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2018/02/05

老媼茶話拾遺 切支丹

 

     切支丹

 

 日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く。その勒右の宗と見へたり。然れども、其頃、權化(ごんげ)の名僧多くして、萬民を化度(けど)し給ふ故、邪法にかたむく者なくして、邪法、用ゆる事、かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)。

 そのゝち、星霜はるかに押移(おしうつり)て、人皇百六代後奈良院の御宇、天文二十年秋九月、切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり。

 同人皇百八代後陽成院永祿年中に、再(ふたたび)、南蠻切支丹國より、奢備鬼留といふ伴天連並(ならびに)いるまん、江川(がうしう)あづちへ來り、宗門を廣め、邪法を説(とく)。此節、織田信長、安土(あづち)におわしましければ、左(さ)もあるべきに、此宗を禁じ給はず、伴天連、安土に耶蘇寺(やそでら)を建て、天帝(てんてい)を本尊とし、

「サン多摩利耶蘇須切に。」

と唱へ、丸念數を建立し、一の大鏡を雲臺(うんだい)にすへ、あまねく萬人に見せしむ。諸宗門の人人の、鏡に向ふ時は、牛馬狐狸(ぎうばこり)の面(おもて)に見へ、耶蘇宗に歸伏(きぶく)せしむもの、此鏡を見る時は、佛・菩薩の面にみへけるまゝ、愚癡無知(ぐちむち)の者共、此宗にかたむき入る事、幾百萬といふ限(かぎり)なし。其上、伴天連四民の貧敷(まづしき)者どもに、金銀をあたへ、忽(たちまち)、とめる者となし、又、富貴(ふうき)成(なる)ものには珎(めづ)らしき珎寶(ちんぱう)をあたへける間(あひだ)、此宗門を尊(たつと)み、なつく事、幼子(をさなご)の母をしたふが如し。此億萬の金銀のついへをば、日本を奪ひとつて後、日本國の諸氏にかけて、つぐのわんとの工(たくみ)也。其外、無邊法師・如路因果居士などゝいふ邪法僧、多く安土にあつまりける。伴天連の勤(つとめ)を得て、今迄、崇(あがめ)うやまひける國國の神社・佛閣・寺院・坊舍、悉(ことごとく)破却して、獅子の或(あるい)は狛犬を碎き打(うち)、薪(たきぎ)となし、阿彌陀佛・地藏菩薩の尊容を、みぞ・堀・路頭に捨(すて)、日本は既に魔國ならんとす。

 家康公、此由を聞召(きこしめ)し及(およば)れ、「是、みな、蒙古三韓の賊、干戈(かんくわ)を動(うごか)さずして日本を手に入れんとの斗(はか)りごと也。日本國中にある伴天連、ことごとく根をたち、葉を枯(から)すべき」よし尊命あるは、慶長六年辛丑(かのとうし)十月、板倉伊賀守勝重、京都の所司代たりければ、耶蘇が寺を燒拂(やきはらひ)、洛中洛外、ことごとく此宗を禁斷せしむ。切支丹改宗せざるものどもをば、俵(たはら)に入れ、卷立(まきたて)て、五條の橋づめに積(つみ)ておく事、山のごとし。そのころ、狂歌に、

  ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる

 又、切支丹の宗旨を改め、本宗に歸る時は、伴天連本尊天帝を地にしき、念佛を申(まうし)、そのうへをまたぎこし、是を「轉ぶ」と云(いふ)。其後、五人組、本尊の寺請狀(てらうけじやう)を持(もち)て是を改め、所司代へ起請文を捧ぐ。其辭に曰、

[やぶちゃん注:以下の証文は底本では全体が「一」が突出して三字目にあるのを除いて三字下げ(ここでは「一」は四字目に下げた)。前後を一行空けた。]

 

  證文之事

一 御法度の切支丹宗門にて無御座(ござなく)候。もし僞り爭申(あらそひまうし)候においては、上は天公・天帝・散多摩利屋(さんたまりや)・ぜす切支(きりし)と・せうすうすの御罪を請(うけ)、陰邊留野(インヘルノ)に落(おち)、諸天狗の手にわたり、追付(おつつけ)、らさけに成り、白癩(びやくらい)・黑癩と呼(よばは)るべき物也。依(よち)て恐敷(おそろしく)、證文如斯(かくのごとき)に御座候。以上。

 

 慶長十七壬子(みづのえね)三月廿一日、駿河の阿部川原に於て切支丹改宗せざるもの、公方近士(くばうきんし)岡本大八をはじめ、數百人、國中を引(ひき)さらし、火あぶり・磔に行わるも、これのみならず、四國西國は、就中(なかんづく)此宗門に傾(かたむか)ざるはなし。尾張大納言義直卿御領内十二ヶ村の民、殘(のこら)ず、切支丹に入(いり)、極刑に逢ひ、近國遠國より搦來(からめきた)る切支丹、江戸へつれ來り、品川表(しながはおもて)の波打際へ、かきのごとくに柱をたて、數百人の切支丹を逆樣(さかさま)つるし置(おき)、滿汐(みちしほ)には、面(つら)・おとがひまで、波にひたり、則(すなはち)、息絶(いきたえ)る。汐引(しほひく)と、いきかへる。かくすれども、壱人も本宗にかへらず、ことごとく、おぼれ死す。

 長崎奉行曾我又右衞門、切支丹の男女(なんによ)大勢をからめ、出雲國より、隱岐へわたり、嶽(だけ)の熱湯へつれ行(ゆき)、湯の勢(いきほひ)烈しくして、あたりへよる事ならざれば、足輕ども、柄の長きひしやくへ熱湯をくみ入(いれ)、八、九才、十二、三才ばかりのわらべを赤裸(あかはだか)になし、溫泉の端へ引出(ひきいだ)し、父母のみる所にて、あたまより、件(くだん)の熱湯をくみかくるに、皮肉、たちまち、にへとけて、白骨と成(なる)。此有樣を眼前にみるといへども、父母兄弟、少しもかなしむ色なし。又、罪人の繩を解(とき)て熱湯のもとへあがり、黑煙のたつる湯の中へ飛込(とびいこま)しむるに、臆する氣色もなく、眞一文字に飛(とび)、一通り、うかみ出(いづ)るを見れば、瓦(かはら)のごとくにとけ、氷の如くに消へて、黑髮と骸骨、うかみ出(いづ)る。數百人の切支丹、改宗の者、ひとりも、なし。

「切支丹の宗門をあらためるものには、金銀田薗(でんゑん)を多(おほく)下され、家に歸り、妻子、安樂に過(すぐ)る。」

といへども、此宗門にかたむき入(いる)もの、老若男女・幼童に至る迄、其志(こころざし)、金鐵(きんてつ)のごとく、死をおそるゝ心、露(つゆ)程もなし。

 此前(このまへ)、國國所々に於て刑罪せらるも、切支丹幾千萬人と云(いふ)數をしらず。奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して、まづ、幼きわらわべを、父母の眼前にて、兩手を、きり落し、兩足を、またのつけ根、打(うち)おとすに、幼きわらべども、壱人も改宗せず、

「天帝・伊留滿・散多摩利屋・ぜすきりす、磔罪上天火罪明朗。」

と唱へ、われ先にぞ死をあらそふ。

 寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日、横澤丹波と申(まうす)者の家の二重かべより、伴天連、尋出(たづねいだ)し、紙小(かみこ)ばたに六字の名號を書き、是をさゝせ、切支丹宗の大事にして、片時(かたとき)もはなさず、晝夜首にかけ尊(たつと)む「こんだつ」といふものをはづして、淨土珠數(じやうどじゆず)を首にかけさせ、伴天連をはじめ、横澤氏が一族三十餘人を馬にのせ、町町を引(ひき)さらし、此日(このひ)、藥師堂にて殺されける。本朝の人を逆磔(さかさはりつけ)にかける事、時は二日を過して死。伴天連は一七夜(ひとななよ)を經て、死したり。伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり。此とき、刑罪せらるゝ吉利支丹、百三十餘人。

 其頃、加藤明成の御内(みうち)の徒士(かち)寶戸太郎作(はうどたろさく)といひしもの、北方(きたかた)へ用の事ありてゆき、歸り道、夜更(よふけ)て、雨の降(ふる)に、からかさをさし、足駄(あしだ)をはき、藥師堂を通りけるに、刑罪に逢ひける切支丹の獄門の首、二、三十ありけるが、此首ども、一同にうなり出(いだ)し、獄門臺より、飛拔(とびぬけ)て、手まりの樣にはづみ上(あが)り、太郎作足もとへ、こけ來り、手足や頰へしひ付(つき)けるを、太郎作、はらいのけ、蹴ちらし、少しも動ぜず通りけるに、「惡人成佛」と書(かき)し大卒都婆(おほそとば)の元に、人(ひと)煎(い)る大釜の有(あり)けるが、其かたわらに、首なき髑骸(むくろ)六有ける。その内より一の髑骸、

「むつく。」

と起き上り、太郎作に、

「ひし。」

と、だきつきける。太郎作、ことゝもせず、力を出(いだ)し、彼(かの)死骸を突倒(つきたふ)しける。五體、ちりぢりに碎け、地に伏して、二ど、起上らず、といへり。

 唐(もろこし)にて劉先生といふ者、山へゆき、大雨に逢ふて、みちのかたはらの塚穴に入(いり)て雨をやめ、雨晴て後、月明也。邊りをみるに、白骨、一具あり。則(すなはち)、立上(たちあが)り、劉先生にいだき付(つき)たり。劉先生、力をきわめて、ふるひ打(うつ)所、倒(たふれ)て、又、起上らず。是、あやしむにたらず。劉が眞氣(しんき)盛んなるにより、枯骨、かつは附して如此(かくのごとし)。「暌事志(けいじし)」にみゆ。太郎作も此類(たぐひ)にやあらん。

 

[やぶちゃん注:「日本へ耶蘇(やそ)宗門の渡りけるは、人皇七十五代の御門(みかど)後白河院保元平治の頃、南蠻切支丹國より、伴天連(ばてれん)・伊留滿(いるまん)といふもの、來朝して、耶蘇といふ宗をはじめ、邪法を説く」も、「かなわずして本國へ逃歸(にげかへる)」「人皇七十五代の御門(みかど)後白河院」は不審。現行では第七十七代天皇である。単なる誤りか。また、「保元平治の頃」(ユリウス暦一一五六年から一一六〇年二月十八日(平治二年一月十日)まで。平治は二条天皇(但し、後白河院の院政)の即位した保元四年四月二十日(一一五九年五月九日) に始まるが、僅か八ヶ月で「平治の乱」によって永暦に改元されている)に、直接にキリスト教国から「伴天連(ばてれん)」(「父」・「神父」の意のポルトガル語「padre」(パードレ)の本邦での当て字で、トリックの宣教師のを指す切支丹用語)や「伊留滿(いるまん)」(「兄弟」・「神弟」の意のポルトガル語「irmão」の本邦の当て字。宣教師の称号の一つで、「助修士」「平修道士」などと訳す。「イルマン」が司祭職に叙階されると「パードレ」となる)が来日して、キリスト教を布教したという記録は現存しないから、これも不審である。ウィキの「日本のキリスト教史」によれば、『日本にいつキリスト教が到来したか』『ということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が』五『世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある』が、『歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い』。唐以降の中国との貿易の中で景教の存在が伝えられ、それに個人的に関心を示した人物はいるかも知れぬが、『歴史的・学問的に見て証拠が多く、日本史の文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエル』(スペイン語:Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年頃~一五五二年:バスク人。没したのは次の布教先として上陸した明の広東省の海島上川島(じょうせんとう:現在のマカオ近くの広東省江門市台山。ここ(グーグル・マップ・データ))で病死)『による布教で』、これは言わずもがな、戦国時代の天文一八(一五四九)年『のことであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみでキリスト教布教が開始された』と、我々が歴史で習った通りのことが書かれている。

「その勒右の宗と見へたり」「勒」では意味が通らぬ。或いは、布教の「勤」(つとめ)の誤記か? さすれば、その布教活動の内容から見て、右の宗教と考えられる、の謂いで意味としては附には落ちる(無論、その事実自体は不審である)。

「權化(ごんげ)の名僧」優れた権威ある仏教僧。

「化度(けど)」仏教用語。「教化済度(きょうげさいど)」の略。人々を教え導いて、迷いから救うこと。

「人皇百六代後奈良院」室町・戦国期の第百五代天皇後奈良天皇(明応五(一四九七)年~弘治三(一五五七)年/在位:大永六(一五二六)年~弘治三(一五五七)年)。この数字の違いについては前章で注したように、明治以前では神功皇后を第十五代の帝として数えた史書が多かったことによるものとすれば、腑に落ちる。

「天文二十年秋九月」一五五一年。ユリウス暦では旧暦九月一日は九月三十日である。ウィキの「フランシスコ・ザビエル」によれば、ザビエルは、明の上川島を経由して、『薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て』、天文一八(一五四九)年八月十五日、『現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた』。同年九月には、『伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た』が、『貴久が仏僧の助言を聞き入れ』、『禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)』。翌天文十九年八月、『ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行』い、同年十月『下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し』て『平戸を出立』、十一月上旬に『周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い』、同年十二月十七日、『周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪』(『ひびやりょうけい;後に堺の切支丹の総代となった)『の知遇を得』、天文二〇(一五五一)年一月、『日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐』(こにしりゅうさ:堺の豪商で豊臣秀吉の家臣。熱心な切支丹宗徒となった。後にかのキリシタン大名となる小西行長の実父)『の歓待を受けた』。『ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て』、天文二十年三月には平戸に戻っている。その後、『ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度』、『山口に入っ』て同年四月『下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった』という。『これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約』二『ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約』五百『人にものぼった』。その後、『豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約』六百『人を超えていたといわれる)』、同年九月、『ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)』が、『日本滞在が』二『年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にし』、『一旦』、『インドに戻ることを決意』、同年十一月十五日に日本人青年四人『(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して』日本を離れた『種子島、中国の上川島を経て』、『インドのゴアを目指し』、一五五二年二月十五日、『ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった』。同年四月、ザビエルは、日本全土での布教のためには』、『日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年』九月、『上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症』、十二月三日に『上川島でこの世を去った』四十六歳であった、とある。本文では「切支丹國より、耶蘇、又、來り、平安洛陽に入り、此折も事ならずして退散せり」とあるから、事実とは齟齬していないことが判る。

「人皇百八代後陽成院」安土桃山から江戸初期にかけての第百七代天皇後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七:グレゴリオ暦)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一:グレゴリオ暦)年)。

「永祿」一五五八年~一五七〇年(未だユリウス暦。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日より開始)。

「奢備鬼留」永禄の年号と齟齬するが、これは天正七(一五七九)年七月に来日し、天正十年まで第一回目の日本滞在・布教・宣教師巡察を行い、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見し、天正遣欧少年使節派遣を計画実施したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)(Alessandro Valignano Valignani 一五三九年~一六〇六年)のことであろう。彼の邦名(漢名)は「備慈多道留」であるからである。彼はウィキの「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」によれば、天正九(一五八一)年の織田信長への謁見の『際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス』十三『世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したため』、『これを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている』ともあるからである。

「安土に耶蘇寺(やそでら)を建て」これは信長の許可を得て、ヴァリニャーノが現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦に土地を得て、天正八(一五八〇)年に創建されたセミナリヨ(ポルトガル語:seminário:イエズス会によって日本に設置されたイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校))のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「サン多摩利耶蘇須切に」「蘇須切に」が今一つ判らぬが、強引に意味を持たせるならば、「さんたまりや、そ、すべからく、せつに」か。「蘇」は復活蘇生の意で採った

「丸念數」丸念珠(まるねんじゅ)で「コンタツ」、ロザリオ(rosário)のこと(ポルトガル語:contas:元は「量る・数える」の意)。キリシタン信徒が用いる数珠(じゅず)。大珠六個・小珠五十三個を鎖で繋いで輪状とし、さらにそれに十字架を繫いだもの。この珠を繰りながら唱える「ロザリオの祈り」に用いる。ロザリオの原語はラテン語「rosarium」でこれは「薔薇(rosa)で編まれた花冠」の意。これは「ロザリオの祈り」の十五の〈主の祈り〉と百五十の「アベ・マリア」が、主キリストの十五の秘義及びマリアに譬えられる教会の織りなす「祈りの花輪」に擬えられたことに基づく。

「とめる者」「富める者」。

「なつく」「懷く」。慣れ親しむ。親近感を抱いて近づき馴染む。

「ついへ」「費」。正しい歴史的仮名遣は「つひえ」。

「つぐのわん」「償(つぐの)はん」。

「工(たくみ)」企(たくら)み。

「無邊法師」不詳。識者の御教授を乞う。

「如路因果居士」不詳。識者の御教授を乞う。

「みぞ」「溝」。

「日本は既に魔國ならんとす」明治の廃仏毀釈と同じだね、こりゃ。

「蒙古三韓の賊」元(既に末期であった)と朝鮮(「三韓」は元は朝鮮半島南部にいた種族と、その地域を指し、半島南部にいた種族を「韓」と称し、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なることから「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の三つに分かれていたことによる称)。

「干戈(かんくわ)」武器。武力。

「慶長六年辛丑(かのとうし)」一六〇一年。

「板倉伊賀守勝重」(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)は安土桃山から江戸前期にかけての旗本・大名。江戸町奉行・京都所司代(京都に駐在して京都の警備・朝廷や公家の監察及び、京都・伏見・奈良の町奉行の管理、近畿全域の訴訟の裁決、西国大名の監察などに当った。慶長五(一六〇〇)年に創設された(慶応三(一八六七)年廃止)。「所司代」の「所司は鎌倉幕府の侍所の次官で、長官である別当の補佐・代役、則ち、「代」はその別当の「代」役である「代官」の意である)。ウィキの「板倉勝重」によれば、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで』、『名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』。『三河国額田郡小美村』『に生まれ』、『幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』、永禄四(一五六一)年、『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟・定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し、天正十四年に『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同十八年『に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』一千『石を給され、関東代官、江戸町奉行となる』、「関ヶ原の戦い」の後の慶長六(一六〇一)年、三河国三郡に六千六百石が与えられるとともに、『京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し』、『春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同十四年『には近江国・山城国に領地を加増され』、一万六千六百『石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年『からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった』。元和六(一六二〇)年、『長男・重宗に京都所司代の職を譲った』とある(下線やぶちゃん)。但し、ウィキの「禁教令」によれば、江戸幕府(既に家康は隠居して慶長一〇(一六〇五)年四月一六日に秀忠が第二代将軍に就任している)は慶長十七年三月二一日(一六一二年四月二一日)に『江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告』しはしたが、当初、『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため』、『京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた』。しかし、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」を、続けて元和五(一六一九)年に『改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認でき』なくなり、『キリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして』同年十月六日、『市中引き回しの上』、『京都六条河原で』五十二『名が処刑される(京都の大殉教)。この』中には四人の『子供が含まれ、さらに妊婦も』一『人いた』とある通り(下線やぶちゃん)、勝重を非情残忍なる役人として見るのは誤りである。

「橋づめ」「橋詰」。

「ころひふく尺八竹の吉利支丹俵にまかれこもそふとなる」整序して示す。

 

 轉(ころ)び吹く尺八竹(しやくはちだけ)の吉利支丹俵(たはら)に卷かれ薦僧(こもさう)となる

 

「薦僧」は虚無僧(こむそう)の旧称。「轉び」は俵巻きにされて、ごろんと「転」がされて積み上げられたさまに、切支丹を棄教する「転ぶ」を掛けたもの。この俵巻き=菰(こも)巻きとそこで苦しさに呻く声から、行脚する薦僧(虚無僧:禅宗の一派である普化(ふけ)宗の僧)とその尺八の音を連想したものであろうが、こういう狂歌は正直、好きくない。

「そのうへをまたぎこし」「その上を跨ぎ越し」。踏絵の原型。

「五人組」江戸時代に領主の命令によって組織された隣保(りんぽ)制度。ウィキの「五人組(日本史)」より引く。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ、慶長二(一五九七)年、『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』とある。

「本尊の寺請狀」この「本尊」は菩提寺を指す「本寺」の誤記ではないか? 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請(てらうけ)制度。寺請証文(ここに出る「寺請狀」)を受けることを民衆に義務付けたが、これは特に禁制のキリシタン宗徒及び日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派(日蓮が教義とした「法華経」を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという不受不施義を厳格に守った一派で、幕府から強い弾圧を受けていた。但し、幕閣や徳川家内部等にさえも秘かな信者がいた)でないことを菩提寺によって証明させることが主眼であったが、宗門人別改帳など、住民調査票の役割をも担った。

「所司代」この場合は代官のこと。

「せうすうす」ザビエルたちが、キリスト教の神を表わすのに用いていたラテン語「Deus」の音写「でうす」の転訛であろう(但し、本来のラテン語の「deus」は古代ローマの多神教の神々を表わす語である)。この部分は何だか非常に興味深い。切支丹でないことを、棄教した神の名に於いても(即ち、所謂、あらゆる切支丹の神の名の下に「私は切支丹の神ではない」とし、もし、それを信じていたならば、それらに邪神によっても罰せられるのだからという、驚天動地のパラドキシャルな書き方になっているからである。

「陰邊留野(インヘルノ)」ポルトガル語「Inferno」。地獄。魔界。

「らさけ」不詳。仏教でいう原型の「羅刹(らせつ)」、人を食うとされる悪鬼の転訛か(これは後に仏教に入って仏法の守護神となった)。識者の御教授を乞う。

「白癩(びやくらい)・黑癩」ハンセン病のこと。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状、黒く焼けたように見えるものを区別して呼んだ。ハンセン病は抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、生きながらにキリスト教の煉獄や仏教の地獄などに落ちた救い難き者と見做され、洋の東西や宗教を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見が続いた。その中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されても、それは未だ終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は当然、解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

「慶長十七壬子(みづのえね)」一六一二年。

「岡本大八」(?~慶長十七年三月二十一日(一六一二年四月二十一日))は徳川家康の側近で老中にもなった本多正純の重臣で、「岡本大八事件」で知られる(事件はかなり複雑なので、詳しくは以上のリンク先のウィキの記事を参照されたい)。ウィキの「岡本大八によれば、『江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれる。キリシタンでもあり、洗礼名はパウロという』。当初、『長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、やがて本多正純の家臣となった』。慶長一四(一六〇九)年、肥前日野江藩初代藩主有馬晴信が『長崎港外においてマードレ・デ・デウス号』(Madre de Deus)『を攻撃したとき(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(Nossa Senhora da Graça)『事件』)、晴信の監視役を務めた。ところが』、『大八は、この事件の際の恩賞を徳川家康に斡旋する』、『と偽って』、『多額の賄賂を晴信から受け取った。しかし、いつまでたっても恩賞の沙汰が無いことにしびれを切らした晴信が』、『正純と直談判したため』、『詐欺行為が発覚』、慶長一七(一六一二)年に晴信と直接対決が行なわれ』、大八は『駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された』とある。しかし、この箇所、ちょっと不審である。大八の処刑時に、同時に切支丹信徒数百人が一緒に火炙りや磔に処せられたというのは、どうも納得がいかない。彼は切支丹であったが、彼の場合、罪科の主体は切支丹であったことよりも、収賄や詐欺の咎によるものだったのであり、彼を「はじめ數百人」の信徒が云々というのはおかしいと思うからである。サイト「家康公を学ぶ」のこちらによれば、家康によって『東海道は美しく整備され』、『街道を往来する旅人の中にはイギリス人の記録も残され』ており、そこにはしかし、『駿府で始まったキリシタン大弾圧によって、安倍川の河原に晒(さら)されたキリシタン信徒の処刑場の様子が記されて』おり、『そんな時期に徳川家康公の家臣であったキリシタン岡本大八の重大な犯罪が発覚し』、彼は『安倍川の処刑場で火刑に処せられた。岡本大八の上司であった原主水(はらもんど)もキリシタンであったことから、彼は両手の指を切られ、火印(焼印のこと)を額にあてられ』、『追放となった』(原は切支丹であったのに、ここでは死刑になっていないのである)。『藁科川右岸の牧ヶ谷の耕雲寺住職は、怪我をして空腹に苦しむ原主水を匿(かくま)っていたことが、駿府町奉行彦坂九兵衛の配下に発見され』、『住職も同罪として寺は廃寺となった。原主水は江戸送りとなって、江戸の鈴が森で処刑された(「徳川実記」)』とある。私はこの「老媼茶話」の「數百人」という数字は、別な日時の別な切支丹の処刑を含んでいるのではないかとも思うのである。識者の御教授を乞う。なお、原主水胤信(たねのぶ 天正一五(一五八七)年~元和九(一六二三)年)の凄絶な信仰人生はウィキの「胤信」を是非、参照されたい。

「引(ひき)さらし」「引き晒し」。

「尾張大納言義直」徳川家康の九男で尾張藩初代藩主(尾張徳川家始祖)徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年)

「かきのごとく」垣根の如く。

「逆樣(さかさま)」に「つるし置(おき)」。

「おとがひ」「頤」。あご。

「息絶(いきたえ)る」失神する。

「曾我又右衞門」曽我古祐(ひさすけ 天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)。奉行在任は 寛永一〇(一六三三)年から翌十一年と短い。

「嶽(だけ)の熱湯」不詳、というか、不審。隠岐に自然温泉や、融けたマグマの露出した火口なんぞは、今もないし、当時もない! 島前は確かに巨大なカルデラだけど、約五十万年前に終息してそのままんまやで、あんたぁ! 隠岐の「嶽」(「だけ」は私の推定読み)もよう判らん。これって、もしかして、隠岐の島前の西ノ島南部にある焼火山(たくひやま)って名前を勝手に活発な活火山と勘違いした噂話かなんかなんやないかいのぉ?

「あたりへよる」「邊りへ寄る」。

「ひしやく」「柄杓」。

「にへとけて」「煮え融けて」。

「熱湯のもとへあがり」の「あがり」は「あげさせ」でないとおかしい。

「うかみ」「浮かみ」。浮かんで。

「田薗」「田園」に同じい。

「奧州會津にても、藥師堂といふ所にて、切支丹の男女、引出(ひきいだ)して……こ以降の切支丹宗徒などの会津での処刑の話は既に「藥師堂の人魂」で語られており、処刑場である「藥師堂」の位置推理なども行っている。また、後掲される伴天連を二重壁の隠し部屋に匿っていた「横澤丹波」も、同じ章に「橫澤丹後」の名で登場しているので、そちらの本文及び私の注を参照されたい。

「わらわべ」ママ。「童(わらはべ)」。

「磔罪上天火罪明朗」底本の編者はルビを全く振っていないから、当然の如く、音読みせよということであろうから、「たくざいじゃうてんかざいめいらう」と読んでおく。磔刑はキリストと同じ、火炙りになっていないから「火罪」はよく判らぬ。というより、この二字は他本の校合によって追加したものであるから(その記号が底本にはある)、寧ろ、なしと考えてよいのではあるまいか? 何故なら、「藥師堂の人魂」ではこの台詞はシンプルに「死後には上天明朗」となっているからである。それなら、昇天の後には天国の永遠の晴明なる楽園に迎えられるという言葉として腑に落ちるからである。

「寛永十二年乙亥(きのとゐ)十二月廿日」一六三六年一月二十七日

「紙小(かみこ)ばた」「紙小旌」。紙で出来た小さな幟旗。通常は罪名を書くが、ここは最早、いるはずのない外国人宣教師(神父)であるから、逆にシンプルに「南無阿彌陀佛」の「六字の名號」を書いて彼の背に差し掛けさせたのである。

「こんだつ」先に注した「こんたつ」、ロザリオのこと。

「伴天連が着(ちやく)せし衣(い)ふく、よく伸縮(のびちぢ)みて、大人・小兒とともに能(よく)相叶(あひかな)へり」処刑人の着衣なので、賤民らに払い下されたか。それは驚くべき伸縮性を持った繊維で出来ており、大人が着ても、子供が着ても、孰れもきつかったり、だぶだぶだったりすることがなかった、ということとしか読めない。「伴天連」が主語でなく、日本人ではない不思議な人型の生物だったなら、これは今なら、宇宙人のスーツだ! という都市伝説になるところだ。

「加藤明成」複数回、既出既注。最初に出る猫魔怪の注を参照されたい。

「寶戸太郎作(はうどたろさく)」不詳。読みは私の勝手なもの。

「北方(きたかた)」現在の福島県喜多方市のこと。

「しひ付(つき)」「強い付く」。ぴたりとくっつくことか。

「髑骸(むくろ)」読みは私の推定。

「劉先生」不詳。出典の「暌事志(けいじし)」(読みは私の勝手なもの)自体が不詳なの「眞氣」真の正常なる陽気としての精気の謂いであろう。

「枯骨、かつは附して如此」この箇所底本は『枯骨かつは附して如此』で『勝は』の右には編者によって補正漢字として『合羽』と添えてあるのであるが、私が馬鹿なのか、この補正字の意味がまるで解らぬ(今までの述べて来ていないが、底本の「老媼茶話」の校訂者は高橋明彦氏)。寧ろ、私は、

――枯骨(ここつ)、且つは、伏(ふく)して、此(か)くの如し。

で、

――劉先生の健全なる陽気が強かった故に、陰気の籠った妖しい骸骨も、一度は立ち上ったものの、すぐに(同時に)、倒れ伏してしまって、かくの如くなったのである。

の意で読んだのだが?]

 

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