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2018/02/04

老媼茶話拾遺 由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

     由井正雪、丸橋忠彌が謀叛

 

 人皇百十一代後光明院、慶安四年四月也。楠正雪、駿河へおもむく折に、鈴ヶ森にてしばらく休息して、

 

 門出に鑓の穗先は尾花かな   正雪

 秋にふるれは鳴鈴ヶ森     郭然

 月のこり二千里の外年のうち  鵜野九郎兵衞

 

 由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云。由井正雪最期の後、旅行の荷札に、紀伊の家中の士の樣に書付けるうへ、紀伊大納言賴宣卿御判形(ごはんぎやう)あるあいだ、酒井讚岐守、賴宣卿へ參上、直(ぢき)に御判の事を申上、

「此書は謀書(ぼうしよ)にてもこそ候はめ。御墨色、大に違ひ申候。加樣の反古(ほご)、燒捨(やきすて)て能(よく)候。」

とて、卽座に引破(ひきやぶり)、火にくべ、其後、申上(まうしあげ)けるは、

「御判形などは、御身近く召し仕わるゝ人々に、御油斷被成(なされ)ざる事、肝要に候。」

と申上ける。

 賴宣、仰(おほせ)けるは、

「此判形、いささか、覺へなし。然(しかれ)ども、判形あるうへは、貴殿申さるゝ通り、向後(きやうこう)、油斷なりがたし。」

と、御小性(こしやう)中(ちゆう)の語合(かたりあひ)居たる邊(あたり)をみやり給ひけるに、加納何某(なにがし)とかや申(まうす)若輩成(なる)人、御緣先へ立(たつ)よ、とみへしかば、御目通りにて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

 此人、知りたるにあらざれとも、主君の御難を身に引受(ひきうけ)、腹切て死にけるとぞ。

 賴宣卿御代は、其(その)子ありけるをば、熊野のおくにさし置(おか)れ、對山大納言殿に召出(めしいださ)れ、段々、立身し、加納平次右衞門と申(まうし)ける也。

 紀伊大納言賴宣卿、東照宮の十男君也。

 御心、甚(はなはだ)たくましくして、友嶋遊獵(ゆうりやう)の節は、御腰をかけられし休息、動出(うごきいで)、龍のごとき者、あらわれける。志津(しづ)の長刀(なぎなた)、蛇の頭(かしら)へ差當(さしあ)て、

「山神(せんじん)、伏木(ふしき)と變じ給ふらん。動き給はゞ、忽ち、刺殺(さしころし)申(まうす)ぞ。」

と、いわせ怒らせ給へば、元の朽木(くちき)と成(なり)し、といへり。

 その日、大雨洪水(たいうこうずい)にて、御鷹野に成(なり)かねければ、海上三里、うごきければ、こぎもどりしに、雷、御舟へ落(おち)ける。

 火の玉、御座近くころび來(きた)るを、毛氈(もうせん)をなげ、

「夫(それ)、手どりにせよ。」

と御下知也。

 御近習の何某、爰かしこ、おさへ取らんとするに、其手の下より拔出(ぬけいで)、天へのぼる。

 此(これ)、火の玉にて、水主(すいしゆ)五、六人、みぢんに成(なり)、骨(ほね)迄、碎(くだけ)たり。

 寛文年中、遠江國渡りにて、御船(おふね)を卷上げ、茶臼のまはす如く、海上、荒(あれ)けるに、平生の御顏色にて、事ともし給はざるとかや。

 寛文十一年正月十日、御逝去也。紀州鴨谷(かもだに)に葬りて、南龍院殿(なんりゆういんでん)と號し奉る。七十歳とかや。御兄弟十一人の内、長壽尤(もつとも)ましましける。御歌に、

 

  思ふ事一かなへは又二かしの世や

 

[やぶちゃん注:慶安の変絡みの逸話と事後談から、同事件で関与が疑われた徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年:徳川家康十男。紀州徳川家祖。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩を経て。元和五(一六一九)年に紀伊国和歌山藩五十五万五千石に転封、藩主となった(数え十八)。慶安の変(慶安四(一六五一)年四月から七月)当時は満四十九歳。徳川家康直系の長老の生き残りで、ここのエピソードにも出る通り、性格的にも戦国武将的な一面を持っており、幕府にとっては煙たい存在であった。そこに由井正雪の遺品から頼宣の印判を偽造した文書が出てきたことから、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、十年もの間、江戸に留め置かれて、紀州へは帰国出来なかった)の本件の逸話から、慶安の変とは無関係な彼の怪奇武勇伝にスライドして、やや「老媼茶話」の怪奇談の面影を示す。発句和歌の前後は一行空けた。

「人皇百十一代後光明院」後光明天皇(寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年/在位:寛永二〇(一六四三)年~承応三年)は現在は第百十代天皇とする。これは、明治以前、神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものであろう。

「門出に鑓の穗先は尾花かな」整序して示す。

 

 門出(かどいで)に鑓(やり)の穗先は尾花(をばな)かな

 

正雪が駿府城ジャックのために江戸を出立したのは、前に出た通り、慶安四年七月二十一日、グレゴリオ暦では一六五一年九月五日で既に秋であった。

「秋にふるれは鳴鈴ケ森」整序して示す。

 

 秋にふるれば鳴る鈴ヶ森(すずがもり)

 

「ふる」は「経る」(時が経って決起の時となる)と「鈴ヶ森」の鈴に「触る」、及び、鈴を「振る」に掛け、恐らくは決起に「奮(ふる)ひ立つ」の「奮ふ」や「武者震ひ」の「震ふ」にも掛けていよう。しかし、ここ鈴ヶ森に、まさにこの僅か十九日後に、丸橋忠弥一党が磔にされることまでは思い至らなかったわけである。

「郭然」前章では「郭善」と出る。正雪一味であった正体不明の巨魁の怪僧。正雪の介錯役を成して後、同時に自害したものと思われる。

「月のこり二千里の外年のうち」整序して示す。

 

 月殘り二千里の外(ほか)年の内

 

何時も非常にお世話になっているかわうそ氏の「暦のページ」で当日の月没時刻を調べると、十一時六分である。「二千里の外(ほか)」は恐らくは日本国全土、帝のしろしめす国土を謂い、「年の内」には現政権を打ち亡ぼし、新たな御代が到来することを言祝いだ予祝の意味が込められていよう。

「鵜野九郎兵衞」既出既注。正雪門人の中でも高弟で大将格。

「由井正雪は元駿河府中紺屋次郎右衞門といふものゝ子にて、はじめ久米、後(のちに)、與四郎と云」ウィキの「由井正雪」によれば、『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では』慶長一〇(一六〇五)年、『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたという。治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。軍学者の楠木正辰の弟子となり軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』とある。

「酒井讚岐守」老中酒井忠勝(天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵川越藩第二代藩主で、後に若狭小浜藩初代藩主。家光から次代の家綱時代の老中・大老。寛永元(一六二四)年十一月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となり、寛永一五(一六三八)年十一月に土井利勝とともに老中を罷免されて、大事を議する日のみの登城を命ぜられ、これが後の「大老」職の起こりとなった。

「判形」書き判。花押。

「謀書」偽造文書。但し、徳川頼宣の慶安の変への加担或いは彼こそが影の首謀者だったとする小説的仮説を好む者は現在でも多く、その手の小説類で以下の小姓切腹に一件も完璧な事実であるかのように、かなり流布している

「加納何某(なにがし)」不詳。この話は「徳川実紀」(幕府編纂になる徳川家の歴史書。五百十六巻。林述斎の監修のもと、文化六(一八〇九)年に着手し、嘉永二(一八四九)年完成)などに載るが、私はやや不審を感じる。さらに言えば、頼宣の信頼厚かった紀州藩家老に加納直恒(慶長五(一六〇〇)年~貞享元(一六八四)年)がいる。彼はウィキの「加納直恒」によれば、『上総に生まれ』、慶長一五(一六一〇)年、『母の姉佐阿が駿府城大奥で徳川家康の侍女を務めていた縁で、家康に小姓として召し出され』、二百『石を賜る。母の兄・加納久利の猶子として加納氏を称した』(同ウィキの注に『加納氏は、松平泰親の庶子久親の子孫で、後に、主君と同じ松平の苗字を称することを憚り、代々居住する加納を称した。また故あって、氏も藤原氏に改めた』ともある)。翌年、『上洛して二条城で家康と会見した豊臣秀頼への答礼の使者として、大坂城に赴く徳川義直、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長二十年の『大坂夏の陣の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり』、元和五(一六一九)年、『駿河で加増を受け知行』三百『石。頼宣の紀州入りに従』って、翌年には『加増を受け、知行』二千『石』、六十『人の与力鉄砲同心を預かる。』寛永二〇(一六四三)年に大番頭、万治二(一六五九)年、『年寄列に加わる』。寛文七(一六六七)年には隠居して家督を嫡男政直に譲っているが、「慶安の変」は彼の勤仕中の出来事である。しかもウィキには、『軍学者・由井正雪が、家老・渡辺直綱を介して紀州藩に仕官を求めた際に、直綱が仕官の希望を頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、直綱に意見を問うと、猛反対したため仕官は見送られた。後に、正雪が慶安の変を引き起こすと、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った』(下線やぶちゃん)と「加納五郎左衛門行状記」からとして記してまであるのである。ここに出る「加納某」は頼宣の小姓であり、主君への疑いを晴らさんがためだけに(由井正雪とは何の関係もないのに)、ただ黙って腹を切った(と筆者は考えている)とすれば、タダモノではない。とすれば、この加納直恒所縁の縁者であると考えるのが至極当然と私は思うのであるが、そんな話はどこにも出て来ない。だから不審なのである。

「御目通りにて」主君頼宣及び酒井忠勝ら貴人の御前にての意。

にて腹切(はらきり)てぞ失(うせ)にける。

「知りたるにあらざれとも」正雪との一味同心や公文書偽造に関わったわけではさらさらなかったのであるけれども、の意。

「對山大納言」「たいざんのだいなごん」と読んでおく。頼宣の長男で紀州藩第二代藩主徳川光貞(寛永三(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)のこと。言わずもがな、後の第八代将軍吉宗の父。「對山」は元禄一五(一七〇二)年に出家した後の号。法号も「淸溪院殿二品前亞相源泉尊義對山大居士」。

「加納平次右衞門」だからね、不審だって言うわけよ! 先に注した加納直恒は引用した通り、寛文七(一六六七)年(七月十五日)に隠居して家督を嫡男政直に譲って、それから十七年も悠々自適に生き、貞享元(一六八四)年十月四日に享年八十五で亡くなっているのだが、その息子加納大隅守政直(元和八(一六二二)年~正徳五(一七一六)年)は無論、紀州藩家老となったわけで、その通称は平次右衛門だぜ?! ウィキの「加納政直」によれば、慶安二(一六四九)年、数え二十八歳の時に『部屋住みで召し出され』、『大番与頭となり』、『名を平次右衛門と改める』。寛文七(一六六七)年七月、『父直恒の隠居により』、『家督と知行』二千『を相続し、家老となる』(直後に二千石加増で知行四千石)。貞享元(一六八四)年十月には、『生まれた藩主・光貞の四男・源六(後の徳川吉宗)を預けられ、屋敷で』五『歳まで養育』している。元禄一二(一六九九)年に隠居し、『家督を嫡男政信に譲』った。享年は九十四。『次男・久通は、本家・加納久政の養子となり』、『家督相続、吉宗に仕え、吉宗の徳川宗家相続に伴い、江戸に移り、旗本として仕え』、享保一一(一七二六)年『には大名に列し、伊勢八田藩初代藩主とな』っている、というわけよ。ここに出る加納本家というのも相応に紀州藩で幅を利かしていたんだろう。されば、腹切りした小姓加納某はその本家筋かぁ? それにしちゃ、どうにもこうにも俺にはコンガラガッちまってキモチワルイんだけど? 誰か、キモチヨク、俺に説明してクンナイかなぁ?

「友嶋」友ヶ島(ともがしま)。和歌山と淡路島の狭隘する紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ、現在の和歌山県和歌山市加太(かだ)に属する無人島群の総称。地ノ島・神島・沖ノ島・虎島(沖ノ島北東部に連なる陸繋島)でから成る。ウィキの「友ヶ島」によれば、『江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における』五『つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「御腰をかけられし休息、動出」何だか、おかしい。後で「元の朽木と成し」とあるのだから、「御腰をかけ、休息せられし古木、動き出で」あたりであろうか。

「龍のごとき者」頼宣は自身を「南龍」と号し、神号も「南龍大神」、法号も「南龍院殿從二位前亞相顗永(がいえい)天晃大居士」で、世間でも「南龍公」と呼び、「南海の臥龍(がりょう)」と評した者もいるらしいから、如何にもハマり過ぎたエピソードである。

「志津の長刀」鎌倉期の刀工で正宗十哲の一人とされる志津三郎兼氏の作(伝)の長刀。因みに、近世長刀術の一流派に「静流(しずかりゅう)」と称するものがあり、この名は流祖を源義経の愛妾静御前に仮託する説がある一方、使用する長刀の形式がこの志津三郎作の小反刃(こぞりば)長刀に由来するとする(志津ヶ流)説があるというから、長刀の名刀としては知られたものであったようだ。

「蛇」友ヶ島群には蝮(マムシ)を始めとする蛇類が多く棲息することが、ウィキの「友ヶ島」から判る。

「山神(せんじん)」この読みは底本の編者ルビに従ったが、何故、「せんじん」なのかはよく判らぬ。私は「さんじん」でもよかろうとは思う。

「大雨洪水(たいうこうずい)にて」ということはそれはやはり、そんじょそこらのちょっとした妖蛇の怪だったのではなく、伏龍だったということになるわな。

「御鷹野」御鷹狩りと同義。

「海上三里、うごきければ」海上は十二キロ四方が激しく波立って時化たので、の意でとっておく。因みに、沖ノ島から直進すると、和歌山の港までは十四キロメートルほどある。

「毛氈(もうせん)」獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦を加え、繊維を密着させて織物のようにしたもの。幅広で敷物に用いる。

「手どり」取り押さえること。

「水主(すいしゆ)」水主(かこ)。船頭や漕ぎ手。

「みぢん」「微塵」。球電(プラズマ)か。

「寛文」一六六一年~一六七三年。但し、以下にある通り、「寛文十一年正月十日」に亡くなっている。寛文は十三年まで。元年なら、満で五十九歳。

「紀州鴨谷(かもだに)」この地名は不詳だが、頼宣の墓所は現在の和歌山県海南市下津町にある天台宗慶徳山長保寺で、ここには紀州藩主紀州徳川家歴代(但し、第五代吉宗(後の第八代将軍)と第十三代慶福(よしとみ:後の第十四代将軍家茂)の墓は東京)の墓所である。ここの旧地名は紀伊国海部郡浜中荘上村で、「鴨」も「谷」も関係ないが?

「思ふ事一かなへは又二かしの世や」整序すると、

 

 思ふ事一ツ叶(かな)へば又二ツ三ツ四ツ五ツ六ツかしの世や

 

であるが、これは頼宣のものではない(戯れ歌として好んで口ずさんだことはあり得るかも知れぬ)。所謂、諺・教訓(特に坊主が宗派を問わず好むようだ)風の狂歌で、ネットを探ると、

 

 世の中に一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 物事は一つ叶えばまた二つ三つ四つ五つ六つかしの世や

 憂きことの一つ二つもあらばこそ三つ四つ五つむつかしの世や

 

のヴァリエーションが腐るほど、見つかる。最後のものは、十六世紀の興福寺の僧の日記に出ると、興福寺貫首多川俊映氏の「心に響く99の言葉 東洋の風韻」(二〇〇八ダイヤモンド社刊)にあり、この手のものでは古いものの一つであろう。思うことの一つも叶えばこの世は幸せだろう。一つも叶うことなく死んでいった人々はさわにいる。こんなことをうそぶく宗教人というのは私の最も嫌う輩だ。]

 

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