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2018/02/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一二

 

     一二

 

 播州書寫山の登路にも、袖振山の北の端を隱(かくれ)が鼻(はな)と稱して山腹に大きな岩穴があり、大昔老鼠が米を搗いた故跡と言ひ傳へて居る。東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟、あるいは羽後の男鹿半島寒風山の隱里、陸中小友の土室神社の如き、岩窟に隱れ里と云ふ老のあるものは多いのだが、それが曾て皆右樣の傳説を伴なつて居たか否かは疑はしい。ことに次に列擧する如き多くの隱里と云ふ地名などは、一々皆是であつたとも思はれぬ。恐らくは山を隔てた世に遠い小盆地で、單に年貢が輕かつたと云ふ他に、何の特長も無かつた只の隱れ里も多いこゝと思ふ。

    相摸中郡吾妻村二宮隱里

    常陸那珂郡隆郷村高部隱里

    陸前遠田郡成澤村隱里

    陸奧下北郡川内村隱里

    羽前東田川郡橫川村隱里

    羽後雄勝郡輕井澤村隱里

[やぶちゃん注:ここでちょいと、所持する松永美吉著「民俗地名語彙辞典」から「カクレザト」の項を引用してみようか(私のそれは一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」のもので、平成元(一九八九)年刊の私家版「地形名とその周辺の語彙」の増補版。一部の字位置を変更した)。

   《引用開始》

カクレザト 隠れ里というのは各地にある。

 茨城県真壁郡開城町舟玉にある古墳。昔この塚に頼むと、なんでも必要な品物を貸してくれたが、ある時借りた物を返してくれない者がいたので、それからは貸してくれなくなった。

 下妻市高道祖にある塚。昔、この塚に頼むと膳椀を貸してくれらが、ある時不心得者が借りた物を返さなかったので、貸してくれなくなったという。ズコー塚、隠れ塚、お膳塚、十二膳ともいわれる。

 猿島郡五霞村川妻にある地名。昔、ここに山姥が住んでいて、頼むと膳椀を貸してくれたが、やはり返さない者がいて貸してくれなくなったという〔『茨城方言民俗語辞典』〕。

   《引用終了》

最後のは柳田が既に挙げているが、①②が出ないののはおかしくはないか? これは「隠れ里」+「椀貸伝説」なのに? 古墳と塚じゃね、柳田センセーにとっちゃ、都合が悪いわけよ。この章、どっかの愚劣な科学者やド阿呆な政治家がやるように、自分の御説に合わせて実証資料を操作する非学術的な柳田國男の学者としてのおぞましい一面がスケスケに見えるものと相成ったと言ってよい。非常に不快なので、早々に終らせたくなった。今日中に終らせたい。

「播州書寫山の登路」「袖振山の北の端」とは、現在の兵庫県姫路市(山吹或いは上手野)の振袖山(蛤山)の北の稜線部のことであろう。国土地理院図のここ、又は「グーグル・マップ・データ」航空写真のここを参照されたい(後者の写真で見ると、市街地に忽然とある丘陵で、それらしい岩穴がありそうな雰囲気はある)。但し、誤解してはいけないのは(私は誤解した)、書写山圓教寺はここからさらに直線でも北へ三・五キロメートル離れた位置にあり、その間は夢前川を挟んだ盆地であって、ここが尾根で書写山に繋がっているわけではない点である。

「東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟」不詳。私は越後に特化した越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の書肆永寿堂から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)の全電子化注をここで完遂しているが、「越後蒲原のオコツペイの窟」なんて、出て来ないし、ネット検索にも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「羽後の男鹿半島寒風山」秋田県男鹿市脇本富永寒風山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸中小友の土室神社」岩手県遠野市小友町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、そんな名前の神社はない。「岩窟」でここと言ったら、巌龍(いわたき)神社とその後背に凄絶に屹立する不動岩なんじゃねえかなぁ?ここ(グーグル・マップ・データ。そこには「巌篭神社」とあるが、誤り))個人ブログ「昔に出会う旅」のこちら、また、モノクロ写真故に強烈なリアリズムで迫る個人サイト「巨石巡礼」のこちらもお薦め!

「相摸中郡吾妻村二宮隱里」現在の神奈川県中郡二宮町二宮のこの附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「常陸那珂郡隆郷村高部隱里」旧村名は「嶐郷村」(りゅうごうむら)が正しい。恐らくはこの中央、埼玉県に突出した一帯と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「陸前遠田郡成澤村隱里」現在の宮城県遠田郡涌谷町成沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸奧下北郡川内村隱里」現在の青森県むつ市川内町川内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽前東田川郡橫川村隱里」現在の山形県東田川郡三川町横川。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽後雄勝郡輕井澤村隱里」現在の秋田県雄勝郡羽後町軽井沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 近世の記錄に隱れ里を發見したと云ふ實例の多いことは、人のよく知る通りである。九州では肥後の五箇庄、日向の奈須及び米良(めら)などは今もつて好奇の目をもつて見られ、周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)は、天文の頃獵師の發見した隱里だなどと云ふが、その多くのものやはり東の方にあつた。例へば羽前と越後の境の三面(みおもて)、岩代信夫郡の水原、同伊達郡の茂庭(もには)なども其だと云ふ。水原は谷川に藁が流れて來たので之を知り、よつて水藁と名づけたと云ふ話があり、茂庭はアイヌ語かと思ふが、始めて役人が往つてみたときには村長が烏帽子を着て居たなどゝ云ふ話もある。この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ。會津と越後の境大沼郡本名村の三條と云ふ部落などは、越後の方とのみ交通していて福島縣の人は存在を知らず、明治九年の地租改正の時始めて戸籍に就いたと云ふ。語音が會津式の鼻音でないために三條の鶯言葉などと言はれて居る。江戸の鼻先の武州秩父でさへも、元文年間に、始めて見出した山中の一村があつた。雨後に谷川に椀が流れて來たのでこれを知つたと云ふなどは一奇である。此他何時となく里を慕つて世に現われた村で、地方(ぢかた)役人の冷やかな術語では隱田(おんでん)百姓と稱し、亂世に立ち退いて一門眷屬とともに孤立經濟を立てゝ居たと云ふものが、まだ幾らともなく山岳方面にはあつたやうである。

[やぶちゃん注:「肥後の五箇庄」「ごかのしょう」(現代仮名遣)は「五家荘」とも書き、現在の熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この一帯(グーグル・マップ・データ)。

「日向の奈須及び米良(めら)」後者は現在の宮崎県児湯郡西米良村附近(グーグル・マップ・データ)。前者は、その北の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)辺りか((グーグル・マップ・データ))。よく判らぬ。椎葉はウィキの「椎葉によれば、『伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされ』、建久二(一一九一)年、『追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するとい』い、この一帯はその後の『戦国時代には那須氏が支配して』いた。所謂、隠田集落村である。

「周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)」「都濃」は「つの」と読む。。現在の周南市須々万(すすま)本郷・須々万奥。附近(グーグル・マップ・データ)。

「天文」一五三二年~一五五五年。室町末期。

「羽前と越後の境の三面(みおもて)」現在の新潟県村上市三面。(グーグル・マップ・データ)。

「岩代信夫郡の水原」現在の福島市松川町水原。(グーグル・マップ・データ)。

「同伊達郡の茂庭(もには)」現在の福島県伊達郡川俣町小島茂庭。(グーグル・マップ・データ)。

「茂庭はアイヌ語かと思ふ」ブログ「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」の仙台のアイヌ語地名に茂庭について、『北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ』とある。

「この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ」だから、何だ! 柳田國男! 厭な奴っちゃなあ! お前は! 文化から取り残された民の非業の死をかく平然と書きたてて、何が面白いかッツ!!!

「大沼郡本名村の三條」現在の福島県大沼郡金山町本名。(グーグル・マップ・データ)。三条は廃村となって現存しない。

「明治九年」一九八七年。

「三條の鶯言葉」もときち氏のブログ「tabi & photo-logue vol.2」の霧来川・三条は平家の落人集落ではないが非常に詳しく、しかもどこかの学者の記載と違い、心が籠ってしみじみとしてよい。個人ブログ「真冬本線:会津線・只見線の途中下車のシリーズ 〔ひとり旅〕」の秘境  奥会津の金山町 "廃村になった三条部落" 2016には、『この三条部落の言葉の発音は独特であり』、『北陸から京都方面の尻上がりのアクセントにどこか似て』、『三条のウグイス言葉、三条の京言葉と云』ったとある。孰れも貴重な記録である。

「元文」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]

 平家の落人の末と稱して小松を名乘り、あるいはまた重盛の妹が姪に當るやうな尼公の信心話を傳へ、世上の同情と尊敬とを博せんとした僻村は大部分右のごとき隱れ里の發達したものらしい。或は同じ平家でも平親王將門の子孫郎黨の末と云ふものがある。信州には三浦氏の落武者と云ふのが處々にある。御嶽南麓の瀧越部落のごときも其一であるが、地名のミウレは方言で水上を意味するらしく、ちつとも相模平氏の流れらしい證據は無い。會津の南半分から下野と越後へかけて、高倉宮以仁王御潛行の故跡充滿し、渡邊の唱や競や猪早太等、およそ賴政の家來で強さうな人は皆網羅し、しかも一方ある部分は畏れ多くも高倉天皇の御事として、其御陵の事まで云々して居るのは、西の方の府縣や平家谷と云へば忽ち安德天皇二位尼の御隱家と主張するのによく似て居る。歷史家諸先生のとんだ御迷惑をせられるのも恐らくは此點で、現に宮内省でも御陵墓參考地と云ふやうな不徹底な榜示を、何箇所となく立てゝ置かれる。蒹葭堂雜錄の中には安德帝御舊跡と云ふ地を七八箇所も擧げて居て、今日では更に若干を增加して居る。自分は之に就いても少々の意見があるが、關係地方の人たちの心持を考へると、やはり十分に之を論辯することが出来ぬ。仍て爰には只此口碑と隱里椀貸と、どうしても關係のある部分だけを述べて置き、其以外は最近の機會に、今些し閑靜な處で發表したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:慇懃無礼な最後の謂いが甚だ気に入らぬ。

「御嶽南麓の瀧越部落」現在の長野県木曽郡王滝村滝越。(グーグル・マップ・データ)。同地図にはまさに「三浦旅館」という宿がある。

「地名のミウレは方言で水上を意味する」先に引いた松永美吉著「民俗地名語彙辞典」には、確かに、『ミウレ 中部日本の山地で水上をいう』とある。

「渡邊の唱や鼓や猪早太」ちくま文庫版全集では『唱(とのう)や競(きおう)や猪早太(いのはやた)』とルビがある。渡辺唱(となう・とのう)・渡辺競(きおう・きそう)も猪早太(いの はやた:本姓は猪鼻とも)源頼政の家臣の名。

「蒹葭堂雜錄」大坂の雑学者として聞こえた木村蒹葭堂(けんかどう 元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)の手になる江戸末期の考証随筆。安政六(一八五九)年刊。全五巻。著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理・抜粋して刊行した。ここで柳田國男が言っているのは同書の巻之四の冒頭にある「筑前國長命婦人(をんな)幷(ならびに)螺(ほらの)由緒」という長大な考証の終りの方。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認できる。そこで木村は安徳天皇の墓所として、丹波・豊前(『かくれ簑の里。安德庵』としている)・肥後(二箇所)・日向・因幡・対馬の七つ(本文は肥後を一つと数えて六箇所とする)を挙げている。]

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