咳止液W」などにも配合されている(ウィキの「セネガ」に拠る)。

「ブロチン」桜の皮のエキスから造られた古くからある生薬の去痰剤。痰を薄めて出し易くし、咳を鎮める。副作用の殆んどない安全な薬物である。ブロチンシロップとも称する。

「祛痰劑」「去痰劑」に同じい。「祛」は「熱・痰などの病状を取り除く・取り払う」の意。]

 

○親は子ぢやとて尋ねもするが親とてたづねる子は持たぬ

○古道具屋 螺細の硯箱よごれ不細工なり 猿面硯でも入れたくなると言へば小穴(白ズボン)「何 端溪でも似合ふ」と言ふ 鐵の兜や鳥籠もあり 誰か外にもゐる

[やぶちゃん注:思うにこれは、最後の一文から、芥川龍之介の夢記述ではないかと私は思う。

「猿面硯」は「ゑんめんけん」と読み、「圓(円)面硯」とも書く。古代の硯(すずり)の一形態で、陶質で中央に平らな陸(おか)を設け、その周囲に溝を巡らして、さらに下方に台脚をつけたものを指す。グーグル画像検索「猿面硯」をリンクさせておく。]

 

○きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ 白ナンテンの木を箸にし「私は永年癪に苦しんでゐます どうかこの癪の根をたち切つて下さい」と言ひ 蕎麥を一口でもたべる(小さい茶碗に汁をかけ) 大晦日の晩 泊雲居士(キヨシ)

[やぶちゃん注:この話、確実にどこかで(芥川龍之介とは無関係なところで)読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出し次第、追加するが、思うに、この「泊雲居士(キヨシ)」(「キヨシ」はママ。なお、これはルビではなく、丸括弧附本文である)というのは、私は俳人の西山泊雲(明治一〇(一八七七)年~昭和一九(一九四四)年)ではあるまいかと考えている。彼はウィキの「西山泊雲」によれば、兵庫県竹田村(現在の丹波市)生まれで、本名は亮三。『酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り』、『家出や自殺未遂を経験』し、『また』、『家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた』。鈴木花蓑(はなみの 明治一四(一八八一)年~昭和一八(一九四二)年:愛知生まれ。大審院書記。本名は鈴木喜一郎)と並んで『ホトトギス』の沈滞期を『代表する作家で同誌巻頭を』二十八『回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。泊月とともに丹波二泊とも呼ばれた。代表句に「土間にありて臼は王たり夜半の月」』とある。違っていたら、削除する。

「きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ」本来の位置を逆転させることによって、異界への通路は開かれるので、この坐り方はそうした呪的意味を持っていると考えられる。しかも和式便所は穴であり、地下の国である根の国や黄泉の国へのトンネルとも採れるから、祈誓の意味もそこでまさに腑に「落ちる」のである。但し、実は非常に古くはこのしゃがみ方の方が実は正しかったようである。「きんかくし」(金隠し)の言葉は、元は「衣掛(きぬか)け」が語源であって、平安期の「おまる」にあたる携帯用便器である「樋箱(ひばこ)」では衣懸け側(神社の鳥居形のものが上に飛び出ていて、ここに衣の背部の裾を懸けた)を後ろとしていたからである。]

 

○墓場へ位牌をすててゆく 夜汽車でかへる

○カゲキ――歌劇 イナ・ブルスカヤ カルメン フアウスト アイダ トラヴイアアタ ゴドノフ(マリア) 貴族 縊死 孔雀の扇 男たち ボツクス プザノウスキイ

[やぶちゃん注:これは大正一五(一九二六)年七月の『文藝春秋』に発表した「カルメン」(リンク先は「青空文庫」版)のためのメモであるが、彼の小説「カルメン」は芥川龍之介らしき「僕」の語りで幾つかの出来事を語っているものの、多分に架空の話として創作されたものである。実は芥川龍之介自身が実際の舞台を見ているかどうかさえ、現在、確認されてはいないのである。筑摩全集類聚版脚注(以下の上演データ等も総てそれを参照した)によれば、ロシア帝室オペラ歌劇団専属オペラ団は大正八(一九一九)年の九月に来日している(破格に高額の入場料(最上級の席は十二円)を採った)。この頃、ロシア国内の革命(二月革命と十月革命は一九一七年)による混乱を避けて同劇団(芥川龍之介の小説「カルメン」では『グランド・オペラ』と出る)は国外巡演をしていた。実際の同オペラ団による「カルメン」Carmen:フランスのジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が最晩年の一八七三年から翌年にかけて作曲した四幕のオペラ)の上演は同年九月四日・九日・十四日の三日間だけで、しかも小説中にあるように、主役の「イナ・ブルスカヤ」(Ina Burskaya:生没年は確認出来なかった。ソプラノ。当時の同劇団の花形ヒロインであった)芥川の小説「カルメン」では『イイナ・ブルスカアヤ』と表記)が出演せず、代役を立てた「カルメン」は類聚版の注によれば、九月十四日の晩の「カルメン」だけ(代役は『ゾンツエーブ嬢』とある)である。宮坂覺氏の岩波新全集の最新の年譜には、「カルメン」観劇の記載自体が存在しないしかも私は思うのだが、限定されたブルスカヤの出なかった九月十四日(日曜日)の晩に彼がそれを見た可能性は、私は頗る低いと考えている。何故なら、この日は芥川龍之介が客と会うことを決めていた面会日であったこと(但し、一日中、客はなかった)や妻の弟が来訪していることが、彼の日記「我鬼窟日錄」(リンク先は私の注附き電子テクスト)によってわかり、しかもそこには、

   *

九月十四日 雨

 日曜なれど終日客なし。塚本八洲來る。

 夜に入つて風雨大に催す。

   *

と、夜になって風雨が激しかったことを記すだけだからである。その風雨に敢えて怯まずに丸の内の帝国劇場に彼が、この日の「カルメン」を見に行ったとすれば、それを日記に書かぬはずはないからである。実際、ブルスカヤでなく、『水色の目をした、鼻の高い、何なんとか云う貧相ひんそうな女優で』、『落膽し』(小説「カルメン」より)たのだったら、なおのこと、それが癪に触って書いたに違いないからである。

 いや――もう一つ、行かなったであろうと推定する理由がある。

 それは――この翌日の大正八(一九一九)年九月十五日こそが――かのファム・ファータル秀しげ子と不倫の肉体関係を持ったその日――だからである。

 敢えて言えば、芥川龍之介は前の二回(九月四日と九日)のブルスカヤの演じた「カルメン」を見ている可能性は充分ある。何故なら、宮坂年譜では同月九月一日から、九日までが空白だからである。「カルメン」では「僕」が「カルメン」を見たのを、『確か初日から五日目の晩』と言っているが、同歌劇団の初日は九月一日の「アイーダ」で、その日から四日目に第一回目の「カルメン」が上演されている(因みに、九月十日の岩野泡鳴の「十日会」で秀しげ子と逢った際に十五日の密会を約束したものと推定される。これは先の日記「我鬼窟日錄」を読んでも十日以後は「カルメン」どころじゃない、初めての不倫へ向けて精神状態が普通でなくなっているのが、一目瞭然である)。

 それにしても……秀しげ子とカルメン……嵌り過ぎと言えば――嵌り過ぎている…………

「フアウスト」Faustはフランスの作曲家シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod 一八一八年~一八九三年)の最も知られる、ゲーテの劇詩「ファウスト」(ドイツ語でも綴りは同じ)第一部に基づいて作られた同名の五幕のオペラ。来日中、九月三日・八日・十三日に三回公演している。

「アイダ」Aidaはイタリアの作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)が作曲し、一八七一年に初演された全四幕のオペラ。ファラオ時代のエジプトとエチオピアの二国に引き裂かれた男女の悲恋を描く。来日中、九月一日・六日・十一日に三回公演している。

「トラヴイアアタ」La traviata。所謂、ジュゼッペ・ヴェルディが一八五三年に発表した三幕のオペラ「椿姫」のこと。このイタリア語のオペラの原題は「堕落した女・道を踏み外した女」の意であるが、本邦では、原作の、フランスの作家「小デュマ」、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils  一八二四年~一八九五年)の小説La Dame aux camélias(「椿の花の貴婦人」)の意訳「椿姫」のタイトルで上演されることの方が多い。来日中、九月二日・七日・十二日に三回公演している。

「ゴドノフ」Борис Годунов「ボリス・ゴドゥノフ」。モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский 一八三九年~一八八一年)はが作曲した、彼の作品の中でも最も知られらた、プロローグと四幕から成るオペラ。ロシアの実在したツァーリボリス・ゴドゥノフ(一五五一年~一六〇五年)の生涯をオペラ化したもの。来日中、九月五日・十日・十五日に三回公演している。因みに、筑摩全集類聚版脚注によれば、以上の他、九月二十四日がマチネー(matinée:フランス語で「昼間興行」)で「カバレリヤ・バリアッチ」(イタリアの作曲家モルッジェーロ・レオンカヴァッロ(Ruggero Leoncavallo 一八五七年~一九一九年)のI Pagliacci(「道化師」:一八九二年に初演。全二幕)のことであろう。同じイタリアのピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 一八六三年~一九四五年)作曲の一幕物Cavalleria Rusticana(カヴァレリア・ルスティカーナ:「田舎騎士道」。一八九〇年初演)と並ぶ、ヴェリズモ・オペラ(verismo opera:一八九〇年代から二十世紀初頭にかけてのイタリア・オペラの新傾向作品。市井の人々の日常生活や残酷な暴力などの描写を多用し、音楽的には声楽技巧を廃した直接的な感情表現に重きを置いたもので、重厚なオーケストレーションを駆使することを、その特徴とする)の代表作であるから、或いは二作とも公演したものか)でお名残り公演となったとある。

「マリア」「ボリス・ゴドゥノフ」に登場するポーランド貴族の娘マリナ・ムニシュフヴナ(ポーランド語:Maryna Mniszchówna:偽(にせ)ドミトリー世(Лжедмитрий I 一五八二年~一六〇六年)はモスクワ国家のツァーリ(在位:一六〇五年~一六〇六年)。動乱時代にイヴァン四世の末子ドミトリー皇子を僭称した最初の人物)の皇妃となった)。ソプラノであるから、或いはイナ・ブルスカヤが演じたか。

「貴族 縊死 孔雀の扇」総て芥川龍之介の「カルメン」に登場する重要なキー・ワードであるが、ロシア人鉄道技師が帝国ホテルで九月十五日午前一時半(実際の最後の「カルメン」上演の翌日)に服毒自殺したというだけの記事(筑摩全集類聚脚注に拠る)から、芥川龍之介が完全にデッチ上げた創作部に相当するメモである。

「プザノウスキイ」不詳。]

 

○ダニ山 ヒル山(先頭にたからず) マムシ山 三四尺の所に二十匹

○偉大なる悲劇も lookers-on には單なる comedy なり

[やぶちゃん注:「lookers-on」傍観者・見物人。]

 

○男の Bovarism.

[やぶちゃん注:「Bovarism」自惚れ・過大なる自己評価。フランス語“bovarysme”が語源。フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert  一八二一年~一八八〇年)の代表作である長編小説「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)に因む。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が自由で華やかな世界に憧れ、不倫や借金地獄に追い詰められた末に人生そのものに絶望、服毒自殺する物語。]

 

○英雄の末年――Bismark.

[やぶちゃん注:「鉄血宰相」(Eiserner Kanzler)の異名をとったプロイセン及びドイツの政治家で貴族のオットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。プロイセン王国首相(在職:一八六二年~一八九〇年)・北ドイツ連邦首相(在職:一八六七年~一八七一年)。ドイツ帝国首相(在職:一八七一年~一八九〇年)を歴任した、ドイツ統一の中心人物であったが、新たに王位に就いたウィルヘルムⅡ世と社会主義者鎮圧法の更新を巡って衝突し、一八九〇年三月十八日に宰相を辞任した。以下、ウィキの「オットー・フォン・ビスマルクによれば、その後の『ビスマルクの失意は深く』、一八九〇年から翌年にかけては、『たびたび自殺を考えたというが、個人的威厳を重んじる念と信仰心によって思い止まったという』。『退任後もビスマルクの影響力は絶大であり、多くの人々が彼の周りに集り、彼も大臣やヴィルヘルムⅡ世をも批判した。それでも、一八九四年初頭にはヴィルヘルムⅡ世と和解している。『ビスマルクの失脚原因ともなった社会主義への敵意は退任後も一貫して強く持ち続け』、一八九三『年にはアメリカのジャーナリストの取材に対して「社会主義者はドイツ国内を徘徊するネズミであり、根絶やしにしなければならない」と述べ』、一八九四『年にハルデンに宛てた手紙の中では社会主義者を伝染病の病原菌に例えた。死を間近にした』一八九七『年にも「社会問題はかつてなら警察問題で解決できたが、いまや軍隊を用いねばならない」と述べている』。

一八九四年十一月二十七日に『妻ヨハンナに先立たれると』、『生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった。ビスマルクは妻の死に関して妹へ宛てた手紙の中で「私の残されていた物、それはヨハンナだった。(略)民が寄せてくれる過分な好意や称賛に対して私は恩知らずにも心を閉ざしてしまうようになった。私がこの』四『年間それを喜んでいたのは』、『彼女もそれを喜んでいてくれたからだった。だが』、『今ではそのような火種も徐々に私の中から消えようとしている」と書いている』。『血行障害』のために、『あまり身体を動かさなくなったことで片足が徐々に壊死していき、しばしば激痛に悩まされるようになっ』て、一八九七年の『秋以降には車椅子生活になった』。一八九八年七月三十日、『息を引き取った』。『主治医によると』、『死因は肺の充血だったという』。『息子ヘルベルトの妻によると最期の言葉は「私のヨハンナにもう一度会えますように」だったという』。『ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム』Ⅰ『世に忠実なるドイツ帝国の臣」であった』。また、「コロサイの信徒への手紙」第三章二十三節にある『「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれている。これはビスマルクが』十六『歳の頃より愛していた言葉だった』という、とある。]

 

○東雲の煤降る中や下の關

[やぶちゃん注:『驢馬』(大正一五(一九二六)年四月発行)の「近詠」欄に、

   *

 

  旅情

しののめの煤ふる中や下の關

 

   *

として載るが、しかし、

 

東雲(しののめ)の煤降る中や下の關

 

の形で、前年大正一四(一九二五)年九月一日附室生犀星宛(旧全集書簡番号一三六五・軽井沢鶴屋旅館発信)に記されており、しかも句の直前の手紙文に「御覧の通り、軽井澤の句ではない。」とある。これは情景から見て、明らかに四年前の中国行出立の折の回想句で、私は大正一〇(一九二一)年三月二十八日の門司から上海に向けて出航した際の情景と推理している。]

 

○桑ボヤに日かげ移りぬ午の鐘

[やぶちゃん注:ここにのみ出る芥川龍之介の句

「桑ボヤ」桑の葉を摘み採った後の小枝。乾かして薪(たきぎ)などにした。]

 

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