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2018/02/19

北條九代記 卷第十二 後醍醐帝踐祚

 

      ○後醍醐帝踐祚

 

正和五年七月に、北條高時、十四歳にして、初(はじめ)て將軍守邦親王の執權となりて、評定の座に出でらる。北條相模守基時、執權の職を辭す。後に入道して信忍(しんいん)と號し、普恩寺と稱す。翌年三月に改元有りて文保元年と號す。高時、十五歳にして相摸守に任ず。然るに、高時は其天性(うまれつき)、甚(はなはだ)輕忽(きやうこつ)にして、智慮、尤(もつとも)、後れたり。頗る執權の器量に相應せすといへども、前代武州泰時より以来、嫡子相續の掟(おきて)あるを以て、秋田〔の〕城〔の〕介時顯、長崎』〔の〕入道圓喜、是を守立(もりた)てんとし、様々、計略を致し、諸人の心を執宥(とりなだ)め、高時の行跡(かうせき)を教へ參らせ、世を靜め、家を齊(ととの)ふとはすれども、兩人の内管領(ないくわんれい)、私欲深く、奢侈(しやし)を好み、權威を振ふ事、邪(よこしま)多かりければ、人望(にんぼう)に背く事、少からず。恨(うらみ)を負ふ、報(むくひ)を待つ者、近習、外樣(とざま)に、いくらも、あり。同二年二月二十六日、京都には御讓位の御事あり。主上、今年二十二歳、春宮(とうぐう)は既に三十歳に餘り給ふ。是は後宇多院第二の皇子、尊治(たかはるの)親王と申し奉る。御母は談天門院参議忠繼卿の御娘なり。皇子、既に春宮に立ちて、御年三十一歳に成らせ給へば、後宇多法皇を初め奉り、其方樣(かたさま)の人々は待兼(まちか)ねさせらるべし、とて、關東より計ひ申して、同二十九日、尊治親王、御位に卽(つ)き給ふ。先帝は花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す。時移り、事改(あらたま)り、此君、御位に卽き給ひ、内には仁慈の思(おもひ)深く、外には萬機(ばんき)の政(まつりごと)を施し、近代の明君、當世の賢王にておはしましければ、遠くは延喜天曆の跡を慕ひ、近くは後三條延久(えんきう)の例(れい)に任せ、記錄所(きろくしよ)へ出御(しゆつぎよ)有りて、直(ぢき)に訴陳(そちん)を決し給ふ。德澤(とくたく)、一天に覆ひ、恩惠、四海に蒙(かうぶ)り、絶えたるを繼ぎ、廢れたるを興し、悪を宥(なだ)めて、善を賞し給ひしかば、儒佛の宏才(くわうさい)、皆、共に望(のぞみ)を達し、寺社の碩學(せきがく)、各(おのおの)、既に所を得たり。誠に是(これ)、天に受けたる明君(めいくん)、地に奉ぜる聖主(せいしゆ)なりとて、上下、其化(くわ)に誇り、遠近(ゑんきん)、具德を仰がざるは、なかりけり。卽ち、是を、後醍醐天皇とじ申し奉りける。

[やぶちゃん注:「正和五年」一三一六年。

「北條高時」(嘉元元(一三〇四)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十四代執権(在職:(正和五(一三一六)年 ~正中三(一三二六)年)。ウィキの「北条高時」より引く。第九代執権北条貞時三男。延慶二(一三〇九)年に七歳で元服している。『元服に際しては烏帽子親の偏諱』『を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の』一『字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖』(あやか)『ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説』『を唱えたものの』、『根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたり』、『その正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと』『や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・資宗(助宗とも書く)の名字(名前の』一『字)を平資盛に求めた可能性があること』『を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず』、『得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式が』、『この時代に成立していたことが御家人の名前から窺え』、『これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している』。応長元(一三一一)年、九歳の『時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで三代の中継ぎ執権』『を経て』、この正和五(一三一六)年に父と同じ十四歳で、第十四代執権となった。しかし、『その頃には』既に『円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた』。『在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き』正中元(一三二四)年、『京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された』。しかし二年後の正中三年には病と称して二十四歳で『執権職を辞して出家』して崇鑑(すうかん)と名乗った。『後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こ』り、三月には非得宗の『金沢貞顕が執権に就任する』もたった十日で辞任、四月に非得宗の最後の執権(第十六代)赤橋守時が『就任することで収拾』した。元弘元(一三三一)年には、『高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる』。同年八月、『後醍醐天皇が再び倒幕を企てて』、『笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると』、幕府は『軍を派遣して鎮圧させ、翌』年三月には、再び、『後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立て』ている。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月、『後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する』が四月に『高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って』、五月七日に『六波羅探題を攻略。同月』八『日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する』十八『日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると』、二十二『日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年』二十九の若さであった。『後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった』が、『高時の実像を伝える当時の史料は少なく、これらの文献に描出される高時像には、足利尊氏を正当化し』、『美化するための誇張も』多く『含まれている』。「太平記」では、『高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため』、『鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている』。『更に、北条氏の礎石を築いた初代執権の北条時政が江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から』七『代の間』、『北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で』七『代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する』。「太平記」は『高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている』。こうした「太平記」に於ける『高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もある』。『では』、『実際の高時はどのような人物だったのかというと』、「保暦間記」は『高時の人物像について』、『「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した』金沢文庫古文書でも『彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。彼の虚弱体質の原因として、祖父・時宗さらには高祖父・時氏まで遡る安達氏を正室とした血族結婚にあると思われる。実際、彼の正室も安達氏である。また』、二条河原の落書には『「犬・田楽ハ関東ノホロ()フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬・田楽を愛好したことが幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが伺える』とある。『父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には』十四『歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており』、二十三『歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が』三『歳の時に起きた嘉元の乱以来』、『貞時が政務に対する意欲を失って』、『酒浸りの生活になっていたうえ、高時が』九『歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった』。『また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった』。『その一方で』、『高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんだことが知られている』。また、「増鏡」でも、『高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽・闘犬に興じることもあったと記して』あり、『また、田楽・闘犬を愛好したのは執権を退い』て『以降であったと記している』とある。実は彼もまた、権力闘争の中にあって形骸だけが利用された滅びの一族の一人であったのである。

「翌年三月に改元有りて文保元年と號す」「二月」の誤り。正和六年二月三日(ユリウス暦一三一七年三月十六日) に大地震などにより、改元。

「輕忽(きやうこつ)」軽率。

「兩人の内管領(ないくわんれい)」この場合は(元)内管領長崎円喜とその嫡男で(現)長崎高資を指す。現在では正和五(一三一六)年頃に、父から内管領の地位を受け継いで、幕府の実権を父とともに握ったと考えられている。文脈から秋田城介時顕と円喜と採っては誤りである。安達時顕は名門御家人の一族であって内管領ではない

「同二年二月二十六日」文保二年は一三一八年。

「主上」花園天皇。

「談天門院参議忠繼卿の御娘」後醍醐天皇の母五辻忠子(いつつじちゅうし 文永五(一二六八)年~元応元(一三一九)年)。「談天門院」(だんてんもんいん)は彼女の院号。後宇多天皇の後宮、女院(にょういん)。大覚寺統。

「後宇多法皇」大覚寺統。

「花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す」彼の御所は仁和寺の花園御所であったが、ここを寺に改めて妙心寺を開基している。正平三(一三四八)年十一月に、この花園萩原殿で死去した。

「萬機(ばんき)の政(まつりごと)」「萬機」は政治上の多くの重要な事柄であるが、特に帝王の政務を指す。

「延喜天曆」「延喜」醍醐天皇の治世。この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたことから、後に「延喜の治」と呼んで理想的な治世として賞賛されるようになった。「天曆」村上天皇の治世。彼は天慶九(九四六)年に即位した後、暫くは藤原忠平を関白に置いていたが、天暦三(九四九)年に忠平が没すると、以後は摂関は置かず、天皇親政の形をとった。後世、「延喜の治」と並称して聖代視された。しかし、ウィキの「天暦の治」によれば、『忠平の後に実際に政務をリードしたのは』、『太政官筆頭である左大臣藤原実頼であり、村上治世を天皇親政の理想の時代とするのは』、十一『世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったのだと考えられている』とある。

「後三條延久(えんきう)」後三条天皇(長元七(一〇三四)年~延久五(一〇七三)年/在位:治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の「延久の親政」。ウィキの「後三条天皇」によれば、彼は『桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出』し、『画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置』、『絹布の制』・『延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等』、『摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし』、「古事談」では、『これを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったため』、『天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった』。『また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようにな』った、とある。

「記錄所(きろくしよ)」政務実務室相当。

「訴陳(そちん)」訴人の告訴内容と被告側の弁明陳述。

「宏才(くわうさい)」広汎な知識を学んだ才人。]

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