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2018/02/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一五 / 隱れ里~了

 

    一五

 

 近江の東小椋村から出て國々の山奧に新隱里を作つた人々は、米合衆國の獨立みたように、折々は郷里の宮寺にある舊記を裏切るような由緒書を作つて居る。東北では會津地方が殊に木地屋の多い處であるが、これは蒲生家が領主であつた時、郷里の近江から何人か連れて來たのを始めとするさうで、後年までこの徒は一定の谷に居住せず、原料の木材を逐うて處々を漂泊し、この地方ではそれを「飛び」といつたこと、新編風土記に詳しく出て居る。

[やぶちゃん注:蒲家云々の箇所は前章の私の「日野椀」注を参照。「新編風土記」とは「新編會津風土記」のことであろう。会津藩官選。全百二十巻。享和三(一八〇三)年から文化六(一八〇九)年にかけて編纂された。]

 一方には會津から越後へかけての山村に多い高倉宮の古傳には、やはりいろいろの右大臣大納言が從臣として來たり、猪早太輩と功を競ひ、又其子孫を各地に殘して舊家の先祖となつて居る。其中には小椋少將などと云ふ人もよく働いて居る。越後の東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵などは、土地の名を小倉嶺といい、山下の中山村十三戸は皆淸野氏で、御連枝四の宮の從臣淸銀太郎と云ふ勇士の子孫である。

[やぶちゃん注:「東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵」新潟県東蒲原郡阿賀町東山((グーグル・マップ・データ))にある古墳らしいが、見当たらない。国土地理院の地図でも見たが、それらしいものは見出せなかった。ネット上では論を書いている人はいても、その所在を明らかにするように書かれてはいない。以下の「中山村」なども判らぬ。お手上げ。識者の御教授を乞う。は「高倉宮以仁王御墳墓考」(岩城宮城三平編越後小柳傳平校再校正・「尾瀬三郎物語を守り育てる会」)というのはある。

「淸野氏」不詳。

「御連枝」(ごれんし)は貴人の兄弟を指した敬称。

「淸銀太郎」前で引いたページには清銀三郎貞方、別名尾瀬三郎房利とある。]

 又大和吉野の川上の後南朝小倉宮の御事跡は、明治四十四年に林水月氏の著した吉野名勝誌の中に委曲論評を試みてあるから、自分は次の二つの點より外は何も言はぬ。其一は此山村に充滿する多くの舊記類は何れも二百年此方の執筆であること、其二は小倉宮の御名は洛西嵯峨の小倉の地に因む筈であるにも拘らず、此宮は一時近江の東小椋村君ケ畑の土豪の家に御匿れなされ、その家の娘を侍女として王子を御儲けなされたことである。

[やぶちゃん注:「後南朝小倉宮」小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう 応永一三(一四〇六)年頃~嘉吉三(一四四三)年)は室町前期の皇族で、後南朝勢力の中心人物。ウィキの「小倉宮聖承によれば、小倉宮家二代であるが、個人としての「小倉宮」は、一般に、この聖承を指すことが多い。樋口宮とも呼ぶ。『聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に良泰(よしやす)や泰仁(やすひと)とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない』。『南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦(恒敦宮)の子。子に小倉宮教尊』(きょうそん)『などがいる』。正長元(一四二八)年七月、『旧北朝系の称光天皇が嗣子なく』、『危篤状態に陥ると、その父の後小松上皇は北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたので、この動きに不満を持った聖承は、伊勢国司で南朝方の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時』、『幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫』、同年十二月二十一日、『満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れて戦死する』。『その後も聖承は伊勢国に滞在したまま』、『抵抗を続けるが』、永享二(一四三〇)年に『満雅の弟・顕雅が幕府と和睦したため、幕府の懇望もあって京に戻されることとなる。この際の和睦条件が、聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月』三『千疋を生活費として献上させること」であったため、同年』十一『月に当時』十二『歳の息子は出家し、将軍足利義教の猶子となって偏諱(「教」の字)の授与を受け』、『「教尊」を名乗り、勧修寺に入ることとなった。しかし一方で、幕府からの生活費の保障は守られることがなく、京に戻った後の暮らしは困窮の極みだったようである。その後』、永享六(一四三四)年二月に『海門承朝(長慶天皇皇子)を戒師として出家し、この時点から「聖承」を名乗った』とある。

「明治四十四年」一九一一年。

「林水月」(安政五或いは六(一八五九)年~昭和四(一九二九)年)。大坂生まれ。名は海音、水月は号。明治中頃から末にかけて、奈良県吉野郡上北山村西原の宝泉寺、続いて同じ吉野小橡(ことち)の龍川寺の住職となり、川上・北山の後南朝史を研究した曹洞宗の僧。「吉野名勝誌」は彼の労作とされる。]

 右の二箇所の事例とは全然無關係に、自分は今左の如く考へて居る。木地屋には學問があつた。少なくとも麓にいて旅をしたことのない村民よりは識見が高かつた。木地屋の作り出した杓子や御器は如何なる農民にも必要であつて、しかも杓子の如きは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからぎるものであつた。新たに村の山奧に入り來たり、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあつた彼等は、相當の尊敬と親密とを求めるために、多少の智慮を費すべき必要があつた。必ずしも無人貿易をせねばならぬ程に相忌んでは居なかつた彼等も、少しも技巧を用ゐずには侵入し得なかつたのは疑いがない。そこで更に想像を逞しくすると、彼等は往々岩穴や土室の奧から、鮮やかな色をした椀などを取出して愚民に示し、是を持つて居れば福德自在などゝ講釋して彼等に贈り、恩を施したことが無いとは言はれぬ。常州眞壁の隱里から貸した椀が、金で四つ目の紋を附けたのは一つの見處である。四つ目は卽ち近江の一名族の紋所であつた。斷つておくが自分はまだ證據を捉へぬから決してこの假定を主張するのでは無い。假に鳥居氏の言はれたのに近い交通があつたとしても、此場合には相手の方が旨(うま)く遣つたので、同氏の所謂文明のステージが違ふと云ふのは、ちやうど逆樣に違ふのだから、いさゝか滑稽で無いかと言ひたいのである。

 常民が食器に白い陶器を使ふのはむろん新しい變遷である。其以前は木器であらうと信ずるが、少なくも朱椀などは手が屆かぬ上流の用であつたであらう。其が次第に容易く生産せられるやうになつたのも、さして古い事とは思はぬ。漆器の歷史を調査する人は、必ず我輩の隱里物語を其基礎の一つにせねばなるまい。又かの多情多恨の椀久と云ふ淨瑠璃曲中の好男子が、苗字は小椋で後の屋號が伊勢屋であつたか否か、これを明白にして下さるのは上方の學者方の任務である。

   (大正七年五月、東京日日新聞」)

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