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2018/01/08

芥川龍之介 手帳7 (11) 紫禁城(Ⅱ) 諸画

 

○大乙觀泉 王家 萬壑松風 文伯仁(明) 墨竹 張※(明) 煙江疊嶂圖 王原祈 職靑圖 立本(僧) 桐陰玩鶴圖(石田)ノ木の色つよすぎる 芙蓉秋鴨圖 王維烈(明) 沈周藍瑛僞筆 仇英遊子昂 南田の山水 俗

 

[やぶちゃん字注:「※」=「音」+「也」。芥川龍之介が訪れた当時(一九二一年)は、未だ溥儀が内廷で暮らしており、紫禁城は、外朝の一部であった「文華殿」と「武英殿」だけが「古物陳列所」として開放され、民国政府の所有する文物を展示していた、と「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」にあり、『そこの見学には筆記用具の持ち込みが禁じられていたため、芥川は見学後に記憶に頼って、眼にした古代書画を手帳に書きとめた』とある。されば、以下の誤記らしきものも大いに納得がゆくのである。

「大乙觀泉」不詳。但し、「大乙」は恐らく「だいいつ」でこれは、商朝の初代の王であった天乙(てんいつ 紀元前一六〇〇年頃:名は履。殷墟出土の甲骨文占卜には「大乙」で、名は「唐」・「成」と見える)、恐らくは夏の暴君で妖妃妺嬉(ばっき)に耽溺した桀王を追放し、夏を滅ぼした「湯王(とうおう)」と言った方が通りがよいかも知れない(私はそれで覚えているし、漢文の授業でも「湯王」と板書した)。ウィキの「大乙」によれば、『それまでの勢力を制圧し』、『中原の覇権を得て、亳に王都を築営した。殷の建国者として実在の可能性が高い』。『天乙は夏の最後の桀を追放し』、『夏を滅ぼした』。『桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした』。『天乙は夏の禹、周の文王、武王と並び聖王として後世に崇められている。徳は高く』、『鳥や獣にまで及ぶと言われた』とある聖王のことかとは思う。

「萬壑松風 文伯仁」文伯仁(一五〇二年~一五七五年:明代の画家。先の文徴明の猶子。水は王蒙を倣い、その筆力は清勁で「巌巒鬱茂」を以って称せられた)が一五五一年に描いた「四萬山水圖」(四幅)の一幅が「萬壑松風」(ばんがくしょうふう)。現在、この 四幅は東京国立博物館蔵で同博物館のサイトのこちらで画像が見られる。

「張※(明)」人物どころか読みも不詳。

「江疊嶂圖 王原祈」「王原祈」は清初期の著名な画家で、彼も詩・書・画に巧みで「三絶」と称された。「江疊嶂圖」(「こうじょうしょうず」(現代仮名遣)と読んでおく。「嶂」は峰の意)は霞んだ大河と重畳してそそり立つ岩峰を配した山水画の題として頻繁に汎用される作品名である。王原祈のそれは不詳。

「職靑圖 立本(僧)」「立本」は初唐の画家で「歴代帝王図巻」で知られる、第二代太宗(李世民)に仕えた閻立本(えん りっぽん ?~咸亨四(六七三)年)。ウィキの「閻立本」によれば、『貴族ではあるが』、『宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人』。『閻一族は貴族階級であり、匠学の名家として代々宮廷の装飾を担った。宮廷装飾というのは画に限らず、宮中での冠服から車輿の設計、土木事業にまでわたっている。父の閻毗』(えんび)『は隋の煬帝に仕え、兄の閻立徳も立本と同じく太宗に仕え、橋梁の構築で偉功があった』。『立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書』・『博陵県公』・『を経て、『中書令(宰相)にまで昇っ』た。『殊に画に才能が発揮され』、六二六年には、『太宗に命ぜられて「秦府十八学士図」を画き、褚亮が賛を書いた。その他に「王会(職貢)図」・「歩輦図」・「功臣二十四人図」などを画いたと伝えられる。「歴代帝王図巻」(ボストン美術館蔵)は前漢の昭帝から隋の煬帝までの歴代』十三『人の皇帝を画いた図巻として著名だが、北宋時代の模写であろうとされる』(下線やぶちゃん)。『この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である。この伝統的画法に対して当時、西域画派が台頭し始め、尉遅乙僧(ウッチ・オッソウ)などが新風を吹き込んだ。閻立本の伝統的画法は薛稷らが継承した』とある。但し、他の辞典や中文サイトの解説等を参照しても、彼が僧侶だったという記載はないから、この「(僧)」という芥川龍之介のメモは誤りと思われる。他の記載を見ると、彼は梁の張繇(ちょうそうよう)なる画家の画風を学んだとあり、或いは中国語で書かれた解説を見た龍之介が、「立本」という名が僧名っぽいことなどから、彼を画僧だと勘違いしたものかも知れぬ。また彼の絵に「職靑圖」というのは見当たらない。しかし、彼の模本に先に示した「王會圖」(=「職貢圖」:古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意。梁時代の梁職貢図(原本は消失)が有名で、閻立本が模写したものもそれ)があり、これをメモで間違えて、「職貢圖」としてしまったものを、岩波旧全集編者が「貢」を「靑」と誤読した可能性が疑われる。立本のそれは現在、台湾国立故宮博物院が蔵している。中文の「職貢圖―Wikiwand」のここで見られる(一部か)。

「桐陰玩鶴圖(石田)」「石田」(せきでん)は明中期の文人にして画家であった沈周(しんしゅう 一四二七年~一五〇九年:文人画の一派である「呉派」を興し、南宋文人画中興の祖と呼ばれる。詩・書・画ともに優れ、「三絶」と評される。弟子に先に出た唐寅・文徴明などがおり、後の呉派文人画に大きな影響を与えた)の号。芥川龍之介「秋山圖」(大正一〇(一九二一)年一月『改造』初出)にも、

   *

 所がその後(ご)元宰(げんさい)先生に會ふと、先生は翁(をう)に張氏の家には、大癡(たいち)の秋山圖があるばかりか、沈石田(しんせきでん)の雨夜止宿圖(うやししゆくづ)や自寿圖(じじゆづ)のやうな傑作も、殘つてゐると云ふことを告げました。

   *

と出る(引用は岩波旧全集に拠った。読みは一部に留めた)。彼の「桐陰玩鶴圖」は中文サイトのこちらで軸装されたものを見ることが出来る。

「芙蓉秋鴨圖 王維烈」「王維烈」は明代の、西暦で十六世紀から十七世紀の蘇州の画家。「芙蓉秋鴨圖」は「芙蓉水鴨圖」の誤りと思われる。

「沈周藍瑛」「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年)明末清初の浙派(せっぱ)の画家。銭塘(浙江省杭州)の出身。「浙派の殿将」と称され、主に杭州で売画を生業(なりわい)としていた職業画家と考えられているが、早くに董其昌(とうきしょう:明末の文人画家・書家で当時の文人画の大成者)らに重んじられて杭州の文人とも親しく、西湖の詩社の一員であったと推測されるなど、文人画家的性格が強い。主に山水を得意とし、同時代の呉派の慣習にならって唐・宋・元の南北両宗にわたる画家を模したとされるが、形態性や画面構成などは個性的な様式を示し、浙派の影響を指摘出来る。子の藍孟、孟の子の藍深・藍濤が家法を継承したほか、劉度・蘇宜ら多くの追随者を出した。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)が、先の沈石田の作品を模写(贋作)したものと思われる。

「仇英趙子昂」これは二人の画家の名。「仇英」(きゅうえい ?~一五五二年?)明中期に蘇州で活動した画家。字(あざな)は実父(じっぽ)、号は十洲、江蘇省太倉の人。唐宋の画風を学んで、独自の画風を創始した。山水・人物・花鳥孰れにもに長じ、特に美人画は明代第一とされる。先に出た沈周・文徴明・唐寅とともに「明四大家」と称される。四大家のうち、唯一の職業画家であったが、文徴明らとの交流によって文人的教養も身につけていた。初め、周臣に師事してその伝統受容の態度を学び、後に数多の古画をみずから臨摹(りんも:模写法の一つ。「臨」は原物を傍らに置いて、その形勢を写すやり方で「臨写」とも称する。「摹」は原物の上に薄紙を置き、透写(すきうつ)しをする方法を指す。古書画の研究や習学の第一段階として重要視された手法)して伝統把握を確かなものとし、一家を成した。厳しい修練に支えられた的確な技巧を有し、殊に中間色を多用した婉麗(えんれい:しとやかで美しいこと)な色彩処理によって豪奢な絵画世界を築き上げ、明代絵画史の一つの頂点を極めるとともに、文徴明以後の呉派文人画の変容に大きな影響を与えた。「趙子昂」(ちょうすごう)は宋末元初の政治家で書画家でもあった趙孟頫(もうふ 一二五四年~一三二二年)の字。呉興(浙江省)の出身。南宋の孝宗の実父であった趙子偁(ししょう)の五代の孫に当たる。同時代の書画人として知られる趙孟堅とは従兄弟の間柄。初め、宋に仕えて地方官をしていたが、宋の滅亡後は家郷で閑居していたが、一二八六年、元の世祖フビライに召されて大都(現在の北京)に赴き、翌年、奉訓大夫・兵部郎中に任ぜられた(以上は孰れも主に平凡社の「世界大百科事典」に拠った)。

「南田」惲寿平(うんじゅへい 一六三三年~一六九〇年)は清代前期の画家。南田は号。詩・書・画共に優れて「三絶」と称せられた。山水画の名手。芥川龍之介は彼の画風を好み(但し、この時見た山水画には「俗」とあるから期待はずれであったようだ)、先の「秋山図」にも彼を登場させており、江南游記 七 西湖(二)でも西湖の実景を見て(龍之介は期待していたはずの西湖に実景には実は失望した)、彼の画境に近いという逆説的手法を用いて描写している。

   *

 私が西湖を攻擊してゐる内に、畫舫は跨虹橋(ここうけう)をくぐりながら、やはり西湖十景の内の、曲院の風荷(ふうか)あたりへさしかかつた。この邊は煉瓦建も見えなければ、白壁を圍んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き殘つてゐる。左に見える趙堤の木蔭に、靑靑と苔蒸した玉帶橋が、ぼんやりと水に映つてゐるのも、南田(なんでん)の畫境に近いかも知れない。私は此處へ船が來た時、村田君の誤解を招かないやうに、私の西湖論へ增補を施した。

 「但し西湖はつまらんと云つても、全部つまらん次第ぢやないがね。」

   *]

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