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2018/02/26

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(1)

 

   流され王

 

 武州高麗本郷の白髭社に、修驗道を以て仕へて來た舊家の當主、自分も大に白い髭あり、近來その苗字を高麗氏と名のり、さうして古い系圖が傳はつて居て、見に行くほどの人は皆感心をする。此だけは正しく事實である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居たことは正史に出て居る。歷史が如何に想像の自由を基礎とする學問であるにしても、かほど顯著なる二箇の證跡は、共に之を無視して進むことを許されぬであらう。併し右の二史實との間には茫漠たる一千餘年が橫はつて居る。從つて彼から此へ絲筋の引くものが、あるかと思ふのは或は野馬陽炎である。此關係は之を決定する必要があるとすれば、今後に於て之を證明せねばならぬ。

[やぶちゃん注:「武州高麗本郷の白髭社」埼玉県日高市高麗本郷にある白髭神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」の「武蔵高麗行」も参照されたい。

「約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或は武藏守に爲つたこともある高麗氏が、本貫を此郡に有して居た」高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である高麗氏については、ウィキの「高麗氏」に、六六八年に起こった『唐・新羅連合軍との戦い(白村江の戦いなど唐の高句麗出兵)で高句麗が滅亡したあと、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命している。また、それ以前から』、『高句麗から日本列島に移住し定着した人々も存在した。彼らの一部が「高麗」の氏姓を称したものと推測されている』とし、大宝三(七〇三)年(「約千二百年前」本論考「流され王」は大正九(一九二〇)年七月発行の『史林』に発表されたもの)に『高句麗の王族と推測される高麗若光が王(こにきし)の姓(カバネ)を与えられる。武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在の宮司は若光から数えて』六十『代目とされる。若光系の高麗氏としては、この家系が知られているのみである。高麗神社には若光を祖とする「高麗氏系図」が伝来している』とある(下線やぶちゃん)。Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」にも、始祖を高麗王若光とし、本貫(ほんがん/ほんかん:律令制下に於いて戸籍に記載された土地)を『武蔵國高麗郡』とし、『世系」』の項に、『高麗氏は高句麗の王族』『高氏にして、高麗王若光の後裔なり。 武蔵國高麗郡(現 埼玉縣入間郡)を領して大寳』三年四月『高麗王姓を賜ふ』とある。以下、『歴史』の項に『高麗氏は、歴世武蔵國高麗郡新堀村 高麗神社(現』『埼玉縣入間郡日高町)の祠官にて、世々著名なり。 第』四十四『代高麗良道は』、天正一九(一五九一)年』、『小田原落城の後、徳川内府様へ早々に御祝賀参上』、同年十一月、『先規之通り、御朱印』『之有りて大宮領寄進之御書付を下し置かる。 第』四十五『代高麗良海は』文祿二 (一五九三) 年、攝『州大坂表へ上り、高句麗の後裔』『高麗國を不忠謀反にて滅せる仇敵』『李氏朝鮮征伐の御勝利に御祝儀を申上げり。また』、『聖護院門跡に』參上、『金襴地御免許を賜ふ』ともある。

「正史に出て居る」例えば、「続日本紀」の大宝三(七〇三)年四月乙未の条に『乙未。從五位下高麗若光賜王姓』と出、霊亀二(七一六)年五月辛卯の条には『辛卯。以駿河・甲斐・相摸・上總・下總・常陸・下野七國高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉』とあり、下って延暦八(七八九)年十月乙酉には『乙酉。散位從三位高倉朝臣福信薨。福信武藏國高麗郡人也。本姓背奈。其祖福德屬唐將李勣拔平壤城、來歸國家、居武藏焉。福信卽福德之孫也。小年隨伯父背奈行文入都、時與同輩、晩頭往石上衢、遊戲相撲、巧用其力、能勝其敵、遂聞内裏、召令侍内竪所。自是著名、初任右衞士大志、稍遷、天平中授外從五位下、任春宮亮。聖武皇帝甚加恩幸、勝寶初、至從四位紫微少弼、改本姓賜高麗朝臣、遷信部大輔。神護元年、授從三位、拜造宮卿、兼歷武藏近江守。寶龜十年、上書言、臣自投聖化。年歳已深。但雖新姓之榮朝臣過分、而舊俗之號高麗未除、伏乞、改高麗以爲高倉、詔許之。天鷹元年、遷彈正尹兼武藏守。延暦四年、上表乞身、以散位歸第焉。薨時八十一』と記す。

「野馬陽炎」ちくま文庫版全集では『のまかげろう』とルビするが、私はこの四字で「かげらふ(かげろう)」と読ませていると考える。何故なら、江戸以前は「かげろふ」を「野馬」と表記することが多かったこと、それを文字通りの「野の馬」と読まれては困るので、柳田は「陽炎」を後にわざわざ附したと読むからである。なお、「野馬」を「かげろふ」と当てたのは、逃げ水のような陽炎現象が一見、野を走る馬に似ていることに由来するもののようである。]

 自分は試みにその間題の一小部分、すなわち白髭樣だと自稱する新堀村の大宮明神が、果して高麗の王族を祀つたものと、解することを得るか否かを考えて、地方の舊傳をもてあつかつて居る人々の參考に供してみたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「新堀村の大宮明神」先の高麗本郷の東北直近の、現在の埼玉県日高市新堀(にいほり)にある高麗神社のこと。ウィキの「高麗神社」によれば、『現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は』霊亀二(七一六)年に『武蔵国高麗郡が設置された地である。中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった』。天智天皇七(六六八)年に『唐・新羅に滅ぼされ』、『亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた』。大宝三(七〇三)年には『高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により』、『高麗郡の設置にあたって』、『他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されて』おり、『高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた』天正一八(一五九〇)年、『徳川家康が関東に入国すると、翌年』、『社領として高麗郷内に』、『石を寄進され』ている。『また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号』(下線やぶちゃん)『は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある』とある。]

 古い證據が必しも確實で無い一例は系圖である。古くから有つたとすれば後の部分が氣になる。そんなら新しい程安全かと申せば、元はどうであったかゞやはり疑を招く。二者何れにしても繼目の處は每に難物である。其と言ふのが系圖には、千年間の書込みと云ふことが想像し得られぬ故で、紙筆と文字とが昔から有つたとても、之を書かせる人又は家はさうは續き能はぬからである。第一には系圖を傳へる動磯が時代に由つて一樣では無かつた。或時は部曲を統御し又は代表する爲、或時は所領の相傳を證する爲、或は信仰上の由緒を説く爲、或は單に舊家の名聞の爲と、其都度恰も此の如き必要に遭遇して居た家で、零落や早死の不幸が些しも無かつた場合でも、尚且つ後代の主人に一種の編輯力とも名くべき能力が入用である。卽ち身を後世に置き心を上古に馳せても、只徒らに舊傳に忠誠で有つては、寧ろ不可解の誤謬を生ずるのが普通である。其が右の高麗郷に限り、近世的に鍔目がよく合つて居るとすれば、おそらく春日阿蘇を始めとして、各地の舊社の信條を爲すところの、神孫が神に仕へ來たつたと云ふ思想が、溯つて久しい七黨繁榮の時代に迄、一貫して居た爲であらう。卽ち現今の所謂武藏野研究者が、寄つてたかつて一つの白髭樣を重々しくしたと同じ外部の影響が、二百年前にも三百年前にも、何度か繰返されて來たのかも知れぬ。高麗の一郷は離れ小島では無かつた。之を取り圍んだ武藏國原には樣々の衝動が有つた。名族の去來盛衰も多かつた間に、法師も入込み浪人も遊行したのである。此を一々に想像し試みる迄も無く、白髭と云ふ神の御名が既に適切に昔を語つて居る。この神の分布は日本の殆ど半にも及んで居て、固より武藏を以て發源地と目することは出來ぬ上に、此名を流行させた原因かと思ふ信仰の樣式は、外蕃歸化の盛であつた時代のものでは無いやうである。從つて高麗氏家傳が古い歷史の儘と云ふことは、まだ中々信を執り難い。

[やぶちゃん注:Tokiwa Kanenari氏のサイト「日本氏族大鑑」の「高姓 高麗氏系図」の最後には、『譜文の註記に曰く「正元元』(一二五九)年十一月八日、『大風の時、出火ありて系譜、併びに高麗國より持來の寶物等』『多数焼失せる。依りて、第』二十八『代高麗永純は、高麗爾來の一族郎黨たる 高麗、高麗井、新、新井、本所』、神田、『中山』福泉、『吉川、丘登、大野、加藤、岩木等諸家を』參『集し、其諸記』錄『を取調べして系譜を再修したる」と云ふ。また「概ね復元せしも猶々不詳の』處『之有り。 而して以降の系譜は』歷『世傳來せしめて誤り無く致す可ものなり」と』とあるのである。

「部曲」(ぶきょく/かきべ)は古代の中国を起源とする、私有民や私兵などの身分を指す。日本では「民部」とも書く。実体の多くは賤民であり、隷属的な集団の謂いでもある。

「阿蘇」阿蘇(古くは「阿蘓」とも記した)神社は現在の熊本県阿蘇市にあり、多大な恩恵と災禍を齎す活火山の阿蘇山への信仰から発したものと考えられるが、現在、全国に約四百五十社を数える阿蘇神社の総本社である。ウィキの「阿蘇神社によれば、この神社は、孝霊天皇九年六月、『健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝え』、『阿蘇神社大宮司を世襲し、この地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している』とある。]

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