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2018/02/10

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十五年 『日本新聞』入社 / 明治二十五年~了

 

     『日本新聞』入社

 

 東京へ引上げた翌々日、即ち十一月十九日に『日本』入社の事が決定した。羯南翁からの話に、別にこれというほどの仕事も無いから、いやな時は出勤しなくてもよろしい、その代り月俸は十五円である、社の経済上予算が定(きま)っているので、本年中は致方(いたしかた)ないが、来年になれば多少何とかなるであろう、それまでのところ足りなければ自分が引受けるから、ということであった。居士はこの成行を大原恒徳氏に報告し、「尤我社の俸給にて不足ならば他の『国会』とか『朝日新聞』とかの社へ世話致し候はば三十円乃至五十円位の月俸は得らるべきに付その志あらば云々と申候へども、私はまづ幾百円くれても右様の社へははいらぬつもりに御座候」という志を述べた。居士の面目はこの手紙によく現れている。就職に当って他の一切を顧みなかった居士は、『日本新聞』社員としてその一生を了えたのである。

 居士が明治十六年に上京して、はじめて訪ねた当時の羯南翁は操觚者(そうこしゃ)でなしに、官報局の役人であった。『日本』の創刊を見た二十二年二月十一日は、居士は雪を踏んで高等中学の運動場に集り、二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝して万歳を三呼している。それから芝の某(なにがし)の館に催された園遊会に赴く途中、はじめて『日本』の第一号を手にした。附録の憲法の表紙に三種の神器を画(えが)いたのも、その時は非常に面白いと思ったと『墨汁一滴』の中に見えている。居士と『日本』との間には、早くから因縁がなかったわけではないが、根岸へ移るとともに羯南翁との交渉が深くなり、「かけはしの記」を振出しとして諸種の文章が紙上に現れた結果、遂に『日本』入社まで進行するに至ったのであろう。

[やぶちゃん注:「操觚者(そうこしゃ)」文筆に従事する文筆家・編集者・ジャーナリスト。この場合の「觚」は中国で、昔、文字を記した四角い木の札のことを指す。

「羯南翁は」「官報局の役人であった」既に注した通り、陸羯南は明治一六(一八八三)年に太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた(本文にある通り、この時、友人加藤恒忠の甥であった正岡子規の訪問を受けたのである)。二年後には文書局が廃止されて内閣官報局が誕生し、その編輯課長に昇進したものの、明治二一(一八八八)年の春に依願退職し、翌明治二十二年二月十一日に日刊紙『日本』を創刊、紙上で日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開したのであった。

「二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝して」戦前の「二月十一日」は紀元節(「古事記」「日本書紀」に於いて本邦の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。制定は明治六(一八七三)年。この日付は「日本書紀」で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(西暦紀元前六六〇年に相当)の旧暦一月一日の月日を新暦に換算したもの)であると同時に、この明治二二(一八八九)年の二月十一日は「大日本帝國憲法」公布日であった。「大日本憲法発布の詔勅」が出され、天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布されているから、「鳳輦」(屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿(こし)。天皇の晴れの儀式の行幸用のもの)が二重橋を出て、国会に出向いたものかと思われる。

「『墨汁一滴』の中に見えている」明治三四(一九〇一)年二月十一日の条。短いので以下に示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子。一部、句点の脱落(組版上、古い新聞では行末にある場合は打てない)と考えられる箇所に句点を追加した。

   *

朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空は猶曇れり。余もおくれじと高等中學の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そここゝに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻し、祝憲法發布、帝國萬歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦を拜みて萬歳を三呼したる後余は復學校の行列に加はらず、芝の某の館の園遊會に參らんとて行く途にて得たるは「日本」第一號なり。其附錄にしたる憲法の表紙に三種の神器を畫きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、其時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて假店太神樂などの催しに興の盡くる時もなく夜よ深ふけて泥の氷りたる上を踏みつゝ歸りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚だ短きにもあらず「日本」はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。其時生れ出でたる憲法は果して能く步行し得るや否や。

   *

「かけはしの記」既出既注。「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 当時の居士の日記を検(けみ)すると、十月二十七日の条に「到日本新聞社」ということが見えるが、この時はどういう用向(ようむき)で行ったのかわからない。いよいよ社員として社へ出るようになったのは十二月一日からである。たまたま軍艦千嶋が伊予堀江沖に沈没する事件があり、それに関して「海の藻屑」という短文を草したのが入社最初の仕事になったらしい。爾後俳句入の短文を以て時事を評したものが引続き『日本』紙上に現れている。

[やぶちゃん注:「軍艦千嶋が伊予堀江沖に沈没する事件」ウィキの「千島艦事件」より引く。明治二五(一八九二)年十一月三十日、『日本海軍の水雷砲艦千島』(ウィキの「千島 通報艦を参照。「通報艦」とは無線技術などの情報伝達手段が発達していなかった二十世紀初頭まで海軍艦船間や地上との命令・報告の伝達を担った艦を指す。ウィキの「通報艦」によれば、大日本帝国海軍では明治三一(一八九八)年から大正元(一九一二)年まで艦種区分として存在していたとあって、『海戦では戦隊の非戦闘側を併走して旗艦の旗信号を各艦に伝える任務を負っていた』とある。この記載は一八九二年に沈没してしまった「千島」の適応外となるが、公式文書(「訓令六二」)で同艦を『報知艦』としている(ウィキの「千島 通報艦)」の注2を見よ)ので後の「通報艦」と見做して問題はない。ウィキの「千島 (通報艦)」よれば、『通報艦のサイズ・能力は、水雷砲艦やコルベット』(Corvette:軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、フリゲート(小型の高速帆船艦。後の巡洋艦の前身)より小さい)や『スループ』(Sloop:フリゲートとコルベットの中間に位置する軍艦。一層の砲甲板に十門から二十門の大砲を搭載するもの)『と同等であることが多いため、通報艦という独立した艦種を設けず、これらの艦に通報艦の任務を担わせることも多かった。その後、無線技術が発達したことにより、伝令任務については専任の艦艇を充当する必要性が無くなったため』、『姿を消した』ものの、通報任務が戦艦業務から消えた後も『同じ艦種名で運用された』ともある)『がイギリス商船と衝突、沈没した事件。日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件であり、領事裁判権の撤廃問題と絡んで』、『日本の国内外を巻き込む政治問題に発展した』。明治二五(一八九二)年、『日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島が完成した。鏑木誠の指揮下、海軍の手により日本に回航し、長崎港を経由して神戸港に向かった。ところが』、『その途中の』同年十一月三十日、『愛媛県和気郡沖の瀬戸内海において、イギリスのP&O(当時の日本国内の呼称はピーオー汽船会社)所有のラヴェンナ号と衝突し、千島は沈没して乗組員』七十四『名が殉職した(ラヴェンナ号も損傷を受けた)』。『だが、当時の日本は安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されており、イギリス商船に関する裁判は横浜の横浜英国領事裁判所を第一審とすることになっていた。そのため、当時の』第二次伊藤内閣は翌明治二六(一八九三)年五月六日に『弁護士の岡村輝彦(後の中央大学総長)を代理人とし、P&Oを相手として』八十五『万ドルの賠償を求める訴訟をイギリス領事裁判所に起こした。これに対してP&Oも日本政府を相手として』十『万ドルの賠償を求める反訴を起こした』。一『審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利とされたが、双方とも不服を抱いて』、『上級審にあたる上海の英国高等領事裁判所に控訴した。ところが、二『審ではP&Oの全面勝訴となった。この判決結果に加え、原告が元首である天皇の名義であったのか否かについての議論が湧きあがった。帝国議会では、立憲改進党の鳩山和夫らが政府を追及、同党とともに硬六派』(こうろっぱ:対外硬六派。一八九〇年代、対外強硬論を唱えていた対外硬路線を掲げる国家主義・国粋主義的な六党派の連合のこと)『を形成していた各党や世論もこれに呼応した。硬六派は領事裁判権を含めた全面的な条約改正か』、『現行条約の条文を徹底遂行して外国人の居留地に押込めるように迫った(条約励行運動)』。『これに対し』、政府は二度に亙って』、『衆議院解散を断行する一方、イギリス本国の枢密院に上告を決めた。政府内には岡村の能力を不安視して末松謙澄や金子堅太郎に代理人として派遣する構想も出されたものの、最終的には岡村に一任することとなった。一八九五(明治二十八)年七月三日、イギリス『枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約』十二『万円の負担を命じた。その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によって和解が図られ』、同年九月十九日に『日本政府とP&Oの間で和解が成立、P&Oは』一『万ポンド(日本円で』九万九百九十五円二十五銭『)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに』、『日本政府は一切の請求権を放棄した』とあり、さらに、『俳人の正岡子規は』、同年十二月二日の新聞『日本』に千島艦事件について、「海の藻屑」と題した俳句時評を書き、

 

 もののふの河豚にくはるる悲しさよ

 

という句を詠んでいる、とある。]

 十二月七日、鳴雪翁と共に高尾山に遊び、八王子一宿、翌日百草松蓮寺(もぐさしょうれんじ)、府中、国分寺などを経て帰った。この時の紀行は「馬糞紀行」と題して『日本』に掲げられたが、後に「高尾紀行」と改められた。

 

 麥蒔やたばねあげたる桑の枝

 松杉や枯野の中の不動堂

 

などの句はこの時のものである。居士は後年『獺祭書屋俳句帖抄』の序において「冬の始に鳴雪翁と高尾の紅葉見に行た時は天然の景色を詠み込む事がやや自在になった」といい、「平凡な景、平凡な句であるけれども、こういう景をつかまえてこういう句にするという事がこれまでは気の附かなかった事であった」といっている。鳴雪翁の句もこの紀行中にあるものは「荻窪や野は枯れはてて牛の聲」「玉川の一筋ひかる枯野かな」「古塚や冬田の中の一つ松」などの如く、朗々誦(しょう)すべきものが多い。

[やぶちゃん注:「百草松蓮寺」現在の多摩丘陵の一角、東京都日野市百草にある、京王電鉄所有の庭園「京王百草園」。寺はこの当時、既に存在しない。最初のそれは、享保年間(一七一六年から一七三六年)に寿昌院殿慈覚元長尼なる尼僧が松連寺という荒れ寺を再建し、それに伴って、百草園の原型が造営されたという。江戸時代にも多くの文人・茶人などが訪れ、句会や茶会を開いたとされる。その後、松連寺は廃寺となり、明治初期には、ここ百草出身の青木角蔵という生糸商人がこの廃寺跡を買い取って、そこに庭園を造って「百草園」と名づけた。梅花で知られ、その名の通り、季節折々の名花を咲かせ、紅葉も美しい。明治には若山牧水・北村透谷・徳富蘆花などの文人も訪れている。昭和三二(一九五七)年に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)に移管された。私も遠い昔、恋人と訪れたのを思い出す。

『「馬糞紀行」と題して『日本』に掲げられたが、後に「高尾紀行」と改められた』初出「馬糞紀行」は明治二五(一八九二)年十二月号の『日本』。「高尾紀行」と改められたそれは「青空文庫」のこちらで読めるが、初出題「馬糞紀行」で載せる正字正仮名の「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」をお薦めする。]

 十二月二十二日から三三日にわたって、居士は『日本』に「歳晩閑話(さいばんかんわ)」を掲げた。入社後執筆した最初の俳話である。歳晩の風物を題材にした俳諧雑談で、特筆するほどのものもないが、「餅搗(もちつき)」の題下に「門に月並魔の三字を大書」する宗匠(そうしょう)を持出し、古人の餅搗の句を評判することに仮託して、その俗陋(ぞくろう)を嘲(あざけ)った一篇は、いささか注目に値する。一度(ひとたび)居士によって在来と違った意味に用いられてから、天下に風をなすに至った「月並」なる言葉も、著作に現れたものとしては、この辺が最も古いのではないかと思われる。

[やぶちゃん注:「歳晩閑話」「餅搗」正岡子規没後二ヶ月後の明三五(一九〇二)年十一月弘文館刊の「獺祭書屋俳話」の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から視認できる。]

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