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2018/02/18

北條九代記 卷第十二 北條相撲守貞時卒す 付 高時執權家督 竝 北條凞時病死

 

 ○北條相撲守貞時卒す  高時執權家督  北條凞時病死

 

同十月二十六日[やぶちゃん注:応長元年。ユリウス暦一三一一年十二月六日。この年は閏六月があったために西暦とのズレが大きい。執権師時の死後三十三日後(前月九月は小の月)で、ほぼ一ヶ月後でまさに後を追うように亡くなっている。]、北條相摸守貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既注通り、「崇演」の誤り。]病死し給ふ、年四十一歳[やぶちゃん注:誤り。享年数えでも四十歳。満三十九歳。]、最勝園寺(さいしようおんじ)と號す[やぶちゃん注:正式な戒名は「最勝園寺覺賢」。]。年來、所勞[やぶちゃん注:病気がちであること。]の氣に依て、引籠られけれども、天下の政理を大事に思はれ、世の怨(うらみ)、人の憤(いきどほり)負をはぬやうに、と思はれければ. 小大となく遠慮深(ふか)くおはしましけるに、終(つひ)に行く道は誰(たれ)とても遁れざる事なれば、是非なく、白日(はくじつ)の本(もと)を辭して、九泉(きうせん[やぶちゃん注:「幾重にも重なった地の底」の意で、死後の世界。黄泉(こうせん)。黄泉路(よみじ)。])に赴き給ふ。去ぬる弘安七年[やぶちゃん注:一二八四年。]より、正安三年[やぶちゃん注:一三〇一年。]に至る、執權の當職十八年、剃髪の後十ヶ年、首尾二十八年、晝夜に心を勵(はげま)し、思(おもひ)を凝(こら)して、世を取靜(とりしづ)め給ひけり。嫡子太郎高時、僅に九歳なり。北條陸奥守宗宣(むねのぶ)、同じく相摸守の熈時(ひろとき)、兩人、執権、連署(れんじょ)致されしに、内管領(ないくわんれい)長崎入道圓喜と、高時の舅(しうと)秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)と貞時入道の遺言を受けて、高時を輔佐す。圓喜は平左衞門賴綱が甥にて、光綱と云ふ者の子なり。然るに、正和元年六月[やぶちゃん注:一三一二年。]に北條宗宣、俄(にはかに)に死去せられしかば、諸事の政理、悉く、熈時一人、是を勤めらる。長崎圓喜、城〔の〕介時顯、漸々に威を振ひ、京、鎌倉の支配、大名、小名の式禮、皆、既に濫吹(らんすゐ[やぶちゃん注:致命的に秩序が乱れること。斉(せい)の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで、楽人を大勢、集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いている真似をして俸給を貰っていたという「韓非子」の「内儲説 上」の故事に基づく故事成句。「濫竽(らんう)」とも言う。])して賄(まひなひ)に耽り、私欲に陷り、侈(おごり)を好みて肆(ほしいまゝ)なり。萬(よろづ)、往始(そのかみ)にもあらず覺えて[やぶちゃん注:万事が以前とはすっかり様変わりしてしまったように感ぜられて。]、古(いにしへ)を慕ひ、今を恨むる人も多かりけり。か〻る所に、同四年[やぶちゃん注:正和四(一三一五)年。]七月上旬の比より、北條熈時、瘧病(ぎやくへい)[やぶちゃん注:瘧(おこり)。マラリア。]の患(うれへ)に罹り給ひ、其、發(おこ)る時には、寒戰(かんせん)[やぶちゃん注:振戦(しんせんせん)。激しい痙攣的な震(ふる)え。]の甚しき事、屋室(おくしつ)も共に震動し、壯熱(さうねつ[やぶちゃん注:激しい発熱。])する事は、火に燒くが如し。時々、譫言(せんげん[やぶちゃん注:うわごと。所謂、アルコール中毒症状の後期などに見られる振戦譫妄(せんもう)様状態と同じ。])ありて、鬼物(きぶつ)を見るに似たり[やぶちゃん注:熈時自身が恰も物の怪を見て恐れ戦いているかのようにさえ見受けられた、の意。]。典藥頭(てんやくのかみ)盛國、藥石の妙術を盡し、順逆(じゆんぎやく)二劑[やぶちゃん注:体温を下げる作用を持つ薬と、その逆に、体温を上昇させる作用を持つ薬の二剤。]、攻補(こうほ)[やぶちゃん注:熱を積極的に下げる治療に、下がり過ぎる体温を一定値で保持することを言っているか。]、兼用(かねもち)ひて、百計すれども、効(しるし)なし。陰陽師(おにゃうじ)泰元(やすもと)、符(ふ)を書きて、禳祭(じやうさい)の法[やぶちゃん注:「禳」は「厄を払う」こと。]を行ひ、諸社寺、諸社の祈禱、肝膽(かんたん)を碎きけるに、靈鬼の形(かたち)、幻(まぼろし)に見えて、恐しさ、限なし[やぶちゃん注:熈時自身の気持ちになって書いている。明らかに彼は怪しい霊や悪鬼を幻覚に見て恐れているのだと筆者は理解しているように読める。]。辛うじて瘧病(ぎやくへい)は截(き)りたりけれども[やぶちゃん注:マラリア(の激しい発作症状)は断ち切ることが出来たけれども。但し、マラリアは回帰性で、無論、これは快癒したのではない。]、食事、打絶えて、起臥(おきふし)も叶はず。只、朦々(もうもう)として[やぶちゃん注:朦朧として。ぼんやりと腑抜けのようになってしまって。]、漸々、病勞羸瘦(びやうらうるゐそう[やぶちゃん注:病的に異常に瘦せ細って。])し、同二十六日[やぶちゃん注:誤り。七月十一日(一三一五年八月十一日)。]に、遂に卒去し給ひけり。極樂寺に葬送して、新(あらた)に一堆(たい)靑塚(せいちよ)[やぶちゃん注:一山(ひとやま)の新しい塚(つか)。]の主(ぬし)となし參らせ、法名をば道常(だうじやう)とぞ號しける。近比(このころ)、京都鎌倉の有樣、何事に付きても心を延(のぶ)る樂(たのしみ)はなく、眉(まゆ)を顰(ひそ)め、息(いき)を伏(ふく)し、冷笑(にがわらひ)にて月日を送り、打續きたる無常の憂(うれひ)[やぶちゃん注:訃報。]に、世は末になり、運は傾(かたぶ)きぬと、未然を計つて[やぶちゃん注:これからのこの世の暗雲立ち込めたるようなる行く末を思って。]、歎く人も、ありとかや。

 

[やぶちゃん注:「北條陸奥守宗宣(むねのぶ)」かっちりと独立して注していないのでここで掲げておく。基本はウィキの「北条宗宣に拠った。北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(千二百五十九)年~正和元(一三一二)年七月十六日)鎌倉幕府第十一代執権(非得宗:在職:応長元年十月三日(一三一一年十一月十三日)~正和元年五月二十九日(一三一二年七月四日))。北条宣時(彼は北条大仏流の祖である朝直の子であり、朝直は北條時政の子で義時の異母弟時房(幕府初代連署))の子である)。『大仏家の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗』った。弘安九(一二八六)年に引付衆となり、永仁五(一二九七)年からは、『六波羅探題南方に就任』、乾元元(一三〇二)年まで在京した。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日に発生した北条宗方の謀叛、『嘉元の乱においては得宗の北条貞時』『の命令で北条宗方を討っ』ている。同年七月二十二日、『その戦功により』、『連署となる』。応長元(一三一一)年九月二十二日、『執権であった北条師時の死去により』、十月三日に『連署から昇格して第』十一『代執権に就任した』。実際には永年、『貞時と対立した宗宣』であったが、そ『の執権就任は貞時がすでに病身だったためと思われる。しかし幕政は内管領・長崎円喜に実権を握られ』、事実上は全く『政治をみることができなかった』と言ってよい。正和元(一三一二)年五月二十九日に『執権職を北条煕時に譲り』、出家、六月十二日に享年五十四で逝去している。歴史学者『細川重男は嘉元の乱の背景』自体『に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は』、『時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として』、『大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては』『鈴木宏美が』「北条氏系譜人名辞典」で『反証して』おり、『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで』、『北条一族のなかで重んじられていたとする』のであるが、『実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々』、『幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』。『ことから、要職には就ける代わりに』、『得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「長崎入道圓喜」(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条氏得宗家被官である御内人(みうちにん:北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の総称)の内管領(ないかんれい:北条得宗家の執事で得宗被官である御内人の筆頭位置の者を指し、「御内頭人(みうちとうにん)」とも称した。「得宗の家政を司る長」の意で、幕府の役職名ではない)。長崎氏(平清盛の孫資盛の系統と称した北条得宗家の家令となった平禅門の乱で知られる平盛綱を祖とする)の一族。父は長崎光綱(平頼綱の近親者とされるが、頼綱の弟(父は平盛綱又は平盛時)とする説や、長崎光盛の子で頼綱の甥又は従兄弟とする説があって確定していない)。円喜は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。以下、概ね、参照したウィキの「長崎円喜より引く。「太平記」「保暦間記」において、『嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている』。『史料上の初見は一族である平頼綱が滅ぼされた平禅門の乱の翌年』、永仁二(一二九四)年二月、第九代執権『北条貞時の使者として御持僧親玄を訪れた記録である。同年、貞時の側室播磨局の着帯の儀式に父光綱と共に主席者筆頭として参列している』正安四(一三〇二)年には『得宗家の分国である武蔵国守護代を務めている記録がある』。永仁五(一二九七)年に『父光綱が没しているが、光綱が務めた世襲の職である得宗家執事(内管領)・侍所所司は工藤杲禅』(こうぜん)と『尾藤時綱が任じられており、高綱は父の地位を継ぐ事はなく、光綱没後の数年間は長崎氏不遇の時代であった』。嘉元三(一三〇五)年、『嘉元の乱で貞時が内管領の北条宗方を滅ぼした後』、徳治二(一三〇七)年頃には『宗方に代わって高綱が内管領・侍所所司に就任し』ていると推定される。延慶二(一三〇九)年四月には『尾藤時綱と共に寄合衆を務めており、この頃には出家して円喜と号し、「長入道」と称された。出家により侍所所司を長男の高貞に譲ったと見られる』。応長元(一三一一)年の『貞時死去にあたり、安達時顕と共に嫡子高時の後見を託され、幼主高時を補佐して幕政を主導した。老齢により』、正和五(一三一六)年頃には『内管領の職を嫡子高資に譲っている』ようである。『長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握し、円喜は子息が実権を握る侍所所司と内管領の権力を背景に寄合衆を主導した。表面的には集団指導体制で運営される高時政権の一員であるが、世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである』。正中元(一三二四)年に『正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し、時顕の詰問に宣房が狼狽したことが』、「花園天皇宸記」に出る『が、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された』。『鎌倉幕府が滅亡した際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した』。

「秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)」安達時顕(?未詳(弘安八(一二八五)年頃か?)~元弘三/正慶二年五月二二日(一三三三年七月四日)幕府の有力御家人。ウィキの「安達時顕より引く。『安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)』。弘安八(一二八五)年の『霜月騒動で』、『父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった時顕』『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年『までには』、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服し』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』.永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中で時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわちこの当時』、『政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後、延慶元年に改元。一三〇八年)『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年には、『霜月騒動で討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせ』、『北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで』、『権勢を強めた』。正中三(一三二六)年三月の、『高時の出家に従って』、『時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害した』。

「極樂寺」鎌倉市極楽寺にあるは真言律宗霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺。正式には霊鷲山感應院極樂律寺。開基は北条重時(北条義時の三男)開山は忍性。]

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