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2018/01/10

甲子夜話卷之四 22 川柳點

 

4-22 川柳點

川柳と云る點者あり。輕浮鄙猥の事ながら、十七字の内に、自在に含蓄したることを言おゝせたる手際は、其徒の右に出るものは非るべし。恐多もあれど、餘りに事態を言協たると思へば、

 

 あんかうを寺につるして大さはぎ

 

浮薄の極にはあれど、かゝる口先眞似もならぬことなるべし。曩日白川侯首輔たりしとき、

 

 爲になる伴頭いとこ同士にて

 

侯頻りに節儉の令を下されし頃、

 

 あの人の奢は駕籠の棒計

 

『柳樽』と云書、數卷刻布す。世人の翫も宜なり。

■やぶちゃんの呟き

 川柳句の前後を一行空けた。

「川柳點」「點」は本文に出る「點者(てんじや(てんじゃ)」で、点者とは連歌・俳諧・狂歌・雑排・川柳(後述)などに於いて、その出来を評して点をつけ、その優劣を判定する者を指し、彼ら葉その際に「点料」という報酬を受け、それを生業(なりわい)とする者たちを指す。「川柳」は柄井川柳(からいせんりゅう 享保三(一七一八)年~寛政二(一七九〇)年)で、江戸中期の前句付けの点者。川柳(発句ではなく、前句付けから五七五の付句(連歌・俳諧の付合(つけあい)に於いて前句に付ける五七五の句)のみが独立した、基本、十七文字(字余り・字足らず・破調も有り)で無季の短詩。切れ字の制約もなく、滑稽・諷刺を旨とし、口語の詩として流行した)の創始者で、その名(号)がそのままその滑稽詩の名となった。本名は正道、通称を八右衛門と称した。ウィキの「柄井川柳」によれば、『柄井家は代々』、『江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で』宝暦五(一七五五)年に『家を継いで名主となった』。当初は『談林派俳諧の点者であったと』もされる』『が定かではない』。宝暦七年八月二十五日(一七五七年十月七日)に『前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合』(まんくあわせ」享保期(一七一六年~一七三六年)以後、特に江戸で盛行した雑俳の興行形態の名称。呼称は一回の興行で一万句前後もの応募句があったことによる。また、その興行の度(たび)に勝句(高点句)を印刷し、入選者に配った刷り物をもかく呼んだ)『を興行している』。『これ以降』、月三回、五の『つく日に句合を興行している』。宝暦十二年十月十五日(一七六二年十一月三十日)の句合せでは総句一万句を『超し、その流行ぶりがうかがえる』。『新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め』、『江戸における前句付作者にこのまれた』。明和二(一七六五)年七月、『呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された』川柳の句集「誹風柳多留」(第一編。柄井川柳が前句附興行の「万句合」で選んだ句の中から、呉陵軒可有が掲載作を選考、柄井川柳が編纂に携わった。コンビのそれになるものは二十四編までで特に評価が高い。同題でその後も幕末までほぼ毎年刊行された)『は、川柳評前句付の流行に拍車をかけた。後、前付句が独立して川柳と呼ばれるようになった』。辞世の句は、

 

 木枯らしや跡で芽をふけ川柳

 

『であったと伝えられている』。『なお、川柳の号は』十六『世(尾藤川柳)まで受け継がれ』た。『柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地』が東京都台東区蔵前四丁目とされ、現在、『「川柳発祥の地」の碑が』建つ、とある。

「輕浮」「けいふ」。軽佻浮薄。考えや行動などが軽はずみで、気分が浮(う)わついているさま。

「鄙猥」「ひわい」。「卑猥」に同じ。下品で猥(みだ)らなさま。

「言おゝせたる」「いひおおせたる(いいおおせたる)」。謂い遂(おお)せる。言い尽くす。如何にも上手く的確に表現している。

「徒」「と」。同好の輩(やから)。

「非る」「あらざる」。

「恐多もあれど」「おそれおほくもあれど(おそれおおくもあれど)」。内容が(諷刺に過ぎたり、下品であるからして、)失礼極まりない面は確かにあるのであるが。

「事態」詠んだ対象や状況。

「言協たる」「いひかなひたる(いいかないたる)」。謂い適った。確かに言い得て妙な表現ではある。

「あんかうを寺につるして大さはぎ」魚の「鮟鱇」ではあるが、それを殺生禁断の寺で吊し切りにするというのではなく、「安康」(天下太平で無事なこと・安泰)に引っ掛けて、例の豊臣秀頼が家康の勧めによって京都の方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中に「国家安康」の字句が、家康の名を分断していて徳川氏を呪詛していると非難、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させたあの事件の「鐘」を吊るすに掛けたものであろう。或いはそこから更に、大言壮語するくせに臆病な武者を嘲って言う「鮟鱇武者」「鮟鱇侍(ざむらい)」も秘かに利かせて、近世武士階級をも風刺しているのかも知れない。

「極」「きはみ(きわみ)」。

「曩日」「さきのひ」。「先の日」で過ぎし日の意。

「白川侯」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。

「首輔」は将軍補佐の意であろう。定信は天明七(一七八七)年に老中上座となり、翌天明八年に将軍輔佐を兼ねた。その後、「尊号一件」(朝廷と幕府との間に発生した閑院宮典仁(すけひと)親王への尊号贈与に関する紛議事件)を主因として寛政五(一七九三)年七月二十三日を将軍輔佐を辞任している。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、定信の辞任から十八年も過ぎており、柄井川柳の死後三十一年が経過している。静山は他の記事で定信を相応に評価しているにも拘わらず、ここでは柄井川柳の批評精神をも実に素直に評価している点であることに注意したい。

「爲になる伴頭いとこ同士にて」「伴頭」番頭。営業活動や家政全般を取り仕切った店(国政)の万事を預かった老中首座及び将軍補佐職の定信に掛けた。「いとこ同士」とは、定信が第八代将軍側吉宗の次男田安家初代徳川宗武の子であり、彼の主君であった第十一代将軍徳川家斉の実父が吉宗の四男で一橋徳川家初代当主宗尹の四男徳川治済であったことを指すのであろう。正しくは「いとこ」ではなく「はとこ」であるが、これは不敬を咎められた際の逃げ道であろう。

「侯頻りに節儉の令を下されし頃」定信の敢行した寛政の改革は緊縮財政と風紀取締りによって経済・文化が停滞した。

「あの人の奢は駕籠の棒計」「あのひとのおごりはかごのぼうばかり」。寛政の改革の大号令で節約を旨とした結果、大々名の駕籠も質素を強いられ、精々、見ても判らぬ大名駕籠の棒に良材を使うしかなかったという皮肉であろう。

「柳樽」先に注した「誹風柳多留」。

「云書」「いふ書」物。

「刻布」板行。

「翫も」「もてあそぶも」。

「宜なり」「うべなり」。尤もなことであった。

 

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