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2018/02/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(3)

 

 長門の秋吉村には、百濟國王が漂著して勸請したと稱する八幡宮がある。其境内の一古墳を其王の臣下の靈と謂ふが如きは、卽ち八幡信仰の常の形であれば、やはり是も日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る(長門風土記)。佐渡・常陸の新羅王の如きも、或は斯う云ふ舊傳と後世の漂著譚とが混淆したのではあるまいか。若狹遠敷郡椎崎御垣大明神は、御垣山王とも稱して山王樣であるが、社の側の塚を王塚と名づけ、曾て異國より「王ざまの人」船に乘り渡り來つて住み、死して此地に埋めたと傳へ、其船の屋形を取つて作つたと云ふ御輿が有つた(若狹國官社私考)。通例人はこの類の一部の形跡ある口碑などに接すると、或は其樣の事實が有つたのかも知れぬ、と云ふ程度で今迄は觀察を止めて居た。併し王にもせよ王子にもせよ、其樣な漂流が折々有つた筈も無し、又其が日本の信仰になるわけも無いから、塚とか神輿とかの舊物に託してこんな話の有るのは、何かさう誤傳せられるだけの事情があつたものと、考へて見る必要があつたのである。海近い村では神社を岬の山に齋き、然らざれば所謂御旅所を渚に構へた例が最も多い。祭の日に濱下(はまお)りなどゝ稱する儀式を行ふ風習は隨分奧の方の里迄行はれて居る。西部日本には殊に其海岸の一地點を宮の浦と呼び、神の最初の影向にも此から上陸されたやうに謂ふのが普通である。而も能ふべくは神を歷史上の實在の人と考へたいのが、近世一般の傾向であつたから、そこで菅公左遷の航路が大迂囘であつたり、又は神功皇后が到る處に碇泊ばかりして御出でなされたことになる。島國であつて天の神を祭つて居れば、是は殆ど當然の歸結であつて、岸から沖を見れば海の末は卽ち空だから、乃ち鳥船・磐船の神話も起り得るのである。東日本に於ては常陸の大汝少彦名の二柱の御神、伊豆の事代主神の如く誠に思ひ設けざる示現が古い世にもあつた。之を顯はし申したのは、固より神懸りの言であつた故に、篤信の人に取つては事實と擇ぶ所は無かつた。そこで對岸が三韓であつた地方には、自然に新羅王百濟王などの名前が、託宣の中にも出來ることになつたのでは無いか。高麗神渡來の話も二つは既に聞いて居る。その一つは伊豆山の走湯權現で、御船は先づ相州中郡の峯に著き、一旦高麗寺山の上に鎭座なされたと傳へて居る(關東兵亂記)。此は或は地名に由つて後に出來た説とも見られるが、越中礪波郡の高瀨神社の如きは、何のつきも無いのに亦高麗より御渡りなされた神と稱し、御著の日は七月十四日、今の御旅所のあるたび川の流は、其折御足袋を濯がせたまう故跡などゝ謂ふのである(越中國神社志料)。所謂客神蕃神[やぶちゃん注:底本は「番神」であるが、おかしいのでちくま文庫版全集で訂した。]の由來には、右の如き分子も含まれて居ることを考へて置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「長門の秋吉村」現在の山口県美祢市秋芳町秋吉上宿にある秋吉八幡宮。(グーグル・マップ・データ)。祭神の中に地主神百済國帝が含まれている。陰の総長氏のブログ「何処へ行くんだ! 土佐瑞山」の秋吉八幡宮に『「風土注進案」に、嘉祥年中』(八四八年~八五一年)『百済國帝、大津郡に漂着と記されているそう』だ『が、その約』二百『年前に百済國は唐によって滅ぼされてい』る、とある。柳田國男の話よりも遙かにビシッと決めていて、よい。

「日本に面した對岸なるが爲に、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る」よく意味が判らぬが、或いは「くだら」を「ふだらく」、補陀落(観音菩薩の降臨するとされる伝説上の霊山)渡海のそれに擬えたものか。

「長門風土記」「長門國風土記」のことか。詳細書誌不祥。国立国会図書館デジタルコレクションはあ

「若狹遠敷郡椎崎御垣大明神」現在の福井県小浜市若狭にある椎村神社。阜嵐健氏の「延喜式神社の調査」の「椎村神社」(地図有り)によれば、「神祇志料」には『椎崎御垣明神』とある旨の記載がある。また、この神社には五月五日に行われる祭礼の中に「王の舞」という奉納舞いがあり、『獅子舞と「王の舞」が奉納され、区の繁栄と今年の豊作を祈りました。獅子退治の様子を演じる「王の舞」は飛鳥、奈良時代に中国や朝鮮から伝わり普及したと言われていますが、この若狭の「王の舞」はいかにも素朴でしみじみとした味わいがあり、市の無形民族文化財に指定されています』。『西之浦の神社から東浦の村中までの』一『キロ余りを太鼓や神輿、稚児などが行列を成し、途中、砂を盛って清めた場所で一服をしました。「お旅所」といって神様の休憩所だそうで、今では海岸道路が出来、車が行き来しますが、昔は小山を越えなければならず、』四百キログラム『以上もある神輿を担ぐには』、『神様どころか』、『人間様が一服せざるを得ません』とある。

「若狹國官社私考」江戸後期の国学者伴信友(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年:若狭小浜藩の御馬廻組の藩士の第四子として小浜に生まれ。十四歳で同藩勘定頭石伴信当の養子となった。翌年、江戸に移って十六歳より出仕した。本居宣長没後の門人で、著作は百数十部に上り、古典の校訂や集録も多い。近世考証学の泰斗)が、若狭国式内社四十二座について記したもの。全二巻。

「齋き」「いつき」。心身の汚れを去り神に仕え、世話をし。

「鳥船・磐船の神話」「天の鳥船(あまのとりふね)」と「天の岩船」。神が乗って天空を移動すると考えられた船。古事記では伊弉諾尊・伊弉冉尊が生んだ神とする。

「大汝」「おほな」。「おおなむち」の命(みこと)。大国主。

「少彦名」「すくなびこな」の命(みこと)。大国主の国造りに際して天乃羅摩船(あめのかがみのふね)(ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した漂着神とされるが、私は高い確率でかの伊弉諾尊・伊弉冉尊が最初に生んだ蛭子(ひるこ)の変形と考えている。

「高麗寺山」現在の大磯町にある高麗山(こまやま)の頂上付近を指す。

「關東兵亂記」「相州兵乱記」とも言う。室町時代の関東を扱った合戦記で全四巻。著者・成立年代は未詳であるが、成立は天正八(一五八〇)年以降と推定されている。

「越中礪波郡の高瀨神社」現在の富山県南砺市高瀬にある高瀬神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイトの歴史の記載を見ると、「創祀伝承」の部分に、「高瀬神社誌」から引いて、『在昔、大己貴命北陸御經營ノ時、己命ノ守リ神ヲ此處ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、國成リ竟ヘテ、最後』ニ『自ラノ御魂ヲモ鎭メ置キ給ヒテ、國魂神トナシ、出雲ヘ歸リ給ヒシト云フ』(恣意的に漢字を正字化した。後も同じ)とある一方、併記して「越之下草」から引用し、『此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日』七月十四日『なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、此川の邊に暫時御休み、高瀨へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よ』つ『て其處を、今に雨潛村といふ也。其後每年たひ川の邊御休の處へ御旅行なされ、其處を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也』とある。これは確かに神社の縁起としては、なかなか特異であると思われる。我々には大己貴命(おおむなちのみこと)の守り神が高麗より渡った神であったという逆転理解は当然、不可能なのであるが、或いは民は、柳田國男の言うように、それに不審を抱かなかったかも知れぬ、と考えると面白い。

「何のつきも無い」周辺に具体的な渡来伝承譚やそれに付随する話柄が全くないということであろう。

「越中國神社志料」佐伯有義編輯。詳細書誌不詳。]

 

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