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2018/02/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(3)

 

 長門の秋吉村には、百濟國王が漂著して勸請したと稱する八幡宮がある。其境内の一古墳を其王の臣下の靈と謂ふが如きは、卽ち八幡信仰の常の形であれば、やはり是も日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る(長門風土記)。佐渡・常陸の新羅王の如きも、或は斯う云ふ舊傳と後世の漂著譚とが混淆したのではあるまいか。若狹遠敷郡椎崎御垣大明神は、御垣山王とも稱して山王樣であるが、社の側の塚を王塚と名づけ、曾て異國より「王ざまの人」船に乘り渡り來つて住み、死して此地に埋めたと傳へ、其船の屋形を取つて作つたと云ふ御輿が有つた(若狹國官社私考)。通例人はこの類の一部の形跡ある口碑などに接すると、或は其樣の事實が有つたのかも知れぬ、と云ふ程度で今迄は觀察を止めて居た。併し王にもせよ王子にもせよ、其樣な漂流が折々有つた筈も無し、又其が日本の信仰になるわけも無いから、塚とか神輿とかの舊物に託してこんな話の有るのは、何かさう誤傳せられるだけの事情があつたものと、考へて見る必要があつたのである。海近い村では神社を岬の山に齋き、然らざれば所謂御旅所を渚に構へた例が最も多い。祭の日に濱下(はまお)りなどゝ稱する儀式を行ふ風習は隨分奧の方の里迄行はれて居る。西部日本には殊に其海岸の一地點を宮の浦と呼び、神の最初の影向にも此から上陸されたやうに謂ふのが普通である。而も能ふべくは神を歷史上の實在の人と考へたいのが、近世一般の傾向であつたから、そこで菅公左遷の航路が大迂囘であつたり、又は神功皇后が到る處に碇泊ばかりして御出でなされたことになる。島國であつて天の神を祭つて居れば、是は殆ど當然の歸結であつて、岸から沖を見れば海の末は卽ち空だから、乃ち鳥船・磐船の神話も起り得るのである。東日本に於ては常陸の大汝少彦名の二柱の御神、伊豆の事代主神の如く誠に思ひ設けざる示現が古い世にもあつた。之を顯はし申したのは、固より神懸りの言であつた故に、篤信の人に取つては事實と擇ぶ所は無かつた。そこで對岸が三韓であつた地方には、自然に新羅王百濟王などの名前が、託宣の中にも出來ることになつたのでは無いか。高麗神渡來の話も二つは既に聞いて居る。その一つは伊豆山の走湯權現で、御船は先づ相州中郡の峯に著き、一旦高麗寺山の上に鎭座なされたと傳へて居る(關東兵亂記)。此は或は地名に由つて後に出來た説とも見られるが、越中礪波郡の高瀨神社の如きは、何のつきも無いのに亦高麗より御渡りなされた神と稱し、御著の日は七月十四日、今の御旅所のあるたび川の流は、其折御足袋を濯がせたまう故跡などゝ謂ふのである(越中國神社志料)。所謂客神蕃神[やぶちゃん注:底本は「番神」であるが、おかしいのでちくま文庫版全集で訂した。]の由來には、右の如き分子も含まれて居ることを考へて置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「長門の秋吉村」現在の山口県美祢市秋芳町秋吉上宿にある秋吉八幡宮。(グーグル・マップ・データ)。祭神の中に地主神百済國帝が含まれている。陰の総長氏のブログ「何処へ行くんだ! 土佐瑞山」の秋吉八幡宮に『「風土注進案」に、嘉祥年中』(八四八年~八五一年)『百済國帝、大津郡に漂着と記されているそう』だ『が、その約』二百『年前に百済國は唐によって滅ぼされてい』る、とある。柳田國男の話よりも遙かにビシッと決めていて、よい。

「日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る」よく意味が判らぬが、或いは「くだら」を「ふだらく」、補陀落(観音菩薩の降臨するとされる伝説上の霊山)渡海のそれに擬えたものか。

「長門風土記」「長門國風土記」のことか。詳細書誌不祥。国立国会図書館デジタルコレクションはあ

「若狹遠敷郡椎崎御垣大明神」現在の福井県小浜市若狭にある椎村神社。阜嵐健氏の「延喜式神社の調査」の「椎村神社」(地図有り)によれば、「神祇志料」には『椎崎御垣明神』とある旨の記載がある。また、この神社には五月五日に行われる祭礼の中に「王の舞」という奉納舞いがあり、『獅子舞と「王の舞」が奉納され、区の繁栄と今年の豊作を祈りました。獅子退治の様子を演じる「王の舞」は飛鳥、奈良時代に中国や朝鮮から伝わり普及したと言われていますが、この若狭の「王の舞」はいかにも素朴でしみじみとした味わいがあり、市の無形民族文化財に指定されています』。『西之浦の神社から東浦の村中までの』一『キロ余りを太鼓や神輿、稚児などが行列を成し、途中、砂を盛って清めた場所で一服をしました。「お旅所」といって神様の休憩所だそうで、今では海岸道路が出来、車が行き来しますが、昔は小山を越えなければならず、』四百キログラム『以上もある神輿を担ぐには』、『神様どころか』、『人間様が一服せざるを得ません』とある。

「若狹國官社私考」江戸後期の国学者伴信友(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年:若狭小浜藩の御馬廻組の藩士の第四子として小浜に生まれ。十四歳で同藩勘定頭石伴信当の養子となった。翌年、江戸に移って十六歳より出仕した。本居宣長没後の門人で、著作は百数十部に上り、古典の校訂や集録も多い。近世考証学の泰斗)が、若狭国式内社四十二座について記したもの。全二巻。

「齋き」「いつき」。心身の汚れを去り神に仕え、世話をし。

「鳥船・磐船の神話」「天の鳥船(あまのとりふね)」と「天の岩船」。神が乗って天空を移動すると考えられた船。古事記では伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだ神とする。

「大汝」「おほな」。「おおなむち」の命(みこと)。大国主。

「少彦名」「すくなびこな」の命(みこと)。大国主の国造りに際して天乃羅摩船(あめのかがみのふね)(ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した漂着神とされるが、私は高い確率でかの伊弉諾尊・伊弉冉尊が最初に生んだ蛭子(ひるこ)の変形と考えている。

「高麗寺山」現在の大磯町にある高麗山(こまやま)の頂上付近を指す。

「關東兵亂記」「相州兵乱記」とも言う。室町時代の関東を扱った合戦記で全四巻。著者・成立年代は未詳であるが、成立は天正八(一五八〇)年以降と推定されている。

「越中礪波郡の高瀨神社」現在の富山県南砺市高瀬にある高瀬神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイトの歴史の記載を見ると、「創祀伝承」の部分に、「高瀬神社誌」から引いて、『在昔、大己貴命北陸御經營ノ時、己命ノ守リ神ヲ此處ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、國成リ竟ヘテ、最後』ニ『自ラノ御魂ヲモ鎭メ置キ給ヒテ、國魂神トナシ、出雲ヘ歸リ給ヒシト云フ』(恣意的に漢字を正字化した。後も同じ)とある一方、併記して「越之下草」から引用し、『此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日』七月十四日『なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、此川の邊に暫時御休み、高瀨へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よ』つ『て其處を、今に雨潛村といふ也。其後每年たひ川の邊御休の處へ御旅行なされ、其處を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也』とある。これは確かに神社の縁起としては、なかなか特異であると思われる。我々には大己貴命(おおむなちのみこと)の守り神が高麗より渡った神であったという逆転理解は当然、不可能なのであるが、或いは民は、柳田國男の言うように、それに不審を抱かなかったかも知れぬ、と考えると面白い。

「何のつきも無い」周辺に具体的な渡来伝承譚やそれに付随する話柄が全くないということであろう。

「越中國神社志料」佐伯有義編輯。詳細書誌不詳。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 新なる不平 / 明治二十七年~了

 

     新なる不平

 

 『日本』に還った居士は、仕事の上からいうと、『小日本』時代より大分楽になった。『小日本』の廃刊については「愛子を喪(うしなひ)し如き感」があったに相違ないけれども、編輯という重責から離れたため、その方面の心労はなくなったわけである。当時飄亭氏に与えた手紙に「『日本』六頁は小生少も手をつけず、石井許りに相任せ申候。五頁だけこしらへればよき事故每日二時頃出社四時過退社致候次第にて『小日本』よりは大分樂に相成候。併し時々三段四段も埋めにやならぬには閉口いたし候」とあるが、石井というのは露月氏のことである。「文学漫言」の如きも三段四段を埋める一材料だったのであろう。

 同じ飄亭氏宛の手紙に「時々鳴雪翁をとひ中村畫伯と放談するなど此頃の快事に御座候」ということも書いてある。これは時間的に余裕の出来た証拠であるが、「地図的観念と絵画的観念」などという文章は、鳴雪翁訪問の結果として生れたものである。蕪村の「春の水山なき國を流れけり」の句を以て、鳴雪翁は蕪村集中の秀逸、俳諧発句中の上乗とし、居士はそれより一、二等下に置く。居士が鳴雪翁ほど高く評価しない理由は、「山なき國」の一語にあるので、これは目前の有形物を詠じたものでない、幾多の観念を綜合した後にはじめて生じ得べき抽象的の無形語だから、文学的感情を刺激することが薄いというのであった。一時間余も議論を闘わした後、鳴雪翁ほ地図的観念を以てこの句を見、居士は絵画的観念を以てこの句を見るという原因を突止(つきと)め得た。「地図的観念と絵画的観念」はこの原因について、更に心理学的解剖を進めたものである。

[やぶちゃん注:「地図的観念と絵画的観念」は「獺祭書屋俳話」に載り、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから読める。]

 八月四日の『日本』に居士は「そゞろありき」という文章を掲げた。朝早く日暮里、三河嶋辺を彿御した俳句入の文章で、これも紙面を埋めんがためのすさびであったかも知れぬ。次いで八月十四日、鳴雪、不折両氏と王子に遊んだ時のことは、「王子紀行」一篇となって、不折氏の挿画入で『日本』に現れた。

[やぶちゃん注:「そゞろありき」は国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のから、「王子紀行」も同じくから読める。]

 こういう間にも日清間の戦局はどんどん進展する。飄亭氏は八月上旬に朝鮮に渡った。『日本』社中からも相次いで従軍者が出る。紙面が漸く活気を呈するにつれて、『小日本』廃刊以来の不平は、別の形になって居士の胸中に渦巻くようになった。九月になって「進軍歌五首」「凱歌五首」「海戦十首」というような俳句を『日本』に掲げて、いささか気勢を添うるところがあったが、「野に山に進むや月の三萬騎」「進め勧め角(つの)一聲(いつせい)月上りけり」「砲やんで月腥(なまぐさ)し山の上」「秋風の韓山敵の影もなし」「船沈みてあら波月を碎くかな」というような句では、到底居士の壮志を託するわけに行かぬ。鬱勃たる不平を懐きながら、居士は毎日のように根岸の郊外を散歩した。一冊の手帳と一本の鉛筆を携えて田圃野径(でんぽやけい)をさまよい、得るに従って俳句を書きつける。居士が俳句の上に写生の妙を悟ったのはこの時であった。同じような道を往来し、平凡な光景の中に新な句境を見出したのである。

 

 稻刈るや燒場の烟たゝぬ日に

 掛稻の上に短し塔の先

 掛稻や野菊花咲く道の端

 雨ふくむ上野の森や稻日和

 低く飛ぶ畔(あぜ)の螽(いなご)や日の弱り

 刈株に螽老い行く日數かな

 

 この辺の消息については小説「我が病」及『獺祭書屋俳句帖抄』の序にかなり委しく記されている。写生の妙を会得したという一事は、居士の俳句の上に一時期を劃するに足る進境でなければならぬ。日清戦争という国家の大事件に際し、胸中に無限の不平を蔵した居士が、全くかけ離れた方面において、こういう眼を開いているのだから面白い。

[やぶちゃん注:「我が病」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇四)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)から全篇を視認出来る。

「『獺祭書屋俳句帖抄』の序」の国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来が、かなり長い序である。]

 京都の高等中学が解散されたため、九月から仙台の高等学校に移っていた碧、虚両氏は十一月に至り、遂に退学を決行して東京に帰って来た。碧梧桐氏は暫く子規庵に寄宿、虚子氏は非風の許にあったが、やがて共に本郷の下宿に移ることとなった。露月氏もこの夏脚気を病んで房州に転地、更に郷里へ帰った後、十月末になって出て来た。居士の身辺におけるいろいろな事柄もまた居士を慰むるに足るものが少かったように思われる。

[やぶちゃん注:「京都の高等中学が解散された」この明治二七(一八九四)年、京都の第三高等中学校は第三高等学校に改組されて本科・予科が廃止された。]

 十一月三日、居士は川崎、池上などに遊んで「間遊半日」を『日本』に掲げ、十二月はじめて開通した総武鉄道に乗って佐倉に赴き、「総武鉄道」を草した。「間遊半日」にも「総武鉄道」にも戦時下らしい空気が見えている。

 『日本』に還った後の居士は、時に竹の里人の名を以て『日本』に歌を載せる。ことがあった。

 

 嶋山を雲立ちおほひぬ伊豆の海相模の海に浪立つらしも

   三韓舟中の作に擬す

 雲かあらず烟かあらず日の本の山あらはれぬ帆檣の上に

 燒太刀を手にとり見ればが水無月の風ひやゝかに龍立ちのぼる

 

 格調は『小日本』時代のものに比して更に引緊(ひきしま)っている。居士の当時の心持はこれらの歌にも自(おのずか)ら現れているようである。

[やぶちゃん注:「三韓」神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる三韓征伐を日清戦争の出兵に擬えたもの。私には読みたくもないおぞましい一首である。]

栗本丹洲 魚譜 タウボコヱ (モヨウカスベ?)

 

Taubokoei

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。左端にあるのは、次の、同じエイ類の尾の末端で、本図とは関係ない。]

□翻刻

タウボコヱ

 

ガンキ

[やぶちゃん附記:地に書かれたキャプションは前の「タウボコヱ」だけなのであるが、画像を拡大して戴くと判るが、魚体上部にごく小さな付箋が逆さまに貼り付けられており、そこに、この『ガンキ』の文字を視認出来る。]

 

[やぶちゃん注:ちょっと迷ったが、これは軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes のガンギエイ類の中で、多くの和名が「~カスベ」と呼称されるガンギエイ科 Rajidae(二亜科二十六属二百三十八種を含む本目最大のグループであるが、その形態は多種多様である)の一種ではないかと思う。特に尾部の根元に多くの突起物を持つところが、ガンギエイ科 Rajinae 亜科コモンカスベ属モヨウカスベ Okamejei acutispina によく似ているように私には思われる。特に「国立研究開発法人 水産研究・教育機構」の「水生生物情報データベース」の「Okamejei acutispinaモヨウカスベ)」の画像と本図を是非、比較されたい。本種は文字通り、全身に広がる迷彩模様を特徴とする。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「モヨウカスベ」によれば、『関東の市場ではあまり見かけ』ず、『新潟や日本海の西部』で見かけることが多いとあり、『日本海側の市場でよく見かけるのが』、『本種とガンギエイ(Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイ Raja kenojei)の二『種ではないかと思う。市場や魚屋などでは切り身になっており、「かすべ」もしくは「かすっぺ」と呼ばれているものの』、『正体は未だ不明であるが、本種もそのひとつであると思う』とある。同種の詳細な記載は調べたところでは、椎名ブログの「モヨウカスベが最も生物学的に詳細であるので、必見である。但し、そこで椎名氏自身が、その観察対象(画像有り)とした個体を、モヨウカスベとするか、同じコモンカスベ属ツマリカスベ Okamejei schmidti とするか、識別が困難であるとされている(微弱な電流を感知する電気受容感覚器であるロレンチーニ瓶(器官)(Ampullae of Lorenzini:サメ類では頭部にあり(小さな孔が複数空いていて、その奥にゼリー状の物質が詰まった筒状の構造を持つ)、食物を探す際の一つの方法として利用しているが、ガンギエイ類では尾部にあって雌雄の交信に使われているという)の大きさによる識別が比較対象個体がないと難しいことによるとある)ので、或いは、本種の同定候補としては、それも挙げておくのがよいのかも知れない。ガンギエイ属 Raja の一般については、「西海区水産研究所」の「東シナ海・黄海のさかな」内のがよい。なお、ガンギエイは「雁木鱏」で、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(一九八九年平凡社刊)の「エイ」の項によれば、『尾にある短いとげの列を雁木』『(渡り鳥のガンの行列のようにぎざぎざの形をしたもの)にみたてたもの』とある。なお、ガンギエイ類の棘には毒はないとされる。

・「タウボコヱ」不詳。歴史的仮名遣だとすると、現代仮名遣では「トウボコエイ」となるか。孰れの文字列も検索に掛かってこないし、ガンギエイ類の地方名・流通名にも近似した呼称は発見出来なかった。当初、「タウボクヱ」で「倒木」かと思ったのだが、拡大して精査して見たが、どう見てもこれは「コ」であって「ク」ではない。お手上げ。

・「ガンキ」「雁木」。]

 

栗本丹洲 魚譜 トビヱ (トビエイ)

 

Tobiei

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。右端(尾部の下方)にあるのは、先に電子化したカスザメの頭部で、本図とは関係ない。マスキングも考えたが、巻子本の雰囲気を味わうのも一興であるから、そのままとした。]

 

刻(本体右手の尾部付根下方と本体部上部)

格致鏡源引臨海異物志云有鳶魚如鳶

鷰魚似鷰陰雨皆能飛高丈餘

右所謂二魚疑此物之類乎姑錄之備後考

壬午冬日丹洲瑞見誌

 

トビヱ

 

□やぶちゃん訓読(底本はご覧の通りの白文であるので、全くの手前勝手流である。誤りがあれば、御指摘戴ければ幸いである。無論、歴史的仮名遣を用いた。以下、この注は略す)

「格致鏡源」に引く「臨海異物志」に云(いは)く、『「鳶魚(とびうを)」有り、鳶のごとし。「鷰魚(つばめうを)」あり、鷰に似て、陰(くも)り雨(あめふ)らんとするに、皆、能(よ)く飛び、高さ丈餘たり。』と。

右の所謂(いはゆる)、二魚、疑ふらくは此の物の類か。姑(しばら)く之れを錄して後考(こうかう)に備(そな)ふ。壬午(みづのえうま)冬日(とうじつ)丹洲瑞見、誌(しる)す。

 

[やぶちゃん注:一部で赤みを帯びているのがやや不審であるが、突出した頭部の形状及び頭鰭の形などから、顎口上綱軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目トビエイ目トビエイ科トビエイ属トビエイ Myliobatis tobijei と同定してよいであろう。小学館の「日本大百科全書」より引く。『南日本を中心とした日本各地、東シナ海などに分布する』。胸鰭が頭部へ向かって前進しており、『体の最前端部で頭鰭(とうき)を形成すること、尾部に大きな棘(とげ)をもつこと』(尾部上部に尾と並行して突出しているが、本図では上手く描かれていない。或いは丹洲にところへ持ち込まれる以前に危険性(死後でも危険)を知っている漁師捕獲した際に切り捨てた可能性もあるかもしれない)、背鰭は腹鰭よりも『後方に位置することなどが特徴である。全長』一・八『メートルに達する。胎生で、夏季に』五~八『尾の子を産む。ときに』、『水上に飛び上がるところからその名がある。練り製品の原料になる程度である』とある。

・「格致鏡源」清の大学士であった陳元龍(一六五二年~一七三六年)が一七三五年に著した事物の起源を記した科学技術書。

・「臨海異物志」三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)が著した浙江臨海郡の地方地誌「臨海水土異物志」のこと。世界で初めて台湾の歴史・社会・住民状況を記載すしていることで知られる。

『「鳶魚(とびうを)」有り、鳶のごとし』これがもし、丹洲が言うように本種を指しているとするならば、「日本大百科全書」が述べるような、飛ぶから「飛び鱏(えい)」なのではなくて、鳥のトビ(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)が飛翔する姿に似ているから「鳶鱏(とびえい)」なではあるまいか? 事実、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「トビエイ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。鳥を思わせ、色合いが鳶色であるため』とあるのである。そうか! 茶褐色のトビ色だからトビエイじゃないか?! 私は思わず、膝を打った。

「鷰魚(つばめうを)」「鷰」は「燕」と同じい。スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica である。これは後の叙述からは、やはり、実際に海上に飛び上るというのだから、丹洲の同一ではないかとする疑いも、必ずしも牽強付会とは言えない。但し、燕同様の降雨を事前に体感する能力が本種にあるとはちょっと思えない(ツバメの方は、天気が悪くなる前に湿度が上昇し、餌として咥えている昆虫の羽根が水分で重くなり、低く飛ぶようになるからなどと言われているが、水中にいる本種には湿度は無理で、低気圧を感知するというのも甚だ苦しい)。

「丈餘」一丈余り。約三メートル。

「壬午(みづのえうま)」カテゴリ冒頭注で記した通り、本図類は基本、文化一四(一八一七)年よりも前に書かれたものであろう、とした。しかし、文化十四年以前の壬午となると、宝暦一二(一七六二)年となってしまい、当時は丹洲(宝暦六(一七五六)年生まれ。没年は天保五(一八三四)年)は満六歳で、これは絶対に、あり得まい。そこで調べてみると、これより五年後の文政五(一八二二)年が壬午であるから、これと採るべきであることが判り、さすれば、この巻子本「魚譜」は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に出した「垢鯊図纂」に手を加えたものであると考えられる。

「トビヱ」ママ。拡大して検証しても「ヱ」の下には痕跡もない。「エイ」は歴史的仮名遣では「えひ」(「エヒ」。正しくは「エ」で「ヱ」は誤り。但し、江戸時代にはよく混同された)であり、これを文字通り発音した場合、第二音の「ひ」は発音が頗る難しく、江戸っ子辺りは飛ばして「え」と呼んでいたかも知れぬ。また、「ヱ」は正確に発音すると「ウェ」で「うぇぃ」で現在の「とびえい」の音に近くなるから「ヱ」としたものかも知れない。というよりも、以下の鱏(エイ)類の図では一部が「ヱイ」ではなく、「ヱ」となっていることから、これで「えい」と読ませている可能性が極めて高いことが判る。従って、以降では(「エイ」と正しく書いている箇所もある)問題としないこととする。

 

カテゴリ「栗本丹洲」始動 / 魚譜 カスブカ (カスザメ)


 カテゴリ「栗本丹洲」を始動する。

 栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)は医師で本草学者。幕府奥医師四代目。本名は元東・元格・瑞見等と改名し、丹洲は号。本草学者田村元雄(げんゆう)の第二子として江戸に生まれ、二十二歳の頃、幕府侍医栗本昌友(しょうゆう:三代目栗本瑞見)の養子となった。三十二歳で奥医となり、その後は幕府医学館教諭として本草学を講じた。文政九(一八二六)年四月二十五日には折から参府していた長崎出島のオランダ商館医であったドイツ人(オランダ人を詐称)医師で博物学者であったシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold:フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト  一七九六年~一八六六年)と面談し、シーボルトはその著「日本」(Nippon:一八三二年~一八八二年)の中で丹洲の膨大な図譜とその絵の素晴らしさを賞讃している。丹洲には三十数点の著作があり、その殆んどは動植物(特に動物)の写生図と解説である。

 私は既に自己サイト「鬼火」で「栗氏千蟲譜」(原文+訓読+原画画像+藪野直史注)の内、

「巻七及び巻八より――蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ ホタルムシ 丸薬ムシ 水蚤」

巻八より――海鼠 附録 雨虎(海鹿)」

巻九 全」

巻十 全」

を電子化注している(総て二〇〇七年作成・二〇一四年増補改訂。因みに、ありがたいことに、これらの仕事は、私のサイト内の作品の中では珍しく生物学の名誉教授の方及び図書館員の方などより、高い評価を戴いている)。無論、彼の膨大な博物図譜総てを電子化注することは出来ないが、私が興味を持った幾つかのそれをブログで試みてみたく思う。

 幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像が豊富にある(リンク先は同コレクションの検索結果)ので、基本、それを用い、それ以外の資料をも参照することとする。それらはその書誌を各電子化注で明記する。

 構成は、まず、図版を示し、次に図内のキャプションを「□翻刻」で電子化、必要な場合は読み易くオリジナルに訓読したものを附し、その後に私の注を置き、そこで可能な限り、図版の生物を同定しつつ、諸注を附すこととする。

 まず、最初は彼の複数の魚譜の内の、巻子本(軸装)「魚譜」から入る。そこに附記された磯野直秀氏の解題によれば、丹洲は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に「垢鯊図纂」(こうさずさん:「垢」はエイ、「鯊」はサメの意)五十品を出品しているが、品数もほぼ同じであることから、これが本資料と推定される、とあることから、当初、本図の執筆はそれ以前と考えたが、次の「トビヱ」のキャプションの干支から考えると、それ以後に加筆された部分があることが判明した。詳細は「トビヱ」の項を参照されたい。なお、同「魚譜」は箱入で、箱書は「魚譜 丹洲」、軸装自体に標題はない。【2018年2月28日始動:藪野直史】

 

Kasubuka

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。上部にあるのは、左にあるトビエイらしき魚(当該図で再考証する)の尾部で、本図とは関係ない。]

 

カスブカ

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica。魚体が扁平でエイのように見えるが、立派な鮫で(鰓孔が体の側面にあることでサメ類と判る。エイ類は体の腹面に鰓孔を有する)、名に「ブカ(フカ)」がつくのは古名ながら、正しい。「かすざめ」とは「糟鮫」で、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「カスザメ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。価値のないカス(糟、粕)のようなサメの意味』とある。以下、ウィキの「カスザメ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『北西太平洋の二百メートル以浅の砂底で見られる。体はエイのように平たく、全長一・五メートル以上になる。二基の背鰭が腹鰭より後方に位置すること、大きな棘の列が背面の正中線上にあること、胸鰭の先端の角度が小さいことで近縁のコロザメ』(カスザメ科カスザメ属コロザメ Squatina nebulosa:胡爐鮫。ここにあるように、胸鰭の外角がかなりの鈍角を成すことの他にも、後に述べられるように、腹鰭の後端が第一背鰭の起部に殆んど達することなどからも識別され、しかも全長三メートル近くにもなる点で成体はカスザメよりも比較的大きい)『と区別できる。背面には四角形の暗色の斑点が散らばり』、『保護色となっている』。『餌は魚類や無脊椎動物。夜行性の待ち伏せ型捕食者である。胎生で二~十匹の仔魚を産む。刺激されなければ』、『人には危害を加えない。肉や鮫皮が利用される』。『一八五八年、ドイツの魚類学者ピーター・ブリーカーによって』『記載された。タイプ標本は五十三センチメートルの雄で、長崎県沖で捕獲されたものである』。『二〇一〇年のmtDNA』(ミトコンドリアDNA)『を用いた分子系統解析では、本種はタイワンコロザメ』(Squatina formosa)など、『他のアジア産カスザメ類と近縁であるという結果が得られた。本種はその中でも比較的早く分岐した種であり、分子時計』(ヘモグロビンの構造の一部を構成するアミノ酸の配列異同(突然変異)から進化系譜が構築可能とするもの)『では、本種はおよそ一億年前(白亜紀)に他のカスザメ類から分岐したことが示された』。『第一背鰭が腹鰭の先端より後方に位置することで』も、『近縁のコロザメと区別できる』。『体は細く、胸鰭・腹鰭は大きく広がる。頭部側面の皮褶は葉状にはならない。眼は楕円形で、間隔は広い。その直後には三日月型の噴水孔があり、噴水孔の内部前縁には大きな箱型の突出部がある。鼻孔は大きく、小さな鼻褶』(皮膚が皺を作って蓋状或い片状になった部分)『があり、二対の髭が付属する。外側の髭は細いが、内側の髭は先端が匙状となり、その基部はわずかに房状となる。口は頭部末端に位置して幅広く、唇褶』(ある種のサメ類が有する口角部の皮膚の皺を指す)『がある。歯列は上下ともに片側十ずつで、中央には隙間がある。各歯は小さく、細くて尖る。頭部側面には五対の鰓裂がある』。『胸鰭の前端は頭部から遊離し、三角形の葉状になる。先端は角張り、後端は丸みを帯びる。腹鰭の縁は凸状になる。二基の背鰭は尖り、大きさ・形は概ね』、『同じである。腹鰭の先端より後方に位置する。尾柄は平たく、側面には隆起線が走る。尾鰭は大まかに三角形で、角は丸い。下葉は上葉より大きい。背面は中程度の大きさの皮歯』(楯鱗(じゅんりん)軟骨魚類に見られる特有の鱗。象牙質の中心に髄があり、外側はエナメル質に覆われていて、歯と相同の構造を持つことからかくも言う)『に覆われ、頭部から尾までの正中線上には大きな棘の列が走る。背面は明褐色から暗褐色で、四角形の暗色の斑点が密に存在する。この斑点は鰭上では細かくなる。腹面は白く、黒斑がある。最大全長は資料によって異なるが、一・五~二・五メートルの範囲』に留まる』。『北西太平洋の比較的寒冷な海域に分布し、本州東岸から台湾、日本海南部・黄海・東シナ海・台湾海峡で見られる。古い資料ではフィリピンに分布するとしているものもあるが、これは別種の Squatina caillieti だと考えられている。大陸棚上の浅海から水深三百メートル程度まで生息する。底生で、岩礁近くの砂底でよく見られる』。『日中は底質内で動かない』。『他のカスザメ類と同様、待ち伏せ型捕食者で、日中は底質に埋もれて過ごすが夜間は活動的になる。体色は保護色となる。餌は底生魚・頭足類・甲殻類など。単独か、同種個体と近接して見られる』。『胎生で、近縁種同様に受精卵は卵黄によって成長する。産仔数は二~十で、出産は春から夏。出生時は二十二センチメートル程度。雌は八十センチメートルで性成熟するが、雄については不明である』。『他のカスザメ類と同様、攻撃的ではないが、刺激されると噛み付き』、『裂傷を負わせることがある。分布域の大部分で底引き網によって捕獲されるが、おそらく定置網・刺し網なども用いられている。肉は食用に、皮は鮫皮として、おろし金や刀剣の鞘としても用いられる』(この利用から、本邦では古くから本種が知られていた)。『捕獲されやす』い上に、繁殖力も『低いため、商業漁業による漁獲圧に弱い。黄海やその近海で行われる底引き網は、水質汚染と合わせて地域の生態系に重大な影響を与えている。個体数はこの状況のもとで五十%以上減少していると見られ、IUCN』(国際自然保護連合:International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)『は保全状況を危急種と評価している。中国政府が課している一部地域での底引き網漁の禁止は、本種の個体数によい影響を与えているかもしれない』とある。因みに、私は本種の煮凝(にこご)りが大好物である。]

2018/02/27

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)

Goisagi

ごい   茭雞【音堅】

ごいざぎ 交矑

鵁鶄

     【和名伊微

      今云 五位鷺】

キヤ◦ウツイン

 

本綱鵁鶄大如鳧而高脚似雞長喙好啄其頂有紅毛如

冠翠鬛碧斑丹嘴青脛巢于高樹生子於穴中其母翼

飛下飮食禽經云白鷁相睨而孕鵁鶄睛交而孕人養之

玩能馴擾不去可厭火災

△按鵁鶄相傳近衞帝飮宴于神泉苑有鷺令人捕之其

 鷺將去叱曰宣旨也於是鷺伏而不動捕之以獻之叡

 感封鷺賜爵五品而令放之故名五位鷺其類有三種

背黑五位 狀似蒼鷺而小背蒼色翠鬣腹黃白色觜灰

 色脚黄項有白冠毛無亦有之此尋常鵁鶄也與本草

 之説有少異其肉味夏秋賞之冬有※氣不佳

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「喿」。]

  星五位【則旋目鳥】 溝五位【卽護田鳥】共見于後

 凡五位鷺夜飛則有光如火月夜最明其大者如立岸

 邊猶人停立遇之者驚爲妖怪

 一種有蘆五位【一名恃牛鳥】出于原禽𪇆𪄻

 

 

ごい   茭雞〔(かうけいけん)〕【音、「堅」。】

ごいざぎ 交矑〔(かうろ)〕

鵁鶄

     【和名、「伊微〔(いび)〕」。

      今、「五位鷺」と云ふ。】

キヤウツイン

 

「本綱」、鵁鶄は大いさ、鳧〔(かも)〕のごとくして、高脚。雞〔(にはとり)〕に似て、長き喙〔(くちばし)〕。好みて啄(ついば)む。其の頂、紅毛有りて、冠のごとし。翠の鬛〔(たてがみ)〕、碧の斑〔(はん)〕、丹〔(あか)き〕嘴〔(くちばし)〕、青き脛なり。高樹に巢くふ。子を穴中に生む。〔子は〕其の母の翼を啣〔(は)〕んで、飛び下りて、飮食す。「禽經」に云く、『白鷁〔(はくげき)〕は相ひ睨〔(み)〕て孕み、鵁鶄は睛〔(ひとみ)〕を交へて孕む』〔と〕。人、之れを養ひて玩〔(もてあそ)〕ぶ。能く馴-擾〔(な)れて〕去らず。火災を厭〔(いと)〕ふべし。

△按ずるに、鵁鶄は、相傳〔す〕。『近衞帝の、神泉苑に飮宴す。鷺、有り。人をして之れを捕へせしめ〔んとするに〕、其の鷺、將に去らんとす。叱して曰く、「宣旨なり」と。是に於いて、鷺、伏して動かず。之れを捕へて以つて之れを獻〔(たてまつ)〕る。叡感して、鷺を封じて、爵五品〔(ほん)〕を賜ふ。而〔して〕之れを放たしむ。故、「五位鷺」と名づく。其の類、三種有り。

背黑五位〔(せぐろごゐ)〕 狀、「蒼鷺」に似て小さく、背、蒼色。翠〔の〕鬣〔(たてがみ)〕。腹、黃白色。觜、灰色。脚、黄。項〔(うなじ)〕に、白き冠毛、有り。無きも亦、之れ、有り。此れ、尋常の鵁鶄なり。「本草」の説と少異有り。其の肉の味、夏・秋、之れを賞す。冬は※〔(なまぐさき)〕氣〔(かざ)〕有〔りて〕佳ならず。

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「喿」。]

「星五位〔(ほしごゐ)〕」【則ち「旋目鳥〔(せんぼくてう)〕」。】

「溝五位〔(みぞごゐ)〕」【卽ち、「護田鳥〔(おすめどり)〕」。】

 共に後〔(しり)〕へに見ゆ。

 凡そ、五位鷺、夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし。月夜、最も明なり。其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す。

 一種、「蘆五位(よし〔ごゐ〕)」有り【一名、「恃牛鳥(こてい〔てう〕)」。】。原禽〔(げんきん)〕の𪇆𪄻〔(さやつどり)〕の下〔(もと)〕に出づ。

 

[やぶちゃん注:本文原文の「ごい」は総てママ。歴史的仮名遣は「ごゐ」が正しい。鳥綱 Avesペリカン目 Pelecaniformesサギ科 Ardeidaeサギ亜科 Ardeinaeゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticoraxウィキの「ゴイサギによれば、アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本・フィリピン・マダガスカルに分布し、本邦では『夏季に北海道に飛来(夏鳥)するか、本州以南に周年生息する(留鳥)。冬季に南下する個体もいる』。全長は五十八~六十五センチメートル、翼開長一メートル強から一メートル十二センチメートル、体重は四百~八百グラム。『上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われる。翼の色彩は灰色』を呈する。『虹彩は赤い。眼先は羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色』。『幼鳥は上面が褐色の羽毛で被われ、黄褐色の斑点が入る。この斑点が星のように見える事からホシゴイの別名がある。下面は汚白色の羽毛で被われる。虹彩は黄色がかったオレンジ色。眼先は、黄緑色の皮膚が露出する』(下線やぶちゃん)。『繁殖期には後頭に白い羽毛が』、三本、『伸長(冠羽)し、後肢の色彩が赤みを帯びる』。河川・湖・池沼・湿原・水田・海岸などに『生息する。単独もしくは小規模な群れを形成して生活する。夜行性で、英名』(Black-crowned night heronNight heron)『の由来になっている。昼間は水面に張出した樹上などで』、『ひっそりと休』んでいる。『食性は動物食で、両生類、魚類、昆虫、クモ、甲殻類などを食べる。夜間水辺を徘徊しながら』、『獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生』で、『サギ科の他種も含めた集団繁殖地(コロニー)を形成する。樹上に雄が巣材となる木の枝を運び、雌がそれを組み合わせた巣を作る』。本邦では四~八月に三~六個の卵を、年に一、二回に『分けて産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』二十一から二十二日で、『育雛は雌雄共同で行う。雛は孵化してから』二十日から二十五日で『巣を離れるようになり』、四十~五十日で『飛翔できるようになり独立する。生後』一~二『年で性成熟する』。「平家物語」(巻第五「朝敵揃(てうてきぞろへ(ちょうてきぞろえ))」)等では、『醍醐天皇の宣旨に従い』、『捕らえられたため』、『正五位を与えられたという故事が和名の由来になって』おり、『また、能楽の演目「鷺」は』、『その五位鷺伝説に由来するものである』(能では捕獲した蔵人(くろうど)もともに五位を得ている)。『夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間』、『月明かりで民家の池にも襲来し』、『魚介類・両生類を漁る。主につがいや単独で行動する』とある。「平家物語」の「卷第五」の「朝敵揃」のそれ(同章の後半全文)を以下に示す。

   *

 この世にこそ王位も無下(むげ)に輕(かろ)けれ。昔は宣旨(せんじ)を向つて讀みければ、枯れたる草木(くさき)も花咲き實なり、飛ぶ鳥も隨ひき。

 近頃の事ぞかし。延喜の御門(みかど)、神泉苑(しんぜんゑん)に行幸(ぎやうがう)なつて、池の汀(みぎは)に鷺の居(ゐ)たりけるを、六位を召して、

「あの鷺、とつて參れ。」

と仰ければ、如何(いかで)か捕らるべきとは思へども、綸言(りんげん)[やぶちゃん注:詔(みことのり)。天子の言葉。「礼記」の「緇衣(しい)」に由来。「綸」は組み糸で、天子の口から出るときは糸のように細い言葉が、下に達するときは組み糸のように太くなるという意を持つ。]なれば、步(あゆ)み向ふ。鷺、羽繕(はづくろ)ひして、立たんとす。

「宣旨ぞ。」

と仰(おほ)すれば、ひらんで[やぶちゃん注:平伏(ひれふ)して。]飛び去らず。卽ち、これを取つて參らせたりければ、

「汝が宣旨に隨ひて參りたるこそ神妙(しんべう)なれ。やがて五位になせ。」

とて、鷺を五位にぞなされける。

『今日(けふ)より後(のち)鷺の中(なか)の王たるべし』

と云ふ御札(おんふだ)を、自(みづか)ら遊(あそ)ばいて、頸につけてぞ放たせ給ふ。全くこれは鷺の御料(おんれう)にはあらず、只(ただ)、王威の程を知ろし召さんが爲なり。

   *

さて「延喜の御門」とは第六十代天皇である醍醐天皇(元慶九(八八五)年~延長八(九三〇)年/在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)である。ところが、「和漢三才図会」本文ではこれを近衛天皇のエピソードとするが、これは良安の誤認と思われる。確かに「平家物語」から「近き頃」となれば、第七十六代天皇近衛天皇(保延五(一一三九)年~久寿二(一一五五)年)は相応しいように一見、見えてしまうのだが、実は彼の在位は永治元年十二月七日(一一四二年一月五日)から久寿二年七月二十三日(一一五五年八月二十二日)と短く、しかも崩御した時は未だ満十六歳であった。加えて、彼は十四歳以降は病勢が悪化し、一時は失明の危機に陥っていて、凡そ、このエピソードにはあまり相応いとは思われない病気がちの少年なのである。正直、私は秘かに、良安先生、「延喜」と「近衞」の崩し字を誤って記憶したのではないかと思っている

 

「啣〔(は)〕んで」実は原典底本は字が擦れていてよく見えない。東洋文庫訳では『子は母の翼にのり』と、この「啣」とした字を「乗る」の意で採っているのであるが、少なくとも、この字にはそんな意味はないので採れない。「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」では「」となっているが、この漢字は私も見たこともないもので、検索を掛けても、中文サイトでもよく判らないのである。しかし、「維基文庫」の「本草綱目」を見てみると、ここを「銜」としているのを発見した。これなら判る。(口に)「銜(くわ)える」である。しかも「くわえる」という漢字には「啣」がある。この漢字は「和漢三才圖會」の原典の字に頗る似ているのである。最後に、中外出版社の明治三五(一九〇二)年刊の「和漢三才圖會」の活字本の当該項(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)を調べてみると、やはり「啣」となっていた。しかもやはり確かに送り仮名は『ンデ』なのだ。そうだとすれば、これはもう、「はんで」(囓(は)んで)で、雛鳥が母鳥の羽を口で銜(くわ)えてそこに攀じ登り、或いは、銜えたところを母鳥が翼を広げて高みに揚げたところで、飛び降りて摂餌をする、と続くのだと読んだ

「禽經」既出既注であるが、再掲しておく。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「白鷁〔(はくげき)〕」これも既注であるが、「鷁」は「」(ゲイ)と同じで、鷺(さぎ)に似た大形の水鳥で、船首にこの水鳥を象った飾りを付けることで知られる想像上の大鳥である。その白色のものとなる。

「相ひ睨〔(み)〕て孕み」見つめ合うことで子を孕む。

「鵁鶄は睛〔(ひとみ)〕を交へて孕む」瞳、視線が一瞬互いに合っただけで孕む。こりゃ、

凄い!

「馴-擾〔(な)れて〕」「擾」は「騒擾(ソウジョウ)罪」のように専ら今は「騒ぐ」の意で知られるが、他に「なつける・ならす」の「馴れる」と同じ意があり、「擾化」「擾馴(ジョウジュン)」という熟語もある。

「火災を厭〔(いと)〕ふべし」これは火難を避けることが出来る、則ち、この鳥を飼っていると火難除けになるということを意味している。

「相傳〔す〕」以下のような名称由来伝承を伝えている。

「其の類、三種有り」以下の「背黑五位」・「星五位」・「溝五位」ということであろう。

「背黑五位〔(せぐろごゐ)〕」これは良安も「尋常の鵁鶄」なり」と言っているように、実は前で言う別種なのではなく、ゴイサギの成鳥のことを指している。

「蒼鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea。後(五つ後)で独立項で出る。

『「星五位〔(ほしごゐ)〕」【則ち「旋目鳥〔(せんぼくてう)〕」。】』これも別種ではない。ゴイサギの幼鳥の別名。体の上面が褐色の羽毛で被われており、そこに黄褐色の斑点が入っているが、この斑点が、星のように見えることに由来する。冒頭注の引用の下線部を参照。

『溝五位〔(みぞごゐ)〕【卽ち、「護田鳥〔(おすめどり)〕」。】』これは立派な別種で、サギ科ミゾゴイ属ミゾゴイ Gorsachius goisagi である。ウィキの「ミゾゴイ」より引いておく。中国南東部・日本(本州以南)・フィリピン・台湾に分布。『主に日本で繁殖し(台湾でも繁殖した例があ』る『)、冬季になると』、『フィリピンへ南下し』、『越冬するが』、『台湾や日本(九州、南西諸島)でも少数個体が越冬する』。全長四十九センチメートル、翼長二十五~二十九センチメートル、翼開長八十~九十センチメートルで、体重は四百九十グラム。『頭部の羽衣は濃赤褐色や黒褐色』、『上面の羽衣は暗赤褐色』、『体下面の羽衣は淡褐色』を呈する。『喉には細く黒い縦縞が入り、下面中央部には赤褐色の縦縞が入』り、『風切羽は暗褐色で、先端が赤褐色』。『上嘴は黒や黒褐色、下嘴は黄色』、『後肢は黒緑色』。『繁殖期の個体は眼先の裸出部が青くなる』。『平地から低山地にかけての森林に生息』し、『暗い森林を好む』。『単独もしくはペアで生活する』。『渡来直後のオスは夕方から夜間にかけて鳴くため』、『夜行性と考えられていた』が、『繁殖期の給餌時間や飼育下での非繁殖期の活動時間の観察例から』、『本種を昼行性とする説もある』。『危険を感じると』、『頸部を伸ばして上を見上げ』、『外敵に向かって下面を向け、木の枝に擬態する』。『食性は動物食で、魚類、昆虫、サワガニなどの甲殻類、ミミズなどを食べる』。『森林内の河川、湿原、地表などを徘徊し』、『獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生。太い樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り』、五~七月に三、四個の卵を産む。抱卵期間は二十から二十七日、雛は三十四日から三十七日で巣立ちする。『鳴き声からウシドリ、ウメキドリ、ヤマイボなどの方言名がある』とある。「ヤマイボ」とは鳴き声が「イボォー、イボォー」と聞こえるかららしい。鳴き声はこれ。なお、前と合わせて、孰れも「共に後〔(しり)〕へに見ゆ」とある通り、この後に独立項(次の「旋目鳥(ほしごい)」及び、その次の「」(おすめどり/みぞごい:別名・護田鳥)として出る。

「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」これはサギの鳥体が夜間に青白く発光するもので、江戸時代から妖怪或いは怪異現象として「青鷺火(あおさぎび)」「五位の火(ごいのひ)」などと呼ばれている。ウィキの「青鷺火」より引く。『「青鷺」とあるが、これはアオサギではなく』、『ゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔畫圖續百鬼」や「繪本百物語」などにも『取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者』桜川慈悲功作・歌川豊国画の「變化物春遊(ばけものはるあそび)」(寛政五(一七九三)年刊)にも、大和国で『光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩』、一『人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている』(原典の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る)。『新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の論文「光る鳥・人魂・火柱」(『茨城の民俗』昭和五六(一九八一)年十二月)にも、昭和三(一九二八)年頃に『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など』、『青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている』。『サギは火の玉になるともいう』。『火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある』(ここに本書の記載の紹介がでるが、省略する)。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』とある。また、そこでも紹介されているが、「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」(リンク先は私の電子化訳注)も是非、参照されたい

「其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す」つげ義春も漫画にしているが、事実、本当に人のように見えるものだ。私は何度か、ゴイサギを人と錯覚したことがあるのだ。

「蘆五位(よし〔ごゐ〕)」これも別種。サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensisウィキの「ヨシゴイ」より引く。東アジア・東南アジア及び南洋諸島など、広く分布する。本邦には夏季、繁殖のために『飛来(夏鳥)するが、本州中部以南では越冬例もある』。全長三十一~三十八センチメートル、翼開長五十三センチメートル。『上面は褐色、下面は淡黄色の羽毛で覆われる。小雨覆や中雨覆、大雨覆の色彩は淡褐色、初列雨覆や風切羽の色彩は黒い』。『虹彩は黄色。嘴の色彩はオレンジがかった黄色』。『幼鳥は下面が白い羽毛で覆われ、全身に褐色の縦縞が入る。オスは額から頭頂にかけて青みがかった黒い羽毛で覆われる。また』、『頸部から胸部にかけて』、『不鮮明な淡褐色の縦縞が』一『本入る』。『メスは額から頭頂にかけて赤褐色の羽毛で覆われ、額に暗色の縦縞が入る個体もいる。また頸部から胸部にかけて不鮮明な褐色の縦縞が』五本、入っている。『湿原や湖、池沼、水田などに生息する。ヨシ原に生息することが和名の由来。単独もしくはペアで生活する。薄明薄暮性。開けた場所には現れず、ヨシ原を低空飛行し獲物を探す。危険を感じると上を見上げて頸部を伸ばし、静止したり左右に揺れる。これにより下面の斑紋がヨシの草と見分けづらくなり、擬態すると考えられている』(これは鳥の巧妙な擬態の典型例として知られる。私の幼い頃の鳥類図鑑にも載っていたのを懐かしく思い出す)。『食性は動物食で、魚類、両生類、昆虫、甲殻類などを食べる。水辺や植物の茎の間で獲物を待ち伏せし、通りかかった獲物を頸部を伸ばして捕食する。『繁殖形態は卵生。茎や葉を束ねた皿状の巣に』、本邦では五~八月三~七個の『卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』十七日から二十日。雛は孵化後、約十五日で巣立つ。

「恃牛鳥(こてい〔てう〕)」東洋文庫訳はこの「恃」を誤字とし、「特牛鳥」とする。「特牛」は「牡牛」とも書き、「ことひうし・こというし、・こってうし・こっとい」などとも読み、古くは「こというじ」とも称したという。「強く大きな牡牛」の意と、Q&Aサイトの回答にあった。鳴き声も幾つか聴いて見たが、雄牛の鳴き声のようには聴こえないので、呼称の意味は判らなかった。識者の御教授を乞う。

「原禽〔(げんきん)〕の𪇆𪄻〔(さやつどり)〕」次の「卷第四十二 原禽類」の掉尾に独立項として出る。「原禽類」とは野原・平野を棲息域とする鳥類の意と推定され、「𪇆𪄻」の項を見ても、良安もお手上げ状態であるが、彼自身、その文中で「𪇆𪄻」は、実はこの「蘆五位」と同一種ではないか、と推理している。そこに行ったら、再度、考証し直す。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『日本』に還る

 

     『日本』に還る

 

 『小日本』廃刊後の居士は、もとの通り『日本』に還った。不折、露月両氏も居士と一緒に『日本』へ移ることになった。紅緑氏が俳句を作り出したのは、居士が『日本』へ還って編輯室に机を並べるようになってからである。

 『日本』に復帰して第一に居士の書いた文章は「文学漫言」であった。これは前年の「文界八つあたり」をまた異った角度から筆を進めたものと見られる。「外に対する文学」「内における文学」「文学の本分」「文学の種類」(内国と外国、古文と今文、韻文と散文、天然と人事)「和歌」「俳諧」「和歌と俳句」の琴目に分れ、七月十八日からはじまって八月一日に了った。

 「和歌」の項において「年の内に春は來にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)やいはん今年とやいはん」の歌を引き、「單に言葉の上の洒落にして何らの趣味をも含まざるにあらずや。而して後世の歌人は多くこの種の無風流の歌を以て秀逸とするに至る」と評したこと、「定家と同時に源実朝出で專ら『萬葉』を學び古今獨步の秀歌をさへ多く詠み出でたりと雖も、是れ唯實朝一人が特に卓出せしに過ぎずして、天下曾てこれに倣(なら)ふ者無かりしは實に眞成の歌人の世に絶えたる證(あかし)にして、一方より見れば實朝が大見識を觀るに足る」と述べたことは、明に後の歌論に関連するものを持っている。また「俳諧」の項において天明期の俳諧を和歌の定家時代に此し、「然れども天明の俳諧師は和歌における定家りも多くの事を爲したり。其俗氣を脱せし點に於て筆力雄健なる點に於て實朝に似たりと雖も、恐らくは實朝よりも多くの事を爲したらん。實朝は和歌の上に一機軸を出したれども(恰も蕪村が天明に於けると同一樣に)其大半は『萬葉』の模倣に過ぎざりしなり。天明の俳諧は元祿の古に法(のつと)りしかども、實際は元祿以外に一新體を開きたる者にして、蕪村・曉臺・闌更の徒は敢て元祿の糟粕を嘗めたる者に非ず。而して實朝歿後一人の之を模倣する者なかりし如く、蕪村等の歿後亦殆ど一人の之を學ぶ者なかりしは實に不思議にも暗合したる事實なり」と論じている。居士の天明の俳句に対する態度は漸く積極的になった。しかし蕪村を暁台、闌更らと併せ論じているのを見れば、それほど深く推重するに至っておらぬのである。

[やぶちゃん注:本段落の「文学漫言」からの引用は、「子規居士」原本と合わせて校合したが、一部の記号は底本のままに用いた。以下の「文界八あたり」等も同じ処置を施した。]

 「文学漫言」においてもう一つ注意すべきものは、和歌と俳句の調和に関する説である。当時の和歌と俳句とは全く風馬牛の立場にあった。和歌には和歌の長所があり、俳句には俳句の長所があり、終に相奪うべからざるものであるが、古今東西を通じ各種の美術の上に共通する意匠がなければならぬ。形の上で最も近似した和歌と俳句との相異点は、自ら異ったまでのもので、敢て異らざるべからざるものがあるわけではない。居士がこの文章において「意匠の上より言へば本邦普通の和歌ほど意匠に乏しき者あらず。言語の上より言へば本邦普通の俳句は言語の卑俗なる者あらず」といった「普通」なる言葉は、旧派の和歌、月並の俳句を指すのである。俳句において言語の卑俗を離れることは、已に居士らの新運動によって或程度まで歩を進めることが出来た。残されたものは和歌の問題である。前年の「文界八つあたり」の中で「要するに今日和歌といふものゝ価値を回復せんとならば、所謂歌人(卽ち愚癡なる國學者と野心ある名利家)の手を離して之を眞成詩人の手に渡すの一策あるのみ」と喝破した居士は、「文学漫言」においてまた「試みに見よ、專門家の著作に係る文學美術は俗氣紛々見るべからずして、却て素人の文學美術時に高尚の趣を得たるものあるを」といい、新なる機運の奈辺より動き来るかを暗示している。居士のこの時の結論は、改良の第一著手(ちゃくしゅ)として和歌俳句の調和を図らなければならぬ、調和を図るには和歌の言語に俳句の意匠を用いるを以て一とする、「一言にして之を云はゞ三十一文字の高尚なる俳句を作り賢さんとするに在るなり」というのであった。和歌の革新に対する居士の意見は、この数行の文字から大体これを看取することが出来る。

 「文学漫言」の署名は獺祭書屋主人であった。文中和歌及俳句について、特に力説するところがあったのは偶然でない。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(2)

 但し確信と眞實が往々にして一致せぬと同じく、單純なる懷疑も亦決して學問とは言はれぬ。故に自分は些しく歩を進めて、右の最近の現象が何事を意味するのかを、他の一側面から考へて見みようと思ふ。先づ第一に心付くのは、白髭明神の祭神が啻[やぶちゃん注:「ただ」。]に神職の家の始祖と謂ふだけで無く、特に之を異國の王と傳へて居る點である。人は餘り言はぬが同じ武藏の内でもずつと東京に近く、舊新座郡の上新倉(にひくら)には新羅王の居跡がある。昔新羅の王子京より下つて住むと稱し、其地牛蒡山と謂ふ村の山田上原大熊の三苗字は、其隨從者の後裔と傳へて居るが(新編武藏國風土記稿四四)、是などは以前は單に王又は王子と謂つたのを新座郡だから新羅王とした形がよく見えて居る。日本の來てから新羅王も訝しいが、殊に珍なのは近く天文の元年にも、佐渡の二見港へ上陸した新羅王があつた。玉井と云ふ井戸はこの王が掘らせたという事と、每日々々大文字を書いては、とかく墨色が面白くないと謂つて反故にして居たと云ふ話とが殘つて居る(佐渡土産中卷)。相川の高木氏其子孫と稱して家號をシイラ屋と呼んだ。島には往々にして新羅王と署名した揮毫も傳へている(郷土研究二卷六號)。此だけでも誤聞輕信とは認めにくいのに、かけ離れた常陸の太田附近にも、同じく新羅王と署名をした書を持つ者が多く、是もさして古からぬ時代に、船に乘つて到著した氣狂のやうな人であつたと謂ひ、其書には諺文かとおぼしく、讀めぬ文字が多かつたそうである(楓軒偶記三)。旅の朝鮮人ならば書でも書くより他は無かつたらうが、如何なる動機から新羅王などと自ら名のつたものか。これが一つの不思議である。

[やぶちゃん注:「舊新座郡の上新倉」現在の埼玉県和光市北西附近(グーグル・マップ・データ)。

「新羅王の居跡」「牛蒡山」現在の午王山遺跡。(グーグル・マップ・データ)。

「新編武藏國風土記稿」文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に昌平坂学問所地理局で編纂された武蔵国地誌。

「王又は王子と謂つたのを新座郡だから新羅王とした形がよく見えて居る」先の「牛蒡山」からは牛頭天王(ごずてんのう:神仏習合神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、また、蘇民将来説話の武塔天神と同一視されて、薬師如来の垂迹であるとともに素戔嗚命(すさのおのみこと)の本地ともされた)の護符牛王宝印(ごおうほういん)の訛化が疑われるし、「王子」は王子信仰の王子神(おうじがみ:本邦の古い信仰では本宮と呼ばれる神社の主神から、その子どもの神として分かれ出た神格を祀ったり、巫女的な性格を持った母神と、その子神を合わせて祀る信仰があり、これを「若宮(わかみや)」或いは「御子神(みこがみ)」と呼んでいたが、後に神仏教習合が進むと、それが仏教の神格の一つに変形され、「子」から、仏に扈従する童子の姿で表現される「童子」が「若宮」とさらに習合して「王子」と呼ばれた)のニュアンスも濃厚に感じられる。柳田の言うように、「新座」は新しい「座」(ま)す地の意を含み、渡来した「新羅王」伝承と合わせるには市井の民の誰もが安易に納得しまう分かり易さが、確かに、ある。

「天文の元年」一五三二年。室町末期。

「佐渡の二見港」現在の大佐渡の西端の真野湾内の新潟県佐渡市二見。(グーグル・マップ・データ)。

「玉井と云ふ井戸」不詳。

「佐渡土産」不詳。原本を確認出来れば、玉井という井戸の位置も判るのだが。後の叙述からは相川地区内の可能性が高いように感じられる。

「シイラ屋」不詳。私などは、つい、佐渡で晩秋に捕れる条鰭綱スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus を想起してしまうのだが。

「郷土研究二卷六號」大正三(一九一四)年九月或いはそれ以前の発行かと思われる。

「常陸の太田」現在の茨城県常陸太田市。(グーグル・マップ・データ)。

「諺文」「オンモン」と読む。李氏朝鮮第四代朝鮮国王世宗(一三九七年~一四五〇年)が制定した文字体系「訓民正音」(くんみんせいおん)、現在のハングルの古称。現在は卑語と見做され、現地ではこの呼称は使用されないので注意が必要。

「楓軒偶記」小宮山楓軒著で文化四(一八〇七)年の序を持つ随筆。同書を所持するが、巻之三には以上の記載を今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。]

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(2) 一 古生物學の不完全なこと

 

     一 古生物學の不完全なこと

 

 化石は古代の生物の遺體で、各地層の出來る頃に生活して居たものの化石が、その層の中に含まれてあるわけ故、若し昔住んで居た動植物が總べて化石となつて、そのまゝ完全に今日まで殘つて居たと想像すれば、生物進化の徑路は之によつて明に知れる筈であるが、實際には化石といふものは人の知る如く珍しいもので、一つ發見しても直に之を博物館に陳列する位故、之を今日まで長い間に地球上に生活して居た生物個體の數に比べれば、實に九牛の一毛にも及ばぬ程である。それ故、化石によつて生物進化の系圖を完全に知ることは、素より望まれぬことである。

 先づ如何なる動物が如何なる場合に化石になつて後世まで殘り得るかと尋ぬるに、介殼とか骨骼とかの如き堅い部分のある動物でなければ、化石となることはむづかしい。尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはあるが、之は極めて稀なこと故、例外とせねばならぬ。また善く保存せられるときには、微細な點まで殘るもので、魚類の化石の筋肉の處を少し缺き取り、砥石で磨つて極薄くし、顯微鏡で見ると、生の魚の筋肉に於ける通りに判然と筋肉纖維の橫紋までが見えた例もあるが、通常は腐敗し易い體部は殘らぬもので、貝類・海膽(うに)類ならば介殼ばかり、蝦・蟹の類ならば甲ばかり、魚類・鳥類・獸類等ならばたゞ骨骼ばかりが化石となつて殘るものである。どこの博物館に行つて見ても、化石といへば皆かやうな物だけに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「尤も海月(くらげ)の完全な化石が一つ發見になつたことはある」刺胞動物であるクラゲのゼラチン質の柔らかく透明な体の九十五%以上は水であるが、海岸に打ち上げられたクラゲ(この場合、それらを餌として啄む動物や分解して摂餌する小動物及び急速にそのように作用する細菌類がいないことも条件となる)がの表面が泥や砂で蔽われて、まず、押し型痕が採られ(前の条件がクリアー出来ないと、押し型痕が形成される以前にクラゲが消失してしまう)、例えば、それが出来上がった直後に、火山噴火等の急激な環境変動が発生し、極めて短い時間内でさらにそこに広汎な土砂が比較的静かに堆積した場合、クラゲの本体は既に乾燥して消失していても、そこに化石(印象化石)が生ずることになる。しかし、これはかなりレアな条件がたまたま揃った場合の極めて奇跡的な出来事であることには変わりはない。これは丘先生が次の段落で述べている。

 また如何に堅い部分のある動物でも、死んでから、風雨に曝(さら)されては總べて碎けてしまつて化石とはならぬ。介殼でも、骨骼でも、凡そ動物身體の中で堅牢な部分は、大抵石灰質のもので、風雨に遇へば漸々白堊[やぶちゃん注:「はくあ」。土質性石灰石の一種。貝殻や有孔虫などの化石を含むこともあり、灰白色で軟らかい。主成分は炭酸カルシウム。西ヨーロッパに分布し、ドーバー海峡の両側に露出する地層は最も知られる。チョーク(chalk)。]の如くに脆くなる故、細かい泥の中に埋もれでもせなければ、形を崩さずに化石になることは出來ぬ。而して細かい泥に埋もれることは、水の底に落ちなければ殆どないことであるから、大體からいへば、動物は水中に沈んだものでなければ化石とはならぬ。所が、動物の生活の有樣から考へて見ると、死體が水の底に沈んで、泥によつて全く埋められるといふ機會は決して澤山はない。特に陸上に住む鳥類などに就いて論ずれば、老て死んでも、弱つて死んでも、凡そ靜な天然の死方[やぶちゃん注:「しにかた」。]をしたものは、水の底に落つることがなかなかないから、皆碎けてしまつて化石とはならぬ。尤も火山の灰に埋もれたり、沙漠の塵埃に被はれたりして、化石となつたものがないではないが、之は極めて稀な場合故、陸上の動物は洪水でもあつて溺死した處へ、速に泥が被さるやうなことでもなければ、先づ化石となつて後世まで殘る機會はないといふて宜しからう。それ故、實際生存して居た動物個體の何萬分の一か何億分の一かだけより化石とはならぬ筈であるが、その化石を我々が見出す機會がまた甚だ稀である。

 

Naumanzou

[東京附近から出た象の齒と牙]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正した。右の牙はやや縁の部分の角張った感じが不審ではあるが、ナウマンゾウ(後注参照)の牙であろうか。グーグル画像検索「ナウマンゾウ牙」に出る幾つかの画像と類似はする。]

 

 近頃は西洋諸國は素より我が國にも、政府で立てた地質調査所などがあり、化石の採集に靈力する人もなかなか多くなつて、古生物學は著しく進步したが、地球の表面全體に比べていへば、今までに化石を掘り出した處は、實に僅少で、たゞヨーロッパに若干とアメリカアジヤに數箇所とあるだけで、一般にはまだ全く手が著けてない。殆ど廣い座敷を二三箇所、針の先で突いた位により當らぬ。その上、化石は皆不透明な岩石の中に隱れて居るから、網や鐵砲を持つて昆蟲・鳥類などを追ひ廻すのとは違ひ、狙ふ目的がないから、偶然に發見するのを樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]に、たゞ無暗に岩を割つて見るより外に仕方がない。たとひ表面から僅に一分(ぶ)[やぶちゃん注:三・〇三ミリメートル。]だけ内に隱れて居ても、外から少しも解らぬから、容易に發見は出來ぬ。化石となつて殘る者が既に少い上に、之を調べた場處がまだ極めて少く、然も發見するのは總べて偶然であるから、今日知れてあるだけの化石の種類は、實際過去に生存して居た生物の種類の數とは、殆ど比較にもならぬ程少いのは無論のことである。尤も今日西洋の博物館で化石の多く保存してある處に行つて見ると、その種類の多いことは實に驚くべき程で、皆集めて調べると、獸類などは化石として知れて居る種類の數は、殆ど現在生きて居る種類と同じ程もあり、貝類の如きは化石の種類の方が遙に多いから、この有樣を見ると、過去の動物は最早十分に知れ靈してあるかの如くに感ずるが、過去の時の長さを考へ、各時代に皆動物の種類の異なることを思ひ、且以上述べた如き事情を考に入れると、これらは眞に過去の動物界の極めて僅少な一部分に過ぎぬことが解る。我が國などでも、東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出されたり、美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられたことなどもあるから、過去には種々樣々の動物が棲んで居たに違ひない。然るに獸類の化石の掘り出されたことは極めて稀で、然も皆破片ばかりに過ぎず、鳥類に至つてはまだ一つも化石の發見せられたことを聞かぬ。これらから推しても、古生物學の材料の不完全なのを察することが出來る。

[やぶちゃん注:「東京や橫須賀邊から大きな象の骨が掘り出された」後者は現在の米海軍横須賀基地である横須賀製鉄所の敷地内から慶応三(一八六七)年に二ヶ所からナウマンゾウ(哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目ゾウ科パレオロクソドン属 Palaeoloxodon ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni)の下顎の化石が発見されている。横須賀市自然・人文博物館の上から二番目の歯化石(但し、これは広島県(瀬戸内海)産)は挿絵の右のそれとよく一致する。上記の出土データは博物館に記載がある。ウィキの「ナウマンゾウによれば、『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人』の地質学者『ハインリッヒ・エドムント・ナウマン』(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年:明治八(一八七五)年から明治一八(一八八五)年まで日本に滞在した。東京大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』とあるが、同一のものと考えてよかろう(既に発掘されていた化石を比定したという意味でとっておく)。前者は未詳。公的に知られ、比定同定されたものは本書の刊行(大正一四(一九二五)年九月)より後のものしか調べ得なかった。同ウィキのナウマンゾウの学名の変遷の箇所には Elephas namadicus naumannni(槇山次郎による一九二四年の論文記載)及びLoxodonta (Palaeoloxodon) namadicus naumannni(松本彦七郎による同じ一九二四年の論文記載)が載るが、これが東京での出土であるかどうかは調べ得なかった。

「美濃の國からは何とも知れぬ奇態な獸の頭骨が發見せられた」これは明治三一(一八九八)年に現在の岐阜県瑞浪市内で発見され、後に獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目束柱目 † Desmostylia デスモスチルス科 †  Desmostylidae デスモスチルス Desmostylus 属に比定されたデスモスチルス類(中新世中期から後期にかけて棲息した半海棲哺乳類)の頭骨のことであろう。これは日本で初めて絶滅哺乳類の新種として記載された標本で、ウィキの「デスモスチルス当該頭骨画像がある。]

 

2018/02/26

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 盆に死ぬ仏の中の仏

 

     盆に死ぬ仏の中の仏

 

 居士が『小日本』に移ると同時に、『日本』における居士の仕事は挙げて『小日本』紙上に移った。従来「文苑」に載せていた俳句の外に、題を課して俳句を募集するようになったのも、『小日本』における新な出来事であるが、もう一つ注意すべきは竹(たけ)の里人(さとびと)の名を以て時に和歌を掲げていることである。

 

 棚橋に駒たてをれば薄月夜梅が香遠く匂ふ夕ぐれ

 朝な朝な鶯來鳴く窓のうちに何物請人の讀むらん

 大海原八重の潮路のあとたえて雲井に霞むもろこしの船

牛に乘りていづくに人の歸るらん柳のちまた梅の下道

   上野公園

 御佛のいとも尊しくれなゐの雲か櫻の花のうてなか

 

[やぶちゃん注:一首目の「棚橋」というのは、明治三三(一九〇〇)年の春の句に、

 

 今もある戀の棚橋鳴く蛙

 

とあるから、何らかの地名或いはある特定の属性を持った場所を意味するものらしいが、全く不詳である。識者の御教授を乞う。]

 

 これらはいずれも二月から三月へかけて『小日本』に掲げられたものである。こういう歌は直に後年の作品に接続するわけではないけれども、何らか旧套に慊(あきた)らぬものが底にほのめいている。竹の里人の名はこれ以前には用いられていない。歌に関する居士の業績を辿る場合には、やはりこの辺まで遡らなければならぬであろう。

 俳句方面に関する文字としては、三月九日に「雛の俳句」があり、同二十四日に「発句を拾ふの記」がある。後者は虚子氏と共に「名もなき梅を人知らぬ野邊に訪(と)はん」とした小紀行で、千住から草加に打て西新井を経て王子に松宇氏を訪ねている。

 

 梅を見て野を見て行きぬ草加迄

 栴檀(せんだん)のほろほろ落つる二月かな

 

居士としては久しぶりの吟行であった。

[やぶちゃん注:「栴檀(せんだん)」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。一名センダンノキ。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。古名を「花樗(はなおうち)」とと呼ぶ。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので全く関係がないので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないから、この諺自体がもともと全く正しくないのである。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づくものである)。]

 次いで四月二十六日から「俳諧一口話」を掲げはじめた。標題の示すが如き小俳話で、『獺祭書屋俳話』を更に短くしたものであるが、俳話の材料として天明の作家が用いられていることに注意すべきであろう。蕪村・暁台(きょうたい)・闌更(らんこう)・白雄(しらお)・蓼太(りょうた)の五作家の比較において、漢語を多く用いる者は蕉村、和語を多く用いる者は白雄であるといい、「佳句の最も多きは蕪村にして最も少きは蓼太なるべし」ともいっている。「蕪村の特色は芭蕉以後一人として賞揚すべきもの」ともあるが、いまだ全面的に蕪村を推すに至っていない。

 石井露月氏が『小日本』へ入社することになったのは、この四月中の出来事であった。露月氏は当時浅草の三筋町(みすじちょう)で医者の薬局生をしていたので、調剤をやりながら文学者たらんとする志願を懐いていた。この人が子規居士と相識るに至るまでには自ら径路がある。露月氏の友人に麓(ふもと)という早稲田専門学校の生徒があり、その同窓の長田という人が藤野古白を知っていた。麓が長田に話し、長田が青白に話した結果、古自は麓を子規居士に紹介してくれたので、露月氏は麓氏の紹介で小日本社に居士を訪ねた。露月氏の書いた文章も居士は一見した上、即座に採用ということにもならなかったが、十日ばかりたった後、急に話が進んで入社の運びになった。但(ただし)この時分の露月氏はまだ俳人ではない。俳句は居士と机を並べるようになって、自然にその感化を受けたのである。

[やぶちゃん注:「石井露月」(明治六(一八七三)年~昭和三(一九二八)年)は俳人。本名は祐治。ウィキの「石井露月」によれば、『秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男』。『幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた』。『祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた』。『少年時代は』、『とにかく』、『読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り』、『本を借りてきて読んでいたという』。『小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった』。また、十二『歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた』という。明治二一(一八八八)年、『秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い』、『創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い』、三『年で退学。退学後は自宅で農業を手伝いながら』、『療養に努めた』。この頃、『雨に濡れた若葉に月影が差すのを見て露月と号するようになった』。『中学時代の友人が上京進学した話などを聞くにつけ』、『鬱々とした日々を過ごしていたが』、明治二六(一八九三)年の秋、『ようやく健康を回復し、蔵書を友人たちに買い取ってもら』うことで『旅費と生活費を工面して、文学を志し』、『上京した』。『しかし特に目指す師が定まっているわけでもなく、浅草三筋町の医院の薬局生となり、漢詩や随筆を書いていた』が、『そのうち』、『友人の勧めで坪内逍遙を訪ね』、『文学修行の志を訴えたが、文学で身を立てるには天分と資本の両方が必要であることを説かれ、入門を断られ』ている。『露月には第』二『の条件である資本が決定的に欠けていた』のであった。『塞ぎ込む露月に心を痛めた友人の計らいで、次に正岡子規を訪ねること』となり、『面談の結果、子規とは相認め合うこととなり』、新聞『小日本』、次いで新聞『日本』の『記者となって子規に師事』することとなった。『子規は露月に対し』、『文章のみならず』、『句作についても懇切丁寧に教え導き、露月は本格的に俳句を学ぶようにな』る。『しかし折角これ以上はない師に巡り会ったところで再び脚気を発病し、上京からわずか』一年後の翌明治二十七年秋には、『帰郷療養せざるを得なくなった』。『郷里での生活で露月は健康を回復するが』、この頃、『文士から医業へと志を変えている』。明治二八(一八九五)年に『子規にこのことを打ち明けると、露月の才能を高く評価していただけに子規は呆然として、翻意を促すが』、『徒労であった』。その後、『露月は郷里で座学の勉強を行い』、明治二九(一八九六)年に『医師前期試験に合格』を果たし、新聞『日本』に『在籍しながら』、『済生学舎で実技の勉強を行い、明治三十一年四月に『医師後期試験に合格』した。『受験勉強の間も句作には精励し、子規に見てもらっていた』。『子規は「漢語が多く雄壮警抜」な露月の句風を好んだようで』、翌明治三十年の新聞『日本』に『連載した俳句評論では、碧梧桐、虚子、鳴雪の次に露月を取り上げ、「碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす」と評している』。『露月は医師後期試験後』の明治三十一年七月に『帰郷し、一時』、『秋田市内の新聞社に在籍して文を書きながら、県内俳壇の様子を子規に報告したりしてい』たが、俳誌『ホトトギス』の『全国的な拡張を目論んでいた子規は、遊軍となって協力することを露月に求めた』、丁度その折りの明治三十一年八月、既に同人「北斗吟社」を設立し、俳誌『北斗』を発行して『秋田県内で活躍していた日本派の俳人佐々木北涯、島田五空らと知り合い、句会に出』、『互いに刺激を与え合った』。『露月は医師としての臨床実習のため、明治三二(一八九九)年の五月から十月まで京都市の東山病院の医員を務めるたが、その『実習が終わり』、『秋田へ帰るまでの間、一時東京に寄』った。そこで『碧梧桐、虚子、鳴雪、鼠骨らの東京の俳友』らは『これを歓迎』、『また、じきに郷里へ帰る露月との別れを惜しんで、句会はもとより、闇汁会、柚子味噌会などを催した。子規も病を押して』、『これらに参加している』。明治三十二年の暮、『露月は帰郷し、自村・戸米川村(とめかわむら)と隣村・種平村の村医となった』。『村医としての露月は病人の求めに応じ』、『昼夜を問わず精勤したが』、『そのかたわら句作にも精を出し、頻繁に子規に句を送ってい』る。また、『秋田県内の俳人とも交友を重ね』、明治三三(一九〇〇)年には、『北涯、五空とともに新たな俳誌を創刊、『これを聞いた子規は欣喜し、誌名を』『俳星』と名付けている。同『創刊号には、碧梧桐、虚子、鳴雪、紅緑らの日本派の俳友や、同時代に秋田県内で活躍した俳人安藤和風らが句を寄せている』。明治三十四年、『露月は妻を娶り、医院も新築、生活の基盤は固ま』ったが、この頃、『子規の病状はいよいよ』悪化し、翌明治三五(一九〇二)年九月十九日、白玉楼中の人となった。『露月は悲嘆にくれたが』、『一方で』、この頃より、『貧困に疲弊した村の生活指導を行うようにな』り、詩悦の文庫を創設、したり、村の青年団長となって、没するまでの二十年に亙って、『村会議員を務め、夜学会や農事品評会などを通じての村民の指導や村政の刷新に尽力した』。同ウィキの注によれば、『露月は終生子規を慕い続け』大正五(一九一六)年『には村の玉龍寺で子規忌を、大正一三(一九二四)年『には自宅で子規の二十三回忌を営み、また』、昭和二(一九二七)年、『五空らと吉野巡りをした帰途には』、『東京の子規庵を訪れ、懐かしさに滂沱と涙したという』とある。]

 六月十五日から居士は三たび筆を執って『小日本』紙上に小説を草した。標題は「当世媛鏡(とうせいひめかがみ)」署名は「むらさき」とある。これは「一日物語」よりも更に新聞小説らしいもので、不満の裡に世を去った幕人の子が、人生の浮沈を経験することが大体の筋になっている。居士はこの切抜を綴じた表紙に「當世比賣(たうせいひめ)かがみ、一名嶋田(しまだ)と束髮(そくはつ)」と題したが、嶋田及(および)束髪によって新旧両様の女性を現し、嶋田の女性が恩誼(おんぎ)のために身を退いて悲劇的一生を了(おわ)るのを全篇の結末とした。「媛鏡」は勿論嶋田の女主人公を指すのである。新聞の材料として筆を執ったまでで、居士らしい色彩の最も稀薄なものであるが、大磯の松林館を舞台にしたあたり、居士曾遊の経験が全然取入れられていないでもない。

 六月飄亭氏は看護卒として召集された。朝鮮事件の突発と共に、日清間の風雲が急になったためである。それ以前から『日本』は堂々の筆陣を張って内閣に肉薄する。発行停止の厄(やく)に遭えば、今度は別働隊たる『小日本』を以てこれに代える。従って『小日本』もやられる。日本新聞社と小日本社とが向い合って発行停止の看板を出していたこともあるというから、経済的に成立たなくなったのであろう。遂に廃刊せざるを得なくなった。

[やぶちゃん注:「朝鮮事件」日清戦争の端緒となった一八九四年(明治二十七年)に朝鮮国内で発生した農民の内乱「東学党の乱」(甲午農民戦争)を指す。]

 廃刊に先って居士は「妄山寺梅龕(ばいがん)」を紙上に掲げた。梅龕は山寺清三郎、『俳諧』に句を投じて居士に認められた人である。相見たのは子規庵に催した小会の席上だけで、その時も病を押して出席したのであったが、「はてしらずの記」旅行に出ている間に歿した。享年二十七、居士の身辺に集った俳人のうち、最早く世を去り、居士をして追悼の文を草せしめたのは梅龕であった。居士はこの文章に次いで「梅龕遺稿」の題下に、百余の俳句を採録している。居士後年の句に「梅龕の墓に花なし霜柱」とあるのは、即ちこの人の事である。

[やぶちゃん注:「山寺梅龕(ばいがん)」「山寺清三郎」「山寺」はママ。これは俳人山本梅龕(慶応三(一八六七)年~明治二六(一八九三)年)のこと。詳細事蹟不詳。]

 紀元節に生れた『小日本』ほ孟蘭盆を以て廃刊の運命に遭った。七月十日、諷亭氏に送った手紙にはこうある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。本「子規居士」原典で校訂したが、一部の記号は底本のママとし、読みは一部を底本に従がって添えた。「幡隨院長兵衞」は正岡子規が『小日本』に連載していたものらしいが、詳細不祥。]

 

拜啓大略昨夜御報(おしらせ)申上候、御覽の事と存候。卽ち『小日本』は經濟上の一點より本月十五日を以てあへなく最期を遂ぐる事と相成申候。幡隨院長兵衞も今一册で終り媛鏡もその日を以て無殘の最期、歌川氏募集發句も皆結了の都合、而して臨終の日は卽ち七月十五日玉祭の日に相當り候。奇なり妙なり、天命の定まる處と存候。

 

 「俳諧一口話」も「梅龕遺稿」も同じく七月十五日の紙上で完結した。「俳諧一口話」は「孟蘭盆会」と題して古人の句数章を挙げ、最後に「盆に死ぬ佛の中の佛かな」という智月の句を特に三号活字で大きく組ませたのは、『小日本』廃刊の意を寓したのである。

 半歳にわたる居士の事業はこうして倒れた。豊嶋沖の一発によって日清戦争の火蓋が切られたのは、それから十日の後であった。

[やぶちゃん注:「豊嶋沖の一発」「豊嶋」は「ほうとう」。豊島沖海戦のこと。一八九四年(明治二十七年)七月二十五日、朝鮮半島中部西岸の牙山湾の西にある豊島(現在の京畿道安山市檀園区豊島洞)沖に於いて日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間で行われた海戦。日清戦争宣戦布告前に発生した(宣戦布告は七日後の同年八月一日に日清両国によって成された)。]

 

博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載

 

「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載

 

Gizame

 

[やぶちゃん注:「蒹葭堂雑録(けんかどうざつろく)」(正字表記「蒹葭堂雜錄」)は既に本ブログの『海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載』(「海産生物古記録集」は本シリーズの旧標題)で述べたが、改めて記す。大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:家は大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋で、後に大坂船場呉服町で文具商として財をなした。蔵書家としても知られ、彼の死後、その膨大な蔵書は幕命によってほとんどが昌平坂学問所に納められた)の著になる、安政六(一八五九)年刊の五巻から成る考証随筆。各地の社寺に蔵する書画器物や、見聞した珍しい動植物についての考証及び珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者没後、子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵三十六歌仙絵巻などの珍品が雑然と紹介されており、挿画は大阪の画家翠栄堂松川半山の筆になる(以上は主に「世界大百科事典」及びウィキの「木村蒹葭堂」に拠った)。

 本記載は同書の「二之卷」の五項目に「阿州異魚之圖」(目次は「阿波國異魚之圖」)として見開きで載る。ここではその見開き全体の画像を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにある原典画像を冒頭に掲げた(トリミングしてある)。魚体が左右に切れてしまっているのが悩ましい。実は私の所持する吉川弘文館随筆大成版(第一期十四巻)では、ほこの項の本文を含めた全体がそのまま図版の形で例外的に掲載されており、しかも、そこでは魚体が非常に綺麗に接合されており、一枚の絵として気持ちよく視認出来るのであるが、同書は無断で複写複製(コピー)を禁じていることから、その図をお示し出来ないのは非常に残念ではあるが、致し方ない。先の『海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載』の方では、同書の挿絵を利用したのに今回それをやめた理由は、この魚体の接合されている部分には編集権が発生していると私が考えたからで、これは、パブリック・ドメインの絵図を平面画像としてただ写し撮っただけの果実には著作権は発生しない、という文化庁規定は適応出来ないと私が認識したためである。また、そのままでは裏の文字が透けて見えてしまうため、強い補正をかけた。右ページが黄変しているが、これぐらい補正をかけないと、原図の薄い部分がより薄くなってしまい、視認での細部の観察が甚だ難しくなってしまうからである。

 以下、本文箇所は吉川弘文館随筆大成版も参考にしながら、電子化した。最初に原典のルビ附きの本文を完全に電子化した「□本文1」を、次に、難読と判断される箇所以外のルビを排除し、逆に読みの一部を本文に出したり、〔 〕で読みや本文を補い、記号も挿入して整序した「□本文2」の二種を配した。字の一行字数は「□本文1」では一行字数を原典に一致させ、「□本文2」では続く箇所は改行せずに示して、読み易さを考え、禁欲的に句読点を打った。略字か正字か迷うもの及び表現不能な略字体の箇所は正字化した。「ハ」「ミ」がカタカナらしく見えはするが、総て平仮名として判読した。]

 

□本文1

阿州異魚之圖(あしうゐぎよのづ)

 

長二尺四五寸許(ばかり)首(かしら)は方(かた)にして

匾(ひらたき)身(み)あり全體(ぜんたい)白(しろき)光(ひかり)有(あり)て

太刀魚(たちうを)の如(ごと)し目睛(めのひとみ)黄(き)にして

鮫目(さめのめ)に似(に)たり一説(いつせつに勢州(せいしう)

津(つ)の方言(はうげん)には箔鮫(はくさめ)と云

紀州(きしう)にて天狗鮫(てんぐざめ)といふ

卽(すなはち)劍尾沙魚(けんびざめ)の属(たぐひ)

      なり

[やぶちゃん注:以下、キャプション(一キャプション毎に頭に※を打った)を右から左へ電子化した。]

※此(この)鰭(ひれ)鳥(とりの)翎(はね)の

  ごとし

※肉色(にくいろ)

※薄白(うすしろ)

※此(この)鰭(ひれ)背(せ)白(しろ)く縁(ふち)より紅(あかみ)あり

※此(この)黒條(くろすぢ)少(すこ)し

     勒(きざ)あり

 

[やぶちゃん注:上記のキャプションは、ただ、魚体の中央下部に書かれており、他のキャプションと異なり、指示線が全くない。しかし、これが見開きに中央であること、本異魚の側線らしき部分が濃い黒で、しかも波を打ってギザギザに描かれているのが視認出来ることから、これはこの側線らしき箇所へのキャプションと私は推定している。

※腹(はら)白(しろ)し

※歯(は)白(しろ)く微(すこし)青(あをみ)を帶(を)ぶ

※鼻頭(はなかしら)白く微(すこし)紅(あか)を帶(を)ぶ小孔(ちいさきあな)数点(かず)あり

 條(すぢ)を貫(つらぬ)きたる孔(あな)は條(すぢ)なき孔(あな)より少(すこ)し大(だい)なり

 

 

□本文2(ルビを概ね排除し、句読点を打ったもの)

阿州異魚之(の)圖

 

長〔ながさ〕、二尺四、五寸許(ばかり)。首(かしら)は、方(かた)にして、匾(ひらたき)身あり。全體、白き光り有りて、太刀魚の如し。目の睛(ひとみ)、黄(き)にして、鮫の目に似たり。一説に、勢州津の方言には「箔鮫(はくさめ)」と云〔ふ〕。紀州にて「天狗鮫(てんぐざめ)」といふ。卽ち、「劍尾沙魚(けんびざめ)」の属(たぐひ)なり。

※此の鰭、鳥の翎(はね)のごとし。

※肉色。

※薄白。

※此の鰭、背、白く、縁(ふち)より紅みあり。

※此の黒條(くろすぢ)、少し勒(きざ)あり。

※腹、白し。

※歯、白く、微(すこ)し青を帶ぶ。

※鼻頭(はなかしら)、白く、微し紅(あか)を帶ぶ。小さき孔(あな)、数-点(かづ)あり。條(すぢ)を貫きたる孔は、條なき孔より、少し、大なり。

 

[やぶちゃん注:これはもう、脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata軟骨魚綱 Chondrichthyes全頭亜綱 Holocephaliギンザメ目 Chimaeriformesギンザメ科 Chimaeridaeギンザメ属 Chimaeraギンザメ Chimaera phantasma Jordan and Snyder, 1900(英名:Silver chimaera)に同定してよい。全頭亜綱ギンザメ目(Chimaeriformes)にはギンザメ科 Chimaeridae とテングギンザメ科Rhinochimaeridae の二科があるが、後者は先頭部が天狗の鼻のように異常に長く張り出しているから、ここは間違いなく前者である。また、本邦に棲息するギンザメ科は八種が確認されているが、最も普通に見かけるのは本種であるから、それに同定した。

 同種は地方名では「ギンブカ」(或いは単に「フカ」)「ウサギザメ」「ウサギ」などとも呼ばれる。英名は「銀色のキマイラ」(chimaera Chimaira と同じ)で、「銀色をした妖獣キマイラ」(キマイラはギリシア神話のハイブリッドの怪物で、ライオン・山羊・蛇の三つの頭を持ち、口から火を吐く。小アジアのカリア地方に住んでいて周辺の土地を荒したが、リュディア王イオバテスの命を受けたベレロフォンが、天馬ペガソスの助けを借りて退治した)の意。但し、私はくるんとした丸い目といい、とても可愛いと思う。事実、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「ギンザメ」によれば、ギンザメ類をノルウェーでは『体色の美しさから〈金銀魚〉とよぶ』とさえある。

 和名は無論、「銀鮫」であるが、「さめ」がついているが、軟骨魚綱 Chondrichthyes板鰓亜綱 Elasmobranchiiサメ類とは異なり、実はより原始的な全頭亜綱 Holocephali(軟骨魚類の中で古くに板鰓類(サメ・エイ類)と分かれて出来たグループ。分岐年代は定かではないが、古生代デボン紀(約四億千六百万年前から三億五千九百二十万年前)にはこの全頭類の化石が見つかっているから、それより以前である。そもそもが現生の全頭類はこのギンザメ目のみである。板鰓類との大きな相違は鰓の開口部の形状で、板鰓類が鰓裂を五対以上持つのに対し、全頭類では鰓を一枚の鰓蓋が覆い、鰓裂は一対である)に属する「生きている化石」クラス(実際、私の小学校時代の魚類図鑑にはそう書いてあった)である。以下、ウィキの「ギンザメ」によれば、『太平洋北西部に広く分布し、水深』五百メートル『以浅で見られる。また』、『インド洋東部やニューカレドニア近海にも分布するが、太平洋の個体群よりも』、『やや深い所に生息する。日本近海では、日本海を含む北海道以南に分布する』。属名は前に記した通りで「キマイラ」に由来し、『種名 phantasma は、「幽霊」「幻影」といった意味』である。全長は七十センチメートル(ぼうずコンニャク市場魚貝類図鑑」ギンザメ」の数値)から一メートル十センチメートルほどで、『体色は銀白色』で、既に述べた通り、『サメやエイなどの板鰓類と異なる点は、鰓孔(外鰓孔)を一対しかもたないことである。大きな胸鰭をもち、海底付近を上下に羽ばたくようにして遊泳する。背鰭前縁に』一『本の毒腺のある棘をもつ。刺されると痛むが、人に対する毒性は弱い。歯は癒合し、硬いものをすり潰すのに適している。餌は底性の貝や甲殻類である』。『卵生』で、『雄の頭部には鈎状の突起があり、交尾時に雌を押さえ付けるのに用いられる』とある。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「ギンザメ」によれば、この鉤状突起はの頭部額部分にあるとあり、とすると、本図は有意な突出点が見当たらないことから、ギンザメのである可能性もでてくるとも言える。『底引き網などにかかることがあるが、水産上は重要でな』く、『かまぼこや練り製品になる』。『深海底に生息しているため、生きている姿を目にすることは稀である。水圧等の影響により水から揚げると死んでしまうことが多い』。第一『背鰭にある棘は大きく、毒をもつので取り扱いには注意を要する』とある。珍しい生体動画は(水族館)。

・「阿州」阿波国。現在の徳島県。

・「二尺四、五寸」七十三~七十五・七五センチメートル。

・「首(かしら)は方(かた)にして」頭部は方形であって。事実、ギンザメ類は頭部は左右に角ばっている(特に鰓孔辺りで)が、それより以下の体幹は上下に平べったい。

・「太刀魚」条鰭綱スズキ目サバ亜目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturus

・「目の睛(ひとみ)、黄(き)にして」生体のそれは黄色くないように思われる。或いは死んで、腐敗が始まって水晶体に濁りが生じていたものかも知れない。

・「勢州津」伊勢国の津。現在の三重県津市。

・「箔鮫(はくさめ)」銀箔で腑に落ちる。

・「紀州」紀伊国。現在の和歌山県。

・「天狗鮫(てんぐざめ)」単に本種だけを見ても目が大きく、それより前の頭部の突出は鼻に擬え得るから、本ギンザメ科 Chimaeridae をかく呼んでもおかしくはない。しかし前に述べた通り、テングギンザメ科Rhinochimaeridae のテングギンザメ類のフォルムを見てしまうと、これはそっちに譲りましょうという気にはなる。はレアな自然状態のギンザメの動画であるが、これはその鼻部から見てテングギンザメ科Rhinochimaeridae の一種のように思われる。グーグル画像検索「Rhinochimaeridae」(テングギンザメ科を示しておく。

・「劍尾沙魚(けんびざめ)」これは本ギンザメを指す名として、後の栗本宝暦六(一七五六天保五(一八三四(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。必見!)として出る。

・「翎(はね)」羽に同じい。以下、細部の形状と色は、かなり正確に記述している。グーグル画像検索「Chimaera phantasmaの各画像と比較されたい。

・「肉色」ピンク色。

・「勒(きざ)」刻み。凸凹。「勒」には「刻む・彫る」の意がある。

・「数-点(かづ)あり」二字でかく当て読みしている。数多くある。]

 

□現代語訳

阿波の国で捕れた異魚の図 

長さは二尺四、五寸ほど。首の部分は角ばっていて、それに平たい身が続いている。全体に白い光りがあって、太刀魚(たちうお)のようである。目の瞳は黄色で、鮫の目に似ている。一説に、伊勢の国の津の方言では、この魚を「箔鮫(はくさめ)」と言うとも伝える。また紀伊の国では「天狗鮫(てんぐざめ)」と称するとも言う。ともかくも則ち、これらは皆、「劍尾沙魚(けんびざめ)」の類いである。

※ここの鰭は鳥の羽に似ている。

※肉色を呈する。

※薄い白色。

※ここの鰭は、背の部分が有意に白く、その縁(ふち)の部分からグラデーションがかかって赤みがかっている。

※この黒い筋状の線には、少し刻みがある。

※腹は白い。

※歯は白く、少し青みを帯びている。

※鼻頭(はながしら)の部分は白く、少し赤みを帯びている。頭部には小さな孔(あな)が数多く開(あ)いている。その内、表面に筋があってそこを貫いて体(頭部内部)に開いている孔は、頭部の筋のない孤立した単独の孔よりも、少し大きい。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(1)

 

   流され王

 

 武州高麗本郷の白髭社に、修驗道を以て仕へて來た舊家の當主、自分も大に白い髭あり、近來その苗字を高麗氏と名のり、さうして古い系圖が傳はつて居て、見に行くほどの人は皆感心をする。此だけは正しく事實である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居たことは正史に出て居る。歷史が如何に想像の自由を基礎とする學問であるにしても、かほど顯著なる二箇の證跡は、共に之を無視して進むことを許されぬであらう。併し右の二史實との間には茫漠たる一千餘年が橫はつて居る。從つて彼から此へ絲筋の引くものが、あるかと思ふのは或は野馬陽炎である。此關係は之を決定する必要があるとすれば、今後に於て之を證明せねばならぬ。

[やぶちゃん注:「武州高麗本郷の白髭社」埼玉県日高市高麗本郷にある白髭神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」の「武蔵高麗行」も参照されたい。

「約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居た」高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である高麗氏については、ウィキの「高麗氏」に、六六八年に起こった『唐・新羅連合軍との戦い(白村江の戦いなど唐の高句麗出兵)で高句麗が滅亡したあと、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命している。また、それ以前から』、『高句麗から日本列島に移住し定着した人々も存在した。彼らの一部が「高麗」の氏姓を称したものと推測されている』とし、大宝三(七〇三)年(「約千二百年前」本論考「流され王」は大正九(一九二〇)年七月発行の『史林』に発表されたもの)に『高句麗の王族と推測される高麗若光が王(こにきし)の姓(カバネ)を与えられる。武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在の宮司は若光から数えて』六十『代目とされる。若光系の高麗氏としては、この家系が知られているのみである。高麗神社には若光を祖とする「高麗氏系図」が伝来している』とある(下線やぶちゃん)。Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」にも、始祖を高麗王若光とし、本貫(ほんがん/ほんかん:律令制下に於いて戸籍に記載された土地)を『武蔵國高麗郡』とし、『世系」』の項に、『高麗氏は高句麗の王族』『高氏にして、高麗王若光の後裔なり。 武蔵國高麗郡(現 埼玉縣入間郡)を領して大寳』三年四月『高麗王姓を賜ふ』とある。以下、『歴史』の項に『高麗氏は、歴世武蔵國高麗郡新堀村 高麗神社(現』『埼玉縣入間郡日高町)の祠官にて、世々著名なり。 第』四十四『代高麗良道は』、天正一九(一五九一)年』、『小田原落城の後、徳川内府様へ早々に御祝賀参上』、同年十一月、『先規之通り、御朱印』『之有りて大宮領寄進之御書付を下し置かる。 第』四十五『代高麗良海は』文祿二 (一五九三) 年、攝『州大坂表へ上り、高句麗の後裔』『高麗國を不忠謀反にて滅せる仇敵』『李氏朝鮮征伐の御勝利に御祝儀を申上げり。また』、『聖護院門跡に』參上、『金襴地御免許を賜ふ』ともある。

「正史に出て居る」例えば、「続日本紀」の大宝三(七〇三)年四月乙未の条に『乙未。從五位下高麗若光賜王姓』と出、霊亀二(七一六)年五月辛卯の条には『辛卯。以駿河・甲斐・相摸・上總・下總・常陸・下野七國高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉』とあり、下って延暦八(七八九)年十月乙酉には『乙酉。散位從三位高倉朝臣福信薨。福信武藏國高麗郡人也。本姓背奈。其祖福德屬唐將李勣拔平壤城、來歸國家、居武藏焉。福信卽福德之孫也。小年隨伯父背奈行文入都、時與同輩、晩頭往石上衢、遊戲相撲、巧用其力、能勝其敵、遂聞内裏、召令侍内竪所。自是著名、初任右衞士大志、稍遷、天平中授外從五位下、任春宮亮。聖武皇帝甚加恩幸、勝寶初、至從四位紫微少弼、改本姓賜高麗朝臣、遷信部大輔。神護元年、授從三位、拜造宮卿、兼歷武藏近江守。寶龜十年、上書言、臣自投聖化。年歳已深。但雖新姓之榮朝臣過分、而舊俗之號高麗未除、伏乞、改高麗以爲高倉、詔許之。天鷹元年、遷彈正尹兼武藏守。延暦四年、上表乞身、以散位歸第焉。薨時八十一』と記す。

「野馬陽炎」ちくま文庫版全集では『のまかげろう』とルビするが、私はこの四字で「かげらふ(かげろう)」と読ませていると考える。何故なら、江戸以前は「かげろふ」を「野馬」と表記することが多かったこと、それを文字通りの「野の馬」と読まれては困るので、柳田は「陽炎」を後にわざわざ附したと読むからである。なお、「野馬」を「かげろふ」と当てたのは、逃げ水のような陽炎現象が一見、野を走る馬に似ていることに由来するもののようである。]

 自分は試みにその間題の一小部分、すなわち白髭樣だと自稱する新堀村の大宮明神が、果して高麗の王族を祀つたものと、解することを得るか否かを考えて、地方の舊傳をもてあつかつて居る人々の參考に供してみたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「新堀村の大宮明神」先の高麗本郷の東北直近の、現在の埼玉県日高市新堀(にいほり)にある高麗神社のこと。ウィキの「高麗神社」によれば、『現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は』霊亀二(七一六)年に『武蔵国高麗郡が設置された地である。中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった』。天智天皇七(六六八)年に『唐・新羅に滅ぼされ』、『亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた』。大宝三(七〇三)年には『高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により』、『高麗郡の設置にあたって』、『他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されて』おり、『高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた』天正一八(一五九〇)年、『徳川家康が関東に入国すると、翌年』、『社領として高麗郷内に』、『石を寄進され』ている。『また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号』(下線やぶちゃん)『は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある』とある。]

 古い證據が必しも確實で無い一例は系圖である。古くから有つたとすれば後の部分が氣になる。そんなら新しい程安全かと申せば、元はどうであったかゞやはり疑を招く。二者何れにしても繼目の處は每に難物である。其と言ふのが系圖には、千年間の書込みと云ふことが想像し得られぬ故で、紙筆と文字とが昔から有つたとても、之を書かせる人又は家はさうは續き能はぬからである。第一には系圖を傳へる動磯が時代に由つて一樣では無かつた。或時は部曲を統御し又は代表する爲、或時は所領の相傳を證する爲、或は信仰上の由緒を説く爲、或は單に舊家の名聞の爲と、其都度恰も此の如き必要に遭遇して居た家で、零落や早死の不幸が些しも無かつた場合でも、尚且つ後代の主人に一種の編輯力とも名くべき能力が入用である。卽ち身を後世に置き心を上古に馳せても、只徒らに舊傳に忠誠で有つては、寧ろ不可解の誤謬を生ずるのが普通である。其が右の高麗郷に限り、近世的に鍔目がよく合つて居るとすれば、おそらく春日阿蘇を始めとして、各地の舊社の信條を爲すところの、神孫が神に仕へ來たつたと云ふ思想が、溯つて久しい七黨繁榮の時代に迄、一貫して居た爲であらう。卽ち現今の所謂武藏野研究者が、寄つてたかつて一つの白髭樣を重々しくしたと同じ外部の影響が、二百年前にも三百年前にも、何度か繰返されて來たのかも知れぬ。高麗の一郷は離れ小島では無かつた。之を取り圍んだ武藏國原には樣々の衝動が有つた。名族の去來盛衰も多かつた間に、法師も入込み浪人も遊行したのである。此を一々に想像し試みる迄も無く、白髭と云ふ神の御名が既に適切に昔を語つて居る。この神の分布は日本の殆ど半にも及んで居て、固より武藏を以て發源地と目することは出來ぬ上に、此名を流行させた原因かと思ふ信仰の樣式は、外蕃歸化の盛であつた時代のものでは無いやうである。從つて高麗氏家傳が古い歷史の儘と云ふことは、まだ中々信を執り難い。

[やぶちゃん注:Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」の最後には、『譜文の註記に曰く「正元元』(一二五九)年十一月八日、『大風の時、出火ありて系譜、併びに高麗國より持來の寶物等』『多数焼失せる。依りて、第』二十八『代高麗永純は、高麗爾來の一族郎黨たる 高麗、高麗井、新、新井、本所』、神田、『中山』福泉、『吉川、丘登、大野、加藤、岩木等諸家を』參『集し、其諸記』錄『を取調べして系譜を再修したる」と云ふ。また「概ね復元せしも猶々不詳の』處『之有り。 而して以降の系譜は』歷『世傳來せしめて誤り無く致す可ものなり」と』とあるのである。

「部曲」(ぶきょく/かきべ)は古代の中国を起源とする、私有民や私兵などの身分を指す。日本では「民部」とも書く。実体の多くは賤民であり、隷属的な集団の謂いでもある。

「阿蘇」阿蘇(古くは「阿蘓」とも記した)神社は現在の熊本県阿蘇市にあり、多大な恩恵と災禍を齎す活火山の阿蘇山への信仰から発したものと考えられるが、現在、全国に約四百五十社を数える阿蘇神社の総本社である。ウィキの「阿蘇神社によれば、この神社は、孝霊天皇九年六月、『健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝え』、『阿蘇神社大宮司を世襲し、この地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している』とある。]

2018/02/25

細道

地圖には敏感な細い道が無數にある――それが恐るべき斷崖へと僕らを導く――
 

あの日は二度來ず――さうして僕らはただ――茫然と「無」の海邊に立ち盡くす自分を傍觀者として「皮相的」に眺める――
 

彼女の泣き聲が今も聽こえる――それは永劫の呪詛であると同時に永遠の私だけの福音書の祈禱である――


しかし殘念なことには私は墜ちることも無い――何故なら――私は何者をも信じないからである――私は――ただ「無」の「宙」にぶら下がる――それで結構だ――

 

私は

私は私の邪悪性に極めて敏感だが、同時に誰よりも自分が正当だ思っている他者の邪悪性にはもっと敏感である。

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(1) 序

 

    第十三章 古生物學上の事實

 

[やぶちゃん注:以上の章標題(但し、これは目次で確認出来る)及び冒頭第一段落(『【】』から『【】』まで)は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、原資料自体のページが欠損しているので、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの中の、一番底本に直近の前の版である、開成館(底本の東京開成館の旧社名と思われる)大正(一九一四)年十一月発行の修正十一版の当該部を参考にし、講談社学術文庫版とも校合して推定復元した。]

 

 以上第九章より第十二章までに述べた如く、解剖學上・發生學上・分類學上・分布學上の事實を調べて見ると、生物種屬の進化し來つたことは疑ふべからざることであるが、以上の事實は唯進化論を認めなければ如何しても説明することが出來ぬといふ性質のもので、所謂事情の上の證據である。それ故、此等の事實ばかりを以て生物の進化を論ずるのは、卽ち現在の有樣を基として、過去の變遷を推察するといふに止まるが、本章に説く所は大いに之と違ひ、古代に生存して居た動物の遺體に就いて、生物進化の事蹟を述べるのであるから、議論でなくて單に記載である。今までに略述しただけでも進化の證據は十分であるが、今から説くことは進化の事實其の物で、例に掲げる標本は、皆、アメリカヨーロッパ諸國の博物館に陳列して、誰にも見せて居るのであるから、如何しても疑ふことの出來ぬ性質のものである。

 古生物學上の事實を述べるに當つて、特に初から注意して置かなければならぬのは、時の長さに關して正確な觀念を持つことである。この觀念が間違つて居ては、生物進化の事蹟を正當に理解することは出來ぬ。古生物學で研究するものは所謂化石であつて、化石はいふまでもなく、古代に生活して居た動植物の遺體であるが、この化石といふものは、一體いつ頃如何なる事情の下に出來たかと詳しく論ずるには、先づ一通り地殼の變遷のことから考へてかゝらねばならぬ。

 今日地球の表面を見るに、山が海になり、海が山に變ずるやうな劇烈な大變化は極めて稀で、それも極めて狹い區域に限られてあるから、全體から論ずれば、急劇な變化は先づないといはねばならぬが、細かに注意すれば、徐々の變化は日夜絶えず行はれて居ることが解る。例へば雨が降れば直に河の水が濁るが、水の濁るのは何處かの山や野から泥砂が澤山に流れ込んだ結果で、水の流れて居る間は浮んで居るが、海へ出れば重いものは總べて沈んでしまふから、大きな河の出口には、かやうな泥砂が漸々堆積して三角形の洲が出來る。支那の黃河や揚子江が絶えず濁つて居るのも皆かやうな泥のためであるから、年々これらの河が陸から海へ持ち出す土の分量は隨分夥しいことであらう。世界中どこへ行つても理窟はこの通りで、大きな河でも、小な河でも、絶えず陸から幾らかの土を海へ流し出すが、その中、粗い砂粒は河口に近い處で沈み、細かい泥は遠い沖まで漂うて行き、終にはやはり沈む故、海の底には絶えず泥が積つて、新しい層が出來る。斯かる層は最初は無論柔いが、厚く積れば下の方の部分は上からの壓力によつて段々凝(かた)まり、終には堅牢な岩石となつてしまふ。またかやうな層は初め水平に出來るが、地殼の昇降により、一方が上り、一方が下つて斜に傾き、一部分は海面より現れて陸となり、他の部分は海の底に隱れたまゝで留まる。水上に現れた處はまた漸々雨風に壞され、泥砂となつて、海へ出て、更に沈んで海底に新しい層を造り、絶えずこの順序によつて地殼に變化が起るが、斯かる泥砂の凝(かた)まつて出來た岩は、水の底に出來たもの故、之を水成岩と名づける。水成岩は皆層をなして居るは、勿論であるが、生物の死體が化石となつて保存せられたのは、總べて水の底に泥の溜まるとき、その中へ落ちて理もれたものばかりに限るから、化石を含んで居るのは水成岩のみである。

 

Sameisi

[鮫石]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。]

 

 水成岩はかやうに漸々出來たもの故、一層每にその出來た時が違ひ、下に敷かれて居る方は古く出來た層で、上に重なつて居る方は新しく出來た層である。また孰れの層にも多少の化石が含まれてあるが、每層含む所の化石が違ひ、殆ど一層每に固有の化石の種類が一つや二つは必ずある故、離れた處にある水成岩でも、同じ化石を含むものは同じ時代に出來たものと見倣し、之を標準として他の層の新古の順序を定めることが出來る。この方法により、今日知れてあるだけの水成岩を研究し、その全體の厚さを測つて見ると、日本の里程に計算して十里以上になるが、海の底に泥砂が漸々に積り、それが凝まつて厚さ十里以上の堅牢な岩石が出來るには、凡そ如何程の時を要するであらうか、百年か二世紀と名づけて、時の最も長い單位として用ゐて居る我々では、到底想像して見ることも出來ぬ。

[やぶちゃん注:「同じ化石を含むものは同じ時代に出來たものと見倣し、之を標準として他の層の新古の順序を定めることが出來る」所謂、「示準化石」(index fossil)である。放射年代測定が登場するまでは唯一の離れた地域間での地層対比同定法であったが、乱泥流などによって、堆積後、有意に時間が経過した後、堆積物ごと大きく移動してしまったケースや、生物擾乱(バイオターベーション:bioturbation)によって擾乱された場合には役にたたない。これは微化石の場合に於いて特に顕著に起こる(以上はウィキの「示準化石に拠った)。]

 右は單に陸地から海に泥砂が流れ入るだけで、水成岩が出來る如くに書いたが、實際はかやうなものが流れ込まずとも、海の底に新な層の積り生ずる原因は他にも種々ある。例へば海の表面・水中ともに微細な蟲類・藻類などが、幾億とも數へられぬ程に浮いて居て、常に水中より石灰・珪酸等を吸ひ取つて殼を造り、死んでしまへば殼だけが底に沈むから、深い海の底では常に上から斯かる蟲や藻の殼が雨の如くに降つて、之ばかりでもなかなか大きな地層が出來る。大西洋の中央には餘程廣く、全くかやうな殼ばかりで底の出來て居る處があるが、後には之が凝まつて、固い岩石となる。岐阜縣赤坂から出る有名な鮫石などは、かやうにして生じた岩石の一例であるが、エジプトのピラミッドは、殆どこの類の岩石ばかりを用いて造つてある。

[やぶちゃん注:「鮫石」特に岐阜県大垣市赤坂町(あかさかちょう)金生山(きんしょうざん)付近((グーグル・マップ・データ)。良質な石灰岩・大理石があることから江戸時代より採掘が行われてきた。航空写真に替えると、その無残に削られ引き剥かれてしまった山容がよく判る。ここからは多様な化石類が発掘されて、「日本の古生物学発祥の地」とも呼ばれる)から多く産する石灰岩の一種。暗灰色で中に多数のフズリナ(fusuline:紡錘虫。古生代石炭紀に始まり、二畳紀末に絶滅した原生動物の一群で、現在はリザリア界 Rhizaria レタリア門Retaria有孔虫亜門 Polythalamea 綱フズリナ目†Fusulinida に分類されている高等有孔虫類。名称は「紡錘」の意のラテン語「fusus」に由来当初はフィッシャー・ド・ワルトハイムが一八二九年にソヴィエトのモスクワ盆地の上部石炭系地層から産する米粒様化石(初めは極微小な頭足類と考えられた)に与えた属名Fusulinaであったが,しだいに近縁の属。種多く発見・認可さられ、群全体を指す語としても用いられるようになったもの。グーグル画像検索fusulineをリンクさせておく)を含有する。花瓶や灰皿などに加工する。]

 以上述べた所は、今日地質學に於て確に解つてあることの中から、一部だけを極めて簡單に説いたに過ぎぬが、これらのことを詳細に論ずるのは、地質學の範圍内で、こゝに述べた如きことは如何なる地質學書にも尚明細に記載してあるから、本書には略する。こゝ ではたゞ化石を含む水成岩が出來たのは、我々の考へられぬ程の昔からであることが解りさへすれば、それで宜しい。地球が出來てから今年で何年になるとか、人類が初めて現れてから何年になるとかいふことが、往々雜誌などに出て居るが、總べて全く架空の考ばかりで、一として信ずべきものはない。今日我々の斷言の出來ることは、たゞ地球の歷史は非常に長いといふことだけで、數字を以てその長さを示すことなどは到底出來ぬ。倂し長い短いといふのは比較的の言葉で、たゞ長いといふたばかりでは、何の位長いのか解らぬから、之を人間の歷史に比べて見るに、エジプトのピラミッドなどは六千年以上の昔に造つたもので、先づ最も古い人間の遺物であるといふが、地球の歷史から見れば、六千年位の短い年月は到底勘定にも入らぬ程である。總べて大きな物を測るには、大きな單位を用ゐなければならぬもので、書物や机の寸法は尺と寸とでいひ表せるが、國と國との距離は里を單位に取らなければならず、また星と星との距離を測るには里では到底間に合わぬ故、三千七百萬里もある地球と太陽との間の距離[やぶちゃん注:一億四千九百六十万キロメートル。]を單位としていひ表し、尚遠い星の距離を測るには更に地球・太陽間の距離の百六萬九千倍もあるシリウス星までの距離[やぶちゃん注:八・六一一光年。おおいぬ座にあるシリウスを基準にしたのは、太陽・月及び近い惑星を除いて全天で一番明るい星だからである。但し、それよりも、太陽に距離が最も近い恒星ケンタウルス座α星(アルファ・ケンタウリ)約四・三光年を基準にした方が私はいいように思う。因みに、一光年は単純換算すると約九兆五千億キロメートルであるが、一光年の距離に馴染み深い星がないもんだろうかとも思う。]を取つて單位とせなければならぬのと同じ理窟で、時の長さを測るに當つても、所謂萬國史位には年を單位に取るのが相應であるが、眞に地球の歷史を論ずるに當つては、到底、年を單位にするやうなことでは間に合はぬ。地質學で地殼變遷の歷史を述べるには之を若干の代に分ち、各代を更に數多の紀に分つて論ずるが、この紀と名づけるものは、決して皆同一の長さのものではなく、一と十、又は一と百位の割合に長さの違ふものがあるかも知れぬ。倂し孰れにしても一萬年や十萬年位の短いもので無かつたことは確である。西洋の曆には尚往々天地開闢紀元六千何百何十年などと書き入れたものがあるが、今日の地質學上の知識を以て見れば、實に滑稽の極といはねばならぬ。地球の歷史はかやうに長く、隨つて生物の歷史も同じく長い時を經て來たものであるが、生物種屬の起源などを論ずるに當つては、この事は少時も忘るべからざることである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(8) 七 津輕海峽と宗谷海峽 / 第十二章 分布學上の事實~了

 

     七 津輕海峽と宗谷海峽

 

[やぶちゃん注:標題の「津輕海峽」は底本では『輕津海峽』と転倒している。訂した。また、『【】』から本章の最後『【】』までは底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、原資料自体のページが欠損しているので、国立国会図書館デジタルコレクションの一番底本直近であ開成館底本東京開成社名る)大正一九一四)十一発行修正十一の当該部を参考にし、講談社学術文庫版とも校合して推定復元した。]

 

 終りに我が國の動物分布の有樣は如何と見るに、全體からいへば無論アジヤ産のものに似たものばかりであるが、本州・四國・九州産の動物には日本固有のものが頗る多い。狸・熊・穴熊などは支那・チベットの方に産するものと極めて似て居て、之を同種と見倣す人もある位であるが、日本の猿・猪・羚羊・鹿・狐・鼬等の如きは、日本以外には何處にも産せぬ。然るに津輕海峽を越えて北海道に渡ると、鳥類・獸類ともに大に異なり、日本[やぶちゃん注:差別的な謂い方である。本州以南とすべきであろう。後の「内地」というのさえも私は厭だ。]に固有なものは大に數が減じ、こゝに居るものの中にはシベリヤ地方に産するものと同種のものが幾つもある。熊も日本固有の月輪熊でなくて、北方に普通な熊であり、鼬も蝦夷鼬といふ冬は白くなる種類であるが、之はシベリヤからヨーロッパまでも普通なものである。鳥類に就いていへば、雉子・「やまどり」などは日本固有の鳥であるが、北海道には産せず、北海道に産する鳥類は皆シベリヤ地方と共通なものばかりで、その多數は内地にも居るが、津輕海峽以南には全く産せぬ種類も七種ばかりある。斯くの如く本州・四國・九州産の動物には、日本固有のものが頗る多いが、北海道のみに固有な動物といふては一種もない。また日本固有のものはどこの産に最も似て居るかと尋ねると、北海道産のものに似るよりは、遙に朝鮮・支那産の方に善く似て居る。また北海道から宗谷海峽を超えて樺太へ行つて見ると、馴鹿や、麝香鹿の如き北海道には決して居ぬ獸類が居て、蛇・蜥蜴・蛙の類も全く違ひ、北アジヤと共通のものばかりである。北海道には本州・四國・九州と共通の種類も相應にあるが、樺太にはかやうなものは殆どない。これ等のことも動物各種が皆その場所に別々に造られ、少しも變化せずに今日まで續いたものとしたならば、たゞ何の意味もないことであるが、進化論から見れば頗る興昧のあることで、且明瞭にその意味が解る。日本が極昔にアジヤ大陸の一部であつたことは疑もないが、後に至つて、津輕海峽・宗谷海峽などが生じて、大陸と離れ、樺太も之と同じく大陸から離れたと假定すれば、動物分布の模樣は是非とも今日の通りにならざるを得ぬ次第で、最初大陸と連絡のあつた間は、各部ともに大陸と共同種類の動物が居たが、連絡が絶えてからは、獨立に進化して固有の種類が出來たのであり、また南方から移り來つた種類は、本州だけに止まるものと、北海道まで進み住するものとがあり、北方より入り來るものには、樺太で止まつて北海道までは移り得ぬもの、宗谷海峽を渡つて北海道まで達したもの、稀には津輕海】[やぶちゃん注:以下、本章の最後【】まで底本は頁欠損している。冒頭注参照。]峽をも渡つて本州まで入り込んだものもあつて、今日見る如き分布の狀態を呈すべき筈である。北海道の鳥獸と内地の鳥獸とが、この樣に違ふことは、前年函館に住んで居たブレキストンといふ英國人が初めて調べた故、津輕海峽に於ける動物分布の境界線を往々ブレキストン線と名づけるが、同じ一列をなせる日本群島が動物分布學上此の線によつて判然と南北二組に分かれるといふ事實は、進化論によれば、以上の如くに想像して、一通りその理を解することが出來る。當今の所では、此の外には説明の仕樣もない樣であるから、先づ之を取るの外はなからう。日本に限らず、何處の國でも詳に調べさへすれば、この類の事實は幾らもあるが、進化説によれば、是が總べて説明が出來るに反し、進化説を認めなければ、是が皆偶然のこととして少しも理窟が解らぬ。

[やぶちゃん注:「ブレキストン」イギリス出身の軍人・貿易商で、探検家・博物学者でもあったトーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)。ウィキの「トーマス・ライト・ブレーキストンによれば、『幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、この境界線はのちにブラキストン線と命名された。トマス・ブラキストンとも表記する』。『イングランド、ハンプシャーのリミントンに生まれる。少年時代から博物学、とりわけ鳥類に関心をもつ。陸軍士官学校を卒業後、クリミア戦争にも従軍した』一八五七年から一八五八年に『かけてパリサー探検隊に参加し、カナダにおける鳥類の標本採集やロッキー山脈探検などを行な』い、一八六〇年には『軍務により』、『中国へ派遣され、揚子江上流域の探検を行な』った。一八六一年(万延元年十一月二十一日から万延二年二月十八日までと、文久元年二月十九日から文久元年十二月一日に相当)、『箱館で揚子江探検の成果をまとめた後、一旦帰国』した。翌年には『揚子江の調査の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られ』ている。彼はこの時の帰国の後に、『シベリアで木材貿易をすることを思い立ち、アムール地方へ向かうが、ロシアの許可が得られなかった。そのため、彼は蝦夷地へと目的地を変更』し、一八六三年(文久二年十一月十二日から文久三年十一月二十一日相当)に『再び箱館を訪れ、製材業に従事、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立した。ただし、蝦夷地では輸送手段が未開発であったために、大きく頓挫することとなった。箱館戦争』(慶応四・明治元(一八六八)年~明治二(一八六九)年)『などの影響もあり、事業の成果ははかばかしくなかったが、そこで、貿易に力を入れることにした彼は』『友人とともにブラキストン・マル商会を設立』(設立自体は一八六七年)、『貿易商として働いた。彼は』二十『年以上にわたって函館で暮らし、市の発展に貢献した。函館上水道や、函館港第一桟橋の設計なども手がけ、また、気象観測の開始に寄与し、福士成豊が気象観測を受け継いだ(日本人による最初の気象観測)』。『この間、北海道を中心に千島にも渡り、鳥類の調査研究を行なった』。明治一七(一八八四)年に『帰国、のちにアメリカへ移住し』、『カリフォルニア州サンディエゴで肺炎のため』に没した。彼は一八八〇年(明治十三年相当)に『共著で「日本鳥類目録」を出版』しており、一八八三年には、『津軽海峡に分布境界線が存在するという見解を発表、お雇い外国人教師ジョン・ミルン』(John Milne 一八五〇年~一九一三年:イギリス・リバプール出身の鉱山技師で地震学者・人類学者・考古学者。東京帝国大学名誉教授。日本に於ける地震学の基礎を作った人物として知られる。明治九(一八七六)年に工部省工学寮教師に招かれて来日、明治二八(一八九五)年に帰国している。なお、彼は明治一一(一八七八)年にモースやブラキストンらとともにに函館の貝塚を発掘し、根室市の弁天島では貝塚を発見している。この時のことは私の日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺め、及び日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 2 函館にて(を参照されたい。以上は主にウィキの「ジョン・ミルンに拠った)『の提案でこれをブラキストン線と呼ぶこととした。『ブレーキストンが北海道で採集した鳥類標本は開拓使に寄贈され、現在は北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北大植物園)』に所蔵されている。

ブレキストン線」Blakiston Line。私はやはり「ブラキストン線」の表記が親しい。ウィキの「ブラキストン線より引く。『ブラキストン線(ブラキストンせん)とは、動植物の分布境界線の一つで』、『津軽海峡を東西に横切る』ことから、『津軽海峡線』とも称する。『この線の提唱者は』前に注したトーマス・ブレーキストンで、『彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があると』見て、『これを提唱した。また、哺乳類にも』、『この海峡が分布境界線になっている例が多く知られる』。『この線を北限とする種はツキノワグマ、ニホンザル、ムササビ、ニホンリス、ニホンモモンガ、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラなどがある。逆にこの線を南限とするのがヒグマ、エゾモモンガ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコなどである』。『また、タヌキ、アカギツネ、ニホンジカ、フクロウは』、『この線の南北でそれぞれ固有の亜種となっている』。但し、『エゾシカとホンシュウジカはかつては別亜種と見られていたが、近年の遺伝子研究では、どちらもニホンジカの東日本型に属するとされ、地域個体群程度の差でしかないとされるようになってきている』。『その他、現在でも北海道の一般家庭ではゴキブリがほとんど見かけられないことから、かつてはゴキブリもブラキストン線を境界に北海道に棲息していないと言われていた』(現在は侵入してかなり繁殖している)。『最終氷期』(約七万年から一万年前)『の海面低下は最大で約』百三十メートル『であり、最も深い所で』は百四十メートル『の水深がある津軽海峡では中央に大河のような水路部が残った。このため、北海道と本州の生物相が異なる結果となったと考えられている』。一九八八年の『青函トンネルの開通により、動物が歩いて津軽海峡を渡ることが可能となり、北海道と本州北部の生態系に変化があることが懸念されて』おり、『事実』、二〇〇七『年には青森県でキタキツネの棲息が確認されている』とある。

 因みに、講談社学術文庫版はこれを以って上下二巻の上巻が終わっている。やっと本「進化論講話」藪野直史附注は半分まで辿りついた。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(7) 六 ウォレース線

 

     六 ウォレース

 

Doubutubunpuzudai

Doubutubunpuzu

[動物分布圖]

[やぶちゃん注:文字の読み易さや全体の把握の視認の便宜から、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像の露光量違いで捕られた二枚を、大・小とサイズを変えてダウン・ロードそ、それぞれトリミング・回転して補正を加え、示した。小さい方が見易いが、その一部の字が読み難いところは大で補えるものと思う。

 

 アジヤオーストラリヤとの間には、大小種々の島が恰も飛石の如くに列んであるが、その中ジャヴァの東に當つてバリロンボクといふ二つの小い島がある。この島の間の距離は十里にも足らず、殆ど兩方から見える位であるが、その産物を調べると大に違ひ、バリの方に産する動物は、總べてアジヤ産のものに類似し、ロンボクの方に産するものは、これと全く異なりて、明にオーストラリヤ産のものに似て居る。この二島を中心として、その兩側にある島々の動物を比べて見ると、バリより西北に當るボルネオジャヴァスマトラ等には、象・犀の類を始として、總べてアジヤに固有な獸類・鳥類ばかりが産し、ロンボクより東にある島々にはオーストラリヤ大陸と同樣で、普通の獸類は一種もなく、たゞ「カンガルー」の族ばかりが生活し、鳥類も全くオーストラリヤ産に似たもののみである。尤もセレベス島の如きは、孰れの組に屬するか、判然せぬ點もあるが、先づ大體からいへば、バリロンボクとの間に線を引けば、その線によつてこの邊にある澤山の島を、アジヤに屬する組とオーストラリヤに屬する組とに分けることが出來る。このことは數年間この地方に留まつて、動物分布の有樣を調べたウォレースの發見に係る故、通常之をウォレース線と名づけて、動物分布區域の境界線の中、最も有名なものとなつて居る。この邊の諸島は孰れも氣候・風土は善く相似たもので、どの島の動物を、どの島に移しても差支なく生活の出來るやうな處であるのに拘らず、斯くの如くウォレース線によつて明に二組に分れ、各産物を異にするのは、如何なる理によるかと考へるに、生物種屬を以て全く不變のものと見倣さば、少しも理窟が解らぬが、生物種屬は漸々進化するものとすれば、次の如くに想像して容易に之を説明することが出來る。卽ち最初はアジヤオーストラリヤとは全く陸續であつたのが、或る時先づバリロンボクとの間にて切れ離れ、それより遥に後になつて、他の島々が皆離れたものと假定したならば、動物分布の有樣は、丁度今日の實際の通りになるべきわけである。而して試にこの邊の海圖を開いて見ると、アジヤ組の島々とアジヤ大陸との間の海は甚だ淺くて百尋[やぶちゃん注:水深の一尋(ひろ)は六尺。百八十一・六メートル。]にも足らず、またオーストラリヤ組の方でも、大きな島と陸地との間は同じく海が淺くて百尋にも足らず、而してこの二組の間はなかなか深く千千尋[やぶちゃん注:千八百十六メートル。]、二千尋[やぶちゃん注:三千六百三十二メートル。]以上に達する所もあるから、この想像は單に空想ではない。地質學上から推せば最も實際にあつたらしいことであるが、若しその通りであつたとしたならば、世界中にまだ「カンガルー」の如き類ばかりで、他に獸類の無かつた頃に、この線の處でオーストラリヤアジヤから切れ離れ、オーストラリヤの方では「カンガルー」の類が獨立に進化し、諸方の島々の邊に分布して居た頃に及んで、これらの島々が本大陸から切れ離れ、またアジヤの方では、他の獸類が出來で、象や犀などが今のボルネオジャヴァ等のある邊まで廣まつた後に、これらの島が大陸から離れて、その結果今日の如き分布の有樣を生ずるに至つたものと考へることが出來る。斯くの如く、生物の進化を認めさへすれば、この邊の奇態な動物分布の有樣を、最も自然に且最も明瞭に説明することが出來るのである。之も進化論の有力な證據の一といふべきものであらう。

[やぶちゃん注:「ジャヴァ」インドネシア(但し、本底本刊行時である大正一四(一九二五)年九月時点ではオランダが統治するオランダ領東インドであった日本による軍政統治を経て、インドネシア共和国(インドネシア語: Republik Indonesia)として独立が承認されたのは一九四九年十二月であった。以下の島も同じ)を構成する島の一つであるジャワ島(インドネシア語:Jawa/英語:Java)。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下は、このリンク先を拡大して探されたい。判るように注したつもりではある。

バリ」バリ島(インドネシア語:Pulau Bali)。非常に狭いバリ海峡(南北の長さ約二十キロメートルで北部が最も狭くて幅は約二・五キロメートルほどしかない)海を隔てて、ジャワ島のすぐ東側にある。

ロンボク」ロンボク島(Pulau Lombok)。バリ島の東隣りにロンボク海峡(最も狭いところで幅十八キロメートル。水深は以西のマラッカ海峡やスンダ海峡より深く、二百五十メートルほどある。後で丘先生の言う「バリロンボクとの間」とは現在のここでの原分離を指し、大スンダ列島の南のウォレス線はここを通る)を挟んで位置する。

ボルネオ」ジャワ海を挟んでジャワ島の北方にある巨大な島。オランダ語と英語ではボルネオ(Borneo)で恐らく日本ではこちらが普通の認識島名であろうが、インドネシア語ではカリマンタン(Kalimantan)島の呼称を使うのが一般的であり、私はそれで呼ぶべきだと考えている(グーグル・マップ・データでもその呼称で示されてある。なお、「ボルネオ」の語源は、かつて島の北半分を占めていた「ブルネイ」が訛ったものと言われる)。面積は七十二万五千五百平方キロメートルで日本の国土の約一・九倍の大きさがあり、世界の島の中では、グリーンランド島・ニューギニア島に次いで面積第三位の島である。現在はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三ヶ国が分割して所有する領土であり、世界で最も多くの国の領地がある島となっている(ここはウィキの「ボルネオ島」に拠った)。

スマトラ」ジャワ島と海峡を挟んで西北に伸びるスマトラ島(Pulau Sumatera)。

「象」ここは哺乳綱長鼻(ゾウ)目ゾウ上科ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ Elephas maximus。現在、同種はインドゾウ Elephas maximus bengalensis・セイロンゾウ Elephas maximus maximus・スマトラゾウ Elephas maximus sumatrana・マレーゾウ Elephas maximus hirsutus のの四亜種に分けられている。

「犀」ここはマレーシアとインドネシアの限られた地域に吞のみ棲息している哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae の内、スマトラサイ属スマトラサイ Sumatran rhinoceros(或いはDicerorhinus sumatrensis)及びジャワサイ属ジャワサイJavan rhinoceros(或いはインドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus)を挙げておけばよいであろう(インドサイ Indian rhinoceros(或いはRhinoceros unicornis)を挙げてもよいが、インド北部からネパール南部にしか棲息しないから、この章のここでの「犀」の謂いにはちょっと含まれないと私は考えるからである)。

『「カンガルー」の族』丘先生はこの章で、ここ以下のこの謂いは、狭義のカンガルーではなく、哺乳綱獣亜綱後獣下綱有袋上目 Marsupialia に属する有袋類種群の意で用いている。

セレベス島」現在のスラウェシ島(Sulawesi)。カリマンタン島の東でマカッサル(Makassar)海峡(幅広の海峡で最狭部でも約百キロメートルの幅がある。北のウォレス線はここを通る)を挿んで位置する島。植民地時代はセレベス島(オランダ語:Celebes)と呼ばれたが、インドネシア独立後はスラウェシ島と呼ばれるのが普通である(グーグル・マップ・データでは島名としてはセレベスを採っている)。

ウォレース」イギリスの博物学者・生物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。既出既注

ウォレース線」Wallace LineWallace's Line。ウィキの「ウォレス線」を引く。『インドネシアのバリ島、ロンボク島間のロンボク海峡からスラウェシ島の西側、マカッサル海峡を通りフィリピンのミンダナオ島の南に至る東に走る生物の分布境界線のこと。これより西の生物相は生物地理区のうちの東洋区に属し、東はオーストラリア区に属するというもの』。一八六八年(本邦は慶応四から明治元年相当)、『アルフレッド・ラッセル・ウォレスが発見したことからこの名がついた』。『氷期には海面が下降し、東南アジア半島部からボルネオ島、バリ島までの一帯がスンダランドと呼ばれる陸続きとなっていた。同様に、パプアニューギニアとオーストラリアはサフルランドを形成していた。しかし、スンダランドの東側とサフルランドの西側は陸続きにはならなかったことから、生物相が異なる状態が現在に至るまで続いているものと考えられている』。]
         

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(6) 五 飛ばぬ鳥類の分布

 

     五 飛ばぬ鳥類の分布

 

Datyou

[駝鳥]

 

Dodoo

[愚鳩]

[やぶちゃん注:二枚とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。後者は本文でルビする通り、「おろかばと」で所謂、知られた「ドードー」(後注参照)である。]

 

 現今生存して居る飛ばぬ鳥はアフリカの駝鳥、南アメリカのアメリカ駝鳥、印度諸島の「火食鳥」、オーストラリヤの「エミウ」、ニュージーランドの「鴫駝鳥」などであるが、從來は單に孰れも飛ばぬといふだけの理由で、これらを合して走禽類といふ一目としてあつた。倂し善く考へて見ると、之はたゞ運動法のみによつた分類で、恰も鯨を魚類に數へ、蝙蝠を鳥類に入れるのと同樣なこと故、近來は比較解剖の結果、構造の異同を標準として正當な自然分類に改めたが、之によると、産地の異なるものは構造も著しく違ひ、各々獨立の一目を成すベきもので、特に「鴫駝鳥」の如きは全く他の類と違ひ、寧ろ鴫などの方に近い位である。斯く飛ばぬ鳥類は世界の諸地方に散在し、何處でも略々同樣な生活を營んで居るにも拘らず、産地が違へば構造が著しく違ふのは何故であるかと考へるに、これも生物の進化を認めれば容易に了解することが出來るが、生物種屬を不變のものと見倣せば少しも理窟が解らぬ。特にたゞ一の神が總べての動物を各々別々に造つたなどと思ふてかかれば、同樣の生活を營んで居る鳥が、外形は互に善く似ながらあちらとこちらとでは全く別の目に屬すべき程に内部の構造の違つて居ることは、愈々譯が解らぬ。

[やぶちゃん注:以下、複数回既出で既注のものばかりであるが、分類上の遠さを理解するために、分類と学名のみを再掲する。

「駝鳥」鳥綱ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus

「アメリカ駝鳥」レア目レア科レア属レア Rhea Americana(五亜種)とダーウィンレア Rhea pennata の二種。

「火食鳥」ヒクイドリ目 Struthioniformesヒクイドリ科 Casuariidae ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius

「エミウ」ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiae

「鴫駝鳥」古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名(最多説で五種(内一種に二亜種)であるが、この内、コマダラキーウィ Apteryx owenii  複数の島で全部で約千四百羽ほどが確認されているだけで、国際自然保護連合(International Union for Conservation of Nature and Natural ResourcesIUCN)のレッド・リストでは準絶滅危惧(Near threatenedNT)に指定されてしまっている)。ニュージーランド固有種で国鳥。かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどにまで減少してしまった。次の段で「遠からぬ内には孰れ種が盡きるであらう」と丘は述べている。本書初版刊行は明治三七(一九〇四)年、本底本新補改版(第十三版)の刊行は大正一四(一九二五)年九月である。しかし、丘先生、不幸中の幸い、先生がそう語ってより九十三年後の二〇一八年の今、まだ彼らは辛くも絶滅していません

「走禽類」ウヘエェ! 今も生きてる! この言葉! “runners”で、飛べない代わりに脚力に特化した鳥。他に平胸類・走鳥類という言い方もあるらしい。]

 動物は總べて自然淘汰によつて絶えず少しづゝ進化し、形狀も變じて行くものとすれば、鳥が飛ばずに生活の出來る處では、翼の發達の度は生存競爭の際に勝敗の標準とはならず、却つて他の體部の發育したものが勝を制する譯故、代々その方面に進んで翼の方は漸々退化し、短く小くなつてしまふ筈である。それ故、何處でも若し鳥が飛ばずに無事に生活の出來る事情が生じたと假定したならば、その處に居た鳥の子孫が次第に飛ぶ力を失ひ、翼が小くなつて、遂に駝鳥の如き形になる譯で、決して總べての飛ばぬ鳥が共同の飛ばぬ先祖から降つたのではない。また飛ばぬ鳥は飛ばずに無難に生活の出來る區域より以外には容易に出られぬに極まつたもの故、一且翼を失つた鳥が遠く離れた處に移り行くことは、到底出來ぬ。それ故、今日諸方に散在して居る飛ばぬ鳥は、恰も各地の洞穴内の動物と同樣各々その先祖を異にするものと見倣さねばならぬ。鳥類諸屬の進化の系圖を樹の枝に譬へて見れば、飛ばぬ鳥はあの枝の先に一屬、この枝の端に一屬といふ具合に相離れてあつて、決して一本の枝から皆出たものではない。尤も追ひ廻す敵のある處で、飛ばぬ生活を營むには、初めから足が相應に達者でなければならぬから、翼の既に發達した足の弱い鳥がこの方面へ向つて進化することはないであらうが、かやうな敵のない處では、隨分鳩の如き種類でさへ飛ばぬやうになる。マダガスカル島の東にあるモーリシアス島には二百年許前まで、「愚鳩(おろかばと)」というて七面鳥より稍々大きな頗る肥えた鳥が住んで居たが、翼が甚だ小く、飛ぶ力が全く無く、運動が至つて緩慢であつたため、その頃この島に立ち寄つた水夫等が面白半分に無暗に打ち殺したので、忽ちの中に種屬が斷絶してしまふた。骨骼も寫生圖もあるが、惜しいことには全身の剝製標本が何處にもない。この鳥などは、實に如何なる鳥でも飛ぶ必要が無くなれば、漸々飛ばぬ鳥になるといふことの甚だ好い例である。ニュージーランドの鴫駝鳥も幾分か之に似た例で、鳥類の大敵である獸類の居ない處故、夜間、蟲などを搜し步いても、狐や鼬(いたち)に出遇ふ恐もなく、無難に生活して居たが、西洋人が入り込んでから、獵犬なども澤山に殖えたので、この鳥の運命は餘程危くなり、年々著しく減少するから、遠からぬ内には孰れ種が盡きるであらう。これらの事情から考へて見ると、先祖は如何なる形の鳥であつたか解らぬが、兎に角、全く敵が無くて飛ぶ必要が無かつたために、今日の如きものになつたと見倣さねばならぬ。つまる所、動物種屬は絶えず漸々進化するもので、その主なる原因は自然淘汰にあるとすれば、飛ぶ必要のない處には何處でも飛ばぬ鳥が生じ得る譯であり、且飛ばぬ鳥は離れた國々に移住することの出來ぬもの故、世界各地に産する飛ばぬ鳥は各々祖先を異にするものと見倣さなければならぬが、實際を調べた結果は、全くこの豫想と一致したのである。之も確に進化論の正しい證據といつて宜しからう。特に前に述べた高さが二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]以上もある大鳥は、たゞ獸類の全く居ないニュージーランドと、擬猴類ばかりで獸らしい獸の居ないマダガスカルに限つて生存して居たことを考へると、益々生物の進化の眞なることを感ぜざるを得ない。

[やぶちゃん注:「愚鳩(おろかばと)」所謂、「ドードー」(dodo)。マダガスカル沖のモーリシャス島((グーグル・マップ・データ)。現在はモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)であるが、本底本刊行当時はイギリス領モーリシャスであった。一九六八年に英連邦王国として独立、一九九二年になって立憲君主制から共和制に移行した)に棲息していた絶滅鳥類。鳥綱 Avesハト目 Columbiformesドードー科 Raphidae Raphus属。単に「ドードー」と言った場合は、

(モーリシャス)ドードー Raphus cucullatus

を指すが、実際には以下の二種を加えた三種が存在した(蜂須賀正の提唱した四種説があるが、甚だ無理がある)。

ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

レユニオンドードー Raphus solitarius

以下、ウィキの「ドードーより引く。『存在が報告されてから』八十三年『で目撃例が途絶え』、『絶滅した』。『大航海時代初期の』一五〇七年(本邦の永正四年相当。室町後期)、『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの』、『煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝し、以降は入植者による成鳥の捕食が常態化した』。『隔絶された孤島の環境に適応して天敵らしい天敵もなく生息していたドードーは』、『空を飛べず地上をよたよた歩く』・『警戒心が薄い』・『巣を地上に作る』といった生態から、『外来の捕食者にとって都合のいい条件がそろっており』、『侵入してきた人間による乱獲と人間が持ち込んだ』、『従来』は『モーリシャス島に存在しなかったイヌやブタ、ネズミなどに雛や卵が捕食され、さらに森林の開発』『により生息地が減少し、急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている』。『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録がある』。『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされ』、『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年、『サイエンス』誌にレポートが載った。その『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートル『もの堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』一九七〇『年代の観測で老木が』十『数本、実生の若木は』一『本とされる。ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、『サイエンス』誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意味』由来ともされる。]

 

2018/02/24

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(5) 四 洞穴内の動物

 

     四 洞穴内の動物

 

Mekurauo

[盲魚]

Horaimori

[洞蠑螈]

[やぶちゃん注:孰れも講談社学術文庫版の絵を用いた。前者は「めくらうを(めくらうお)」、後者は「ほらゐもり」と読む。前者は一般的に知られるそれは、

脊索動物門脊椎動物亜門魚上綱硬骨魚綱カラシン目 Characiformesカラシン科 Astyanax 属ブラインドケーブ・カラシン Astyanax jordani

であるが、後に示すウィキの「マンモス・ケーブ国立公園」によれば、このアメリカの洞窟に棲息する盲目洞窟魚類は、

条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目サケスズキ目ドウクツギョ科Typhlichthys 属サザンケイブフィッシュ Typhlichthys subterraneus

及び同じドウクツギョ科Amblyopsis 属ノーザンケイブフィッシュ Amblyopsis spelaeaAmblyopsis

であるとある。なお、差別和名であるとして「メクラウオ」は現在使用しない傾向にある。しかし私は声を大にして言いたいが、日本語の「盲魚」の代わりに「ブラインドケーブ」などと冠する和名が差別でないなどとは私は毛頭、思わない人間である。言葉狩りでリベラルになったと思う科学者は救いようのない差別主義者だとさえ思っている。なお、ウィキの「ブラインドケーブ・カラシン」によれば、『原産国はメキシコ』で、一九三六年に『中部メキシコの洞窟内で発見された。メキシカンテトラ』(Astyanax mexicanus)『が洞窟内で生息するうちに、視覚を失うなどして洞窟内での生活に適応したもの』で、体長は約八センチメートル。『洞窟で生活している』ことから、『目が退化しており、本来なら目のある部分は鱗で覆われている』。『さらに、前述と同じ理由で、体からメラニン色素が失われており、皮膚は白っぽい肌色で鰓の部分は赤くなっているのが特徴』。『視覚が無い代わりに、側線などが発達して視覚を補っており、岩などの障害物にぶつかることはなく普通に泳』ぎ、『鋭敏な嗅覚を持つので、餌を見つけるのは得意である』。なお、『明るい地上でも問題なく生活できる』とある。後者は、

両生綱有尾目ホライモリ(洞井守)科ホライモリ属ホライモリ Proteus anguinus

である。これは既に「第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較」に登場し、注してあるので参照されたい。]

 

 ヨーロッパ・北アメリカなどには、處々に天然の大きな洞穴が發見せられてあるが、その中の最も有名なのがアメリカ合衆國ケンタッキー州のマンモス洞で、奧までは何里あるやら解らず、中には廣い河があつて、魚・蝦などが住んで居る。またオーストリヤ領のクライン地方の山には大きな洞があつて、その中に住する一種の蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]は血球が非常に大きく、蟲眼鏡でも見える程故、動物中でも有名なものである。その外にも稍々小い洞穴は幾つもあるが、かやうな所は無論全く闇黑であるから、常にその中ばかりに住んで居る動物は、普通の明い處に住するものとは違つて、總べて盲目で、目は形だけがあつても、全く役に立たぬやうに退化して居る。世界の方々からこのやうな洞穴の中に産する動物を集めて調べて見ると、眼の退化する具合に注意しても面白いことを見出すが、その分布を考へても、進化論によらなければ説明の出來ぬやうな面白い現象を發見する。元來この種の洞穴はアメリカのもヨーロッパのも、石灰岩の中に出來たもので、その中の溫度・氣候などは全く同一で、凡この位に互に相似た場所は、他には稀であると思はれる程であるが、實際その中に産する動物を檢すると、相離れた處の洞穴には、一種として同じ種類はない。卽ちアメリカの洞穴にもヨーロッパの洞穴にも産するといふやうな種類は一つも無く、アメリカの洞穴に居る盲目動物は何に最も似て居るかと調ベると、却つてその地の普通動物中の或るものに似て居る。之は進化論を基として考へれば、素より斯くなければならぬことで、各地の洞穴の間には直接の連絡は少しもなく、またその中に住む動物が自分で明い處に出ることは決してないから、各洞穴に産する盲目の動物は皆別別にその洞穴のある地方の普通の動物から進化して出來たものと見倣せば一通りは理窟も解るが、若しこれらの動物は各々最初から今日居る通りの暗い處に出來て、そのまゝ少しも變化せずに現今まで代々生存して居るものと考へたならば、この位、わけの解らぬことはない。始終闇黑な處に住んで居るに拘らず、皆目を有して居て、然もその目の構造を調べて見ると、肝心な部分がなくて、單に形を具へて居るといふに過ぎず、その上全く同樣な狀態の洞穴の中に、あの地とこの地とでは全く相異なつた種類が住んで居て、然もその種類は相互に似るよりは寧ろ各々その地の普通の目の明いた動物の方に近いといふに至つては、誰が考へても不思議といはざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:「アメリカ合衆國ケンタッキー州のマンモス洞」現在のケンタッキー州中央部にあるマンモス・ケーブ国立公園(Mammoth Cave National Park)内の、世界で最も長い洞窟群であるマンモス・ケーブ。洞窟群の正式名称は一応、「マンモス・ケーブ・システム」(Mammoth Cave system)である。ウィキの「マンモス・ケーブ国立公園によれば、『古生代ミシシッピ紀(前期石炭紀)の厚い石灰岩層中に形成されている。石灰岩層の上には砂岩層が水平にかぶさっている。このために全体が非常に堅固な岩層となって』おり、『洞窟の長さは』実に五百九十一『キロメートル』『以上知られているが、新たな通路や他洞窟との接続箇所が今も発見されつづけ、毎年』、『長さが延びている』。伝承では最初の発見は一七九七年とされる。

オーストリヤ領のクライン地方」スロベニア中央部地方の地名カルニオラ(スロベニア語:Kranjska)のドイツ語表記(Krain)。位置はウィキの「カルニオラ」を参照されたいし、序でにウィキの「ホライモリ」と合わせて読まれれば(同種はクロアチア南西部及びボスニア・ヘルツェゴビナに分布するとある)、腑に落ちるものと思う。]

 生物學者の中で、生物種屬不變の説を守つた最後の人はアメリカルイ・アガシーといふ人であるが、他の學者が皆進化論の正しいことを認めた頃に、尚獨り動物各種は神が別々にその産地に適當な數に造つたものであると主張して居た。マンモス洞から盲目の魚が發見になつたのは、丁度その頃であつたから、アメリカの學術雜誌記者がアガシーに向ひ、この魚も斯かる姿に神によつて造られたものであるか、決して元來目の見える魚が闇黑な洞穴に入つて、盲目になつたものとは考へぬかと尋ねた所、アガシーは之に對して、やはりこの魚は今日の通りの姿に、今日居る場所に今日居る場處に、今日居る位に神が造つたものであると答へた。尤もこのアガシーも死ぬる時分には、遂に進化論の正しいことを承認したとの噂であるが、この人以後には生物學者で生物の進化を否定した人は一人もない。斯かる問答が雜誌に出た故、洞穴の動物を尚一層注意して調べるやうになり、その結果、こゝに述べたやうなことが解つて來たのである。今日知れてあるだけの事實から論ずれば、到底以上の如き考の起らぬことはいふに及ばぬであらう。

[やぶちゃん注:「ルイ・アガシー」(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)はスイス生まれのアメリカの海洋学者・地質学者・古生物学者。ハーバード大学教授。氷河期の発見者と知られている。ウィキの「ルイ・アガシーによれば、当初は『地質学、氷河学に関する研究を行っていたが』、一八四六年に渡、翌年、『合衆国沿岸測量局の調査船で観測する機会を得て以後、海洋学の研究に没頭した。数度に渡る西インド、南米沿岸の調査でドレッジによる底生生物の採集を行い、その調査から大洋と大陸は太古と変わらぬ位置を占め』、『恒久的な存在であるという説を出した』。『水産学に対する貢献も大きく、またチャールズ・ダーウィンの進化論に対する有力な反対者であった』とある。彼の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になったのが、かのエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)であった。私はカテゴリ「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳を完遂している。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(4) 三 ガラパゴス島とアソレス島

 

     三 ガラパゴス島とアソレス

 

 大陸から全く離れて遠く太洋の中央にある島に就いて、その動物を調べて見ると、また生物進化の證據を澤山に見出すことが出來る。その一例としてガラパゴス島とアソレス島とに産する動物の比較を述べて見るに、アソレスといふ群島はポルトガルから西へ五百里餘りも隔たつた所の大西洋の眞中にあるが、こゝには蛇・蜥蜴・蛙の類は一種もなく、獸類も兎・鼠等の如き人間の輸入したものの外には、たゞ蝙蝠があるだけで、主として産するものは、先づ鳥類と昆蟲とである。鳥類は總計五十種以上もあるが、その中三十種許は海鳥故、何處へも飛んで行く類で、この島ばかりに住居を定めて居るものではない。殘る二十種ばかりが常にこの島に留まつて居る鳥である。所が之を調べて見ると、總べて對岸のヨーロッパ・北アフリカ等にも産するものばかりで、この島以外には産せぬといふ固有の鳥は僅に一種よりない。而して之もたゞ種が違ふといふだけで、同屬の鳥は大陸の方に幾らも居る。元來この島は皆火山島ばかりで、何時か遠い昔に噴出して出來たものに違ひない故、その初めには動物は全く居なかつたと見倣さなければならぬが、斯くの如く鳥類は總べて南ヨーロッパ・北アフリカ邊と同樣なものであり、その他の動物も悉く風によつて吹き送られたか、或は浪によつて打ち寄せられたかと思はれる種類のみである所から推せば、今日この島に産する動物は、皆實際かやうにして對岸の陸地から移り來つたものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:「アソレス島」大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島アゾレス(ポルトガル語:Açores)諸島。島名はポルトガル語では「アソーレス」。ポルトガルの沖約一千キロメートルの大西洋上に浮かぶ。一四二七年に発見された。リスボンからは約一千五百キロメートル、北アメリカ東端からは実に三千九百キロメートルもある。火山起源の九つから成る群島で。ピコ島の火山ピコ山は標高二千三百五十一メートルもあり、これは同アゾレス諸島のみならず、ポルトガルの最高地点である(以上はウィキの「アゾレス諸島に拠った)。(グーグル・マップ・データ)。]

 ガラパゴス島は南アメリカエクアドル國の海岸から西へ凡そ三百里も離れて、赤道直下の太平洋の眞中にある群島で、單に地圖の上から見ると、ガラパゴスの南アメリカに對する關係は、全くアソレスヨーロッパアフリカに對する關係と同じやうであるから、この島の動物は定めて南アメリカ産と同種なものが多いであらうと誰も推察するが、實際を調べて見ると、大體はやはり南アメリカ産の動物に似て居るには相違ないが、この島ばかりに居て、決して他國では見ることの出來ぬ固有の種類が甚だ多い。先づ鳥類に就いていふに、鳥類はこの島には殆ど六十種ばかりも産するが、その中四十種程は全くこゝに固有なものである。海鳥を除いて勘定すると、殆ど悉く固有なものばかりで、この島に産する陸鳥で、他にも産するものは僅に一種より無い。之をアソレスに固有な陸鳥が一種よりないのに比べると、實に雲泥の相違といはねばならぬが、更に詳細に調べて見ると、かやうな相違の起るべき原因を容易に發見することが出來る。

 アソレス島のある邊は、常から餘り海の穩な處ではないが、每年春と秋とには、極まつて何度も大暴風が吹く。その方角は東からである故、丁度ヨーロッパ大陸で、住處を換へるために大群をなして飛ぶ陸鳥が、非常に澤山大西洋の方へ吹き飛ばされ、途中で落ちて死ぬるものが勿論大部分であるが、尚若干はこの島まで達する。その頃この島と大陸との間を航海した船長の日記の中に、疲れた陸鳥が無數に飛ばされて來て、船の中へも落ちた。その種類は何々である。六十疋許は籠へ入れて置いたが、餌を與へても半分は死んでしまつたなどと書いてあるのが幾通りもある。またこの島の住民に尋ねても、每年暴風の後には、必ず見慣れぬ鳥を何種も見出すというて居るから、年々確に大陸の方から幾らかの鳥が飛ばされて來るものと見える。それ故、この鳥は大陸から四五百里を離れて居るに拘らず、大陸からの交通が絶えぬから、何時までたつても種類は大陸のと同樣で相違が起らぬのであらう。而してたゞ一種だけは如何なる理由によるかは知れぬが最早長い間一度も大陸の方から來ぬ故、この島に居たものだけで獨立に進化して、終にこの島固有の種となつたのであらう。

 ガラパゴス島の方は如何と見るに、こゝは赤道直下の有名な無風の處で、海の表面は常に鏡の如くで、微な漣(さゞなみ)もない。風の吹くことは甚だ稀で、暴風といふては何百年か何千年に一度よりないやうである。この島もアソレス同樣に火山質のもの故、いつか遠い昔に噴出して出來たものには相違なく、今日産する動物は總ベて他から移つて來たものと見倣さなければならぬが、斯くの如く靜な處故、大陸から鳥の飛ばされて來るやうなことは極めて稀で、一度この島に移つた鳥は、大陸の種類とは全く交通遮斷の有樣となり、他には關係なく、この島のものだけで獨立に進化する故、長い年月の後には全く種類の異なつたものになつてしまふのであろう。特に面白いことは、この群島は大小合せて二十ばかりの島から成り立つて居るが、その陸鳥を調べて見ると、全體は略々相似ながら、島々により皆幾らかづゝ違つて居る。之も動物は漸々進化して形狀が變化するものとすれば、容易に理解することが出來るが、若し生物が萬世不變のものとしたならば、アソレス群島の方では何の島にも全く同種が産し、こゝでは島每に少しづゝ種屬が違ふといふやうなことは、如何なる理窟によるものか、全く解することが出來ぬ。ダーウィンはビーグル號世界一週の際にこの群島にも立ち寄り、この奇態な現象を見て、生物は是非とも進化するものに違ひないといふ考が胸に浮んだといふて居るが、之は然もあるべき筈である。

[やぶちゃん注:鳥綱スズメ目フウキンチョウ(風琴鳥)科 Thraupidae に属するダーウィンフィンチ族(Darwin’s Finches)類。ビーグル号の航海の途中、ガラパゴス諸島に立ち寄ったチャールズ・ダーウィンは、この種の多様な変異から進化論の着想を得たとされ、この名称がつけられている。詳しくはウィキの「ダーウィンフィンチ類を参照されたい。]

 尚この外に大西洋のセントヘレナ、太平洋のハワイ群島などの産物を調査して見れば、どこでも生物の進化を認めなければ到底説明の出來ぬ事實を澤山に發見する。これらは略するが、單にここに述べた二群島の鳥類だけに就いて考へても、生物の種屬は漸々進化するものとすれば、總べての現象が天然普通の手段によつて生じた有樣を推察し理解することが出來るが、進化論を認めなければ悉く不思議といふだけで少しも理窟は解らぬ。且實際に調査した結果は何時も進化論を基として推察し、豫期した所と全く符合することなどを見れば、如何してもこの論を正確なものと認めざるを得ない。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(3) 二 マダガスカル島とニュージーランド島

 

    二 マダガスカル島とニュージーランド

 

Gienkourui

[擬猴類の一種]

[やぶちゃん注:以上は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して示した。]



 地圖を開いて見るに、深い海によつて大陸から隔てられた大きな島はたゞ二つよりない。一は卽ちアフリカの東に當るマダガスカル島で、他は卽ち太平洋の南部にあるニュージーランド島であるが、この島の動物を調べて見ると、いづれも他に類のない珍らしいものばかりである。先づマダガスカルの方に就いていへば、この島から一番近い大陸は無論アフリカであるが、アフリカ産の鳥獸で、こゝにも居るものは殆ど一種もない。如何なる獸が住んで居るかと見れば、總べて擬猴類[やぶちゃん注:「ぎこうるい」。]といふ目に屬する者で、その著しい例を擧げれば、狐猿といふて狐に猫の皮を被せ、これに猿の手足を附けたやうな獸、指猿というて手足の指の細長い、目の大きな大鼠のやうな獸などであるが、この目に屬する獸類は他には何處に産するかといふに、對岸のアフリカではなくて却つて遙か遠く隔たつた東印度の諸島である。尤も東印度の方では他の獸類が澤山に居るゆから、この島に於ける如くに盛に蔓延つて[やぶちゃん注:「はびこつて(ばびこって)」。]は居ない。元來この擬猴類と稱する目はあまり種類が多くない上に、その分布の區域もマダガスカルと東印度とに限られ、その中でも東印度の方にはあまり澤山にない位ゆえ、今日この奇態な獸類の全盛を極めて居る處は全くこの島ばかりである。

[やぶちゃん注:「擬猴類」哺乳綱曲鼻猿亜目キツネザル下目 Lemuriformes のコビトキツネザル上科コビトキツネザル科 Cheirogaleidae、及びキツネザル上科キツネザル科 Lemuridae(ワオキツネザル属ワオキツネザル Lemur catta が著名)・イタチキツネザル科 Lepilemuridae・インドリ科 Indridae(タイプ種:インドリ属インドリ Indri indri)、さらにアイアイ下目アイアイ科 Daubentoniidae(タイプ種:アイアイ属アイアイ Daubentonia madagascariensis)であるが、以上の種群は孰れもマダガスカル島及びその周辺の島々にのみ棲息する固有種であるから、丘先生の叙述にはどうしても、同じ曲鼻猿亜目 Strepsirhini で、上記の連中と共通の祖先から進化したと考えられるロリス下目 Loriformes に属するロリス科 Loridae(スローロリス属のタイプ種 Nycticebus coucang がよく知られる)を是が非でも加えないといけない。彼らは、マダガスカルにはいないが、バングラデシュ・アッサムからベトナム・マレー半島・ジャワ島・ボルネオ島などの「東印度の諸島」、東南アジアに分布するからである。同下目のガラゴ科 Galagonidae を入れてもよいが、これはアフリカ大陸にのみ分布するので、正直、援護射撃には全くならないのである。]

Ootorinotamago

[大鳥の卵三種 (小いのは普通の鷄卵)]

[やぶちゃん注:これは講談社学術文庫のものを用いた。]

 

 尚その他この島には近い頃まで非常な大鳥が生活して居つた。千六百年代に西洋人が貿易のためにこの島に來た頃に、土人が時々周圍が三尺もあつて、六升も入る位な大きな卵の殼を持つて、酒を買いに來るので、驚いて歸國の後話したが、誰も信ずるものが無かつた所、今より六十年程前、完全な卵の殼を一つヨーロッパに持つて歸つた人があつたので、愈々確となり、骨骼の方は十分完全な標本はないが、卵の方はその後幾つも採れてパリーの博物館だけにも五つ陳列してある。

[やぶちゃん注:絶滅した鳥綱エピオルニス目エピオルニス科エピオルニス属 Aepyornisウィキの「エピオルニスによれば、『マダガスカル島に』十七『世紀頃まで生息していたと考えられている地上性の鳥類。非常に巨大であり、史上最も体重の重い鳥であったと言われ』る。『マダガスカル島の固有種で』、『かつては無人島であったマダガスカル島で独自の進化を遂げ繁栄していたが』、二千年ほど『前からマダガスカル島に人間が移住・生活するようになると、狩猟や森林の伐採など環境の変化によって生息数が急速に減少し、最終的に絶滅してしまった。ヨーロッパ人がマダガスカル島に本格的に訪れるようになった』十七『世紀には既に絶滅していたと言われるが』一八四〇『年頃まで生存していたとする説もある』。『翼が退化しており、空を飛ぶことは全くできなかった』『頭頂までの高さは』三~三・四メートル、体重は推定四百から五百キログラムもあり、ダチョウを遙かに大きく上回っていた(ダチョウは大きい個体でも身長は約二・五メートルで体重は百三十五キログラム程)。『また、卵も巨大であり、現在知られている最大の卵の化石は長さ約』三十三センチメートル、直径約二十四センチメートルで、ダチョウの卵(長さ約十七~十八センチメートル)の『倍近くもある。また卵の殻の厚さは』三~四ミリメートル、重さは約九~十キログラム(ダチョウの卵で約七個相当、鶏卵換算で約百八十個分)『と推定されている』とある。なお、次段に出るジャイアントモア(Giant Moa)も参照。そちらの方が、身長ではより高く、最も背の高い鳥はそちらとなる(頭頂部までの高さは約三・六メートルあったと推定されている)。]

 ニュージーランド島の方は大陸から隔たることが更に遠いが、こゝには獸類は一種も産せず、鳥類・蜥蜴類も餘程奇態なものばかりで、孰れも他國のものとは全く違ふ。「鴫駝鳥」のことは前にも述べたが、鷄位の鳥で翼は殆ど全く無く、羽毛も普通の鳥の毛よりも寧ろ鼠などの毛に似て居る。この外に今は絶えてしまつたが、近い頃まで尚幾種か翼のない大きな鳥が居たが、その立つて居るときの高さが二間[やぶちゃん注:三・六四メートル弱。]以上もある。初めてその骨を發見したのは八九十年前であるが、その後完全な骨骼が幾つも掘り出され、今では二三の博物館に陳列してある。土人間には先祖がこの大鳥と苦戰をした口碑が殘つて居るが、骨や卵殼の具合から見ると、極めて近い頃まで生存して居たものらしい。また蜥蜴の類には「昔蜥蜴」と名づける者があるが長さは二尺以上もあり、形は蜥蜴の通りであるが、解剖して見ると、鰐に似た處も、蛇に似た處も、また龜に似た處もあり、實にこれら四種の動物の性質を兼ね具へた如くに見える。尚奇妙なる點は、左右兩眼の外に頭の頂上の中央に一つ眼がある。尤も之は小いもの故、實際の役には立たぬやうであるが、構造からいへば確に目に違ひない。ニュージーランド産のものは、皆かやうな奇態なものばかりで、他の國々に居るやうな類は、一種も見出すことが出來ぬ。

[やぶちゃん注:『「鴫駝鳥」のことは前にも述べた』直前の段にも出たが、「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。「第九章 解剖學上の事實 一 不用の器官で既出既注。

「近い頃まで尚幾種か翼のない大きな鳥が居た」絶滅した鳥綱ダチョウ目モア科オオモア属ジャイアントモア(和名:オオゼキオオモア/英名:Giant MoaDinornis maximus。参照したウィキの「ジャイアントモアにはDinornis maximusDinornis robustusDinornis novaezealandiaeDinornis struthioides の四つ(四種かどうかは怪しい。というよりもシノニムが私には疑われる)を挙げてはある。『鳥類ダチョウ目モア科に属し、頭頂までの高さは』大きなで『最大で約』三・六メートル、体重は二百五キログラム『ほどであったと推定されている。現存する最も大きな鳥であるダチョウよりもはるかに巨体であり、絶滅種を含め』ても、『世界で最も背の高い鳥であったとされる』(最も重いのは前に出した。『一度の産卵数は』二~四『個といわれ、また』、『長いくちばしの先が下に曲がっていた。明確な性的二型性を持ち、オスよりもメスのほうが大型で、高さで』一・五『倍、重さで』二・八『倍程度の差があったとされる』。『自然環境の温暖化や繁殖力の低さ、移住したマオリ族による乱獲(砂嚢に小石を溜める習性を利用し、焼け石を呑ませて殺す)によって』、一五〇〇『年代よりも前には絶滅していたと推測される』。『「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民(モア・ハンターと呼称されるマオリ人以前の原住民)にモアの骨を集めさせた折に「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説を始め、幾つかの巷説が存在する。ちなみにマオリ人はこの鳥の仲間を「タレポ」と呼んでいた』という。

「昔蜥蜴」爬虫綱喙頭(かいとう)(ムカシトカゲ)目ムカシトカゲ科ムカシトカゲ属 Sphenodon で、現在、Sphenodon punctatusSphenodon guntheri の二種が生存しているが、今一種の Sphenodon diversum は一九七〇年代に絶滅してしまった。小学館の「日本大百科全書」によれば、本種は三畳紀・ジュラ紀に栄えた喙頭類の唯一の遺存種で、「生きている化石」と言われる。かつてはニュージーランド全島に分布していたが、人間が持ち込んだネズミ・ネコなどの野生化によって圧迫され、現在はクック海峡のステフェンス島など、北島周辺の小島にのみ棲息している。全長六十~七十センチメートルで、頭部は大きく胴はずんぐりとしており、尾は後半部で側扁する。皮膚は敷石状の細鱗で覆われており、背中線上には飾り鱗が並んでいる。頭骨は普通に蜥蜴(とかげ)型であるが、頭頂部には退化しているように見えるレンズと網膜を備えた頭頂眼(三目の眼)が存在する。この頭頂眼は感光器官と考えられるが、他のトカゲ類では全く痕跡的である点で彼らの原始性が窺われる。肋骨中央部には鳥類や絶滅爬虫類と同様の鉤状を成した突起があり、また、腹部にはワニと同様の軟骨性の腹肋骨を有する。尾は自切し、再生するが、切断箇所は尾椎骨(びついこつ)の中央部である。雄は外部交接器を欠き、総排出腔による接触で体内受精する。産卵数は五から十五個で、二十年ほどかけて成熟し、寿命は百年を超すとも言われている。ミズナギドリなどの巣穴に同居し、夜間に行動してカタツムリ・昆虫などを捕食摂餌する。行動は鈍いが、低温でも活動する。現在はニュージーランド政府機関の厳重な保護下にある、とある。ウィキの「ムカシトカゲの記載も非常に細かく、そこに『幼体の吻端には、ワニ目・カメ目と同様の卵角(有鱗目のような卵歯ではない)があり』、『これで卵殻を突き破る』とある。]

 斯くの如く世界中で、最も奇妙な、他と變つた動物を産する處は何處かといへば、無論マダガスカルニュージーランドとであるが、中にもニュージーランドの方には獸類が一種も居ないといふのは、更に奇妙である。然も獸類が住めぬ譯では無く、今では豚も、羊も、大も、猫も、澤山にあり、豚の如きは野生で無暗に繁殖し、農業の邪魔となる程になつた。所で地圖によると、この二つの島は地理上にも他に類のない位置を占めて居る。世界中で稍々大きな島といへば、悉く大陸と接近したものばかりで、大陸との間の海も淺いものであるが、この二島だけは大陸との間の海が甚だ深くて、たとい海水が千尋[やぶちゃん注:既注。水深に用いる場合は一尋(ひろ)は一・八一六メートルであるから、千八百十六メートルとなる。マダガスカルとアフリカ大陸を隔てるモザンビーク海峡は幅は最も狭い所でも四百キロメートルあり、最深部は実に凡そ三千メートルもある。]減じても、大陸と連絡することはない。倂し地質學上及びその他の點から考へると、一度は大陸と續いて居たものらしい形跡があるが、間の海が斯く深いのから推せば、その續いて居たのは餘程古いことで、日本がアジヤから離れて島となつた時代などに比べれば、何百倍も昔でなければならぬ。若し實際かやうであつた者と假定したならば、この二島に産する動物の奇妙なことは、生物進化の理によつて、略々了解することが出來る。

[やぶちゃん注:現在のインドとアフリカ大陸に挟まれていたゴンドワナ大陸の一部が、モザンビーク造山帯の造山運動の影響を受けて分離し、原マダガスカルが出現したのは約六千五百万年前と考えられている。それに対し、原ユーラシア大陸の東周縁部が海洋プレートの形成によって完全分離し、日本列島のベースになったのは、たかだか千五百万年以降(それ以前は本邦の地層の堆積物が淡水性であることが確認されており、大地溝帯である原日本海はまだ巨大な淡水湖だったと考えられている)である。]

 動物の種屬が總べて共同の先祖から降つたものとすれば、獸類でも鳥類でも何時の中にか漸々出來た譯故、その以前にはまだ世に無かつたに違ひないが、獸類のまだ出來なかつた頃か、または獸類がそこまで移つて來ない前に、島が大陸から離れたならば、後に大陸の方で獸類が追々出來ても、その島には移ることが出來ず、遂にそのまゝ獸類なしに濟む筈である。ニュージーランドの如きは、恐らく斯かる歷史を經て來たのであらう。また擬猴類と稱する目は、獸類の中でもカンガルー族の次に最も古い類で、化石を調べて見ると、カンガルー族に次いで出て來るが、世界上にまだ他の高等な獸類が出來ず、僅に狐猿の族が蔓延つて居た頃に、島が大陸から離れたとすれば、その島には、後に至つても他の獸類が入り來ることなく、初めその島に居たものの子孫だけで、獨立に進化して行く筈である。マダガスカルは恐らくかやうにして出來たものであらう。その頃アフリカの方に續いて居たか、印度の方に續いて居たかといふやうな詳なことは素より解らず、今後地質調査や海底測量が進んでもたゞ多少推察の手掛りを得るに過ぎぬであらうが、孰れにしても不思議ならざる天然の方法によつて、今日の有樣に達したものと考へることが出來る。

[やぶちゃん注:「その頃アフリカの方に續いて居たか、印度の方に續いて居たかといふやうな詳なことは素より解らず」前段の注で私が示した通り、マダガスカルは両方に続いていたのである。だからこそ、マダガスカルにはいないが、共通の祖先から進化したと考えられるロリス下目 Loriformes に属するロリス科 Loridaeがバングラデシュ・アッサムからベトナム・マレー半島・ジャワ島・ボルネオ島などの「東印度の諸島」、東南アジアに分布するのであり、まただからこそ、アフリカ大陸のみに同下目のガラゴ科 Galagonidae が分布するのである。]

 以上は無論單に想像で、到底直接に證據立て得べき性質のことではないが、地殼の變動と生物の進化とを認めさへすれば、現今見る所の不思議な動物の分布も、自然の經過によつて出來得るものといふだけが解り、詳細の點は知れぬながらも、大體の理窟は幾分か察することが出來る。若し之に反して生物は萬世不變のものとしたならば、こゝに述べた如き奇妙な分布の有樣は、いつまで過ぎてもたゞ不思議といふだけで、少しも譯の解るべき望もない。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(2) 一 南アメリカとアフリカとオーストラリヤ

 

     一 南アメリカアフリカオーストラリヤ

Minamiamerikakoyudoubutusou

[南アメリカに固有な動物

(一)ヤマ (二)なまけもの (三)大蟻食 (四)アルマヂロ]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版では掲載されていない。各動物の注は本文注で行う。]

 

 南アメリカは大部分熱帶にあるが、南の方は溫帶で最も南の端は殆ど北に於けるカムチャッカと同じ緯度まで達して居るから、その間には氣候の隨分違つた處があり、樹木が繁茂して人の入れぬやうな森林もあれば、薪にする木がないから據なく馬糞を燃す程の廣い平原もあつて、土地の模樣は實に種々であるが、この地に産する動物界を見ると、全部に通じて一種固有の特色がある。その著しいものを擧げて見れば、前頁の圖に示した如く、森林の中には、「なまけもの」というて、猿の如き形を有し、四足の爪を樹の枝に懸け、背を下に向けて步き、木の葉を食する類があり、平地には「アルマヂロ」というて、狸位の大きさで、全身に堅牢な甲を被り、土を掘つて蟲を食ふ類があり、山の方には「ヤマ」・「アルパカ」などといふ駱駝と羊との間の如き獸類が居る。また大蟻食(おほありくひ)というて長い舌を以て蟻のみを舐めて食うて居る相應な大獸が居る。その他猿類も居るが東半球の猿とは全く違ふて、別の亞目に屬する。鳥類にはアメリカ駝鳥などが最も有名である。總べてこれらの類には多くの種類があつて、各々適宜な處に住んで居て、その地方では皆普通なものである。

[やぶちゃん注:「なまけもの」哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目 Folivora に属し、現生種はミユビナマケモノ科 Bradypodidae のミユビナマケモノ属ノドチャミユビナマケモノ Bradypus variegatus・ノドジロミユビナマケモノ Bradypus tridactylus・タテガミナマケモノ Bradypus torquatus の三種、フタユビナマケモノ科 Megalonychidae のフタユビナマケモノ属ホフマンナマケモノ Choloepus hoffmanni・フタユビナマケモノ Choloepus didactylus の二種の計五種。図のそれは前肢の指が三本あるので(フタユビナマケモノ科の二種は前肢の指が二本で後肢のそれが三本)、ミユビナマケモノ科の孰れかである。

「アルマヂロ」哺乳綱獣亜綱異節上目被甲目 Cingulata アルマジロ科 Dasypodidae の属する種群で現生種は一目一科。見た目は爬虫類的である。ウィキの「アルマジロ」によれば、『北アメリカ南部からアルゼンチンにかけて分布し』、『最大種はオオアルマジロ』(Chlamyphoridae亜科オオアルマジロ属オオアルマジロ Priodontes maximus)で体長は七十五~一メートルに達し、尾長は五十センチメートル、体重三十キログラム。最小種はヒメアルマジロ(アルマジロ科ヒメアルマジロ属ヒメアルマジロ Chlamyphorus truncatus)で体長十センチメートル、尾長三センチメートル、体重百グラムである。『全身ないし背面は体毛が変化した鱗状の堅い板(鱗甲板)で覆われている。アルマジロ Armadillo)という英名はスペイン語で「武装したもの」を意味する armado に由来する。時には銃弾を跳ね返すほどの硬度も有して』おり、『敵に出会うと、丸まってボール状になり身を守ると思われているが、実際にボール状になることができるのはミツオビアルマジロ属 Tolypeutes の』二『種だけである』。『夜行性で、主に嗅覚に頼って餌を探し、シロアリなどの昆虫やミミズ、カタツムリ、ヘビなどの小動物を食べる。敵に襲われると』、『手足を引っ込め、硬い甲羅で身を守る。地下に穴を掘って巣を作り、暑い日中は巣穴の中で眠って過ごす。前足には長く鋭い爪があり、穴掘りに適した体の構造になっている』とある。挿絵のそれはちゃんと描かれていない可能性を視野に入れて、思うに、北米大陸南部から南米大陸にかけてアルマジロ科の中でも最も広範囲に棲息している、則ち、最も目につきやすく、知られているココノオビアルマジロ Dasypus novemcinctus ではないかと私は推測する。本種は背部に八本から十一本の帯状の部位を持つことから標準値の九本で「九帯(ここのおび)」の和名がついたとされているが、尾部の有意に下がる位置までの幅のある帯状甲を数えると、確かに十一あると見えるからである。

「ヤマ」哺乳綱偶蹄目核脚亜目ラクダ科ラマ属リャマ Lama glama。「ラマ」とも音写する。近縁の動物として、次に掲げるアルパカ・ビクーニャ(ラクダ科ビクーニャ属ビクーニャ Vicugna vicugna)・グアナコ(ラマ属グアナコ Lama guanicoe)がおり、グアナコを家畜化したものがリャマと考えられてはいる(確かに似ている)。但し、現地ではこれらの動物よりもリャマの飼育数が圧倒的に多い。

「アルパカ」ラクダ科ビクーニャ属アルパカ Vicugna pacos。初めての海外旅行のペルーでしっかり唾を吐きかけられたが、可愛い奴だ。

「大蟻食(おほありくひ)」哺乳綱有毛目アリクイ科オオアリクイ属オオアリクイ Myrmecophaga tridactyla。概ね、中米ホンジュラス以南から南アメリカ中部までに棲息する。ウィキの「オオアリクイ」によれば、体長一メートルから一・二〇メートル、尾長六十五~九十センチメートル、体重十八~三十九キログラムで、『吻端を除いた全身が粗く長い体毛で被われる。尾の体毛は』三十『センチメートルに達する』。『喉や胸部から肩にかけて白く縁取られた黒い斑紋が入る』。『尾も含めた下半身の体毛は黒や暗褐色』。『吻端は非常に長く、嗅覚も発達している。舌は細長く、最大で』六十一『センチメートルに達する』。『舌は唾液腺から分泌された粘着質の唾液で覆われる。眼や外耳は小型だが』、『聴覚は発達している。前肢の指は』五『本で、湾曲した』四『本の大きな爪があり特に』第二指及び第三指で顕著であるが、第五指は退化しており、『外観からは』、『わからない』。『代謝能力は低く、体温は摂氏三十二・七度と低い。二〇〇三年に『発表されたミトコンドリアDNA16S rRNAの分子系統解析では、本属とコアリクイ属Tamanduaは』千二百九十万年前に『分岐したという解析結果が得られ』ている。『低地にある草原(サバンナ、リャノなど)、沼沢地、開けた森林などに生息する』。地表に棲み、単独生活をする。『昼間に活動することもあるが、人間による影響がある地域では夜間に活動する』。『地面に掘った浅い窪みで』一『日あたり』十四~十五『時間は休む。寝る時は体を丸め、尾で全身を隠すように覆う。移動する時は爪を保護するため、前肢の甲を地面に付けて歩く』。『泳ぎは上手い。外敵に襲われると』、『尾を支えにして後肢だけで立ちあがり、前肢の爪を振りかざし相手を威嚇する』。『それでも相手が怯まない場合は爪で攻撃したり』、『相手に抱きつき』、『締めあげる』。『天敵としてはジャガーなどが挙げられる』。『食性は動物食で、主にアリやシロアリを食べるが、昆虫の幼虫、果実などを食べることもある』。『匂いを頼りに巣を探して前肢の爪で破壊する。その後、舌を高速で出し入れ』(一分間に百五十回)』『して捕食する』一『日で約』三万『匹のアリやシロアリを食べると推定されて』いるが、一『つの巣から捕食する量は少なく』、一『回の捕食に費やす時間も平均で』一『分ほど』と意想外に非常に短く、『複数の巣を徘徊し』ては摂餌を行う。これは、一回の捕食量を少なくすること、複数の巣を徘徊すること、によって『行動圏内の獲物を食べ尽くさないようにしていると考えられている』。直接、水を飲む『こともあるが、水分はほとんど食物から摂取する。属名Myrmecophagaは「蟻食い」の意』。繁殖様式は胎生。妊娠期間は』百四十二~百九十日で、一回に一頭の『幼獣を後肢だけで直立しながら産む』。『授乳期間は約』六『か月』で、『幼獣は生後』一『か月ほどで歩行できるようになる。生後』六~九『か月は母親の背中につかまって過ごす』。生後』三『年で性成熟する』。『寿命は約』十六『年と考えられている』。『食用とされたり、皮革が利用されることもある』。『薬用になると信じられている地域もある』。『生息地の破壊、攻撃的な動物と誤解されての駆除、毛皮用や娯楽としての狩猟などにより生息数は減少している』。『一方で、危機を感じた際には、前足にあるカギ爪をふりかざして防衛行動に出ることがあり』、二〇一四年には『ブラジルで猟師』二『名が』(別々な事例)『死亡した例がある』とある。

「猿類も居るが東半球の猿とは全く違ふて、別の亞目に屬する」現行では亜目ではなく、下目で分けられており、これらは哺乳綱霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目 Platyrrhini に属する広鼻猿類で、南米に棲息するグループであることから、これらの群を総称して一般に「新世界ザル」(New World monkeyと呼んだりもする(これに対し、ユーラシア及びアフリカに分布する同じ直鼻猿亜目 Haplorrhini でも狭鼻小目 Catarrhini に属する狭鼻猿類の内、ヒト上科 Hominoide に属する類人猿(テナガザル・オランウータン・ゴリラ・チンパンジー類)及びヒトを除いた、オナガザル上科Cercopithecoidea に属するオナガザル亜科 Cercopithecinae・コロブス亜科 Colobinae のオナガザル類(例:マントヒヒ・ニホンザル・マンドリル等)とコロブス類(例:テングザル・ハヌマンラングール・キンシコウ等)を総称して「旧世界ザル」(Old World monkey)と呼ぶ)。以下、ウィキの「広鼻下目」より引く。クモザル(クモザル(蜘蛛猿)科 Atelidae)・マーモセット(オマキザル科マーモセット亜科マーモセット属 Callithrix)など、約五十種が現生する。『鼻の穴の間隔が広く、穴が外側に向いていること』を特徴とする。『アジアやアフリカにすむ狭鼻下目(旧世界ザル)とは独立して進化したが、両者には社会構造や習性などに共通点が見られる。これは平行進化によるものである。たとえば、旧世界ザルのコロブスと、新世界ザルのクモザルは、ともに前肢の親指が退化してしまっている。旧世界ザルのフクロテナガザル』(狭鼻下目ヒト上科テナガザル科フクロテナガザル属フクロテナガザル Symphalangus)『と新世界ザルのホエザル』(真猿下目広鼻小目クモザル科ホエザル亜科ホエザル属 Alouatta)『は、発声器官が発達し、非常に大きな声を発する。さらに、旧世界ザルのチンパンジー・ヒトと、新世界ザルのオマキザル』(広鼻下目オマキザル上科オマキザル科オマキザル亜科オマキザル属 Cebus)『は、知能がたいへん発達しており、道具を使用する。以上のように、多くの平行進化の例が、旧世界ザルと新世界ザルの間で見られる』。『新世界ザルは中新世にはアジア・アフリカに住む旧世界ザルとは既に分岐していた。この時代の南米大陸は海によって周囲から隔絶された島大陸であった。そのため新世界ザルの祖先は海を経由して他の大陸から南米に渡ってきたと考えられる。小型のサル類ならば流木等に乗って漂着できた可能性も高いためである。当時、北米大陸においてはサル類が既に絶滅していた。そのため南米の新世界ザルの祖先はアフリカ大陸から大西洋経由で南米大陸に渡って来たとの説が有力であるが(アフリカ大陸と南米大陸は当時は既に分裂していたが、両大陸間の大西洋は現在よりは狭く距離は近かった)、北米のサル類が絶滅する直前に南米に渡ってきて進化した可能性もある』。『霊長類真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは』三千~四千『万年前と言われている』。『広鼻下目のヨザル』(ヨザル(夜猿)科 Aotidae)は一色型色覚であるが、『ホエザルは狭鼻下目と同様に』三『色型色覚を再獲得している』『とされている。他方、ホエザルは一様な』三『色型色覚ではなく、高度な色覚多型であるとの指摘もある』。このヨザル及びホエザル類を除き、『残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を』二『本持つメスのみが』三『色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは』、『狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである』とある。

「アメリカ駝鳥」鳥綱レア目レア科レア属レア Rhea Americana とダーウィンレア Rhea pennata の二種(前者は五亜種)。アルゼンチン北東部や東部・ウルグアイ・パラグアイ・ブラジル・ボリビアに棲息する。ダチョウ(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)に非常によく似ているが、全くの別種である。頭高は一・二~一・五メートル、体重二十~二十五キログラムであるが、最大三十キログラムほどまで達し、南米最大の鳥である(ダーウィンレアはやや小さめ)。羽毛は灰色を呈し、腰や翼下面は白い。参照したウィキの「レア(鳥類)」によれば、『長い首と長い脚、灰褐色の羽毛を持つ』『大型の走鳥類で』、『飛べない鳥ではあるが』、『翼は大きく、走っているときには帆のように打ち振られる』とあり、ますます見た目は駝鳥ではある。]

Afurikadoubutusou

[アフリカに固有な動物

(一)麒麟 (二)羚羊 (三)駝鳥 (四)河馬]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版ではやはり掲載されていない。各動物の注は同じく本文注で行う。]

 

 大西洋を東へ渡つて、アフリカに行つて見ると、動物界が全く違ふ。アフリカも大部分は熱帶であるが、南の方は溫帶で、日本などと氣候は餘り違はぬ。アフリカといへば直に沙漠を聯想するが、實際は深い森もあり、廣い野原もあり、單に地形からいへば、南アメリカと大同小異であるに拘らず、そこに産する動物には一種として南アメリカと共通なものはない。アフリカ産の著しい動物は獅子・象・河馬・騏麟・駱駝・大猩々[やぶちゃん注:「だいしやうじやう(だいしょうじよう)」。「ゴリラ」のこと。]・狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]・羚羊[やぶちゃん注:「れいやう(れいよう)」。学術文庫版では『かもしか』とルビされているが、これは厳密には非常な誤りである。後注を必ず参照されたい。以下も「れいよう」で読まれたい。]・穿山甲[やぶちゃん注:「せんざんこう」。]・駝鳥の類で、特に羚羊の如きは何百種もあるが、これらの動物は必ずしも南アメリカに移しては生活が出來ぬといふやうなものではない。生活の有樣を比較して見ると、アメリカ駝鳥と眞の駝鳥とは善く似たもので、その住處を取り換へても、差支へは餘りなからうかと思はれ、アルマヂロも穿山甲も、爪が發達して地を掘り餌を搜すもの故、略々同樣な處に生活が出來さうである。その他玲羊をラプラタの平原に移し、ブラジルの猿を西アフリカの森に移しても、氣候や食物の上には不都合もない譯であるが、實際に於ては、太洋一つを隔てれば、同樣の地勢の處に同樣の生活を營んで居る動物が皆別の目、別の科に屬するものである。

[やぶちゃん注:「獅子」 哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属ライオン Panthera leo

「象」ここは哺乳綱長鼻目ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta africana

「河馬」哺乳綱鯨偶蹄目カバ科カバ属カバ Hippopotamus amphibius

「騏麟」鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目キリン科キリン属キリン Giraffa camelopardalis

「駱駝」ここは哺乳綱ウシ目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius

「大猩々」哺乳綱霊長目直鼻亜目 Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト科ゴリラ属ニシゴリラ(タイプ種)Gorilla gorillaとヒガシゴリラGorilla beringei

「狒々」霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio

「羚羊」アンテロープ(Antelope)。哺乳綱獣亜綱ウシ目(旧偶蹄目)ウシ亜目ウシ科 Bovidaeの哺乳類の内、ウシ亜科 Bovinae・ヤギ亜科 Caprinae を除いたものの総称。一般には、乾燥した草原を棲息地とし、脚は細長く、走るのが速い。角の形状はさまざまで、のみが有したり、♂♀ともにある種もある。アフリカからインド・モンゴルにかけて分布する。インパラ(ウシ科インパラ属インパラ Aepyceros melampus)・エランド(ウシ亜科エランド属エランド Taurotragus oryx)・ヌー(ウシ科ハーテビースト亜科 Alcelaphinae ヌー属のオグロヌー Connochaetes taurinus 及びオジロヌー Connochaetes gnou の二種)・オリックス(ウシ科ブルーバック亜科 Hippotraginae オリックス属オリックス Oryx gazella)・ガゼル(ウシ科ブラックバック亜科 Antilopinaeブラックバック族ブラックバック亜族ガゼル属 Gazella)などがそれであるが、日本では誤ってウシ亜目ウシ科ヤギ亜科 Caprinae のカモシカ類(ヤギ族 Caprini 以外のサイガ族 Saigini・シャモア族 Rupicaprini・ジャコウウシ族 Ovibovini のに属する種群の総称)と混称されてきた。「かもしか」は漢字表記で「氈鹿」の他に「羚羊」が当てられた結果であるが、先に述べた通り、羚羊(レイヨウ・アンテロープ)の定義はヤギ亜科 Caprinae を除いているので、〈カモシカは羚羊(レイヨウ)ではない〉のである。

「穿山甲」ここは哺乳綱ローラシア獣上目有鱗(センザンコウ)目センザンコウ科 Manidae(現生種は一目一科)の内、インドから東南アジアにかけて棲息するセンザンコウ属 Manis四種を除いた、アフリカセンザンコウ類のオオセンザンコウ Manis gigantea・サバンナセンザンコウ Manis temminckii・キノボリセンザンコウ Manis tricuspis・オナガセンザンコウ Manis tetradactyla の四種となろう。全長約一メートル、尾長は四十センチメートル内外。体は鱗で蔽われ、一見、爬虫類を思わせる。歯を持たず、長い舌を使ってアリ・シロアリを舐め取る。夜行性で土中や岩の間の穴に営巣する。危険な事態に遭遇すると、体を球状に丸める性質がある。

「駝鳥」ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus

ラプラタ」ここはアルゼンチンとウルグアイの間を流れるラ・プラタ川(スペイン語:Río de la Plata:カタカナ音写:リオ・デ・ラ・プラタ)の氾濫原を中心とした広大な平原を指す。]

 

Osutoraria

[オーストラリヤ地方に固有な動物

(一)大カンガルー (二)エミウ (三)鴫駝鳥]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用。この挿絵は講談社学術文庫版ではやはり掲載されていない。各動物の注は同じく本文注で行う。]

 

 更に印度洋を越えてオーストラリヤに行つて、その動物界を見ると、この度はまた實に驚くべき相違を發見する。オーストラリヤ大陸は南半球の熱帶から溫帶に跨り、北端の木曜島邊は眞の熱帶であるが、南部のシドニーメルボルン等の大都會のある處は、極めて氣候の好い處であるから、氣候の點からいへば南アメリカアフリカと著しい相違はない。然るにこの地に産する獸類は孰れを見ても總べてカンガルーと同樣に、子を腹の袋に入れて育てる類ばかりで、他の地方では決して見ることの出來ぬものである。この類は通常合して一目としてあるが、その中の種類を調べると、實に種々雜多の形をしたものがあつて、殆ど他の大陸の獸類の各種を代表して居る如くで、栗鼠(りす)の如くに巧に木に登つて果實を食ふものもあり、鼠の如くに種子を齧(かじ)るものもあり、「むささび」の如くに前足と後足との間に皮膚の膜があつて、空中を飛んで行くものもあり、猿の如くに四足を以て枝を握るものもあり、狼の如き齒を有する猛獸もあり、河獺(かはうそ)の如き蹼(みづかき)を具へて水中を泳ぐものもあつて、その種類は到底枚擧することは出來ぬ。圖に掲げてある普通の大カンガルーは廣い野原に住んで草などを食ふもの故、習性からいへば、先づ牛・羊などに似たもので、小形のカンガルーは略々兎の代りともいふべきものである。その他獸類でありながら、卵を生むので、非常に有名な「鴨の嘴」もたゞこの地方のみに産する。また鳥類も「エミウ」・「リラ鳥」・「塚造り」等を始として、殆ど他國には類のないものばかりで、河には角齒魚(第二六〇頁插圖參照[やぶちゃん注:これは先の「第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較」の中で示した『肺魚類の一種』の図を指す。名称は後注を参照)といふ一種奇妙な肺を有する魚が居る。

[やぶちゃん注:「大カンガルー」「カンガルー」ここは言い方から、哺乳綱有袋上目双前歯(カンガルー)目カンガルー形亜目カンガルー上科カンガルー科カンガルー亜科カンガルー(マクロパス)属 Macropus としてよい。

「エミウ」鳥綱ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiaeウィキの「エミューより引く。『オーストラリア全域の草原や砂地などの拓けた土地に分布している。周辺海域の島嶼部にも同種ないし近縁種が生息していたが、現生種の』一『種のみを除いて絶滅したとみられている』体高は約一・六~二メートル程で、体重は四十~六十キログラムと大きく重いが、『体重はヒクイドリ』(ヒクイドリ目ヒクイドリ科 ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius:飛べない・世界一危険な鳥と知られ、インドネシア・ニューギニア・オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布する。後脚の刃物のような鉤爪は人や犬を殺傷する力を持つ)『には及ばない。見た目はダチョウに似るが、ややがっしりした体躯で、頸から頭部に掛けても比較的長い羽毛が生えている。また、趾(あしゆび)は』三『本であり、先に丈夫な爪を備えている。幼鳥の羽毛には縞模様があるが、成長すると縞が消える。成鳥はオス、メスいずれも同様に全身の羽毛が灰褐色になるが、所々に色が剥げたり濃くなったりしている箇所があり、泥で汚れているかのように見える。エミューの羽はヒクイドリと同じく』、二本で一対という『特徴を持っている』。『翼は体格に比してきわめて小さく、深い羽毛に埋もれているため』、『外からはほとんど視認できない。ダチョウ、ヒクイドリ、レアななどと比べると、最も退化した形であり、長さは』約二十センチメートル、『先端には』一『本の爪が付いている』。『卵はアボカドのような深緑色で、長さは』十センチメートル程、重さは約五百五十~六百グラム、とある。

「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。「第九章 解剖學上の事實 一 不用の器官で既出既注。

「栗鼠(りす)の如くに巧に木に登つて果實を食ふもの」双前歯目クスクス亜目 halangeroidea 科クスクス科 Phalangeridae のクスクス類か。但し、彼らは果実も食うが、主食は葉である種が多い。但し、次の「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」も同じような感じで、丘先生は無論、完全に別種の生物種を想起されているわけだが、これだけでは種同定は困難である。しかも双前歯目クスクス亜目 Phalangeriformes に属する多様な小・中型の樹上動物種をオーストラリア区(オーストラリア及びニューギニア島・スラウェシ島域)では「ポッサム」(Possum)と呼び、ここに出る二種もその中に含まれるのでは、と私はちらりと思っている(何故、ちらりかというと、丘先生の「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」というのは樹上性でない可能性があるからである。なお、ウィキの「ポッサム」によれば、『オーストラリアではポッサムのことをオポッサム』(Opossum)『ということがあり、北米ではキタオポッサム』(哺乳綱オポッサム目オポッサム科オポッサム亜科オポッサム属キタオポッサム Didelphis virginiana)『のことをポッサムということがある。しかし、オポッサムは分類学的にはオポッサム目オポッサム科で、同じ有袋類であるという以上には近縁ではない』とあるので注意が必要)。ところが、そのオーストラリア区でのポッサム(Possum)はクスクス科 Phalangeridae・リングテイル科 Pseudocheiridae・ブーラミス科 Burramyidae(総称ピグミーポッサム Pygmy Possum)・フクロミツスイ科フクロミツスイ Tarsipes rostratus(一属一種)・フクロモモンガ科 Petauridae・チビフクロモモンガ科ニセフクロモモンガ Distoechurus pennatus など三十種に及ぶので、同定は、これ、お手上げ万歳フクロのネズミという訳である。当初、「鼠の如くに種子を齧(かじ)るもの」は、形状から、コアラの近縁の地上性種である双前歯目ウォンバット科 Vombatidae を比定候補に考えたのだが、彼らはコアラ同様、植物の葉や根ばかり食っているので当てはまらない。

『「むささび」の如くに前足と後足との間に皮膚の膜があつて、空中を飛んで行くもの』恐らくは双前歯目フクロモモンガ上科フクロモモンガ科 Petauridae のフクロモモンガ属オーストラリア固有のマホガニーフクロモモンガ Petaurus gracilis であろう。樹間を通常三十メートル、最大で六十メートルまで滑空可能である。生物学的には全くの別系統であるムササビ(哺乳綱齧歯(ネズミ目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista

との外観上の類似性は収斂進化によるもの。

「猿の如くに四足を以て枝を握るもの」双前歯目 Vombatiformes 亜目コアラ科コアラ属コアラ Phascolarctos cinereus であろう。

「狼の如き齒を有する猛獸」ヒトが絶滅させてしまった哺乳綱獣亜綱有袋上目オーストラリア有袋大目フクロネコ目フクロオオカミ科フクロオオカミ属フクロオオカミ Thylacinus cynocephalus のことであろう。ウィキの「フクロオカミ」によれば、『オーストラリアのタスマニア島に生息していた、哺乳類・フクロネコ目の大型肉食獣』。一九三六年に絶滅した、(本「進化論講話」の初版は明治三七(一九〇四)年一月に東京開成館から発行され、底本はその新補改版の第十三版で大正一四(一九二五)年九月刊行である。まだ、その時には彼らは生きていたのである)。『タスマニアオオカミの別名があるほか、背中にトラを思わせる縞模様があることから、タスマニアタイガーとも呼ばれる。有袋類ではありながらオオカミにあたるニッチを占めている、いわば「袋を持つオオカミ」であり、収斂進化の代表例としてしばしば取り上げられる』。本種は四百万年前に『はじめて出現したが、フクロオオカミ科の他種の出現は中新世初期にまで遡り』、一九九〇『年代前半からこれまでに少なくとも』七『種の化石が、オーストラリア、クイーンズランド州北東部のローンヒル国立公園』『で見つかっている』。『見つかっている』七『の化石種のなかで最も古いのが』二千三百万年前に『出現したNimbacinus dicksoniで、それ以降の時代の同科の種よりは非常に小さかった』。最大種はThylacinus potensで、『タイリクオオカミほどの大きさにもなり』七『種のうちでは唯一』、『中新世後期まで生き延びた』。『更新世と完新世にかけては、本記事で扱うフクロオオカミが、多数ではないものの、オーストラリアとニューギニア全土に広く分布していたと考えられている』。『収斂進化の一例として挙げられる本種は北半球に生息するイヌ科』(食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科 Canidae)『の種と、鋭い歯や強力な顎、趾行性や基本的な体の構造など、様々な類似点を持っている。イヌ科の種が他所で占めているようなニッチ(生態的地位)を本種はオーストラリアにおいて占めていたため、それぞれ似通った特徴を獲得したのである。それにも関わらず』、『本種は、北半球のどんな』同形状・同生態の『捕食者とも遺伝的に近縁ではない』。『広い草原や森を主な生息地としていた』。『単独またはつがいで行動し、日中は木や岩の陰で過ごし、日が暮れてから狩りに出かけた。ワラビーなどの小型哺乳類を主に捕食していたと考えられている』。『もともとフクロオオカミは、オーストラリア大陸やニューギニア島を含めたオーストラリア区一帯に生息していたが』、三『万年前人類が進出してくると、人類やその家畜だったディンゴ』(イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種ディンゴ Canis lupus dingo。と種を示し得るものの、事実上は「野犬」と同義である)『との獲物をめぐる競争に敗れ、人類の到達が遅くディンゴの生息しなかったタスマニア島のみに生き残ることになった。この状況は、タスマニアデビル』(フクロネコ目フクロネコ科フクロネコ亜科タスマニアデビル属タスマニアデビル Sarcophilus harrisii。私がタスマニアで撮った彼ら。)『同様であった』。『大航海時代が訪れ、ヨーロッパから入植者が住み着くようになると、彼らのヒツジなどの家畜を襲うフクロオオカミを目の敵にした』一八八八年から一九〇九年まで『は懸賞金がかけられ』、二千百八十四頭もの『フクロオオカミが虐殺されたという』。一九三〇年、『唯一と思われる野生個体が射殺され、次いでロンドン動物園の飼育個体が死亡し、絶滅したと思われたが』、一九三三年、『野生個体が再度捕獲。ホバートの動物園に移されるも』、一九三六年に『死亡し、絶滅となった』。

「河獺(かはうそ)の如き蹼(みづかき)を具へて水中を泳ぐもの」既出既注 の哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。

「小形のカンガルー」ワラビー(wallaby)。これは先に示した有袋類(フクロネズミ目Marsupialia)のカンガルー科 Macropodidae に属する動物のうち、カンガルー類よりも小さな種に対して一般的に使われる名称で動物学的な分類ではないが、現地ではしばしば用いられ(タスマニアに旅した際には明らかに現地ガイドが「カンガルー」と「ワラビー」をあたかも種を区別するかのように使っていた。私の撮ったワラビの母子)、明確な定義付けはないものの、約三十種ほどをかく呼称している。ウィキの「ワラビー」によれば、『カンガルーに比べ、後ろ足が小さく尾が短い。しかし、後ろ足で跳躍し移動すること、育児嚢で子供を育てることなど、基本的な習性はカンガルーと同じである』とある。

は略々兎の代りともいふべきものである。その他獸類でありながら、卵を生むので、非常に有名な「鴨の嘴」もたゞこの地方のみに産する。また鳥類も「エミウ」・「リラ鳥」・「塚造り」等を始として、殆ど他國には類のないものばかりで、

「角齒魚」この名称(「かくしぎょ」と読んでおく)は脊索動物門脊椎動物亜門: 顎口上綱肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi のハイギョ類が板状で非常に硬い「歯板」と呼ばれる歯を有すことによる。ウィキの「ハイギョ」によれば、『これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なもので』、彼らは獲物の咀嚼を何度も繰り返し、一旦、口から出した後、『唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す』のである、とある。なお、ここで問題としている種は分布から自動的に肺魚亜綱ケラトドゥス目 Ceratodontiformesケラトドゥス科ネオケラトドゥス属オーストラリアハイギョ Neoceratodus forsteri に同定される。]

 單に獸類だけに就いて論じても、オーストラリヤ大陸では、前に述べた通り山を見ても、野を見ても、森にも、河にも、目に觸れるものは、皆腹に袋を有する類ばかりで、他の目に屬する獸類は一種もないが、全體この大陸は他の獸類の生活に適せぬかといふに、決してさやうではない。羊を飼へば非常によく繁殖して、今では世界の主なる牧羊地となつて居る。また兎を輸入すれば忽ち一杯に繁殖して持て餘す程になつた。鼠も增加し、之に伴つて猫も增加し、兎を退治するために外國から持て來て放した鼬(いたち)も非常に殖えて、兎以外の鳥獸に大害を加へるに至つた所などから見ると、この地は實に如何なる獸類の生活にも最も適した處といはねばならぬ。然るに實際に於ては、西洋人が移往するまでは、たゞカンガルーの一族が蔓延つて居るのみで、世間普通の獸類は一種もなかつた。たゞ野犬が一種あつたが、之は確に他から紛れ込んだもので、本來この地に産したものではない。

 動物には各々固有な性質のあるもので、寒國だけに適したものもあれば、熱帶でなければ生活の出來ぬものもあり、森の中だけに棲むものもあれば、野原だけに居るものもある。それ故寒國と熱帶とで動物の違ふのは少しも不思議ではない。また森の中と野原とで動物の違ふのも全く當然である。倂し同じ氣候で、同じく生活に適した處でありながら、大洋を一つ隔てる每に、斯くの如く鳥類・獸類が全く違つて、一種として同一のものが居ないといふのは、如何なる譯であるか。之には何か特別の理由が無ければならぬことである。

 動物は總べて共同の先祖から進化し、樹枝狀に分れ降つて、今日見る如き多數の種屬が出來たもので、その進化し居る間に、土地の昇降があつて、初め陸續の處も後には切れて離れ、初め半島であつた處も後には島となつて、その開に廣い海峽が出來たりしたと見倣せば、その結果は如何といふに、獸類や陸上鳥類の如きは、陸地の連絡のない處には移住する力のないもの故、今まで廣く分布して居たものも、途中に陸地の連絡が絶えれば、そのときから交通が全く絶えて、海のあちらとこちらとでは全く無關係に別々に進化を續けることになる。斯くなれば雙方とも各々その地の狀況に隨ひ、適するものが生存し、適せぬものが死に失せて、同種内の個體の競爭によつて種屬が進化し、異種間の競爭によつて、各種の運命が定まり、敗けて亡びるものもあれば、勝つて榮えるものもあつて、長い年月を歷た後には、あちらの動物界とこちらの動物界とを比較して見ると、孰れも最も適したものが生存したには違ないが[やぶちゃん注:「ちがひないが」。「ひ」は脱字が疑われる。]、その種類は全く相違するに至るべき譯である。この考を以て南アメリカアフリカオーストラリヤ等の動物を比較して見ると、略々明瞭に理解することが出來る。

 ヨーロッパアジヤ等に於て、今まで掘り出された化石を調べて見ると、最も古いものは、皆「カンガルー」の族ばかりで、その頃には他の獸類はまだ全く無かつたらしい。尤も象程の大きさのものもあり、犬位のものもあつて、種類の數は澤山に知られてあるが、皆今日のカンガルー類に固有な特徴が具はつて居る。それ故、その頃には獸類といへば、たゞこの類ばかりであつたものと見倣すより外はないが、假にこの時代まで、オーストラリヤアジヤ大陸と地續であつたのが、この頃に至り土地の降ること、浪が土地を洗ひ取ること等によつて、その連絡が切れたと想像するに、これより後は兩方に於て全く別に進化することになるが、自然淘汰に材料を供給する動物の變異性といふものは、如何なる規則によるものか、まだ甚だ不明瞭で、突然胴の長い羊が出來たり、角のない牛が生れたりする所を見ると、どのやうなものがいつ生れるか解らず、變化の模樣は全く

豫想することが出來ぬから、たとひ同一種の動物でも、二箇所に於て全く同一の變化を現すことは、實際に於ては先づないと思はなければならず、隨つて假に兩方とも同一の標準によつて淘汰せられ、最も適したものばかりが生存するとしても、選擇の材料が既に同じでないから、生存するものも違ふ譯になるが、相隔たつた兩方の土地で、自然淘汰の標準が全く同一であるとは到底思はれぬから、尚更のこと、長い年月の間には全く別種のものとなつてしまはざるを得ない。それ故アジヤではその頃のカンガルー族の子孫の一部が進化して今日の普通の獸類となり、「カンガルー」の特徴を具へた子孫は競爭に敗けて死に絶え、ただ化石として殘り、またオーストラリヤでは之に反してその頃のカンガルー族の子孫が總べてカンガルー族の特徴を具へたまゝで、今日まで進み來つたといふ想像も出來ぬことでもない。而して斯く想像すれば、今日實際の分布の理由を略々了解することが出來る。

 以上は素より想像に過ぎぬが、總べて有り得べきことのみを組み立てた想像で、決して事實を曲げたり、實際に反したことを假想したりしてはない。それ故、現在の有樣が之で説明せられる以上は、先づこの説を取るより致し方がないが、土地の昇降は目前の事實であるから、殘る所はたゞ生物の進化ばかりで、之さへ認めれば、斯く不思議に思はれる分布上の現象も、一通りは理窟を解することが出來る。若し之に反して、生物種屬不變の説に隨つたならば、オーストラリヤアジヤ大陸とが何いつの頃離れたにもせよ、兩方に同種類の動物が居なければならず、敦れの方面を見ても、たゞ反對の事實を見出すばかりで、到底説明を與へることは出來ぬ。
 

2018/02/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一五 / 隱れ里~了

 

    一五

 

 近江の東小椋村から出て國々の山奧に新隱里を作つた人々は、米合衆國の獨立みたように、折々は郷里の宮寺にある舊記を裏切るような由緒書を作つて居る。東北では會津地方が殊に木地屋の多い處であるが、これは蒲生家が領主であつた時、郷里の近江から何人か連れて來たのを始めとするさうで、後年までこの徒は一定の谷に居住せず、原料の木材を逐うて處々を漂泊し、この地方ではそれを「飛び」といつたこと、新編風土記に詳しく出て居る。

[やぶちゃん注:蒲家云々の箇所は前章の私の「日野椀」注を参照。「新編風土記」とは「新編會津風土記」のことであろう。会津藩官選。全百二十巻。享和三(一八〇三)年から文化六(一八〇九)年にかけて編纂された。]

 一方には會津から越後へかけての山村に多い高倉宮の古傳には、やはりいろいろの右大臣大納言が從臣として來たり、猪早太輩と功を競ひ、又其子孫を各地に殘して舊家の先祖となつて居る。其中には小椋少將などと云ふ人もよく働いて居る。越後の東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵などは、土地の名を小倉嶺といい、山下の中山村十三戸は皆淸野氏で、御連枝四の宮の從臣淸銀太郎と云ふ勇士の子孫である。

[やぶちゃん注:「東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵」新潟県東蒲原郡阿賀町東山((グーグル・マップ・データ))にある古墳らしいが、見当たらない。国土地理院の地図でも見たが、それらしいものは見出せなかった。ネット上では論を書いている人はいても、その所在を明らかにするように書かれてはいない。以下の「中山村」なども判らぬ。お手上げ。識者の御教授を乞う。は「高倉宮以仁王御墳墓考」(岩城宮城三平編越後小柳傳平校再校正・「尾瀬三郎物語を守り育てる会」)というのはある。

「淸野氏」不詳。

「御連枝」(ごれんし)は貴人の兄弟を指した敬称。

「淸銀太郎」前で引いたページには清銀三郎貞方、別名尾瀬三郎房利とある。]

 又大和吉野の川上の後南朝小倉宮の御事跡は、明治四十四年に林水月氏の著した吉野名勝誌の中に委曲論評を試みてあるから、自分は次の二つの點より外は何も言はぬ。其一は此山村に充滿する多くの舊記類は何れも二百年此方の執筆であること、其二は小倉宮の御名は洛西嵯峨の小倉の地に因む筈であるにも拘らず、此宮は一時近江の東小椋村君ケ畑の土豪の家に御匿れなされ、その家の娘を侍女として王子を御儲けなされたことである。

[やぶちゃん注:「後南朝小倉宮」小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう 応永一三(一四〇六)年頃~嘉吉三(一四四三)年)は室町前期の皇族で、後南朝勢力の中心人物。ウィキの「小倉宮聖承によれば、小倉宮家二代であるが、個人としての「小倉宮」は、一般に、この聖承を指すことが多い。樋口宮とも呼ぶ。『聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に良泰(よしやす)や泰仁(やすひと)とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない』。『南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦(恒敦宮)の子。子に小倉宮教尊』(きょうそん)『などがいる』。正長元(一四二八)年七月、『旧北朝系の称光天皇が嗣子なく』、『危篤状態に陥ると、その父の後小松上皇は北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたので、この動きに不満を持った聖承は、伊勢国司で南朝方の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時』、『幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫』、同年十二月二十一日、『満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れて戦死する』。『その後も聖承は伊勢国に滞在したまま』、『抵抗を続けるが』、永享二(一四三〇)年に『満雅の弟・顕雅が幕府と和睦したため、幕府の懇望もあって京に戻されることとなる。この際の和睦条件が、聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月』三『千疋を生活費として献上させること」であったため、同年』十一『月に当時』十二『歳の息子は出家し、将軍足利義教の猶子となって偏諱(「教」の字)の授与を受け』、『「教尊」を名乗り、勧修寺に入ることとなった。しかし一方で、幕府からの生活費の保障は守られることがなく、京に戻った後の暮らしは困窮の極みだったようである。その後』、永享六(一四三四)年二月に『海門承朝(長慶天皇皇子)を戒師として出家し、この時点から「聖承」を名乗った』とある。

「明治四十四年」一九一一年。

「林水月」(安政五或いは六(一八五九)年~昭和四(一九二九)年)。大坂生まれ。名は海音、水月は号。明治中頃から末にかけて、奈良県吉野郡上北山村西原の宝泉寺、続いて同じ吉野小橡(ことち)の龍川寺の住職となり、川上・北山の後南朝史を研究した曹洞宗の僧。「吉野名勝誌」は彼の労作とされる。]

 右の二箇所の事例とは全然無關係に、自分は今左の如く考へて居る。木地屋には學問があつた。少なくとも麓にいて旅をしたことのない村民よりは識見が高かつた。木地屋の作り出した杓子や御器は如何なる農民にも必要であつて、しかも杓子の如きは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからぎるものであつた。新たに村の山奧に入り來たり、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあつた彼等は、相當の尊敬と親密とを求めるために、多少の智慮を費すべき必要があつた。必ずしも無人貿易をせねばならぬ程に相忌んでは居なかつた彼等も、少しも技巧を用ゐずには侵入し得なかつたのは疑いがない。そこで更に想像を逞しくすると、彼等は往々岩穴や土室の奧から、鮮やかな色をした椀などを取出して愚民に示し、是を持つて居れば福德自在などゝ講釋して彼等に贈り、恩を施したことが無いとは言はれぬ。常州眞壁の隱里から貸した椀が、金で四つ目の紋を附けたのは一つの見處である。四つ目は卽ち近江の一名族の紋所であつた。斷つておくが自分はまだ證據を捉へぬから決してこの假定を主張するのでは無い。假に鳥居氏の言はれたのに近い交通があつたとしても、此場合には相手の方が旨(うま)く遣つたので、同氏の所謂文明のステージが違ふと云ふのは、ちやうど逆樣に違ふのだから、いさゝか滑稽で無いかと言ひたいのである。

 常民が食器に白い陶器を使ふのはむろん新しい變遷である。其以前は木器であらうと信ずるが、少なくも朱椀などは手が屆かぬ上流の用であつたであらう。其が次第に容易く生産せられるやうになつたのも、さして古い事とは思はぬ。漆器の歷史を調査する人は、必ず我輩の隱里物語を其基礎の一つにせねばなるまい。又かの多情多恨の椀久と云ふ淨瑠璃曲中の好男子が、苗字は小椋で後の屋號が伊勢屋であつたか否か、これを明白にして下さるのは上方の學者方の任務である。

   (大正七年五月、東京日日新聞」)

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一四

 

     一四

 

 伊勢の龜山の隣村阿野田の椀久塚は、また一箇の椀貸塚であつて、貞享年中までこの事があつたと傳へて居る。土地の口碑では塚の名の起りは椀屋久右衞門或は久兵衞と云ふ椀屋から出たと云ふ。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であつたらしく、數多の牛を飼ひ品物を送り五穀を運ぶ爲に、險岨の山路を道普請して牛の往來に便にしたと云ひ、今も牛おろし坂と云ふ地名が遺つて居る。椀久は農家ながら多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送つて利を收めた。其家斷絶の後舊地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名づけた。村民の客來などの爲に膳椀を借らんとする者は、やはり前日にこの塚へ來てこれを祈つたと云ふ事である。さて此話を解釋するためには、最初に先づ塗物師が器を乾かすために土室を要した事を考へねばならぬ。[やぶちゃん注:←ここは底本では読点であるが、特異的に訂した。]次には木地師の本國が近江の愛知郡東小椋村であつたことを注意する必要がある。龜山在から山坂を越えて行くと云へば行先は近江南部の山村である。而して東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字は、數百年以前から今日まで引き續いての木地屋村で、其住民は中世材料の缺乏して後、爭うて郷里を出で、二十年三十年の間諸國の山中を巡歴し、到る處において轆轤の仕事をしたことは人の略知る所である。諸國の木地屋は其故に今でも大多數は小椋或は大倉等の苗字をもつて居る。日本全國大抵分布せぬ地方は無い中にも、伊勢は山續きで最も行き易かつたらしく、南伊勢から紀州へかけて小椋氏の在住して木地を業とする者今も多く、色々の古文書の寫しを傳へ藏し、同族のみで山奧の部落を作る爲に、尚若干の異なる習俗を保持して居るらしい。自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある。近日又少しばかりの研究を發表したいと思つて居る。近江の檜物莊の成立ち、及び中世盛んであつた日野椀、日野折敷の生産と關係があるかと思ふが、いまだ確かな證據を發見せぬ。

[やぶちゃん注:かの幻想作家澁澤龍彦の最期の机上にあったメモは木地師についてのものであった。柳田國男のインキ臭いそれらより、シブサワの書かれなかった次回作を私は切に渇仰するものである。

「阿野田の椀久塚」既出既注だが、最後に近くなったので再掲しておく。現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。

「大阪の椀久」(生没年未詳であるが、没年は延宝四(一六七六)年七月三十一日(菩提寺円徳寺過去帳に拠る)の他、翌延宝五年とも、さらに後の貞享元(一六八四)年の諸説がある)は江戸前期の実在した商人。大坂堺筋の富商で椀や皿を商った。大坂新町の傾城松山と深い仲になり、豪遊の末、発狂して水死したともいう。西沢一鳳の「伝奇作書」では、盆には正月遊びと称し、自ら年男に扮して、豆の代わりに一歩金を座敷から座敷へ撒いて歩くなどの放蕩を繰り返したため、座敷牢に押し込められて、狂死したという井原西鶴はこの稀代の放蕩者をモデルに浮世草子「椀久一世の物語」を書き、浄瑠璃・舞踊の素材としても好まれ、数多くの作品に作られた。紀海音作浄瑠璃「椀久末松山」や長唄「其面影二人椀久」が知られる。

「土室」「つちむろ」と読む。土で周囲を塗り固めて作ったムロ、或いは穴倉状に土中に掘り固めて作った保湿された特殊なムロを指す。漆は湿度が高いほど乾き易いという特殊な性質を持つ(気温が摂氏二十五度以上で、しかも湿度八十%以上であることを硬化の条件とする)。因みに、完成した漆器も適度の湿度を与えておかないと状態よく保存出来ない。

「近江の愛知郡東小椋村」滋賀県の旧愛知(えち)郡東小椋村(ひがしおぐらむら)は、現在の東近江市の愛知川上流右岸、この附近(グーグル・マップ・データ)。柳田國男の謂いは、地図を下げて行くと納得出来る。また「木地師の本國が」ここであったことは、まさにこの地に惟喬親王御陵があることからも判る(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「木地師」によれば、九『世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた』文徳天皇の第一皇子『小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある』のである。また、実際、この『蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ』。『木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り』、『山の』七『合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証する』、『とされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった』。『綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで』、『時とともに』その「お墨付き」なるものが『実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた』のであった。『木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら』、『木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り』、『焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に』七千戸ほどもいたと『言われ、 明治中期までは美濃を中心に』、『全国各地で木地師達が良質な材木を求めて』、二十年から三十年の単位で『山中を移住していたという』。また、『石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区』『は惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり、時代を経て何通かの御綸旨で森林の伐採を許された主に木地師達の小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが』、天正元(一五七三)年八月の、織田信長と朝倉義景の間で行なわれた「一乗谷城の戦い」『以降は庇護も無くなり』、『一部の木地師達は新天地を求めて』、『加賀から飛騨や東北地方に散って行ったとされる』とある。

「東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字」国土地理院の地図のこちらで、二つの集落地名を現認出来る。

「小椋或は大倉等の苗字をもつて居る」試みにその手の全国の名字分布サイトでランキングを調べると、現在は「小椋」は福島(先の引用の流れて行った東北地方と一致)・岡山・鳥取に多く、次いで岐阜・滋賀である。「大倉」は新潟・岡山、次いで三重・奈良・岐阜などが続くから、柳田の言いは当たらずとも遠からずではある。

「自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある」明治四四(一九一一)年一月の『文章世界』に発表した「木地屋物語」。本「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年の『東京日日新聞』。

「近江の檜物莊」檜物荘(ひもののしょう)は近江国甲賀郡(現在の滋賀県湖南市。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった荘園。野洲(やす)川流域に位置する、平安期からの摂関家領で、長櫃(ながびつ)・折敷(おしき)・柄杓などの檜製の物品を進納したところから、その名がついたものらしい。

「日野椀」ウィキの「日野椀」によれば、『滋賀県蒲生郡日野町』(ここ(グーグル・マップ・データ)。前の湖南市の東)『とその周辺で生産された漆器』で、『平安時代に日野地域が「檜物庄」と呼ばれていたという記録が残ることから、この時代には既に檜物製造が行われていたと考えられている。』天文二(一五三三)年に『領主蒲生氏が日野城下町の町割を実施し、堅地町(現金英町)・塗師町(現御舎利町)に木地師・塗師を住まわせ』た。天正一八(一五九〇)年に『伊勢松ヶ島へ転封していた蒲生氏郷が会津に移るにあたり、漆器職人を会津に招いたため、日野の漆器製造は一時期衰退する。なお、このため』、『会津塗器は日野塗の技術導入により』、『発展したと考えられている。 元和年間』(一六一五年~一六二三年)、『日野商人の活躍により、日野塗が復興』し、正保二(一六四五)年刊と『考えられている松江重頼の俳諧作法書「毛吹草」にも、近江日野の名物として「五器(ごき)」が挙げられている。その後、日野商人の主力商品が薬に代わったことや』、宝暦六(一七五六)年に発生した『日野大火(市街地の約』八『割を焼失)で打撃を受け徐々に衰微、天保年間』(一八三〇年~一八四三年)『に日野椀の製造は途絶えた』。『初期に生産され今も残存する器は祭器が多く見られ、厚手・高い高台を特徴とする。 安土桃山時代には、千利休らが愛用したという記録が残っている。 江戸時代に庶民使いの漆器として、日野商人による行商で全国へ広まった。 最近の研究によれば、日野椀は日野だけで製造されていたわけではなく、日野商人が全国に点在する木地師や塗師に技術指導をした上で製造委託をし、日野椀ブランドを付けて流通させていた可能性が指摘されている』とある。]

 伊勢にはまた安濃郡曾根村東浦の野中に椀塚と稱する丘があつた。東西十五間南北十間[やぶちゃん注:「十五間」は二十七メートル強、「十間」は約十八メートル。]で頂上に大松があつた。これには椀貸の話はあつたと云はぬが、昔は神宮の御厨(みくりや)の地で、秋葉重俊なる者近江より來たり住し、文曆元年には判官職であつた。其後片田刑部尉重時の時、兵亂に遭つて御厨は退轉した。其時は太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る。此言傳へが、椀久系統の人の口から出たことは、僅かながら證據がある。小椋の人々はどうした譯か以前から、あまり歷史には名の見えぬ物々しい人名を引合に出す風があつた。君ケ畑蛭谷の二村に今も大事にしており、諸國の舊い木地屋が必ず一組づゝ傳寫して居る多くの古文書、それから此地の舊記や社寺の緣起類は、持主の眞摯なる態度に敬意を表し、新聞などで批評をすることは見合せる。此村では淸和天皇の御兄皇子小野宮惟喬親王、都より遁れて此山奧に入り、山民に木地挽く業を教へたまふと言ひ傳へ、此宮を祭神とする御社は今も全國木工の祖神であるが、此由緒を述べた仁和五年酉五月六日とある古記錄等には、親王に隨從して此地に落着いたと云ふ人々が、大藏大臣惟仲、小椋大臣實秀などゝ署名して居る。この實秀は太政大臣とも云ひ、今の小椋一統の先祖である。一説には小椋信濃守久良、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]小椋伯耆守光吉、親王より此藝を教へらるゝともある。作州苫田郡阿波村の木地挽が舊記には、奧書に承久二年庚辰九月十三日とあつて、やはり大藏卿雅仲、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]民部卿賴貞等の署名がある。伊勢でも多氣郡の藤小屋村などでは、杓子を生業として惟喬王子倉橋左大臣を伴ひ此地に匿れたまふ時、土人に此業を傳へたまふと言つて居た。右の外北近江でも吉野でも紀州でも飛彈でも、親王の曾て御巡歷なされたことを眉じて居て、あまりとしても不思議に思はれるが、既に明治の三十一年に田中長嶺と云ふ人が小野宮御偉蹟考三卷を著して、全部東小椋村の舊傳を承認し、本居・栗田等の大學者が序文や題辭を與へられた後であるから、自分には誠に話がしにくい。詳しくは右の書に就いて考へられんことを、讀者中の物好きな人に向つて希望する。

[やぶちゃん注:「安濃郡曾根村東浦」既出既注であるが、意図的に再掲する。三重県津市安濃町曽根。(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「御厨」本来は神饌を調理するための屋舎を意味するが、ここは神饌を調進するための領地の意。

「秋葉重俊」不詳。

「文曆元年」一二三四年。

「片田刑部尉重時」不詳。鎌倉時代で前の秋葉重俊もこれも孰れの名もヒットしないというのはかなりおかしい。「歷史には名の見えぬ物々しい人名」はやっぱり実在しなかった可能性が高いね。

「太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る」というのを何で無批判に信じるかね? 高い確率で古墳だっっつーの!

「此宮を祭神とする御社」滋賀県東近江市君ヶ畑町にある大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大皇器地祖神社」によれば、『木地師の祖神として惟喬親王を祭る。神紋は十六菊』。寛平一〇(八九八)年『の創祀と伝わる。明治五(一八七二)年まで正月・五月・九月に』『国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住んでいた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。同様に木地師の根源社と称す筒井八幡(現筒井神社)と木地師に対する氏子狩を行い、全国に散っていた木地師に大きな影響力を持っていた。「白雲山小野宮大皇器地祖大明神」とも称したが』、明治十五年に現社名に改められている、とある。

「仁和五年酉五月六日」八八九年。仁和五年は己酉(つちのととり)。

「大藏大臣惟仲」不詳。「大臣」は「おほおみ(おおおみ)」と読んでおく。

「小椋大臣實秀」不詳。木地師関連の記載には藤原実秀とか大納言とか太政大臣と書いてあるのだが、一次史料には殆んど見えない。

「小椋信濃守久良」不詳。上のウィキでは「久長」である。「良」は「なが」とも読む。

「小椋伯耆守光吉」不詳。

「作州苫田郡阿波村」岡山県の北部(苫田郡)に位置し、鳥取県と境を接していた阿波村(あばそん)。現在は津山市阿波地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「承久二年庚辰九月十三日」一二二〇年。確かに同年は「庚辰」(かのえたつ)ではある。

「大藏卿雅仲」大蔵卿で高階雅仲なる人物はいるが、南北朝まで生きてるから違うわね。

「民部卿賴貞」不詳。

「多氣郡の藤小屋村」三重県多気郡(たきぐん)。郡域はウィキの「多気郡」を参照されたい。「藤小屋村」は不詳。

「倉橋左大臣」不詳。

「明治の三十一年」一八九八年。

「田中長嶺」(ながね 嘉永二(一八四九)年~大正一一(一九二二)年)は在野の菌類学者で農事・林業家(椎茸栽培・製炭事業の指導者)。越後国三島郡才津村(現在の長岡市)生まれ。絵画を学ぶべく、江戸に出たが、途中で帰農。農事の傍ら、植物採集・写生・菌学を研究、明治二三(一八九〇)年には我が国初の菌類学書「日本菌類図説」(共著)を、その後さらに人工接種による椎茸栽培法について研究、「香蕈培養図説」(明治二五(一八九二)年)などを著している。また、製炭法の改善を考究、同じ明治二十五年に「十余三産業絵詞」を著し、三年後の明治二十八年には愛知県八名郡にて田中式改良窯を考案、これをもとに「炭焼手引草」(明治三一(一八九八)年)を公刊、我が国の製炭の技術的基礎の確立に貢献した。その後も椎茸栽培及び製炭技術改善のため、全国各地を行脚し、名古屋市内で客死した。

「小野宮御偉蹟考三卷」明治三三(一九〇〇)年八月近藤活版所刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇が読める。柳田國男の言う通りなら、読みたいとはあんまり思わないけれど、そのエネルギッシュな生き方には正直、脱帽する。「讀者中の物好きな人に向つて希望する」などという人を食った言辞で皮肉る御用学者なんぞよりは数百倍、私は敬意を表したくなる。

「本居」国学者本居豊穎(もとおりとよかい 天保五(一八三四)年~大正二(一九一三)年)。本居宣長の義理の曾孫にあたる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。

「栗田」国学者・歴史学者栗田寛(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)。幕末には水戸藩に仕えた。元東京帝国大学教授。「大日本史」の最後まで未完であった「表」「志」の部を執筆したことで知られる。号は栗里。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一三

 

     一三

 

 福井縣大野郡の山村は、これまた平家谷口碑のいたつて數多い地方である。その中で下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂と云ふは、崖の中腹にある二尺四方の岩穴で、穴の中は古墳である。土人最もこれを尊崇し每年二月十九日に祭をする。この窟の石戸は人力では動かぬが、世の中に何か事があると自然に開閉するのを、村民は「平家樣が出られる」と云ふ。日淸・日露兩度の戰役中、この石戸の常に開いていたことは誰も知らぬ者が無いと云ふ。此話を發表した人は自分の知人にして且つ此村の住人である。其誠實はよく知つて居るが、而も如何せん此話には傳統がある。奧羽地方に於てはこの種の岩穴を阿倍城(あべしやう)と謂ひ、岩戸の開閉の音を聞いて翌朝の晴雨を卜する例が多い。中央部では鬼ケ城などゝも云ひ、山姥が布を乾すと云ふことになつて居り、やはり里の者の神意を察知する話が少くない。更に其昔を辿ると山姫佐保姫の錦を織ると云ふ言ひ傳へにも關聯するものであらう。蓋し屋島壇浦の殘黨のみに對してならば、所謂平家樣の崇敬は些しく過分である。故に如何にしても安德天皇を奉じ來ることの能ぬ[やぶちゃん注:「かなはぬ」。]東北地方に於ては、一門の尼公と稱し又は以仁王と申上げて、其缺陷を補はんとしたのではあるまいか。併し農民は昔も今も虛言を述べ得ぬ人である。さうして最も人の言を信じ易い人である。然らば最初果して何人あつて斯くも多い平家谷の話を全國に散布したのであるか。是が椀貸傳説と交渉ある唯一つの點で、同時に鳥居氏の無言貿易説の當否を決すべき重要な材料であるように自分は思ふ。

[やぶちゃん注:「福井縣大野郡」「下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂」現在の福井県福井市赤谷町。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在も「平家堂」という石窟の社があり、平惟盛を安置すると伝えているという記載を見かけたので、現存するようである。ここは安心して、柳田先生、「古墳」と書いてる。椀貸伝説がないからね、それに話を頭の無言貿易の批判にあっさり戻してるからね

「阿倍城(あべしやう)」ルビはママ。ちくま文庫版全集では「あべじょう」。]

  鳥居氏の御意見と云ふものが、若し此等各地方の異傳を親切に考察した上で發表せられたものであつたならば、自分等は假令末梢の問題に於て觀察の相異があるにしても、斯樣な失禮な批評文は出さなかつたであらう。何となればいわゆる椀貸の話には限らず、多くの傳説の起源は常に複雜なもので、時代々々の變化又は新たなる分子の結合は有勝ちであるから、最初長者と打出小槌と古墳と水の神の信仰とが、この不可思議なる岩穴交通の話の基礎であつたとしても、別に又或事情の下に、鬼市若くは默市と稱する土俗の記憶が、同じ物語の中に織込まれたことは絶無と斷定し能はぬからである。民俗學の現在の進步程度では、殘念ながら消極的にも積極的にも、何の決定をも下し得ぬことが明白であるからである。

 自分が主として證明せんとしたのは、單に膳椀の持主又は貸借の相手が、アイヌその他の異民族であつたらしい痕跡がまだ一つもないと云ふ點であつた。此以外に於て何か手掛りとなるべき特徴では無いかと思ふのは、話の十中の九まで前日に賴んで置いて翌朝出してあつたと云ふこと、卽ち先方が多くは夜中に行動をしたと云ふ點である。それよりも尚一段と肝要なのは、僅かな例外を以て貸した品が、常に膳椀その他の木製品であつたことである。隱里から出すには他に物もあらうに、木地の塗物のと最も土中水中に藏置するに適しない品のみが常に貸されたことは、何か特別の仔細が無くてはならぬ。陸中の遠野などではフエアリイランドの隱里の事をマヨヒガと稱し、マヨヒガに入つて何か持つて來た者は長者になると云ふ話がある。そうして自分の採錄した話の中には、やはり其隱里の椀を授かつて富貴になつた一例がある。高知縣長岡郡樫野谷の池は、村民が元旦に此水を汲む風習あり、また村に不吉の事起らんとする時には、水底に弓を引く音が聞えたと云ひ、時としては赤い椀の水面に浮ぶことがあると云ふ、此くの如き場合に迄いつも椀といふものの附いて𢌞るのは、果して何を意味するであらうか。

[やぶちゃん注:「マヨヒガ」私が佐々木喜善の語った遠野の物語(私は「遠野物語」を柳田國男の作品とすることを認めない人間である)で最も偏愛する奇譚である。それは山中のさっきまで人がいたような長者屋敷へと迷い込む「迷ひ家(が)」の謂いであり、そこから何かを持ち出すことで、主人公が富貴となるという基本設定を持つ。但し、欲を持った者は失敗し、二度とはそこに行き当たることはないのである。佐々木喜善が自ら綴った「山奥の長者屋敷」(大正一二(一九二三)年『中学世界』)及び「隠れ里」(昭和六(一九三一)年刊「聴耳草紙」所収)の二話をウィキの「マヨイガで読める。

「高知縣長岡郡樫野谷」現在の高知県長岡郡は(グーグル・マップ・データ)。「樫野谷」は不詳。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一二

 

     一二

 

 播州書寫山の登路にも、袖振山の北の端を隱(かくれ)が鼻(はな)と稱して山腹に大きな岩穴があり、大昔老鼠が米を搗いた故跡と言ひ傳へて居る。東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟、あるいは羽後の男鹿半島寒風山の隱里、陸中小友の土室神社の如き、岩窟に隱れ里と云ふ老のあるものは多いのだが、それが曾て皆右樣の傳説を伴なつて居たか否かは疑はしい。ことに次に列擧する如き多くの隱里と云ふ地名などは、一々皆是であつたとも思はれぬ。恐らくは山を隔てた世に遠い小盆地で、單に年貢が輕かつたと云ふ他に、何の特長も無かつた只の隱れ里も多いこゝと思ふ。

    相摸中郡吾妻村二宮隱里

    常陸那珂郡隆郷村高部隱里

    陸前遠田郡成澤村隱里

    陸奧下北郡川内村隱里

    羽前東田川郡橫川村隱里

    羽後雄勝郡輕井澤村隱里

[やぶちゃん注:ここでちょいと、所持する松永美吉著「民俗地名語彙辞典」から「カクレザト」の項を引用してみようか(私のそれは一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」のもので、平成元(一九八九)年刊の私家版「地形名とその周辺の語彙」の増補版。一部の字位置を変更した)。

   《引用開始》

カクレザト 隠れ里というのは各地にある。

 茨城県真壁郡開城町舟玉にある古墳。昔この塚に頼むと、なんでも必要な品物を貸してくれたが、ある時借りた物を返してくれない者がいたので、それからは貸してくれなくなった。

 下妻市高道祖にある塚。昔、この塚に頼むと膳椀を貸してくれらが、ある時不心得者が借りた物を返さなかったので、貸してくれなくなったという。ズコー塚、隠れ塚、お膳塚、十二膳ともいわれる。

 猿島郡五霞村川妻にある地名。昔、ここに山姥が住んでいて、頼むと膳椀を貸してくれたが、やはり返さない者がいて貸してくれなくなったという〔『茨城方言民俗語辞典』〕。

   《引用終了》

最後のは柳田が既に挙げているが、①②が出ないののはおかしくはないか? これは「隠れ里」+「椀貸伝説」なのに? 古墳と塚じゃね、柳田センセーにとっちゃ、都合が悪いわけよ。この章、どっかの愚劣な科学者やド阿呆な政治家がやるように、自分の御説に合わせて実証資料を操作する非学術的な柳田國男の学者としてのおぞましい一面がスケスケに見えるものと相成ったと言ってよい。非常に不快なので、早々に終らせたくなった。今日中に終らせたい。

「播州書寫山の登路」「袖振山の北の端」とは、現在の兵庫県姫路市(山吹或いは上手野)の振袖山(蛤山)の北の稜線部のことであろう。国土地理院図のここ、又は「グーグル・マップ・データ」航空写真のここを参照されたい(後者の写真で見ると、市街地に忽然とある丘陵で、それらしい岩穴がありそうな雰囲気はある)。但し、誤解してはいけないのは(私は誤解した)、書写山圓教寺はここからさらに直線でも北へ三・五キロメートル離れた位置にあり、その間は夢前川を挟んだ盆地であって、ここが尾根で書写山に繋がっているわけではない点である。

「東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟」不詳。私は越後に特化した越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の書肆永寿堂から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)の全電子化注をここで完遂しているが、「越後蒲原のオコツペイの窟」なんて、出て来ないし、ネット検索にも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「羽後の男鹿半島寒風山」秋田県男鹿市脇本富永寒風山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸中小友の土室神社」岩手県遠野市小友町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、そんな名前の神社はない。「岩窟」でここと言ったら、巌龍(いわたき)神社とその後背に凄絶に屹立する不動岩なんじゃねえかなぁ?ここ(グーグル・マップ・データ。そこには「巌篭神社」とあるが、誤り))個人ブログ「昔に出会う旅」のこちら、また、モノクロ写真故に強烈なリアリズムで迫る個人サイト「巨石巡礼」のこちらもお薦め!

「相摸中郡吾妻村二宮隱里」現在の神奈川県中郡二宮町二宮のこの附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「常陸那珂郡隆郷村高部隱里」旧村名は「嶐郷村」(りゅうごうむら)が正しい。恐らくはこの中央、埼玉県に突出した一帯と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「陸前遠田郡成澤村隱里」現在の宮城県遠田郡涌谷町成沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸奧下北郡川内村隱里」現在の青森県むつ市川内町川内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽前東田川郡橫川村隱里」現在の山形県東田川郡三川町横川。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽後雄勝郡輕井澤村隱里」現在の秋田県雄勝郡羽後町軽井沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 近世の記錄に隱れ里を發見したと云ふ實例の多いことは、人のよく知る通りである。九州では肥後の五箇庄、日向の奈須及び米良(めら)などは今もつて好奇の目をもつて見られ、周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)は、天文の頃獵師の發見した隱里だなどと云ふが、その多くのものやはり東の方にあつた。例へば羽前と越後の境の三面(みおもて)、岩代信夫郡の水原、同伊達郡の茂庭(もには)なども其だと云ふ。水原は谷川に藁が流れて來たので之を知り、よつて水藁と名づけたと云ふ話があり、茂庭はアイヌ語かと思ふが、始めて役人が往つてみたときには村長が烏帽子を着て居たなどゝ云ふ話もある。この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ。會津と越後の境大沼郡本名村の三條と云ふ部落などは、越後の方とのみ交通していて福島縣の人は存在を知らず、明治九年の地租改正の時始めて戸籍に就いたと云ふ。語音が會津式の鼻音でないために三條の鶯言葉などと言はれて居る。江戸の鼻先の武州秩父でさへも、元文年間に、始めて見出した山中の一村があつた。雨後に谷川に椀が流れて來たのでこれを知つたと云ふなどは一奇である。此他何時となく里を慕つて世に現われた村で、地方(ぢかた)役人の冷やかな術語では隱田(おんでん)百姓と稱し、亂世に立ち退いて一門眷屬とともに孤立經濟を立てゝ居たと云ふものが、まだ幾らともなく山岳方面にはあつたやうである。

[やぶちゃん注:「肥後の五箇庄」「ごかのしょう」(現代仮名遣)は「五家荘」とも書き、現在の熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この一帯(グーグル・マップ・データ)。

「日向の奈須及び米良(めら)」後者は現在の宮崎県児湯郡西米良村附近(グーグル・マップ・データ)。前者は、その北の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)辺りか((グーグル・マップ・データ))。よく判らぬ。椎葉はウィキの「椎葉によれば、『伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされ』、建久二(一一九一)年、『追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するとい』い、この一帯はその後の『戦国時代には那須氏が支配して』いた。所謂、隠田集落村である。

「周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)」「都濃」は「つの」と読む。。現在の周南市須々万(すすま)本郷・須々万奥。附近(グーグル・マップ・データ)。

「天文」一五三二年~一五五五年。室町末期。

「羽前と越後の境の三面(みおもて)」現在の新潟県村上市三面。(グーグル・マップ・データ)。

「岩代信夫郡の水原」現在の福島市松川町水原。(グーグル・マップ・データ)。

「同伊達郡の茂庭(もには)」現在の福島県伊達郡川俣町小島茂庭。(グーグル・マップ・データ)。

「茂庭はアイヌ語かと思ふ」ブログ「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」の仙台のアイヌ語地名に茂庭について、『北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ』とある。

「この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ」だから、何だ! 柳田國男! 厭な奴っちゃなあ! お前は! 文化から取り残された民の非業の死をかく平然と書きたてて、何が面白いかッツ!!!

「大沼郡本名村の三條」現在の福島県大沼郡金山町本名。(グーグル・マップ・データ)。三条は廃村となって現存しない。

「明治九年」一九八七年。

「三條の鶯言葉」もときち氏のブログ「tabi & photo-logue vol.2」の霧来川・三条は平家の落人集落ではないが非常に詳しく、しかもどこかの学者の記載と違い、心が籠ってしみじみとしてよい。個人ブログ「真冬本線:会津線・只見線の途中下車のシリーズ 〔ひとり旅〕」の秘境  奥会津の金山町 "廃村になった三条部落" 2016には、『この三条部落の言葉の発音は独特であり』、『北陸から京都方面の尻上がりのアクセントにどこか似て』、『三条のウグイス言葉、三条の京言葉と云』ったとある。孰れも貴重な記録である。

「元文」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]

 平家の落人の末と稱して小松を名乘り、あるいはまた重盛の妹が姪に當るやうな尼公の信心話を傳へ、世上の同情と尊敬とを博せんとした僻村は大部分右のごとき隱れ里の發達したものらしい。或は同じ平家でも平親王將門の子孫郎黨の末と云ふものがある。信州には三浦氏の落武者と云ふのが處々にある。御嶽南麓の瀧越部落のごときも其一であるが、地名のミウレは方言で水上を意味するらしく、ちつとも相模平氏の流れらしい證據は無い。會津の南半分から下野と越後へかけて、高倉宮以仁王御潛行の故跡充滿し、渡邊の唱や競や猪早太等、およそ賴政の家來で強さうな人は皆網羅し、しかも一方ある部分は畏れ多くも高倉天皇の御事として、其御陵の事まで云々して居るのは、西の方の府縣や平家谷と云へば忽ち安德天皇二位尼の御隱家と主張するのによく似て居る。歷史家諸先生のとんだ御迷惑をせられるのも恐らくは此點で、現に宮内省でも御陵墓參考地と云ふやうな不徹底な榜示を、何箇所となく立てゝ置かれる。蒹葭堂雜錄の中には安德帝御舊跡と云ふ地を七八箇所も擧げて居て、今日では更に若干を增加して居る。自分は之に就いても少々の意見があるが、關係地方の人たちの心持を考へると、やはり十分に之を論辯することが出来ぬ。仍て爰には只此口碑と隱里椀貸と、どうしても關係のある部分だけを述べて置き、其以外は最近の機會に、今些し閑靜な處で發表したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:慇懃無礼な最後の謂いが甚だ気に入らぬ。

「御嶽南麓の瀧越部落」現在の長野県木曽郡王滝村滝越。(グーグル・マップ・データ)。同地図にはまさに「三浦旅館」という宿がある。

「地名のミウレは方言で水上を意味する」先に引いた松永美吉著「民俗地名語彙辞典」には、確かに、『ミウレ 中部日本の山地で水上をいう』とある。

「渡邊の唱や鼓や猪早太」ちくま文庫版全集では『唱(とのう)や競(きおう)や猪早太(いのはやた)』とルビがある。渡辺唱(となう・とのう)・渡辺競(きおう・きそう)も猪早太(いの はやた:本姓は猪鼻とも)源頼政の家臣の名。

「蒹葭堂雜錄」大坂の雑学者として聞こえた木村蒹葭堂(けんかどう 元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)の手になる江戸末期の考証随筆。安政六(一八五九)年刊。全五巻。著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理・抜粋して刊行した。ここで柳田國男が言っているのは同書の巻之四の冒頭にある「筑前國長命婦人(をんな)幷(ならびに)螺(ほらの)由緒」という長大な考証の終りの方。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認できる。そこで木村は安徳天皇の墓所として、丹波・豊前(『かくれ簑の里。安德庵』としている)・肥後(二箇所)・日向・因幡・対馬の七つ(本文は肥後を一つと数えて六箇所とする)を挙げている。]

2018/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一一

 

     一一

 

 隱れ里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。只どうしても些しく言はねばならぬのは、西日本の隱れ里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々其が尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。薩藩舊傳集には無宅長者の話がある。有馬と云ふ薩摩の武士、鹿籠(かご)の山中に入つて、四方の岩が屛風の如く取繞らす處を見つけ、獨り其内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國(かくれぐに)を見ることがある。地を淸め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねて其地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。[やぶちゃん注:←句点は底本にはないが、私が特異的に補った。]肥後では舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)と云ふ邊に昔仙家があつて、仙人の井と云ふが獨り遺つて居る。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見ると云ふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。

[やぶちゃん注:「薩藩舊傳集」「さっぱんきゅうでんしゅう」(現代仮名遣)と読む。薩藩叢書刊行会が「薩藩叢書」の第一編として明治四一(一九〇八)年に刊行したもの。

「無宅長者」不詳。しかしどうもこの話、胡散臭い。後に出る「鹿籠」というのは鹿籠村で現在の枕崎市であるが、ここには天和年間(一六八一年~一六八三年)に郷士有川夢宅なる人物によって鹿籠金山が発見されて、島津藩が開発している。「眞冬にも雪積らず」なんて言ってるが、もともと鹿児島のこの辺り、雪なんざ、十数年に一度降るか降らぬかだ。「暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた」ってのもイヤに金山と絡むぜ! 椀貸伝説なんぞより、そっちの方が文字通りの「金」気(きんき)がプンプンでおはんど! 柳田っつサ!

「日向」「霧島の山中」「隱國」不詳だけどね、しかし、このフレーズ、一目瞭然、「天孫降臨」「日向」「高千穂」「天の岩戸」じゃあねえの?! 柳田っサ! これはそっちの神話で解明した方がよかごはんど!

「肥後」「舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)」現在の熊本県合志(こうし)市幾久富(きくどみ)油古閑(あぶらこが)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「群塚」は不明。何だか、この名前、古墳群クサくね? しかも、柳田先生、先生の嫌いな、先生が椀貸伝承では結びつけるのを激しく嫌悪してた古墳が、この地域の北西には群れ成して、ありますゼ!(このグーグル・マップ・データを見よ! 地図上の右中央下(東南)部分が油古閑)

「佐渡の二つ山」既出既注。]

 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることのできぬ閑靜な山陰があるので、之に託して色々の話を傳へたものと見えるが、別に又同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつて甞て旅僧が之に入り宮殿樓閣を見たと云ふ話もある。尾張名古屋の隱里と云ふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某と云ふ若侍が、鷹狩に出て法(かた)の如き隱里を見たこと沙汰無草の中に見えて居る。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康永の參詣記にあると神都名勝志に之を引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬に由つて翌年の豐凶を占う風あること京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したと云ふ話が勢陽雜記に出て居る。近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷と謂ひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたと云ふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根に在つて亦一個の鼠の隱里であつたと云ひ、「昔此所に鼠ども集まり居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひをなし、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らいをまなぶ云々」と因幡民談にあるのである。

[やぶちゃん注:「鹽津村」現在の石川県七尾市中島町(なかじまちょう)塩津(しおつ)、七尾西湾の湾奧北の位置。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船隱し人隱し」不詳。

「同國小木の三船山」鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)字小木(おぎ)の御船神社のある丘のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近頃の市史」東京帝国大学教授上田萬年を顧問として大正四(一九一五)年から翌年にかけて刊行された「名古屋市史」全十巻。本「隱れ里」の初出は大正七年の『東京日日新聞』である。但し、同書を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、地名として出るそれは少しも「謎のやうな話」ではなかった。不審。

「安永三年」一七七四年。

「沙汰無草」「さたなしぐさ」。随筆。詳細書肆不明。

「伊勢」「山田の高倉山」不詳。関係あるかどうか知らんが、伊勢神宮北境内外の三重県伊勢市八日市場町に「神宮司庁神宮高倉山幼稚園」というのはある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「康永」南北朝期北朝方の元号。一三四二年から一三四四年まで。

「神都名勝志」東吉貞・河崎維吉(いきち)著。明治二八(一八九五)年吉川弘文館刊。

「多氣郡齋宮村」「さいくうむら」と読む。現在の三重県多気郡明和町の南半分に相当する。素敵な「齋宮(さいくう)の森」は明和町斎宮に一応「斎王(さいおう)の森」(ここ(グーグル・マップ・データ))として現存する。私は正直、「いつきのもり」と読みたかったなぁ。

「御影供」「みえく」と読む。東寺のそれは真言宗祖弘法大師御影供で、空海が入定(にゅうじょう)した三月二十一日(承和二(八三五)年)の「正(しょう)御影供」法会のそれ。これは祖師空海の御影を奉安し、その報恩謝徳のために修するものである。この叙述から見ると、東寺のそれでは隠れ里から何かの供物を搬入して供えたということらしいが、よく判らぬ。

「勢陽雜記」江戸後期の山中為綱の編輯になる伊勢地誌。

「近江」「犬上郡長寺の茶臼塚」現在の滋賀県犬上(いぬかみ)郡甲良町(こうらちょう)長寺(おさでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「茶臼塚」は不詳。

「東山靈山」ようわかりまへんけど、今の京都府京都市東山区下河原町の、京都東山霊山観音(りょうぜんかんのん)はんのあるとこ辺りでっしゃろか? ここでおす(グーグル・マップ・データ)。

「因幡岩美郡大路村の鼠倉」現在の鳥取市の、この附近(グーグル・マップ・データ)であろうと思われる、旧米里(よねさと)地区である。「鼠倉」と「米里」とは相性の好い地名ではないか。

「因幡民談」「因幡民談記」因幡国に関するものとしては最古とされる史書。貞享五・元禄元(一六八八)年完成し。全八部十巻。原本は焼失して現存しないが、写本が複数伝えられている。作者は鳥取藩の小泉友賢(元和八(一六二二)年~元禄四(一六九一)年)元は岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれたが、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになってそれに従い、因幡国へ移った。二十歳の頃、『京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ』。三十一歳から五年に亙って『鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った』という。彼は二十年を『費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集し』それを纏めたものが本書である(以上はウィキの「因幡民談記」に拠った)。電子化画像が複数あるが、管見下限りでは今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。孰れにせよ、これは所謂、「鼠浄土」譚の一つであることは間違いない。]

 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、ここでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。ただし鼠倉又は長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたと云ふ證據にはなるのである。攝陽群談の傳ふる所に據れば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。卽ち豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)の南に當つて、昔此地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるに足らずと云ふこと無しと雖も、終に亡滅して名のみ隱里と云へり。今も此地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふと云ふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記して居る。後世に至つて隱里の愈々人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、之に由つてせめて身の幸運を賴んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ケ窪でも、享保の始頃、ある百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふに之を知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。其家果して大に富み、後は千石餘の高持となつたと云ふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いて居た男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたと云ふ結末と、同調異曲の言傳へのやうである。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」岡田溪志が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年完成した摂津国の地誌。全十七巻。江戸時代の摂津地誌としては記述が最も詳しい。

「豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)」恐らくは現在の大阪府池田市木部町(きべちょう)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「武庫郡の打出」不詳。武庫郡は現在の西宮市の大部分と、尼崎市の一部及び宝塚市の一部に当るが、「打出」という地名は見出せなかった。

「笹ケ窪」既出既注であるが、再掲しよう。現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 世に出た「月の都」

 

     世に出た「月の都」

 

 『小日本』には創刊号から斎藤緑雨の小説「弓矢神(ゆみやがみ)」が作者不詳として連載された外、居士も卯之花舎(うのはなや)の署名の下に「月の都」を掲げた。自ら「まづ世に出づる事無かるべし」といった「月の都」が、意外な機会で世に出ることになったのである。この原稿は露伴氏の一閲を乞うたり、羯南翁や自恃(じじ)居士、二葉亭四迷の手に渡ったという稿本のままであるが、『小日本』に掲げるに当って更に推敲を重ねたものか、その辺の消息はわからない。とにかく現在伝わっている「月の都」は『小日本』所載のものである。二年前全力を傾注して世に問おうとした小説が、自己の主宰する新聞紙上に現れる様子を、居士はどんな気持で眺めつつあったか、当時の書簡などを点検しても、この点に触れたものは見当らぬように思う。「月の都」は三月一日を以て完結した。「弓矢神」と違って、挿画は時折入るに過ぎなかったようである。

[やぶちゃん注:「斎藤緑雨」(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は小説家・評論家。本名は賢(まさる)。伊勢国神戸(かんべ。現在の三重県鈴鹿市内)の生まれ。別号に「江東みどり」「正直正太夫,」「登仙坊」など。仮名垣魯文に認められて『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆、坪内逍遥・幸田露伴・森鷗外らとも相識った。本格的な批評は「小説八宗」(明治二二(一八八九)年発表)からで、当時の作家を見事に裁断、「初学小説心得』」「正直正太夫死す」(とも翌明治二十三年)もパロディ精神旺盛である。明治二四(一八九一)年に小説「油地獄」を『国会』に、「かくれんぼ」を『文学世界』に書き、力量を示した。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など、思わず息を呑む。鷗外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加し、樋口一葉とも僅かな期間であったが、交友があり、一葉没後の「一葉全集」は緑雨の校訂になる。『万朝報』に連載「眼前口頭」(明治三一(一八九八)年から翌年)を書く。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(「青眼白頭」明治三三(一九〇〇)年)の文句は当時の彼の心意気を示す言葉として、よく知られる。転居を繰り返し、本所横網町で病没する直前には、友人馬場孤蝶に「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段廣告仕候也」という広告文を口述している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「自恃(じじ)居士」元官僚でジャーナリストであった高橋健三。既出既注。当時は大阪朝日新聞客員論説委員(主筆と同格待遇)。]

 「月の都」に次いで居士は「一日物語」という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨澹たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥に首肯し得るものであったが、「一日物語」は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないかと思われるところがある。当時学業を一擲して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携っている居士としては、小説に思(おもい)を凝(こら)しているような時間を持合せなかったのであろう。

 新聞小説としての「月の都」は、西鶴張の文章に馴れていた当時にあっても、相当むずかしかったに違いないが、「一日物語」の方は最初から新聞の読者を対象としただけに、文章も大分わかり易くなっている。居士が前年歩いた奥州の天地を舞台にしてあるけれども、得体の知れぬ女に導かれて山中の孤屋に宿る一段は、固より居士の空想に成ったもので、この辺に漂う空気は露伴氏の『対髑髏(たいどくろ)』あたりと哀相通ずるものであろう。「一日物語」の筋は発展しそうで発展せず、結末において最初の筋に還るのであるが、場面に何らかの山を作り、場面に変化あらしめたのは、新聞小説における用意だろうと思う。この時の署名は黄鸝村人(こうりそんじん)であった。

[やぶちゃん注:「対髑髏」幸田露伴が明治二三(一八九〇)年年一月から二月にかけて雑誌『日本之文華』に発表した、私の好きな幻想怪奇短篇小説(初出時のタイトルは「縁外縁」)。菊池真一サイト内で読める。

「黄鸝」は高麗鶯(ススズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis)の漢名。]

 居士はこの時分比較的健康状態がよかったらしい。こういう小説を執筆する傍、原稿の検閲、絵画の註文をはじめ、編輯上の仕事に鞅掌(おうしょう)しながら、余力があると艶種(つやだね)の雑報などにも筆を執ったという。二月十七日虚子氏宛の端書に「東京圖書館へ御出掛の節火事消防火消し等に關する書物御調査被下(くだされ)まじくや、もし出來るなら早き方よろしく御坐候。是非ともと申わけには無之候」というのがあるのは、『小日本』の材料として必要だったのであろう。日々の仕事を渋滞なく処理するが如きは、むしろ居士得意のところで、筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)の裡(うち)に安(やすん)じて自己の責任を果して行ったに相違ない。

[やぶちゃん注:「鞅掌(おうしょう)」名]忙しく立ち働いて暇(いとま)のないこと。この場合の「鞅」は「担う」の意。

「艶種(つやだね)」男女間の情事に関する話題。

「筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)」物を書くのに慌ただしく忙しいこと。]

 『小日本』の編輯に任ずるようになって、居士の生活にも多少の余裕を生じた。三月八日大原恒徳氏宛の書簡に「私月俸三十圓迄に昇進仕候故(つかまつりさふらふゆゑ)どうかかうか相暮し可申(まうすべく)とは存候得共(ぞんじさふらえども)、こんなに忙がしくては人力代に每月五円を要し、其外社にてくふ辨當の如きものや何やかやでも入用有之(これあり)、又交際も相ふゑ(芝居抔にも行き申候)候故三圓や五圓は一朝にして財布を掃(はら)ふわけに御座候。近來は書物といふもの殆んど一册も買へぬやうに相成申候」とある。社会の人となるに及んで、書物が買えなくなるというのは、必ずしも居士のみの歎でないような気がする。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(30) 禮拜と淨めの式(Ⅷ) 一年神主

 

 起原の上から、淨めの式と關聯して、神道の種々な禁慾的な行ひがある。神道は必らずしも本來禁慾的な宗教てはない。則ち神々に肉と酒とを掠げる位である。そしてその定めたる克己の形は、たまたま古來の慣習と普通の品位とが要する位の程度のものに過ぎない。が、それにも拘らず、信者の中には、特別な場合に、非常な峻嚴な事を行ふものもある、――峻嚴とはその内に冷水浴の事が多く包藏されて居るのである。熱心なる禮拜者が、裸體で、冬の最中に氷の如くに冷い瀧の下に立つて、神に祈るといふやうな事は決して珍らしい事ではない……。併しこの神道の禁慾主義の尤も不思議な點は、今なほ邊阪の地方に行はれて居る慣習に依つてよく解る。この慣習に依ると社會の組合は年每にその市民の一人を選び、其者をして他のものに代つて、全然身を神々に捧げさすのである。その獻身の期間、此仲間の代表者は、その家族から分かれ、婦人に近づかず、戲れ、慰みの場所を避け、神の火を以て料理された食物のみを食ひ、酒を禁じ、一日幾囘も新鮮な冷い水の中に浴し、或る時間の間特別な祈禱をあげ、或る夜には徹宵祈願をしなければならないのである。そのものが特殊の時期の間、上記のやうな禁慾と淨めの務を果たし終ると、それは宗教上自由の身となり、つづいて別の人がそれに代って選ばれる。それでその地方の繁榮はその代表が、定められたる務を正確に守るに依ると考へられて居り、若し何か公共の不幸が起る事があれば、その代表者が誓を破つたのてはないかと疑はれる。昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺されたものである。私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつたが、その地方の代表は Ichinen gannushi 『一年願主』 one-year god-master. と呼ばれて居り(ガンヌシならば願主と考へられるが、ゴッド・マスタなれば神主である、暫くそのままにして置く)、その代表となって贖ひをする期間は十二箇月である。私の聞いた處に依ると、この務に選ばれるものは、通例年長者てあつて――靑年は減多に選ばれないさうである。古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た。この慣習に關する説話は、日本についての支那の記錄の内にあつて、それは日本の有史以前に始まつた事であるといふ。

[やぶちゃん注:丸括弧部分は訳者戸川(秋骨)明三の割注。非常に正しい疑義で、これは「一年神主」である。なお、「である」の後の読点はママである。これは別に「当屋」「頭屋」などとも称し、八雲も微かに、民俗社会的な合理的好意的解釈として「昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺された」と仄めかしているように、古代に於いては、或いは、地域によっては、祭祀が終了した時点で、追放されたり、殺されたりしたケースも多々あったと考えてよい。実際、「一年神主」にはそういう属性を本質として持った場合が私は多かったと考えており、そうした生贄としての結末を用意する時には、共同体の内部からその人物を選ぶのではなく、外界から訪れた放浪者や異邦人を特に選び(その殆どは賤民として差別された階級に属すると見做される者)、それが生贄であることを神は無論、共同体内の誰が見ても一目瞭然であるような処理を施した。それが例えば、片眼を潰すスティグマであったのであろう。柳田國男もそうした識別的行為が古えにあったことを「一目小僧その他」で(リンク先は私の同著作の電子化注〈作業中)の一部)、微かにシンボライズして述べているし、実際、近世及び近代初期の地方の祭祀の中には、そうした形で「一年神主」ならぬ、即席の消耗品としての生贄用の代替人を作って、村落の境界(現実とは異なり、日常とは無関係な異界へのトバ口に相当)である橋や河原に於いて無残に突き落したり、暴行を加えて半殺しにして置き去りにしたブラッキーな祭りが、現に行われていた。或いは、心優しい八雲にそれらを語ることを彼の周囲の誰彼は遠慮したかも知れず、また、八雲自身もそうした残虐性を肯定し得ないであろうから、幸いにもそうした言及には至っていないが、しかし、塞(さい)の神の古形ともされる(私は寧ろ、さらに溯ったごくごく古形のアニミズム信仰と思われる)ミシャグジウィキ記載には、『この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また』一『年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に』、『人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る』ともする。八雲は「一年神主」には「靑年は減多に選ばれない」と記している。四歳で母と生き別れ、父方の大叔母の下で厳格なカトリック教徒として強いて育てられた孤独な彼が、この伝承を知ったら、きっと卒倒したのではないかとも私は想像するのである。

「私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつた」昭和五〇(一九七五)年(四十七版)東京堂出版刊柳田國男監修「民俗学辞典」の「神役(カミヤク)」の項に、『今日では神主は單なる職員の一人ということになつているが、出雲美保神社の一年神主の如き、祭祀の中樞におかれて忘我の境に入り、時に託宣を傳えるというのが本來の神主である』とある。

「古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た」相当する呼称は確かではないが、前に引いた「民俗学辞典」の同じ「神役」の項に出る、「日本書紀」の「神代記」や「神武記」に出る「齋主」(いはひぬし(いわいぬし))・「齋(いはひ(いわい))の大人(うし)」を指すか。

「日本についての支那の記錄」不詳。卑弥呼の妖しい宗教的祭儀を記した「魏志倭人伝」を指すとしても、ここに記された内容とは一致しない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(1) 序

 

    第十二章 分布學上の事實

 

Kajitutosyusitonosanpu

[果實と種子との散布]

[やぶちゃん注:この図は講談社学術文庫版ではカットされている。キャプションは右上から左下へ、

「もみぢ」・「ぬすびとはぎ」・「ほんせんくわ」

「なんてん」・「きんみづひき」・「こくさぎ」

「かたばみ」・「やぶじらみ」・「すみれ」

「あれちのぎく」・「やし」

である。以下、総て学名を示す。丸括弧内は漢字表記の一例を示す。

「もみぢ」(楓・紅葉)植物界被子植物門双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ムクロジ科カエデ属 Acer に属する種群の総称。多くはアジアに自生し、約百二十八種が記載されている。

「ぬすびとはぎ」(盜人萩)マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属亜種ヌスビトハギ変種ヌスビトハギ Desmodium podocarpum subsp. oxyphyllum

「ほんせんくわ」(鳳仙花)フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina

「なんてん」(南天)キンポウゲ(金鳳花)目メギ(目木)科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「きんみづひき」(金水引)バラ目バラ科バラ亜科キンミズヒキ属シベリアキンミズヒキ変種キンミズヒキAgrimonia pilosa var. japonica

「こくさぎ」(小臭木)ムクロジ目ミカン科コクサギ属コクサギ Orixa japonica

「かたばみ」(方喰・酢漿草)カタバミ目カタバミ科カタバミ属Oxalis亜属 Corniculatae 節カタバミ Oxalis corniculata

「やぶじらみ」(藪虱)バラ亜綱セリ目セリ科ヤブジラミ属ヤブジラミ Torilis japonica

「すみれ」(菫)

「あれちのぎく」(荒地野菊)キク目キク科キク亜科 Astereae 連イズハハコ(伊豆母子)属アレチノギク Conyza bonariensis

・「やし」(椰子)被子植物門単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae に属する種群の総称。熱帯地方を中心に二百五十三属約三千三百三十三種がある。本邦でもシュロ(シュロ属 Trachycarpus)など六属六種が自生する.

 

 動植物各種の地理的分布を調べて見ると、生物進化の證據といふべき事實を發見することが頗る多い。先づ動植物の移動する方法を考へるに、之には自ら進んで移るのと、他物のために移されるのとの二通りがある。植物は通常固著して動かぬもの故、その移動は總べて他物によるが、種子などは種々の方法によつて隨分遠方までも達することが出來る。「たんぽぽ」の種子の風に飛ばされることは人の知る通りであるが、種子にはかやうな毛が生じたり、翅狀の附屬物が附いてあつたりして、特に風に吹き散らされるに都合の好い仕掛けの出來たものが多い。また或る種類では果實の色が美しく、味が甘いので鳥が之を食ひ、種子だけが諸方へ散るやうになつて居る。その他椰子の果實などは、海に落ちたものが潮流に隨つて非常に遠い島まで流れて行くこともある。種子の時代には活動もせぬ代りに何年も何十年も死にもせず、全く浪や風次第で何處へでも生きながら移される故、植物は自身に運動の力が無くてもその傳播することは却つて動物よりは容易で、迅速である。動物の方には通常かやうな時代がないから、運動の力はあつても種々の事情で制限せられ、何處までも行くことの出來ぬものが多い。小い蟲類は隨分遠方までも風に吹かれるもので、陸地から何百里も隔てた大洋の中央にある汽船に、蝶が澤山に飛び込んだこともあるが、稍々大きな動物になると、風に吹き飛ばされて遠方へ行く望のあるのは、鳥と蝙蝠だけに過ぎぬ。また常に陸上に生活する動物は長く水中に居れば溺死を免れぬから、到底潮流に隨つて遠方まで流されて行くことも出來ぬ。それ故、植物の傳播に最も有力な風と潮流とは稍々大きな動物に對しては全く無功である。倂し之はたゞ一般から論じただけのことで、尚詳細に調べて見ると隨分思い掛けぬやうな方法により、動物が一地方から他の地方に移ることがある。陸上の獸類が廣い海を越えて隣の島に移ることは先づ出來ぬことであるが、絶對にないとは斷言が出來ぬ。また現に熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある。熱帶地方の大河では、洪水の際に上流の岸が壞れ、そこに生えて居た樹木が筏の如くなつて流れ下ることが常にあるが、或る時南アメリカモンテヴィデオ市の眞中にかやうな筏に乘つて黑虎が四疋も漂着し、市中大騷ぎをしたこともあるから、獸類が之に乘つたまゝで海へ流れ出し、隣の島に著したとすれば、隨分移住の出來ぬこととも限らぬ。その他木片が海岸に流れ著くことは常のことで、千島邊では之を拾ひ集めて一年中の薪とし、尚餘る位であるが、若し斯かる木片に昆蟲の卵などが附いて居て、萬に一も尚生活力を保つて居たならば、之も打ち上げられた處で繁殖せぬとも限らぬ。特に今日では人間の交通が盛になり、荷物の運輸が夥しいから、之に紛れ込んで知らぬ間に或る地方に入り込んだ動植物も既に澤山にある。

[やぶちゃん注:「熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある」二〇〇九年八月、礼文島と利尻島に行った際、「利尻島郷土資料館」で、そのヒグマの剥製を見た。こちらでその「解説シート」(PDF)が読める。それによれば、渡って来たのを発見されて撲殺されたのは(リンク先にその際の写真が載る)、明治四五(一九一二)年五月二十四日のことで、の成獣で体長は二・四メートル、体重三百キログラムであったという(当時の新聞記事によれば、同年五月二十二日頃には既に渡島していたらしく、推定では利尻島の対岸天塩から島に泳ぎ渡って一度上陸、その後に再び海に入り、再び上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを漁師たちに発見されたものらしい)。最終捕獲地である北海道利尻郡利尻富士町鬼脇旭浜(ここ(グーグル・マップ・データ))から利尻隧道を最短で北海道内地と計測しても十九キロメートル強ある。私は剥製になった彼を見ながら、彼がどんな思いとどんな目的でこの海を渡ったのかを考え、その悲惨な最期に思いを致した時、何か、しみじみとした思いに沈まざるを得なかったのを思い出す。

モンテヴィデオ市」モンテビデオ(スペイン語: Montevideo)は南アメリカ南東部に位置するウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)の首都。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑虎」発見された場所から見て、人の飼っていたものが逃げ出したものでないとするなら、哺乳綱食肉目ネコ型亜目ネコ科ヒョウ亜科 Pantherini 族ヒョウ属ジャガー Panthera oncaのに黒変種個体(比較的しばしば見られる)群(家族群)か。

 

Sigikarasugai

[鴨の足に挾み著いた烏貝]

[やぶちゃん注:脚が挟みこまれたしまったもので、事実として他者から聴かれたものではあろうが、この絵を挿入する際の丘先生には、当然、かの「戦国策」の「燕策」に載る故事「漁夫の利」が念頭にあられたことは想像に難くない。これは講談社学術文庫の絵を採った。

「鴫」チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae

「烏貝」「からすがい」であるが、これは斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種を広義に指す。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」 の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。]

 

 特に意外の傳播法の具はつたものは、淡水産の動物で、微細な下等動物のことは略し、稍々大きなものだけに就いていつても、その例は隨分多い。貝類の子は何にでも介殼を以て挾み著く癖のあるもので、水鳥の足・羽毛等に附著して、なかなか遠方まで行くことが常であるが、嘗て鴫の足に大きな鳥貝の挾み著いて居るのが、獵で取れたこともあるから、生長し終つたものでも往々この方法で移轉するものと見える。また魚類の卵も同じく鴨や雁の足に泥と共に附著して遠方へ行くもので、これらの水鳥の足を水で洗ひ、その水を器に入れて置くと、實に種々の動物がその中で生ずるが、之は孰れも卵・幼蟲等の形で泥の中に混じてあつたものである。また颱風の際に貝や魚が水と共に卷き上げられ、他の場所に降つて落ちることがある。著者の友人は現に斯くして降つた泥鰌を拾ひ取つた。斯くの如く種々の傳播法があつて、常に諸地方のものが相交るから、淡水産の動物はどの國のも大同小異で、同一の種類がヨーロッパにも日本にも居ることが決して珍しくない。鯉・鮒などはその例である。ダーウィンも世界週航の際、南アメリカで淡水産の微細な動物を採集して、そのイギリス産のものに餘り善く似て居るのに驚いたというて居るが、かやうな微細な種類になると、恰も植物の種子に相當する如きものが生じ、この物が風に吹かれて何處へでも達する故、世界中到る處に同種同屬のものが産する。

 斯くの如く、動物の傳播のためには種々の手段があるが、淡水産の動物を除き、陸上の鳥類・獸類だけに就いて考へて見るに、獸類が狹い海峽を游いで渡ることは往々あるが、廣い海を越えて先の島まで行くことは偶然の好機會が無ければ出來ぬこと故、實際に於ては先づないといふて宜しい。また鳥の方は獸類に比べると移轉は遙に容易であるが、同じ鳥類の中にも飛ぶ力の強いものもあり、弱いものもあり、翼の力には各種にそれぞれ制限がある故、遠く隔たつた處に移るには、風の力によらなければ、到底出來ぬものが多い。かやうに鳥獸の類では、海を越えて移ることは餘程困難で、一地方の産と他の地方の産とが混じ合ふことも隨つて甚だ少いわけ故、動物分布の有樣を調べるに當つては、先づこれらの動物から始めるのが便利である。次に述べる所も、主として鳥類・獸類の分布に關することである。

 動物の分布を論ずるに當つて豫めいうて置くべきは、土地の昇降、海陸形狀の變遷のことである。今日陸である處は決して昔から始終陸であつたとは限らず、また今日海である處も決して昔から始終海であつたとは限らぬ。桑田の變じて海となることは古人も既に注意した所で、我が國でも東海岸の方には年々新しい田地が出來るが、西海岸の方は少しづ降つて海となり、有名な安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた。それ故、今日は相離れて居るが、昔陸續(りくつゞき)であつた處もあれば、もと相離れて居た處が後に連絡する處もある。今日の地質學者一般の説によれば、地殼の昇降は遲いながら曾て絶えぬが、大洋の底が現れて大陸となつたり、大陸がそのまゝ急に降つて大洋の底となる程の大變化は無かつたらしい。卽ち今日の大陸の大體の形だけは、既に餘程古い頃から定まつて、その後はたゞ地殼の昇降により、海岸線の模樣が常に變化し來つただけのやうに思はれる。之によつて考へて見ると大陸と島との間、または島と島との聞の海の深さを測つて見て、餘り深くない處は元は地續であつたものと見倣して差支なく、また、間の海が非常に深ければ之は元來全く離れて居て一度も互に連絡しなかつたものと見倣すのが至當である。たゞ表面から見ると、どこの海も單に深いと思はれるだけであるが、その深さを數字で表せば、處により實に非常な相違で、日本・支那などの間はどこでも大抵百尋[やぶちゃん注:長さの単位である「尋」(ひろ)は五尺(約一・五一五メートル、乃至、六尺(一・八一六メートル)であるが、水深に用いる場合は六尺とされるので、ここは百八十一・六メートルとなる。]位に過ぎぬが、奧州の海岸を少し東へ距つた處では、海の表面から底までの距離が二里[やぶちゃん注:七千八百五十四・五二メートル。]以上もある。尤も二里以上といふ深さの處は餘り多くはないが、凡そ大洋と名の附く處ならば、大概一里[やぶちゃん注:三千九百二十七・二六メートル。]以上の深さは確にある。二里と百尋とではその間の割合は四十倍以上に當るから、殆ど四尺と一寸程の相違であるが、大洋に比べると大陸沿岸の海の深さは實に斯くの如くで、殆ど比較にもならぬ。それ故、假に海水が二百尋も低く下つたと想像すると、日本の列島は勿論、ジャヴァスマトラボルネオ等の東印度諸島は皆アジアと陸續になつてしまひ、島として殘るのは遠く陸地を離れた、グァムサイパンマーシャル群島の如き所謂南洋の孤島ばかりである。大陸の岸に沿うた島は、かやうに考へて見ると、大陸と頗る關係の密なもので、實際種々の點から見ても、もと大陸の一部であつたものが後に離れたといふのが確なやうである。

[やぶちゃん注:「安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた」現在、かの安宅の関所跡は石川県小松市安宅町の(グーグル・マップ・データ)に史跡としてあるが、丘先生の言われるように、海岸線の変動などによって、ここよりも二、三里沖の海中であったとも言われている。]

 以上はその道の專門學者の研究した結論で、今日皆人の信ずる所であるが、現在の動物分布の有樣を調べ、それをこの考に照し合せて見ると、生物進化の證據といふべき事實を、到る處に發見することが出來る。例へば生物各種は皆共同の先祖より樹枝狀に進化して分かれ降つたものとすれば、獸類も蛙類も各々その一枝をなすこと故、世界中の獸類・蛙類は各々その共同の先祖から降つたものでなければならず、而してその子孫たるものは生活の出來る處ならば、何處までも移り廣がるべきであるが、兩方とも飛ぶことも、長く泳ぐことも出來ぬもの故、海濱に達すれば、そこで移住力が止まり、最早進むことは出來ぬ。それ故、大洋の眞中にある如き、初めから大陸と全く離れて居た孤島には、到底移ることが出來ぬ理窟である。所で、實際分布の有樣は如何と調べて見ると、全くその通りで、大洋中の離れ島には、發見の當時、獸類・蛙類の居た例がない。海鳥は隨分多く居るが、その他は風で飛んで來る昆蟲の類か、然らざれば蟹・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]の如き海から陸上に移つたものばかりである。之は決して斯かる島は獸類・蛙類の生活に適せぬからといふ譯ではない。後に牛・山羊等を輸入した處では、孰れも盛に繁殖したのを見ると、寧ろ或る獸類の生活には最も適當な場所といはねばならぬ。斯く適當であるに拘らず、實際全く獸類を産せぬといふことは、進化論から見れば必然のことであるが、天地開闢の際に適當の場所に各々適當の動物が造られたといふ説とは全然矛盾する事實である。

2018/02/21

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(5) 四 所謂自然分類 / 第十一章 分類學上の事實~了

 

     四 所謂自然分類

 

 動植物の種屬を分類するには、如何なる標準によつても出來ることで、恰も書物を分類するに、出版の年月によつても、版の大きさによつても、國語分けにも、著者の姓名のいろは分けにも出來る如く、雄蘂の數・雌蘂の數・葉の形または外形・住處、運動法等の孰れを取つても出來ぬことはないが、斯くして造つた分類表は、所謂人爲分類で、檢索に多少の使があるだけで、單に目錄としての外には何の意味もない。之に反して、當今、分類學を研究する人の理想とする所は、所謂自然分類で、完成した曉には各種屬の系圖を一目瞭然たらしめる積りの分類法である。今日の所では生物學者であつて生物進化の事實を認めぬ人は人もないから、分類に從事する人も單に種類の數を多く列擧するばかりでは滿足せず、その進化し來つた路筋に就いて自分の推察する所を述べ、之によつて種屬を組に分ち、同じ枝より起つたものは同じ組に入れ、別の枝より生じたものは別の組に離して、恰も樹の枝を起源によつて分類するのと同樣な心持ちで分類して居るが、之が卽ち所謂自然分類である。素より孰れの方面でもまだ研究の最中故、詳網の所まで少しも動かぬやうな自然分類は到底出來ぬが、大體の形だけは略々定まつたものと見て宜しい。當今の動物學書・植物學書の中に用ゐてある分類は、各々その著者の想像した自然分類で、彼此相比[やぶちゃん注:「かれこれあひくら(かれこれあいくら)」。]べて見ると尚隨分著しく相違した處もあるが、生物全體を一大樹木の形に見倣して分類してあることは、皆一樣である。之だけは最早動かぬ所であらう。また脊椎動物・節足動物・軟體動物等を各々太い枝と見倣すことも皆一致して居るが、之も先づ動くことはない。今より後の研究によつて確定すべきは、之より以下の點のみである。

 この自然分類といふものは生物進化の事實を認めて後に、初めて意味を有するもの故、之を以て直に生物進化の證據とすることは出來ぬが、今日までの分類法の進步を調べると、進化論を認めると認めないとに拘らず、一步づゝ理想的自然分類に近づき來つたことが明である。初は單に外形によつて分類して居たが、解剖學上の知識が進んで來ると、内部の構造を度外視するのは無理であるといふ考が起り、之に基づいて分類法を改め、次に發生學上の知識が進めば、また發生學上の事實を無視した分類は眞の分類でないといふ考が生じ、更に之に隨つて分類法を改め、漸々進んでいつとなく今日の自然分類になつたので、生物進化論が出てから、急に分類法を一變して組み改めた譯ではない。今日では分類を試みるに當つて、初めから進化の考を持つてかゝるが、所謂自然分類の大體は進化論の出る前から既に出來て居て、單に最も適當な分類法として用ゐられて居た、その所へ進化論が出て、それに深遠な意味のあることが初めて解つたといふだけである。

 自然分類その物だけでは、生物進化の證據といへぬかも知れぬが、進化論に關係なく、たゞ一般の生物學知識の進步の結果として出來た分類が、進化論を基礎とした理想上の分類と丁度一致したことは、やはり進化論の正しい證據と見倣さなければならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(4) 三 所屬不明の動植物

 

     三 所屬不明の動植物

 

 現今生存して居る動植物の種類は實に何十萬といふ程であるが、この中から最も相似たものを集めて、各一屬に組み合せ、屬を集めて科を作り、科を集めて目を造ろうと試みると、實際孰れの方へ編入して宜しいやら判斷の出來ぬやうな屬・科・目等が幾らもあることを發見する。それ故、全動植物を二大分類系統の中に奇麗に組み込んでしまはうとすれば、その際所屬の解らぬ屬・科等が幾つか剩つて[やぶちゃん注:「あまつて(あまって)」。余って。]大いに困ることが屢々ある。かやうなものは據なく[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]孰れかの綱・目に附屬として添へて置く位より致し方もないから、今日の動物學書・植物學書を開いて見ると、その類の部には必ず若干の所屬不明の動植物の例が擧げてあるが、その各々を何類の附屬として取扱うかは、全くその著者の鑑定のみによることで、その見る所が各々違ふ、結果同一の動植物が甲の書物と乙の書物とでは、分類上、隨分相隔たつた處に編入してあることが往々ある。現今の多數の動植物學者の著書を比べて見るに、分類の大體は既に略々一定した有樣で、脊椎動物・節足動物・軟體動物といふやうな明な門或はその中の明な各綱等に就いては、最早何の議論もないやうであるが、こゝに述べた如きものになると、その分類上の位置に關する學者の考がまだ樣々で、少しも確なことは知れぬ。

 

Kagimusi

[かぎむし]

 

Hoya

Hoyakoudansyagakujyu

[海鞘]

[やぶちゃん注:前者は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。後者はその国立国会図書館デジタルコレクションの画像と講談社学術文庫版の両方を並べた。底本が写真で、後者が絵で、異なるからでもあるが、実は私はホヤを激しく偏愛しているからというのが正直な理由である。例外的に「カギムシ」も「ホヤ」も種明かしは段落後の注に回そう。その方が面白いからね。]

 

 かやうな動植物の例は今日相當に多く知れてあるが、その大部分は人間の日常の生活には何の關係もない類故、普通の人は氣が附かぬ。一二の例を擧げて見ると、我が國の海岸の泥の中などに澤山に産する「いむし」と稱するものなどもやはりこの仲間で、何の類に入れて宜しいか善くは解らぬ。この蟲は、鯛を釣るための餌として漁夫の常に用ゐるものであるが、恰も甘薯[やぶちゃん注:サツマイモ。]のやうな形で、表面にも内部にも少しも節はないから、通常、蚯蚓・「ごかい」などの類に附屬させてはあるが、この類の特徴ともいふベき點は全く訣けて居る。また西印度・アフリカニュージーランドなどに産する「かぎむし」といふものは、恰も蜈蚣(むかで)と「ごかい」との間の如き蟲で、一對の觸角を有し、陸上に住して空氣を呼吸する點は、蜈蚣と少しも違はぬが、足に節のないこと、その他内部の構造などを考へると、寧ろ「ごかい」の方に近いかと思はれる位で、いづれに組み入れて宜しいか全く曖昧である。またこゝに圖を擧げた海鞘(ほや)の如きも、單に發生の途中に一度脊椎動物らしい形態を具へた時期があるといふだけで、その生長し終つた後の姿は少しも脊椎動物に似た處はない。それ故その分類上の位置に就いては種々の議論があつて、なかなか確定したものと見倣す譯には行かぬ。

[やぶちゃん注:ここと次の段落は私にとっては恍惚となるほど嬉しい箇所である。私の偏愛する海産生物が立て続けに登場するからである。

「いむし」現行の正式和名は「ユムシ」で、ここは諸叙述から、動物界 Animalia 冠輪動物上門 Lophotrochozoa ユムシ動物門 Echiura のユムシ目 Xenopneusta ユムシ科 Urechidae ユムシ属 Urechis ユムシUrechis unicinctus に同定してよい。漢字では「螠虫」で「ゆむし」と表記する。ここでは主に小学館の「日本大百科全書」から引こう。環形動物門ユムシ綱Echiuroideaに属する海産動物の総称(ユムシ類は世界で約百五十種ほど)、又はその中の上記した一種を指す。ユムシ類は総てが海産で、泥の中に掘ったU字形の穴や岩の隙間などに棲む。体は円筒状又は卵状を成し、吻部と胴部とに分かれる。体の表面には多くの小さな疣(いぼ)状の突起があるが、環節や疣足・触手も持たない。口のやや後方の腹側に、一対の腹剛毛があり、さらに肛門の周りに一つか二つの環列を成した尾剛毛を有する。頭部の先端には箆(へら)状の吻があるが、これは体内に引き込むことは出来ない。吻が長いものではキタユムシ目Echiuroineaキタユムシ科Echiuridae イケダ属 Ikeda サナダユムシIkeda taenioidesのように、体長四十センチメートルに対して、吻の長さが一・五メートルにも及ぶものもいる。多くの種では吻の表面に繊毛が密生しており、海水や微小な餌が繊毛溝を伝わって口へ運ばれるようになっている。消化管は長く、螺旋状に巻いており、体の末端にある肛門に続く。排出器は一~四対であるが、例外的に上記のサナダユムシには二百~四百対もある。雌雄異体で、卵は海中に放出され、ばらばらに海底に沈んで受精される。幼生は軟体動物門の貝類に特徴的なトロコフォラ型である、浮遊生活をした後に変態して成体となる。また、キタユムシ目ボネリムシ科Bonellidae ボネリアBonellia を代表とするボネリムシの類は、著しい性的二型を示すことで知られ、は非常に小さく、の咽頭或いは腎管中に寄生しており、は幼生の状態のままにとどまって、精巣だけが発達している幼体成熟(ネオテニー:neoteny)の最たるものである。ユムシ類は環形動物の多毛綱 Polychaeta・貧毛綱 Oligochaeta・ヒル綱 Hirudinoideaなどとは体制が非常に異なっていることから、分類学上、独立した一つの門 Echiura とする学者もいるが、ユムシの発生の途中で体節構造がみられることから、環形動物門 Annelida に含める学者も多い。私も現時点では前者を支持する。但し、近年の分子生物学的研究では完全に環形動物門多毛類に属しているとする主張もあるという。一方、種としてのユムシUrechis unicinctusは、体長十~三十センチメートルで、吻は短い円錐状を成し、体表は赤みを帯びた乳白色で、多くの皮膚乳頭を有する。口のすぐ後方に一対の腹剛毛があり、肛門の周囲にも九本から十三本の尾剛毛が一環列に並んでいる。北海道から九州までの沿岸の砂泥中にU字状の穴を掘ってすみ、穴の両端は低い襟状に隆起している。非常に古くから、タイ・カレイ・クロダイなどの釣り餌として用られている。最後はウィキの「ユムシ動物」も参考にして述べよう。そうした有用魚の餌としての利用の古さから地方名が多く、「アカナマコ」・「カキムシ」・「ユ」・「ムジ」・「コウジ」・「ルッツ」(北海道)・「イイ」(和歌山)・「イイマラ」(九州)などとも呼ばれる。この「マラ」は形状が男根に酷似することに由来すると考えてよいであろう。丘先生の「いむし」も単に「ゆむし」の訛りともとれるが、最後の二つの異称などとの親和性もある。「イイ」「イイマラ」は私は矢張り、男根を意味する「㔟(セイ)」の「イ」ではないかと推理している。『体部は細長い円筒形で、前端に吻をもち、その吻の付け根に口がある。付属肢も疣足もないが、わずかに剛毛がある』。『干潟などの浅い海域の砂地に棲息し、縦穴を掘ってその中に生息し、干潮時には巣穴に隠れる』。『韓国では、砂地の海底で鈎状の漁具を曳いて採り、「ケブル(개불)」と称して沿岸地域で刺身のように生食したり、串焼き、ホイル焼きなどにされ、割と一般的に食される。中国の大連市や青島市などでは「ハイチャン(海腸、拼音: hǎicháng)」と称して、ニラなどと共に炒め物にしたり、茹でて和え物にして食べる。日本でも北海道の一部などで、刺身、酢味噌和え、煮物、干物など食用にされるが、いわゆる珍味の一種であり、一般的な食材ではない』。『グリシンやアラニンなどのアミノ酸を多く含むため、甘味があり、コリコリした食感で、ミル貝に似た味がする』。『クロダイやマダイ釣りの釣り餌としても使われる』。私はさる本邦の店で特に予約注文をして取り寄せて貰い、刺身を食してみたが、まことに美味であった。すこぶる附きでお薦めの食材である。また、二十数年前、金沢八景の海の海岸で潮干狩りをした際、岸から程遠からぬ場所で数十センチメートルの本種を巣ごと現認、何か、とても嬉しかったことを覚えている。以下に、廣川書店平成六(一九九四)年刊の永井彰監訳 Thomas M.Niesen“The MARINE BIOLOGY COLORING BOOK”「カラースケッチ 海洋生物学」の「海産環形動物 ユムシ類」のレジュメと私が彩色した図を掲げる。こんなカラーリングを三十七歳の高校国語教師が嬉々としてやっていたさまを想像して見るがいい。私が如何にとんでもない海産無脊椎動物フリークであったかがお分かり戴けるであろう。

 

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「かぎむし」現在は独立した動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa脱皮動物上門 Ecdysozoa有爪(ゆうそう)動物門 Onychophora に、彼らだけで同門にカギムシ綱 Onychophoridaカギムシ目 Euonychophora として単独で配されている(ペリパツス科 Peripatidae・ペリパトプシス科 Peripatopsidae の二科)を作っている。ウィキの「有爪動物」によれば、『森の落ち葉の下などに棲んでいるカギムシ類のみが知られ』、『細長くて柔らかい動物である。全身は赤褐色、黒、緑など様々だが、黒紫色のものが多いらしい。発見当初はナメクジの』一『種として記載された』。『体は細長く、やや腹背に扁平、背面は盛り上がり、腹面は平らになっている。全身がビロード状の柔らかい皮膚に覆われる。頭部には』一『対の触角があり、その基部には眼がある。頭部の下面には口があって、その側面に』一『対の付属肢がある』。『頭部以降の胴体には、対を成す付属肢が並ぶ。付属肢は円錐形に突出し、先端には鈎爪がある。腹部末端に肛門がある。生殖孔は最後の附属肢の間の腹面中央か、もう一つ前の附属肢の間に開く』。『呼吸は気管によって行われる。体表のあちこちに気門が開き、その内部にはフラスコ型の気管嚢がある。気管はここから』二~三『本が体の内部へと伸び、それらは互いに癒合することがない』。『雌雄異体で、体内受精によって生殖する。雄は精包を雌の体表に貼り付け、精子はその皮膚を貫いて雌の体に侵入し、卵を受精させる。卵を産み出す場合と、体内で孵化するものがある。また、一部の種では胎盤が形成される胎生を行う』。『熱帯多雨林の地表や朽ち木の中などに生息する。肉食性で、小型の昆虫等を捕食する。餌をとるときは口のそばにある粘液腺から白い糸のように見える粘液を噴出し、これを獲物に引っかけて動けなくする。場合によっては』三十センチメートル『ほども飛ぶ。この粘液は防御のためにも使われる』。『触角や付属肢の配置等は節足動物のそれにほぼ一致する。体内の構造にも腎管の配置などに体節制を感じさせるものがある。しかし、見掛け上も内部構造にも体節が存在せず、付属肢も関節が無い。節足動物に似た点が多いもののこのような点で異なることから、緩歩動物、舌形動物(五口動物)と併せて』、『側節足動物という群にまとめられることもある』。『環形動物の多毛類に似ている点として、付属肢が疣足状であること、平滑筋であること、生殖輸管や腎管に繊毛があることなどが挙げられる。かつては節足動物が環形動物から進化したと考えられたため、この両者をつなぐ位置にあるものと考えられたこともある』。『バージェス動物群の一つであるハルキゲニア(Hallucigenia)やアイシュアイア(Aysheaia)は、この有爪動物門に属するものと考えられ』てい『る。バージェス頁岩だけでなく、中国などのカンブリア紀の地層からも類似の動物化石が見つかっている。節足動物と類縁の原始的な動物門と考えられている』但し、『ハルキゲニアやアイシュアイアは海に生息していたが、現生種では海中に生息しているものは』一『種も存在しない』とある。ここに出るカギムシの捕食行動は多くの動画で見ることが出来る。私が昔見たのは、“Bizarre Slime Cannon Attack | World's Deadliest”でその技に大いに感動した。但し、ワーム(蠕虫)系が苦手な方は見ない方がよかろうとは思う。

「海鞘(ほや)」ここに掲げられた個体は、写真も図も孰れも、動物界 Animalia脊索動物門 Chordata尾索動物亜門 Urochordataホヤ綱 Ascidiaceaマボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiaマボヤ科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi である。あげな、不可思議な形をしよるに、我々、人間に近い生物なんやで! 要するに、微小な幼生期(オタマジャクシ型を成す)に我々の脊髄の元となるものと同じ脊索が形成されるんやで! 私が本種及び海鞘類について語り出すと、徹夜になるから、これはこれ、自粛致すこととしよう。そこで例えば、以下の私の記載を読まれんことをお薦めする。しかし、それらの私の注に目を通すだけでも、夜が明けてしまうかも知れぬ。

海産生物古記録集2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

海産生物古記録集4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

海産生物古記録集5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ

『博物学古記録翻刻訳注 13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠このマボヤの絵は絶品!

『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』これには実は私は副題で「真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)」というのを添えてある。しかし私は非常に美しいと思っている

『神田玄泉「日東魚譜」老金鼠(ホヤ)』

最後の三つの絵だけを見るのも一興であろう。]

Gibosimusi

[ぎぼしむし]

[立体感があるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの図を採用した。]

 その他海岸の砂の中に住む「ぎぼしむし」といふものがあるが、この蟲は恰も紐の如き形で、長さが一尺から三尺位までもあり、極めて柔で切れ易く、殆ど完全には捕れぬ程で外形からいへば、少しも脊椎動物と似た點はないが、これを解剖してその食道・呼吸器等の構造を調べて見ると、多少魚類などに固有な點を見出すことが出來る。食道から體外へ鯉孔が開いて、こゝで呼吸の作用を營む動物は、魚類の外には先づ皆無といふべき有樣であるが、この「ぎぼしむし」は食道が多數の鰓孔で直に、體外に開いて居る外に、詳しく比較解剖して見ると、なお脊椎勤物に似た一二の性質があるから、現今ではこれをも脊椎動物に近いものと見倣す人が甚だ多い。倂し、この動物と普通の脊椎動物との間の相違は如何にも甚だしいから、これを以て脊椎動物に最も近いと見倣す考が正しいか否かは、まだ容易に判斷することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ぎぼしむし」新字で漢字表記するなら、「擬宝珠虫」である。あの橋などの欄干の飾りの「擬宝珠」(ぎぼし・ぎぼうしゅ)である。動物界 Animalia半索動物門 Hemichordata腸鰓(ギボシムシ)綱Enteropneusta に属する純海産の動物群の総称。ギボシムシを知っている方は殆どおられぬであろうから(ウィキにさえ「ギボシムシ」の項はない)、ここに主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載から生物学的な現在の知見を詳述する。

  半索動物門の現生種にはもう一つ、翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaがあるが、そこに共通する現生半索動物門と二綱の特徴は以下の通り(西川氏の記載に基づき、一部を省略・簡約し、他資料を追加した)。

体制は基本的に左右相称。前体(protosome)・中体(mesosome)・後体(metasome)という前後に連続する三部分から成り、それぞれに前体腔(一個)・中体腔(一対)・後体腔(一対)を含む。これらは異体腔であるが、個体発生が進むと体腔上皮細胞が筋肉や結合組織に分化して腔所を満たすことが多い。前体腔及び中体腔は小孔によってそれぞれ外界と連絡する。

後体の前端部(咽頭)側壁に、外界に開き繊毛を備えた鰓裂(gill slit)を持つ。鰓裂を持つのは動物界にあって半索動物と脊索動物だけであり、両者の類縁関係が推定される[やぶちゃん注:下線やぶちゃんウィキの「半索動物」によれば現在、18SrDNAを用いた解析結果などによると、ギボシムシ様の自由生活性動物が脊索動物との共通祖先であることを支持する結果が得られている。この蚯蚓の化け物のようにしか見えない奇体な生物は、正しく我々ヒトの祖先と繋がっているということなのである。]。

口盲管(buccal diverticulum)を持つ。これは消化管の前端背正中部の壁が体内深く、円柱状に陥入したもので,ギボシムシ類では前体内にある。口盲管はかつて脊索動物の脊索と相同とされ、そのため半「索」動物の名を得た。現在ではこの相同性は一般に否定されているが(ウィキの「半索動物」によれば、例えば脊索形成時に発現するBra遺伝子が口盲管の形成時には認められないなどが挙げられるという)、異論もある。

神経細胞や神経繊維は表皮層及び消化管上皮層の基部にあり、繊維層は部分的に索状に肥厚する。中体の背正中部に襟神経索(collar nerve cord)と呼ばれる部分があるが、神経中枢として機能するかどうかは未解明である。

開放血管系を持ち、血液は無色、口盲管に付随した心胞(heart vesicle)という閉じた袋の働きで循環する。

排出は前体の体腔上皮が変形した脈球(glomerulus)と呼ばれる器官で行なわれ、老廃物は前体腔を経て外界に排出される。

消化管は完全で、口と肛門を持つ。

一般に雌雄異体。生殖腺は後体にあり、体表皮の基底膜と後体腔上皮とによって表面を覆われている。外界とは体表に開いた小孔でのみ連絡する。但し、無性生殖や再生も稀ではない。

体表は繊毛に覆われ、粘液で常に潤っている。石灰質の骨格を全く欠き、体は千切れ易い。

 腸鰓(ギボシムシ)綱 Enteropneusta は、触手腕を持たず、消化管が直走する点で、中体部に一対以上の触手腕を持ち、U字型消化管を持つ翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaと区別される。

以下、西川先生の「ギボシムシ綱 ENTEROPNEUSTA」の記載に基づく(アラビア数字や句読点、表現の一部を本テクストに合わせて変更させて戴き、各部の解説を読み易くするために適宜改行、他資料を追加した)。

  細長いながむし状で動きは鈍く、砂泥底に潜んで自由生活し、群体をつくることはない。全長数センチメートル程度の小型種から二メートルを超すものまである。

 前体に相当する吻(proboscis)は、外形がドングリや擬宝珠に似ており、これが本動物群の英俗称“acorn worm”[やぶちゃん注:“acorn”は「ドングリ」。]や「ギボシムシ」の名の由来である。吻は活発に形を変え、砂中での移動や穴堀りそして摂餌に用いられる。

 中体である襟(collar)は短い円筒形で、その内壁背部に吻の基部(吻柄)が吻骨格(proboscis skeleton:但し、これは基底膜の肥厚に過ぎず、石灰化した「骨格」とは異なる)に補強されて結合する。吻の腹面と襟との隙間に口が開く。
 後体は体幹あるいは軀幹(trunk)と呼ばれ、体長の大部分を占めるが、その中央を広いトンネル状に貫いて消化管が通る。途中で肝盲嚢突起(hepatic saccules)を背方に突出させる種もある。

 生殖腺は体幹の前半部に集中し、ここを生殖域と呼ぶが、この部分が側方に多少とも張り出す場合にはこれを生殖隆起、それが薄く広がる場合にはこれを生殖翼と、それぞれ呼称する。

 彼等は砂泥を食べ、その中に含まれる有機物を摂取するほか、海水中に浮遊する有機物細片を吻の表面に密生する繊毛と粘液のはたらきにより集め、消化管に導く。この時、鰓裂にある繊毛が引き起こす水流も役立つ。消化し残した大量の砂泥を紐状に排出し、糞塊に積みあげる種も少なくない。

 鰓裂は水の排出経路としてはたらくだけでなく、その周囲に分布する血管を通じてガス交換にも役立つ。鰓裂は背部の開いたU字形で、基底膜が肥厚した支持構造を持つ点、ナメクジウオ類の持つ鰓列と似る[やぶちゃん注:「ナメクジウオ類」は、やはり我々脊椎動物のルーツに近いとされる「生きた化石」の、脊索動物門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科ナメタジウオ Branchiostoma belcheri とその仲間を指す。]。鰓列は種によって異なるが(十二から七百対)、鰓裂のそれぞれは鰓室という小室を経て触孔(gill pore)と呼ぶ小孔で外界と連絡する。各鰓裂に、微小な鰓裂架橋(synapticula)がいくつか備わることもある。

 本種の際立った特徴である、虫体が発するヨードホルム臭と形容される独特の強いにおいは、ハロゲン化フェノール類やハロゲン化インドール類によるものである。

 また、過酸化型のルシフェリンルシフェラーゼ反応による発光がみられる種もある。

 雌雄異体で体外受精する。トルナリア(tornaria)と呼ばれる浮遊幼生の時期(最長九ヶ月を超す)を経た後、適当な砂泥底に降りて変態する種のほか、こうした時期を経ず直接発生する種も知られている。後者では、一時的に肛門の後ろに尾のような付属部(肛後尾 postanal tail)が現れ、その系統学的意味づけが議論を呼んでいる。有性生殖のほか、一部の種では再生や,体幹の特定の部分から小芽体が切り離される方式による無性生殖も知られている。

 体腔形成の様式はまだよくわかっていない。[やぶちゃん注:中略。]

 潮間帯から深海にいたる全世界の海域よりこれまでに七十種以上が知られ,四科十三属に分類される(目レベルの分類は提唱されていない)。わが国からは三科四属にわたる七種が記録されているが、調査はまだきわめて不十分であり、将来かなりの数の日本新記録の属・種が報告されることは確実である。[やぶちゃん注:二〇〇八年の“An overview of taxonomical study of enteropneusts in Japan. Taxa 25: 29-36.”によると全十六種を数える。]

 以下、本邦四科を示す。

  ハネナシギボシムシ科 Spengeliidae

 ギボシムシ科 Ptychoderidae

 ハリマニア科 Harrimaniidae

 オウカンギボシムシ科 Saxipendiidae

 以上、「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載に基づく引用を終わる。実は以上は既に私が六年前、「生物學講話 丘淺次郎 六 泥土を嚥むもの~(1)」で注したものを援用したものである。そこで私は以下のように擱筆した。その思いは今も変わらぬので、そのまま引いておく。『刊行されてすぐに購入したこの二冊で五万円した図鑑を、今日、初めて有益に使用出来た気がした。本書をテクスト化しなければ、私はこの、素人では持て余してしまう』、『とんでもない図鑑を使う機会もなかったに違いない。再度、丘先生と西川先生に謝意を表するものである』。]

 海鞘・「ぎぼしむし」などには實際少しも脊椎といふものがないから、これらまでを脊椎動物に合して、之を總括した門を置くとすれば、之を脊椎動物と名づける譯には行かぬ。それ故、別に脊索動物門といふ名稱を造り、脊索動物門を分ちて幾つかの亞門とし、第一の亞門には海鞘類、

點が發見になると、之をもその部類に附け添えるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その第二亞門には「ぎぼしむし」を當て嵌め、第三の亞門を脊椎動物と名づけて、更に之を哺乳類・鳥類云々と分けるやうにして居る人が今日ではなかなか多いが、斯くすれば分類の階段がこゝにも一つ增す。前の節にも述べた通り、研究の進むに隨つて分類の階段を漸々增さざるを得ぬに至る理由は多くはこの通りで、所屬の明でない動物の解剖・發生等を取調べた結果、從來確定して居る或る動物の部類に多少似た點が發見されると、之をもその部類に附け添へるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その部類の範圍が廣くなる故、先づ之を大別してかからなければならず、終に新な階段を設ける必要が生ずるのである。また植物の方でも、從來顯花植物と隱花植物とは、その區別が割合に判然で、種子を生ずるのは顯花植物のみである如くに思はれて居たが、近來の化石植物研究の結果によると、古代の外形が羊齒類に極めてよく似ている或る種の大木は、確に種子を生じたものであることが明に知れた。今日ではこれらの化石植物を「羊齒種子植物」と名づけて居る。

[やぶちゃん注:植物界 Plantae シダ種子植物門 Pteridospermatophyta シダ種子植物綱 Pteridospermopsida。丘先生の言うように現生種はなく、化石種(絶滅種)のみからなる。ウィキの「シダ種子類」によれば、約二億五千万年前の『デボン紀後期から栄え、白亜紀に絶滅した。典型的なものでは』、『現生のシダに似た葉(栄養葉と胞子葉が分化していない)に種子がついているが、その他に形態的には異なるが関連すると考えられる多数の種類を含む』。『胞子は雌雄の区別(大胞子と小胞子)があり、大胞子は葉上で発生して胚珠を形成し、ここに小胞子が付いて発生し受精が行われたと思われる。より進化したとされるものでは栄養葉と胞子葉が分化している』。『系統関係は明らかでなく、現生裸子植物の祖先もしくは近縁と考えられるものや、被子植物の祖先に近いともいわれるものを含み、原始的な種子植物からなる側系統群と見られている』とある。私は化石種の場合、琥珀に丸ごと閉じ込められたものや、完全冷凍になった遺体といった特殊なケースを除いて、概ね、旧態然とした形態比較からしか分類が出来ないことから、現行の最新の分類学と同等に扱うことは出来ないと考えているので、ここでは綱以下の学名を示さないこととする。]

 

Sidasyusisyokubutu

[羊齒植物(復元圖)]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫の図を採った。]

 

 分類といふことは、元來人間が勝手に行ふことであるから、個體を集めて之を種に分ちとき、種を集めて之を屬に分つとき、屬を集めて之を科に分つときなどに、若干の曖昧なものが後に剩つたからというて、之を以て直に生物進化の證據と見倣すベからざるは勿論であるが、斯かる所屬不明の動植物が皆他の大きな綱目等の特徴を一部分だけ具へ、中には二個以上の大きな綱目の特徴を一部分づゝ兼ね具へて、恰も二個以上の綱目を繋ぎ合せる如き性質を帶びて居るものがあるのは如何なることを意味するものであらうか。例へば動物を脊椎動物と無脊椎動物とに分けようとすれば、海鞘・「ぎぼしむし」の如き脊椎動物の特徴の一小部分だけを具へたものがその間にあつて、孰れにも明には屬せず、分類の標準の定め方次第にて、或は脊椎動物の方へも或は無脊椎動物の方へも入れられるといふことは、何を意味するものであらうかと考へるに、生物各種を全く互に關係のないものとすれば素より何の意味もないが、生物は總べて同一の先祖から分かれ降つたとすれば、斯かる曖昧な種類は、二個以上の綱目の共同の先祖の有して居た性質をそのままに承け繼いで降つた子孫、或は一綱・一目の進化の初期の性質をそのままに承け繼いで來つたものと見倣して、その存在する理由を多少理會することが出來る。一々例を擧げて説明すれば、こゝに述べたことを尚明に示すことは出來るが、所屬不明の動物の最も面白い例は多くは海産・淡水産等の下等動物で、顯微鏡で見なければ解らぬやうな類もあり、普通に人の見慣れた動物とは餘程違ふものが多い故、こゝには略して置くこととした。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(3) 二 幾段にも分類を要すること

 

     二 幾段にも分類を要すること

 

 分類の單位なる種の定義を確に定めることは、なかなか容易でなく、場合によつては到底出來ぬこともあるが、實際分類するに當つては、兎に角、種といふものを定めて之を出發點とし、更に屬に組み、科に合せて、系統に造つて居る。而してその系統といふものを見れば、孰れも大群の内に小群を設け、小群を更に小な群に分ち、每段斯くの如くにして數段の階級を造り、最下級の群の中に各種類を編入してあるが、追々研究が進み、分類が細かになつた結果、門・綱・目・科・屬・種等の階級だけでは到底間に合はなくなり、今日の所では門の次に亞門を設け、綱の次に亞綱を置き、亞目・亞科・亞屬・亞種等の階段までも用ゐ、尚足らぬ故、更に區とか、部とか、組とか、隊とか名づける新しい階段までを造つて、十數段にも分類してある。似たものは相近づけ、異なつたものは相遠ざけるといふ主義に從うて、澤山の種類を分類すれば、その結果として組の中にまた組を設け、終に斯く多數の階段を造らなければならぬに至ることは、抑々如何なる理由によるものかと考へて見るに、之は生物種屬不變の説と敢へて雨立の出來ぬといふ譯ではないが、生物各種を初めから全く互に無關係のものとすれば、たゞ何の意味もないことになる。然るに、生物各種は皆共同の先祖から樹枝狀に分かれて進化し降つたものと見倣せば、分類の結果の斯くなるのは必然のことで、理窟から考へた結論と、實物を調査した結果とが、全然一致したことに當る故、理窟の正しい證據ともなり、また之によつて分類といふことに尚一層深い意味のあることが解る。

[やぶちゃん注:現行の旧来の階級分類でも「」((界の下層階でウイルスのみに使用。英語はgroup/一部の細菌で門の下層階に使用。英語はsection))、及び綱の下層で「」、その下で「」(これは魚類分類ではよく見かける)、科の下で「」(植物では「」)、植物のみで「連」の下に「」を、そのさらに下に同じく植物のみで「」や「」をよく見かける。また、他に「」(超科は貝類分類ではしばしば見かける)「」(後掲するカンガルを見よ)・「」や「」(上(下)目や上科は一般的)の他、魚類の「上目」と「目」の間の「」(近年(と言ってもこの魚類の「系」自体の初提唱は一九六六年)の魚類分類で、棘鰭上目 Acanthopterygii とスズキ目 Perciformesの間に、スズキ系 Percomorpha を見かけることが多くなった。調べてみると、棘鰭上目は現行ではボラ系 Mugilomorpha・トウゴロウイワシ系 Atherinomorpha と、このスズキ系の三群に分けられているようである。まあ、確かに魚類の大部分が十把一絡げにスズキ目だったのには正直、疑問はあった)なども見る。また以前に述べた通り、今はまだ一般人は聞き慣れない「スーパーグループ(supergroup」という階級単位様群集団が、ドメインの下層階や、それ以下の階級に顔を出し始めている。]

 元來天然に實際存在してあるものは、生物の各個體ばかりで、種とか屬とかいふものは素より天然にはない。個體の存在して居ることは爭はれぬ事實であるが、種とか屬とかいふのは、たゞ我々が若干の相似た個體を集め、その共通の特徴を抽象して腦髓の内に造つた觀念に過ぎぬ。屬・種以上の階段も無論同樣である。而して我々が初めて造る觀念は、分類の階段中孰れの段かと考へるに、最上でもなく、最下でもなく、中段の處で、それより知識の進むに隨ひ、上の段も下の段も追々造るやうになつた。恰も望遠鏡が良くなるに隨ひ、益々大きな事も知れ、顯微鏡の改良が出來るに隨つて、益々小い事も知れるに至るのと同樣で、何事も先づ最初は手頃な邊から始まるものである。本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所であるが、初めは皆この位な考で、多數の動植物を知つてもたゞ之を禽・獸・蟲・魚位に區別し、一列に竝べて置くに過ぎなかつた。然るに研究が進むに隨つて、一方には尚之を細に分つて、屬・種・變種等に區別し、一方には之を合して目・綱等に組立て、組の中にまた組を設ける必要が生じて、リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてあるが、尚その後に門を設け、科を置きなどして、遂に今日の如き極めて複雜な分類法が出來るに至つたのである。分類は斯くの如く全く人間のなす業で、四段に分けようとも十六段に分けようとも、天然には素より何の變りなく、學者の議論が如何に定まらうとも、柳は綠、花は紅であることは元のまゝ故、一々の分類上の細かい説を敢へて取るに及ばぬが、解剖學上・發生學上の事實を基として似たものを相近づけ、異なつたものを相遠ざけるといふ主義で行ふ今日の分類法に於て、斯く幾段にも組の中にまた組を造らねばならぬことは、卽ち生物各個體の間の類似の度が斯かる有樣であることを示すもの故、之は生物種屬の起源を尋ねるに當つては、特に注意して考ふべき點である。

[やぶちゃん注:「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所である」正直、この譬え話は適切とは思われない。何故なら、本邦の「本州」には動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata哺乳綱 Mammalia食肉目 Carnivoraクマ科 Ursidaeクマ属 Ursusツキノワグマ Ursus thibetanus しか棲息しておらず、北海道にはツキノワグマは棲息せず、クマ属 Ursusヒグマ Ursus arctos亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis しかいないからで、この「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤い」という命題は地名を出すことによって、存在する熊の種自体が完全に限定され、相互に誤認しようがないわけで、しかも黄褐色系個体がよく見られるのは確かに後者であるのだから、自ずと、結果的には全く異なる生物種を示していることに他ならない(誤認や誤解やいい加減な言説(ディスクール)たりえない)からである。寧ろ、同一種を違うとする誤った見解例(例えば、「本土狐と四国・九州の狐では警戒心が違う」とか「本州の狸と佐渡島の狸では毛並が違う」(私が勝手に作った作文である))を示すべきであると私は思う。

『リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてある』既注であるが、大分前(「第二章 進化論の歷史(1) 序・一 リンネー(生物種屬不變の説)」)なので、再掲しておくと、「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné:ラテン語名:カロルス・リンナエウス Carolus Linnaeus 一七〇七年~一七七八年)が一七三五年、二十八歳の時に、動物・植物・鉱物の三界を扱って、分類を試みた「自然の体系」(Systema Naturae 第一版。ここで言っている「博物綱目」)を出版、「動物命名法」の基準は、その二十三年後に出た第十版(一七五八年刊)に発表され、他に一七三七年の「植物の属」(Genera Plantarum)、一七五三年の「植物の種」(Species Plantarum:この第一版が「植物命名法」の基準となった)といった著作の長い期間に亙る刊行と、その流布の結果として近代分類学の一大改革は行われた。]

 生物は總べて共同の先祖より漸々進化して分かれ降つたものとすれば、その系圖は一大樹木の形をなすべきことは、既に度々言つた通りであるが、假に一本の大木を取つて、その無數にある末梢を各起源に潮つて分類し、同じ處から分かれたものを各々一組に合せ、同じ枝から生じたものを各々一團として、全體を分類し盡したと想像したならば、如何なる有樣の分類が出來るかと考へるに、幹が分れて太い枝となる處もあり、また細い枝が分かれて梢となる處もあり、股に分かれる處は幹の基から梢の末に至るまでの間に殆ど何處にもあるといふわけ故、最も末の股で分かれたものを束ねて各々小い一組とすれば、次の股で分かれたものは更に合せて梢々大きな組とせなければならず、全體を分類し終るまでには、實に多數の階段が出來るに相違ない。これと同樣の理窟で、生物各種が皆進化によつて生じたものとすれば、これを分類するに當つて夥多の階段の出來るのは必然のことである。今日實際の分類法に於て門・亞門・綱・亞綱等の多數の階段を用ゐ、常に組の中にまた組を設けて居るのは、進化論の僅期する所と全然一致したことといはなければならぬ。

 

Kamonohasi

[鴨の嘴とその卵]

[やぶちゃん注:学術文庫版の絵を用いた。「鴨の嘴」とは無論、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 原獣亜綱 Prototheria 単孔目 Monotremata カモノハシ科 Ornithorhynchidae カモノハシ属 Ornithorhynchus カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。ウィキの「カモノハシによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『オーストラリア(クイーンズランド州東部、ニューサウスウェールズ州東部、ビクトリア州、タスマニア州)』のみに分布し、『分布域内では、熱帯雨林、亜熱帯雨林、ユーカリなどの硬葉樹林、高山地帯などの淡水の河川や湖沼などに生息している』。『カモノハシがヨーロッパ人により最初に発見されたのは一七九八年のことであり、カモノハシの毛皮やスケッチが第二代ニューサウスウェールズ州総督であったジョン・ハンターによりグレートブリテン王国へと送られた。イギリスの科学者達は、当初はこの標本は模造品であると考えていた。一七九九年に』“Naturalist's Miscellany”へ『この動物について最初に記載をおこなったジョージ・ショーは、「それが本物であることを疑わずにはいられない」と主張し、ロバート・ノックスはアジア人の剥製師による物と信じていたという。誰かがビーバーのような動物の体にカモのくちばしを縫い付けた物であると考えられ、ショーは縫い目がないかどうかを確認するために、毛皮に切り込みを入れた』という。『英語の一般名である“platypus”はギリシア語で「平たい」を意味する』語と、『「足」を意味する』語と『からなり、「扁平な足」を意味する。ショーは記述に際して、リンネの分類の属名としてplatypusを当てたが、この語はすぐにキクイムシ科の昆虫のPlatypus属につけられていることが分かったため、一八〇〇年にヨハン・ブルーメンバハにより、ジョゼフ・バンクスから送られた標本に基づき Ornithorhynchus paradoxus として記述され、後に先取権の原則により Ornithorhynchus anatinus と学名がつけられた。 Ornithorhynchus anatinus という学名はギリシア語で「鳥の口吻」を意味する』種名と、『ラテン語で「カモのような」を意味する』種小名『anatinusからなる』。『全長はオスで最大六十三センチメートル、メスで最大五十五センチメートル、尾長は八・五~十五センチメートル、体重はオスで一~三キログラム、メスで〇・七~一・八キログラム。全身には一立法センチメートル当たり六百本以上の柔らかい体毛が生えている。体毛の色は背面は褐色から茶褐色で、腹面は乳白色である。外側の毛は水を弾き、内側の毛は保温性に優れている』。『名前の通りカモのように幅が広く、ゴムのような弾性のあるくちばしを持ち、外見上の大きな特徴の一つとなっている。このくちばしには鋭敏な神経が通っていて、獲物の生体電流を感知することができる。一方、カモノハシには歯がなく、長らく謎とされてきたが、三重大学などの共同研究チームの調査で、くちばしの向きや電気感覚を脳に伝える三叉神経が発達したために』、『歯の生える空間が奪われ』、『歯の消滅につながったと考えられている』。『四肢は短く、水掻きが発達している。オスの後脚には蹴爪があり、この蹴爪からは毒が分泌されている。メスも若い時には後脚に蹴爪があるが、成長の過程で消失する』。『哺乳類ではあるが乳首は持たず、メスが育児で授乳の際は、腹部にある乳腺から乳が分泌される』。『カモノハシはオスもメスも蹴爪を持って生まれるが、オスのみが毒の混合物を分泌する蹴爪を持っている。この毒は主にディフェンシンのようなタンパク質類(DPL)で構成されており、その中の三種はカモノハシ特有のものである』。『このディフェンシンのようなタンパク質はカモノハシの免疫機構により』、『生産されている。イヌのような小動物を殺すのには十分な強さの毒で、ヒトに対しては致死的ではないものの、被害者が無力になるほどの強い痛みがある。その痛みは大量のモルヒネを投与しても鎮静できないほどであるという。毒による浮腫(むくみ)は傷の周囲から急速に広がり、四肢まで徐々に広がっていく。事例研究から得られた情報によると、痛みは持続的な痛みに対して高い感受性を持つ感覚過敏症となり、数日から時には数ヶ月も続くことが指摘されている。だが、ヒトがカモノハシの毒で死亡した例は報告されていない。毒はオスの足にある胞状腺で生産されており、この腎臓の形をした胞状腺は後肢の踵骨の蹴爪へ、管によってつながっている。メスのカモノハシは、ハリモグラ類と同じで、未発達の蹴爪の芽があるが、これは発達せずに一歳になる前に脱落し、足の腺は機能を欠いている』。『毒は哺乳類以外の種によって生産される毒とは異なった機能を持つと考えられている。毒の効果は生命に危険を及ぼすほどではないが、それでも外敵を弱めるには十分な強さである。オスのみが毒を生産し、繁殖期の間に生産量が増すため、この期間に優位性を主張するための攻撃的な武器として使われると考えられている』。『群れは形成せず単独で生活し、夕方や早朝に活動が最も活発になる薄明薄暮性である』。『水中では目を閉じて泳ぐが、くちばしで生体電流を感知し獲物を探す。動かなければ最大で十一分ほど』、『水中に潜っていることができるが、通常は一~二分程度である。食性は肉食性で昆虫類、甲殻類、貝類、ミミズ、魚類、両生類等を食べる』。『陸上を移動する場合、前足が地面に着く時に水掻きのある指を後ろに折りたたむようにして歩く』。『水辺に穴を掘り巣にする。巣穴の入り口は水中や土手にあり、さらに水辺の植物等に隠れ、外からはわからないようになっている』。『繁殖期は緯度によるが八月から十月である。繁殖形態は哺乳類では非常に珍しい卵生で、巣穴の中で一回に一~三個の卵を産む。卵の大きさは約十七ミリメートルで、卵殻は弾性があり』、『かつ』、『粘り気のある物質で覆われている。卵はメスが抱卵し、約十~十二日で孵化する』。『子供はくちばしの先端に卵嘴を持ち、卵嘴を使用して卵殻を割って出てくる。成体の四分の三程度の大きさになるまでに離乳し、約四ヶ月で独立する』。『メスは約二年で成熟する。寿命は最大で二十一年』とある。]

 

 また知識の進むに隨つて、分類に用ゐる階段の追々增加することも進化論の豫期する所である。前の樹木の枝を分類する譬によるに、昨晩薄暗い時に分類して置いたものを今朝明るい處で見れば、或は一旦二本に分かれ、更に各々二本に分かれて居る枝を、同時に四本に分かれたものと見誤り、單に一束として、階段を一つ飛ばしてあつたことを發見することもあれば、或は細い枝が一本橫へ出て居るのに氣附かずして、そのため階段を一つ脱(ぬ)かしたことを見出すこともあつて、細かく調べる程、階段の數は增すばかりであるが、實際の分類法が次第に變遷して複雜になり來つた模樣は全く之と同樣である。一二の例を擧げれば、從來脊椎動物門を分つて哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類と平等に五綱にしてあつたが、發生を調べて見ると、蛙・蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]等を含む兩棲類は甚だ魚類に似て、蜥蜴[やぶちゃん注:「とかげ」。]・蛇・龜の類を含む爬蟲類は甚だ鳥類に似て居ることが解つたので、脊椎動物を直に以上の五綱に分けるのは穩當でないとの考から、今日では先づ之を魚形類・蜥蜴形類・哺乳類の三つに分け、魚形類を更に魚類と兩棲類とに分ち、蜥蜴形類を更に爬蟲類と鳥類とに分つことになつて、分類の階段が一つ增した。また哺乳類も從來は單に猿類・食肉類云々と云ふ十二三の目に分けて、孰れも悉く胎生のものとしてあつたが、今より三十五年程前にその中の或る種類は卵を産むといふことが確に發見せられた。卵を産む獸といふのはオーストラリヤタスマニヤ邊に産する「鴨(かも)の嘴(はし)」といふ猫位の動物で水邊に巢を造り、恰も河獺[やぶちゃん注:「かはうそ(かわうそ)」。]の如き生活を營んで居るが、鷄卵よりも稍々小い卵を産む。また同じく胎生するものの中でも、詳細に調べて見ると、發育の模樣に大きな差があり、人間の胎兒は九箇月間も母の胎内に留まつて發生するが、殆ど人間と同じ大きさ位の「カンガルー」の胎兒は、僅一箇月にもならぬときに生み出され、殘後の八箇月分は母の腹の前面にある特別の袋の内で發育する。この獸の生れたばかりの幼兒は實に小なもので、我々の親指の一節程よりない。之が袋の中で、乳首に吸ひ著き、親の乳房と子の口とが癒着して一寸引いても離れぬやうになる故、初めて之を發見した人は誤つてこの獸は芽生すると言ひ出した。これらの獸類はたゞ子の生み方ばかりでなく、他の點に於ても著しく異なつた處が多いから、斯かるものを皆平等に一列に竝べて分類するのは、理に背いたことであるといふ考から、今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した。かやうな例は各門・各綱の中に幾らでもあるが、分類の階段の增して行く有樣は皆この通りで、先に樹木の枝に譬へたことと理窟は少しも違はぬ。

[やぶちゃん注:『今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した』現行ではこれがまた修正されている。現在の動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia原獣亜綱原獣亜綱 Prototheria 及び後獣下綱 Metatheria真獣下綱 Eutheriaの階級の異なる三群に分かれている。これは当初作った異獣亜綱 Allotheria が絶滅種の亜綱に変更され、現生種の原獣亜綱原獣亜綱以外の哺乳類を獣亜綱 Theria に移して後獣下綱及び真獣下綱に配したからである。既に示した通り、カモノハシは原獣亜綱単孔目 Monotremata へ(カモノハシ目は現生種ではハリモグラ科 Tachyglossidaeハリモグラ属 Tachyglossusの四種と合わせて五種しか現存しない)、一般に呼ばれるところのカンガルーは後獣下綱オーストラリア有袋大目 Australidelphia 双前歯目 Diprotodontia カンガルー形亜目 Macropodiformes カンガルー上科 Macropodoidea カンガルー科 Macropodidae に配されている。]

 斯くの如く、種の境の判然せぬものが澤山にあることも、分類するには數多の階段を設けて、組の中にまた組を造らねばならぬことも、また研究の進むに隨つて分類の階段の增すことも、總べて進化論から見れば必然のことであるが、實際に於ても現にその通りになつて居る所から考へると、我々は是非とも生物進化の論を正しいと認め、これらの分類上の事實を生物進化の證據の一と見倣すより外は致し方がない。自分で何か或る一目・一科の標本を集め、實物に就いて解剖・發生等を調べ、之を基としてその分類を試みれば、誰も生物進化の形跡を認めざるを得ぬもので、今日斯かる研究に從事した人の報告を讀んで見ると、必ず、解剖上・發生上の事實から推してその進化し來つた系圖を論じてある。つまり、生物種屬の不變であるといふ考は、何事も細かく研究せぬ間は不都合も感ぜぬが、聊でも詳細な事實を知ることとなれば、到底之を改めざるを得ぬものである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(2) 一 種の境の判然せぬこと

 

     一 種の境の判然せぬこと

 

 以上述べただけから見ると、動植物を分類するのは何でもないことで、誰にでも直に出來そうであるが、實際澤山に標本を集めてして見ると、非常に困難で、決して滿足に出來るものではない。種類を知ることの少い間、標本の多く集まらぬ内は、蹄の一つあるものは馬である、角に枝のあるものは鹿であると、簡單にいうて居られるが、今日の如くに種類の多く知られて居る時代に、十分に標本を集めて調べ始めると、分類の單位とする種の境を定めることが、既になかなか容易でない。

 既に第五章でも説いた如く、動植物には變異性と名づける性質があつて、溫帶のものを熱帶に移したり、海濱のものを山奧に持つて行つたりすると、著しく變化するもので、風土が異なれば、假令同種のものでも多少相異なるを免れぬ。靑森の林檎を紀州に移し、紀州の蜜柑を靑森に植ゑ換へれば、種は一つでも全く異なつたものとなつてしまふ。土地每に名物とする固有の天然物のあるのは、つまり他に移しては、そこの通りに出來ぬからである。されば博く標本を集めると、一種の中でも種々形狀の異なつたものがあり、往々別種かと思はれる程に違つたものもあるが、斯かる場合には分類上之を如何に取扱ふかといふに、中開に立つて相繫ぎ合せるものが存する限りは、兩端にあるものが如何に相異なつても、その間に判然と境が附けられぬから、總べてを合せて一種となし、形狀の相違するものを各々その中の變種と見倣すのが、殆ど學者間の規約になつて居る。それ故今日二種と思ふて居るものも、その中間に立つものが發見せられたために、明目は一種中の二變種と見倣されるに至ることも甚だ屢々で、その例は分類學の雜誌を見れば、每號飽くほどある。また實際中間に立つものが無く、境が判然解つて居ても、その間の相違が他の種類の變種の相違位に過ぎぬときは、之を一種中に收めて單に二變種と見倣すことも常であるが、この場合には二種と見倣すか一種中の二變種と見倣すかは、分類する人の鑑定次第で、孰れともなるもの故、人が違へば説も違つて、爭の絶えることがない。

 斯くの如き有樣故、種とは決して一般に世間の人の考へる如き境の判然と解つたものではない。この事は諸國の動物志・植物志などを開いて見さへすれば、直に氣の附くことで、同一の實物を研究しながら、甲の學者は之を十種に分け、乙は之を二十種に分け、丙は之を五十種に分けるとか、また丁は之を總べて合して一種と見倣すとかいふことは幾らもある。ヨーロッパで醫用に供する蛭の如きも、當時は先づ一種二變種位に分ける人が多いが、一時は之を六十七種にも分けた學者がある。樫類の例、海綿類の例は前にも擧げたが、特に海綿の類などは、種の範圍を定めることが非常にむずかしく、之を研究した學者の中には、海綿にはたゞ形狀の變化があるだけで、種の境はないと斷言した人もある位で、現に相州三崎邊には、俗に「ぐみ」及び「たうなす」と呼ぶ二種類の海綿があつて、一は小い卵形で、恰も「ぐみ」の果實の如く、他は球を扁平にした形で、全く「たうなす」の名に背かぬが、一年餘もこの研究ばかりに從事した人の話によると、如何に調べても區別が附かぬとの事である。種とは何ぞやといふ問題は、昔から幾度となく繰り返して議論せられたが、ここに述べた如き次第故、何度論じても決着するに至らず、今日と雖も例外を許さぬやうな種の定義を下すことは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「醫用に供する蛭」現行では環形動物門 Annelida ヒル綱 Hirudinoidea ヒル亜綱 Hirudinea無吻蛭(顎ヒル)目 Arhynchobdellidaヒルド科 Hirudidae ヒルド属 Hirudo ヒルド・メディシナリス Hirudo medicinalis をタイプ種としており、ほかに同属のHirudo orientalisHirudo troctinaHirudo verbena の三種、また別属らしい Hirudinaria manillensisMacrobdella decora という二種の名を英文ウィキのHirudo medicinalisに見出せる。後者二種が前の三種のシノニムでないとするならば、現在の医療用ヒルは六種を数えることが出来ることになる。

「樫類の例」直前の「第十一章 分類學上の事實 序」を参照。

「海綿類の例」「第五章 野生の動植物の變異」の「三 他の動物の變異」の冒頭であるが、『下等動物には變異の甚だしいものが頗る多い。中にも海綿の類などは餘り變異が烈しいので、種屬を分類することが殆ど出來ぬ程のものもある。現に海綿の或る部類は種屬識別の標準の立て方次第で、一屬三種とも十一屬百三十五種とも見ることが出來るといふが、これらの動物ではたゞ變異があるばかりで、種屬の區別はないといつて宜しい』とあるだけで、ちょっとしか述べられていない。

「ぐみ」動物界Animalia海綿動物門 Porifera 普通海綿綱 Demospongiae四放海綿亜綱 Tetrectinomorpha螺旋海綿目Spirophoridaマルガタカイメン科Tetillidae Tetilla 属グミカイメンTetilla japonica。形状の類似からの「茱萸海綿」である。所持する保育社平成四(一九九二)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の記載に基づいたものを示す。高さ一~三・五センチメートル、径〇・五~二センチメートル。煉瓦色から橙黄色の卵形の単体を成し、頂端に一個の大きな孔が開く。下端には根毛様の束があり、これによって海底の砂上に起立している。内部は大孔から胃腔へ向かって溝が放射状に分かれており、鞭毛室に続いている。骨格を形成する主な大骨片は、桿状体・前向きの三叉体・後ろ向きの三叉体が束になって、体中央のやや上部の一点を中心にして放射状に配列する。根毛束には長さ二センチメートルに達する長い後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海に普通に見られ、卵は体外に放出されて体外受精して、直接、発生する。グーグル画像検索「グミカイメン」をリンクさせておくが、原物写真は初めの五枚ぐらいしかない。

「たうなす」同じTetilla 属のトウナスカイメンTetilla serica。「トウナス」はやはり形状類似からの「唐茄子海綿」(南瓜(かぼちゃ))である。同じく西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」により記載する。高さ五~六センチメートル、径八~九センチメートルに達する単体の海綿で、色彩も形も本邦のカボチャに似ている。生時は赤褐色から黄褐色を呈し、上端中央の窪んだ部分に大きな孔が開いており、そこから放射状に溝がある。下端には房状の根毛束があり、これによって砂泥上に定座している。骨格を形成している主な大骨片は桿状体と前向きの三叉体で、放射状に束になって配列している。根毛束には長さ六センチメートルに達する後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海の砂泥底に普通に棲息し、前種と同じく卵生で、直接、発生する。同じくグーグル画像検索「トウナスカイメンをリンクさせておくが、やはりそれらしいのは数枚しか見当たらない。解剖学的所見は酷似するが、見た目の形状と色は全くの別種としか思われないところが、非常に興味深いではないか

「一年餘もこの研究ばかりに從事した人」これは恐らく、研究場所は現在の東京大学三崎臨海実験所で、研究者は確定は出来ないものの、海綿研究の嚆矢として知られる生物学者飯島魁(いいじまいさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)ではなかろうか? 彼は近代日本の生物学黎明期の学者で、鳥類や寄生虫に関する研究も多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした(海洋生物フリークの私にとっては)著名な人物である。]

 さて斯くの如く分類の單位なる種の範圍・境界が判然せぬ場合の多くあるのは何故であるかと考へるに、動植物各種が初めから別々に出來たものとすれば、少しも譯の解らぬことである。元來博物學者が種の境の判然せぬことを論じ始めたのは、割合に近い頃で、殆どダーウィンが自然淘汰の説を確めるために、野生動植物の變異性を研究したのが發端である。その以前の博物家は、動植物各種の模範的の形狀を腦中に畫き定め、採集に出掛けても、之に丁度當て嵌まるやうな標本のみを搜し求め、之と少しでも異なつたものは出來損じの不具者として捨てて顧みぬといふ有樣であつたから、目の前に幾ら變異性の證據があつても、之に注意せず、隨つて種の範圍の判然せぬことにも氣が附かなかつた。生物種屬の不變であるといふ考は、地球が動かぬといふ考と同じく、知識の狹い間は誰も免れぬことで、いつ始まつたといふ起源もなく、誰が主張し始めたといふ元祖もなく、たゞ當然のことと信じて濟ませて居たもの故、無論種の境の判然せぬことに氣の附かぬ前からのものであるが、今日から見ると極めて不都合で、最早到底維持することは出來ぬ。天地開闢のときに境の判然せぬ種類が澤山造られ、そのまゝ降つて今日に至つても尚境の判然せぬ種類があるといへば、それまでであるが、初の考は素よりさやうでは無く、たゞ若干の明に區別の出來る種類が造られて、そのまゝ今日まで存して居るといふ簡單な考であつたので、實際種の境の解らぬものが澤山に見出された以上は、決してそのままに主張し續けられるものではない。之に反して生物各種は共同の先祖から進化し來つたものとすれば、今より將に二三種に分かれようとする動植物は、恰も樹の枝の股の處に當るもの故、總體を一種と見ればその中の相違が甚だし過ぎるから、若干の變種を認めなければならず、また形の異なつたものを各々獨立の一種と見倣せば、その間に中間の形質のものが存在して、判然と境を定めることが出來ぬといふ有樣になるのは、當然のことである。この考を以て見れば、所謂變種といふものは、皆種の出來かゝりで、現在の變種は未來は各々獨立の一種となるべきものである。樹の枝の股の處は一本から二本または三本に分かれかゝる處で、一本とも二本或は三本とも明には數へられぬ如く、二三の著しい變種を含める動植物の種は一種から二三種に分かれかゝりの途中故、一種とも二種或は三種ともいへず、その間の曖昧な時代である。それ故斯かるものまでも込めて種の定義を下そうとするのは、到底無理なことで、今日まで議論の一定せぬのも素より當然のことといはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(1) 序

 

    第十一章 分類學上の事實

 

 動植物の中には、殆ど區別の出來ぬ程に相似たものもあれば、また少しも類似の點を見出すことの出來ぬ程に全く相異なつたものもあつて、その間には相類似する程度に無數の階級がある。鰈(かれひ)と比目魚(ひらめ)とは隨分間違える人があり、楢(なら)と樫(かし)との區別の出來ぬ人も澤山あるが、また一方で橙[やぶちゃん注:「だいだい」。]と昆布とを比べ、人間と蚤とを比べなどして見ると、殆ど共通の點を見出すことが出來ぬ程に違ふ。所で、何十萬もある動植物の種類を一々識別することは出來もせず、また生活上必要もないが、動植物は日夜我々の目に觸れるもので、食物も衣服も悉く之から取ること故、普通のものだけは是非區別して名を附けて置かねばならぬ。犬・猫・牛・馬・鳥・雀等の如き、一種每に全く別の名の附いてあるのは斯かる類であるが、このやうなもののみでも相應に數が多い故、尚その中でも相似たものを合せて、總括した名を造つて置かぬと極めて不便が多い。從來毛を以て被はれ、四足を用ゐて陸上を走るものを獸と名づけ、羽毛を以て被われ、翼を用ゐて空中を飛ぶものを鳥と名づけ、鱗を以て被はれ、鰭を用ゐて水中を泳ぐものを魚と名づけたのも、斯かる必要に應じてなした分類の初步である。

[やぶちゃん注:以下の生物では比較を明確にするために各分類階層のラテン名も示した。但し、比較対象と同一の階層のそれではラテン名は省略し、区別される上位の同一階層を和名のみで示した。

「鰈(かれひ)」動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 魚上綱 Pisciformes条鰭綱 Actinopterygii カレイ目 Pleuronectiformes カレイ科 Pleuronectidae 或は上位のカレイ目に属する多様な種群の通称。

「比目魚(ひらめ)」カレイ目亜目カレイ亜目 Pleuronectoideiヒラメ科 Paralichthyidaeヒラメ属 Paralichthysヒラメ Paralichthys olivaceus 或はヒラメ科に属する種群。一般に「左ヒラメに右カレイ」と言われ、実際、通称のヒラメ類の目は多くの種で成体では両眼ともに頭部の左側半分に偏ってついているから区別出来ると言われるが、実際には、カレイ類に属するもので左側眼の種や個体はいるので、これは絶対の識別法ではない。例えば、カレイ科ヌマガレイ属 Platichthys ヌマガレイ Platichthys stellatus(本邦に北部分に広く分布するが、食用価値が低いために流通しない)はカレイであるが、眼は左につく。また、和名でも流通でも「カレイ」の和名を持っているカレイ目ダルマガレイ科 Bothidaeは全種で眼は左側につく。他にも頭部の左側に目を持つカレイもおり、更に、カレイ目ボウズガレイ亜目 Psettodoidei ボウズガレイ科 Psettodidae(一科一属三種。捕獲報告はあるようであるが恐らくは本邦には産しないようである。但し、近くでは台湾に分布するから、迷走個体は南西諸島にいないとは言えない。背鰭の起き始める部分が眼の位置よりも有意に後ろにあって、カレイ目の中では最も原始的な特徴を残す)は右側眼の個体と左側眼の個体がほぼ同数で出現する。別な形状で言うと、ヒラメはカレイに比べて口が大きいこと、歯も一つ一つが大きくて鋭いという点で、対称比較的な特徴は持つ。

「楢(なら)」植物界 Plantae 被子植物門Angiosperms 双子葉植物綱 Magnoliopsida ブナ目 Fagales ブナ科 Fagaceaeコナラ属 Quercus コナラ亜属subgenesis Quercus に属する中で、落葉性の広葉樹の総称。英語名はオーク(oak)。本邦ではコナラ(小楢)Quercus serrata を指すことが多い。秋には葉が茶色くなることで知られている。

「樫(かし)」植物界被子植物門双子葉植物門ブナ目ブナ科コナラ属 Quercusの中の、常緑性の種を「カシ」と呼ぶが、本邦では、また、同じブナ科のマテバシイ(馬刀葉椎)属 Lithocarpusのシリブカガシ(尻深樫)Lithocarpus glaber も「カシ」と呼んでいる。また、身近なシイ属 Castanopsis も別名でクリガシ(栗樫)属と呼び、これらを「カシ」と呼んでいる人も実際に多いのが事実である(私はかつてアリスの散歩の途中で出逢った、地方出身の私より年若の婦人が落ちている「椎の実」を頻りに「樫の実!」と言っていたのを思い出す)。また、全く異なる種であるクスノキ類(被子植物綱クスノキ目 Laurales クスノキ科 Lauraceae)の一部にも葉の様子などが似ていることから、「カシ」と呼ぶものがある(以上はウィキの「カシ」に拠る)から、丘先生の「區別の出來ぬ人も澤山ある」というのは、民俗社会では少し厳し過ぎる謂いと言える。植物学的な詳細な相違は、「広島大学」公式サイト内の「地球資源論研究室」の「ブナとナラとカシ」がよい。必見!

「橙」植物界 Plantae被子植物門 Magnoliophyta双子葉植物綱 Magnoliopsidaムクロジ目 Sapindalesミカン科 Rutaceaeミカン属 Citrusダイダイ Citrus aurantium。正月飾りに用いられる、お馴染みの柑橘類である。

「昆布」植物界ストラメノパイル群Stramenopiles 不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae コンブ目 Laminariales コンブ科 Laminariaceae のコンブ類。生物学的分類以前からの呼称であり厳密な定義は不能であるが、葉の長細い食用のものが「昆布」と呼ばれる傾向はある。

「人間」動物界 Animalia 真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒトHomo sapiens

「蚤」動物界節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 隠翅(ノミ)目 Siphonaptera のノミ類。ここは隠翅目ヒトノミ科 Pulicidae Pulicinae亜科ヒトノミ属 Pulexヒトノミ Pulex irritans としてよかろう。但し、本種はヒトだけに寄生するわけではなく、哺乳類や鳥類等を広く寄生主としている。]

 動植物學に於ても、初めは之と同じ位な分類法を用ゐ、植物を分ちて喬木[やぶちゃん注:「けうぼく(きょうぼく)。高木(こうぼく)。]・灌木[やぶちゃん注:「くわんぼく(かんぼく)。低木。]・草の三部とし、動物を分ちて、水中に住むもの、地上に住むもの、空中を飛ぶものと僅に三部にした位に過ぎなかつたが、漸々知識の進むのに隨つて、分類の標準も追々に改まり、單に外部の形狀のみによらず、内部の構造をも斟酌するやうになつて、今日に於ては比較解剖學上・比較發生學上の事實を標準として分類の大體を定めるに至つた。この間の分類方法の變遷を調べて見ると、知らず識らず一步づゝ生物進化論に近づいて來た形跡が歷然と現れて、頗る興昧のあることであるが、之を詳しく述べるには、高等から下等まで動物・植物の主なる部類を殘らず記載せなければならず、到底本章の範圍内に於ては出來ぬ故、省略するが、初め魚類の中に編入してあつた鯨を後には哺乳類に移し、初め貝類の中に混じてあつた「ふぢつぼ」を後には甲殼類に組み入れたこと、初め人間だけを別物としてあつたのを後には哺乳類中の特別な一目と見倣し、更に降つては猿類と合して同一中に入れるやうになつたことなどは、たゞその中の一斑に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:既に私の注に述べたが、現代の分類学は、分子生物学の急速な発展によって、アイソザイム(Isozyme:酵素活性がほぼ同じでありながら、タンパク質分子としては別種(アミノ酸配列が異なる)酵素)分析(アイソザイムは遺伝子型を反映していることから、間接的な「遺伝子マーカー」として利用出来る)や直接のDNA解析が進み、その新知見に基づく最新の科学的系統学の知見を反映させた新体系に組み替える動きが盛んである。]

 今日我々が動植物を分類するには、先づ全部を若干の門に大別し、更に各門を若干の綱に分つことは、一度述べたが、尚その以下の分類をいへば、各綱を更に若干の目に分ち、目を科に分ち、科中に若干の屬を置き、屬の中に種を收め、斯くして、世界中にある總べての動植物の種類を一大分類系統の中に悉く編入してしまふ。而して斯く分類するに當つては、何を標準とするかといふに、解剖上・發生上の事項を比較して、異同の多少を鑑定し、異なるものは之を離し遠ざけ、似たものは之を近づけ合せるものである。例へば犬と狐とは無論二種であるが、頗る相似たもの故、之を犬屬といふ中に一所に入れ、猫と虎とは素より種は違うが、甚だ相似た點が多い故、之を猫屬といふ中に一所に入れる。世界中を搜すと、犬屬とも違ふが他の動物屬によりも遙に犬屬の方に近いといふやうな動物が幾らもあるが、これらと犬屬とを合せて更に犬科とし、猫屬の外にも猫に稍々似た類が種々あるが、これらと猫屬とを合せて更に猫科とする。犬科の動物と猫科の動物とは素より著しく相異なる點はあるが、之を牛・馬等に比べて見ると、遙に相似たもの故、犬科・猫科等を合せて食肉類と名づけ、之を哺乳類といふ綱の中の一目とする。されば分類の單位とする所のものは犬・猫・虎・狐といふやうな種であつて、その以上の屬・科・目・綱の如きものは、たゞ若干の種を倂せ稱する名目のみである。

[やぶちゃん注:「綱」英語で“class”、ラテン語で“classis”

「目」英語で“order”、ラテン語で“ordo”

「科」英語で“family”、ラテン語で“familia”

「屬」英語・ラテン語ともに“genus”

「種」英語・ラテン語ともに“species”

「犬」動物界 Animalia 真正後生動物亜界Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 顎口上綱 Gnathostomata 哺乳綱 Mammalia 獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属 Canis タイリクオオカミ Canis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。以下では共通する最後の上位階層を除いて、省略する。

「狐」明確な生物学的定義は実はないが、イヌ亜科 に属するキツネ類で、現行現生種ではキツネ属 Vulpes・オオミミギツネ属 Otocyon・カニクイキツネ属 Cerdocyon・クルペオギツネ属 Pseudalopex・ハイイロギツネ属 Urocyon に含むキツネ類である。但し、狭義には、この中のキツネ属 Vulpes を指すことが多く、我々の馴染みの「狐」はそのキツネ属のアカギツネ Vulpes vulpes の亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica である。

「猫」食肉目Carnivoraネコ型亜目 Feliformia ネコ科 Felidae ネコ属 Felis ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris 亜種イエネコ Felis silvestris catus

「虎」ネコ科 Felidaeヒョウ属 Pantheraトラ Panthera tigris

「牛」哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目Cetartiodactyla 反芻(ウシ)亜目 Ruminantia ウシ科 Bovidae ウシ亜科 Bovinae ウシ族 Bovini ウシ属 Bos オーロックス Bos primigenius 亜種 ウシ Bos primigenius Taurus

「馬」哺乳綱 Mammalia 奇蹄(ウマ)目 Perissodactylaウマ科 Equidae ウマ属 Equus ウマ Equus caballus。]

2018/02/20

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『小日本』創刊

 

   明治二十七年

 

     『小日本』創刊

 

 明治二十六年は「芭蕉雑談」執筆中に暮れた。『日本』に俳句を載せはじめたのを第一として、『俳諧』の発刊、「はてしらずの記」旅行、「芭蕉雑談」の執筆など、居士の身辺は頗る多事であったが、この年居士は句を作ること最も多く、「寒山落木」に存する句数が三千に垂(なんな)んとしている。それも少からざる抹消を経た結果であるから、元来はよほどの数だったので、『獺祭割書屋俳句帖抄』の序に「明治二十六年最(もつとも)多く俳句を作つた年でその數は四千以上にもなつた」とあるのが原数に近いものであろう。一年三千句という例は居士の一生を通じて他にない。

[やぶちゃん注:「明治二十七年」一八九四年。]

 二十七年(二十八歳)を迎えると共に、居士の身辺は前年よりまた多事になった。それは『小日本』創刊の事で、一月八日大原恒徳氏宛の手紙に「私身の上に付ては内々心配致し居候ところこの度(たび)一事業起り一身をまかすやうに相成申候。一事業とは日本新聞社にて繪入小新聞を起す事に御座候(勿論表向きは別世帶に御座候)。ついては私が先づ一切編輯担當の事とほぼ内定致し來月十一日より發行のつもりに御座候」とある。『小日本』の刊行は『日本』の頻々たる発行停止に備えるため、別働隊として計画されたのであるが、同時に上品な家庭向の新聞を作ろうという目的であった。多士済々たる日本新聞社中にも、家庭向の新開となると存外適任者がない。仙田重邦氏を事務総裁とし、編輯主任には思いきって居士を抜擢することになった。古嶋一雄氏などが推薦者であったが、成果を危む人は社内にも少くなかったそうである。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後の衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)であろう。但馬国豊岡(現在の兵庫県豊岡市)生まれ。古島家は旧豊岡藩士で勘定奉行を務める家柄であった。小学校を卒業した後、明治一二(一八七九)年に上京、濱尾新の元で共立学校、同人社などに学んだ。明治一四(一八八一)年に郷里に一度戻って漢学私塾の宝林義塾に学んだが、その後、再度上京、明治二一(一八八八)年に三宅雪嶺主宰の雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』に改題)の記者となり、ジャーナリズムに身を置いた。さらに日本新聞社の記者となり、日清戦争では同僚の正岡子規と従軍、戦況を報道した。明治三一(一八九八)年、玄洋社系の『九州日報』の主筆を一年半つとめた後、日本新聞社に復帰、明治四一(一九〇八)年)には『万朝報』に移った。後、衆議院議員に当選、以後、当選六回を数えた。立憲国民党・革新倶楽部を経、立憲政友会に所属した。一貫して犬養毅の側近として行動をともにし、また、玄洋社の頭山満と組んで、孫文を援助、辛亥革命を蔭から助けた。大正一〇(一九二一)年の「宮中某重大事件」にも介入、山縣有朋の権威失墜に一役買っている。第二次護憲運動では犬養を補佐し、政友会・憲政会との護憲三派連合の成立に尽力した。大正一三(一九二四)年には犬養逓信大臣の下で逓信政務次官となったが、初の普通選挙となった昭和三(一九二八)年の衆議院議員総選挙で落選した。後、昭和七(一九三二)年に貴族院議員に勅選され、昭和二二(一九四七)年の貴族院廃止まで在職した。戦後の幣原内閣の組閣の際には入閣を要請されたが固辞、昭和二一(一九四六)年五月に日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放となった際には後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳から就任を懇請されるが、老齢を理由に固辞し、幣原内閣で外相であった吉田茂を強く推薦、以後、占領期の吉田の相談役となり、「政界の指南番」と称された。「創価教育学会」(創価学会の前身)の設立にも積極的な役割を果たしたことでも知られている(以上はウィキの「古島一雄」に拠った)。]

 『小日本』に従事するに先って、居士は二月一日に上根岸八十二番地――現在の子規庵――に居を移した。はじめて根岸に来た時から算えると満二年、母堂令妹を迎えて一家の主人になってから一年余、八十八番地の家に住んでいたわけである。移転といっても車で運ぶ必要のないほどの近距離だから、直ぐ片づいたことと思われるが、羯南翁の玄関にいた佐藤紅緑氏が手伝に行って、自筆の写本の量に一驚を喫したというのはこの時であった。紅緑氏は引越が済んでから、居士と飄亭氏と三人で新宅で昼飯を食ったという。飄亭氏は前年末除隊、帰郷の途次京都に碧、虚両氏を訪れて、見るもの悉く句になる連吟に両氏を驚かしたりしたが、一月中上京、『小日本』に入社することになっていた。『小日本』入社を勧めた者は無論子規居士で、飄亭氏はこれを機会に、開業免状まで持っていたにかかわらず、厭で堪らなかった医者というものを抛擲したのである。

[やぶちゃん注:「子規庵」現在の東京都台東区根岸二丁目内。

「佐藤紅緑」(こうろく 明治七(一八七四)年~昭和二四(一九四九)年)はジャーナリストで劇作家・小説家・俳人。現在の青森県弘前市親方町生まれ。本名は洽六(こうろく)。父佐藤弥六は幕末に福沢諭吉の慶應義塾で学び、帰郷して県会議員となって産業振興に尽力、また、「林檎圖解」「陸奥評話」「津輕のしるべ」などの著作もあり、森鷗外の史伝「澁江抽齋」にも郷土史家として登場する弘前を代表する人物であった。明治二三(一八九〇)年に東奥義塾を中退して青森県尋常中学校(現在の弘前高等学校)に入学。明治二六(一八九三)年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京し、翌年には日本新聞社に入社した。その頃、先輩の正岡子規の勧めで俳句を始めた。明治二八(一八九五)年に病により、帰郷、東奥日報社に入社して小説・俳句などで活躍、その後、東北日報社・河北新報社の主筆を経て、明治三三(一九〇〇)年、報知新聞社に入社、大隈重信に重用された。記者活動の他、俳人としても活躍、また、大デュマやヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳なども手掛けた。明治三十八年に記者を止め、「俳句研究会」を起こし、小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品を発表して注目を浴び、明治四一(一九〇八)年には創作集「榾(ほだ)」を刊行している。一方、明治三九(一九〇六)年から大正三(一九一四)年までの足掛け八年の間は新派「本郷座」の座付作者も勤めている。大正四(一九一五)年、劇団「新日本劇」の顧問となり、大正一二(一九二三)年に映画研究のために渡欧した後、翌年には「東亜キネマ」の所長に就任している(二年後、退任)。大正八(一九一九)年から昭和二(一九二七)年にかけては新聞雑誌に連載小説「大盜傳」・「荊の冠」・「富士に題す」を書いて一躍、大衆小説の人気作家となった。昭和二(一九二七)年からは『少年俱樂部』に少年小説「あゝ玉杯に花うけて」を連載して好評を博し、その後も「少年讚歌」「英雄行進曲」などで同誌の黄金期を築いた。また、編集長加藤謙一に漫画の掲載を進言して田河水泡の「のらくろ」が誕生する契機も作っている(以上はウィキの「佐藤紅緑」に拠った)。]

 『小日本』は『日本』と同じく紀元節を以て世に生れた。この時分の事に関して、居士自身はあまり語っておらぬが、後年飄亭氏の話されたところによると、日本新聞社の筋向――中川という牛肉屋の並びに蕎麦屋があった、その隣の角家(かどや)で奥に土蔵がある、その土蔵の二階が『小日本』の編輯室だったので、八畳あるかなしの狭い部屋だったそうである。ここに陣取った顔触(かおぶれ)は、居士と飄亭氏の外に、古嶋一雄、斎藤信両氏が二面担当、仙田重邦氏が会計経営の外に、多少貰経済記事を書く。外に荒木という相場記者一人、三面担当の飄亭氏が探訪を二人ほど使う、という程度の小人数であった。建物は別になっているけれども、工場は勿論日本新聞社のを使う。こういう段取(だんどり)の下に『小日本』は呱々(ここ)の声を挙げることになった。

[やぶちゃん注:「斎藤信」不詳。

「荒木という相場記者」不詳。

「探訪」「たんぼう」。明治時代の新聞記者の下で、実地取材に当たった担当者を指す語。「出省方」(「しゅっしょうがた」と読むか)などとも呼ばれ、記者とは厳然と区別された。記者自身は余程の大事件・難事件でない限り、取材はせず、記者はこうした探訪が見聞してきた資料や報告を記事にしたり、英字新聞の翻訳・投書の取捨選択・論説の執筆などに当たっていた(平凡社「世界大百科事典」の「新聞記者」の記載に拠った)。

「呱々(ここ)の声を挙げる」赤ん坊が産ぶ声をあげることで、転じて、新しく物事が始まること、発足することを言う。]

 『日本』は侃々諤々(かんかんがくがく)の筆陣を張る傍(かたわら)、「文苑(ぶんえん)」に詩歌俳句の如き閑文字(かんもじ)を載せることは怠らなかったが、紙面は一切振仮名なしで、小説などは全然これを闕(か)いていた。『小日本』はその別働隊であるというものの、最初から家庭向の新聞たることを標榜していたから、全面ルビ付であるのは勿論、小説もあれば挿画(させ)もある。挿画は浮世絵系統の人によって間に合すのもあったが、どうしても社内に画家を必要とするというので、浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))氏推挙の下に入社したのが中村不折氏であった。後年居士が『墨汁一滴』に書いたところによると、「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」とある。不折氏が挿画に腕を揮ったのは『小日本』創刊以来ではなかったけれども、新進の洋画家を採用するなどということは、従来の新聞社の敢てしなかったところであろう。当時まだ下宿屋の一隅にくすぶっていた不折氏の画がはじめて新聞に現れたのは実に『小日本』紙上においてであった。一たび相識った居士と不折氏との関係が、新聞編輯者と挿画画家の程度にとどまらなかったのはいうまでもない。『墨汁一滴』に「後來(こうらい)余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の變遷を來(きた)し、君の生涯も亦此時以後、前日と異なる逕路(けいろ)を取りしを思へば此會合は無趣味なるが如くにして其實前後の大關鍵(だいかんけん)たりしなり」とあるように、慥に重要な意義を有する出来事であった。

[やぶちゃん注:「侃々諤々(かんかんがくがく)」正しいと思うことを堂々と主張するさま。又、盛んに議論するさま。

「文苑(ぶんえん)」新聞『日本』の文芸欄の名であろう。

「閑文字(かんもじ)」「かんもんじ」とも読み、原義は無意味な文字・文章・無益な言葉であるが、ここは投稿を含めた文芸作品や肩肘張らないコラムの謂いであろう。

「浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))」(安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)は洋画家。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。

「中村不折」(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。

「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」「墨汁一滴」の六月二十五日の条に出る。後の引用も合わせて、国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子を参照して訂した。読みは私が新たに歴史的仮名遣で追加した

「大關鍵(だいかんけん)」物事の最も大きな重要な場面・要所。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(5) 五 生物發生の原則 / 發生學上の事實~了

 

     五 生物發生の原則

 

 動物各種の發生中に現れる性質を丁寧に調べて、彼此相比べて見ると、前節に説いた如く、先祖代々の性質が、子孫の發生の中に順を追うて現れると考へるより外に致し方がないが、動物學者は多數の動物の發生を研究した結果、之より歸納して一の原則を造つた。この原則は生物發生の原則と名づけるもので、短くいへば、個體の發生はその種屬の進化の徑路を繰り返すといふのであつて、尚詳しく言へば、凡そ生物は皆共同の先祖から漸々進化して分かれ降り、終に今日の姿に達したものであるが、今日の一粒の卵から動物の一個體が出來るときには、何億年か何兆年かの間にその動物の種屬が經過し來つた通りの變化を、極めて短く略して繰り返すもので、例へば鯨が今日の姿までに進化し來る途中に一度齒のある時代があつたとすれば、鯨の卵から鯨の兒が發生する途中にも一度齒の現れる時期があり、人間が今日の姿までに進化し來る途中に一度鰓孔のある時代があつたとすれば、人間の卵から人間の兒が發生する途中にも一度鰓孔の生ずる時期があるといふのである。この原則は今日でも種々の學科に應用せられ、心理學・社會學・兒童研究などでも、常に之を唱へるやうになつたが、元は動物學者が動物の發生を調べていひ出したものである。

 若しこの原則を文字通りに解釋して間違ひのないものならば、一種の動物の發生を十分に調べさへすれば、その動物の進化し來つた徑路が明細に解る筈であるが、天然はなかなかさやうな簡單なものではない。實際に於てはたゞ各種の動物の進化歷史中の若干の著しい性質が飛び飛びにその發生の中に現れるだけで、決して發生中の各々の時期が進化歷史中の各時代を寸分も違へずそのまゝに寫し出して居るとは思はれぬ。之は素よりさもあるべきことで、生物が何億年・何兆年の間に漸漸進化し來るときには、その間の各個體は餌を求め、敵から逃れ、且生殖の作用をもなしながら代々極めて少しづゝ變化し來たものであるに反し、數日間或は數週間という極めて短い時の間に、卵から一個體の生ずるときには、敵から逃げることも無く、滋養分は他から供給を受け、生殖作用は全く知らずに、たゞ迅速に形が變化して出來ること故、その間の事情や境遇が全く違ひ、境遇事情が違へば勢い變化の模樣にも著しい相違のあるのは、先づ當然と考へなければならぬ。されば詳細の點までこの原則に照して論じようとするのは無理であるが、この原則を認めなければ説明の出來ぬことが甚だ多くあり、またこの原則を認めさへすれば、初め不思議に思はれたことも多くは容易に理窟が解る所から考へれば、大體に於てはこの原則は正確なものと見倣さなければならぬ。然るにこの原則は生物進化の事實を認めた後に初めて意味を有するもの故、この原則を正確なりといふのは、卽ち生物の進化は無論のこととして、尚その一つ先の點を論じて居る譯に當る。生物種屬不變の説とこの原則との兩立せぬことは、素よりいふまでもないことである。

 本章に述べた事實は、この原則によれば總べて一應理窟が解るものばかりである。發生の途中に一度或る性質が現れて後に再び消えることも、退化した動物が發生の途中に却つて高等の體制を有することも、同門・同綱に屬する動物は生長後如何に形狀の異なるものでも、發生の初めには著しく相似ることも、また發生の進むに隨うて動物の形狀が漸漸樹枝狀に順を追うて相分かれることも、皆この原則の中に含まれたことで、總べて之によつて説明が出來る。尚この原則はたゞ卵殼内または親の胎内に於ける間の發生に適するのみならず、生れて後の變化も之によつて支配せられるもので、南アメリカのペングィンが生長し終れば、ただ泳ぐばかりで、飛ぶ力はないが、雛の頃には能く飛ぶこと、また人間の幼兒が猿類の如くに足の裏を互に内側へ向け合せて居ることなども、この原則に隨つた事實であらう。尚一層推し擴げると、兒童の心理、社會の發達等も之によつて幾分かその理を察することが出來る。實に原則の名に背かぬ生物學上最も重大な一法則といはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

     四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

 同じ部類に屬する動物は、如何に形の異なつたものでも、發生の初期には極めて相似た形狀を有することは、前に述べた通りであるが、この相似た形を有する時代から漸々發生して種々の異なつた動物の出來上るには、如何なる順序に變化して進むものであるか。例へば第三〇〇頁の圖[やぶちゃん注:前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。キャプションと一緒に前のリンクで参照されたい。]に示した如く、初人間も、兎も、牛も、豚も、鷄も、龜も、蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]も、魚も皆殆ど同一の形をして居るが、何時頃から相分れて、人間は人間、牛は牛と區別の出來るやうになるものであるかといふに、多少の例外と見えるものはあるが、先づ相異なつたもの程、早くその間に相違が現れ、相似たもの程同一の形狀を保つ時代が長く續くのが、一般の規則のやうである。

 

Sekituidoubutuhatuseihikaku

[脊椎動物の發生經過の比較]

[やぶちゃん注:立体感がある底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をやや補正して示した。図中のキャプションは左から、

「魚類」・「ゐもり」・「龜類」・「にはとり」・「ぶた」・「うし」・「うさぎ」・「人間」

である。]

 

 こゝに掲げた脊椎動物發生比較の圖は、以上八種の脊椎動物の發生の中から、略々相當した時代を三つづゝ選んで、竝べて畫いたものであるが、上の段は既に前に一度掲げたもの[やぶちゃん注:やはり、前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。]と同じで、人間で云へば先づ一箇月の末位の所で、中の段は一箇月半、下の段は三箇月位の所に相當する。上の段では皆總べて相似て居るが、中の段ではは魚と蠑螈とだけは既に識別が出來る。倂し、龜以上のものはまだ略々同樣である。然るに下の段になると魚と蠑螈とは素より、龜も鷄も明に區別が出來、哺乳類は尚甚だ相似ては居るが、既に各種の特徴が現れて居る。之は僅に三段だけの比較であるが、尚詳細にこれらの動物の發生を比べて見ると、略々次の如くである。

 先づ最初暫くの間はこれら八種の動物は、殆ど識別も出來ぬ位に相似て居るが、少し發生が進むと魚と蠑螈とは一方へ、餘の六種は他の方へ向うて進むので、二組に分かれる。一方の幼兒は魚か蠑螈かになるといふことだけは解るが、その中、孰れになるかはまだ解らず、他の方の組は魚または蠑螈にはならぬといふことだけは解るが、他の六種の中の何になるかは、まだ全く解らぬ。尚少し發生が進むと、魚と蠑螈との區別が出來て、圖の中段の如き有樣となる。また少し先へ進むと、他の六種の中、龜と鷄とは一方へ、餘の四種は他の方へ進んで二組に分れるが、その頃には一方は龜か鷄かになるといふことだけは解るが、孰れが龜になるか孰れが鷄になるか、まだ解らず、また他の方は哺乳類になるといふことだけは解るが、その中の何になるかはまだ少しも知れぬ。更に發生が進めば龜には固有の甲が現れ、鷄の前足は翼の形となつて、二者の間に明な區別が生じ、また哺乳類の方にも一種每に特徴が見えるやうになつて、終には前の圖の下段に示した如くに、牛・豚・兎・人間と識別の出來るやうな姿になるのである。

 

Hasseihikakunohyou

[發生比較の表]

[やぶちゃん注:キャプションがある関係上、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。図中のキャプションは左から、

「魚」・「蠑螈」・「龜」・「鷄」・「豚」・「牛」・「兎」・「人」

である。この図の原図は進化論生物学者ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八九二年にDarwin, and After Darwinに描いたものである。サイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかを参照されたい。]

 

 右の有樣を表に書いて示すと、略々上の圖の如くである。この表では下端を古とし、上端を新とし、時は下より上へ向うて進み行くと假定し、形の似たものは相近づけ、形の異なるに隨つて之を相遠ざけ、各種の發生の徑路を線で現してあるが、これらの種類は發生の進むに隨ひ、順を追うて互に相分かれるから、この方法によつて表を作れば、勢い斯くの如き樹枝狀のものが出來る。また表中に書き加へた三本の橫線は前圖に示した位の發生の時代を現す積りのもので、最下の橫線は圖の上段、中の橫線は同じく中段、上の橫線は同じく下段に示した位の發生の時期に相當する積り故、前の圖と照し合せて見たならば、尚この表の意味が明に解るであらう。

 斯くの如く發生の有樣を比較して表に作れば、樹枝狀のものが出來ることは、無論以上の動物に限る譯ではなく、何門・何綱の動物を取つても皆この通りである。また如何なる動物と雖も、その發生の最初は皆一粒の卵であるから、こゝまで溯つて比較すれば、總べての動物は皆同一の形を有するといはねばならぬ。卵には鷄の卵の如く大きなものも、人間や犬・猫の卵の如く小いものもあるが、抑々鷄卵の中で眞に卵といふべきはどの部であるかといふに、牝鷄の卵巢の内で出來るのは、たゞ蛋黃ばかりで、これが輸卵管を通過して出て來る間に、その周圍に蛋白が附け加わり、生れる前に少時輸卵管の末端に留まる間に、その外面へ卵殼が出來るのであるから、鷄卵の中で眞に卵と名づけて他の動物の卵と比較すべきものは、ただ蛋黃ばかりである。その蛋黃が鷄では直徑七八分[やぶちゃん注:二・一~二・四センチメートル]もあり、人間・犬・猫の卵は僅に一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。]も足らぬが、之は何故かと尋ねるに、全く滋養分を多く含むと含まぬとによることで、またその理由を探ると、各々發生の場所及び發生の狀況が違ふのに基づくことである。人間の子は母の胎内で、母の血液に養はれながら發生すること故、午前に母の食ふた滋養物は午後は既に子の養となるといふ具合に、絶えず母から滋養分が廻つて來るから、最初から卵の中に澤山の滋養分を備へて置く必要はないが、鷄の方は之と反對で、まだ少しも發生の始まらぬ卵が早くも母の體から離れて生み出され、その後は全く卵の中にある滋養分ばかりに賴つて發生し、酸素だけは空中から取るが、その他には何も外界から取らずに雛までに生長するのであるから、最初から餘程十分に滋養分が貯へられてなければならぬ。人間は極めて小い卵から發生しながら、生れる時は既に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]位もある相當に大きな幼兒となるが、鷄の方は初め卵の大きなのに聯らず、雛以上の大きさになれぬのは、全くこの理窟に原因することである。つまる所、卵の大小の相違は、その中に含む滋養分の多少に基づくだけのこと故、大きな卵と小な卵とは、恰も饀の多い饅頭と饀の少い饅頭との相違だけで、斯かる副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副次的」に同じい。]の性質を省き、眞に卵たる點だけを比べて見ると、何動物の卵も殆ど全く同一で區別は出來ぬ。それ故、若し動物の發生を極最初まで溯つて比較したならば、その出發點に於ては、如何なる動物も皆同樣な形狀を有するものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:現行のヒトの出産時の正常出生体重は二千五百グラムから四千グラム未満とされる。

「副貳的」「副弐(ふくじ)」と同義であるが、元来「副弐」とは正本に対して、その写本を意味した。]

 同門・同綱に屬する動物の發生を比較して表に示せば、樹枝狀に分岐した圖が出來ることは、前に述べたが、尚溯つて發生の極最初卽ち卵の時代までを比較すると、總べての動物が皆略々一樣の形狀を呈し、發生の根本はたゞ一の形に歸する故、若し假に現今地球上に住する動物各種の發生が、悉く完全に調べられたと考へて、その發生の徑路を前に述べた方法によつて圖に作つたと想像したならば、その結果は一大樹木の形となり、根本は發生の初期なる卵時代を現し、太い枝は各門・綱等の基部を示し、末梢端は各一種の生長した動物種屬を代表するものが出來る筈である。今日直に斯かる圖を誤らぬやうに作ることは勿論出來ぬが、研究が十分屆いた後にはかやうなものが出來るといふことだけは疑がない。

[やぶちゃん注:所謂、「系統樹」である。旧来の形態比較上の系統分類学の時代は主に進化を示すために描かれたが、近年の分岐分類学(分岐学)における系統樹は「分岐図」乃至は、「クラドグラム」(cladogram)と呼ばれる厳密なものとなり、分子生物学の発達によって旧来の楽観的な「生命の木」的発想は驚異的に大きな変更を迫られ、一部は無効となってさえいる。]

 動物發生の研究は前にも述べた如く、なかなか容易なことではなく、材料も十分になければならず、時間も餘程掛けねば出來ず、また之に從事して居る學者は決して少いとはいへぬが、動物の種類は何十萬もあること故、今日略々完全に發生の知れてあるものは、まだ甚だ小部分だけに過ぎぬ。倂し犬の發生が解れば、狐・狸の發生は之より推して略々想像することが出來、鷄の發生が解れば、雉・孔雀の發生も之より推して察することが出來るから、動物各種の發生が悉く調べ上げられるまで待たなくても、各綱目から若干づゝの代表者の發生が解りさへすれば、ここに述べた動物發生の大樹木の枝振りの大體は知れる筈で、既に今日までに學者の研究した種類だけから論じても、大體の形だけは確めることが出來る。今日發生學者の間に議論の一致せぬ點は、たゞ何の枝の分かれる處が上であるか下であるかとか、或は某の小枝は甲の枝から分かれたものか、乙の枝から分かれたものかといふやうなことばかりで、全體が樹枝狀を呈するといふ點に至つては、疑を懷く人は一人もない。

[やぶちゃん注:一般的な系統樹が楽天的に適用することが不可能なケースが既に判っている。則ち、生物進化の過程の中で生じた非常に重要な寄生・共生による進化の実際である。ウィキの「系統樹」によれば、『今日の進化的知見に基づく、系統樹作成の問題の一つが、細胞内共生説