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2018/02/20

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

     四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

 同じ部類に屬する動物は、如何に形の異なつたものでも、發生の初期には極めて相似た形狀を有することは、前に述べた通りであるが、この相似た形を有する時代から漸々發生して種々の異なつた動物の出來上るには、如何なる順序に變化して進むものであるか。例へば第三〇〇頁の圖[やぶちゃん注:前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。キャプションと一緒に前のリンクで参照されたい。]に示した如く、初人間も、兎も、牛も、豚も、鷄も、龜も、蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]も、魚も皆殆ど同一の形をして居るが、何時頃から相分れて、人間は人間、牛は牛と區別の出來るやうになるものであるかといふに、多少の例外と見えるものはあるが、先づ相異なつたもの程、早くその間に相違が現れ、相似たもの程同一の形狀を保つ時代が長く續くのが、一般の規則のやうである。

 

Sekituidoubutuhatuseihikaku

[脊椎動物の發生經過の比較]

[やぶちゃん注:立体感がある底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をやや補正して示した。図中のキャプションは左から、

「魚類」・「ゐもり」・「龜類」・「にはとり」・「ぶた」・「うし」・「うさぎ」・「人間」

である。]

 

 こゝに掲げた脊椎動物發生比較の圖は、以上八種の脊椎動物の發生の中から、略々相當した時代を三つづゝ選んで、竝べて畫いたものであるが、上の段は既に前に一度掲げたもの[やぶちゃん注:やはり、前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。]と同じで、人間で云へば先づ一箇月の末位の所で、中の段は一箇月半、下の段は三箇月位の所に相當する。上の段では皆總べて相似て居るが、中の段ではは魚と蠑螈とだけは既に識別が出來る。倂し、龜以上のものはまだ略々同樣である。然るに下の段になると魚と蠑螈とは素より、龜も鷄も明に區別が出來、哺乳類は尚甚だ相似ては居るが、既に各種の特徴が現れて居る。之は僅に三段だけの比較であるが、尚詳細にこれらの動物の發生を比べて見ると、略々次の如くである。

 先づ最初暫くの間はこれら八種の動物は、殆ど識別も出來ぬ位に相似て居るが、少し發生が進むと魚と蠑螈とは一方へ、餘の六種は他の方へ向うて進むので、二組に分かれる。一方の幼兒は魚か蠑螈かになるといふことだけは解るが、その中、孰れになるかはまだ解らず、他の方の組は魚または蠑螈にはならぬといふことだけは解るが、他の六種の中の何になるかは、まだ全く解らぬ。尚少し發生が進むと、魚と蠑螈との區別が出來て、圖の中段の如き有樣となる。また少し先へ進むと、他の六種の中、龜と鷄とは一方へ、餘の四種は他の方へ進んで二組に分れるが、その頃には一方は龜か鷄かになるといふことだけは解るが、孰れが龜になるか孰れが鷄になるか、まだ解らず、また他の方は哺乳類になるといふことだけは解るが、その中の何になるかはまだ少しも知れぬ。更に發生が進めば龜には固有の甲が現れ、鷄の前足は翼の形となつて、二者の間に明な區別が生じ、また哺乳類の方にも一種每に特徴が見えるやうになつて、終には前の圖の下段に示した如くに、牛・豚・兎・人間と識別の出來るやうな姿になるのである。

 

Hasseihikakunohyou

[發生比較の表]

[やぶちゃん注:キャプションがある関係上、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。図中のキャプションは左から、

「魚」・「蠑螈」・「龜」・「鷄」・「豚」・「牛」・「兎」・「人」

である。この図の原図は進化論生物学者ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八九二年にDarwin, and After Darwinに描いたものである。サイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかを参照されたい。]

 

 右の有樣を表に書いて示すと、略々上の圖の如くである。この表では下端を古とし、上端を新とし、時は下より上へ向うて進み行くと假定し、形の似たものは相近づけ、形の異なるに隨つて之を相遠ざけ、各種の發生の徑路を線で現してあるが、これらの種類は發生の進むに隨ひ、順を追うて互に相分かれるから、この方法によつて表を作れば、勢い斯くの如き樹枝狀のものが出來る。また表中に書き加へた三本の橫線は前圖に示した位の發生の時代を現す積りのもので、最下の橫線は圖の上段、中の橫線は同じく中段、上の橫線は同じく下段に示した位の發生の時期に相當する積り故、前の圖と照し合せて見たならば、尚この表の意味が明に解るであらう。

 斯くの如く發生の有樣を比較して表に作れば、樹枝狀のものが出來ることは、無論以上の動物に限る譯ではなく、何門・何綱の動物を取つても皆この通りである。また如何なる動物と雖も、その發生の最初は皆一粒の卵であるから、こゝまで溯つて比較すれば、總べての動物は皆同一の形を有するといはねばならぬ。卵には鷄の卵の如く大きなものも、人間や犬・猫の卵の如く小いものもあるが、抑々鷄卵の中で眞に卵といふべきはどの部であるかといふに、牝鷄の卵巢の内で出來るのは、たゞ蛋黃ばかりで、これが輸卵管を通過して出て來る間に、その周圍に蛋白が附け加わり、生れる前に少時輸卵管の末端に留まる間に、その外面へ卵殼が出來るのであるから、鷄卵の中で眞に卵と名づけて他の動物の卵と比較すべきものは、ただ蛋黃ばかりである。その蛋黃が鷄では直徑七八分[やぶちゃん注:二・一~二・四センチメートル]もあり、人間・犬・猫の卵は僅に一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。]も足らぬが、之は何故かと尋ねるに、全く滋養分を多く含むと含まぬとによることで、またその理由を探ると、各々發生の場所及び發生の狀況が違ふのに基づくことである。人間の子は母の胎内で、母の血液に養はれながら發生すること故、午前に母の食ふた滋養物は午後は既に子の養となるといふ具合に、絶えず母から滋養分が廻つて來るから、最初から卵の中に澤山の滋養分を備へて置く必要はないが、鷄の方は之と反對で、まだ少しも發生の始まらぬ卵が早くも母の體から離れて生み出され、その後は全く卵の中にある滋養分ばかりに賴つて發生し、酸素だけは空中から取るが、その他には何も外界から取らずに雛までに生長するのであるから、最初から餘程十分に滋養分が貯へられてなければならぬ。人間は極めて小い卵から發生しながら、生れる時は既に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]位もある相當に大きな幼兒となるが、鷄の方は初め卵の大きなのに聯らず、雛以上の大きさになれぬのは、全くこの理窟に原因することである。つまる所、卵の大小の相違は、その中に含む滋養分の多少に基づくだけのこと故、大きな卵と小な卵とは、恰も饀の多い饅頭と饀の少い饅頭との相違だけで、斯かる副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副次的」に同じい。]の性質を省き、眞に卵たる點だけを比べて見ると、何動物の卵も殆ど全く同一で區別は出來ぬ。それ故、若し動物の發生を極最初まで溯つて比較したならば、その出發點に於ては、如何なる動物も皆同樣な形狀を有するものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:現行のヒトの出産時の正常出生体重は二千五百グラムから四千グラム未満とされる。

「副貳的」「副弐(ふくじ)」と同義であるが、元来「副弐」とは正本に対して、その写本を意味した。]

 同門・同綱に屬する動物の發生を比較して表に示せば、樹枝狀に分岐した圖が出來ることは、前に述べたが、尚溯つて發生の極最初卽ち卵の時代までを比較すると、總べての動物が皆略々一樣の形狀を呈し、發生の根本はたゞ一の形に歸する故、若し假に現今地球上に住する動物各種の發生が、悉く完全に調べられたと考へて、その發生の徑路を前に述べた方法によつて圖に作つたと想像したならば、その結果は一大樹木の形となり、根本は發生の初期なる卵時代を現し、太い枝は各門・綱等の基部を示し、末梢端は各一種の生長した動物種屬を代表するものが出來る筈である。今日直に斯かる圖を誤らぬやうに作ることは勿論出來ぬが、研究が十分屆いた後にはかやうなものが出來るといふことだけは疑がない。

[やぶちゃん注:所謂、「系統樹」である。旧来の形態比較上の系統分類学の時代は主に進化を示すために描かれたが、近年の分岐分類学(分岐学)における系統樹は「分岐図」乃至は、「クラドグラム」(cladogram)と呼ばれる厳密なものとなり、分子生物学の発達によって旧来の楽観的な「生命の木」的発想は驚異的に大きな変更を迫られ、一部は無効となってさえいる。]

 動物發生の研究は前にも述べた如く、なかなか容易なことではなく、材料も十分になければならず、時間も餘程掛けねば出來ず、また之に從事して居る學者は決して少いとはいへぬが、動物の種類は何十萬もあること故、今日略々完全に發生の知れてあるものは、まだ甚だ小部分だけに過ぎぬ。倂し犬の發生が解れば、狐・狸の發生は之より推して略々想像することが出來、鷄の發生が解れば、雉・孔雀の發生も之より推して察することが出來るから、動物各種の發生が悉く調べ上げられるまで待たなくても、各綱目から若干づゝの代表者の發生が解りさへすれば、ここに述べた動物發生の大樹木の枝振りの大體は知れる筈で、既に今日までに學者の研究した種類だけから論じても、大體の形だけは確めることが出來る。今日發生學者の間に議論の一致せぬ點は、たゞ何の枝の分かれる處が上であるか下であるかとか、或は某の小枝は甲の枝から分かれたものか、乙の枝から分かれたものかといふやうなことばかりで、全體が樹枝狀を呈するといふ點に至つては、疑を懷く人は一人もない。

[やぶちゃん注:一般的な系統樹が楽天的に適用することが不可能なケースが既に判っている。則ち、生物進化の過程の中で生じた非常に重要な寄生・共生による進化の実際である。ウィキの「系統樹」によれば、『今日の進化的知見に基づく、系統樹作成の問題の一つが、細胞内共生説で』、『つまり』、『葉緑体やミトコンドリアが独立生物起源であり、独自のゲノムを持つことがわかったことである』。『これまでの進化論では生物進化は種分化の積み重ねと考えられてきた。したがって、その系統を図示すれば樹状になるのは当然と考えられてきた。しかし、共生によって二つあるいは三つの生物が一つにまとまるとすれば、この根拠は崩れる。ただし、当初はこの共生は、真核細胞形成段階の一回きりのものと見なされ、それ以外の部分での変更はなかった。むしろ、葉緑体やミトコンドリアの系統を明らかにすることで、新たな展開が開けた部分がある』。『しかし、その後、共生がさらに何度も独立に起こったらしいことが知られるようになった。しかも細胞内共生をおこなった真核細胞が細胞内に共生している例など、大変に入り組んだことが起こっているのがわかってきた。個々の部分ではとにかく、これによって原生生物全体の系統樹は非常に描きにくいものとなった』。『さらには、遺伝子の水平伝播も細菌などでは普遍的に起こっていることが明らかになり(他の生物にもそれらしい例がある)、これを厳密に考慮すれば、系統「樹」ではなく甚だ複雑なネットワークとなってしまう』のである。『ヘッケルの描いた系統樹は広葉樹の大木のようだった。太い幹は何度か枝分かれしつつも、上に向かって伸びていた。ジャン=バティスト・ラマルクが』、『もし』、『系統樹を書いていれば、多分』、『針葉樹のようなものを描いたであろう』。植物生態学の専門家で、植生分布の環境傾度分析の手法を確立して極相パターン説を提唱、「五界説」の提唱者でもあった二十世紀後半を代表するアメリカの生物学者『ホイッタカーの系統樹は、根元で枝分かれした灌木の形であった』。しかし、『現在では、生物進化が本質的に枝分かれだけで表現できないことを踏まえ、車輪樹法という系統樹表現法も提唱されている』。『また』、『類似の問題として、同一種内の亜種や人類集団のように互いに混合が』生じ得る或いは実際に生じる『集団の場合、従来の枝分かれのみの系統樹では近縁度のみを示すだけで、複雑な分岐、混合を経た歴史を表すことはできない。系統樹上で姉妹関係と出た』二『つの集団が』、『純粋に共通集団から分岐した後に他集団と全く混合していないか』、『別ツールの集団の双方に共通の集団が混合したため』、『見かけ上の姉妹関係のように表されているか』、という現象は、実は『全く判別できない』、分岐図を示せない、のである。従って、しばしばまことしやかに見かける、例えば、人類集団に於けるそうした頻繁に生じた『混合を無視して』、『単一祖先からの分岐のみで説明しようすることは実態を反映していない』のである。『単一祖先からの分岐のみを仮定する系統樹は』、『生殖隔離が成立している種間の系統のみで適用可能であり、生殖隔離が成立していない種内の集団については個体レベルでは系統樹を描くことは原理的に不可能である』『(単一の遺伝子指標のみでは可能である』)(下線やぶちゃん)という点も〈整然とした幸福な〉「系統樹」は、はなはだ非科学的なのである。]

 前にはたゞ脊椎動物中から八種を選んで例に擧げただけで、煩を避けるために、他の例は全く省いたが、孰れの門・綱を見ても略々同樣なことを發見する。前に掲げた甲殼類の發生でも、二枚貝・卷貝類の發生でも、また「ひとで」・「うに」・「なまこ」類の發生でも、之を表に現せば、皆基は一本で、先が分れた樹木の形となる。特に種類の數を尚少し增して、甲殼類の例に「かめのて」・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]・「しゃこ」・船蟲の如きものを添へなどすれば、その中には或は早く相分かれるもの或は晩くまで相伴うて進むもの等があつて、全く脊椎動物の例で見たと同樣な圖が出來る。倂し多數の動物の中には例外と思はれるものがないでもない。例外の例を一つ擧げれば、前にも述べた通り、軟體動物は總べて發生の初期に於ては、幼蟲が纖毛を動かして水面を泳ぐものであるが、章魚・烏賊の類は發生の初から、他の動物と違ひ、かやうな時代を經過せずに、直に章魚・鳥賊の形に發生する。また田螺(たにし)はかやうな時代を親の殼内で經過し、田螺の形に出來上つた頃に始めて生れ出る。されどかやうな例外は甚だ少數で、且多くは例外となつた特殊の理由を多少察することの出來るもの故、これらを論據として全體の形勢を否定することは勿論出來ぬ。

[やぶちゃん注:私は頭足類が何ゆえにトロコフォアやベリジャー幼生期を経ないのか、また、腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類が何故に卵胎生なのかという「特殊の理由を多少」なりとも「察すること」は「出來」ない。識者の御教授を乞うものである。]

 さて斯くの如く動物各種は發生の初には皆相似て、發生の進むに隨ひ、樹枝狀に追々相分れることは、如何なる意味を有するものかと考へるに、若し動物各種が最初より全く互に關係なく、別々に出來たものとしたならば、少しも解らぬことで、前に掲げた數多の事實と同樣に、いつまで過ぎても理窟の知れる見込もない。若し天地開闢の際から、人間は人間として、牛は牛として、鷄は鷄として、魚は魚として出來たものならば、これら四種の動物が發生の初に於て殆ど同樣な形狀を呈し、人間も、牛も、鷄も、魚同樣に數對の鰓孔を有し、少し進むと魚だけは區別が附くが、他は尚同樣で、皆左右の動脈弓を備へ、更に進めば鷄には右の大動脈だけ、人間・牛には左の大動脈だけとなつて區別が生じ、尚餘程後になつて牛は五本の指の中で、中指と藥指のみが特別に發達して殆ど二本指となり、人間は五本の指がその儘に發達して、孰れが牛、孰れが人間と識別が出來るやうになることは、實に不可思議極まることである。之に反して、若し動物は皆共同の先祖より進化し降つたものと見倣さば、發生中に現れる性質は、皆先祖の性質が遺傳によつて傳はつたものとして、この現象も一通りは理窟が解る。卽ち先祖といふ中には千代前の先祖も五千代前・一萬代前または一億代前の先祖もあるが、古い先祖の有して居た性質は發生中の早い時代に現れ、後の先祖の性質は發生中梢々遲く現れ、先祖代々の性質が順を追うて子孫の發生中に現れるものとすれば、同じ子孫の中でも古く相分れて今は既に著しく相異なるものは、その發生に於ても早く相分れ、比較的近頃になつて相分れて、今尚餘程相似たものは、その發生に於ても晩くまで相伴ふ筈故、發生比較の表が斯く樹枝狀となるのは當然のことである。實に發生學上の事實は、生物の進化を認めなければ理窟の解らぬことばかりであるから、今日の發生學上の知識を少しでも有するものは、到底生物不變の説を信ずることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ドイツの生物学者エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)の「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」である。これは次章で続いて語られる。未だに、これを非科学的学説として退ける輩が多いが、私は敢然と正しいと表明する。ここでそれを語ることは控えるが、先に示したサイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかは是非、読まれたい。「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題の在り方そのものが確かに真であると私は信じて疑わない。なお、ヘッケルはまた、分類上の「門」や皆さんお好きな「生態学」などの用語の最初の提唱者でもある。]

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