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2018/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一一

 

     一一

 

 隱れ里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。只どうしても些しく言はねばならぬのは、西日本の隱れ里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々其が尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。薩藩舊傳集には無宅長者の話がある。有馬と云ふ薩摩の武士、鹿籠(かご)の山中に入つて、四方の岩が屛風の如く取繞らす處を見つけ、獨り其内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國(かくれぐに)を見ることがある。地を淸め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねて其地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。[やぶちゃん注:←句点は底本にはないが、私が特異的に補った。]肥後では舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)と云ふ邊に昔仙家があつて、仙人の井と云ふが獨り遺つて居る。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見ると云ふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。

[やぶちゃん注:「薩藩舊傳集」「さっぱんきゅうでんしゅう」(現代仮名遣)と読む。薩藩叢書刊行会が「薩藩叢書」の第一編として明治四一(一九〇八)年に刊行したもの。

「無宅長者」不詳。しかしどうもこの話、胡散臭い。後に出る「鹿籠」というのは鹿籠村で現在の枕崎市であるが、ここには天和年間(一六八一年~一六八三年)に郷士有川夢宅なる人物によって鹿籠金山が発見されて、島津藩が開発している。「眞冬にも雪積らず」なんて言ってるが、もともと鹿児島のこの辺り、雪なんざ、十数年に一度降るか降らぬかだ。「暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた」ってのもイヤに金山と絡むぜ! 椀貸伝説なんぞより、そっちの方が文字通りの「金」気(きんき)がプンプンでおはんど! 柳田っつサ!

「日向」「霧島の山中」「隱國」不詳だけどね、しかし、このフレーズ、一目瞭然、「天孫降臨」「日向」「高千穂」「天の岩戸」じゃあねえの?! 柳田っサ! これはそっちの神話で解明した方がよかごはんど!

「肥後」「舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)」現在の熊本県合志(こうし)市幾久富(きくどみ)油古閑(あぶらこが)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「群塚」は不明。何だか、この名前、古墳群クサくね? しかも、柳田先生、先生の嫌いな、先生が椀貸伝承では結びつけるのを激しく嫌悪してた古墳が、この地域の北西には群れ成して、ありますゼ!(このグーグル・マップ・データを見よ! 地図上の右中央下(東南)部分が油古閑)

「佐渡の二つ山」既出既注。]

 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることのできぬ閑靜な山陰があるので、之に託して色々の話を傳へたものと見えるが、別に又同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつて甞て旅僧が之に入り宮殿樓閣を見たと云ふ話もある。尾張名古屋の隱里と云ふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某と云ふ若侍が、鷹狩に出て法(かた)の如き隱里を見たこと沙汰無草の中に見えて居る。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康永の參詣記にあると神都名勝志に之を引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬に由つて翌年の豐凶を占う風あること京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したと云ふ話が勢陽雜記に出て居る。近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷と謂ひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたと云ふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根に在つて亦一個の鼠の隱里であつたと云ひ、「昔此所に鼠ども集まり居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひをなし、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らいをまなぶ云々」と因幡民談にあるのである。

[やぶちゃん注:「鹽津村」現在の石川県七尾市中島町(なかじまちょう)塩津(しおつ)、七尾西湾の湾奧北の位置。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船隱し人隱し」不詳。

「同國小木の三船山」鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)字小木(おぎ)の御船神社のある丘のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近頃の市史」東京帝国大学教授上田萬年を顧問として大正四(一九一五)年から翌年にかけて刊行された「名古屋市史」全十巻。本「隱れ里」の初出は大正七年の『東京日日新聞』である。但し、同書を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、地名として出るそれは少しも「謎のやうな話」ではなかった。不審。

「安永三年」一七七四年。

「沙汰無草」「さたなしぐさ」。随筆。詳細書肆不明。

「伊勢」「山田の高倉山」不詳。関係あるかどうか知らんが、伊勢神宮北境内外の三重県伊勢市八日市場町に「神宮司庁神宮高倉山幼稚園」というのはある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「康永」南北朝期北朝方の元号。一三四二年から一三四四年まで。

「神都名勝志」東吉貞・河崎維吉(いきち)著。明治二八(一八九五)年吉川弘文館刊。

「多氣郡齋宮村」「さいくうむら」と読む。現在の三重県多気郡明和町の南半分に相当する。素敵な「齋宮(さいくう)の森」は明和町斎宮に一応「斎王(さいおう)の森」(ここ(グーグル・マップ・データ))として現存する。私は正直、「いつきのもり」と読みたかったなぁ。

「御影供」「みえく」と読む。東寺のそれは真言宗祖弘法大師御影供で、空海が入定(にゅうじょう)した三月二十一日(承和二(八三五)年)の「正(しょう)御影供」法会のそれ。これは祖師空海の御影を奉安し、その報恩謝徳のために修するものである。この叙述から見ると、東寺のそれでは隠れ里から何かの供物を搬入して供えたということらしいが、よく判らぬ。

「勢陽雜記」江戸後期の山中為綱の編輯になる伊勢地誌。

「近江」「犬上郡長寺の茶臼塚」現在の滋賀県犬上(いぬかみ)郡甲良町(こうらちょう)長寺(おさでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「茶臼塚」は不詳。

「東山靈山」ようわかりまへんけど、今の京都府京都市東山区下河原町の、京都東山霊山観音(りょうぜんかんのん)はんのあるとこ辺りでっしゃろか? ここでおす(グーグル・マップ・データ)。

「因幡岩美郡大路村の鼠倉」現在の鳥取市の、この附近(グーグル・マップ・データ)であろうと思われる、旧米里(よねさと)地区である。「鼠倉」と「米里」とは相性の好い地名ではないか。

「因幡民談」「因幡民談記」因幡国に関するものとしては最古とされる史書。貞享五・元禄元(一六八八)年完成し。全八部十巻。原本は焼失して現存しないが、写本が複数伝えられている。作者は鳥取藩の小泉友賢(元和八(一六二二)年~元禄四(一六九一)年)元は岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれたが、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになってそれに従い、因幡国へ移った。二十歳の頃、『京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ』。三十一歳から五年に亙って『鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った』という。彼は二十年を『費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集し』それを纏めたものが本書である(以上はウィキの「因幡民談記」に拠った)。電子化画像が複数あるが、管見下限りでは今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。孰れにせよ、これは所謂、「鼠浄土」譚の一つであることは間違いない。]

 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、ここでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。ただし鼠倉又は長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたと云ふ證據にはなるのである。攝陽群談の傳ふる所に據れば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。卽ち豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)の南に當つて、昔此地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるに足らずと云ふこと無しと雖も、終に亡滅して名のみ隱里と云へり。今も此地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふと云ふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記して居る。後世に至つて隱里の愈々人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、之に由つてせめて身の幸運を賴んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ケ窪でも、享保の始頃、ある百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふに之を知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。其家果して大に富み、後は千石餘の高持となつたと云ふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いて居た男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたと云ふ結末と、同調異曲の言傳へのやうである。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」岡田溪志が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年完成した摂津国の地誌。全十七巻。江戸時代の摂津地誌としては記述が最も詳しい。

「豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)」恐らくは現在の大阪府池田市木部町(きべちょう)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「武庫郡の打出」不詳。武庫郡は現在の西宮市の大部分と、尼崎市の一部及び宝塚市の一部に当るが、「打出」という地名は見出せなかった。

「笹ケ窪」既出既注であるが、再掲しよう。現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

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