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« 和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり) | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 家族迎えの旅 »

2018/02/09

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 退学決行

 

    退学決行

 居士の松山帰省中、八月十三日から五回にわたって「岐蘇雑詩三十首」(節録十五)が『日本』に出た。署名は不如帰斎(ふじょきさい)主人常規(つねのり)、茗橋老隠(国分青厓(せいがい))の評語がついている。前年旅行の見聞を、この年になって纏めたものであろう。二、三をここに抄出する。

[やぶちゃん注:「岐蘇雑詩三十首」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の「子規言行錄」で全篇が読める。以下の三篇もそれで校訂した(但し、リンク先にある圏点は再現せず、各篇の後注に附した。各句末にある句点は再現していない。篇題(「其」に数字)はリンク先にはないが、そのまま使った)。

「岐蘇」古代の木曾地方は「吉蘇」「吉祖」「岐岨」などと書き、「木曾」が一般化する近世以降のことである。

「節録」取捨して書き抜くこと。また、その記録。「抄録」に同じい。

「茗橋老隠(国分青厓)」(こくぶせいがい 安政四(一八五七)年~昭和一九(一九四四)年:正岡子規より十歳年上)は漢詩人。本名は高胤(たかたね)、青厓は号で「青崖」とも書いた。仙台生まれで、父は仙台藩士。後年の号であったこの号は青葉城に由来する。ウィキの「国分青崖によれば、『藩学の養賢堂で、国分松嶼(しょうしょ)に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門(千仞)に漢詩を学んだ』。明治一一(一八七八)年、『上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと』ともに『退校した。退校仲間とは長く親しくした』。『朝野新聞』や第一次『高知新聞』の『記者を勤めて後』、明治二二(一八八九)年創刊の『日本新聞』に、『陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論』である「評林」を『連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前』の明治三六(一九〇三)年十一月に書いた「檜可斬(檜斬るべし)」や翌月の「植物類」は『発禁の処分を受け、その後も当局の処分を受けることがたび重なったことから、青崖は自ら、「会社の被った罰金を弁償する」と『申し出たと言う』。明治二三(一八九〇)年に『森槐南・本田種竹らと詩社『星』社を興し』、『三詩人と呼ばれた』。明治三九(一九〇六)年に『陸羯南が社長を辞した時』、十一『人の社員と共に政教社へ移り、その『日本及日本人』誌で』「評林」を続けている。大正一二(一九二三)年、『大東文化学院の創立と共に教授となった。『雅文会』・『詠社』・『興社』・『蘭社』・『樸社』・『竜社』などの詩社にかかわり、『昭和詩文』誌を主宰した』。昭和一二(一九三七)年には『帝国芸術院会員に選ばれた』昭和五(一九三〇)年に『政教社社長として『日本及日本人』誌を率いた五百木良三が』没すると、青崖がこれを受け継ぎ、』『入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった』。『太平洋戦争』『の敗色が深まる中で没した』。『青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが、詩集は』「評林」第一集の「詩董狐」しか出版していない。『恬淡無欲な人柄だったと言われる』とある。なお、「茗橋老隠」(「みょうきょうろういん」(現代仮名遣)と読んでおく)というのは彼の別号らしいが、他には見えないもののようである。但し、幾つかの論文で彼に比定されているので間違いない。

「前年旅行の見聞」「明治二十三年――二十四年 房総行脚、木曾旅行」を参照。] 

 

  其一

 群峰如劍刺蒼空

 路入岐蘇形勝雄

 古寺鐘傳層樹外

 絕崖路斷亂雲中

 百年豪傑荒苔紫

 萬里河山落日紅

 欲問虎拏龍鬪跡

 蕭蕭驛馬獨嘶風

   其の一

  群峰(ぐんぽう)は劍(けん)の如く蒼空(さうくう)を刺し

  路は岐蘇に入りて 形勝 雄たり

  古寺の鐘は 伝ふ 層樹の外(がい)

  絕崖(ぜつがい)の路は 斷つ 亂雲の中(うち)

  百年の豪傑 苔紫(たいし)を荒らし

  萬里の河山 落日 紅(くれなゐ)なり

  虎拏龍鬪(こだりゆうとう)の跡を問はんと欲すれば

  蕭蕭と 驛馬 獨り風に嘶(いなな)く

[やぶちゃん注:総てに圏点「○」を打つ

「苔紫」シソ目ハエドクソウ科サギゴケ亜科サギゴケ属ムラサキサギゴケ(紫鷺苔)Mazus miquelii)という草花もあるが、ここは単に苔の美称であろう。

「虎拏龍鬪」「拏」は「摑む・牽(ひ)く・手で捕まえて力を籠めてずるずると引っ張る」の意。力の伯仲する二者が力を尽くして激しく戦うこと。雌雄を決するような激戦を繰り広げること。木曾・武田・上杉・今川ら、戦国武将の戦いを指すのであろう。] 

 

  其十

 阪路羊膓幾百回

 每逢奇景獨徘徊

 亂山寒削空中劍

 急峽高轟脚底雷

 雲棧蹇驢詩裏落

 煙林歸鳥畫間來

 更尋兼好曾棲處

 落日凄風玉笛哀

   其の十

  阪路 羊膓(やうちやう)として 幾百も回(めぐ)り

  奇景に逢ふ每に 獨り 徘徊す

  亂山は寒を削(そ)ぐ 空中の劍(けん)

  急峽(きふけふ)は高く轟く 脚底の雷(らい)

  雲棧の蹇驢(けんろ) 詩裏に落ち

  煙林の歸鳥 畫間より來たる

  更に 兼好曾棲(そせい)の處を尋ぬれば

  落日 凄風 玉笛 哀し

[やぶちゃん注:原典では篇末に二行割注で『吉田兼好。曾棲木曾山中故云。』とある。圏点は頷聯と頸聯(「亂山寒削空中劍」「急峽高轟脚底雷」「雲棧蹇驢詩裏落」「煙林歸鳥畫間來」)に「○」が、尾聯二句に「ヽ」が打たれてある。

「蹇驢」足運びの覚束ない驢馬。

「兼好曾棲」「吉野拾遺」(室町時代に書かれた南朝(吉野朝廷)関連の説話集)などに記されたもので、晩年の兼好法師が木曽の、現在の中津川市湯舟沢神坂(みさか)(ここ(グーグル・マップ・データ))の地に庵を結んだという、所謂、吉田兼好が後二条天皇崩御後に出家して行脚漂泊したとする伝承の一つで、ここで没したという言い伝えもあるようだ。ちらのページ(個人サイトと思われる)によれば、「兼好庵跡」として顕彰された場所があることが判る。そこに、兼好はこの地の風光に惹かれ、

 思ひたつ木曾の麻布あさくのみそめてやむべき袖の色香は

と詠んで、庵を結んで、暫し、住んでいた。ある時、国守が多くの家来を従えてこの庵の辺りまで来て、鷹狩りをする様子を見て、

 ここも又浮世也けりよそながら思ひし儘(まま)の山里もがな

と詠んで、この地を去った、とある。] 

 

  其二十五

 奇寒徹骨曉稜稜

 山到信州靑萬層

 天近雲烟濕如雨

 寺貧雞犬瘦於僧

 入雲鳥道往疑返

 隔水人家呼欲※

 薄暮鐘聲穿遠樹

 巖扉明滅佛前燈

[やぶちゃん字注(二箇所):頷聯一句目の「天近雲烟濕如雨」これは「子規言行錄」の原文に拠った。しかし、底本及び「子規居士」原本(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)では、

 天近石嵒濕如雨

となっている。

「※」底本は「※」=「應」の「心」を「言」に換えた字体であるが、「子規言行錄」の原文では(まだれ)ではなく、(がんだれ)となっている。孰れもブラウザでは示せない。]

 

   其の二十五

  奇寒 骨に徹して 稜稜たるを曉(さと)り

  山 信州に到りて 靑きこと 萬層(ばんそう)たり

  天は雲烟に近くして 濕りて雨のごとく

  寺は貧にして 雞犬 僧よりも瘦せたり

  雲に入る鳥道(てうだう)は 往くも返るかと疑ひ

  水を隔つ人家は 呼べば※(こた)へんと欲す

  薄暮の鐘聲 遠樹を穿(うが)ち

  巖扉(ぐわんぴ) 明滅 佛前の燈(とう)

[やぶちゃん注:本七律は「寒」で正格(平起式)であるが、平仄を見ると「雲烟」は「○○」、「石嵒」「●(入声(にっしょう))○」である。句全体では(「近」は上声・「濕」な入声・「雨」は上声)、

天近雲烟濕如雨 ○●○○●○●

天近石嵒濕如雨 ○●●○●○●

となる。平仄上では最後の「濕如雨」は定式上では「○●●」で法に従っていない拗体(ようたい)ではあるが、これは別段珍しいことではない。しかし、一般的に守るべきとされる「二・六対(つい)」の原則(二字目と六字目の平仄は同じにする)は破られてしまっており、さらに言えば、最後の三字で平字が仄字に挟まっているのも「孤平」を忌む原則に従っていない。しかし、これは異同箇所でない部分の問題である。よく判らぬが、思うに、後者が改稿ではないかと推察する。問題は本句の与える意味と映像であって、

 天は雲烟に近くして 濕りて雨のごとく

 天は石嵒(せきがん)に近くして 濕りて雨のごとく

孰れがよいかと言えば、後者であろうとは思う。前者は如何にもな仙境染みた漢詩的マニエリスムの平板描写のように思われるの対し、後者は天が岩石に生き物のように近づき、その潤いによって巌(いわお)自体が生物のような感触を以って迫るのは李賀的でさえあると私は思うからである。なお、「子規言行錄」をみると、青崖はこの一篇の「寺貧雞犬瘦於僧」の句を『工甚妙甚。非奇想超凡』と評し、『三十首中。予最愛此一句』と絶賛している。

「稜稜」寒さが厳しいさま。

「曉」本字には動詞で「はっきりする・よく判る・悟る」の意がある。] 

 

 居士が上京したのは八月晦日(みそか)であった。「せり吟」は依然盛で、露百句、鹿百句、乞食百句、唐辛子百句の類が続出したが、この作者の中に鳴雪翁の加わっているのが注意を惹く。鳴雪翁が俳句を作られるようになったのは二十五年春からで、『猿蓑』を味読することによって、一足飛(いっそくとび)に元禄の域に達したのは秋になってからだったらしい。その他飄亭氏の日曜下宿であった青山の竜嵓寺にも、佐藤肋骨、仙田木同諸氏の句会――兵隊組と称した――がはじまり、鳴雪翁はここにも見えるという風で、居士の身辺は前年より更に賑(にぎやか)になって来た。

[やぶちゃん注:「日曜下宿」本邦の陸軍では、一般の兵士は許可なく外出することは出来ず、厳しい全寮制生活であったが、日曜だけは外出が許され、日曜日だけを悠々自適に過ごすための借りていた下宿をかく呼んだ。既に注したが、五百木飄亭(本名・五百木良三(いおきりょうぞう))は明治二三(一八九〇)年に徴兵に合格、陸軍看護長に採用されて、青山の近衛連隊に入営し、明治二五(一八九二)年まで軍隊生活をしていた。

「青山の竜嵓寺」現在の東京都渋谷区神宮前にある臨済宗古碧山龍厳寺であろう。(グーグル・マップ・データ)。ここは古くは青山地区である。

「佐藤肋骨」(明治四(一八七一)年~昭和一九(一九四四)年:旧姓は高橋。養嗣子。肋骨は本名らしい)は後、陸軍少将で衆院議員・俳人。『在外武官として』は二十『年余に及び、退役後は衆院議員、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などを務めた。支那通として知られ』、『「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書がある。近衛連隊に在職中五百木瓢亭、新海非風らに刺激されて俳句の道に入り、子規の薫陶を受けた。日清戦争で片足を失い』、別号を「隻脚庵主人」また「低囊」とも称した。『句集はないが』、『新俳句』『春夏秋冬』などに『多く選ばれている。蔵書和漢洋合わせて』三『千余冊と拓本』一『千余枚は拓殖大学に寄贈された』と、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にある。

「仙田木同」佐竹則和氏のブログ「Storia―異人列伝」の「回想の子規-思ひ出すまゝに 佐藤肋骨に、それが引用されており、そこに(一部の漢字が正字化から漏れているので、正字化処理を施した。記号の一部を変更した)、

   *

 私が子規居士に逢ふやうになつたのは、五百木瓢亭君と相知るに至つた機緣からである。瓢亭君も私も明治二十三年の暮に現在靑山にある近步第四聨隊に入營した。その前年あたりに徴兵令が改正されて、それまでは相續人は徴兵を免れるとか、學校へ行つてゐる者は免れるとかいふ風に、大分寛大であつたが、その年からどんな學校ヘ行つてゐる者でも採ることになつたのである。私は瓢亭君より一つ年下なのだが、一月生れと十二月生れで、今の小學校のやうに同年に扱はれたのであらう。併し學校へ行つた者が入るやうになつたと云つても、當時は未だその數が少ないので、どういふ人間がゐるといふやうなことも直ぐにわかつた。瓢亭君と私とは中隊が違つてゐたから、初めの間は無論識らなかつたが、先生は醫者の免狀を持てゐるといふので、軈て看護手になつた。身體の工合が悪いと醫務室へ往つて軍醫に診て貰ふ、といふやうなことから、多分懇意になつたのであらう。

 瓢亭君はその頃兵營の直ぐ近くに一間下宿を持つてゐた。私は家が東京に在つたから、そんな必要も無かつたが、當時は兵隊がよくさういふ下宿を持つてゐたものである。不断の日は必要は無い、日曜だけそこに行つてごろごろしてゐるといふ意味のもので、瓢亭君のは荒物屋の二階であつた。私どもの入營した時は、聨隊は今の警視廳のあたりに在つたのだが、丁度新兵教育の了つた後靑山へ移つたのである。私はよくその二階に伴はれて行つて、飯の食ひつこなどをやつたものだ。瓢亭君はその頃已に發句を作つてゐたから、その間に私も眞似するやうになつた。子規居士の噂はこの間に聞いたし、瓢亭君のところへ送つて來る發句なども屢々見てゐた。

 明治二十四年の暮に新海非風と仙田木同とが吾々の聨隊に入營して來た。木同は林學士[やぶちゃん注:林業学科出ということであろう。]で、大學を卒業してゐたのだから、大分年上だつたわけである。瓢亭君はその後下宿を原宿の龍僴寺[やぶちゃん注:ママ。]に變更した。吾々はこゝを龍僴窟と號してゐたが、こゝではじめて子規居士に會つたのである。

 明治二十五年の暮であつたか、とにかく寒い頃であつた。その時集つた連中は吾々兵隊組四人の外に子規、鳴雪、古白の三人であつたと思ふ。私が正岡といふ人から第一に受けた印象は、贅澤な人といふことであつた。吾々は無論軍服であつたが、不断なら木綿の綛[やぶちゃん注:「かすり」(絣・飛白)と読んでいよう。]に小倉の袴といふ時代である。然るに子規居士は何か柔かい絹物をぞろつと著てゐる。これが第一に異様に見えた。著物ばかりぢやない、食物でも鹽煎餅や焼藷では滿足しないやうなことを云ふ。かういふ傾向は瓢亭君にも無いではなかつたが、正岡の方が一段上であつた。年齡は吾々と三つ四つしか違はないのだけれども、その點は大分先輩に見えた。

 眼が大きく、口唇の厚い、血色は蒼白かつたが、當時はまださう憔悴してはゐなかつた。明るい朗らかな陽性的の人であつた。顏の大きい人だから、寧ろ太つてゐる位に見えた。私は今でもこれだけのことを思ひ出すことが出來る。倂し當日どんな句を作つたか、どんな話があつたか、それは全く記憶に無い。

 當時はせり吟だの、一題百句だの、何々十二ケ月だのといふことが行はれてゐたが、運座はやはり後年のやうに狀袋運座の互選式であつた。せり吟といふのは出來た者からずんずん書いて行くので、早く早くと云つて頻に促す。瓢亭君得意のところで、吾々のやうな遅吟の者は問題にならなかつた。

 藤野古白は當時の仲間では一番の優男であつた。さうして字がうまかつた。古白は穴八幡の先のところ――その頃は畠のなか――の藁葺屋根の家にゐて、そこでも句會があつた。鳴雪翁なども來られたと思ふが、子規居士はどうであつたか、はつきり思ひ出されぬ。

   *

とあって、この章の雰囲気がより具体に髣髴としてくる。肋骨の子規への「贅澤」という評は非常に共感する。私は彼のそうした側面やそうした方面の書き物に対しては、今も昔も一貫して生理的不快感を持っているからである。]

 

 十月三日、居士は大磯に来て松林館に泊った。待宵の月は晴朗であったが、中秋は生憎曇となり、徒に海浜を徘徊するより仕方がなかった。夜半雲破れて月光が明になったのは、居士が宿に帰って一睡した後であった。この間の事は『日本』に寄せた「大磯の月見」に記されている。

[やぶちゃん注:「松林館」サイト歴史町 大磯」の四十六項目の「旧松林館跡」を参照されたい。それによれば、現在の大磯町東町((グーグル・マップ・データ))字南浜岳一丁目(前山氏のサイトに位置がはっきりと数字で示されてある)にあった旅館とし、明治二二(一八八九)年の「大磯名勝誌」には『此の地は青く秀でたる老松のむらたち生い茂れる』、『此の林中に勝大美麗なる大廈(たいか)高楼を建築し、号して松林館という』と記されている。同年、正岡子規が『松林館に最初に訪れた時に、鴫立沢を訪れ』、『西行や虎御前の話を聞き、またここかしこが』、『別荘だらけであることに驚き』、『「別荘町という処になるべし」と『四日大尽』に書き残している。また海岸へ出て』、『眺望を楽しんでいる』とあって、その明治二十二年とここの同二十五年を合わせて、都合、三度、『大磯を訪れ多くの俳句を詠んでいる』とある。そこに載る大磯での句。 

 宵待ちや夕餉の膳に松の月

 潮汲みの道々月をこぼしけり

 名月やどちらをみても松ばかり

 犬連れて松原ありく月見かな

 名月を邪魔せぬ松のくねりかな

 名月や後ろに高し箱根山

また、『松林館の女中が持っていた、当時大磯特産の土産として売られていた松露についての会話も残されている』とある。ここは洋画家黒田清輝の定宿でもあり、長期滞在して何枚かの作品も描いている。明治三五(一九〇二)年十二月二十四日に起こった火事で類焼して営業を終わったらしい。]

 

 この時の大磯滞在は十日にわたり、『早稲田文学』に載せた「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」などという論文もこの間に成ったのであるが、一つは雨のために行動を妨げられたものらしい。十三日漸く晴れるのを待って箱根に赴いた。三嶋、修善寺、軽井沢、熱海などの各地に遊んで大磯に帰るまでの紀行を「旅の旅の旅」という。範頼の墓に笠を手向けて

 鶺鴒(せきれい)よこの笠たゝくことなかれ

と詠んだり、軽井沢に辛じて一軒の旅宿を得て、唐黍の殻で焚く風呂に入ったりしたのも、この間の出来事であった。

[やぶちゃん注:「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」の初出は正確には常磐会の回覧雑誌であった『真砂集』である。

「軽井沢」現在の静岡県函南町軽井沢。(グーグル・マップ・データ)。現在、当地に正岡子規の句碑が建ち、

 唐きびのからでたく湯や山の宿

と「旅の旅の旅」(次注参照)の句が刻まれてある。

「旅の旅の旅」明治二五(一八九二)年十月三十一日から四回に分けて『日本』に発表。「青空文庫」ので全文が読める。

「範頼の墓」源範頼の墓。伊豆修善寺にある。(グーグル・マップ・データ)。観光コースから外れるが、私は好きな場所だ。]

 

 居士が大学をやめる決心は、おおよそ前年からついていたかも知れぬが、それがいよいよはっきり形を成したのは、学年試験落第以来のように思われる。漱石氏なども手紙で頻に卒業することを勧め、十月一日の日記にも「午後高津來(きたり)、勸卒大學(だいがくそつをすすむ)」ということが見えている。高津氏というのは高津鍬三郎(たかつくわさぶろう)氏であろう。然るに最初からこの点に何ら拘泥するところなく、居士に賛成だったのは飄亭氏で、松山から飄亭氏に宛てた八月二日の手紙に「小生の落第を喜ぶもの廣き天下にたゞ貴兄一人矣」ということが書いてある。

[やぶちゃん注:「高津鍬三郎」(元治元(一八六四)年~大正一〇(一九二一)年)は尾張出身の教育者で国文学者。東京帝国大学文学部和文科を明治二二(一八八九)年に卒業、翌年、一高教授となり、翌明治二十四年には東京帝大文科大学講師を嘱託され、同二十七年からは同助教授を兼ねた。後に文部省図書審査官・明倫中学・中央大学講師などを歴任し、明治四一(一九〇八)年、大成中学校長に就任した。「愛知社」理事として育英事業にも尽力した(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」他に拠った)。]

 

 学校を退くとなれば、今後を如何にするかという問題が起って来る。その点は居士も夙に考慮していたので、大磯で書いた大原恒徳氏宛の手紙(十月三日)に「今後方向の事は今朝も出掛(でがけ)に一寸陸氏へ依賴仕置候」とあるから、大体は已に決していたものと思われる。学生生活をやめて社会の人となれば、どんな職業にありつくかもわからぬから、その前にちょっと旅行に出たので、一定の仕事に従えば極寒極暑といえども閑暇は得がたいであろう、「それのみは今から困り居候」ということが、同じく大磯から虚子氏に寄せた手紙の中に見えている。

[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]

 

 居士の文章の『日本』に現れることは漸く頻繁になった。「獺祭書屋俳話」が前後三十七回を以て了ると、今度は「旅の旅の旅」が出る。次いで十月二十九日に鳴雪翁と共に日光に遊び、紅葉を観て三十一日に帰ると、その紀行が「日光の紅葉」となって現れる。その間には文科大学の遠足会で妙義山に登ってもいるし、「日光の紅葉」が活字になるより早く、十一月九日には家族を迎えんがために出発するという風に、応接に遑(いとま)がないほど多事であった。家族というのは故山にあった母堂並に令妹で、いよいよ社会の人となるに当り、東京へ迎えることになったのである。居士の不平の一であった従来の家婦は都合で他に移り、そのあとへ居士の一家が居据(いすわ)ることになったらしい。

[やぶちゃん注:「日光の紅葉」明治二五(一八九二)年十一月発表。「青空文庫」のこちらで全文が読めるが、新字正仮名なので、「国文学研究資料館」の「子規言行錄」に載る正字正仮名版をお薦めする。]

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