フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 北條九代記 卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐 | トップページ | 北條九代記 卷第十一 後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛 / 卷第十一~了 »

2018/02/13

北條九代記 卷第十一 貞時入道諸國行脚 付 久我通基公還職

 

      ○貞時入道諸國行脚 付 久我通基(こがのみちもと)公還職(げんしよく)

 

夫(それ)、四海を靜め、天下治むる事は、仁を本(もと)とし、義を進め、禮を專(もつぱら)にして德を修め、威を逞(たくまし)くして道を正しくす。その行ふ所には、無欲を以て奢(おごり)を愼む。萬民、是に靡きて、かの道德を仰ぎ、士農工商その安(やすき)に居て、上下、和融(くわゆう)し、遠近(ゑんきん)、相隨ふ。 然れども、氣質の禀(う)けたる事、又、齊(ひと)しからざるを以て、非法濫行の者、その間に在りて、人の愁(うれへ)、世の害となり、政道の邪魔となる事、堯舜も猶、病めり。是に依(よつ)て、年來(としごろ)、囘國の者を出して、諸國郡邑(ぐんいふ)の間に濫惡(らんあく)をなす輩(ともがら)を誡めらるといへども、その人、若(もし)、病に罹り死するに於ては、餘人を入替へて回(めぐ)らされけるに、後に出ける者共、奸曲を構へ、利分を貪り、却(かへつ)て囘國の者よりして、惡事起る故に依て、この事をも留(とゞ)められ、相州貞時、出家の後、自(みづから)、身を窶(やつ)して、只、一人、鎌倉を忍び出て、諸國を囘(めぐ)り、時賴入道の跡を追ひて、非道惡行の輩を、潛(ひそか)に伺ひ記(しる)して、四ヶ年を經て皈り給ふに、六十餘州の間に六百七十八人とぞ聞えける。皆、鎌倉に召寄(めしよ)せ、罪の輕重に隨ひて、刑罸を行はる。囘國の使三人は頭を刎ねられ、賄(まひなひ)を入れて惡行を隱しける國人(くにうど)、百三十八人は罪に行ひ給ふ。二階堂道仙(だうせん)、申されけるは、「今度、諸國の罪科人、既に一千に及べり。是を皆、刑せられんは、仁政にあらずとやいはん、末々(すゑずゑ)の者をば淸められて、然るべきか」とあり。貞時入道、仰せけるは、「是、更に世の人の態(わざ)ながら、我が政道の怠(おこたり)より起る。この恥しさ、限なし。千人を捨てて、萬民を助け、後世(こうせい)を懲(こら)す爲なれば、只今、嚴(きびし)く拵(あてが)ふものなり。又、行跡(かうせき)の宜(よろし)き者には、賞を與へ侍るなり」とて、淚を流してぞ恥ぢられける。貞時入道、囘國の次(ついで)、城南(せいなん)の離宮を經て、山崎に掛り、西國へ通りたまひしに、小枝河の東に恠(あやし)げなる茅屋(かやゝ)あり。草深く鎖(とざ)して、蓬(よもぎ)の垣、疎(まばら)なり。貞時入道、立寄りて、水を求め給へば、流石に賤からぬ男の、 破(やぶ)れたる單衣(ひとへぎぬ)に、剝げたる烏帽子著て、自(みづから)立ちて水を汲みて參らせらる。貞時入道、熟々(つくづく)と見給へば、此男、面映(おもはゆ)げに打笑ひける。鐡漿(かね)黑く、年は未だ三十計(ばかり)と覺えたり。「是は如何なる人の引籠りて住ませ給ふ御事ぞや」と問ひ給へば、此男、「誠に此有樣にて、行脚の聖に狎々(なれなれ)しく語り侍らんは、恥かしけれども、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の功德にも成れかし、我は久我内大臣通基と聞えし者の成(なれ)る果(はて)にて候。或人の讒言(ざんげん)に依て、仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り、領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ、官職を削られ、か〻る住居になりて候。讒言を蒙(かうぶ)りたりと申さば、君に咎を掛け奉るになり候へば、そら恐しく侍る。只、我世の運、傾(かたぶ)き、家の亡びん時、至れり、と存ずれば恨(うらみ)はなく、力及ばず候なり」とぞ語られける。貞時、委細に尋聞きて、申されけるは、「させる御科(おんとが)にもあらず。仰(おほせ)の趣、忠節有りて私(わたくし)なし。天道の憐(あはれみ)、神明の守(まもり)、爭(いかで)か空しからん、只一時(じ)の變災と思召給へ、この聖(ひじり)も鎌倉方(がた)の者にて候。若、故郷(こきやう)に皈り候はゞ、北倏殿にも對面致し、御事の有樣を語り申さん」とて立出でられ、その後、關東に皈りて、この事を奏聞(そうもん)ありしかば、仙洞にも大に驚かせ給ひ、舊領を返付(かへしつ)けられ、久我(こが)の官職、相違なく二度、榮え給ひけり。

 

[やぶちゃん注:全く以って、時頼回国譚(「卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵」)の二番煎じで厭になる。隠密の回国の巡察使の奸曲の話は既に「卷第十一 囘國の使私欲非法 付 羽黑山伏の訴」に出た。

「城南(せいなん)」洛南。

「山崎」現在の大阪府三島郡島本町山崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小枝河」不詳。「東に」と言っている以上、小流れという一般名詞ではない。当該地は宇治川・木津川・桂川・水無瀬川などの合流地であるが、私の知識では比定出来ない。ただ、架空の話なれば、拘って探す気にもならぬ。

「鐡漿(かね)黑く」平安末期には元服・裳着を迎えるに当たって、女性のみならず、男性貴族・平氏などの武士及び大規模寺院に於ける稚児も鉄漿(おはぐろ)を行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒・引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた。

「慚愧懺悔(ざんぎさんげ)」「慚愧」は現行では「ざんき」と読むが、古くは「ざんぎ」と濁っても読み、底本及び濁点が見えるので「さんぎ」とした。但し、原典では「ザンキ」と清音のように見える。底本表記を支持した。「慙愧」も同字で、自己の見苦しさや過ちを反省し、心に深く恥じることを指す。普遍的な常識や倫理に基づくもので、特定の宗教的な意味は本来は持たない。「懺悔」は原典では濁点が見え「ザンゲ」であるが、底本は擦(かす)れの可能性もあるものの、「さんげ」と判じ、やはり底本を支持する。何故なら、本邦では「懺悔」は江戸期に至っても「さんげ」と濁らないのが普通であるからで、現行で一般的なキリスト教の「ざんげ」とは明確に異なったものとして使用されてきたからである。本来は仏教用語で、「自分の以前の行いが悪い事だったと気づき、その罪を悔いて仏・菩薩や高僧らに許しを請うこと」で、「懺」はサンスクリット語の「忍」の意の漢訳で、「罪を許して忍ぶようにと他人に要請すること」を指し、「悔」は「過去の罪を悔いて仏・菩薩・目上の者・信者である会衆の前に告白して詫びること」を示す語である。具体的には半月ごとに行われたウポーサタ (「布薩」と漢訳) の集会で罪を犯した比丘が懺悔を行なった。本邦では神仏習合にによって土着神や神道の神に対しても行われた。

「久我内大臣通基」公卿久我通基(こがみちもと 仁治元(一二四〇)年~延慶元(一三〇九)年)。ウィキの「久我通基」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父は正二位大納言右近衛大将久我通忠、母は唐橋通時の娘、または北条義時の娘』『建長七年(一二五五年)二月十三日、従三位に叙される。左中将は元の如し。康元二年(一二五七年)二月二十二日、正三位に昇叙。正元元年(一二五九年)九月二十八日、参議に任ぜられる。正元二年(一二六〇年)三月二十九日、権中納言に任ぜられる。同年四月六日には帯剣を許され、十一月十五日には従二位に昇叙。弘長三年(一二六三年)一月六日、正二位に昇叙。文永五年(一二六八年)十二月二日、中納言に転正。文永六年(一二六九年)三月二十七日、権大納言に任ぜられる。建治四年(一二七八年)二月二十五日、右近衛大将を兼ねる。同年八月二十日には右馬寮御監が宣下される。弘安八年(一二八五年)八月十一日、大納言に転正。弘安一〇年(一二八七年)六月五日、右大将を止められるが、同年十月四日に右大将に復帰。正応元年(一二八八年)七月十一日、内大臣に任ぜられ、右大将は元の如し。同年九月十二日には奨学院別当に補され』、『源氏長者の宣下を受けた。しかし』、同正応元(一二八八)年十月二十七日に内大臣と右大将を止められており、そこから、九年後の永仁五(一二九七)年十月一日にやっと従一位への昇叙を受けている。『建長二年(一二五一年)に』彼の『父久我通忠が没した時には十一歳で』あったが、『祖父久我通光は後室三条に遺産の大半を託したため、父からの遺領は唯一、久我荘』(山城国乙訓(おとくに)郡の荘園。現在の京都市伏見区久我一帯。十二世紀初めにこの地に久我家別邸が営まれ,十二世紀末に同家領となった。その後、久我本荘(下荘)と久我新荘(上荘)に分かれたが、久我家領のまま近世を迎えている。桂川右岸一帯(グーグル・マップ・データ))『のみであった。このため、父の死後、経済的危機に立たされることとなった。しかし、父通忠の後室である平光盛の娘である安嘉門院左衛門督局(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った』。『源通親の子供たちが薨去して各家の分立が始まり、各家の第二世代第三世代となるに従い、久我家が村上源氏中の嫡流として確固たる地位を確立できなくなってきていた。建長二年(一二五〇年)には堀川具実が内大臣となったことを手始めに、文永六年(一二六九年)には中院通成が内大臣に、弘安六年には堀川基具が従一位に、そして正応二年(一二八九年)には准大臣から太政大臣に、正応五年(一二九二年)には土御門定実が従一位准大臣に、そして永仁四年(一二九六年)には内大臣に、と相次いで従一位や大臣に昇っている。通基の父通忠が大納言右大将のまま』で『早世したことや』、『祖父通光の所領の大半を久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感を抱き』、『村上源氏一門の中で優位性を確立する事を』狙って、『源氏長者の宣下を望んだのであろう。しかし』、『せっかく源氏長者を得た直後に、前年に即位した伏見天皇のもとに入内し』、『女御、さらに中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼を大臣大将に任じるため』、『通基は』、『内大臣だけでなく』、『約十年間』、『在任した右大将も止めさせられてしま』ったのであった。『近衛大将には』、『通基の時代までは村上源氏一門』からでは、『久我家からしか就任していないが、通基薨去の二年前である嘉元四年(一三〇六年)には』、堀川『基具の息男である具守が右大将に就任』しており、『そのような状況の中で』、『通基の息男通雄の時代に』、『再び』、『所領問題を発生させることになり、鎌倉時代を通じて久我家は困難な状況が続いたのであ』った(下線やぶちゃん)。『一方で、通基は四人の息男を公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身の右大将在任期間は通算約十年間になる。源氏長者の宣下と合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家が一歩抜きん出ることができるよう』、『着々と手を打っていたと見ることができる』とある。この太字下線及び下線部が彼の不遇期や彼に始まる久我家の問題の時期を示すわけだが、どう逆立ちしても、本章に描かれたような茅屋に住むまで、彼が落魄(おちぶれ)よう、はずはないから、これは、貞時側ばかりでなく、通基の方の事実から見ても、あり得ようはずのない架空の話であることが判る。思うに、ウィキにもこの後に出るが、「徒然草」の第百九十五段に出る通基(次の第百九十六段にも登場する)の奇体なシークエンスを換骨奪胎したのが、この章の元ではないかと私は思う。第百九十五段を引く。

   *

或(ある)人、久我繩手(こがなはて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口(おほぐち)着たる人、木造りの地藏を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男、二、三人、出で来て、「ここにおはしましけり。」とて、この人を具して去(い)にけり。久我内大臣殿(こがのないだいじんどの)にてぞ、おはしける。 尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

   *

則ち、彼は「尋常におはしましける時は」(精神状態が普通であられた折りは)「神妙に、やんごとなき人にておはしけり」(まことに優れて類いなき知性の持ち主(事実、次の第百九十六段では彼の有職故実の細部への知識が披瀝されるエピソードとなっている)であられたので御座いますが)というのである。則ち、吉田兼好の叙述をまともに受けるなら、久我道基は、正応元(一二八八)年十月の内大臣・右大将の停止(ちょうじ)前から永仁五(一二九七)年十月一日に従一位昇叙を受けるに至る、この九年余りの間、何らかの精神変調を来していたのではないか、ということが疑えるとも言える。そう考えると、「或人の讒言(ざんげん)に依て」とは、そうした精神疾患等からの被害妄想であったと考えると、如何にも腑に落ちるようにも思われるのである。但し、彼の精神変調を記した一次史料がないので、ここまでとしておく。

「仙洞の御氣色(ごきしよく)を蒙り」増淵勝一氏はここに『伏見天皇』と割注する。伏見天皇の在位は弘安一〇年十月二十一日(一二八七年十一月二十七日から永仁六年七月二十二日(一二九八年八月三十日までであるから、通基が内大臣と右大将を停止させられた正応元(一二八八)年十月二十七日当時及び従一位昇叙を受ける永仁五(一二九七)年十月一日当時は、確かに孰れも伏見天皇在位中である。但し、貞時が出家したのは正安三(一三〇一)年で、それから回国したと宣うちゃう訳だから、この事実よりずっと後に茅屋の通基と身を窶した貞時は逢ったことになる。しかもその時は、もう、大覚寺統のわが世の春の後二条天皇の御世でっせ? ちょっとも話が合いませんがな!

「領知(りやうち)を沒收(もつしゆ)せられ」事実に反する。

「官職を削られ」停止されていたであるから、かく言っても、これは実質上の愁訴としては腑に落ちる。

「か〻る住居になりて候」事実に反する。]

« 北條九代記 卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐 | トップページ | 北條九代記 卷第十一 後宇多上皇御出家 付 將軍久明親王歸洛 / 卷第十一~了 »