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2018/02/12

北條九代記 卷第十一 寧一山來朝

 

      ○寧一山(ねいいつさん)來朝

 

同六年十月十日、東宮胤仁(たねひと)、御位に卽(つ)き給ふ。御年十一歳なり。主上は御讓位の後に院號蒙らせ給ひて、伏見院と稱し奉る。この時に當(あたつ)て、後深草、龜山、後宇多、伏見、何れも皆、存(ながら)へおはしまして、仙院の御所、四家まで相竝び給ひけり。同八月に後宇多〔の〕院第一の皇子(みこ)、邦治(くにはるの)親王を東宮に立て給ふ。御母は久我(こがの)太政大臣源〔の〕具守(とももり)公の御娘(むすめ)、西華門院基子(せいぐわもんゐんもとこ)とぞ申しける。一條〔の〕左大臣兼基公、攝政たり。同七年に改元ありて、正安とぞ號しける。この年、元朝より一寧といふ僧を遣して、日本に來らしむ。又は一山と號す。元の國王の密詔(みつせう)を受けて、日本間諜(かんてふ)の爲とぞ聞えし。抑(そもそも)、一山は宋の臺州(たいしう)の人なり。姓は胡氏、幼稚の古(いにしへ)は郡(ぐん)の鴻福寺の融無等禪師(ゆうむとうぜんじ)の席下に投じ、律を應眞寺に習學し、台宗[やぶちゃん注:底本「臺宗」であるが、これは天台宗のことであり、その場合は旧字で示さないのが正しいので、特異的に訂した。]を延慶寺(えんきやうじ)に傳授せり。然れども義學(ぎがく)を嫌ひ、禪搨(ぜんとう)を扣(たゝ)きて、疑慮を天童寺の堂頭(だうとう)敬簡翁に質(たゞ)し、遂に、一法(ほふ)の人に與ふるなし、と云ふに依て、豁然(くわつぜん)として契當(けいたう)す。元朝、既に靜謐(せいひつ)に革命するに及びて、祖印寺(そいんじ)に住して、弘法(ぐほふ)する事、十年なり。其よりして、補陀落山(ふだらくせん)に移りて、禪坐(ぜんざ)せり。元の國主、この日本を伺ひて、討取(うちとら)んと思ふ心を捨てすずして、奇謀を囘(めぐ)らし、一山を本朝に遣し侍りけり。正安元年に舶(ふね)を筑紫(つくし)の太宰府に入れたりけるを、相州貞時、是を聞き給ひ、蒙古の王、既に日本を伺ふ術(てだて)なりと知りて、一山を捕へて伊豆國に流すといへども、この僧の道法(だうほふ)、學德の譽(ほまれ)あるを以て、貞時、元より、禪法を好み給ふ故に、召返(めしかへ)して鎌倉に請じ、建長寺に居らしめ、日每に相看(しやうかん)して法要を問はれけり。後宇多天皇も、深く佛心の宗流(しりう)を重(おもん)じ、京都に招きて、南禪精舍(なんぜんしやうじや)に住せしめ、大道の要語(えうご)を顧問(こもん)し給ふ。往昔(そのかみ)、補陀落寺(ふだらくせんじ)にありし時、大衆に垂示(すゐじ)せらんける。

[やぶちゃん注:以上の偈は底本では全体が二字下げで数字を除いて総ルビであるが、ここでは白文で示した(後注の★で返り点を改めて附し、訓読文を示した)。また、偈句は句点を挟んで続いているが、句点は除去し、句ごとに改行した。前後を一行空けた。後の辞世の偈も同じ処理をした。]

 

 白花岩前敷揚古佛家風

 從聞思修入三摩地

 盡底掲翻

 便見頭々不昧

 一十二面鼻直眼橫

 三十二身東倒西擂與麼會得

 皇恩佛恩一時報畢

 

といへり。逾に元國にも皈らず、文保元年十月に、

 

 橫行一世

 佛祖呑氣

 箭已離弦

 虛空落地

 

といふ偈を書して、奄然(えんぜん)として遷化(せんげ)あり。年七十一歳なり。

 

[やぶちゃん注:「寧一山(ねいいつさん)」(ねいいっさん)」は一山一寧(いっさんいちねい 一二四七年~文保元(一三一七)年)のこと。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝は正和元年十月八日(ユリウス暦一三一二年十一月七日)ここに記されている通り、彼の渡来は、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い』、『伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが』、『一寧が大師号を持つ高僧であったこと、』一寧が門人一同の外に滞日経験を持つ西澗子曇(せいかんしどん:彼は文永八(一二七一)年から八年間の来日し、鎌倉の禅門に知己が多かった)『を伴っていたことなどから』、『死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また』、『一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり』、『多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て』、『貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経』、正和二(一三一三)年『には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺』三世となり、そこで没している。

「同六年十月十日、東宮胤仁(たねひと)、御位に卽(つ)き給ふ」「同六年」は永仁六(一二九八)年。「十月十日」は七月二十二日(一二九八年八月三十日)の誤り。「胤仁」伏見天皇の第一皇子の第九十三代天皇となった後伏見天皇(弘安一一(一二八八)年~延元元(一三三六)年)。しかし次章で見るように、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受けて、三年後の正安三(一三〇一)年、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子後二条天皇(後注参照)に譲位することとなった。

「主上」伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)。第九十二代天皇。後深草天皇第二皇子。

「後深草」寛元元(一二四三)年~嘉元二(一三〇四)年。第八十九代天皇。持明院統の祖。

「龜山」建長元(一二四九)年~嘉元三(一三〇五)年。第九十代天皇。大覚寺統の祖。

「後宇多」文永四(一二六七)年~元亨四(一三二四)年。第九十一代天皇。亀山天皇第二皇子。

「仙院」上皇・法皇

「同八月」永仁六(一二九八)年八月十日。

「後宇多〔の〕院第一の皇子(みこ)、邦治(くにはるの)親王」後の第九十四代天皇後二条天皇(弘安八(一二八五)年~徳治三(一三〇八)年/在位:正安三年一月二十一日(一三〇一年三月二日)。後宇多上皇第一皇子。

「久我(こがの)太政大臣源〔の〕具守(とももり)」堀川具守(建長元(一二四九)年~正和五(一三一六)年。従一位内大臣左近衛大将。太政大臣堀川基具の長男で、後の第九十四代天皇となる後二条天皇の外祖父となる。

「西華門院基子(せいぐわもんゐんもとこ)」(文永六(一二六九)年~正平一〇/文和四(一三五五)年)。後宇多天皇の宮人で後二条天皇の生母。准三后。ここに書かれている通り、堀川具守の娘であるが、太政大臣であった祖父堀川基具の養女となっている。ウィキの「堀川基子」によれば、弘安八(一二八五)年に『邦治親王(後の後二条天皇)を生む。しかし、太政大臣の孫という生まれながらも処遇には恵まれず、「増鏡」によれば』永仁六年の『邦治親王立太子後も』、また、正安三(一三〇一)年の『即位後も叙位がなく、基子が従三位に叙せられたのは』徳治三(一三〇八)年)八月に『後二条天皇が亡くなって出家して後、同じ年(元号は延慶に改元後)の』十一月二十七日、次いで同年一月二日に『准三宮・院号宣下がなされて、西華門院と称した』とある。

「一條〔の〕左大臣兼基」二条兼基(文永四(一二六七)年~建武元(一三三四)年)の誤り。関白二条良実の子。従一位。後に関白・太政大臣となった。

「同七年に改元ありて、正安とぞ號しける」永仁七年四月二十五日(ユリウス暦一二九九年五月二十五日)後伏見天皇の即位により改元。

「密詔(みつせう)」密命。

「間諜(かんてふ)の爲」スパイするため。

「臺州(たいしう)の人なり」台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鴻福寺」不詳。

「融無等禪師(ゆうむとうぜんじ)」臨済禅大慧派の無等慧融。詳細事蹟不詳。

「律」中国で興った仏教の一派。徹底した戒律を準拠とし、受戒を成仏の要因とする。

「應眞寺」不詳。

「延慶寺(えんきやうじ)」不詳。

「義學(ぎがく)」増淵勝一氏訳(一九七九年教育社刊)の割注に『有志の寄付金などによって設立した無月謝の私立学校』とある。

「禪搨(ぜんとう)を扣(たゝ)きて」禅門の寺に教えを乞うて。「搨」は「しじ」で牛車(ぎっしゃ)の牛を外した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、また、乗降の踏台として用いる具であるが、ここはそれを寺の門に喩えたものか。なお、この「搨」(トウ)自体にも「叩く・打つ」の意がある。

「天童寺の堂頭(だうとう)敬簡翁」「ブリタニカ国際大百科事典」の「一山一寧」に、天童山筒翁敬禅師に参禅を許された、とある。

「遂に、一法(ほふ)の人に與ふるなし、と云ふに依て」増淵氏の訳では、『遂に「一つの物で人が悟りに導かれるものはない」という教えによって』とある。

「豁然(くわつぜん)」視野が大きく開けるさま、或いは、心の迷いや疑いが消えるさま。副詞的に「忽ち」と訳してよい。

「契當(けいたう)」増淵氏は『全集と交わりを結んだ』と訳されておられる。

「元朝、既に靜謐(せいひつ)に革命するに及びて」増淵氏は『元朝がもはや南宋を滅ぼして平静になるに及んで』と訳されておられる。

「祖印寺(そいんじ)に住して、弘法(ぐほふ)する事、十年なり」「ブリタニカ国際大百科事典」の天童山筒翁敬禅師への参禅の後、育王山に登って蔵叟善珍・寂窓有照・頑極行弥 (がんぎょくぎょうみ) らに禅を学び、頑極の法を継いだ。一二八四年、四明祖印寺に住んでいた、とある(増淵氏の割注では一二七九年とする)。

「補陀落山(ふだらくせん)」補陀山観音寺。これは現在の浙江省舟山市普陀区にある普済寺(ふさいじ)の前身であろう(増淵氏もそう認識しておられる)。中国の観音霊場普陀山を代表する禅宗寺院で普済寺のある普陀山は「中国四大仏教名山」にも数えられる。この寺は日本の入唐僧恵萼(えがく 生没年不詳:平安前期の僧)によって創始されたとされる。ウィキの「恵萼」によれば、彼は八五八年、『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像を下ろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」も参照されたい。

「元の國主」元の第二代皇帝成宗。テムル(一二六五年~一三〇七年)。世祖クビライの次男チンキムの三男。

「正安元年」一二九九年。但し、この遣使には紆余曲折の前段階がある。ウィキの「一山一寧」によれば、『二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した』。『当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた』が、一二八二年(本邦の弘安五年相当)の『最初の渡航は悪天候によって阻まれ』、二年後には何とか『対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され』、『中止され』ている。一二九四年(永仁二年相当)、『世祖の後を継いだ成宗は』、『再び』、『日本の属国化を図り』、『愚渓に三度目の使者を命ずるが』、『老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた』とある。

「相看(しやうかん)」面会。

「法要」禅法の肝要。

「南禪精舍(なんぜんしやうじや)」南禅寺。

「垂示(すゐじ)」「すいし」とも読む。禅宗で師が弟子たちに教えを説くこと。また、その教え。

★以下、まず返り点を打つ。

 

白花岩前敷揚古佛家風

聞思修三摩地

盡底掲翻

便見頭々不昧

一十二面鼻直眼橫

三十二身東倒西擂與麼會得

皇恩佛恩一時報畢

 

 底本訓点に従って訓読する。

 

白花(はくくわ) 岩前に古佛の家風を敷揚(ふやう)す

聞思修(もんししゆ)より 三摩地(さんまぢ)に入る

盡して底(そこ)を掲翻(けうほん)す

便(すなは)ち見る 頭々(とうとう) 不昧(ふまい)

一十二面 鼻 直(なほ)く 眼 橫(よこた)ふ

三十二身 東倒西擂(とうたうせいらい) 與麼(よも)に會得(えとく)せば

皇恩 佛恩 一時(じ)に報じ畢(をは)る

 

 とても歯が立たないので、増淵氏の訳を引用させて戴く。

   《引用開始》

白い花が岩の前で散っているのを眺めていると、壁支仏(びゃくしぶつ)〈ひとり修業する、消極的な悟りを求める小乗の修業者〉の風儀を展開しているように見える。そこで聞〈仏法を聴聞して知ること〉・思〈これをみずから思惟すること〉・修〈仏道の実践修行〉から精神を統一し、それを徹底的に推し進めてみる。すると頭がはっきりしてくる。文殊以下の三十二菩薩のお姿があちこちに浮んで来る。これを共に体得すれば、皇帝の恩にも仏の恩にも、同時に報いおわることができる。

   《引用終了》

「皈らず」「かへらず」。「歸らず」。

「文保元年十月」十月二十五日。ユリウス暦一三一七年。

★以下、まず返り点を打つ。

 

行一世

佛祖呑氣

箭已離ㇾ弦

虛空落ㇾ地

 

 底本訓点に従って訓読する。

 

一世に橫行(わうぎやう)す

佛祖の呑氣

箭(や) 已(すで)に弦(げん)を離れ

虛空 地に落つ

 

 ここも増淵氏の訳を引用させて戴く。

   《引用開始》

一生涯を自在に生きた。仏はそれを問題にしないでくださった。矢はすでに弦を離れ、大空は地に落ちた。そのように私の命もこの世を去る時が来た。

   《引用終了》

「奄然(えんぜん)」忽(たちま)ち。俄かに。忽奄 (こつえん)。]

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