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2018/02/17

北條九代記 卷第十二 北條師時頓死 付 怨靈

 

      ○北條師時頓死 付 怨靈

 

北條貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既に注した通り、「崇演」の誤り。]は、出家の身として、政事を執行ふに及ばず。師時、凞時(ひろとき)、既に執権の連署を勤めらる[やぶちゃん注:この言い方もやはりおかしい。師時は既に正式な執権であるのに、これでは貞時が執権のままであるように読めてしまい(実権は事実上はそうであるが)、師時と凞時が執権の連署を勤めているようにしか読めないからである。増淵氏もここの記載の奇妙さを感じて、『師時』『と凞時』『とがすでに執権・連署の核を勤めらた』と訳しておられる。]威勢高く、門前に市をなし、出入る輩(ともがら)、日夜に絶間(たえま)なし。然るに、師時、如何なる故かありけん、鶴ヶ岡の別常総正を初(はじめ)て、眞言師(しんごんし)の僧に仰せて、各(おのおの)七日の護摩を修(しゆ)せしめ、門戸(もんこ)には符(ふ)を書きて、押させらる。何事と知る人なし。後に聞えしは、去ぬる七月[やぶちゃん注:後の場面から応長元(一三一一)年七月と読める。]の比より、北條宗方[やぶちゃん注:卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐参照。師時とは従兄弟同士。]が亡靈、來りて、師時に怨(うらみ)を報ずべき由、喚(よば)はる聲、餘人の耳には聞えず、師時一人是を聞くに、定(さだめ)て狢(むじな)狐(きつね)の致す事かと思はれしに、後には形(かたち)を現(あらは)し、蜻蛉(かげろふ)[やぶちゃん注:ここは「陽炎」と表記する方が判りがよい。]の如く、あるかなきかのやうに見えたりければ、師時、是(これ)に依(よつ)て、祈禱を致し、鎭祭(ちんさい)、護摩を修せらる〻に、その效(しるし)なし。他人に向ひて語らば、臆病神の俤(おもかげ)に立ちたるもの、と笑はんも口惜しかるベし、如何(いか)にもして、禳鎭(はらひしづ)めばや、と思はれけるが、漸々(ぜんぜん)に憔悴せられ、諸人、奇しみ思ひけり。同九月十一日[やぶちゃん注:応長元(一三一一)年。]、師時、只一人、亭に坐して、庭を見ておはしける所に、宗方が怨靈、形(かたち)顯(あらはし)て、長刀を橫(よこた)へ、直(ぢき)に廣庇(ひろひさし)に走掛(はしりかゝる)。師時も太刀押取(おつと)りて、立たれしが、胸の邊(あたり)を刺(さゝ)れたりと覺えて打倒(たふ)れ、血を吐(はく)事、一斗(と)計(ばかり)にして其儘、絶入(ぜつじゆ)し給ひけり。家内上下、周章慌忙(あはてふため[やぶちゃん注:「周章慌忙」四字へのルビ。])き、扶起(たすけおこ)しければ、少し、人心地付きて、只、口惜(くちをし)さよ、とのみ、云はれしが、其日の暮程に、遂に事切れにけり[やぶちゃん注:応長元年九月二十二日(ユリウス暦一三一一年十一月三日)の誤り。また、貞時の死(次章)の凡そ一ヶ月前に当たるこの日に出家し、同日に死去したとされる。享年三十七歳で、ウィキの「北条師時によれば、『評定中』、『その座でそのまま』、『死去したと伝わる』とあるから、この怨霊話は如何にも作り話臭い。]。世には頓死と披露しけれども、實(じつ)には怨靈の所爲(しわざ)とぞ聞えける。昔、周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる。後秦(ごしん)[やぶちゃん注:底本は「後奏」とあるが、原典を確認して誤植と判明したので訂した。後も同じ処理をした。]の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅(ふきん[やぶちゃん注:原典もママ。「ふけん」であろう。])を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す、と云へり。師時、如何なれば、か〻る怨(うらみ)の報(むくい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて、生年三十七歳にて卒去せらる。昔も今も例なき事ならず、と恐(おそれ)、思はぬ人は、なし。

 

[やぶちゃん注:「周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる」周朝の第十一代宣王(せんおう ?~紀元前七八二年)に纏わる伝承。ウィキの「王(周)によれば、父厲(れい)王は前八四二年に暗殺を主眼とした暴動のために国から『逃亡し、以後は王が不在のまま』、『共和制が敷かれていた。紀元前』八二八『年に厲王が崩御した後、厲王の子である』彼『が王として立てられた。治世前期は周定公』と『召穆公』『を輔政とし』、『国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる』が、『軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出した』ものの、『こちらは徐々に劣勢となり、紀元前』七八九『年の千畝(せんぽ)の役で姜戎』(きょうじゅう)『に大敗するなど、あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも』、父『厲王にみられ』たような『君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など』、『諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。その末路は定かではないが』、「墨子」の「明鬼篇」によれば、『杜伯を処刑した』三『年後に、鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。賛否両論の分かれる王ではあるが、結果から言えば』、『父の厲王や子の幽王と同じく、周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない』とある。墨子」原文で読めるが、個人ブログ「七つの回廊」の霊魂が、死後も実在していることの証明? その一で、その箇所の非常に分かり易い現代語訳が載るので、引用させて戴く。

   《引用開始》

 周の宣王(せんおう)は、臣下の杜伯を死罪としたが、それは無実の罪であった。そこで、杜伯は、(死の直前)次のように復讐を誓った、

『わが主君は、私を処刑しようとしているが、私は無実である。もし、死者には知覚する霊魂がないのであれば、(復讐も)やめる他はない。だが、もし、死後も知覚があるのならば、三年以内に、必ずや、わが君に死者の怨念を思い知らせてやろう』

 三年目のある日、周の宣王は、諸侯を集め、圃田(ほでん)で大掛かりな狩りを催した。(その総勢は)戦車が数百台、お供の者が数千人で、狩り野は人であふれた。

 その真っ昼間に、杜伯は、白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って、突然、姿を現した。朱の衣服をまとい、朱の冠をかぶり、朱塗りの弓を手に取り、朱塗りの矢を小脇にはさんで、周の宣王を追いかけ、車上の宣王を狙撃した。

 杜伯の放った矢は、宣王の心臓に命中し、さらに、背骨までも打ち砕いた。宣王はもんどり打って車の中に倒れ、弓袋に突っ伏して絶命した。

 この時、直接、宣王につき従っていた周の人々で、杜伯の姿を目撃しなかった者はなく、また、離れた所にいた人々でも、事件の物音を聞かなかった者はいなかった。

 (そこで、この事件は、紛れもない事実として)記録されて、周の歴史記録である『春秋』に今も見ることができる。

 君主の立場にある者は(周の『春秋』をひもとき)、この事件を材料に臣下を教導し、父の立場にある者は、この事件を教訓に息子たちを教戒して、次のように諭した、

『慎めよ、戒めよ。罪なき人を殺す者は、皆、不吉な出来事に見舞われる。鬼神が降す誅罰は、こんなにも迅速だぞ』

 この周の『春秋』の記録から判断するならば、『鬼神』の実在は、どうして、疑ったりできようか」

   《引用終了》

「後秦の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す」「姚萇」(ようちょう 三三一年~三九四年)は五胡十六国時代の後秦の創建者で羌(きょう:古代より中国の西北部に住んでいる民族)の出身。ウィキの「姚萇」によれば、『父』『は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦は』、『おもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。「苻堅」(ふけん 三三八年~三八五年)は同じ五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝(大秦天王)ウィキの「苻堅によれば、氐(てい)族(古代より中国の青海湖(現在の青海省)周辺にいた民族)出身で、『宰相の王猛を重用し』、『前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上』、『東晋の益州を征服して』、『前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指し』、三八三『年に大軍を南下させたが、諸因により』、「淝水(ひすい)の戦い」で『東晋に大敗した。以後』、『統治下の諸部族が反乱・自立する』に及んで、『前秦は衰退』し始め、三八五年、『羌族の部下』であった『姚萇に殺害された』とある。ウィキの「姚萇」の「晩年」の条に、『死の直前、長安に移動する途中』、『病床にあった姚萇が夜に見た夢に、苻堅が天官の使者の鬼兵数百を連れて訪れた。宮人がそれを迎え撃ったが、宮人が持っていた矛が』、『誤って』、姚萇の『陰部に刺さった。鬼兵が急所だ、と言い、矛が抜かれて』、『大量に出血したところで目が覚めると、陰部が大きく腫れ上がっていて夢の中と同じように出血していた。錯乱した姚萇は』、『苻堅の命を奪ったのは姚襄』(姚萇の兄)『であると叫んだという』とある。]

 

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