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2018/02/18

北條九代記 卷第十二 金澤家譜 付 文庫

 

      金澤家譜  文庫

 

同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる。基時は、是(これ)、相摸守重時には曾孫たり。彈正少弼業時には孫にて、新別當(しんべつたう)時兼が嫡男なり。貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり。後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す。後に稱名寺とぞ號しける。その子越後守顯時より、金澤を家號とし、稱名寺の内に文庫を立てて、和漢の群書を集められ、内外兩典、諸史、百家、醫、陰(おん)、神(しん)、歌(か)、世にある程の書典には、殘る所なし。金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり。讀書講學望(のぞ)みある輩は、貴賤道俗、立籠(たちこも)りて、學文(がくもん)を勤めたり。金澤の學校とて、舊跡、今も殘りけり。越後守顯時は、文武の學を嗜みて、書典の癖(へき)とぞなりにける。その子、貞顯、本(もと)より、學業の勤(つとめ)、怠らず。作文、詩章には、當時に名を得し人なりければ、執權の職に居しても恥(はづか)しからずとぞ聞えける。

 

[やぶちゃん注:「同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる」月日及び表現に誤まりと問題がある。非得宗の先の執権熈時が病没し、北条基時が第十三代執権(非得宗)となったのは、正和四(一三一五)年七月十一日で、言わずもがなであるが、基時が「執權」であり、その「連署」となったのが「貞顯」である。判り切っていても、表現がおかしいものはおかしいと言わねばなるまい。

「金澤家譜」底本では標題には「かなざはかふ」とルビするが、本来は「かなさは」が正統。北条氏の一族金澤(かねさわ)流北条氏のこと。「金澤」は鎌倉時代の武蔵国久良岐郡(くらきのこおり)六浦庄(むつうらのしょう)金沢郷(かねさはごう:現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後のことである。第二代執権北条義時の五男北条実泰(初名は実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄であった政村(義時の五男)の嫡系に次ぐもので、実泰の嫡男実時が政村の娘を、その子の貞顕が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を形成している。居館は、顕時が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われ、菩提寺は「金澤文庫」のある真言律宗金沢山(きんたくさん)称名寺である。以下、参照したウィキの「北条 (金沢流)」より引くが、言葉で理解するより、系図で見るのが一発で理解出来るので、リンク先にある「系図」をまずは参照されたい。『始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した』金沢流二代目に当たる『実時が実質的初代ともされる。実時は北条氏の総領得宗家の庇護を受けて有力御家人となり、叔父にあたる政村の娘を正室に迎える』。第三代『顕時は、執権・北条時宗の死後に幕政を主導していた安達泰盛の娘婿』となっていたため、弘安八(一二八五)年、『得宗家被官の内管領・平頼綱の策謀で泰盛派が粛清される霜月騒動が起こると、事件に連座して失脚、出家して隠棲している』が、永仁元(一二九三)年に第九代得宗執権の『北条貞時が頼綱を滅ぼして得宗家主導の幕政を復活させ、失脚していた泰盛派を復権させ、顕時も幕政に復帰』している。第四代『貞顕は連署として北条高時政権を支え、一時的に第十五代執権に就任している(後注参照)。『学問の家柄としても知られる金沢氏は明経道』(みょうぎょうどう:律令制の大学寮に於いて儒学を研究教授した学科)の『清原氏の家説に学び、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作』り、『六波羅探題として京都に赴任した貞顕も本格的に文献収集している』。『金沢氏の家名とされる六浦庄は、六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷から構成される』建保元(一二一三)年の和田合戦以降に『北条氏の所領となり、はじめは将軍家の関東御料で、金沢氏はその地頭職を勤めていたと考えられている。実政が鎮西探題として赴任』(文永一二・建治元(一二七五)年)『して以来は九州にも所領を持ち、幕府滅亡に際して鎮西探題が滅ぼされた後も、規矩高政』(きくたかまさ(北条高政) ?~建武元(一三三四)年七月?:父は金沢流で鎮西探題を務めた北条政顕(実政の子)であったが、鎌倉幕府最後の第十六代執権北条(赤橋)守時の弟で鎮西探題であった北条英時の養子となった。豊前国規矩郡 (現在の福岡県北九州市)を領したのでかく呼ばれる)『らが北九州を中心に北条残党を集めて抵抗している(規矩・糸田の乱)』。『初代・実義は将軍・源実朝を烏帽子親としてその一字を与えられたが、のちに得宗家の当主である長兄・泰時の一字を受けて「実泰」と改名している。以降も』第二代『実時が同じく泰時を』、第三代『顕時が時宗を』、第四代『貞顕が貞時を烏帽子親として一字を付与されていることから、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともに』、『それよりも一段階低い』、「得宗家を烏帽子親とする家系」と『位置づけられていたことが指摘されている』(下線やぶちゃん)。

「文庫」「金澤文庫」。北条実時が設けた日本最古の武家の文庫。当時の建築物は現存しない。ウィキの「金澤文庫」によれば、成立時期は実時が晩年に金沢の館で過ごした建治元(一二七五)年頃と推定されている。『北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設』、『文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり』、『収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し』、『「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継』ぎ、『室町時代には上杉憲実が』一度、『再興して』はいるものの、その後、文庫施設そのものは廃滅、やはり称名寺』が資料の管理を行った。現在の「神奈川県立金沢文庫」はその資料を受け継いだ県立歴史博物館であって当時の文庫そのものではない。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺〔附金澤文庫の舊跡 御所が谷 金澤の八木〕」前後の本文と私の詳しい注を参照されたい。或いは、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫」も、特に近世近代以降の視点から参考になるはずである。

「北條相摸守基時」(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。「普恩寺(ふおんじ)基時」とも呼ぶ。ウィキの「北条基時」によれば、『父は普恩寺流の北条時兼』(北条義時三男の重時の子業時(なりとき)の子)で、『子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる』。正安三(一三〇一)年六月七日に『六波羅探題北方として上洛』、乾元二(一三〇三)年十月二十日、『六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り』、『評定衆に列する(評定衆になっていない』とする『説もある)』嘉元三(一三〇五)年八月二十二日に引付衆となり、延慶三(一三一〇)年には『信濃守護に任命された』。この時、執権として就任し』ているのは、煕時と彼が第七代執権(非得宗)『北条政村を曽祖父に持』ち、『血縁的にはとこの関係にあった』ことに拠るか。七日後の七月十九日を以って『正五位下相模守に転』じた。しかし既に何度も述べている通り、『幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた』。しかも、翌正和五(一三一六)年になると、早くも『得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ』、この年の七月九日に、僅か満十一歳の『北条高時に執権職を譲り』、十一月二十日に出家、『以後は一線から離れたようで』、『中央政界に活動の様子は無い』。元弘元(一三三一)年九月、『後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた』。『基時はよく防衛したが』、五『日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため』、この合戦の二週間前、『近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した』。享年四十八歳で、辞世の歌は、

 待てしばし死出の山邊の旅の道同じく越えて浮世語らん

『であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる』とある。

「同修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。ウィキの「北条貞顕」によれば、『名の貞顕は北条貞時の「貞」と顕時の「顕」を組み合わせたものといわれる』。永仁二(一二九四)年十二月二十六日に『左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された』但し、『この官職は北条一門では低い』方『で庶子扱いであり、出仕が』十七『歳の時というのも遅いものである。これは』弘安八(一二八五)年十一月の『霜月騒動で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は安達泰盛の娘・安達千代野である)していたことが影響していたとされる』。永仁四(一二九六)年四月十二日に『従五位下に叙され』、直近の四月二十四日に『右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった』。五月十五日には『左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる』。正安二(一三〇〇)年十月一日には『従五位上に昇進し、これにより』、『霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した』、正安三(一三〇一)年三月に『父が死去すると、北条貞時より』、『兄らを飛び越えて』、『嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる』。正安四(一三〇二)年)七月、『六波羅探題南方に就任』し、その後、『中務大輔に転任』、嘉元元(一三〇三)年に『探題北方が北条基時から北条時範に交代すると、事実上の執権探題として京都の政務を仕切った』。『在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため』、『金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により』、『時範と共に弔問に訪れたりして』、『後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど』、『文化的活動を精力的に行なっている』(ここに「嘉元の乱」の際の話が載るが(貞顕の正室は北条時村の娘)、省略する)。延慶元(一三〇八)年十二月、『大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任』、延慶二(一三〇九)年一月に『鎌倉へ帰還した』。延慶二(一三〇九)年一月二十一日の北条高時の元服の式では『御剣役(元服する者の傍で御剣を侍して控える役)を務めた』。『この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後』、三月には引付頭人三番に『任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して』三『ヶ月ほどの貞顕が』『兄の甘縄顕実(』七『番)より上位にあることは』、『貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている』。四月九日には『北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった』。延慶三(一三一〇)年二月十八日に引付衆の再編によって『貞顕は引付頭人を辞職』、六月二十五日には、再び、『六波羅探題北方として上洛、その後、正和三(一三一四)年十二月に六波羅探題を退任して、帰鎌、翌正和四年七月十一日、ここにある通り、北条基時が執権になると同時に、貞顕は連署に就任している(以下は、以降で再び注することとする)。

「彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年又は仁治三(一二四二)年~弘安一〇(一二八七)年)は六波羅探題北方や連署を勤めた北条重時(義時三男)の四男。ウィキの「北条業時」によれば、『兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし』、第八『代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し』、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)』二『番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ』二『番手の家格となっている』とある。

「新別當(しんべつたう)時兼」北条(普恩寺)時兼(文永三(一二六六)年~永仁四(一二九六)年)父は業時。母は北条政村の娘。父が陸奥守であったことから「陸奥三郎」と呼ばれた。弘安九(一二八六)年に四番引付頭人、永仁三(一二九五)年に評定衆であったことが確認される。「新別當」の呼称の意は不詳。普恩寺は所在地不詳の鎌倉御府内にあった寺(廃絶)であるが、これは彼の子である基時の創建であるから、実際の寺との関係性はない。或いは、基時が普恩寺を創建し、一門の名を「普恩寺」とした際、想像であるが、一流の始祖である祖父北条業時を初代「別当」と擬え、その息子の父を「新別当」と呼んだのかも知れない

「貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり」意味は取り違えようがないが、「なり」がまずい。「貞顯」(が一門の濫觴)「は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人」の「あり」、「この方」、「後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す」と続いて意味が通る。北条実泰(承元二(一二〇八)年~弘長三(一二六三)年)は北条義時四十六歳の時の子。ウィキの「北条実泰」によれば、元は実義(さねよし)を名乗った。元仁元(一二二四)年、十七歳の時に『義時が急死し、母伊賀の方が同母兄政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名した』『のもこの頃とみられる』。寛喜二(一二三〇)年三月四日、『兄重時の六波羅探題就任に伴い』、二十三『歳で後任の小侍所別当に就任する』。『しかし』、『実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さに耐えられず、精神の安定を崩したと見られ』、四年後の天福二(一二三四)年六月二十六日の朝には、『誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂されたという』(「明月記」同年七月十二日条)。また、彼には怪異現象や妖しい発言などがあったらしく、「明月記」の著者藤原定家は「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べているという。同六月三十日、『病により家督を』十一『歳の嫡男・実時に譲って』二十七『歳で出家した』とあるから、「溫良仁慈の聞(きこえ)」どころか、尋常な様子でさえ、ない。「越後守實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金澤流北条氏の実質初代で、母は天野政景(石橋山の戦いに父と参戦した直参の御家人)娘。ウィキの「北条実時」によれば、天福元(一二三三)年、十歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第』三『代執権の北条泰時の邸宅において元服』、『烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)』。翌文暦元(一二三四)年、『出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は』二『人に対し』、『「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた』(「吾妻鏡」に拠る)以後、三度に『わたって同職を務め』さらに第四代執権北条経時及び第五代北条時頼の『政権における側近として引付衆を務め』、建長五(一二五三)年には評定衆となっている。文永元(一二六四)年には『得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり』、第八代執権の『北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった』。『文永の役の翌建治元』(一二七五)年『には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住』、『蔵書を集めて金沢文庫を創設』したが、翌年に逝去した。『文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して』、『法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学』んだ。『源光行・親行父子が校訂した河内本』「源氏物語」『の注釈書を編纂する』などもしている。

「顯時」金澤(北条)顕時(宝治二(一二四八)年~正安三(一三〇一)年)は、正室が安達泰盛の娘千代野で安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより、縁戚連座で逼塞を余儀なくされたが、その後に第九代執権北条貞時の信頼を回復して復権、顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えている。ウィキの「北条顕時によれば、文応元(一二六〇)年に『将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学』んだ。弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」では』、『金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲』、『出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり』、『出家したため』、『助命されている』。永仁元(一二九三)年四月に『執権北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼし』、その僅か五日後の四月二十七日、『顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰』(「武家年代記」)、十月には『貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された』。永仁二(千二百九十四)年には引付四番頭人、二年後には三番頭人となって、『赤橋館を与えられ』ている。『晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという』。『顕時は父に似て好学で』、『金沢文庫の成立に寄与した』。彼の死去後は、『跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて』、『得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる』のであった。

「内外兩典」仏教の正式なものと認められた経典である「内典」と、仏教以外の書物である「外典(げてん)」。本来はインドの外道(げどう)の書物を指したが、日本では主としてフラットな意味での仏教経典以外の参考に供し得る儒学書を指す。

「陰(おん)」陰陽道(おんみょうどう)の関係書。

「神(しん)」神道系の関係書。

「歌」和歌集や歌学書。

「殘る所なし」余す所なく、蒐集した。

「金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり」私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」「金澤文庫舊跡」に印像があるので見られたい。但し、そこには『或はいふ、儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とあり、そこで私は注して、『これらは幕府崩壊後、室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押された蔵書印とも言われるが、日本最古の蔵書印であることに変わりはない』とも述べた。

「學文(がくもん)」「學問」に同じい。

「書典の癖(へき)」愛書家。古書蒐集家。読書家。]

 

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