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2018/03/31

明恵上人夢記 59

 

59

一、同廿九日の夜、夢に云はく、上師の御頸の邊に不快の氣有り。予をして之を探らしむ。卽ち、云はく、「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず。」と云々。不文菩薩戒羯磨文(こんまもん)三□□□□□各七八人許り、其の機根に應じて之を講授すべし。喜悦して覺め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「□」は判読不能或いは虫食い。字数は私のいい加減な推定(底本は一つの長方形)であるので信用されないように。

「同廿九日」「58」に続くと考えるなら、建保七(一二一九)年二月二十九日である。

「上師」私は既にほぼ一貫して、これを母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈としてきた。ここでも同じ立場を採る。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂していると考えられることから、この頃は未だ生きていたと考えてよい。

「御房、滅に入りぬれば、此の事を止められず」これは明恵の台詞ではなく、上師の台詞と採る。何故なら、そうであってこそ最後の「喜悦して覺め了(をは)んぬ」が生きてくると考えたからである。「滅」は煩悩や苦悩の消滅及びその先にある「滅度」、即ち、悟りの境地としての「涅槃」と採る。

「云々」は明恵が夢の続きを忘れてしまった場合に多く用いる。ここで切れて、後の夢とは無縁なケースもあるが、ここはしかし、最後の「喜悦」が利いているから、私は夢の中間部がごっそり忘れられてしまい、その最後がこうだったという形で採りたい。そのつもりで訳も読まれたい。

「不文菩薩戒羯磨文」不詳。頭の「不文」がなければ、「菩薩戒羯磨文」は「瑜伽師地論」から、彌勒菩薩が説いたとされる受戒法を抄出して三藏法師玄奘が訳したものである。解説としては『印度學佛教學研究』(第五十四巻第二号平成一八(二〇〇六)年三月発行)の吉村誠論文玄奘の菩薩戒―『菩薩戒羯磨文』を中心に―(PDF)が詳しい。ウィキの「菩薩によれば、『菩薩戒は菩提心や仏性に基づくものとされ、形式よりも動機や心を重視する傾向がある』とある。明恵好みである。「不文」は取り敢えず、不立文字(文字にすることが出来ない奥義)の意で採った

「之を探らしむ」というのは、素手で、直接に、患部に触れて探るのでは、あるまい、と私は推理した。則ち、ある種の超常的能力によって観想・透視させようとしたのだと思う。そう採って訳を読まれたい。

「機根」仏の教えを聞いて悟りを開くための基盤となる宗教的性質や能力。

「講授すべし」上師から、その特殊な秘儀としての「菩薩戒羯磨文」の講説を受けるのがよい。]

 

□やぶちゃん現代語訳(脱落があるので上手く訳せない。悪しからず)

59

 同年二月二十九日の夜、こんな夢を見た。

 

 上覚上師が、御頸(おくび)の辺りに、何やらん、不快の気配を感じておられる。そこで、私を呼んで、その不快な辺りを探らせなさった。しかし、即座に上師は、

「御房は、今、最早、滅に入っておるので、このような世俗の者の体の痛みなどという瑣末なことに関わることはできぬようになっておる。だから、この私の下らぬ首筋の不快感を止めるなどという馬鹿げたことはやれぬ。」

と仰せられた……。

……不立文字としての「菩薩戒羯磨文(ぼさつかいこんまもん)」を三…………各々、七、八人ばかりで、それぞれの者が、今、達しているところの機根に応じて、その奥義の菩薩戒を講授するのがよい、と私は感じた……そうして……心の底から……喜悦した……

 

……というところで目覚め、夢は終わった。

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(31) 禮拜と淨めの式(Ⅸ) 卜占

 

 凡そ祖先崇拜の永續的の形をもつたものは、一種或は多種の筮卜[やぶちゃん注:「ぜいぼく」。意味は筮竹(ぜいちく)を使って占うことであるが、原文は“divination”であるから、ここは広義の占術のこと。平井呈一氏も同じくこの前後を『筮卜法』と訳しておられるが、ここで小泉八雲は洋の東西を問わない多様な占いを述べており、直後には本邦の例として筮竹を用いない古式の鹿卜(ろくぼく/まにぶと)や粥占(かゆうら)、更には物を用いない聴覚だけの辻占(つじうら)の例まで挙げられてもいるのであるから、私には適切な訳とは思われない。「卜占(ぼくせん)」でよいだろうに。の方法をもつて居るが、神道もこの一般の法に洩れない。笙卜が古代の日本に於て、嘗てギリシヤ人及びロオマ人の間にもつて居たやうに、公式上重要なものとなつて居たかはどうか、それは今疑問となつて居る。併し支那の星占ひ、魔法、身上判斷[やぶちゃん注:原文は“fortunetelling”。運勢判断のこと。平井氏は『易』と訳しておられる。]等の傳來したより餘程以前に、日本人はいろいろな種類の筮卜を行つて居た、それは昔の詩歌、記錄、奉祭等に依つて證明される。吾吾[やぶちゃん注:「われわれ」。我々。底本では一字目の「吾」の後が改行になっているために、「々」が用いられていないだけのことである。]はまた大きな祭祀に件なつて、官廰の筮卜者の事の記されたのを見る。筮卜には、骨に依つたのもあり、鳥に依つたのや、米、大麥の粥に依つたの、足跡、地に立てられた棒に依り、また公道で行く人の話を聽く事に依るのもある。これ等の筮卜の古い方法は殆どすべて――恐らくすべててあらうか――なほ人々の間に一般に用ひられて居る。併し一番古い公式の筮卜は、鹿若しくは他の動物の肩胛骨を焦がし、それに依つて生ずる焦げる音を聞き別ける事に依つて【註】なされた[やぶちゃん注:これは戸川明三氏のトンデモ語訳である。原文は“But the earliest form of official divination was performed by scorching the shoulderblade of a deer, or other animal, and observing the cracks produced by the heat.”で、無論、「しかし、最初期の正式な卜占法は、鹿や他の動物の肩甲骨を焦がし、その熱によって生じた骨の表面の亀裂を観察することによって行われた。」である(これは英語の苦手な私でも、普通の中学生でも過たず訳せる)。戸川は“the cracks”の部分を、物に罅が入って割れた時の「音」のオノマトペイアと採ってしまったのである。にしても、かの秋骨先生が亀卜も鹿占も知らなかったというのは、ちょっと意外中の意外である。吃驚した。]。後になつては龜の甲良が同じ目的のために用ひられた。筮卜者は特に皇室に附屬して居たらしい。本居(宜長)は十八世紀の後半に、其時代になほ行はれて居た筮卜を以て、皇室の仕事の一部として、それに就いて語つて居る。曰く『時の終りに至るまて、御門は日の女神の子てある。御門の心意は、日の女神と、思考に於ても、感情に於ても全く一致して居る。御門は決して新しい工夫を探さない。併し神代から始まつた先例に從つて治めて行く。そして若し疑はしい事があれば、大なる女神の心意を明らかにしてくれる筮卜にその決定を求める』と。

[やぶちゃん注:以下の註は底本では、ポイント落ちで、全体が四字下げである。]

 

註 筮卜のこの形に關して、サトウ氏は、ヂンギス汗の時代に、モンゴオル人に依つてそれが行はれ、今日なほ韃靼[やぶちゃん注:「だつたん(だったん)」。原文は“Khirghis Tartan”。戸川氏は地域としての「モンゴル高原のタタール部」として訳しているようである。平井氏は『ギルギス韃靼人の間で』とこの前後を訳しておられる。原文からは平井氏の方が正しい気がする。]のカアギス族に依つて行はれて居ると云つて居る――これは古い日本の種族が孰れにその起原を有するやに關しての非常に興味ある事實である。

 右の公式の筮卜の例については、アストン氏の『日本紀』の譯第一卷、一五七、一八九、二二七、二二九、二二七頁を見よ。

[やぶちゃん注:平井呈一氏はこの原注に先立って、本文の最後にある本居宣長の「直毘靈」(なおびのみたま:宣長 四十二歳の時の著。全一巻。明和八(一七七一)年、成稿。当初は「古事記傳」第一巻の総説に収められたが、後の一八二五年に単行本として刊行した。表題は「直毘神のみたまによって漢意(からごころ)を祓い清める」の意で、「古事記」の本質を体系的且つ簡潔に論述したもの。宣長の「古道論」を代表する著作)の当該箇所が引かれている。漢字を概ね、恣意的に正字化して以下に示す。

   *

千万御代(チヨロヅミコ)の御末(ミスエ)の御代(ミヨ)まで、天皇命(スメラミコト)はしも。大御神(オホミカミ)の御子(ミコ)とましまして。

御世々々(ミヨミヨ)の天皇(スメラギ)は。やがて天照大御神(アマテラスオホミカミ)の御子(ミコ)になも大坐(オホマシ)ます。かれ天津神(アマツカミ)の御子(ミコ)とも。日(ヒ)の御子(ミコ)ともまをすぞ。

天(アマ)つ神(カミ)の御心(ミココロ)を大御心(オホミココロ)として。

  何(ナニ)わざも。己命(オノレミコト)の御心(ミココロ)もてさかしだち賜はずて。ただ神代(カミヨ)の古事(フルコト)のままにおこなひ給ひ治(ヲサ)め給ひつつ。疑(ウタガ)ひおもほす事しあるをりは。御卜事(ミウラゴト)もて天神(アマツカミ)の御心(ミココロ)を問(トハ)して物し給ふ。

   *

「アストン氏」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンを参照されたい。

 

 少くとも有史時代になつては、笙トはあまり戰時に用ひられたとは思はれない――確にそれがギリシヤ及びロオマの軍隊に依つて用ひられたやうには用ひられなかったらしい。日本の最大なる將軍――秀吉、信長の如き人――は前兆に關しては、全く不信心であつた。恐らく日本人は、その長い戰史の初期に於て、經驗に依今、前兆に從つて兵を動かし將軍は、前兆の如きものを眼中に置かなかつた戰ひに巧みな敵に對する場合、常に甚だしい不利の位置に立つ事を知つたに相違ないのてある。

 人々の間に行はれた筮卜の古い形の内にあつて、今日なほ殘つて居り、家族の間に尤も普通に行はれて居るのは、乾いた米を以てする筮卜である。公式には支那の筮卜がなほ盛んに行はれて居る。併し日本の身上判斷者[やぶちゃん注:原文は“fortune-teller”。前と同じで、これは「占い師」或いは平井氏のように『易者』の方がしっくりくる。]は、支那の書物を參照する前に、必らず神道の神々を呼び起こし、自分の客を迎へる室には、神道の神壇を置いて居るのを見るが、これは頗る興味ある事である。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(4) 三 鳥類の先祖

 

     三 鳥類の先祖

 

Kyouryuu

 

[中生代の蜥蜴類]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。本図は全く同じものが、同じ丘淺次郎先生の生物學講話」の「第二十章 種族の死(4) 三 歷代の全盛動物で使用されており、そこで私は本種を爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目鳥盤目鳥脚亜目ハドロサウルス上科ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス属 Edmontosaurus の一種と同定した。最大級の所謂、「カモノハシ竜」の一タクソンで、特徴的な長い口腔には筋肉質の頰袋と奥に最大で六十列にも及ぶ密接した多数の歯を持ち、針葉樹食であったと推定されている。なお、図では当時の認識から後肢で屹立しているが、現行では通常は四足歩行していたと考えられている。]

 

 

 現今の動物中で、分類上最も區域の判然した部類は何であるかといへば、恐らく鳥類あらう。身體の表面に羽毛を被り、前肢が翼の形をなして居るものは、鳥の外にはないから、或る動物を捕へて之は鳥であらうか、または鳥以外の動物であらうかといふ疑の起ることは絶えてない。倂し、之は現在の動物だけに就いていうたことで、古い地層から出て來る化石までを勘定に入れると、決して斯くの如くはいはれぬ。中生代は鰐・蜥蜴の類の最も盛な時代であつたことは、前に述ベたが、その頃の蜥蜴類の中には上の圖に掲げた如くに、後足だけで立ち[やぶちゃん注:誤り。キャプションの私の注を参照。]、腰の骨なども餘程鳥類に近い類が澤山にあつて、之を竝べて見ると、恰も蜥蜴から漸々鳥類に變じ行く順路の如くに思はれる。斯く進んで或る處に達すれば、分類上、最早、蜥蜴の類に入れることも出來ず、また明に鳥類の方に編入することも出來ぬやうなものになる筈であるが、次の圖に掲げたのは、實際斯かる有樣の動物で、丁度蜥蜴類と鳥類との性質を半分づゝ具へて居る。この化石を研究した學者の中、或る人は之を鳥類に入れ、或る人は之を蜥蜴類に入れて議論も隨分あつたが、斯く議論の一定せぬのは、つまり、この動物が鳥と蜥蜴との中間に立つからで、今日の所では、之を鳥類の出來始めと見倣して居る。

 

Sisotyou

[最古の鳥]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。これは所謂、「始祖鳥」と日本で通称される(但し、これは現在では誤りなので廃止すべき呼称であると私は思う。後述)、鳥綱古鳥亜綱アーケオプテリクス目アーケオプテリクス科アーケオプテリクス属 Archaeopteryx の一種。アーケオプテリクス類に比定されている化石は破片を含め、現在まで十一個が発掘されているが、それらは総て後に出る、ドイツのゾルンホーフェン近郊の石灰岩堆積物中から発見されたものである。特にここに掲げられたものは特に知られたもので、最初の発見から三番目に見つかった「ベルリン標本」と名付けられたものである。現在はフンボルト自然史博物館蔵(当該化石(図のもの)発見されたのは一八七六年又は一八七七年と伝えられる)。ウィキの「始祖鳥」によれば、属名 Archaeopteryx の語源は、ギリシア語の「古代の」を意味する「archaios」と、「羽毛・翼」等の意の「pteryx」の合成。『アーケオプテリクスの最初の骨格化石の発見後、初めて鳥類と恐竜類の類縁関係を主張したのは、ダーウィンのブルドッグ(番犬)としても有名な』イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)で、一八六〇年代『後半のことであった』。『しかしその後、多くの恐竜が発見され』、『その多様性が非常に大きいことが明らかになるにつれ』、『ハクスリーが指摘した類似点は曖昧になり、さらに』、『発見された全ての恐竜について』、『鎖骨が退化消失していたことから』、『恐竜という生物の共有形質として「鎖骨の消失」が共有認識となり、鎖骨(叉骨)を持つ鳥類が鎖骨の消失した恐竜類から進化したという説は支持者を失っていった。多くの研究者は鳥類と獣脚類に類似があることを認めつつも、鳥類の祖先は恐竜の祖先でもあるがまだ鎖骨を失っていない槽歯類(Thecodont)であり、類似は収斂進化にすぎないという意見がその後百年近く主流とな』った。『その現状を覆し、鳥類は獣脚類から進化したという説を甦らせたのが』、アメリカの古生物学者ジョン・ハロルド・オストロム(John Harold Ostrom 一九二八年~二〇〇五年:一九六〇年代に於ける恐竜認識大変革を行った人物として有名。一言で言えば、彼の説は、恐竜はそれまで言われていたような爬虫類の大トカゲなのではなく、「大きな飛ばない鳥」であるというものである)『であり』、一九七三年の『ことであった。彼は獣脚類にも鎖骨を持つ者がいること、すなわち』、『恐竜の鎖骨は全て消失していたわけではないことを明らかにし、獣脚類起源説の最大の障害を取り除いただけでなく、鳥類と小型獣脚類のみが共有する特徴を』二十『以上も挙げた。鎖骨の有無という問題が消失した今、鳥類の特徴(叉骨、羽毛、翼、部分的に保存されていた親指)と恐竜類の特徴(長く突き出た距骨、歯間中隔の存在、坐骨の閉鎖孔突起、尾の血道弓)を兼ね備えるアーケオプテリクスは、この主張を裏付ける決定打となった。後の研究では中国遼寧省から羽毛恐竜が発見されるなど、アーケオプテリクスと恐竜をつなぐ更なる証拠が見つかっている』。『ただし、鳥類は恐竜から進化したとする説には、アーケオプテリクスの化石(ジュラ紀後期の』約一億五千万年前年前『)が、当時最古の羽毛を持つ恐竜の化石(白亜紀前後の』一億二千五百万年前頃を『中心に発見されていた)よりも古いという問題が残されていた。それを解決する化石が』二〇〇九年に『発見された。中国東北部のジュラ紀後期』(一億六千百万年から一億五千百万年前)『の地層から、トロオドン類』(竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目トロオドン科 Troodontidae)『の化石が発見された。これは、鋭いかぎつめを持ち全長約』五十センチメートルの『トロオドンと呼ばれる肉食恐竜の仲間である。羽毛を持った恐竜前後の脚に風切り羽があるが、鳥類や白亜紀の羽毛恐竜の羽の、先端に向かって細くて左右非対称である羽とは異なり、それは団扇のような左右対称系である。そのため、恐竜は最初に前後の脚に原始的な羽を持ち、やがて前脚の翼が発達して飛翔能力を身につけ、鳥類に進化したと考えられた』。『アーケオプテリクスは現生の鳥類の祖先に近い生物であるものの、直接の祖先では無いと考えられている。アーケオプテリクスが栄えた当時の鳥類にどれほどの多様性があったのかについては、今なお議論の余地がある』とある(下線やぶちゃん)。]

 

 この化石の略々完全なものは現今二つよりない。羽毛一枚位は他の博物館で見たこともあるが、全形の解るものはロンドンベルリンとの博物館に各々一個づゝあるだけで、孰れも鄭重に保存してある。兩方ともに發見せられた處は、ドイツ聯邦の一なるバヴァリア國のソルンホーフェンというて、有名な石版石の出る村であるが、こゝは奇態に完全な化石の出る處で、海月(くらげ)の化石などといふ實に珍しい品もこゝから發見になつた。丁度こゝにヘーベルラインといふ化石の好きな醫者が住んで居て、常に面白い化石を掘り出すことを樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]にして居たが、こゝに述べた化石の一を千八百六十一年に發見し[やぶちゃん注:アーケオプテリクスの化石の最初の発見。図のものではない。]、その後十六年を過ぎて明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]に至り、また他の一を發見した。ロンドンにあるは、その古い方で、頭の處が缺けて居るが、ベルリンにある新しい方は、殆ど完備して、全部明瞭に解る。この動物の形狀をいうて見れば、上圖に示した通りで、上下の顎は鳥の嘴とは全く違つて細かい齒が竝んで生え、前足からは立派な羽毛が生えて居るから、翼と名づけて差支はないが、指が三本もあつて各々末端に爪を具へて居る。特に現今の鳥と著しく違ふ所は尾の骨である。現今の鳥にも孔雀・「やまどり」[やぶちゃん注:キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii。]等の如く尾の長いものは幾らもあるが、之は皆尾の羽毛が長いばかりで、骨骼にして見れば、孰れも尾は極めて短い。然るにこの動物では尾の骨が蜥蜴か鼠の尾の如くに長く、脊椎が二十個以上も連なつて尾の中軸をなし、その兩側から羽毛が竝んで生えて居る。一言でいへば、この動物は骨骼からいへば、この動物は骨骼に於ては、その頃の蜥蜴類の或る種屬と甚だ似たもので、羽毛を被り、翼を有するといふ點では確に鳥類の特徴を具へたものである。

 

Huruitorinokaseki

[やゝ新しき地層から出た鳥の化石]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング・補正して使用した。これは間違いなく、中生代白亜紀後期に北アメリカに生息していた海鳥類である鳥綱真鳥亜綱ヘスペロルニス目ヘスペロルニス科ヘスペロルニスHesperornis(タイプ種:Hesperornis regalis)である。ウィキの「ヘスペロルニス」によれば、『長い首・長いクチバシを持つ』、『その体型は現在のアビ類やウ類に似るが、体長は』百八十センチメートルと、かなり、『大型である。翼は小さく』、『痕跡程度に退化しており、現在のペンギン類と同様に、飛ぶことはできない。しかし、ペンギンが翼が変化したフリッパーで海中を泳ぐのに対して、ヘスペロニスは水掻きを持つ後足で泳ぐ。そして現在の鳥類と決定的に異なる点は、クチバシに歯を持つことである。このクチバシを使い、海中で魚類を捕食していたと推定される』。『ヘスペロルニスは、白亜紀に登場した真鳥類(Euornithes)のグループに含まれるが、白亜紀末期に絶滅した。現存鳥類にヘスペロルニス類の子孫はない』とある。リンク先の全骨格図と本図は同じものである。同ウィキの「外部リンク」のある生態想像図(複数有り、本骨格図もある)は見なきゃ! 損!)。]

 

 この化石の出たのは中生代の半過ぎ頃の地層からであるが、その後の層からは幾らも古代の鳥の化石が發見になつた。順を正してこれらの化石を竝べて見ると、こゝに掲げたやうな鳥の出來始まりから、終に現今の鳥類になるまでの道筋が實に明に解る。例へば古い層から出る鳥には、皆齒があつたもので、今日の如き嘴を有するに至つたのは、比較的近い頃からであるが、その他構造上鳥類に固有な點を調べて見ると、孰れも皆漸々に出來たもので、その始に溯ると、次第次第に蜥蜴類に見るやうな形に歸する。解剖上の委しい比較は略するが、總べての點に於て進化の形跡が歷然と現れて居るから、これらの化石を竝べて見て、尚生物の進化を認めぬことは決して出來ぬことである。

 斯くの如く、これらの化石は生物進化の直接の證據であるが、前に述べた化石の中の一個が發見せられたのはダーウィンの「種の起原」の出版になつた翌々年であるから、進化論の評判の高くなるや否や、かやうな直接の證據の現れることは頗る不審(いぶか)しい、恐らく之は僞物であらうというて、信じない人もあつた。倂し素より眞正の化石故、今は大切にして保存してあるが、之に就いて考ふべきことは、天然には分類の境界がないといふことである。現今生存する動物だけの中にも、肺で空氣を呼吸する魚類もあり、卵を生む哺乳類もありなどして、各部類の特徴を定め、その境界を確めることは、決して容易でないが、化石を加へて論ずれば、分類上判然して境界を定めることは決して出來ぬ。こゝに述べた一例だけに就いて考へても、中生代から今日までの蜥蜴類と鳥類とを集めて見れば、その中には鳥類の性質を三分と蜥蜴類の性質を七分と具へたものもあれば、蜥蜴二分に鳥八分のものもあり、或は前に掲げた如き鳥と蜥蜴との性質を五分づゝ合せた如きものもあるから、似たものを合せ、異なつたものを離さうとすれば、何處を境と定めて宣しいか解らず、たゞ便宜上勝手な處に定めるより外には仕方がない。その有樣は恰も山と山との境を定めるに當り、頂上は離れて明に二つあるが、据野が互に連續して何處にも境がないから、據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なく使宜上或る處に定めるのと少しも違はぬ。若し土地が降つて据野が海になつてしまふたならば、初め二つの山であつた處は二つの島となり、その境は極めて判然と見えるやうになるが、鳥類と蜥蜴の類とが、今日判然と相離れて居るのは、全く之と同樣で、中間に立つべき種類が皆死に絶えてしまつたのによることである。「天然は一足飛をなさず」といふ古い諺がある通り、丁寧に調べて見ると、動物の分類にはどこにも一足飛びに離れた處はないやうで、以上と同じ例は他にも澤山あるが、斯く化石までを合せると、分類にはどこにも判然した境がなく、自然に一の部類から他の部類へ移り行くもので、その間の一々の種屬は各々この地球の長い歷史の中の或る一個の時代のみに限つて生存して居たといふことは、生物は總べて共同の先祖から進化して樹枝狀に分かれ降つたものとすれば、素より斯くあるべきであるが、生物種屬が皆萬世不變のものであると假定すれば決して有るべき筈のことでない。

[やぶちゃん注:「肺で空氣を呼吸する魚類」肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi のハイギョ類。詳しくは第九章 解剖學上の事實(4) 四 血管並に心臟の比較の私の注を参照されたい。

「卵を生む哺乳類」オーストラリアに棲息するカモノハシ(哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。第十一章 分類學上の事實(3) 二 幾段にも分類を要することの本文及び私の注を参照)オーストラリア・タスマニア・カンガルー島・バス海峡諸島・ニューギニアの高地に棲息するハリモグラ類(カモノハシ目ハリモグラ亜目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ Tachyglossus aculeatu 及びその五亜種)、ニューギニア島に棲息するミユビハリモグラ類(カモノハシ目ハリモグラ科ミユビハリモグラ属ニシミユビハリモグラ Zaglossus bruijni・ヒガシミユビハリモグラ Zaglossus bartoni・デビッドキョウミユビハリモグラ Zaglossus attenboroughi の三種)の五種五亜種の全十種が現生の卵生哺乳類である。]

 

2018/03/30

和漢三才圖會第四十一 水禽類 䲱(おすめどり)(ミゾゴイ)

Mizogoi

おすめとり 澤虞 方目

みぞごい  護田鳥

同】

      【和名於須

       賣止里

       今云溝

ハン     五位鷺】

 

本綱常在田澤中形似鷗鷺蒼黑色頭有白肉冠赤足

見人鳴喚不去有似主守宮故俗爲護田鳥

△按護田鳥【俗云溝五位一云世々利】狀似鵁鶄而小蒼黑色頭有如

 白肉冠者脚掌黃

 

 

おすめどり 澤虞〔(たくぐ)〕 方目

みぞごい  護田鳥〔(ごたちよう)〕

」も同じ。】

      【和名、

       「於須賣止里〔(おすめどり)〕」。

       今、「溝五位鷺〔(みぞごいさぎ)〕」

ハン     と云ふ。】

 

「本綱」、は常に田澤の中に在り。形、鷗(かもめ)・鷺に似、蒼黑色。頭、白き肉冠、有り。赤き足。人を見れば鳴(な)き喚(さけ)んで、去らず。主〔(あるじ)〕の、宮〔みや)〕を守るに似たること有り。故に俗に「護田鳥」と爲す。

△按ずるに、護田鳥〔(おすめどり)〕【俗に「溝五位」と云ひ、一つに「世々利〔(せせり)〕」とも云ふ。】は、狀〔(かたち)〕、鵁鶄(ごいさぎ)に似て小さく、蒼黑色。頭、白き肉冠のごとき者有り。脚・掌は黃なり。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesペリカン目 Ciconiiformesサギ科 Ardeidaeミゾゴイ属 Gorsachiusミゾゴイ Gorsachius goisagiウィキの「ミゾゴイより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『中華人民共和国南東部、日本(本州以南)、フィリピン、台湾』に分布する。『主に日本で繁殖し(台湾でも繁殖した例があり)、冬季になるとフィリピンへ南下し』、『越冬するが』、『台湾や日本(九州、南西諸島)でも少数個体が越冬する』。『全長四十九センチメートル。翼長二十五~二十九センチメートル。翼開』長は『八十~九十センチメートル。体重四百九十グラム。頭部の羽衣は濃赤褐色や黒褐色。上面の羽衣は暗赤褐色。体下面の羽衣は淡褐色。喉には細く黒い縦縞が入り、下面中央部には赤褐色の縦縞が入る。風切羽は暗褐色で、先端が赤褐色』。『上嘴は黒や黒褐色、下嘴は黄色。後肢は黒緑色。繁殖期の個体は眼先の裸出部が青くなる』。『平地から低山地にかけての森林に生息する。暗い森林を好む。単独もしくはペアで生活する。渡来直後のオスは夕方から夜間にかけて鳴くため夜行性と考えられていたものの、繁殖期の給餌時間や飼育下での非繁殖期の活動時間の観察例から本種を昼行性とする説もある。危険を感じると頸部を伸ばして上を見上げて外敵に向かって下面を向け、木の枝に擬態する』。『食性は動物食で、魚類、昆虫、サワガニなどの甲殻類、ミミズなどを食べる。森林内の河川、湿原、地表などを徘徊し獲物を捕食する』。『繁殖形態は卵生。太い樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り、五~七月に三~四個の卵を産む。抱卵期間は二十=二十七日。雛は三十四~三十七日で巣立つ』。『鳴き声からウシドリ、ウメキドリ、ヤマイボなどの方言名がある』とある。異名の「ヤマイボ」は鳴き声の音写「イボォー、イボォー」に由来する。鳴き声で。納得。と、書いてきたが、「本草綱目」も良安も頭部に白い冠状の肉冠(とさか)があると言っているのが頗る不審で、画像を見てもそのような突起物は見えない。となると、両者は何かを誤認しているのか? 分らぬ。一つ言えることは、異名として出している「護田鳥」を本邦で「おすめどり」と読むときには、ミゾゴイとともにここでも出る(鵁鶄(ごいさぎ))、ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax をも含めている点で、ゴイサギが繁殖期には肉冠ではないが、後頭部に著しく長い白い羽毛(冠羽)が三本、伸長して目立つことである。

 

「おすめどり」「護田鳥」読みの語源は不詳。

「主〔(あるじ)〕の、宮〔みや)〕を守る」(田圃の)持ち「主」が自分の住まい「宮」(「宮」は中国古代に於いては身分に関係なく、人の住居を指した)を守るの意か。東洋文庫訳では、『田主がわが田を守る』と訳しているが、これはやり過ぎである。「宮」に「田」の意はない。

「世々利〔(せせり)〕」」「せせり」というと現行の「鳥の首回りの部分」を言う語を思い出してしまうが、あれは骨から肉を「せせる」(ほじくる)ように食わねばならないこと、そうしてまで食うほどに美味いことが、その名の由来であるが、ここはそれが非常に細長い首をしたサギ類の異名として逆輸入したか、と思うのは人間さまの浅墓さのように思う。ここは寧ろ、サギ類が餌を嘴で突いて「せせる」ように摂餌するさまを言っているのであろう。]

北條九代記 卷第十二 三位殿局 付 東宮立

 

      〇三位殿局  東宮立(だち)

 

同年八月三日、後西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘、中宮となり給ふ。西園寺家は、承久の役より以來(このかた)、相州、代々尊崇して、他に替りて思はれける故に、この家より女御を立てらるる事。既に五代、皆、是、關東より計ひ申しける所なり。其比、安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)と聞えしは、三位殿の局とて、中宮の御方に候はれけるを、君、一度御覽ぜられしより、思召(おぼしめし)籠(こ)められ、御寵愛、斜(なゝめ)ならず。しかも此女房は、容色の優(いう)なるのみにあらず、善巧(べんけう)辨佞(べんえい)、總て睿慮(えいりよ)に先立ちて、才智、宮中を蔽ふ。君、愈(いよいよ)愛惑(めでまど)はせ給ひ、雪月花の遊宴、琴酒歌(きんしゅか)の會席にも、御傍(あたり)を立去り給はず。輦(てぐるま)を共にし、床(ゆか)を同じくして、果(はたし)て准后(じゆごう)の宣(せん)を下されしかば、光彩、始(はじめ)て門戸(もんこ)に輝き、権勢、今、宮墻(きうしやう)に開け、偏(ひとへ)に皇后元妃(げんひ)の如くなり。御前の評定、雜訴の御沙汰までも、准后の御口入(ごこうじゆ)とだに申せば、上卿(けい)、奉行も皆恐れて、非を理になして事を行ふ。心ある輩(ともがら)は、是ぞ亂根の萠(きざ)す所と、未然に禍(わざはひ)をぞ量りける。始(はじめ)、後嵯峨院の御遺詔(ごゆゐぜう)として、後深草、龜山兩院の間より、替る替(がは)る御位に卽(つ)き給ふ。是も關東の計(はからひ)なり。當帝(たうてい)後醍醐は、後宇多院御寵愛の皇子なれば、この君の御流(ながれ)こそ、天子の正統をば繼ぎ給ふべき御理運(りうん)なりと、諸卿(しよきやう)一同に思ひ奉り、卽ち、關東へ勅使を立てられ、後醍醐の皇子、恒良(ごうりやう)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせ、御位を讓らるべき由を仰遣(おほせつかは)されしかども、相模守高時、更に肯(うけが)ひ奉らず、終に後二條院の皇子、邦良(くによしの)親王を太子に定め參らせたり。天下の政道、惣じて睿慮に任せら奉らず。萬事、皆、關東より計ひければ、君、深く逆鱗(げきりん)ましまし、高時が所行を憤(いきどほり)思召(おぼしめ)す。東夷(とうい)、権勢を逞(たくまし)くして、王道、陵廢(りようはい)に及ぶ事、時節を待ちて、變を伺ふ。君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり。あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり。京都鎌倉、何となく、政道萬端、且吾(そご)する事、少からす。

[やぶちゃん注:「同年八月三日」前章で年が明記されるのは後醍醐天皇の即位であるから、文保二年(二月二十六日(一三一八年三月二十九日))であるから、「同年」は誤りで、元応元(一三一九)年で、しかも日付も「八月三日」ではなく、八月七日の誤りである。

「西園寺太政大臣實兼(さねかぬ)公の御娘」西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。父西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)は関東申次として持明院統と大覚寺統との間の皇位継承問題に関与。内大臣・太政大臣を経て、再び、関東申次となって、幕府の両統迭立の提議にも関わった。従一位。京極派の歌人で琵琶の名手としても知られた。ここで述べている通り、西園寺家は代々、強力な親幕派であった。

「承久の役」一二二一年。九十八年前。

「安野(あのゝ)中將藤原公廉(きんかど)の娘廉子(かどこ)」「安野」は誤りで「阿野」が正しい。阿野廉子(あのれんし/やすこ/かどこ 正安三(一三〇一)年~正平一四/延文四(一三五九)年)は後醍醐天皇の寵妃で、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。ウィキの「阿野廉子によれば、『実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている』。この時、『西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮に冊立された際』、十九『歳で上臈として入侍したが、間もなく禧子を押しのけて』、『後醍醐の寵愛を一身に集めるようになった』。後の元弘二/元徳四(一三三二)年には、前年の元弘の乱のために隠岐島に配流となった後醍醐に随行している。『建武の新政下においては』、『皇后並みの待遇を受け』、建武二(一三三五)年四月、『准三后の栄誉に与った。内政にも影響力が及んだと考えられ、恒良親王の立太子や、足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚・殺害にも関与したとされる』。『新政瓦解後は吉野遷幸にも同行して後醍醐天皇を助け、その亡き後は後村上天皇の生母として南朝の皇太后とな』った。

「陵廢」この「陵」は「軽んじる」で、「いい加減に扱われ、採り上げられることなく、果ては天皇の政(まつりごと)=意向が事実上、完全に廃されてしまうこと、を意味している。

「時節を待ちて、變を伺ふ」主語は後醍醐天皇。「變」は、倒幕に繋がるような、或はダイレクトにそれに向けた反乱である。

「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ、と諫言を奉る老臣もあり」「君德、是、天理に契(かな)はば、神明(しんめい)、何ぞ捨て給はん。内に政理を修め、外に恩澤を布(ほどこ)し給ふには如(しか)じ」が、倒幕を考えていることが見え見えの後醍醐天皇へに対し、「老臣」がそれを思い留まらせようとして暗に言った「諫言」。

「あはれ、思召立つ事もあれかし、天下、誰人(たれひと)か帝命に隨はざらんと思ひ奉る者もあり」そうした目先の安寧を願う老臣とは反対に、「ああっ! 倒幕を御自ら声を挙げ遊ばされて欲しいものだ! そうしたら、この天下にその有り難い帝の御命令に従い申し上げぬなどと思う不敬な輩(やから)がいるものか!」と思う者もいた。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 二

 

     二

 

 長者の榮華窮まり福分盡きて、一朝にして沒落したと云ふ物語は、琵琶でも説經でも何度と無く繰り返されたる、いと安々とした題目であるに拘らず、律儀なる昔の人は其空想のよりどころを求めて居た。因幡の湖山(こやま)の池は、砂が造った只の潟湖であるが、是あるが爲に湖山の長者は、昔あの岸の丘に住んだことになり、入日を招き返した天罰によつて、數千町の美田が悉く水の底になつた。飛彈の白川の中流には姫子松の林を取り繞らした大薙があった。大昔の歸雲城(かへりぐものしろ)は、その絶壁の下に埋まつて居ると傳へられる。其他津輕の十三潟、信州靑木の三湖の如き、金碧を以て莊嚴した七堂伽藍が、門前の町屋と共に覆沒し、時あつて大釣鐘の龍頭(りうづ)を、晴れたる浪の底に見ると云ふ類は、何れも自然の風光を力杖として、よろぼひ立つて居る忘却の翁である。荒凉たる田野の千町牟田のまん中へ、曾ては朝日長者の名國内に響き渡り、大野の滿能長者の花聟となつて、凡そ人生の歡喜の限を見極めたほどの大分限者をつれて來たのも、或は此水草の間に靜かに遊んで居た若干の白い鳥ではなかつたか。斯う云ふ風に考へて行くと、稻荷の三つの御山の頂上に近い平地に、最初は稻に似た或種の植物の繁茂する靈地があって、これへ往來する白い鳥の姿を、高い國からの御使いの如くに感じた人々が、やがては餅と鳥との昔話を拾ひ上げて、之を我家文(いへぶみ)の綾に織り込んだのでは無かつたかとも思はれる。

[やぶちゃん注:「因幡の湖山(こやま)の池」鳥取市の北部の海岸近くにある汽水湖の湖山池。ここ(グーグル・マップ・データ)。「池」と名の付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ。総面積六・九九平方キロメートル、周囲長十八キロメートル、最大水深は六・五メートル。ウィキの「湖山池」によれば、『広大な水田を有していた長者が、日没までに田植えが終わらなかったため、扇子で夕日を招き返して田植えを終えたが、一夜明けると』、『田は全て池に変わっていた、という「湖山長者」の伝説が知られる(似たような話が岐阜市のゆうべが池に伝わっている)。古くから開けた地域であり』、一部には『縄文時代から弥生時代にかけての遺跡』もある、とある。

「姫子松」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora の異名。

「大薙」山の一部が崩れて、薙刀で横に切り払ったようになっている箇所を指す。

「歸雲城(かへりぐものしろ)」現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)辺り(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、城の正確な位置は不明)にあったとされる、当地の有力武将内ヶ島氏の居城で、寛正年間(一四六一年~一四六六年)に内ヶ島為氏によって築城されたという。天正一三(一五八六)年十一月の天正地震で帰雲山の山崩れが起って埋没し、城内と城下を合わせ、推定五百人余りが死んだと伝える。参照したウィキの「帰雲城」によれば、『当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため』に『不在だったわずか』四『人と言われる』。『城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。また、内ケ島氏の領内に金山があったことから、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説がある』とある。

「津輕の十三潟」ここ(グーグル・マップ・データ)。ハクチョウの飛来地として知られる。ここには「津軽十三浦伝説」(「十三浦」は「十三湖」の古称)として「白髭水と夫婦梵鐘」が残る。不思議なことに、その伝承をちゃんと記したサイトが見当たらず、それを素材とした「ねぶた」の記事ばかりが目立つ。いくら探しても見当たらない。仕方がないので、個人ブログ「たちねぷたのやかた」の『あらためて「津軽十三浦伝説 白髭水と夫婦梵鐘」』をリンクさせておく。それによれば、その伝承は『古くから伝わる十三浦(とさうら:今の十三湖)にまつわる儚く悲しい恋伝説』で、『今から約250年ほど前の』話とする。『長勝寺と長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が京都から日本海まわりで津軽へ送られてき』たが、『十三湊へ入ったとき暴風雨になり、鐘は湖底に沈んでしまった』。『雄鐘はすぐみつか』ったものの、『雌鐘はいくら探してもでて』こない。『当時の人たちは』、『たびたび襲ってくる洪水や津波を白い波に乗ってやってくる老人に見立てて「白髭水」と呼んで恐れて』おり、人々はその雌鐘は『白髭水に連れ去られた』のだと言い伝え、『今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだ』という。また、こ『の伝説の一説には、十三湖に住む龍が鐘についている雌龍を我が物にしようと引きずりこんだという説もあ』るとする。「仕方がないので」などと失礼なことを言ったが(しかし、活字で正確に残しておかないと、伝承は都合のいいように変形・美化されてしまう。郷土史研究家はここで一踏ん張りして、最も古いものから是非、同伝承を電子化しておいて貰いたいものである)リンク先はその伝承をモチーフにした「ねぶた」の美しい写真が並ぶ。必見である。

「信州靑木の三湖」仁科三湖のこと。北から青木湖、小さな中綱湖(池)、木崎湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「安曇野のパワースポット癒しのスポット」の「安曇野に伝わる伝説、民話」で三つの湖に纏わる伝説が読める。その中の「中綱湖に伝わる伝説」に沈鐘伝承が含まれている。]

 

 豐後風土記には田野里(たのゝさと)の口碑の他に、また次のやうな話も採錄せられてある。豐國直(とよのくにのあたへ)の先祖菟名手(うなて)なる者、始めて此國に使して、豐前仲津郡中臣村に往到り、一夜の宿を借りたるに、次の日の曙にたちまち白き鳥の群あり、北より飛來つて此村に集まる。僕[やぶちゃん注:「しもべ」。]を遣りて看せしむるに其鳥化して餅と爲るとある。それが片時にして更に化して芋草千株となる。株葉冬も榮えたりとあって、南國の土民に用だつべき作物が、白鳥の神異に伴なはれて容易に見付かつたことは、成程重要なる語り草であった。併し其中間にほんの少しの間、一旦餅に爲つて居たと云ふ點に不思議がある。事に依ると此時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、若しくは餅は往々にして飛去ることありと云ふやうな考へが、何と無く挾まつて居たのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「豐國直(とよのくにのあたへ)」豊国の姓(かばね)のこと。

「菟名手(うなて)」古代伝承上の豪族で国前(くにさき)氏・豊国氏の祖とされる。景行天皇が九州遠征の途中,周防の娑麼(さば:山口県防府市か)で敵の煙を見つけた際、菟名手は、他の二名と情勢を探ったとする。後に、天皇から豊国(大分県と福岡県の一部)の支配権と豊国の氏を授けられたという。

「豐前仲津郡中臣村」不詳。福岡県(豊前国)にあった旧仲津郡は現在の行橋市の一部と京都郡みやこ町の大部分に当たる。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 私はまじめに右の如く思つて居るのである。近世の子守歌にも、緣があるなら飛んで來い牡丹餅などゝ、笑ひながらだが歌つて居た。手毬唄のしよんがえ婆さまにも、餅にこがれて逐つて[やぶちゃん注:「おつて」追って。]行つたと云ふやうな歌があつた。童話の鼠の淨土などにも、正直爺を團子が導いて隱里(かくれさと)へつれて行くとあつた。鎌倉期の初に成つたと云ふ塵袋の卷九には、餅の白い鳥に化した話を、豐後の玖珠郡の事件として載せている。古風土記を見て書いたらうと謂はれて居るが、果してどうであつたらうか。今有る豐後風土記とは、單に郡の名がちがうて居るのみならず、全體に於て記事が寧ろ後世の言ひ傳への方に近い。然し其中でも、何故に餅が飛去つて長者の運が傾いたかの説明だけは、少なくともあの時代の人の考へ方と見てよいと思ふ。卽ち餅を以て的とするなどは、唯の奢りの沙汰として神の憎しみを受けるのみで無い。餅は元來福の源である故に、これと共に福神が飛び去つたのだと謂つて居る。塵袋の著者の時代には、福引と云ふのは餅を二人で引合ふ事であった。恐らくは今でも若い人たちが戲れに煎餅をもつてするやうに、餅の兩端を把へて引合ひ捻合ひ、結局二つに割れたとき大きい方を得た者を勝とし、勝てば其年は福が多いなどゝ謂つたものだらう。

[やぶちゃん注:「緣があるなら飛んで來い牡丹餅」私は知らない。検索にも掛からない。

「手毬唄のしよんがえ婆さま」不詳。「しよんがえ」は「しょんがえ」で、通常は民謡で一節の終わりにつける囃子詞 。「しょんがい」「しょんがいな」とも使う。江戸初期から明治時代まで歌詞・曲調を変えて、唄われた。

「鼠の淨土」「おむすびころりん」の古形。ネズミに握り飯や餅などの食物をやった礼に、ネズミの国に招かれて宝物をもらう爺の話で、通常は例によって隣の爺が真似をして失敗する形を採る。

「塵袋」鎌倉中後期に成立した事典。全十一巻。著者未詳。文永~弘安年間(一二六四年~一二八八年)の成立。事物の起源を天象以下二十二項に分けて問答体で記したもの。

「豐後の玖珠郡」現在の大分県玖珠(くす)郡。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 餅をフクダと呼んだのは、燒けばふくれるからの名だらうと思ふが、しかも其昔の耳に快きをめでゝ、次第に之を福の物と考へるに至つたのも、中世以來の習はしであつた。それが又新たなる興味を刺戟して、こんなたわいも無い昔話を、ほゞ元の形で今日まで保存し得たのは、殊勝なる事であつた。常に史料の乏少を悲しむ前代生活の研究者たちは、此機會を輕んじてほならぬのである。

[やぶちゃん注:「餅をフクダと呼んだ」知らない。小学館の「日本国語大辞典」には「ふくだ(福田)」として「ふくだもち(福田餅)」の略とし、「福田餅」は「まるく作った餅。そなえ餅」とし、それは「ふくだみもち」の転じたものとする。この「ふくだみ」は「ふくだむ」で「まるくふくらんだようになる」の意とするから、柳田國男の謂いは一つの定説とは言えるようだ。]

御伽百物語卷之三 奈良饅頭

 

    奈良饅頭

 

Namaranjyuu

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 いにしへの都、奈良の京二條村に住みける林淨因(りんじやうゐん)は、もと、宋國(そうこく)の人なり。花洛(くわらく)建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師入宋ありける比(ころ)、此(この)林淨因に逢ひたまひけるに、淨因も龍山に歸依して膠漆(かうしつ)の交り、淺からず。元朝にいたりて、順宗皇帝至正元年に及び、龍山禪師、歸朝したまへり。是れ、本朝の人王(にんわう)九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年なり。林淨因も此和尚の德をしたひ、同じく龍山の伴侶となりて日本に來たり、今の南都二條村に住居しけりとなん。

[やぶちゃん注:「奈良の京二條村」現在の奈良県奈良市二条町附近か。平城京の北西外郭附近に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「林淨因」実在した渡来僧。浙江省寧波市奉化区黄賢村生まれで、北宋の名詩人林逋(没後に仁宗にから「和靖先生」の謚を贈られたことから「林和靖」とも呼ばれる)の七代目の末裔に当たる。また、以下に記され得通り、日本に饅頭を伝えた祖とされる。奈良県奈良市漢国町にある漢國(かんごう)神社の境内社の一つに、林(りん)神社があるが、ここは日本唯一の饅頭の神社で、ウィキの「漢國神社」によれば、貞和五(一三四九)年に『中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因が祀られている』『ことが名前の由来』で、昭和五三(一九七八)年には『菓祖神の田道間守』(たじまもり/たぢまもり:記紀に伝わる人物で、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」(橘の実とされる)を求めに常世国に派遣されたとする。現在は菓子の神・菓祖としても信仰されている)『を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める』。『林浄因の命日である』四月十九日には、『菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわれる』。『境内にはその他、巨石を伏せた饅頭塚もある』とある。

「建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師」龍山徳見(りゅうさんとくけん 弘安七(一二八四)年~延文三/正平一三(一三五八)年)は下総国出身の臨済僧。俗姓は千葉氏。諱は初め、「利見」であったが、後に「徳見」と称した。龍山は道号。諡号は真源大照禅師。参照したウィキの「龍山徳見」によれば、十三歳で鎌倉の『寿福寺の寂庵上昭に師事して出家し、その後円覚寺の一山一寧に参禅した』。鎌倉末期の二十二歳(正安四・乾元元(一三〇五)年)の時、『中国(元)に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂などに参禅している。また黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間元に滞在し』、正平四/貞和五(一三四九)年に帰国、『足利尊氏の弟足利直義の招きを受けて京都建仁寺の住持となり、その後は天竜寺・南禅寺にも住した』とある。

「入宋ありける比(ころ)」「元朝にいたりて」宋(南宋)は一二七九年に元に亡ぼされており、龍山が渡る中したのは正安四・乾元元(一三〇五)年であるから、これらの謂いはおかしい。但し、龍山が教えを受けた当時の渡来僧は宋からの亡命者が多かった事実はある。

「膠漆(かうしつ)の交り」「膠漆之交」。極めて親密で堅い交わりのこと。 膠は「にかわ」、漆は「うるし」で、塗り固められると離れないことから。

「順宗皇帝至正元年」至正は元の順帝(恵宗。この「順宗」は誤り。順宗は世祖クビライ時代の皇太子チンキムの次男ダルマバラ(一二六四年~一二九二年)の廟号で、彼は早世し実際の皇帝にはなっていない)トゴン・テムルの治世で用いられた元号(一三四一年~一三七〇年であるが、一三六八年に元が大都(現在の北京)を追われた後も「北元」の元号として使用された)。しかし、「至正元年」では一三四一年で、龍山の帰国は一三四九年であり、八年も開きがあり、おかしい

「九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年」「光明院」は光明天皇(在位:一三三六年~一三四八年:彼の即位によって北朝が成立したので、北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇百二十五代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第二代とされている)。現行では「九十七代」天皇は南朝の第二代天皇後村上天皇と(在位:一三三九年~一三六八年)される。「暦應四年」暦応は南北朝時代に北朝方で使用された元号で、同四年は一三四一年だから、「至正元年」とは一致する。]

 

 昔は此村を奈良の町としける故、ならの名産といふなる、晒(さらし)・法論味噌(ほらみそ)のたぐひも、猶、こゝにありけるとぞ。

[やぶちゃん注:「晒(さらし)」奈良晒(ならざらし)。奈良地方で産出した麻を用いた、良質の高級麻織物、晒し布。但し、これが奈良を代表する名産品となったのは、江戸初期の慶長年間(一五九六年~一六一五年)以来のことで、この話柄とは整合性がないように思われる。

「法論味噌(ほらみそ)」焼き味噌に胡麻・麻の実・胡桃・山椒などを切り混ぜて乾燥した舐め味噌。名称は南都元興寺の僧侶が法論の際に用いたからという。]

 

 されば、淨因も、『此里に足を止めばや』とおもふ心より、『先づ、家業といふ物なくてはいかゞ』と思ひめぐらしけるに、古(いにしへ)、諸葛孔明が造りひろめしといふなる「まんぢう」を始めて造りひろめけるより、我が朝の人、あまねく、もてはやらかし、吉事(きちじ)にも是れを以てし、凶事にもまた、用ゆる事にぞ、ありける。然れども、此家(このいへ)、林の字をいはず、鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る事は、そのかみ、淨因が遠祖は詩人にして林和靖(りんわせい)なりとかや。詩人の後裔たれども、『詩に鳴(な)るにあらず、食類に名を鳴るは、恥を先祖にあたふるなるべし』とおもふより、鹽瀨を以て氏(うぢ)とすとかや。

[やぶちゃん注:「鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る」しかし、現在も続く菓子老舗「塩瀬総本家」公式サイトのこちらによれば(現在の本店は東京都中央区明石にある)、『奈良・林家と京都・林家に別れて営業』したが、応仁元(一四六七)年の応仁の乱で京都は焼け野原となり、『戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改め』たとある。その後、再び、『京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれ』、第八代『室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領し』たとあるから、「林」の名を隠していた事実はない

「鳴る」名を知られる。評判となる。]

 

 扨、この淨因、奈良にありて作業(なりはひ)を勤めし内、いつしか病身となりて、虛火(きよくわ)[やぶちゃん注:漢方で強い陰気や房事過多によって体が衰弱し、そこから生じた焦燥感や発熱の症状を指す。]を煩ひ、年ごろを經て、眩暈(げんうん)の心、はなはだ、おこりもてゆきつゝ、心地、死ぬべく覺えしかば、常に龍山師の惠(めぐみ)をおもひ、心にもつぱら觀じ、念願すらく、

「我、此たびの病を治(ぢ)し、命算を延べたまらはゞ、吾が本朝において儲(まふ)けたる子の内、一人(いちにん)を弟子に參らすべし。」

など、佛にむかひ、かきくどくやうに祈り歎く事、ひたすらなりしに、ある日、淨因が寢たる臥室(ねや)の北にあたる壁のうしろにあたりて、大勢、人のよりて、

「ひた。」

と掘切(ほりき)りつ、毀(こぼ)ちとる音、しける程に、看病のものどもに言ひて窺はしむるに、更に人ある事なし。

 如此(きあくのごとく)する事、七日(なぬか)にいたりて、壁、たちまち、透きとをり、明(あきら)かなる事、星のごとく見ゆるに驚き、また、看病のものに指さして見するに、是れも人[やぶちゃん注:浄因以外の人々。]の目に見ゆる事、なし。

 かくて一日を經て、大きさ盤(ばん)の如し。

 淨因、みづから立ちて窺ひ見るに、壁の北は妻の化粧しける所にまふけたる一間なるに、思ひの外、廣き野となりて、草など、ゑもいはず、生ひ茂りたる中に、農民とおぼしきもの拾人ばかり、手々(てんで)に鋤鍬を取りて、穴のまへに立てり。

 淨因、不思議さ、いふばかりなくて、此ものどもに問へば、みな跪づき、答へて、いふやう、

「是れは、花洛建仁寺の龍山禪師御所分の地として、我々に命じ、こゝをひらかせ給ふなり。鹽瀨淨因の重病を受け給ひつるを聞(きこ)し召して、我々に仰せて、此みちをひらかせ、追付(おつつ)け、この家に渡らせ給ふなり。」

と、いひもはてぬに、さき手の侍、五、六騎、馬鞍、さはやかに出でたち、列を備へて、こなたさまにあゆませ來たれり。

 その次は、みな、一山(いつさん)の僧と見えし法師ども、數百人、兒(ちご)・喝食(かつしき)[やぶちゃん注:禅宗で食事をする際、食事の種別や進め方を僧らに告げながら給仕する役に当たる未得度の修業者。]、花をかざり、圍繞(ゐねう)しける中に、龍山和尚は上輿(あげこし)に座し給ふが、貴(たつと)く有り難く覺えけるほどに、少し、しりぞきて、首をかたぶけ、禮し居(ゐ)たるに、穴を去る事、二、三間[やぶちゃん注:三・七~五・四五メートル。]をへだてゝ、輿をかきすえさせ、龍山のたまひしは、

「公(きみ)が此たびの病、すでに定業(ぢやうごう)なり。殘れる命なしといへども、我れ、公がために、冥官にいたり、再三に歎き乞ひて、十二年の命を、申し請けたり。けふよりして、病を愁ひ給ひそ。」

と宣ふと思ふ内に、壁、なれあひて、もとの如くなりぬ。

[やぶちゃん注:「壁、なれあひて、もとの如くなりぬ」壁に開いていた大きな穴が、生き物のように左右前後から寄り添うようになって、元の壁のように戻った。]

 

 さて、かくありけるより、日にそひて[やぶちゃん注:日を経るに従って。日々、みるみるうちによくなって。]、本復(ほんふく)しける程に、やがて三人ありける子の内、一人(にん)を具して都に登り、龍山の弟子となしぬ。

 則ち、いまの建仁寺の内、兩足院といへるの開祖、無等以倫(むとういりん)なりとかや。

 誠に、龍山の聖(せい)、はるかに幽冥に通じけん。ありがたき僧なりけり。

[やぶちゃん注:「兩足院」京都府京都市東山区小松に現存。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトに、龍山から嗣法した無等以倫の名も見える。また、サイト内に、永徳二(一三八二)年に、無等以倫が『龍山徳見の法嗣知足院を守塔』し、『黄龍派の派祖・黄龍慧南から栄西を経て龍山徳見に至る十師』の『語録の集成である「黄龍十世録」二巻を版行』し、八十一で示寂とある。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 一題十句、十句集 / 明治二十九年~了

 

     一題十句、十句集

 

 二十八年の居士が一年の三分の二を東京以外の地に送ったに反し、二十九年の居士は全く東京を離れることが出来なかった。「寒山落木」巻頭の自記に「五月雨ノ頃板橋、赤羽ニ遊ビ、一宿シテ歸ル」「中山寺(なかやまでら)ニ詣リ船橋ニ一宿シテ歸ル」とあるのが、僅に一歩東京を離れた記録に過ぎない。夏になって知友が相次いで各地に遊ぶに当り、居士はあるいは句を以てこれを送り、あるいは曾遊(そうゆう)[やぶちゃん注:以前に訪れたことのあること。]を追懐し、あるいは空想を馳せたりして、得たところの句を「松蘿玉液」に掲げた。殊に碧梧桐氏が榛名に遊ぶと聞いては、十九年夏の記憶を喚び起し、「胸中一種の感慨に打たれて鳴咽に堪へざらんと」した。「草むらや露あたゝかに溫泉(ゆ)の流れ」「高樓やわれを取り卷く秋の山」「山駕(やまかご)や榛名上れば草の花」などの句は、十九年に成らずしてこの時に成ったのである。

 一題十句ということがはじまったのは、この夏の初からであった。この年居士は蕪村の『新花摘(しんはなつみ)』を読んで、同じの句が同じ日のところに七、八句も記されている、一句を得ても珍重するに足ると思われるものを、蕪村が無造作に七、八句も作っているということにひどく驚歎した。これに刺激されて先ず牡丹十句を作り、「松蘿玉液」に掲げたのを手はじめに、居士も周囲の人も頻に試みるようになった。一題十句は後々まで一種の風をなすに至ったが、その起りは居士が『新花摘』を読んで著手(ちゃくしゅ)したことにあるのである。

[やぶちゃん注:「新花摘」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の俳書。月渓画・跋。没後十四年後の寛政九(一七九七)年刊。原型は安永六(一七七七)年の夏に其角の「花摘」に倣って、恐らくは亡き母の追善のため、一日十句を創る夏行(げぎょう)を思い立ち、十六日間百二十八句まで実行したが、後は所労のために七句を追加しただけで中絶したもので、その後、これに京都定住以前の回想談、則ち、其角の「五元集」に関する談話や骨董論、及び、五つの狐狸怪奇談、其角の手紙の話等を加えて一応の完成を見た。蕪村没後の翌天明四年に、冊子であった自筆草稿を巻子本にする際、月渓の挿絵と跋文が加えられ、その十三年後に原本が模刻出版された。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。これは私の愛読書でもある。]

 

 居士の身辺にはこの夏以来、毎月十人内外の俳句会が催されつつあった。一題十句もこの人々によって試みられたのであるが、在京俳人を中心に回覧の十句集なるものがはじまったのも、この一題十句に関連しているように思う。一題十句は一箇の季題によって十旬を作り、十句集の方は寺とか、女とか、飯とかいう題材によって十句を作るので、いささかその方法を異にするけれども、それは殊更に方法を変えたものとも見られる。二十九年における十句集は、子規庵毎月の小集と相俟って、他日の素地を成すべき重要な意義を有するものであった。

 この秋、紅緑氏は『河北新報』に入るため仙台に去り、露月氏は医者の前期試験に通過して郷里に帰った。紅緑氏の時には送別のためにうつした十二人の写真が通っており、露月氏の時には目黒不動境内の福嶋屋という茶亭(さてい)で送別句会が催された。「寒山落木」の巻首に「秋、諸友ニ伴フテ目黑ニ遊ビ栗飯ヲ喰ヒテ歸ル。快甚(はなはだよろし)」と特記してあるところを見ると、この目黒行は二十九年における愉快な事柄だったのであろう。「花芒(はなすすき)品川の人家隱見す」「芒わけて甘藷先生の墓を得たり」などという句はこの時の所見であった。

[やぶちゃん注:「甘藷先生」江戸中期の幕臣・御家人・書物奉行で蘭学者であった青木昆陽(元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)。サツマイモの普及を図ったことから、かく呼ばれる。彼の墓は東京都目黒区下目黒の瀧泉寺(通称「目黒不動尊」)の飛地境内である目黒不動墓地内にある。珍しく私も大学時分に参ったことがある。私は中目黒に下宿していた。]

 

 紅録、露月両氏の東京を去る一方には、阪本四方太(しほうだ)、大谷繞石(おおたにじょうせき)というような人たちが、仙台の高等学校を出て、帝国大学に入るべく上京して来た。居士の身辺は必ずしも寂寞(せきばく)ではなかった。

[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は鳥取県出身の俳人。本名は「よもた」と読む。東京帝大助手を経、助教授兼司書官ともなった。正岡子規の門人となり、『ホトトギス』で活躍した。

「大谷繞石」(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)は俳人で教育者。京都の三高在学中に同窓の河東碧梧桐・高浜虚子とともに句作を志し、東京帝大在学中に正岡子規に師事した。金沢の四高教授を経、大正一三(一九二四)年に広島高等学校校長となった。この間、『ホトトギス』『日本』などに作品を発表した。]

 

 十月末から四回にわたって居士は「獺祭書屋俳話正誤」を『日本』に掲げた。前年説いたところの不備を補い、誤謬を正したので、最も多くの言を資したのは嵐雪に関する条と、古人調(こじんちょう)に関する条とである。居士は宗因調以下伊丹(いたみ)調に至る古人の調に擬したものは、悉く削らなければならぬといっている。「余が宗因以下諸俳家の風調を模擬せし當時に在ては、善く其人の風調を究めず、且つ自己の作句は稺氣(ちき)[やぶちゃん注:幼稚さ。若気(わかげ)の至り。]ありて眞の趣味なる者を解せず。既に其人の句を究めず、自己は趣味を解せず、是れ余が大膽にも何調々々と題して容易に數十句を得たる所以なり。今にして稍〻古人の面目を辨別し、自己の技倆の幼稚なるを悟るに及んでは、一句の古人に近き者を求むるも得べからず。況んや幾多の古名家を取り來り、十二句の俳句を以て其人の句調、好尚を現さんとするをや。この何調々々なる者は盡く句を成さず。余は此事を披(ひら)いて此處に到る每に必ず卷を覆ふ、其眼に觸るゝを厭ふなり」というのである。この事は『獺祭書屋俳話』の増補を試みた二十七年中には、まだそれほどに感じなかったものであろう。その後における居士の進境は、眼に触るることをすら厭い、悉く削らんと欲するに至ったのであった。

[やぶちゃん注:「伊丹(いたみ)調」元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の俳諧の一派と、その俳風。伊丹の池田宗旦を祖とする。談林派の流れを汲み、口語・俗語を駆使し、新奇な着想による表現が特色で、上島鬼貫(うえじまおにつら)を中心に森本蟻道・上島才人・鹿島後村・森本百丸らが集まったが、鬼貫の没後、衰えた。]

 

 「松蘿玉液」は十二月三十日に至って終った。翌日「松蘿玉液を祭る」の一文を掲げ、「詩百篇君去つて歳(とし)行かんとす」の右を以てこれを結んだ。十二月以降の「松蘿玉液」は、京都に関する追憶、愚庵十二勝の俳句、菓物の事、病中の事、柚味噌(ゆみそ)の事、開花楼に平家琵琶を聞く事など、悉く居士に親しい材料を以て充された観がある。「碧梧桐の吾をいたはる湯婆(たんぽかな」「小夜時雨(さよしぐれ)上野を虛子の來つゝあらん」などの句は病中の吟であり、「去年と言ひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。わが命二子の手に繫(かか)りて存するものゝ如し。わが病める時二子傍に在れば苦も苦しからず、死も亦賴むところあり」とも記されている。「行く年を母すこやかに吾(われ)病めり」というのは二十九年末における感懐の一であるが、病状は十二月に入ってややおこたり[やぶちゃん注:「怠り」。「快方に向かい」の意。]、十二月三十日には仮に病褥(びょうじゅく)を出るに至ったのである。

[やぶちゃん注:「愚庵十二勝」とは、天田愚庵(既出既注)がこの年、京都清水坂の自身の庵の庭に与えた名数「帰雲巌」「霊石洞」「梅花谿」「紅杏林」「清風関」「碧梧井」「棗子逕」「采菊籬」「錦楓崖」「嘯月壇」「爛柯石」「古松塢」の十二景のこと。愚庵はこの十二勝の漢詩(二年後には和歌を追加)を作って新聞『日本』に掲載し、天下に唱和を求めた。]

 

譚海 卷之二 河州源氏の瀧狂人を治する事

 

河州源氏の瀧狂人を治する事

○河内國かたのの南廿町ばかりにくらぢと云所に、源氏の瀧といふあり。山より五町ばかりに小松多くありて、駿河三保の松原に露たがはずとぞ。瀧の上に不動堂あり、その麓に瀧本坊とてふるき寺あり、常には門さして物靜かなり。その瀧長さ五丈程あり、扨(さて)此瀧に狂人をうたすれば平愈するとて、常にさわがしく、奇景の地却(かへつ)て殺風景となれり。

[やぶちゃん注:これは現在の大阪府交野(かたの)市倉治(グーグル・マップ・データ))にある「源氏の瀧」のこと。名は交野の里の悲話「源氏姫」に由る。同伝承は交野市」公式サイトに詳しい。同瀧は古くは修験場でもあり、今も不動尊がある

「廿町」二キロメートル強。

「山より」「山寄り」か。

「五町」約五百四十五メートル。

「瀧本坊」現存しないが、個人サイトと思しい星のまち交野のページ(ウォーキング報告で、地図と画像が有って非常に分かり易い。必見)には、「河内名所図会」にある同所の絵図を載せ、『小堂と庫裡があってそれを生垣で取り囲み、瀧本坊と記している』とあり、地図(グーグル・マップ・データクロース・アッで見ると、現在の「源氏の滝不動尊」(不動像は滝周辺にもある)の祀られている位置と一致することが判るから、かつてここにあった寺と読める。本文から見ると、既に本記事の頃(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)には、既に住持も堂守もいなかったらしいことが判る。

「五丈」約十五メートル。但し、ネットで調べると、現行の落差は十八メートルとする。ヒロ兄(ひろにい)氏のブログ「気まぐれファミリー弾丸旅物語」の源氏の滝【アクセス】~源氏滝の清涼~【心霊スポット】が、アプローチ認識や画像的にもよいので必見。なお、同ブログ記事は妖しい心霊記事ではないので、ご安心あれ

「此瀧に狂人をうたすれば平愈するとて、常にさわがしく、奇景の地却(かへつ)て殺風景となれり」この謂いには津村の批判的視点が見え、当時、既に修験道の道場としても流行らなくなり、こうした手法で人寄せをしていたことが強く疑われる。]

 

甲子夜話卷之四 28 星野久務が事

 

4-28 星野久務が事

星野久務と云し坊主衆あり。質朴にして、常におかしきこと言ふ男なりき。その家は、御入國前よりの者なりと聞ゆゑ、予、或時、久務に久しき家なり迚賞しければ、久務手をふりて、是は御沙汰なしと云ふ。何かにと言へば、御推量も下され候へ。今雁間の御大名は、皆其始めは小身の御人達なり。然を今は城主、又は何萬石など御昇進にて、歷々の御勤なり。僕が家は、神祖の御始より奉仕候へども、今に坊主にて居候。古き次第知れ候ば、外聞宜しからずと云たり。予も一笑して止ぬ。後又人より聞に、參遠の頃より、子孫引續たる六尺多くありとなり。是亦憐れむべし。

■やぶちゃんの呟き

「星野久務」不詳。茶坊主なので「ほしのきゅうむ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「坊主衆」茶坊主衆。将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕及び来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに、芥川龍之介の養家芥川家は、この末裔であった。

「御入國前よりの者」神祖家康公が江戸の入府なされる以前からお仕えしていた者。

「聞ゆゑ」「きく故」。

「迚」「とて」。

「是は御沙汰なし」この場合の「沙汰」は「話題として取り上げること・噂にすること」の意で、「いえいえ! このことは少しもどなたもお取り上げになって語られることは、ないので御座います」の意。

「何かに」「いかに」。「どうしてじゃ?」。

「雁間」「かりのま」。江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ伺候席(しこうせき:控の間。)の一つで、『幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。老中や所司代の世子も』、『この席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名とは異なり』、『毎日』、『登城するため、幕閣の目に留まり』易く、『役職に就く機会が多かった』とある(ウィキの「伺候席」に拠る)。

「小身」「せうしん(しょうしん)」。身分が低いこと。俸禄の少ない下級武士。

「僕」古式に「やつがれ」と訓じたい。相手に対して遜った気持ちで用いられた謙遜の一人称。

「知れ候ば」「しれさふらへば」。知ってしまっておりますので。

「外聞宜しからず」ここはやや特殊な用法である。星野家が歴々の大名衆の祖のかつての有様を知っている故に、久務のことを悪しく言う者は恐らくあまりいない代わりに、何か家祖の情けない話を存じているかも知れぬと疑心暗鬼になり、煙たがる御仁が多く、結果的に彼の評判は悪くはないが、宜しくもないと言うのであろう。

「止ぬ」「やみぬ」。ここより後は一般の伝聞話で星野個人の話ではない

「參遠の頃より」遠江より江戸へ家康公とともに江戸へ従って参った頃から。

「六尺」「ろくしやく」は「陸尺」とも書き、武家に於いて、駕籠舁(か)き・掃除夫・賄(まかな)い方などの雑役に従った人夫の総称。江戸城内に於いても「六尺」の名で呼ばれ、奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など、実にその総勢は数百人に及び、彼らに支給するために天領から徴集した米を特に「六尺給米」と呼んだ(以上は平凡社「マイペディア」に拠った)。

2018/03/29

栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)

 

Moramora

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの栗本丹洲自筆の軸装一点画「鳥獣魚写生図 斑車魚」の画像をトリミングしたものである。腹鰭の先が切れているのは原画のママ。]

 

□翻刻1(原画のママ。但し、冒頭部(右上方)のように下方に書かれていても、改行した箇所もある。約物の「ドモ」相当の「ト」と「モ」の合字は正字化した。但し、「ブリブリ」の後半の踊り字「〱」は正字化した。《 》は私の位置附記、【 】は二行割注、■は判読不能字)

《左下添付付箋標題》

斑車魚【一種大者

 沖マンザイ【佐州■■】

 

《右上方》

沖マンザイ

 佐渡洋中ノ産 其土ノ漁人云

 マンボウノ類乄此ハ別一種

 ト云ルヨシ

 

《右下方》

口ヨリ尾端至ル壹丈 此内尾ノ幅壹尺五寸

胴中徑リ五尺

脊ヒレ長三尺五寸横ノ徑中程テ壹尺二寸余

下ノ鬐長サ三尺五寸横中程テ壹尺二寸余

   口開キタル処下唇ヨリ上唇マテ徑五寸五分

          眼ノ徑四寸

 

《上部中央から左へ》

寛政九年年七月九日

佐州姫津村ノ沖

漁人圖ノ如キ物浮死シ

タルヲ見ツケ綱ヲ付引

來ル同所浦方ヨリ其地

ノ奉行朝比奈氏ノ役所

注進アルニヨリ相川御役所

差出スベキヨシ申渡サル

海府番所ト云処迠海上ヲ

牽來レトモ御役所ヘハ陸𢌞シ

ユヘ人歩弐三十人カヽリテモ陸

成難ヨリ海府ノ濵辺

テ皮ヲ剥キ肉ハ漁人等

   肝ヨリ

切取リ油ヲ絞ルヨシ油凡壱石

四五升モ取レタルヨシ浦方テハ

甚益アル物ナリト云

全体鮫膚テ肉ハアハビノ如ク白ク

腸ハ至テ少シ血モ少シ肉ヲ煮テ見レハ

璚脂(トコロテン[やぶちゃん注:左ルビ。])ノ如クブリブリスルモノ土人食ヒ

試ミタルニ味ヒ淡ク是亦璚脂ノ如クナリ

ト云ヘリ薩州産ノシキリト云ル魚ハマン

ボウ同物ナラン歟其口中ヨリ小判魚

出ルヿアルヨシ朝比奈氏モ其心得

若出ルヿアリヤトト尋ネラルヽニミヘズナン

荅フ

 

□翻刻2(句読点を打ち、概ね、カタカナをひらがなに直し、約物は正字化、記号等を加えて一連の記載として訓読(「如し」は漢文では助動詞であるので平仮名とした)整序して、一部を連結して示した。追記添え字(『肝ヨリ』の部分)は本文へ組み入れた。読み易さを考え、一部に送り仮名や読みを推定で附し、更に〔 〕で助詞を補助した)

《左下添付付箋標題》

「斑車魚(はんしやぎよ)」【一種〔にして〕大なる者〔なり〕。】

 「沖マンザイ」【佐州■■。】

 

《右上方》

「沖マンザイ」

 佐渡〔の〕洋中の産。其の土(ど)の漁人、云はく、「マンボウの類ひにして、此れは別〔の〕一種の物。」と云へるよし。

 

《右下方》

口より尾〔の〕端に至る、壹丈。此の内、尾の幅、壹尺五寸。

胴の中徑(なかわた)り、五尺。

脊びれ、長さ、三尺五寸。横の徑り、中程にて、壹尺二寸余(よ)。

下の鬐(ひれ)、長さ、三尺五寸。横、中程にて、壹尺二寸余。

口、開(ひら)きたる処、下唇(したくちびる)より上唇まで、徑り、五寸五分。

眼の徑り、四寸。

 

《上部中央から左へ》

寛政九年巳年七月九日、佐州姫津村の沖にて、漁人、圖のごとき物、浮き死(じ)にしたるを見つけ、綱を付け引き來たる。同所、浦方より、其の地の奉行朝比奈氏の役所に注進あるにより、相川御役所に差し出だすべきよし、申し渡さる。海府番所と云ふ処まで、海上を牽き來れども、御役所へは、陸𢌞(りくまは)しゆへ、人歩(にんぷ)、弐、三十人、かかりても、陸上げ成(な)り難(がた)きにより、海府の濵辺にて、皮を剥ぎ、肉は漁人等(ら)、切り取り、肝(きも)より、油を絞るよし。油、凡(およ)そ壱石(いつこく)〔と〕、四、五升も取れたるよし。浦方にては、甚だ益ある物なり、と云ふ。

全体、鮫膚にて、肉は、「アハビ」のごとく白く、腸(はらわた)は至つて少なし。血も少なし。肉を煮て見れば、「璚脂(トコロテン)」のごとく、ブリブリするもの、土人、食ひ試みたるに、味はひ、淡く、是れ亦、璚脂(トコロテン)のごとくなり、と云へり。

薩州産の「シキリ」と云へる魚は、「マンボウ」と同物ならんか。

其の口中(こうちゆう)より、小判魚(こばんうを)、出づることあるよし、朝比奈氏も其の心得にて、

「若(も)し、出づることありや。」

と尋ねらるるに、

「みへず。」

となん、荅(こた)ふ〔となり〕。

 

[やぶちゃん注:佐渡の漁師は本個体を「マンボウの類ひにして、此れは別〔の〕一種の物」であると言っているが、つい最近まで、本邦産のマンボウは概ね、条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属以下はマンボウ Mola mola とされていたから、それで挙げておく。まず、二〇一〇年にマンボウ属ウシマンボウ Mola alexandrini が別種として提唱されているが、これは東日本の太平洋岸で捕獲される全長三メートル前後の大型個体を中心とした集団から遺伝子解析によって区別されて別種とされたものであり、本個体が揚がった佐渡ではウシマンボウ Mola alexandrini を比定候補とするには無理がある。加えて、形態学的には、ウシマンボウはマンボウと比較すると、頭部上方(人の顔にシミュラクラすると「おでこ」の位置)が有意に腫れたように突き出ること・舵鰭(かじびれ:マンボウの体の後端にある尾鰭のような鰭。実はマンボウには尾鰭がなく、この背鰭と臀鰭の要素が組み合わさって出来た特異な鰭が代わりにあって、これで左右に舵を切る。但し、舵機能としては極めて性能が低い)の縁辺部がマンボウのように波型の形状を持たず、つるんとしていること・舵鰭の軟条数がマンボウより多いこと・鱗がマンボウは円錐形でその先端部分が棘状を呈するのに対して、ウシマンボウは長方形の浅い出っ張りでしかない点で区別されるのであるが、下線部の二点が、図のマンボウとまったく一致しないので、棲息域以外の点でも本種はウシマンボウではないと言ってよい。ところが、近年、世界中のマンボウ属の標本百二十二頭のミトコンドリアDNAD-loop領域の分子系統解析から、マンボウ属は少なくとも三種(group A/B/C)に分かれるという解析結果が得られており、日本近海で主に見られるものはgroup BMola sp. B)に含まれ、日本近海で主に見られるgroup Bの形態はMola molaと一致するとされる。しかし、一方で、これらの分子系統解析の結果と、用いられた標本の形態比較が並行して行われておらず、二〇〇九年現在でも group B に対応する学名は不明なままであり、更なる研究や比較検討が必要とされている。また、二〇一〇年には Mola sp. B の標準和名を「マンボウ」とすることが提唱されたと、ウィキの「マンボウ」にはあった。しかし正直、Mola mola(ギリシャ語の「碾き臼」(mylos)由来)が Mola sp. B という無風流な名となるのは極めて悲しい気がするモラ・モラ・フリークの私であった以下、ウィキより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『最大全長三百三十三センチメートル。体重二・三トン。現在生息している世界最大級の硬骨魚のひとつである。ただし、後述のとおり、大型の個体はウシマンボウである可能性がある』。『体は側面から見ると円盤型、正面から見ると紡錘形をしている。背びれと尻びれは長く発達し、体の後部から上下に突き出しているが、多くの魚が持つ尾びれと腹びれは持たない。体の後端にある尾びれのような部分は、背びれと尻びれの一部が変形したもので、舵びれあるいは橋尾とも呼ばれる。泳ぐときは背びれと尻びれの動きを同調させて羽ばたくように対称に動かすことで推進力を生み、舵びれあるいは橋尾で舵をとる』。『フグ目に属し、同目に特徴的な丸い目、小さな口、鳥のくちばしのような板状の歯、小さな穴状のエラ穴を持つ。腹びれと肋骨を持たないのも同目の特徴である』。『皮膚は厚く粘液で覆われるとともに、おびただしい量の寄生虫が付着している。なお、皮膚は非常に弱く、飼育下では水槽壁面への衝突などでも』、傷付きやすいとされる。『岸辺や近海に生息するフグが外洋に進出して適応進化したものであり、全世界の熱帯・温帯の海に広く分布する。外洋の表層で浮遊生活をしていると考えられてきたが』、実際には、『生息の場は深海にまで及んでおり、海上で見せる姿は生態の一部にすぎないことがわかってきた。発信機をつけた追跡調査で、生息水深を一定させず、表層から水深八百メートル程度までの間を往復していることが明らかにされている。二十五%程度の時間を表層で過ごす個体がいる一方、別の個体は水深二百メートル以深の深海にいる時間が長かった。水温の変化に影響を受けている可能性が考えられているが、外洋に生息する魚だけに生態はまだ謎が多く、詳しい調査が待たれる』。『クラゲや動物プランクトンを食べるということは知られているが、胃内容物からは深海性のイカやエビなどの残骸も発見されている。これまで海中を受動的に漂っているだけと考えられることが多かったが、これらの餌を捕食するにはある程度の遊泳力が必要となる』が、『音響遠隔測定による調査で、海流に逆らって移動し得るだけの遊泳力を持つことが』確認されているという。『時折』、『海面にからだを横たえた姿が観察されることがあり、丸い体が浮かんでいる様が太陽のようであることから sunfish という英名がついた。この行動は、小型の魚やカモメなどの海鳥に寄生虫を取ってもらうため、深海に潜ることによって冷えた体を暖めるため、あるいは日光浴による殺菌が目的ではないかと考えられている。マンボウは勢いをつけて海面からジャンプすることもあり、これも寄生虫を振り落とすためである可能性がある』とされる。『メスが一度に産む卵の数は三億個に達するともいわれ、最も多く卵を産む脊椎動物とされる。卵は親に保護されることもなく海中を浮遊しながら発生するため、ほとんどが他の動物に食べられてしまい、成長できるのはごくわずかである。孵化した稚魚は全身にとげがあり、成魚とは似つかない金平糖のような姿をしている。一時的にとげが長くなりハリセンボンのようにもなるが、成長するにつれとげは短くなり、独特の姿に変わってゆく』。『また、全長四十センチメートル程度の若い個体が群れを作ることも報告されている』。『刺し網・流し網・トロール漁などによる混獲により』、『生息数が減少している。特にアイルランドやポルトガルでは網にかかる個体の減少が著しい』。『大きな体に愛嬌のある風貌で』『人気が高い。水族館での飼育は一般的に困難であるが、日本では海遊館・鴨川シーワールド・名古屋港水族館などいくつかの水族館で飼育展示が行われている。飼育が難しい主な理由は泳ぎが下手なため』、『自ら水槽の壁に体をぶつけて弱ってしまうこと、寄生虫が多いことなどである。餌は、水面に顔を出したときにエビのミンチなどを直接口に入れてやる方式がよい結果を残しており、さらに水槽内にビニールやネットの壁をめぐらせてマンボウを守るなどの対策が取られるようになった。ただし、飼育に適した小型の個体は手で触るだけで手の跡がそのまま付くほど皮膚が弱く、飼育が難しい事は変わらない。また飼育下で大きく成長した個体は施設に限界があるため、標識をつけて大洋に再び放される事が多い。国内での飼育記録としてはマリンピア松島水族館で飼育されていた「ユーユー」が千三百七十九日の記録を残している』とある。私は江ノ島水族館の飼育個体を遠い昔に見たが、その表情は孤独で淋しそうだった。なお、栗本丹洲にはマンボウを考証した「翻車考」(文政八(一八二五)年に書かれた自筆本)がある。近い将来、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のそれも電子化したいと考えているのであるが、漢文で訓読注するとなるとかなりの難物の大物にはなると思う。でも、やりたい。

「斑車魚(はんしやぎよ)」丹洲はその「翻車考」などで、中国本草書等に出る「翻(飜)車魚」(現代中国語でもマンボウをこう書く)をマンボウに比定同定しているのであるが、その「翻車考」の冒頭の考証部の最後の部分で、実にこの佐渡のマンボウを採り上げて語った中に、『全身堅硬如鯊、脊有斑文、此卽萬寶一種、大而灰白、而稱澳萬歳』(下線は私)と出るのである。「翻(飜)車魚」の「翻車」(ホンシャ)とは「龍骨車」とも呼び、中国の代表的な揚水具の一つで、細長い箱に数珠のように連結された多数の木の方板を嵌め込み、箱の上部の輪軸に結合させて人力で輪軸を回転させ、揚水するものである。水車を平たく潰したような形状になり、それが、本邦では水車と同義的になったと考えれば、マンボウの形をそれに模したものとも言えようが、どうもそんなに似ているとは私には思われないし、丹洲も「翻(飜)車魚」には今一つ、しっくりこなかったではなかったか? 寧ろ、同じ音なら「ハンシャギョ」で「斑」紋を有した「車」の車輪のように丸々ずんぐりして大きな「魚」で、「斑車魚」としたのではあるまいか?

「沖マンザイ」「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「マンボウ」の「由来・語源」の項には、「まんぼう」の「まん」は「丸い」、「ぼう」は「魚」を表わすとあり、だから『「円坊鮫」の訛』りともし、更に形状が『方形であるため、「萬方」の意味』とあった。ここで「萬」から予祝風俗としてのゲン担ぎの「萬歳」にスライドしたと考えても、私は何らおかしくないと思う。マンボウの動きの如何にもな鈍さや剽軽な顔つきは、春を呼ぶ万歳の芸人を連想させもする。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」では他に、富山県氷見市の「クイサメ」(棒杭の鮫か)、東北地方の「ウキキ(浮木魚)」「ウキギ(浮木魚)」の他、キナンボウ」「マンブ」「クイザメ」「ユキナメ」「バラバア」「シキリ」「ウオノタユウ」「タユウサン」と異名が並ぶ。これらの語源を考えてみるだけでも楽しい。

「佐州■■」細々とあって、汚れであって、字でないようにも見えるのだが、或いは「之産」・「之者」かも知れない。拡大しても不明である。

「洋中」沖中の意。

「口より尾〔の〕端に至る、壹丈」口吻尖端から舵鰭(前に述べた通り、マンボウには尾鰭はないので注意)の後端までが、三メートル三センチメートル。

「尾の幅、壹尺五寸」体幹末から出た、舵鰭の一番長い部分(蓮の葉のように突出したその先の部分まで)の長さが、三十センチメートル五ミリ弱。

「胴の中徑(なかわた)り、五尺」胴の最も中ほどの左右幅の謂いか。一メートル五十一センチメートル。

「脊びれ、長さ、三尺五寸」背鰭の長さが、九十一センチメートル。

「横の徑り、中程にて、壹尺二寸余(よ)」これが体幹の横幅で、最も厚い中ほどで、約三十六センチメートル。異様に体幅が薄い。

「下の鬐(ひれ)」「横、中程にて、壹尺二寸余」腹鰭の中央分の幅が、三十六センチメートル強。

「口、開(ひら)きたる処、下唇(したくちびる)より上唇まで、徑り、五寸五分」口吻の下顎の吻の皮の上部から、上顎の吻の皮の下部まで(歯ではなく、その上下部分と読む)が、十六センチメートル六ミリメートル。

「眼の徑り、四寸」眼球の直径が、約十二センチメートル。

「寛政九年巳年七月九日」グレゴリオ暦一七九七年七月三十一日。

「佐州姫津村」現在の新潟県佐渡市姫津(ひめづ)。(グーグル・マップ・データ)。私の好きな、外海府海岸と尖閣湾の間に当たる。

「浦方」浦方役人。主に金山保守のための、佐渡海岸域の沿岸警備(島抜けや外部からの侵入)に当たった下級役人。

「奉行朝比奈氏」当時の佐渡奉行の一人、朝比奈次左衛門昌始(まさもと)。寛政六(一七九四)年閏十一月に目付より佐渡奉行となり、寛政十年五月に長崎奉行へ転出している。

「相川御役所」現在の佐渡市相川広間町にあった佐渡奉行所。(グーグル・マップ・データ)。

「海府番所と云ふ処まで、海上を牽き來れども、御役所へは、陸𢌞(りくまは)しゆへ」海府番所の正確な位置が判らないが、現在の村落のある達者地区から相川までを陸路で実実測すると、五キロメートル以上ある。当時のこの辺りの地形から見ても、これは怖ろしく大変なことが容易に想像出来る。

「人歩(にんぷ)」人夫であろう。

「壱石(いつこく)〔と〕、四、五升」百八十八~百八十九リットル。一般家庭の浴槽が約二百リットルというから、想像されたい。

「甚だ益ある物なり」魚油は非常に臭いが強いが、灯油として用いられた。

「アハビ」鮑(あわび)。

「璚脂(トコロテン)」誤記。「瓊脂」が正しい。テングサ(:アーケプラスチダ界 Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類。最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)やオゴノリ(紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla)などを煮溶かして型に流し、冷却して固めた例の「心太(ところてん)」である。

「ブリブリする」「トコロテン」のようなものというのは、これは恐らくは肉ではなく、マンボウの表皮の下層に厚く存在するゼラチン層のことを指しているように思われる。なお、ウィキの「マンボウ」には、マンボウは『商業的に食用とされることは少ない』としつつも、『一方でアジア、特に日本の一部と台湾で食用とされる』。『日本では主に定置網で混獲され、専門的に狙う漁師は少ない』。『美味とされるが』、『鮮度が落ちやすく』、『冷蔵冷凍技術の普及以前は市場流通は限られていた。鮮度が落ちると特有臭を放ち、水っぽくなる』、『現在』、『特に宮城県から千葉県にかけてと東伊豆、三重県紀北町や尾鷲市などは比較的流通が多い。紀北町には道の駅があり、フライ定食を提供している』。『肉は白身で』『非常に柔らかく、調理法は刺身や湯引きして肝臓(キモ)と和えて、あるいはから揚げ、天ぷらなどで利用される。味はあっさりとしており、食感は鶏肉のささみに似ている』、『腸はマン腸またはクジラと同様に百尋と呼ばれる。紀北町ではコワタと呼ばれる』。『食感はミノに似て、他の部位より』も『日持ちすることもあり、流通量が多い』。『皮や目も食用となるが、ほとんど流通していない』。『台湾では』五『月ごろ』、『海流に乗って東海岸に現れるため、定置網で捕り、食用にすることが盛んである。台湾のほとんどの水揚げが集中する花蓮市では日本語からの借用語で曼波魚(中国語 マンボーユー、台湾語 マンボーヒー)と呼び』、五『月に「花蓮曼波季」という食のイベントを行い、観光客に紹介している。この時期は台北の高級店でも料理を出す例がある。肉、軟骨、皮などをセロリなどの野菜と炒めたり、フライやスープにしたり、腸を「龍腸」と称して炒め物にしたりすることが多い』とある。因みに、私は土肥でマンボウの肉の刺身を食したことがある。とても美味であった。

『薩州産の「シキリ」と云へる魚は、「マンボウ」と同物ならんか』マンボウの記載の地方名に『シキリ(鹿児島)』とある。

「其の口中(こうちゆう)より、小判魚(こばんうを)、出づることある」条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates のこと。が、当然、ある。私は動画で、驚くほど、多数のコバンザメが大型のサメ類の口腔内(総排泄腔から腸にさえも潜り込んで吸着する)にいる映像を見たことがある。]
 

栗本丹洲 単品軸装「ウチハ魚」(ウチワフグ)

 

Utiwahugu_2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの栗本自筆軸装画「鳥獣魚写生図 ウチハ魚の画像をトリミングしたものである。]

 

□翻刻1(原画のママ。但し、「ハラハラ」の後半の踊り字「〱」は正字化した)

寛政六寅冬志州浪切浦

漂水之處て獲之脊圓ク平ク

目ノ上高し鬣小ナリ腹一杯ニテ

廣ク團扇之如シ因テウチハ魚と云

又袋ブかと云口鳥ノ喙似タリ

遍身沙アリ鮫皮ノ如シ腹ハ竪

ハラハラトアリ手ニテ点撫レハ

小刀ノ刄ノ如クナルモノアリ甚異物

ナリ色形ハ図ノ如シ肉白ク味中品

脂アリテ軽ク温ナリ無毒ナルモノ也

 

 

□翻刻2(句読点を打ち、概ね、カタカナをひらがなに直し(「袋ブか」の「か」は特異的にカタカナにした)、記号等を加えて一連の記載として訓読(「如し」は漢文では助動詞であるので平仮名とした)整序して、全体を連結した。読み易さを考え、一部に送り仮名や読みを推定で附し、更に〔 〕で助詞を補助した)

寛政六寅〔の〕冬、志州、浪切浦に漂水の處にて、之れを獲る。脊、圓(まる)く、平く、目の上、高し。鬣(たてがみ)、小なり。腹一杯にて廣く、團扇(うちは)のごとし。因りて、「ウチハ魚(うを)」と云ふ。又、「袋(ふくろ)ブカ」と云ふ。口、鳥の喙(くちばし)に似たり。遍身(へんしん)、沙(すな)あり、鮫皮のごとし。腹は竪(たて)に、点、パラパラとあり。手にて点の上を撫(な)づれば、小刀の刄(は)のごとくなるもの、あり。甚だ異物なり。色・形は図のごとし。肉、白く、味、中品(ちゆうひん)。脂(あぶら)ありて、軽く、温(おん)なり。無毒なるものなり。

 

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目フグ目フグ亜目ウチワフグ科ウチワフグ属ウチワフグ(団扇河豚)Triodon macropterus である。一科一属一種。インド洋と太平洋の熱帯域(アフリカ東岸からオーストラリア・フィリピン・日本近海まで)に広く分布する深海性(百メートル以深)の種。体が側扁し、腹部が団扇のように下方に拡張している。両顎の歯は癒合して嘴状になっており、上顎に二枚、下顎に一枚ある(属名(-odon は、ギリシア語(イオニア方言)で「歯」)や英名の Three-toothed puffer はそれに由来する。“puffer”は「プッ!」と吹く人や物の意から「フグ」をも指す語)。体色は黄色で、腹部に黒色の眼状斑(周囲は淡色)を有し、尾鰭は二又に分かれる。全長は三十センチメートルにも達する。本種はフグ目 Tetraodontiformes の中でも、その下のフグ亜目 Tetraodontoideiとモンガラカワハギ亜目 Balistoidei のタクソンを結ぶ中間的特徴を備えている。支持骨格である腰骨のみが存在するのはフグ目の主な共通点であるが、腹鰭を持たない(これはフグ科Tetraodontidae以降の特色)。しかし腰骨が左右の対構造を持っていて、これは、完全に単一構造を呈するモンガラカワハギ上科 Balistoidea よりも原始的な特徴であることから、目内での分類学上の位置づけに問題を残しているグループと言える(一部でウィキの「フグを参照した)。一本釣りで漁獲され、九州や沖繩などの島嶼では食用にする。無毒(後注参照)。

「寛政六寅」一七九四年。

「志州」志摩国。

「浪切浦」現在の三重県志摩市大王町波切附近。(グーグル・マップ・データ)。志摩半島の南の西端である大王崎の直近。

「漂水の處にて」水面を漂って流れていたことを言っているものと思われる。深海性の種であるから、内臓疾患か何かで弱って浮き上がってきたものであろう。

「鬣(たてがみ)」背鰭。

「袋(ふくろ)ブカ」「袋」は下垂した腹部の弛(たる)み由来で、「ブカ」は「鱶」、「鮫」のこと。後で丹洲が述べている通り、皮革表面に強いザラザラした棘状突起(本文の「沙(すな)」「小刀の刄(は)のごとくなるもの」はその形容・比喩)が偏在するのが、鮫肌(鮫皮)と同じだからであろう。

「温(おん)」漢方で言う人体を暖める性質を指す。

「無毒なるものなり」テトロドトキシンを持つ種が多いフグ科 Tetraodontidae(二亜科十九属百三十種)とは科レベルで異なる(ウチワフグ科 Triodontidae)本種は無毒である。ある意味、見間違えることもなく、安心して食べられる「フグ」でない「フグ」ということにもなろうか。私は残念なことに食したことがないが、食した記載では、蛋白質に富んでいて白身で味がよい、とある。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 一

 

 餅白鳥に化する話

 

     一

 

 正月が來るたびに、いつも思ひ出すばかりでまだ根原は知らぬのだが、伏見の稻荷樣の一番古い記錄に、餅が鳥になつて飛び去つたといふ話がある。

 都が山城國に遷された以前、今の稻荷山の麓の里に秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)の一族が住んで居た。その家の先祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)の時に、有つた事として其話は傳へられる。伊呂具富裕にして粟米充ち溢るゝままに、餅を用ひて的としたところ、其餅白き鳥に化して飛び翔りて山の峰に居り、そこに稻が成生した。社の名も之に由つて起り、更に山を隔てゝ北の方、島部野島部山の鳥部と云ふ地名も、其餅の鳥が飛んで來て、とまつた森の跡だからと謂ふのであつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「伏見稲荷大社」によれば、『京都府京都市伏見区深草にある』、同社(旧称・稲荷神社)は『稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする』とし、「歴史」の項に『「秦氏の祖霊として創建」の縁起』として、本社の本来の神名「イナリ」の縁起としては、「山城国風土記」に『あったとされるものが有名である』とあって引用される。ここでは所持する岩波文庫「風土記」武田祐吉編の逸文にある「山城國風土記」で独自に示す。私が添えた「-」は二字熟語で以下の読みであることを示す。

   *

  伊奈利(いなり)の社

山城風土記に曰はく、伊奈利社、いなりと稱(い)へるは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等(ら)が遠祖(とほつおや)、伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稻-粱(いね)を積みて富-裕(とみ)を有(たも)ちき。すなはち、餅を的と爲ししかば、白鳥と化-成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峰に居り、稻(いね)なり生(お)ひき。遂に社の名と爲しき。その苗-裔(はつこ)に至り、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこじ)にして、家に殖ゑて禱(の)み祭りき。今、その木を殖ゑて蘇(い)きば福(さきはひ)を得、その木を殖ゑて枯れば福あらじとす。

   *

『この秦氏について』は、「日本書紀」の「欽明紀」に『秦大津父』として、『もともと』、『山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え』、また、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」にも、

   *

秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂縣主、久治良ノ末子和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]二月壬午、稻荷明神鎭座ノ時、禰宜トナル、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]八月八日卒。

   *

『とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し』、『祈請すると加護があって』、『山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ』、『とも伝えている』とある。以上の「山城国風土記」に『見られるように、「イナリ」の表記は』、本来は「伊奈利」の字が当てられていたが』、「類聚国史」にある淳和天皇による天長四(八二七)年『正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた』。以降、「延喜式神名帳」では、

   *

山城國紀伊郡 稻荷神社三座

   *

『と記載され』るようになったという。『なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている』とする。なお、戸原氏の個人サイト内の「稲荷信仰/稲荷神顕現伝承」には、この『その創建に関する伝承には大きく』見て、『秦氏系と荷田氏系のふたつの流れがある。ここでは、前者を「伊奈利伝承」後者を「稲荷伝承」と区別して記す。なお、どちらもイナリと読む』として、以上の縁起と、今一つの「稲荷伝承」(イナリ神の顕現を「稲を荷なう老翁」に求める伝承で、伏見稲荷で秦氏とともに神官を勤めた荷田氏系の伝承とされるものという)を併記するので参照されたい(但し、そちらでは白鳥への変異は語られていない)。

「都が山城國に遷された以前」桓武天皇が延暦三(七八四)年に乙訓郡長岡に長岡京を造営する以前。

「秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)」「伏見稲荷大社」公式サイト内のこちらによれば、秦中家忌寸は次に示される伊呂具から数えて九代目に相当する人物で、『賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥三年[やぶちゃん注:八五〇年。]三月從六位上』と記録されているという。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜一名であったが、彼の代にその弟の「森主」が『祝(はふり)、嘉祥三年三月從六位下』と記録されていることから、この頃から、禰宜・祝の二員制に移行したことが判るとある。

「秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)」秦中家忌寸らの祖先。秦氏は半島から渡来して山城国を本拠にした一族である。]

 

 此話の永く世に傳はつた理由、卽ち此物語が古代の人々に供した繪樣[やぶちゃん注:「ゑやう(えよう)」。イメージされた映像。]は、今我々が之に由つて感受するものと、大分の相異があつたので無いかと思ふ。所謂白い鳥の何鳥であつたか、何故に不思議が其鳥の形を假りて、能く人間の驚歎を深くし得たかといふことは、既に日本武尊の御墓作りの一條に於ても、決しかねた問題であつたが、此場合はことに其點がはつきりせぬと、昔の心持を辿りにくいやうな感じがする。

 

 宮城縣[やぶちゃん注:底本は『福島縣』であるが、誤りであるので、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]の苅田嶺神社は、近世の學者によつて、日本武尊を祀ると説明せられて居るが、土地の口碑を聽けば明白に滿能長者同系の物語で、天子の御寵愛を受けた玉世姫と、その王子の尊靈とを神に仰いだものである。さうして此神の御使はしめの白い鳥は、ハクテウ卽ち Swan であつた。豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間の草原には、以前は年每に二羽の鶴來たり遊び、それを長者が飼つて居た鶴だと謂うた爲に、或は豐後風土記の中にもある同じ話、卽ち餅が化して成つたと云ふ白い鳥を、鶴では無いかと思ふ人も有るかも知れぬが、勿論之に由つて卽斷をすることは出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「苅田嶺神社」刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)と称する知られた神社は現在、三つあるが、孰れも宮城県内にある。一つは、宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、別に宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町にある里宮の刈田嶺神社と、その奥宮である宮城県刈田郡七ヶ宿町の刈田岳(標高千七百五十八メートル)山頂にある刈田嶺神社である。後者の二者は修験道系で、ここで柳田國男が言っているのは、最初に挙げた、別名を「白鳥大明神」と称する宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、現在、同神社は祭神を日本武尊とする同神社のウィキによれば、『当社がある刈田郡や隣接する柴田郡では「白鳥信仰」があり、当社には奉納された白鳥の絵馬がいくつも伝えられて』おり、『また、境内に「白鳥古碑群」がある』とある。

「滿能長者」各地に伝わる長者伝説で、他に「真名野(まなのの)長者」「万の長者」などとも称する。特に豊後(大分県)の「まんのう長者」伝説が名高い。以下、小学館の「日本大百科全書」から引く。『前半は、炭焼きから身をおこして長者になったという炭焼き長者譚(たん)として語られている。京に玉津姫といって顔に黒痣(あざ)のある姫がいたが、神のお告げによって豊後の炭焼き小五郎と夫婦になる。小五郎は、妻にもらった小判を鴨(かも)に投げつけて失うが、驚く妻に』、「あのようなものならば、炭焼き竈(がま)のそばにいくらでもある」『と話す。そのことばどおりに黄金を発見し、のちに真名野長者になったという話で、すこしずつ』、『変化して各地に分布している。後半は、この長者には子がなかったので』、『観音様に祈願して美しい女児を授かり玉依姫(たまよりひめ)と名づける。姫の評判を時の用明(ようめい)天皇が聞き、勅使を遣わすが』、『意に従わない。怒った帝は「芥子(けし)を万石差し出せ」「両界の曼荼羅(まんだら)を織れ」といった難題を出すが、ことごとく解決してしまう。帝は自ら身をやつし、山路と名のって長者の牛飼いとして働いて姫を迎える。大分県竹田(たけた)市蓮城寺(れんじょうじ)は真名野長者の跡と伝え、長者堂のほか、用明天皇の腰掛け石などが残っている』。中世の舞の本である「烏帽子折(えぼしおり)」に『みえる山路の牛飼いの挿話は、この伝説のもっとも古い記録として知られ、以前に「流され王」の中で注した近松の「用明天皇職人鑑」の成立にも『大きな影響を及ぼしている。長者の名については、富を表現しているとする説のほか、これらの説話を持ち歩いた巫女(みこ)の名に由来するとの説がある』とある。

「豐後の田野(たの)長者」は「まんのう長者」伝説の変形譚の一つ。個人のページと思われる「大分の伝説」の「朝日長者伝説」の「夕日を呼び戻す」を参照されたい。他の記事も同系列譚なので、全文を読まれることを強くお薦めする。

「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」恐らくは大分県玖珠(くす)郡九重町田野千町無田(せんちょうむた)附近と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、直近の西北に「白鳥神社」があるのが判る。

「豐後風土記の中にもある同じ話」以下(【 】は二行割注)。引用底本は前に同じ。

   *

田野【郡の西南に在り。】

この野は廣く大きに、土地(つち)沃-腴(こ)えたり。開墾(あらき)の便(たより)、この土(くに)に比(たぐ)ふものなし。昔-者(むかし)、郡内(くぬち)の百姓(おほみたから)、この野に居りて多く水田を開き、糧(かて)に餘(あま)して畝(うね)に宿(とゞ)め、已(はなは)だ富みて大(いた)く奢り、餅(もちひ)を作りて的(まと)と爲しき。時に餅(もちひ)、白鳥と化(な)りて發(た)ちて南に飛びき。當年(そのとし)の間に、百姓(おほみたから)死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廢(う)てたりき。時(それ)より以降(このかた)、水田に宜からず。今、田野(たの)といへるはその緣(ことのもと)なり。

   *]

 

 豐後風土記の餅白鳥に化する物語は、之を繰り返す必要も無いほど、最初に擧げた山城風土記の逸文とよく似ている。この二つの風土記は文體から判斷しても、出來た年代に若干の差が有るらしいから、一方の話が弘く世に行はれて、後に九州の方でも之を説くに至つたのかも知れぬが、それにしてはあまりに根強く、新しい風土に適應し、且つ年を追うて成長して居る。或は今一つ古い時代から、此民族に持ち傳へた空想が、何ぞの折には斯うしてそちこちに、芽を吹き花を咲かせる習はしであったのではないか。

 二國の物語の最も著しい差別は、山城の方では秦氏の子孫再び神に宥されて[やぶちゃん注:「ゆるされて」。許されて。]故の地に繁榮し、自ら家の奇瑞を述べて居るに反して、豐後に於ては田野は永く荒廢し、偶〻其地を過ぐる者が、色々に聞き傳へ語り繼いだ昔だけが遺つて居る點である。田野(たの)とは田に似たる荒野と云ふ意味で、附けられた地名であつた。今の玖珠郡飯田村の中に、千町牟田[やぶちゃん注:前の段落の私の「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」の注とリンク先を参照。]と稱する廣いムタがあるのを、所謂田野長者の耕地の跡としてあるが、果して風土記以來の田野は是なりや、また[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『まだ』。]少しばかりの疑ひは有る。風土記には速見郡田野里とあるのに、右の千町牟田は分水嶺を越えて更に西、筑後川の水系に屬する玖珠郡の地であり、且つ速見郡の方面にも、南北由布村の如く、田野とも名づくべきムタ卽ち水濕の地はいくらもあるからである。

[やぶちゃん注:「ムタ」小学館の「日本国語大辞典」によれば、「草の生い茂った沼」の意で、方言としては「湿地・沼地」(大分等の九州地方)、「沼田・泥田」(長崎・鹿児島)の意があるとある。

「速見郡田野里」「田野里」は不詳であるが、旧速見郡郡域で「南北由布村」=北由布村・南由布村となると、大分県由布市湯布院町のこの中心(グーグル・マップ・データ)附近と思われる。先の千町無田より十一キロメートル以上、東北に当たる。]

 

 ムタは關東・東北でヤチといい、中部ではクゴともフケとも稱して、排水の六かしい[やぶちゃん注:「むつかしい」。難しい。]平衍[やぶちゃん注:「へいえん」。平らな所で水があふれて広がっていること。]なる濕地のことである。海川に近い低地であるならば、何としてなりとも水田に開くが、山中に在つては温度其他の條件が具備せず、打棄てゝ置かれて禾本科[やぶちゃん注:「くわほん(かほん)」。単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae の種群。]の雜草が野生する故に、地面を大切に思ふ農民たちは、之を見る每に心を動かし、神の田又は天狗の田などゝ名づけて、色々の奇異を附會した例が多い。豐後の田野でも其に近い事情の下に、有りもしない大昔の長者を想像する樣になつたのであらう。千町牟田なども豐日誌の記事に由れば、今も畦畝儼として存し、春夏は草離々[やぶちゃん注:「りり」。草が繁茂しているさま。]として畝每に色を異にす、或は蒼く或は赤く、禾苗早晩の狀を爲すとあるのである。餅が白い鳥になつて飛ん往つたと云ふ昔話に、似つかはしい舞臺であつた。

[やぶちゃん注:「ヤチ」谷地。沼沢・湿地などの草生ひ茂るところを指し、また、アイヌ語では「沼沢」と女性の生殖器とは同一語であって、やはり「やち」と呼ぶ。後、「女陰」の隠語として無頼漢の間の隠語となった。

「クゴ」所持する増補改訂版の松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊の「日本民俗文化資料集成第十三・十四巻)を見るに、これは「クボ」の転訛で「窪」と思われる。関東では「クボ」は「谷合」、信州南部では「山の窪んだところ」を指し、そこは概ね湿地であるからである。また、アイヌ語では「ク」は「クッ」ならば「(水の)流れ」で、「ホ」は「末端」や「端」を意味するから、水源地で、これも「谷合」などと極めて親和性が強いと私は感じる。

「フケ」小学館の「日本国語大辞典」を見るに、これは「深」ではないか? 方言では「沼沢地・沼地・湿地」(静岡・和歌山)、「大きな沼」(福島)、「泥深い田・深田」(東京都南多摩郡・佐渡・三重・和歌山・徳島・愛媛・大分)などとある。

「豐日誌」不詳。古代氏姓制度研究家大田亮の著作か。ちくま文庫版全集では『ほうにっし』とルビする。識者の御教授を乞う。

「禾苗早晩」イネ科の植物類の苗の出始めたものやかなり伸びたものの意。]

 

2018/03/28

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(ギンザメ或いはアカギンザメの♀)の同一個体再登場) / 栗本丹洲 巻子本「魚譜」~了

 

Saigonoginza

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。これが掉尾の図である。なお、本図にはキャプションはない。本図は既に出た「銀ザメ」と同一種で(図はこちら)、そこで私は、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメHydrolagus mitsukurii

かとも思われ、後者の可能性が高いかも知れぬとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、鞭状に細くなった尾部の「つ」の字みたような曲がりっぷりまで全く同じで、同一個体と考えてよい。但し、こちらは色がより濃いめで、多くのギンザメ類『「つ」の字』を並べてきた巻子本の最後の一枚として実に相応しいと私は思う

 以上を以って巻子本栗本洲「魚譜」の電子化注を終わる。実に楽しい電子化注であった。ツイッターではアメリカ人のギンザメ研究の専門家からも「いいね!」された。実に「いいね!」――

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(アカギンザメ)の♀の同一個体再登場)

 

Gizame4

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。なお、本図にはキャプションはない。本図は既に出たザメと同一種で()、そこで私は、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点で

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii 

とした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、鰭もボソつき方も細部まで同じで、同一個体と考えてよかろう(但し、こちらは前のような巻子本化による尾部欠損がないのが非常に嬉しい。或いはこの一枚はそういう意味でもここに丹洲が添えたかったものなのかも知れない)。]

栗本丹洲 魚譜 アカエイの卵【誤り】(正しくはガンギエイの卵鞘)

 

Akaeiransyou

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原文のママ)

此一對者 アカエイノ卵

 

□翻刻2

此の一對は「アカエイ」の卵。

 

[やぶちゃん注:このキャプションは誤り。軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei は卵胎生で、こうした卵鞘を持たず、幼体をが自身の体から出産からである。これは恐らく、

軟骨魚綱ガンギエイ目ガンギエイ科Rajinae 亜科ガンギエイ属ガンギエイDipturus kwangtungensis 或いはその近縁種の卵生の種の卵鞘(卵殻)

と推定する。成体のガンギエイそのものは、以前に先行するンギ」二枚(背部腹部)をそれに比定した。ここに掲げて、

 

Gangiei

Gaigiekihara

 

親子一緒にしてあげようね。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ハエ」(文字欠損を推定)(ギンザメ)の♀の同一個体再登場)

 

Ginza2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上の棘端及び下の鰭の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た■■エ」(欠損字を「銀ハエ」と推定)と同一種で(図はこちら)、そこで私は、尻鰭がないように描かれている点と頭額部形状(特有の反り返った突出部を持たない)から

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

に同定した。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、これもと同じく、全体の色調が先のものよりも明らかに濃いめに彩色されていることが判る)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「天狗鯊」(アカギンザメ)の♂の同一個体再登場)

 

Ginza1

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は体幹前部と後部が二分されているため、合成した。上の棘端及び下の鰭の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た天狗と同一種で()、そこで私は、

アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii

ではなかろうかと思われるとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、全体の色調が先のものよりも明らかに濃いめに彩色されていることが判る)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「銀ザメ」(ニジギンザメ?)の♀の同一個体再登場)

 

Ginzameao

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部が胸部以降と二分されているため、合成した。上下の鰭及び棘端の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た銀ザメと同一種で()、そこで私は、全体に体色が不審であるが、先の『異魚「ツノジ」の類』と同じ手法で考えると、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

しかし、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon

も挙げておく必要があろうかとも思われる。しかし、乾燥標本(この体色は経年劣化かも知れぬ)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもないとした。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、背鰭や尾鰭の一部及び眼の色彩などに明らかな異同はある)。]

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(「キンザンジ」(アカギンザメ?)の♀の同一個体再登場)

 

Kizanji2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は体幹前中部・尾部とに二分されているため、合成した。上下の鰭及び棘端の切れは原画のママ。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出たキンザンジと同一種で()、そこで私は、尻鰭が独立して確認出来ないような描き方がなされているところから、

アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii

ではなかろうかと推定比定した。先の無キャプションの図(そちらの注の最後も必ず参照されたい)と同じく、同一個体と思われるほど酷似している(但し、体側後部の側線の波打ち方などに明らかな異同がある)。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 七 / 物言ふ魚~了

 

     七

 

 宮古郡伊良部島の下地には、現在は既に又村が出來て居る。さうしてこの仲宗根氏の宮古島舊史 の存在を、まつたく知らぬ人が多いのである。彼等の耳で傳へて居る大昔のシガリナミは、之を如何なる原因に基づくものと傳へて居るだらうか。必ずしも此一部落で無くても、小さな島々にはどこにも此話は遺つて居るやうである。それを何と無く聽き集めて見ることが、恐らくはこの一節の説話の、巧まざる註釋を供與することゝ思ふ。

 一つの觀點は物をいふ魚の名を、この島ではヨナタマと謂つて居たことである。ヨナはイナともウナともなつて、今も國内の各地に存する海を意味する古語、多分はウミといふ語の子音轉換であらうといふことは、前に風位考資料のイナサの條に於て説いたことがある。それがもし誤りで無いならばヨナタマは海靈、卽ち國魂郡魂[やぶちゃん注:「くにたまこほりたま」。本来の土着の原初的な土地神。]と同樣に海の神といふことになるのである。知らずして海の神を燒いて食はうとしたものが、村を擧げて海嘯の罰を受けたといふ語り事だとすれば、單なる昔話といふ以上に、もとは神聖なる神話であつたらう。それが信仰の零落に伴うて、豐後では「背の甲をあぶりに行く」といふ話にまでなつて居たのであつた。もし其中間の過程を示す伊良部の記錄が傳はらなかつたならば、是はたゞ農民空想の奇異なる一例としか考へられなかつたであらう。

 次に幼兒の無意識の擧動によつて、母と子の只二人が命を全うしたといふことも、何か又信仰上の意味が含まれて居たのかも知れぬ。といふわけは我邦の海の神は、夙に少童[やぶちゃん注:「せうどう」。文字としての意味は「少年」「子供」であるが、「日本書紀」では「少童命」で「わたつみのみこと」(海神)と呼んでいる。]の文字を以て示されて居た如く、しばしば人間の世に向つて叡智なる君子を送つて居たからである。しかし此點を深く説かうとするのには、今はまだ材料が足りない。單に後年さういふ發見をする學者の出づべきことを、爰では試みに豫言して置くまでゝある。

 それから最後に日本以外の民族の傳承が、將來どういふ風な光をこの問題の上に投げるであらうかを考へて見ると、我々がまだ多くを知つて居らぬといふのみで、魚が物言つた話は追々に出て來るらしいのである。近頃讀んでみたジエデオン・ユエの民間説話論にグリム童話集の第五十五篇A、「ハンスの馬鹿」といふ話の各國の類型を比較して、その最も古い形といふものを復原して居るが、この愚か者が海に行つて異魚を釣り、其魚が物を言つてわが命を宥してもらふ代りに、願ひごとの常に叶ふ力を此男に授けたことになつて居る。出處は示して無いが何れかの國に、さういふ話し方をする實例があつたのである。私の想像では我邦の説話に於けるヨナタマも、一方に燒いて食はうとする侵犯者を嚴罰したと同時に、他方彼に對して敬虔であり從順であつた者に、巨大なる福德を附與するといつた明るい方面があつた爲に、斯様に弘く東北の山の中まで、「物言ふ魚」の破片を散布することになつたのでは無かつたか。もしさうであつたならば、今に何處からかその證跡は出て來る。さういつ迄も私の假定説を、空しく遊ばせて置くやうなことはあるまいかと思ふ。

        (昭和七年一月。方言と國文學)

[やぶちゃん注:「ジエデオン・ユエの民間説話論」フランスの文献学者で民俗学者でもあったジェデオン・バスケン・ユエ(Gédéon Busken Huet 一八六〇年~一九二一年)の作品らしいが、原題を探し得なかった。石川登志夫訳・関敬吾監修「民間説話論」として同朋舎出版から一九八一年に翻訳が出ているのが、最も新訳のもののようではある。

『グリム童話集の第五十五篇A、「ハンスの馬鹿」』個人ブログ「ふろむ京都山麓」の物言う魚 第3回<馬鹿のハンスの霊魚>によれば(一部に句点を打った)、

   《引用開始》

 柳田國男は「物言ふ魚」で、ジェデオン・ユエ著『民間説話論』を取りあげている。グリム童話「ハンスのばか」は構造に欠陥がある不完全な童話であるという。その原型は、ユエが紹介している完成形の昔話であるとしている。

 霊魚を助けた人間は、願い事、望むことが何でもかなうという不思議な力を与えられる。この伝説昔話は西欧、南欧さらにはロシアに広がっている。またシベリアや蒙古にも痕跡がある。そのようにジェデオン・ユエはいう。以下、グリムが採集した話をユエが補正し、完成させた物語である。

   [やぶちゃん注:ブログ主の現代語訳梗概開始。]

 昔、貧しくまた醜く、大馬鹿の若者がいた。彼は釣りに出かけ、不思議な魚をとった。この魚は話ができ、「もしわたしを水にかえしてくれれば、あらゆる願い事がかなう才能を授けてあげましょう」。若者は魚を水に投げかえした。

 帰路、王城の前を行く若者の醜さと間抜けた様子に、王女が窓から馬鹿にして哄笑した。腹をたてた若者は、口のなかで「お前は妊娠すればよい!」。すると魚との約束にしたがって、彼の願いはかない、姫は身ごもってしまった。

 父の王は訳がわからず怒り、娘を牢に入れてしまった。そして赤ん坊の王子が少し大きくなるのを待って、赤子の父親探しの計画を立てたのである。乳母に抱かれた子を宮殿の広場に置き、町のすべての青年を行列させて進ませるというテストである。子どもは惨めな様子をした醜い若者、この馬鹿な男をだけ指差した。そう、父はこの若者である。

 父親はまたも怒り、王女と青年と幼児を、樽に詰めて海に投げ捨てさせた。狭い樽のなかで王女はハンスに聞いた。「どうして知りあいでもないあなたが、わたしの子どもの父親なのですか」。若者は魚の話を語り、かつて窓辺の姫に怒り、はらめと口にしたばかりにこの子が産まれたと言った。

 「では、あなたの願いは何でもかなうの?」。「樽が近くの海岸に早く着くようにお願いしてよ」。岸に辿りつくと今度は「樽が開くように頼んでちょうだい」。

 「立派な宮殿がここに建つようにお願いしてよ」。そして「あなたが美しくなるように、あなたが利口になるようにお願いして」。すべて実現するのであった。

 国王も王女の智恵で、自らの過ちに気づき和解がもたらされた。そして美しく才気あるようになった若者は、国王の婿となり、その後王位の継承者となった。

   [やぶちゃん注:ブログ主の現代語訳梗概終了。]

 グリムの「ハンスのばか」はこの話にそっくりだ。ところが大切なポイントである霊魚が出て来ない。なぜ青年が特殊な能力を得たのか、その説明が欠落している。

 また不思議なことに「ハンスのばか」はほとんどのグリム童話集から除外されている。ドイツ文学者の吉原素子、吉原高志両氏によると、この話はグリム童話集の初版にのみ掲載されている。1812年にグリムがカッセルで、ハッセンプフルーク家の姉妹から聞き取った。しかしグリムは「ハンスのばか」を、フランスの話でありドイツの昔話ではないと推測し、第2版以降は省いたと吉原はいう。

 ハンスはなぜ不思議な能力を手にすることができたのか? グリムには謎だったのではなかろうか。グリムは、霊魚がハンスに力を与えたことを知らず、この話の決定的な弱点、完成度の低さから第2版以降は削除したのではないか。そのようにわたしは思っている。

   《引用終了》

とある。

 

 最後に一言、言っておこう。戦後まで生きた柳田國男は、日本が南方の島々の伝承の採集どころか、方言札を渡して沖繩方言を駆逐しようとし、皇民化教育を押し進めてニライカナイを撲滅しようとし、遂には大日本帝国の最後の防波堤として沖繩の民を見殺しにした事実を、どう思っていたのか聴きたいもんだ! そうして、限られた「ヨナタマ」ジュゴンの棲息地さえもアメリカ軍の基地建設で破壊しようとするのに加担している日本という国家が、戦中と何ら変わらぬという事実を、柳田國男よ、さても、どう思うかね? あなたの最後の一文はインキ臭い御用学者の空しい夢物語としてしか私には響いてこないが? どうかね?

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 六

 

     六

 

 それから今度はずつと土地をかへて、是が沖繩縣の方ではどうなつて居るかと見ると、前年故佐喜眞興英君の集めた南島説話の中に、中頭郡美里村大字古謝(こじや)の出來事として、次のやうな口碑が採錄せられて居る。昔此村に一人の鹽燒男があつて、海水を汲みに出て一尾の魚を捕り、それを籠に入れて我家の軒につるして置いた。するとやがて其籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」といふ聲がする。不思議に思つて覗いて見ても、魚より他には何物も居ない。斯んな魚は放す方がよいと思つて家を出ると、途中に知合ひの無賴漢に出逢つた。放すよりは私にくれと言つて、持つて行つて料理をして食べようとして居ると、ちやうど其時に大海嘯で、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を指すが、昭和期までは地震による大津波の意で用いられた。ここは後者。]がやつて來て、近隣の人畜悉く押し流してしまつたといふのである。

[やぶちゃん注:「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。

「南島説話」佐喜眞興英が大正一一(一九二二)年に郷土研究社から「炉辺双書」の一冊として刊行した宜野湾村地方の口碑採集集。

「中頭郡」(なかがみぐん)「美里村」(みさとそん)「大字古謝(こじや)」現在の沖縄県沖縄市古謝(こじゃ)。

「大海嘯」「だいかいせう(だいかいしょう)」。現行、狭義には、通常の自然現象としての「潮(しお)津波」を指し、満潮の際に、潮流の前面が垂直の壁となって砕けながら、川の上流へ溯る現象を言う語であるが、本邦では、昭和初期までは、地震による大津波の意でも用いられた。ここは巨大な台風の襲来と満潮がシンクロした前者とも、或いは、実際の地震のそれとも採れる。次段落では『大津波』と言っているが、これは地震ではないケースのそれも意味していると思われるからである。]

 

 此話も傳承者の幾階段を重ねて、よほど破損したらしい形跡はあるが、それでも若干は原[やぶちゃん注:「もと」。]の姿を髣髴することが出來る。卽ち物をいふ靈魚を害しようとした者が、大津波によつて罰せられたということは、同時に一方の之を放さうとした者の助命を意味し、この鹽燒男が生き殘つた故に、怖ろしい誡めの話は後に傳はつたことになつて居るのである。話が是まで來れば類型は決して乏しくない。奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話、もしくは木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水などの如く、小賢しく且つ不注意なる者は災を受けて死に、愚直にして靈異を畏るゝ者が助かつて其見聞を述べたといふのは、昔話の最も普通の、しかも由緒ある一つの樣式であつた。

[やぶちゃん注:「奧州でよくいふ黃金坑埋沒の話」平泉や奥州藤原氏を支えてきた黄金文化(事実、平泉のある岩手の県南地方や岩手と秋田の県境の山脈には良質な金山があった)に纏わる恣意的に、或いは歴史的自然的に忘れ去られて埋没した黄金鉱脈(に掘った坑道跡)や埋蔵「金」伝説の類い。

『木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水』ウィキの「ヤロカ水」より引く。『ヤロカ水(やろかみず)とは、江戸時代、尾張国、美濃国に出現した妖怪。遣ろか水、ヤロカの水、ヤロカの大水ともいう』『柳田國男の「妖怪談義」に記述されている』。『愛知県、岐阜県の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域一帯、特に木曽川流域で伝承される』。『激しい雨の夜、川が増水するとやがて、「ヤロカヤロカ」(欲しいか欲しいか)という声が川の上流から聞こえてくる。この声に答えて「ヨコサバヨコセ」(貰えるのなら頂戴)と叫ぶと、瞬く間に川の水が増し、その答えた村人のいる村は一瞬のうちに水に飲み込まれるという。また、川面に赤い目や口が見えることもあるという』。『推定できる現象として、河川の洪水の初期段階は浸食が主体であるため、川岸や川底が濁流に洗われ』、『大きな石が流れ転がる際の音を「ヤロカヤロカ」と表現し、終盤には上流で発生した土石流に伴う土砂が堆積し、水が溢れる際の状況を「ヨコサバヨコセ」と表現したものと考えられる。あるいは暴風雨の夜、暴風による風の音が、「ヤロカヤロカ」と聞こえた為とも推測される。木曽三川流域は、常に洪水の危険性があり、洪水に対する人々の不安から、若しくは後世への注意喚起のため創られたともいう。鉄砲水がその正体である、という説もある』。『このヤロカ水に該当する洪水は、実際に発生している』江戸前期慶安三(一六五〇)年九月に、『尾張国、美濃国で発生した大洪水である。この時、堤防は殆どが決壊し、木曽三川流域は海のようになったという。記録によれば、大垣藩及びその周辺での死者は』三千『人以上だと伝えられている。この洪水で、木曽川沿いの尾張国丹羽郡上般若村が完全に流出し、村民は全滅に近い被害を出したと伝えられている。ヤロカ水で「ヨコサバヨコセ」と叫んだ村民は、この村の村民と伝えられている』(『なお、尾張国丹羽郡上般若村とは現在の愛知県江南市の一部である。現在も、中般若町(旧:中般若村)、般若町(旧:下般若村)は存在するが、上般若の地名は無くなっている』)。貞享四(一六八七)年八月二十六日、『木曽川が雨で増水した際には』、『淵から「ヤロカヤロカ」と声が聞こえ、川を警戒していた者が「ヨコサバヨコセ」と叫ぶと川はさらに増水し、大洪水が発生したとい』い、近代に至っても、明治六(一八七三)年、『愛知県犬山町(現・犬山市)で洪水が起きたときも、実際に「ヤロカヤロカ」と声が聞こえたといわれる』とある。柳田國男のそれは「妖怪談義」(初出は昭和一一(一九三六)年三月発行の『日本評論』。本「物言ふ魚」はその四年前の昭和七年一月発行の『方言と國文學』初出)の「七」の後半に出る。その部分を引く(ちくま文庫版全集第六巻を底本とした)。

   *

……薩摩の阿久根近くの山の中に、半助がオツと称するが崖がある。地名の起りは明治十年頃の出来事だというそうだが、四助と三助という二人の友だちがあった。ある日四助は山に入って雨に遭い、土手の陰みたような処に休んでいると、どこからともなく「崩(く)ゆ崩ゆ」という声が聞え、あたりを見まわしても人はいない。四助はこの声に応じて「崩ゆなら崩ゆてみよ」というと、たちまちその土手がくずれて、たくさんの山の薯(いも)が手もかけずに取れた。三助はこの話を聴いて大いに羨み、やはり同じ山に往(い)って松の木の下を通ると、またどこからともなく「流る流る」という声がする。「流るるなら流れてみよ」と答えたところが、今度は松脂がどっと流れて来て、三助がからだを引き包んで動けなくなった。三助の父の半助、炬火(たいまつ)を持って山へ捜しに来て、おーいと喚(よ)ばわるとおーいと答えるので、近寄って松の火をさしつけたら、たちまち松脂に火が移って三助は焼けてしまい、父の半助は驚いて足を踏みはずして落ちた。それが半助がオツと称するというのは歴史のように見えるが、疑いなく改造せられたる昔話である。これと下半分だけ似通うた話は、濃尾の境には伝説となって多く残っている。いずれも木曽の川筋にあるから、源流はすなわち一つであろう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水といって、大洪水のあったという年代は別々でも、この名の起こりは全く同じであった。大雨の降り続いていた頃の真夜中に、対岸の何とか淵のあたりから、しきりに「遣(や)ろうか遣ろうか」という声がする。土地の者は一同に気味を悪がって黙っていたのに、たった一人が何と思ったか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に増してきて、見る間に一帯の低地を海にしたというのである。これと同様の不思議は明治初年に、入鹿池(いるかいけ)の堤の切れた時にもあったというが、それも一種の感染としか思えない。木曽の与川(よがわ)の川上では古い頃に、百人もの杣(そま)が入って小屋を掛けて泊まっていると、この杉林だけは残しておいてくれという、山姫様の夢の告(つげ)があった。それにもかかわらず伐採に取り掛かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」としきりに声をかけた。小屋の者一同が負けぬ気で声を合せ、「来いよー」とやり返すとたちまち山は崩れ、残らず押し流されてたった一人、この顚末(てんまつ)を話し得る者が生き残った。話はこういう風にだんだんと怖ろしくなって来るのである。

   *]

 

 南の島々の古くからの災害として、所謂シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く殘つて居るのは自然であるが、是がたゞ僅か一尾の魚を尊敬するかせぬかによつて、さういふ怖ろしい結果を生じた如く傳へるのは、考えて見れば不思議なことである。尋ねたら必ず他の多くの離れ[やぶちゃん注:ここは後の表現から古謝から離れた本島の地域ではなく、本島の「離れ」としての島嶼群の意。]にもあることゝ思ふが、この沖繩本島の珍しい例なども、早くから決して孤立のものでは無かつた。寛延元年(西曆一七四八)に出來た宮古島舊史という記錄は、當時この群島の稗田阿禮[やぶちゃん注:「古事記」の編者の一人で口承伝授者であった人物と同じような人々という比喩。]たちによつて、口で傳へて居たアヤゴを國文にしたものらしく、中にも魚が物言うた一つの話が、今少し具體的に記されている。見ぬ人が多かろうと思つて是れだけは原文のまゝ轉載すると、

[やぶちゃん注:底本では、以下は全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

むかし伊良部(いらぶ)島の内、下地(しもぢ)といふ村ありけり。ある男漁に出でゝヨナタマといふ魚を釣る。この魚は人面魚體にして能くものいふ魚となり。漁師思ふやう、かゝる珍しきものなれば、明日いづれも參會して賞翫せんとて、炭を起してあぶりこにのせて乾かしけり。其夜人靜まりて後、隣家にある童子俄かに啼きをらび、伊良部村へいなんといふ。夜中なれば其母いろいろこれをすかせども止まず。泣き叫ぶこと愈〻切なり。母もすべきやうなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわなゝきふるふ。母も恠異の思ひをなす所に、遙かに聲を揚げて[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに柳田國男によると思われる『(沖の方より?)』という注らしきものが追記されている。]

    ヨナタマヨナタマ、何とて遲く歸るぞ

といふ。隣家に乾かされしヨナタマの曰く、

[やぶちゃん注:以下のヨナタマの応答は底本では連続した一文であるが、ブログ・ブラウザ上の不具合を考えて、三つに分かち書きした。]

    われ今あら炭の上に載せられ

    灸り乾かさるゝこと半夜に及べり、

    早く犀をやりて迎へさせよ

と。こゝに母子は身の毛よだつて、急ぎ伊良部村にかへる。人々あやしみて、何とて夜深く來ると問ふ。母しかしかと答へて、翌朝下地村へ立ちかえりしに、村中殘らず洗ひ盡されて失せたり。今に至りて其村の跡形はあれども村立はなくなりにけり。かの母子いかなる隱德ありけるにや。かゝる急難を奇特にのがれしこそめずらしけれ。

 

[やぶちゃん注:「シガリナミ(海嘯)」首里・那覇方言で、「津波」或いは「高潮」を指す語。現在は「シガラナミ」という。

「宮古島舊史」「宮古島舊記」の誤り。広義には「御嶽由来記」「雍正旧記」「乾隆旧記」という編纂年の異なる古資料群を総称するものである。これらは、宮古島平良(ひら)を拠点とした、宮古随一の豪族仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ 一四五七年から一四六四年の間の生まれ~十六世紀初期の死去)が宮古島の歴史を纏めたもので、仲宗根家文書として伝わるもの及びその写本に当たる。

「アヤゴ」沖縄県宮古列島に於ける歌謡の総称名。当地の方言では「アヤグ」「アーグ」などと発音し、その文章語表記が「あやご」である。小学館の「日本大百科全書」の記載によれば、「綾言(あやごと)」の意というが、よく判らないとする。『伝統的なアヤゴは、対句形式を基調にした詞章で、大別して、節一つで歌意を完結させる詠嘆的な短詩形式と、節を重ねて叙述を展開させる長詩形式とがある。前者は叙情的な小歌(こうた)で、即興的に謡われることも多い。同じ小歌でも、琉歌(りゅうか)が対句を用いないのと』、『対照的である』。『アヤゴの特色は、後者のような神伝、史伝、世間話などを詠み込んだ叙述的な詞章が発達していることにある。珍しい様式の詩で、今日なお、現代の事件、感懐を歌い上げる力を失っていない。宮古列島では説話を』「ユガタリ」『(「世語り」か)と総称し、神話、伝説、昔話、世間話などが豊富に語られているが、叙述的なアヤゴは、ユガタリと表裏をなしている場合もある。古く』「宮古島旧記」に九首の『叙述的アヤゴがみえるが、これも史伝の本文に添えて記されている』。八重山列島の古記録(一七〇五年(宝永二年))にも、『叙述的な長詩形式のアヤゴがある。この種の歌謡をアヤゴと称したのが古意かもしれない』とある。

「伊良部(いらぶ)島の内、下地」伊良部島は宮古列島の島の一つで、現在は全島が沖縄県宮古島市に属する。二〇〇五年に宮古島の周辺自治体と合併して宮古島市になるまでは、西側に隣接する下地島とともに宮古郡伊良部町を形成し、同島は、その中心であった。下地島との間は幅四十メートルから百メートルほどの入江(水路)で隔てられているが、幅が狭いため、航空写真などではあたかも間に川が流れる一つの島のように見える。この入江にはマングローブがある。また、南東直近の宮古島との間には二〇一五年一月に伊良部大橋(本橋部分三千五百四十メートル)が開通して、繋がっている。(以上はウィキの「伊良部島」に拠る)。グーグル・マップ・データを参照。

「ヨナタマ」海の霊或いは魚の霊又は海の妖怪の名。「人面魚體にして能くものいふ魚」という特徴から直ちに想起されるのは、しばしば人魚のモデルともされる儒艮(じゅごん)、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon である(一属一種。なお、ジュゴンは小鳥のように「ピヨピヨ」「ピョーピョー」「ピーピー」と鳴き、現在の研究では「チャープ(chirp)音」と「トリル(trill)音」の二種類があることが比較的最近になって判明している。但し、これらをどのように使い分けているのかは、未だよく分かっていない)。喜山荘一氏のブログ「与論島クオリア」の「ヨナタマ伝承」では、柳田國男の以上の引用部分を引いた上で、

   《引用開始》

 ヨナタマとは何だろうか。後藤明は、南太平洋の伝承も引いたうえで、書いている。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用開始。]

 南太平洋では、捕まえた鰻や蛇を食べた人は皆、毒にあたるか洪水で死んでしまうが、壺の仲から鰻の頭が話しかけるのを聞いて、その肉を食べなかったり、頭を水に返した母子は助かる、という展開になっている。そしてこれらの事例はたいてい、人類、氏族あるいは村などの始祖伝承となっている。そして日本の南島や、中国そして東南アジア各地で見られるような、必ずしも「物言う魚」を立寝たのが原因ではないが、洪水が起こり、生き残った兄妹間の近親婚から始祖が生まれるという兄妹始祖型創世神話と通ずるのである。

 これをみれば、「人面漁体」といっても、すぐにジュゴンと結びつくとは限らず、蛇や鰻も同位相にあることが分かる。実際、本土の昔話でも魚が僧侶に姿を変えるという伝承では、人間に化けるのは鰻や岩魚であることが多いと後藤は指摘している。柳田は、大鰻は耳があるからという説に言及している。また、後藤は上記では触れていないが、鰐でも同様の伝承があるから、ヨナタマは蛇、鰻、鰐であり得ることになる。

   [やぶちゃん注:喜山氏の引用終了。]

 ただ、石垣島では、ザンと呼ばれるジュゴンが、ザンの名前で同様の伝承に登場することからすると、ヨナタマをジュゴンと見なしていいのかもしれない。

 また、東南アジア大陸部やインドネシアには、ジュゴンは人間の化身だという考えが見られ、東南アジアやオセアニアでは、鰐が人間の化身だと見られている。しかし、琉球弧ではザンは、ザンが人間になることはあっても、人間がザンにはならならいから、ジュゴンは、鰐ではなく、蛇や鰻に近い存在として捉えられていることになる。

 ここでヨナタマの伝承に戻ると、ヨナタマを食べることが禁忌であることに触れていることや、ヨナタマと子を近い存在と見なしていることから、ヨナタマを祖先とする観念に行き着きそうに見える。しかし、ヨナタマ伝承は、それが創世神話に結びついていない。ザンの伝承でも、ある家の始まりにはなっても、島や村の始祖伝承とのつながりは消えている。ということは、ヨナタマを祖先とすることは、個別的にはあえりえても、普遍的ではないことを示していると思える。

   《引用終了》

とある。しかし、ウィキの「ジュゴン」によれば、『日本では南西諸島で、「ざん」「ざんのいお」「ざんのいよ」「ざんのいゆ」「あかんがいゆ」などの方言名があ』り、『宮古列島では「よなたま」「よないたま」、西表島で「ざの」、新城島で「ざぬ」といった方言名がある』とし、『有史以前から狩猟の対象とされた』。『聖櫃を包んでいたのは本種の皮だったと考えられて』おり、『肉が不老不死や媚薬になると信じられたこともあり、骨で作った装飾品も刃物や鉄砲に対するお守りになると信じられていた』。ジュゴンの流した涙を『相手に付けることで恋愛成就の効能があると信じられていた』。『日本では琉球王朝時代に新城島では年貢として本種の肉を納めていた』とある。また、『西洋における人魚のモチーフとなったとする説もあるが、初めに上半身が人間・下半身が魚や海獣といった人魚のイメージができあがり、後になって本種と結びつけられたと推定されている』。『本種と結びつけられた理由としては本種は胸鰭の基部に』一『個ずつ乳頭があり、これが隆起し』、『乳房のように見えるためとする説もある』。『日本の琉球地方ではニライカナイの神の現世への乗り物とされたり』、『助けたジュゴンに津波の襲来を教えられ』、『恩返しされるといった伝承やジュゴン漁に関する民謡などがある』とあるから、ジュゴン・フリークの私はジュゴンが「ヨナタマ」の主要な核心的モデルであると考えるものである。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 五

 

     五

 

 さうして同時に又魚が人語したといふ傳説の、日本では相應弘い區域に亙り、又是よりもずつと複雜な形を以て、曾て行はれて居た時代のあつたことを、窺ひ得るやうな氣もする。實際この話は只の一つの傳説として、或地に根を生やし永く殘る爲にも、少しばかり簡單に失して居る。ましてや是が次から次へと、屢〻何人かによつて持ち運ばれたものにしては、餘りにも荷造りが不完全である。もとは恐らくは今一段と纏まつた説話であつたのが、世の流行におくれて廢れてしまひ、最も印象の深かつた此部分だけが、ちやうど又傳説のやうに消え殘つたものであらう。さうでなかつたならば單に是だけの話が、斯樣に數多く分布して居る筈は無いのである。

 この私の想像が當つて居るか否かは、今後の採集が追々に之を決してくれると思ふから、今はたゞ心づいて居る事實だけを列擧するにとゞめて置くが、寶曆二年(西曆一七五二)の序文のある裏見寒話の末の卷にも、既に又一つの同じ例を載錄して居る。甲州は奧逸見(おくへんみ)の山間の古池で、ある夏の日の午後に土地の者が釣をすると、其日に限つて夕方まで一尾も竿にかゝらず、もう歸らうとして居る頃になつて、色の白い眼のきらきらと光つた見なれぬ魚を釣り上げた。それをびくに入れて早々還つて來ると、一町半も離れて後の池の方から、頻りに其名を喚ぶ者があつたというのは、釣人の名を呼んだといふのであらう。何と無く物凄く覺えて家に來て其魚を大盥[やぶちゃん注:「おほだらひ(おおだらい)」。]に入れ、上からよく蓋をして寢に就いたが、其夜夢の中に人來たつて憤怒の相を現はし、我は池の神なり、汝何が故に我眷屬を捕へ苦しむるぞと謂つて怒つた。さうして翌朝起きて盥を見ると、あれ程嚴重に蓋をして大石を載せて置いたのに、どうして出たものか其魚の姿は見えなかつたと誌して居る。是なども説話としては首尾の照應も無く、何か或一つの話の忘れ殘りの如き感あることは同じだが、それでも「一ぴき魚」と云ひ神の使はしめと云ふ所に、多少の結構の痕を存して居る。斯ういふ言ひ傳へが次々今幾つか出て來れば、以前どういふ形を以て是が流布して居たかの、見當だけは付くことゝ思ふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番士野田市左衛門成方(しげかた)が記した甲斐国(山梨県)の地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。享保九(一七二四)年に幕府から甲府城勤務を命ぜられて赴任し、以来三十年近くかけて同地で見聞したものを書き残しておいたが、これを三男吉川正芳の助けにより、宝暦二年に一冊の書に纏めたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐志料集成 三」の画像ので視認出来る。

「奧逸見(おくへんみ)」これでは不詳であるが、「裏見寒話」原典では『逸見比志村』となっており、これなら、現在の山梨県北杜市須玉町比志である(グーグル・マップ・データ)。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 四

 

     四

 

 それからまたずつとかけ離れて、宮城縣登米郡錦織村大字嵯峨立の、昌坊瀧(まさばうだき)の例は登米郡史にも見えている。ちやうど岩手縣の東磐井郡黃海(きのみ)村と接した境の山で、瀧壺は一反步ほどの湖水になつていた。昔此水中に大なる鰻がいて、時々現はれて人を驚かした。

    昌坊來るか來んかと聲すれど

    來るも來ざるも嵯峨のまさ坊

という歌のやうな文句があつて、それ故に瀧の名を昌坊瀧といふ口碑はあるが、是だけでは何のことかわからない。ところが幸ひなことには郷土研究の一卷十二號に、鳥畑隆治君の岩手縣側の報告が出て居る。昔この黃海村の農夫が、この瀧壺に來て大きな鰻を捕へ、それを籠の中に入れて還つて來ようとすると

    まさ坊まさ坊いつ歸るか

といふ聲があり、其返答としてはやゝ不明であるが、

    來るか來ぬかのまさ坊だ

と言つたとかで、怖れて魚を棄てゝ遁げて戾つた。それよりして瀧の名を來不來瀧と書いて、まさばう瀧といふやうになつたとある。大分記憶が損じて居るやうだが、兎に角同じ話の分布であつたとだけは言へる。

[やぶちゃん注:「宮城縣登米郡錦織村大字嵯峨立」宮城県登米市東和町錦織(にしこり)嵯峨立。(グーグル・マップ・データ)。

「昌坊瀧(まさばうだき)」嵯峨立地区の北の岩手県との県境に位置する相川ダム((グーグル・マップ・データ)。ダムは宮城県側で登米市東和町錦織)によって消失していることが、登米市東和町錦織字岩ノ沢にあった登米市立嵯峨立小学校サイト内昌坊滝の伝説を読まれたい。同校は東和町錦織山居沢に於いて登米市立錦織小学校となった(合併か)模様である。

   《引用開始》[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えさせて貰い、一部の記号を変更した。]

   昌坊滝の伝説

 相川(嵯峨立の北を流れている)の上流に滝があり、その滝壷は広く沼のようであった。むかしその滝壷には大きなうなぎが住み、時々人を驚かしたと言う。

 ある時、昌坊という農夫が、朝この滝のほとりに草刈りに出かけた。草を刈り集め、背負って帰りかけ、二、三歩歩くと背中から声がした。

 「昌坊や 昌坊や 来不来の昌坊だぞ」

 昌坊は大変驚いて、背負っていた草を投げ捨てて後ろも見ずに家に帰って、寝こんでしまった。

 これは滝の主のうなぎのしわざであったと言われる。

 「昌坊来るや 来んか声すれど

           来るも来ざるも 嵯峨の昌坊」

 という歌のような文句があって、それでこの滝の名が出たとも言われています。

また、この滝には別のお話もあります。

 むかしひとりの坊さまが、中山(岩手県藤沢町)へ行こうと思い相川に沿って上がっていくと、高さ一丈(三メートル)ほどの滝があり、滝壷は小沼のように広がっていた。坊さまがそのほとりに行くと、二匹の大うなぎが遊んでいた。そこで一匹を捕まえて袋に入れたが、もう一匹には逃げられてしまった。

 さて、ここから去ろうとすると滝壷の中から

    「昌坊や 昌坊 いつ来るか昌坊や」

 という声がした。すると袋の中のうなぎが

    「来るや来らずの昌坊」

 と返事をした。これを聞いた坊さまは驚いて袋の中のうなぎを放してやった。

 そして、これからこの滝を「来不来滝」と書いて昌坊滝と読むようになったと伝えられている。

昌坊滝:現在の相川ダムの付近にあった滝で、現在はありません。

   《引用終了》

「登米郡史」「とめぐんし」。藤原相之助等編。大正一二(一九二三)年登米郡刊。

「岩手縣の東磐井郡黃海(きのみ)村」現在の一関市藤沢町黄海。(グーグル・マップ・データ)。「境の山」とは現在の相川ダムの北方に聳える岩手県側の一関市藤沢町黄海にある館ケ森山のことであろう。

「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。

「鳥畑隆治」明治末期の東磐井郡黄海小学校教員で郷土史研究家。]

 

 實際たゞ是ばかりの話では、永く覺えて居られなかつたのも尤もである。早川孝太郎君が「民族」三卷五號に報告した靜岡縣の例などは、幾分か話が込入つて居るけれども、それだけに解説がいよいよ困難で、二つ以上を比べて見ないと、何のことやら一寸把捉[やぶちゃん注:「はそく」。ちゃんと理解すること。]しかねる。遠州周智郡水窪(みさくぼ)町大字草木桐山といふ部落には「おとぼう淵」といふ淵があつた。昔この崖の上に一軒の物持があつて、淵の主と懇親を結んで水中から膳椀を借り、又金錢の融通をも受けて、それで富裕な暮しをたてゝ居た。此家へは度々淵の主の處から使者が來たが、蓼汁だけは嫌ひだと常に言つて居るにも拘らず、ある時家人がつい忘れて、振舞の膳に蓼を添へて出したところが、一口喰つて是はしまつたと叫んで、其まゝ前の淵に轉がり込んで行つた。其姿を見ると今までの人間の形とは變つて、赤い腹をした大きな魚になつて居た。さうして段々に川下へ流れて行つたが、流れながら頻りに「おとぼうや、おとぼうや」と喚はつた[やぶちゃん注:「よばはつた(よばわった)」。呼ばわった。]という。其以來此長者は淵の主との緣も切れて、忽ち家運は傾いてしまひ、今はしくおとぼう淵の名を止むるばかりになつたが、幽かながらも魚には何坊という子供見たやうな名をもつ者もあつたことが、爰でも我々には推測し得られるのである。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。

「靜岡縣」「遠州周智郡水窪(みさくぼ)町大字草木桐山」静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)奥領家(おくりょうけ)の、トンネル(グーグル・マップ・データ)が「草木(くさぎ)トンネル」であるから、この周辺であろう。

「赤い腹をした大きな魚」春三月上旬から五月中旬になると雌雄ともに鮮やかな三本の朱色の条線を持つ独特の婚姻色を有することから、「アカウオ」や「サクラウグイ」と呼ばれる、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis が想起される。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 三

 

     三

 

 それから今一つも同じ郡の隣村、勝田村大字余野での出來事で、是は尚一段と實話らしく誌されて居る。享保年中に此村に道善といふ者があつて、大鯰の背に負うて尾が土の上を引きずるほどのを釣り上げた。是も途中で背の上から道善道善と我名を呼び立てるので、怖ろしくなつて路傍の古井戸の中に投げ込んだと稱して、其の井戸がつい近頃までも有つた。二つも同じ話が有るのが變だと言つたところで、山一つ彼方の伯州のハンザケ、もしくは是から列記しようとする島々の話なども、引比べてみた上で無ければ、本家爭ひは實は出來なかつたのである。私は寧ろ三休だの道善だのと、特殊な固有名詞の伴のうて居るのを將來注意すべきことのやうに思つて居る。

[やぶちゃん注:最後の柳田國男の注意喚起には非常に共感する。

「勝田村大字余野」現在の岡山県美作市余野。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の古吉野から四キロメートルほど東北東の直近である。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。]

 

 但し三休が背の鯰にたゞ驚かされたといふだけで、其名が三休淵の名になるのは少しをかしい。是は事によると淵の主であつた恠魚の名であるのを、後に傳へる者が釣人の名の如く解したのかも知れない。鯰に名があるのも稀有なことに相異ないが、問答でもしようといふには名が無くては濟まなかつたらう。さうして九州には其樣な例もあるのである。大分縣直入郡柏原村の話は、さきに 「民俗學」の一卷五號に、長山源雄氏がこれを報告した。此村嶋田部落の小字網掛の下に、黑太郎淵といふ淵があつた。ある時ヒロトといふ處の者が、爰で網を打つて大きな魚を得た。それを携へて網掛の坂まで上つて來ると、不意に下の淵から、

    黑太郎公、貴公はどけえ行くんか

と、豐後方言で喚びかけた聲がした。すると網の主の魚は之に應へて

    ヒロトさに背の甲あぶりに行く

と言つたさうで、その人も肝をつぶして、網のまゝ其魚を松の木の枝の間に置いて遁げ還つたとある。網掛といふ坂の名は其時からといふらしいが、黑太郎淵の名も當然に其以前には人が知らう筈は無かつた。

[やぶちゃん注:「大分縣直入郡柏原村」「の嶋田」「小字網掛」現在の大分県竹田市荻町柏原附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長山源雄」「ながやまもとお」と読む。明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一年)。愛媛の郷土史研究家。「愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会」公式サイト内のこちらによれば、北宇和郡吉田町本町生まれで、東京錦城中学校卒業後、松山第二十二連隊で軍曹に進んだ後、『自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟』し、大正五(一九一六)年に『「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した』。『さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他』六十余篇を発表、『またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる』。『晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した』とある。]

 

2018/03/27

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 二

 

       二

 

 私がこの山海里の記文を選擇した理由は、竹籠を背にした村の老夫が、池を見つめて驚いて立つて居る繪樣[やぶちゃん注:「ゑやう(えよう)」。仮に絵に描いたとしての影像。]が、特に兒童の幻に鮮かであらうと思つたからで、此話は決して是がただ一つでも無く、又代表的なものでもなかつた。大もとは寧ろ魚も稀には物言ふといふ古い信仰で、泥鼈はたゞ其印象を新たにしたに過ぎなかつた。同じ形の昔話は日本群島以外にも、遺つているか否かはまだ詳くは知らぬが、兎に角に今は我々の間の目錄を作つて置く必要があるやうである。

 この例の一つは鳥取縣の日野郡誌に、多里村大字新屋の山奧の出來事として傳へられるもの、是もたゞの魚では無くて蜥蜴の方に近い大山椒魚、土地の方言でハンザケといふものゝことになつて居る。昔この谷川に長さ一間餘のハンザケが居たのを、村の者數人がゝりで捕へて擔つて[やぶちゃん注:「になつて(になって)」。担って。]來た。それが境の峠の上まで來ると、不意に大きな聲を出して

    行つて來るけになア

といつたので、喫驚[やぶちゃん注:「びつくり(びっくり)」。]して擔ひ棒と共に投げ棄てゝ、遁げて還つたといふ話であるが、此恠魚もやはり大垣の泥鼈と同樣に、土地の方言で叫んで居るのが面白いと思ふ。

[やぶちゃん注:「日野郡誌」「日野郡史」が正しい。初版は大正一五(一九二六)年日野郡史編纂委員編・日野郡自治協会刊。当該項は「下卷」の「第十二章 名称及天然記念物」の「第四節 珍奇動物」の冒頭に出る「山椒魚」の「傳説」の部分にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該項を視認出来る。

「多里村大字新屋」鳥取県日野郡日南町(にちなんちょう)新屋(にいや)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大山椒魚」「ハンザケ」両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus。別名をハンザキという。イモリと同様に強い生命力と再生能力を持つことから「半裂き」にしても死なない、生きているという意味からとも言うが、古文献には出ないので、この語源説は実は怪しい。なお、柳田國男は生物学は苦手だったか、「たゞの魚では無くて蜥蜴の方に近い」というのは大間違いである。サンショウウオ類は魚類から進化して初めて両生類になった生物群であって、寧ろ、トカゲと並べるなら相対的には魚に近い。トカゲ類は基本的にはその両生類から進化して陸に上がった生物群であるからである。

「村の者數人がゝりで捕へて擔つて來た」何のために? 無論、食べるために売りに行くのである。私の先輩教師で島根県のとある山間出身の方(数学教師)がいたが、「小さな頃に食べた。美味かった・お湯で煮るんだが、その時に強烈な山椒のような臭いがするんだけど、それで水に晒して皮を剝いで、さらに数時間煮ると、柔らかな白身となるんだ」と言っておられた。無論、特別天然記念物となった今では味わうことは出来ない。しかし、この先輩の話が嘘でない証拠にウィキの「オオサンショウウオ」には、『特別天然記念物の指定を受けるまでは、貴重な蛋白源として食用としていた地方も多い。北大路魯山人の著作『魯山人味道』によると、さばいた際に強い山椒の香りが家中に立ち込めたといい、魯山人はこれが山椒魚の語源ではないかと推測している。最初は堅かったが、数時間煮続けると柔らかくなり、香りも抜けて非常に美味であったという』とある。私は北大路魯山人が嫌いだが、この話は信ずる。]

 

 それよりも尚珍しいのは、海から入つて來た一つの昔話が、斯ういふ深山に土著するまでの經過である。中國の奧在所には此例が多かつたと見えて、嶺一重を隔てた岡山縣にも似たる口碑があつた。たとへば東作誌の卷三に、鯰が物を言つたといふ話を二つまで載せて居る。その一つは今の勝田郡古吉野(こよしの)村大字河原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵で、昔三休といふ人が六尺ばかりもある大鯰を釣り上げたことがあつた。手に下げることも出來ぬので背に負うて歸つて來ると、途中で其鯰が大聲を出して、おれは三休の家へ背を炙りに行くのだと人語したので、びつくりして元の淵へ持ち戾つて放したと傳へて居る。多分はもつと面白い顚末であつたのを、地誌の著者が省略して載せたのであろう。

[やぶちゃん注:「東作誌」(とうさくし」)は津山藩軍学師正木輝雄(まさきてるお ?~文政六(一八二四)年)が個人的に調査・著述・編集を行った、先行する森家津山藩の公的地誌「作陽誌」が扱わなかった美作国の東部六郡(東南条郡・東北条郡・勝南(しょうなん)郡・勝北(しょうぼく)郡(この二郡は後の明治三三(一九〇〇)年の郡制の施行で勝田郡となった)・英田(あいだ)郡・吉野郡)を対象とした地誌。ウィキの「東作誌」によれば、原型は文化一二(一八一五)年に出来たが、文政六(一八二三)年の死の直前まで編著を行っていたと推定される。正木の死後、『津山藩に献上されたが、複写・活用されることなく死蔵されてしまう』。嘉永四(一八五一)年、『江戸藩邸で儒官昌谷精渓(さかやせいけい)が死蔵されていた『東作誌』を発見。欠本散佚があったため修復して編集し直し、これが現在伝わる『東作誌』の元となっている』。『当時の津山藩は正木の活動に御内用として補助金を支給していたが、あくまで『東作誌』は正木の個人事業であり、費用の多くは自弁で公的許可もなかった。その為、正木は廻村時の他領調査を「潜行」と称している』とある。

「勝田郡古吉野(こよしの)村大字河原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵」現在の岡山県勝田郡勝央町((グーグル・マップ・データ))附近を貫く滝川の川筋であろう。同地区内に「古吉野保育園」の名を見出せる。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 一

 

   物言ふ魚

 

     一

 

 兒童文庫本の日本昔話集(上)に、私の採錄した泥鼈[やぶちゃん注:後に出る通り、二字で「すつぽん(すっぽん)」と読む。]の親方といふ一話は、今から百年餘り前に、美濃國のある淨土宗の僧の著はした、山海里[やぶちゃん注:「さんかいり」。]といふ書物に出て居るものであつた。大垣の城下から一里東の中津村で、古池を替へ乾して大きな泥鼈(すつぽん)を捕り、それを籠に入れ肩に負うて、町の魚屋へ賣りに行く途中、他の一つの池の塘[やぶちゃん注:「つつみ」。]を通ると、其池の中から大きな聲で

   いずこへ行くぞ

という者がある。そうすると背中の籠の中から、

   けふは大垣へ行くわい

と又大きな聲で答へる。

   何時歸るぞ

と池の中から問へば、

   何時迄居るものぞ、あしたはぢきに歸るわい

と背中の泥鼈は答へた。籠を負うた男は肝を消して、是は池の主だつたと見える。しかしひけ目を見せてはならぬと、殊更に籠の葢[やぶちゃん注:「ふた」。]に氣をつけ繩を強くかけて、明日は還るといふからには殺されるのでは無からう。金を取つて寺へ施物とし、我も魚屋も罪滅しをして、是を限りに殺生を止めようと思案して、だまつて其泥鼈を魚屋に持つて行つて賣つた。其次に[やぶちゃん注:「日本昔話集」では『其翌日』とある。]町へ出た時に魚屋に行って見ると、魚屋の亭主の曰く、あれは誠に怖ろしい泥鼈であつた。刄物が無くては人にも切り破れないやうな生洲[やぶちゃん注:「いけす」。生簀。]に入れて置いたのに、いつの聞にか見えなくなつて居たと談つた(以上)。斯ういふ風に實際あつた事として記して居る。説教の種本には古くから、斯ういふ話し方が普通であつたのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「兒童文庫本の日本昔話集(上)」昭和五(一九三〇)年アルス刊の「日本日本昔話集 上」の「泥鼈(すつぽん)の親方」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。後に「日本の昔話」と改題されて、全集に所収されている。

「泥鼈」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis

「美濃國のある淨土宗の僧の著はした、山海里といふ書物」浄土宗ではなく、浄土真宗の学僧で勅許上人位権少僧都正定閣の称号を得た佛光寺教団学頭であった信暁(安永三(一七七四)年~安政五(一八五八)年)の著した全三十六巻から成る仏教説話集。

「中津村」不詳。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 『日本人』の筆陣

 

    『日本人』の筆陣

 

 二十九年後半は『日本』に文を草する傍(かたわら)、しばしば他の紙上にも筆を揮った。『東西南北』の序とか、「俳句返却届」とかいうような短いものもあり、『世界の日本』に掲げた「我が俳句」(美の客観的観察、美の主観的観察)のように二回にわたるものもあったが、最もめざましかったのは『日本人』誌上における活動である。その一は「文学」という文芸時評で、これには越智処之助(おちところのすけ)の名を用いた。当時の文芸時評なるものは、一般に小説戯曲に重きを置き、韻文は全く顧みられぬ状態であったのを、居士は漢詩、和歌、俳句、新体詩等の作品にも詳評を下し、「小説を評して韻文を評せざる者多きに對して權衡(けんこう)を保たん」とした。その二は竹(たけ)の里人(さとびと)の名を用いた新体詩で、闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる。『日本人』は毎月五日、二十日の二回発行であったが、居士は殆ど毎号欠かさずに両種の原稿を掲げて行った。

[やぶちゃん注:「『東西南北』の序」この部分の宵曲の書き方というか、底本の表記の仕方は頗るよろしくない。「しばしば他の紙上にも筆を揮った」とした直後に「『東西南北』の序とか」と記しているが、これでは、若い読者の多くは『東西南北』とはどんな新聞・雑誌だろうと思うこと必定である。「東西南北」は新聞でも雑誌でもない。明治二九(一八九六)年七月十日明治書院刊の與謝野鐵幹著の「虎剣流」と呼ばれた国家主義的悲憤慷慨調の詩歌集「東西南北」である。子規の序文は「青空文庫」ので正字正仮名で読める。知らない方が悪いって? 私は若き日にこの詩集を読み、数ページにして吐酒噴飯して投げ放ち、今は書庫の下敷きとなって紙魚に食われている。というより、彼の詩を読もうという若者は今や、殆んどいないし、本屋の店頭には売られていないよ

「權衡(けんこう)」均衡。吊り合い。これで「からばかり」と読んで「柄秤」「唐秤」、秤(はかり)の意味もある。元々が、秤の錘(おもり)と竿のことだからである。

『新体詩』『闌更(らんこう)の句にヒントを得た「鹿笛」一篇にはじまる』「闌更」は江戸中後期の俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)。生家は加賀金沢の商家。名は正保或いは忠保。蕉風復古を唱え、京で芭蕉堂を営んだ。寛政五年には二条家より「花の本」宗匠の号を免許された。正岡子規の明治二九()年八月五日『日本人』発表の新体詩「鹿笛」は高桑闌更の一句、

 

 鹿笛に谷川渡る音せわし

 

に深く打たれた子規が、それを句の詩想を換骨奪胎・敷衍拡張した、七五調を基調としつつも字余り・字足らず多用した、実に百二行にも及ぶ長詩である。国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第六巻」(アルス刊)の画像のから視認出来る。]

 

 居士は「文学」において鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子四家の評論を試みた。後年「俳諧叢書」の一として刊行された『俳句界四年間』の附録についているのがそれである。居士が自家の陣営を検討し、個人的に俳句を論じたのはこれを以て最初とする。文芸批評家は韻文を問題にせず、たまたま問題にする者があったにしても、俳句などを取上げることは絶対にない。居士が鳴雪翁以下の作品について詳論を試みたのは、当時としては正に破天荒の出来事で、これらの作家を世に紹介すると同時に、いわゆる新派俳句発達の径路を明にしたものでもあった。古白は已に逝き、非風は文学の天地を離れている。当時の居士の身辺から最も有力なる作家を挙げるとすれば、公平に見てこの四家を推すより外はなかったろうと思う。

 和歌における新派の勢力もいまだ微々として振わなかった。『日本』紙上における歌論なるものが、概ね海上(うながみ)派と御歌所(おんうたどころ)派との応酬に限られていたのを見ても、その一斑を知るべきであろう。この間において居士が『東西南北』を挙げ、「今の世に歌ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。今の世に新体詩ありやと言ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん。著者鉄幹は自ら文学者を以て居らざる者、その者の著を以て韻文界の啓明と目することむしろ文学の恥辱なり。然れども吾人(ごじん)はこれに勝る者を見ざる間は『東西南北』を以て好となさゞるを得ず。著者は言語音調の上に一種の妙処を有せり。殊に豪壮なる感を起さしむるに適当なる調子を善くせり」といったのは、新に興るものの価値をよく認め、その特色を十分に理解していたのである。しかし居士は単純なる『東西南北』の讃美着ではなかった。『東西南北』を非難する者の多い中に、衆口一斉に賞揚する「乞食(こじき)らが著(き)すてし野邊の朽ちむしろくち目よりさへ咲くすみれかな」の歌の如きは全く悪歌だとしていた。この歌の趣向において見るべきものは、朽筵(くちむしろ)に董(すみれ)の咲いている光景にあるので、それが誰のものであったかを穿鑿する必要はない、「乞食らが著すてし」ということは蛇足である、朽筵のあたりに董が咲くとか、董が咲いている中に筵が朽ちているとかいうだけでいいのに、朽目といったのは殊更で面白くない、「さへ」の表は殊に拙なるもので、この表のためにこの歌は虚なる理窟となり、従って無味なものとなっている、というのである。この種の解剖的批評に至っては、後年の歌論に用いた筆法と全く変りがない。「文学」の中にはこういう議論も含まれているのである。

 新体詩に用いられた材料にも、自ら世間流行の作品と趣を異(こと)にするものがあった。「父の墓」「園の秋」「金州雑詩」「病の窓」などの諸篇は、居士の世界が取入れられている点で興味があるが、大体において人事的曲折に乏しく、自然の空気に富んでいるのは、俳諧趣味の延長というよりも、「人間よりは花鳥風月がすき也」といった居士の性格の現れであろう。

 「文学」は十方二十日号限りで、後が出なくなった。この月初以来、胃痙(いけい)[やぶちゃん注:胃痙攣。]を病んで「松蘿玉液」その他の筆をも全く抛っているから、多分そのためであろう。「病の窓」という新体詩は、この病が漸くきたった後に成ったのである。

 

栗本丹洲 魚譜 〔無題〕(アズマギンザメの♂の同一個体の再登場!)

 

Tenguginzame2_2

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部・体幹中心部・吻尖端と三つに分断されているため、合成した。なお、本図にはキャプションはない。しかし、その独特の形状から、本図は既に出た「天狗鯊」と同一種で、そちらで述べた通り、魚類学者の阿部宗明の同定によって、

テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana 

ということになる。しかも! である! これ、それとは別個体ではないのだ! 細部を見ても、同一個体を別に描いたものとしか思えないのである! 参考までにそちらの図も下に並べて出す。

 

Tenguzame

 

 無論、彩色画であり、同一画(日本画の場合、描いた後に和紙を薄く剥がすことで、真筆画が二枚あることは例外に事実としてある)であろうはずはないのであるが、側線部分の内側や鰭の極微な形状や模写対象に当たった光の微妙な違いが纔かに感じられるだけで、現代なら、機械的な複写物(カラー・コピー)だろうと言われそうなほどに、酷似している実は、残る六個体のギンザメ類(途中に一枚だけエイの卵鞘が出、そこにはキャプションがある)も、どうも前に出たものと同一個体の模写のように思われるものばかりであり、或いは、そうした確信犯(ギンザメ・フリークである自身のメモリーとして、お気に入りのエやサメのコレクションとして集成した巻子本)で、キャプションなしと丹洲はした可能性が濃厚な気がしてくるのである。]

栗本丹洲 魚譜 剣尾魚 (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)

 

Kenbiuotunoji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は頭部と胴以下が分断されているため、合成した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママであるが、約物のカタカナの「ト」と「モ」の合成(読みはドモ)は正字化した)

剣尾鯊 ツノジ ギンザメ 白色多ク光澤ノモノ ハクザメト云 此物半身以下

漸〻細長ナリ然レトモ直ナラス乄下ノ方ヘ曲ルヿつノ字ノ如シ

ツノジノ名アリ味淡毒ナシハンヘン或シンジヨシテヨシ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した。一部に読解の用に〔 〕で添え字をした)

「剣尾鯊」。「ツノジ」「ギンザメ」〔とも〕。

白色多く、光澤のもの。「ハクザメ」と〔も〕云ふ。此の物、半身以下、漸〻(ぜんぜん)〔に〕細長なり。然れども、直(ちよく)ならずして、下の方へ曲ること、「つ」の字の如し。故に「ツノジ」ノ名あり。味、淡(あは)し。毒、なし。「はんぺん」或いは「しんじよ」にして、よし。

 

[やぶちゃん注:やはり同前の同定。額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点では

 

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii も挙げておく必要があろうかとも思われる。後者の可能性が高いかも知れぬ。

「剣尾鯊」ギンザメの異名として複数回、既出。

「ツノジ」同前。しかし、ここでは驚くべき異名解明がなされている。則ち、『此の物、半身以下、漸〻(ぜんぜん)〔に〕細長なり。然れども、直(ちよく)ならずして、下の方へ曲ること、「つ」の字の如し。故に「ツノジ」ノ名あり。』で、

   *

 この魚の類は、魚体の半分から後方以下の部分が、だんだんに有意に細長くなっている。ところが、それがどの個体も、体幹に対して真っ直ぐにはならず、下の方へ有意に曲がっていて、その様子は、あたかも平仮名文字の「つ」の字のようである。従って「ツノジ」(「つ」の字)という名がある。

   *

というのである。現行、ギンザメの異名の「ツノジ」は由来不詳とされている。私は前の最初にこの「ツノジ」の名が出る「銀ザメ (ギンザメ)」の注で、

   *

この異名は確認は出来なかったが、感覚的には先に出た「キンザン」とも親和性を感じる。この「ツノ」は背鰭前縁にある危険な棘を「角」と言ったものと私には思われる。『博物学古記録翻刻訳注 17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載』で既に述べたが、ギンザメ類のの頭額部には交尾の際にを押さえつけるのに用いられる鉤状突起があるから、それを「ツノ」と言った可能性もあるかも知れぬが、本図には、そもそも、それがない。当時の漁民はを区別して同一種とするよりも、違った魚としてそれを捉えた可能性の方が私は高いと思うのである。

   *

などと安易に推理したが、そこでは私が都合よく「ジ」を誤魔化していた。この説姪の方が腑に落ちた。リンク先にも、この公開後に追記をする。但し、ギンザメ類の数少ない生体画像や動画を見ても、体幹は残念ながら、真っ直ぐに、伸びている。深海から釣り上げた際の圧力影響によって、そのように曲がってしまったものとは思われる。

「ハクザメ」「箔鮫」。ギンザメの異名として複数回、既出。

「味、淡(あは)し」「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ギンザメ」の「味わい」の項によれば、『旬は不明』。『鱗はなく』、『薄いアルミ箔のような皮をしている。骨は柔らかく歯のみが硬い。背鰭棘は非常に強いので要注意』。『白濁した白身で繊維を感じない。水分が多くスポンジを思わせる。火を通すと締まるが、ほぐすと』、『ぼろぼろする』。『肝はクセがなく美味』とあって、「食べ方・料理法・作り方」の項には、『ソテー(ムニエル)、揚げる(フライ、唐揚げ)、煮る(煮つけ)、汁(潮汁)、生食(焼霜造り、肝さし、刺身)、焼く(干もの)』を掲げ、調理した写真も並び、かなり美味そうである。

「毒、なし」肉は無毒である。なお、既に書いたが、ギンザメ類は背鰭前縁に一本の毒腺のある棘を持ち、刺されると痛むが、人に対する毒性は弱いとされている。

「はんぺん」「半片」「半平」。形状を言ったのであろう「はんぺい(半平)」の転とされる。擂り潰した魚肉に山芋や澱粉を加え、調味して蒸し固めた白くふんわりした食品。そのままで、また、焼いたり、吸い物の実にしたりして食す。

「しんじよ」「糝薯」(しんじょ)。「はんぺん」に同じい。魚・鳥・海老などの擂り身に、擂った山芋を加えて調味し、蒸すか或いは茹でた食品。同じく、そのまま或いは吸い物の実などにする。]

栗本丹洲 魚譜 銀ザメ (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)

 

Ginzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は尾部が分断されているため合成した。]

 

□翻刻1(原典のママ)

銀ザメ

 栘氏魚譜

 中ヨリ抄出

 是田村家藏

 ノ一ナリ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「銀ザメ」

「栘氏(りつし)魚譜」中より抄出す。是れ、田村家藏の一つなり。

 

[やぶちゃん注:全体に体色が不審であるが、先の異魚「ツノジ」の類と同じ手法で考えると、額部の突起物ないからは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon も挙げておく必要があろうかとも思われるしかし、乾燥標本(この体色は経年劣化かも知れぬ)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもない。

「栘氏(りつし)魚譜」「栘」と判読するのに少し手間取った。これは「栗」の異体字。則ち、これは栗本丹洲の労作として知られる「栗氏魚譜」のことであると判断した。当初は、他人の魚譜と思い、いろいろ探して見たが、ピンとくるものが見当たらず、或いはと思い、「栗」の異体字を探したところ、この字に辿り着いた。考えて見れば、「抄出」した、というそっけない謂いは自分の著作からだからこそ自然であり、また、もと、自分が書写したものであるからこそ、その対象の原標本或いは原本が「田村家藏の一つなり」と断定出来るのだと腑に落ちた。但し、立国会図書館デジタルコレクション蔵本譜」には相当する図ないようである(同図書館本は五巻分が欠けている)。

「田村家」不詳。]

栗本丹洲 魚譜 カスカメの胎子 (カスザメの胎児)

 

Kasuzamtaiji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。]

 

□翻刻1(原則、原文のママであるが、約物のカタカナの「ト」と「モ」の合字は表記出来ないので、正字で示し、ブログのブラウザの不具合が生ずるので二行目の位置は上げてある)

カスカメノ胎子 コレヨロイザメナリ 袖ザメトモ云モノ

                 亦此類ナリ

 

□翻刻2(読み易く整序した。なお、後で述べるように標題の「カスカメ」は誤字の可能性が高いが、正表記が二様に考えられるため、敢えてそのままで出した。後注を参照されたい)

「カスカメ」の胎子(はららご)

これ、「ヨロイザメ」なり。「袖ザメ」とも云ふもの、亦、此の類ひなり。

 

[やぶちゃん注:先に「カスカメ」という魚名に限って問題にする。これは私は「カスブカ」或いは「カスザメ」の誤記と判断する。而して成魚巻子本冒頭登場る「カスブカ」(そこでははっきりと「カスブカ」と書かれてある)、

軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica の胎児(本種は卵胎生)

である。再掲すると、魚体が扁平でエイのように見えるが、立派な鮫で(鰓孔が体の側面にあることでサメ類と判る。エイ類は体の腹面に鰓孔を有する)、名に「ブカ(フカ)」がつくのは古名ながら、正しい。「かすざめ」とは「糟鮫」で、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「カスザメ」の「由来・語源」によれば、『東京での呼び名。価値のないカス(糟、粕)のようなサメの意味』とある。にしても、この画、丹洲にしては雑な感じがする。

「ヨロイザメ」当時のカスザメの地方異名と採る。カスザメの皮は非常に硬く除去し難い。ウィキの「カスザメによれば、同種の『背面は中程度の大きさの皮歯に覆われ、頭部から尾までの正中線上には大きな棘の列が走』っており、『皮は鮫皮として、おろし金や刀剣の鞘としても用いられる』から「ヨロイ」(鎧)はまさにしっくりくるのである。実は標準和名で同名の軟骨魚綱ツノザメ目ヨロイザメ科ヨロイザメ属ヨロイザメ Dalatias licha がいるが、これは形状が全く異なる。

「袖ザメ」これも当時のカスザメの地方異名と採りたいカスザメは体は細いが、胸鰭・腹鰭は大きく広がっており、まさに「袖」のように見えるからである。]

栗本丹洲 魚譜 ネコザメの子 (ネコザメの幼魚)

 

Nekozame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。頭部下に突き出ているのは、前の「ドチザメ」の背鰭で本図とは無関係。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

猫サメ

 サヾヘワリノ子ナリ

 頭四角ニ乄桔梗

 花ノツホミニ似タリ

 因テキヽヤウサメ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「猫ザメ」

 「サザヱワリ」の子なり。頭、四角にして桔梗(ききやう)の花のつぼみに似たり。因りて「キキヤウザメ」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の幼魚個体の図。但し、本文を曲解されると困るので言っておくと、「サザヱワリ」(榮螺割(さざえわ)り)はネコザメの異名であって、「ネコザメ」は同種の標準和名であり、幼魚の呼称ではないただ、丹洲の気持ちも判らないではない。成魚の大きさになって初めて、大きなサザエも噛み砕いて食うようになるので「サザエワリ」であり、幼魚の頃は文字通り、子猫のように可愛らしい「ねこざめ」ちゃんだからね!

 今まで、胎児や卵鞘(卵殻)の図は出て来たが、そこではネコザメ自体の解説をしていないので、ウィキの「ネコザメを以下に引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。分布は『太平洋北西部。日本では北海道以南の沿岸で見られる他、朝鮮半島、東シナ海の沿岸海域に分布する。水深六~三十七メートルの浅海の海底付近に生息し、岩場や海中林などを好む』。『最大全長百二十センチメートル。背鰭は二基で、いずれにも前端に鋭い棘を備える。これは』、『とくに幼魚が大型魚の捕食から逃れるのに役立っている。臀鰭をもつ。体型は円筒形。薄褐色の体色に、縁が不明瞭な十一~十四本の濃褐色横帯が入る。吻は尖らず、眼の上に皮膚の隆起がある。この眼上隆起を和名ではネコの耳に、英名』(Japanese bullhead shark)『ではウシの角に見立てている。歯は他のネコザメと同様、前歯が棘状で、後歯が臼歯状である。循鱗は大きく、頑丈である』。『底生性で岩場や海藻類の群生地帯に住み、硬い殻を持つサザエなどの貝類やウニ、甲殻類などを好んで食べる。臼歯状の後歯で殻を噛み砕いて食べるため、サザエワリ(栄螺割)とも呼ばれる。日中は海藻や岩の陰に隠れ、夜間に餌を求めて動き回る夜行性である。遊泳力は弱いが、胸鰭を使って海底を歩くように移動することもある』。『卵生。日本では三月から九月にかけて産卵が行われ(三~四月が最盛期)、雌は卵を一度に二個ずつ、合計六~十二個産む。卵は螺旋状の』襞『が取り巻き、岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で約一年かけて成長し、約十八センチメートルで孵化する。雄は六十九センチメートルで成熟する』(先行する「波マクラ(ネコザメの卵鞘と胎児)を参照)。『刺し網などで混獲されるが、水産上重要でない。日本の和歌山など地方によっては湯引きなどで賞味される。酢味噌をあえる場合もある』。本邦では『水族館などでよく飼育、展示される。下田海中水族館(静岡県下田市)はネコザメの繁殖賞を受賞している。一般家庭での水槽飼育も可能で、小さな個体は観賞用に売買されることもある』。『人には危害を加えない』。]

栗本丹洲 魚譜 ドチザメ

 

Dotizamesaisyu

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は尻鰭附近で切れているため、接続合成したが、上部に次に示すネコザメが描かれ(上部から突き出ているのは、その右胸鰭で本図とは無関係)、尾部の上部には前のコバンザメが画かれているという、本巻子本の中では異様に前後上下が狭苦しくなっている。そのため、合成用カットの切り出し方を誤り、全体が不定形となってしまったことは、お許し戴きたい。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

ドチサメ

 臺灣志烏翅鯊

 身圓翅尾黒色

 モシ此烏翅鯊魚乎

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「ドチザメ」

 「臺灣志」に『烏翅鯊(うしさ)、身、圓く、翅・尾、黒色。』と。もし、此れ、「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」か。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scylliumウィキの「ドチザメ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。ドチザメ(奴智鮫(語源不詳)/英名:Banded houndshark)は、『日本近海から東シナ海にかけての沿岸に生息する。最大全長は百五十センチメートル。卵黄依存型の胎生。五~七年で成熟し、十~二十四尾の子供を産む。漁業の対象にはならない。飼育しやすいため、全国の水族館で見ることができる。おとなしく、人間を襲うことはない』。『太平洋北西部沿岸、日本の南北海道以南、朝鮮半島、台湾、東シナ海まで分布する。また、未確認だがフィリピン近海にも進出する。比較的水深の浅いところを好み、岩礁域や藻場にも現れる。海底近くを泳ぎ、遊泳力は強くない。しばしば海底で休んでいる姿が見られる。河口など比較的低塩分の環境にも耐える』。『体型は細長い流線型。吻はやや長く扁平で丸い。背側の体色は黒色から灰色で、オリーブや褐色がかることもある。体側に複数の暗色横帯や斑模様が見えることもある。腹側は白色。背鰭はやや後方に位置し、尾鰭は上葉が長く伸びて面積が広い。頭部には短い二本の鼻弁を備え、口の周りには唇のような皺がある』。『小魚や甲殻類、その他の底生生物を捕食する。ほとんど単独で行動し、群れることはないが、山形県飛島では五月から七月にかけて』、『多くのドチザメが集まる』。『胎生。胎盤を形成しない卵黄依存型。産仔数は十~二十四尾。伊豆半島近海では雄は全長九十三~百三センチメートル』で五~六歳で成熟し、『雌は百六~百十七センチメートル』で、『六~七歳で成熟する。出生時の全長は十八~二十センチメートル。寿命は雄』で十五年、雌で十八年ほどである。『二〇一六年には、富山県の魚津水族館の雌しかいなかった水槽内で幼魚が二匹生まれるという珍事が起きた(二〇〇九年と二〇一三年に続き』、『三度目)。このことから、単性生殖を行う可能性が示唆されている』。『日本では食用に漁獲されることはなく、各地で他の魚類に混じって混獲される程度である。食用にすることは可能であり、淡白な白身で癖がなく美味だという』とある。

「臺灣志」清の李元春が撰した台湾の地方地誌「臺灣志略」。道光期(一八二一年~一八五〇年)年成立。

「烏翅鯊(うしさ)」同書の鮫を列挙した箇所に(太字下線やぶちゃん)、

   *

鯊。龍文鯊爲最、其翅特美。烏鯊、大者數百筋、能食人。虎鯊・圓頭鯊、皆噬人。乞食鯊、皮可飾刀鞘。白鯊・雙髻鯊・烏翅鯊・鋸仔鯊・鼠𧋋鯊・蛤婆鯊・油鯊・泥鰍鯊・靑鯊・扁鯊・狗鯊。皆。鯊屬。

   *

と出る。但し、以下の「身、圓く、翅・尾、黒色」という解説はない。更に中文原文サイトを調べた結果、同じ清の黃叔璥(しゅくけい 一六八二年~一七五八年)の撰になる、先行する台湾地誌「臺海使槎錄」(一七二二年執筆開始)の「卷三」の鯊類について解説した中に(太字やぶちゃん)

   *

外此有烏翅鯊身圓翅尾黑色

   *

とあるのを発見したので、丹洲は引用した方の書名と前者を混同していることが判る。「臺海使槎錄」の方が百年も前のものであるから、或いは丹洲は注釈附きの「臺灣志略」を読み、そこに「臺海使槎錄」の「烏翅鯊」の記事注記を見出し、そのまま安易に引いたものかも知れない。

『もし、此れ、「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」か。』「或いは、この本邦の「ドチザメ」がその「烏翅鯊(うしさ)」=「烏翅鯊-魚(うしさざめ)」なのではなかろうか?」。しかし、調べてみると、現行のドチザメの繁体字漢名表記は正漢字で「皺唇鯊」である。それに対し、メジロザメ目 Carcharhiniformes のメジロザメ科メジロザメ属ツマグロ Carcharhinus melanopterus の現行漢名は、正漢字で「烏翅眞鯊」で、しかも異名として「黑翼鯊」「伯爵鯊」「黑鰭鯊」「黑鰭礁鯊」(参照した中文同種ウィキには、時に形状が類似することから、メジロザメ属カマストガリザメ Carcharhinus limbatus。正漢字表記「黑邊鰭眞鯊」と誤認されやすい旨の記載が有る)。以上から、「烏翅鯊」は私はツマグロのことを指していると考える。]

2018/03/26

栗本丹洲 魚譜 白のコバンザメ

 

Kobanzametaiji

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。画像は胴部後部で切れているため、接続合成した。

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

白ノコバンザメ

按ニ印魚ノ

胎子ナルヘ

キ乎

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

白の「コバンザメ」。按ずるに、印-魚(こばんざめ)の胎子(はららご)なるべきか。

 

[やぶちゃん注:本巻子本では珍しい、軟骨魚類でない、「サメ」とつくが「鮫」とは全く無縁な、条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates。丹洲はここまでの流れの中で、卵胎生のサメ類を知っているために、思わず、「印-魚(こばんざめ)の胎子(はららご)なるべきか」と言い添えてしまっているが、コバンザメは卵生であり、こんな総てが完備した個体になったものは、卵から孵化した幼魚と考えざるを得ない。しかし、どうもこの色合いや、雰囲気は幼魚のそれではない。アルビノ個体としてもヘンだ。そもそもが、コバンザメはかなり白いが、こんな半透明に肉色が見えることの方が何だか気持ちよくない。眼も胡乱(ウロン)にドロンとしてる。タダモノではない気配が充満してる。これは実は特殊な腐敗が短時間に進んだものではないか? 例えば、彼らは大型のサメ類等の口腔内にも吸着して寄生生活を送るのであるが、そうした大型魚と一緒に捕獲されてしまい、口腔内で一緒に死んでしまい、サメが腐敗を始め、尿素がアンモニアに変化し、コバンザメの体表面全体が爛(タダ)れて侵されたしまった死体変相の個体なのではあるまいか?

 一応、ウィキの「コバンザメを引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『サメの名がついているがスズキ目に属し、軟骨魚類のサメ類ではなく近縁でもない、全く無関係な種である』。『コバンザメ属 Echeneis は、全世界の熱帯・亜熱帯域に分布し、最もよく見られるコバンザメ類であるEcheneis naucrates と、メキシコ湾から南米北岸にかけて分布する Echeneis neucratoides(英名:Whitefin sharksucker)の二種から構成される』。『最大で百十 センチメートル・二千三百グラムに』もなる個体もいる『が、通常は七十 センチメートル程度。体長は体高の八~十四倍程度。背鰭は三十二~四十二軟条、臀鰭は二十九~四十一軟条。頭部の背面に小判型の吸盤があり、これで大型のサメ類やカジキ類、ウミガメ、クジラなどに吸い付き、えさのおこぼれや寄生虫、排泄物を食べて暮らす(片利共生)。吸盤には横(背骨と垂直方向)に十八~二十八枚の隔壁がある。この隔壁はふだんは後ろ向きに倒れており、動いている大きな魚の体表などの面に吸盤が接触するとこれらは垂直に立ちあがる。このとき隔壁と隔壁の間の水圧が周囲の海水の圧力より小さくなり、これによって吸盤は面に吸いつく。吸いついたコバンザメを後ろに引くと隔壁の間の水圧はさらに小さくなるので』、『吸盤はさらに強く吸いつく。反対にコバンザメを前に押すと』、『隔壁がもとの位置に倒れるとともに』、『吸盤内の水圧が上がり、吸盤は面からはずれる。このしくみによって、彼らは自分がくっついた大きな魚などが速く泳いでもふりはらわれずにすみ、また離れたいときは』、『大きな魚などより』、『少し速く泳ぐだけで簡単に離れることができる』。『体側には太い黒線と、その上下を走る細い白線がある』。『生息深度は二十~五十メートル。大型の海洋生物・船などに付着して生活するが、サンゴ礁の沿岸では単独で見られることも多い』。『幼魚はサンゴ礁域で掃除魚として生活することもある』とある。

「印-魚(こばんざめ)」中文ウィキコバンザメを見て戴くと判る通り、現在も同種の漢名は「」また、「長印魚」とも称する旨の記載がある。思うに、吸盤部分が印章の刻みの似ているからであろう。]

栗本丹洲 魚譜 鮫魚ノ子 (サメの胎児)

 

Samenoko

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

鮫魚ノ子 何サメナルヤ未詳

     日本橋魚肆ニテ

     貰ヨシ  雞卵ノ如

      色モチヤボノ卵

      似タリ

      大サ図

      但シ口ナシ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「鮫-魚(サメ)」の子 何ザメなるや、未だ詳らかならず。日本橋、魚-肆(さかなや)にて、貰ひ来(きた)る、よし。雞卵の如にして、和(やはら)かなり。色も「チヤボ」の卵に似たり。大いさ、図の如し。但し、口、なし。

 

[やぶちゃん注:同定は私も不能。入手状況が不詳であるから、範囲を狭めることも難しいが、魚屋が入手したとなると、前に示されたような、所謂、卵生種の鞘に入った胎児ではなく、それなりに大きなサメが入手され、それを解体した際に、で、その体内から発見された未成熟胎児であった(口吻部も未だ癒着していて開口していない)可能性が高いようには思われる縦縞模様が特徴だから、これが決め手になるのかも知れぬが、幼体なので私にはお手上げ例えば、卵胎生で、日本橋の魚河岸に持ち込まれてもおかしくない、背中に白い縦方向への斑点(星)模様を有意に持つ(或いは胎児はこんな縞々かも知れんという全くの想像)、軟骨魚綱ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属Mustelus manazo を試みに挙げておく。

「チヤボ」「矮鷄」。ニワトリの一品種であるチャボ。現在、天然記念物。普通の鶏卵の黄身よりも赤味(橙味)が薄く、より黄色に見える。但し、江戸時代の鶏卵と現行のそれはまた、異なるであろうから、これは現行のニワトリの一般的な鶏卵とチャボの違いを述べておいた。]

栗本丹洲 魚譜 波マクラ (ネコザメの卵鞘と胎児)

 

Nekozameransyou

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

波マクラ鯊魚腹中ヨリ

螺ノ如ク巻ク内ハ平ニシテ黒色ナリ

此中ヨリサメノ子出臍蔕アリ

胞衣付ケリ乾枯スレハ堅シ其ヤ

ハラカナルトキハ雞蛋ノキミノ如シ

志村愛輔親シク目擊シテ手写ス

ル処ナリ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

「波マクラ」

-魚(さめ)の腹中より出づ。螺(にな)の如く巻く。内は平(たひら)にして、黒色なり。此の中より、「サメ」の子、出づ。臍蔕(さいたい)あり。胞衣(えな)、付きけり。乾枯(かんこ)すれば堅(かた)し。其のやはらかなるときは、「雞蛋(けいたん)のきみ」の如し。志村愛輔、親しく目擊して、手写(しゆしや)する処なり。

 

[やぶちゃん注:卵生である軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の卵(卵鞘)及び、その中の卵黄に繋がった胎児個体二尾。ウィキの「ネコザメによれば、本邦では三月から九月にかけて産卵が行われ(三~四月が最盛期)、は卵を一度に二個ずつ、合計六個から十二個産む。卵は螺旋状の襞が取り巻いた独特の形状を成す。これは『岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で約』一『年かけて成長し』、約十八センチメートルに達すると孵化する。は六十九センチメートルで成熟する、とある。先行するウミヅル (卵生サメ・エイ類の卵鞘の付属器と同定)の私の注及びリンク先の画像・動画なども是非参照されたい。板鰓亜綱テンジクザメ目テンジクザメ科テンジクザメ属イヌザメ Chiloscyllium punctatum のものであるので卵鞘の形状が異なるが、癒乃さえりサメの卵を買って来たよ!そして産まれる日までまとめたよ!という動画が非常によい。卵鞘の中での胎児の動きから、孵化までの様子が見られる。必見!

「波マクラ」「波枕」。何と、風雅な名であることか。

「螺(にな)」広義の巻貝(腹足類)のこと。

「内は平(たひら)にして」スクリューやドリル状に見えるが、鞘の中央内部は管を巻いているのではなく、平らな一つの空間になっていることを言っている。

「臍蔕(さいたい)」「臍蔕」の二字で「へそ」と読んでいる可能性もあるが、後の「胞衣(えな)」(胎児が生み出た後に排出される胎盤・卵膜などの付属物)の表現から「臍帯」と同じ音で読んでおいた。

「乾枯(かんこ)すれば堅(かた)し」主語は卵鞘。

「雞蛋(けいたん)」「鷄卵」に同じい。鶏の卵。

「きみ」黄身。卵黄。

「志村愛輔」不詳。呼び捨てにしているから、栗本丹洲の弟子であろう。

「手写(しゆしや)」現場で即席にスケッチしたものという謂いであろう。或いは、それをそのままここに張り込んだ、則ち、丹洲が再描せずに、或いは、墨の単色スケッチ画に丹洲が志村愛輔に訊ねながら彩色を加えたものかも知れぬ。]

 

栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類 (ギンザメ或いはニジギンザメ)

 

Tunojinorui

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。元画像は、魚体が頭部及び胴前方・胴部後方及び尾部根元・尾部尖端に痛ましく分解されているので、三枚の画像をソフトで合成して一体の完品像として見られるように加工した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ)

此鮫水府海中ヨリ獲タリ

漁子モ其名ヲ不知但ツノジノ

類ナラン寛政初年ノヿナリ

 

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く約物を正字化し、推定訓読して整序した)

此の鮫、水府(すいふ)海中より獲りたり。漁子(れふし)も其の名を知らず。但し、「ツノジ」の類ひならん。寛政初年のことなり。

 

[やぶちゃん注:全体に体色が真っ黒なのは不審であるが、額部の突起物からは決まり。また、側線が前半から中央にかけて小刻みに波打っているところからは

軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma

が同定候補となるのだが、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっておらず、円滑であるという点では

ギンザメ科アカギンザメ属ニジギンザメ Hydrolagus eidolon も挙げておく必要があろうかとも思われるしかし、乾燥標本(この黒い色は経年劣化かも知れぬ。後注参照)にした結果、鰭などが毀損したとも考えられぬでもない。

「水府(すいふ)」水戸の異称。

「漁子(れふし)」漁師。

「ツノジ」既にギンザメ類の異名として多数既出。

「寛政初年」寛政元年は一七八九年。例えば、前の図は文化一四(一八一七)年の図であるから、単にそこと比較しても二十八年も隔たりがある。但し、本巻子本は新旧の図譜のランダム(少なくとも編年的構成要素は全くない)張り混ぜの魚譜であるから、この図が描かれたのはもっと前で、期間はずっと短くなる可能性も無論、有意にあるとは言える。]

栗本丹洲 魚譜 天狗鯊 (アズマギンザメの♂)

 

Tenguzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。元画像は、魚体が頭部・胴部・尾部に傷ましくも分解されているので、三枚の画像をソフトで合成して一体の完品像として見られるように加工した。]

 

□翻刻1(原則、原典のママ。【 】は二行割注)

劍尾鯊【閩書】 一名劍鯊【福州府志】

和名

天狗ザメ 此物ツノジ箔ザメノ別種ナリ

     其乾枯スルモノヲ観テ写

     眞色ヲ不詳文化丁丑中夏念五

     摂州堀田矦ヨリ借写ス其産処

     詳ナラズ
 
 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「劍尾鯊(けんびざめ)」【「閩書」】 一名、「劍鯊(つるぎざめ)」【「福州府志」。】

和名

「天狗ザメ」

此の物、「ツノジ」・「箔ザメ」の別種なり。其の乾枯(かんこ)するものを観て写す。因りて眞(まこと)の色を詳らかにせず。文化丁丑(きのとうし)中夏(ちゆうか)念五(ねんご)、摂州堀田矦より借り、写す。其の産処(さんしよ)、詳らかならず。

 

[やぶちゃん注:尾鰭の上葉が発達しておらず、辺縁に小さな突起があるように見えること、吻部の突出が著しいことから、私は

テングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica

ではないかと思ったが、ツイッターの「博物月報@hakubutu」氏の二〇一六年十一月五日附ツイートで、本図を掲げられて、『魚類学者の阿部宗明(故人)の同定によれば、「アズマギンザメのオス」という』とある。プロの同定であるから、

テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana

で採ることとする。但し、丹洲も「乾枯(かんこ)するもの」(乾燥標本で水分が完全に抜け切ってた、時間のかなり経ったもの)を「観て写」したので、「眞(まこと)の色」(生体時の色)が判らぬと注しているのは、その乾燥標本の色が、どうもひどく変色した怪しいもののようにしか見えなかったことを指しており、しかも本個体が捕獲された時期も場所も判らぬというのでは、標本としては資料足り得ないことになり、図からのみの絶対同定比定は難しいようにも私には思われる

「劍尾鯊(けんびざめ)」尾部の形状から腑に落ちる。但し、現行の中文の魚類分類表を調べたところ、酷似する「劍尾魚」は熱帯魚でよく見かける条鰭綱カダヤシ目カダヤシ科 Xiphophorus 属ソードテールXiphophorus hellerii に当てられている。また、「劍鯊」は古代サメの特徴を有しており、しばしば「生きている化石」とも呼ばれる、大きく突出した扁平な吻(頭部先端の尖った部分)が特徴的な軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ミツクリザメ科ミツクリザメ属ミツクリザメ Mitsukurina owstoni の異名漢名に「劍吻鯊」という相似した名がある。ミツクリザメはテングギンザメとは縁が遠いが、形状はやや似ているようには見え、こうした似た漢名が古くから与えられ、或いは混同して認識されていた可能性はないとは言えない。

「閩書」「閩書南産志」。明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「天狗ザメ」見かけによらず、非攻撃性のサメで、古くから食材として獲られていた軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメ Cetorhinus maximus は鋭い口吻を持つことで知られているが、若い個体では明確に曲がって尖って見えることから一部ではそうした若い個体を「テングザメ」と呼称している。また、付け加えておくとなら、先のミツクリザメが「天狗ザメ」と呼ばれていても私は至極納得するものである。

「ツノジ」既出。ギンザメの別称。

「箔ザメ」ギンザメの異名総称であろう。

「文化丁丑(きのとうし)」文化十四年。一八一七年。冒頭注で記した通り、磯野直秀氏の底本の解題によれば、丹洲は文化一四(一八一七)年四月十九日に開催された幕府医学館の薬品会に「垢鯊図纂」(こうさずさん:「垢」はエイ、「鯊」はサメの意)五十品を出品しているが、品数もほぼ同じであることから、これが本資料と推定されることから、本図については、執筆はそれ以前であったことが明白になる一枚である。

「中夏(ちゆうか)」旧暦五月。

「念五(ねんご)」「念」は「廿」の代用字であるから、文化十四年五月二十五日となり、これがグレゴリオ暦で六月十六日である(この年は閏五月が次いである)。

「摂州」摂津国であるが、ここは「攝津守」のことで場所は関係がない。次注参照。

「堀田矦」既出の若年寄堀田正敦(宝暦五(一七五五)年~天保三(一八三二)年)である。彼は五位下・摂津守である。当時は堅田藩藩主。]

 

栗本丹洲 魚譜 天狗鯊 (ギンザメ或いはアカギンザメの♂)

 

Akaginzameosu

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上部で背鰭前縁の棘状突起の先が切れているのと、左胸鰭の端が下部で切れてしまっているのは、原巻子本のママ。]

 

□翻刻1(原典のママ。下部のキャプションは有意にポイントが落ちるが、同ポイントで示した)

天狗鯊 俗名ナリ 委細見于神田玄泉日東魚譜

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く推定訓読して整序した)

「天狗鯊」

俗名なり。委細は神田玄泉「日東魚譜」を見よ。

 

[やぶちゃん注:軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera 類の(頭部形状に拠る)に同定出来る。体色及び尾鰭が独立して確認出来ないような描き方がなされているところ、及び第一背鰭の棘の後縁が鋸状にギザギザになっているところからは、本邦のギンザメ類の代表種であるギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma ではなく、アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii ではなかろうかとも思われる。

「天狗鯊」前にも述べた通り、「鯊」は「ハゼ」ではなく「サメ」と読む。「俗名なり」とわざわざ断って呉れているのは嬉しい。の注で私が述べた通り、現在の分類ではギンザメ目 Chimaeriformes にはギンザメ上科 Chimaeroideaギンザメ科 Chimaeridae 以外に、著しく伸長した吻を有する、遙かに異形でより「天狗」っぽく見える、全くの別種ギンザメ上科テングギンザメ科 Rhinochimaeridae が三属八種もおり、その中には文字通り、まんまの「天狗銀鮫」(標準和名もテングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica)いるが、この図と全く似ても似つかぬ別種だからである。くどいが、

現在のテングギンザメ=真正のテングギンザメ科のテングギンザメ類「天狗ザメ」

であるので注意されたい。現在の真正のテングキンザメ類は遂に次の図で出る。

「神田玄泉」(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある。既出既注であるが、再掲しておく。

「日東魚譜」全八巻。本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)但し、幾つかの版や写本があって内容も若干、異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。丹洲の言っているのは、のキャプションで指示しているのと同じ、国立国会図書館デジタルコレクションのこれであるした(左頁)。そこでは図に『ギンザメ』とキャプションがある。]

栗本丹洲 魚譜 【銀ハ】エ (ギンザメ♀)

 

Gizame3

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」から。上辺でキャプションの上部が切れてしまっているのと、下部の左胸鰭の先端が切れているのは、原巻子本のママ。標題を除くキャプションは文意が通じるので、更に上部に完全にカットされた字はないと推理出来るが、頭に配された本魚の名は最後がカタカナの「エ」であること以外は視覚上は判らない。後で述べるが、私はこの標題魚名は「銀ハエ」とあったのではないか最終推定した。]

 

□翻刻1(原典のママ。■は巻子本化するに際して、カットされてしまったと推定される字)

■■エ

 雌者腹大ニ色

 ウスシ雌雄俱

 總身銀箔

 似タリ因テ名ヲ

 得 此類ニテ

 ノ長キモノアリ上ヘ

 反張ス天狗ザメ

 ト云モノヽヨシ日東

 魚譜ニ略図アリ

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く整序変更した。切除されたものは「銀」と「ハ」と推定してそれを〔 〕で補った。推定根拠は後注を参照されたい)

銀ハエ。

 雌の者。腹、大に、色、うすし。雌雄俱に、總身、銀箔を押すに似たり。因りて名を得(う)。

 此の類(たぐ)ひにて、鼻の長きもの、あり。上へ反張(はんちやう)す。「天狗ザメ」と云ふものの、よし、「日東魚譜」に略図あり。

 

[やぶちゃん注:尻鰭がないように描かれている点と頭額部形状(特有の反り返った突出部を持たない)から、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma に同定する。

 なお、本図の魚名標題を「銀ハエ」とした理由を述べる。

 丹洲はキャプションの最後で、「此の」図に描かれた魚と同じような種「類」のもので「鼻」が「長」いものがおり、その「鼻」は「反張す」、則ち、その器官(部位)は、その魚の鼻とシミュラクラする位置に反り返った形で張り出して着いている、だから「天狗ザメ」と呼ぶのだとあることがら、その反鼻(へんび)した鼻のような部位(器官)とは、ギンザメのの頭部にのみ認められる鈎状突起を指している(これは交尾の際にを押さえつけるための器官と言われている。但し、深海魚であるギンザメ類自体の生体画像が撮られたのはごく最近のことであり、さらにその交尾行動を詳しく現認した観察記録があるとは、どうも私には思えない。とすると、これが確かに交尾時の補助器官であるかどうかは、私は少し疑問な気がするのである。親しい生物の教師も同様に本当にそのような器官として昨日するかどうかというのはちょっと怪しいと言っていたことを言い添えておく)から、それはまず、ギンザメ Chimaera phantasma と考えるのが自然であり、それに非常によく似ているが、突起がないというのだから、同種のとすることに異論はないものと思う。

 次に丹洲は神田玄泉「日東魚譜」に略図があると言っているのであるが、それはこの突起を持ったそれを指していると思われ、当該画像は国立国会図書館デジタルコレクションのこれではないかと私は推察した(左頁)。そしてそこには図に『ギンザメ』とキャプションがあるのである。さらに、上部の神田玄泉解説文では冒頭に、

 銀鮠魚

とあるのである。鮠(はや)は現行も昔も通常は淡水魚の条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae のうちで、中型で細長い体型を持つ種群(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis・コイ科ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri・アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi・コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypusOxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldiiOxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii 等)の総称である(ハエ或はハヨとも呼ぶ)のであるが、実は「鮠」は、それ以外に或いは「鮠魚」と書いて「サメ・フカ」の類をも古くは指したことがあったのである(不審を持たれる方は、Mitsuru Nakajima 氏の魚類サイト内の「真名真魚字典」のこちらの「鮠」の項を参照されたい)。とすれば、この「鮠」は「ハエ」と読んで「サメ」の意をも併せ持っていると考えてよい。

 残存した文字は「エ」だけである。だとすれば、ここは丹洲が「日東魚譜」に描かれた「ギンザメ」それと、同じ仲間であると判断したと考えるのは自然であり、丹洲はそこで、この魚の名として、「銀鮠」=「ギンザメ」という名(種群名)を与えたのだと考えて私はよいと思う

 ただ、丹洲は或いは、『此の類(たぐ)ひにて、鼻の長きもの、あり。上へ反張す(はんちやう)。「天狗ザメ」と云ふものの」由、『「日東魚譜」に略図あり』と記しているところから見ると、これを現在の魚類学的事実としての同種の♀♂ではなく、反り返った「鼻」を持つ、ギンザメ類の別種と捉えていた可能性も否定は出来ない。卵を持っていればとは判るから、図を描いた後に剖検して卵を見出したから「雌」と冒頭に断定しているのだと考えれば、現行のように反鼻様の突起物があるからとしたのではないと考えた方が、寧ろ、自然であって、やはり、形態は「鼻」を除いて完全に相同でありながら、丹洲は「鼻」のあるギンザメと「鼻」のないギンザメの二種がいると考えていたのではないか。形状分類のみが分類の鉄則であった当時から考えると、そう腑に落ちるのである。以上、大方の御叱正を俟つものではある。

「天狗ザメ」現行では、ギンザメ目 Chimaeriformes にはギンザメ上科 Chimaeroideaギンザメ科 Chimaeridae 以外に、著しく伸長した吻を有する、遙かに異形でより「天狗」っぽく見える、全くの別種ギンザメ上科テングギンザメ科 Rhinochimaeridae が三属八種もおり、日本近海にもアズマギンザメ(テングギンザメ科アズマギンザメ属アズマギンザメ Harriotta raleighana・クロテングギンザメ(テングギンザメ科テングギンザメ属クロテングギンザメ Rhinochimaera africana・テングギンザメ(テングギンザメ科テングギンザメ属テングギンザメ Rhinochimaera pacifica)の三種が棲息するが、この「テングギンザメ」と、この「天狗ザメ」は同名異物であることになるので、注意されたい。なお、現行の真正のテングギンザメ科のテングギンザメ類は、後の図に出る。

「反張(はんちやう)す」初見時は「そりはり」と訓読みしたかったが、「す」との繋がりが悪いので音読みした。]

2018/03/24

我が中国を愛する友へ――

 

歸去來辭 陶淵明
 
   
余家貧 耕植不足以自給 幼稚盈室 缾無儲粟 生生所資 未見其術 親故多勸余爲長吏 脱然有懷 求之靡途 會有四方之事 諸侯以惠愛爲德 家叔以余貧苦 逐見用于小邑 于時風波未靜 心憚遠役 彭澤去家百里 公田之利 足以爲酒 故便求之 及少日 眷然有歸歟之情 何則 質性自然 非矯勵所得 饑凍雖切 違己交病 嘗從人事 皆口腹自役 於是悵然慷慨 深愧平生之志 猶望一稔 當斂裳宵逝 尋程氏妹喪于武昌 情在駿奔 自免去職 仲秋至冬 在官八十餘日 因事順心 命篇曰 歸去來兮 乙巳歳十一月也
 
歸去來兮
田園將蕪胡不歸
既自以心爲形役
奚惆悵而獨悲
悟已往之不諫
知來者之可追
實迷途其未遠
覺今是而昨非
 
舟遙遙以輕颺
風飄飄而吹衣
問征夫以前路
恨晨光之熹微
 
乃瞻衡宇
載欣載奔
僮僕歡迎
稚子候門
三逕就荒
松菊猶存
攜幼入室
有酒盈樽
 
引壺觴以自酌
眄庭柯以怡顏
倚南窗以寄傲
審容膝之易安
園日涉以成趣
門雖設而常關
策扶老以流憩
時矯首而游觀
雲無心以出岫
鳥倦飛而知還
景翳翳以將入
撫孤松而盤桓
 
歸去來兮
請息交以絶遊
世與我而相遺
復駕言兮焉求
悅親戚之情話
樂琴書以消憂
 
農人告余以春及
將有事於西疇
或命巾車
或棹孤舟
既窈窕以尋壑
亦崎嶇而經丘
木欣欣以向榮
泉涓涓而始流
善萬物之得時
感吾生之行休
 
已矣乎
寓形宇内復幾時
曷不委心任去留
胡爲乎遑遑欲何之
 
富貴非吾願
帝鄕不可期
 
懷良辰以孤往
或植杖而耘耔
登東皋以舒嘯
臨淸流而賦詩
 
聊乘化以歸盡
樂夫天命復奚疑
 
 

2018/03/23

明日より佐渡へ

明日より、四度目の佐渡へ――随分、御機嫌よう――

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 七 / 魚王行乞譚~了

 

     七

 

 話が長くなり過ぎたから議論の方を省略する。私の説いて見たかつた一事は一國民の文藝技術が、終始書卷の外に於て成育しつゝあつたといふことである。本は只單なる記錄者に過ぎなかつたといふことである。是より以上に昔を問ふ途のなかつた場合に限つて、始めて助力を之に求むべしといふことである。ハナシといふ日本語は古い字引の中には見付からない。是は語りごとの樣式方法の、今は昔と大いに異なつて居ることを意味するかと思ふ。さうして軍陣羈旅の殊に盛んであつた時代になつて、咄の衆なる者は世に現れて活躍したのである。咄又は噺といふ文字が新案せられ、此語の頻りに用ゐられたのが、ハナシの技術の急に進化した時代と見てよかろう。技術は進んでも内容ほもと外部からの、自然の供給に仰がなければならなかつた。卽ち話は上手になつても話の種は乏しかつた。そこで近代の話し家同樣の、いとも熱心なる搜索と、稍無理なる變形とが始まつたのである。所謂武邊咄(ぶへんばなし)の流行が略下火(したび)になると、御伽這子(おとぎはうこ)一流の新渡[やぶちゃん注:「しんと」。新しく外国から渡来したこと。]小説の燒直しが始まつて居る。ウソにも亦一種の社會需要があつた。世間話の種の常に缺乏して、目先を變へる爲に傳説緣起の境まで、あさり步かなければならなかつたのは、驚くべく幸福なる太平無事ではあつたが、聽く者の側からいふと、自分等の生活慣習とは打合はない、翻案の痕の生々しいものよりは遙かによかつた。昔の讀者は少なくとも自主であつた。少なくとも今よりはナシヨナルであつた。作者は努めて此要求に追隨して居たことは、曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつたのを見てもわかる。

[やぶちゃん注:「曾我が三百年もの間、每年初春の芝居であつた」特に延宝四(一六七六)年正月、初代市川團十郎が「壽曾我對面(ことぶきそがのたいめん)」を初演(彼が演じたのは曽我五郎)が大当りした後は、この演目が正月興行には欠かせない出し物となり、初春を言祝ぐ祝祭劇として一番目の大詰に必ず演じられるようになった。江戸歌舞伎の正月興行に曽我兄弟の仇討を素材にした曽我狂言を行う仕来たりは享保年間(一七一六年から一七三六年)には出来ていたようである。また、それ以降も更にさまざまな演出や改作が行われるようになり、遂には一千種ともされる派生型の曾我物が生まれたのであった。本論文は昭和五(一九三〇)年一月の『改造』初出であるから、延宝四(一六七六)年は二百五十四年前になる。]

 

 以前京都の地に今日の東京の如く、話の問屋のあつたことは大よそ疑ひの無い證據がある。自分等のゆかしく思ふのは、彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]の番頭等の見本鑑定眼、それを全國的に捌いて行く品柄見立ての腕前であつた。那津(なのつ)堺津の貿易の頃から、外國の文藝の次々に舶載せられたことは、事情も之を推測せしめ、痕跡も顯著に殘つて居る。それを我々國民が手傳つて遣つて、今では立派な國産品にしたのである。私は魚が僧になつて來て飯を食つた話の、必ずもと輸入であることを信じて、今でも色々の方面を搜して居る。法苑珠林[やぶちゃん注:「はうをんじゆりん(ほうおんじゅりん)」、後注参照。]などは索引が無い爲に、有りさうに見えてまだ資料を見付けない。南方熊楠氏のような記憶のよい人に助けて貰ふの他は無いと思つて居る。しかし太平廣記の中には少なくとも二つの例があつた。次に引いて置くものが卽ちそれである。其一つは同書卷四百六十九に、廣古今五行記を引いて斯う記して居る。但し私の持つ本は新刻の惡本であるが、大要だけは多分ちがふまい。曰く晉安郡の民、溪を斷じて魚を取る。忽ち一人の白[やぶちゃん注:底本は「白恰」であるが、おかしい、ちくま文庫版全集で見ると『白袷(しろあわせ)』で意味は通るが、しかしこれもどうも違和感がある。原本(後掲)を見たところ、「白」が中国で男性が髪を纏めた絹製の白い帽子のことであった。原典によって訂した。]靑練の單衣を着て來たり詣る有り。卽ち飮饌[やぶちゃん注:「いんせん」。饗応のための飲食物。]を同じくす。供し畢りて語りて曰ふ。明日魚を取るに、まさに大魚の甚だ異なるが最も前に在るを見ん。愼みて殺す勿れと。明日果して大魚あり。長七八丈(尺?)、逕ちに[やぶちゃん注:「ただちに」。]來たりて網を衝く。その人すなわちこれを刻(?[やぶちゃん注:私の見た原文では「賴」だから「まうけとして」(利益・幸いとして)の意であろうか。])殺す。腹を破きて見るに、食ふところの飯悉くあり。其人の家死亡して略盡くとある。その二も同書同卷に朝野僉載[やぶちゃん注:「てうやせんさい(ちょうやせんさい)」。]を引いて、唐の齋州に萬頃陂[やぶちゃん注:「ばんけいは」。無論、固有地名であるが、「陂」は堤(つつみ)である。]という處あり。魚鼈水族有らざる所無し。咸亨[やぶちゃん注:底本は「感享」であるが、孰れも誤植と見て文庫本全集及び原典(後掲)で特異的に訂した。咸亨(かんこう)は唐の高宗の治世に使用された元号。六七〇年から六七四年まで。]中忽ち一僧の鉢を持して村人に乞食するあり。長者施すに蔬供[やぶちゃん注:「そく」。蔬菜(青物)の供物。]を以てす。食し訖つて[やぶちゃん注:「おはつて」。終わって。]去る。時に漁網して一魚を得たり。長六七尺。緝鱗[やぶちゃん注:「しうりん(しゅうりん)」。意味は後注参照。]鏤甲[やぶちゃん注:「らうこう(ろうこう)」。同前。]錦質[やぶちゃん注:「きんしつ」。同前。]寶章[やぶちゃん注:「ほうしやう(ほうしょう)」。同前。]あつて、特に常の魚に異なれり。齋して[やぶちゃん注:「もたらして」。]州に赴きて餉遺[やぶちゃん注:「しようい」。食べ物を贈ること。ここは州の太守に、であろう。]せんと欲するに村に至りて死す。共に剖いて[やぶちゃん注:「さいて」。割(さ)いて。]之を分つに、腹中に於て長者施すところの蔬食を得たり。儼然として[やぶちゃん注:「げんぜん」。厳(おごそ)かで動かしがたい事実に。]竝びに在り。村人ついに陂中において齋を設け[やぶちゃん注:「齋」は「とき」。「齋を設ける」というのは「神として祀る」ことを指す。]過度(?[やぶちゃん注:「過度なりとして齋を設く」で、「あまりに節度を欠いた所業であったとして祭祀した」の謂いではあるまいか?])す。これより陂中に水族なし。今に至つて猶然りとある。

[やぶちゃん注:ここで柳田國男が引いている原文は以下。前の話は「水族六 水族爲人」の「晉安民」、後のそれは同じ「水族六 水族爲人」の「萬頃陂」。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲A Matter of Custom原文及び田部隆次訳』で電子化しているが、新ためて示す。

   *

晉安郡民斷溪取魚、忽有一人著白、黃練單衣、來詣之、即同飮饌。饌畢、語之曰、「明日取魚、當有大魚甚異、最在前、愼勿殺。」。明日、果有大魚、長七八丈。逕來衝網。其人卽賴殺之。破腹、見所食飯悉有。其人家死亡略盡。出「廣古今五行記」。

   *

唐齊州有萬頃陂。魚鼈水族。無所不有。咸亨中。忽一僧持鉢乞食。村人長者施以蔬供、食訖而去。於時漁人網得一魚。長六七尺、緝鱗鏤甲、錦質寶章、特異常魚。欲齎赴州餉遺、至村而死、遂共剖而分之。於腹中得長者所施蔬食、儼然並在。村人遂於陂中設齋過度、自是陂中無水族、至今猶然絶。出「朝野僉載」。明鈔本作出「五行記」。

   *

前話の「晋安郡」晋代から隋初にかけて置かれた旧郡名。現在の福建省東部の福建省福州市晋安区。ここ(グーグル・マップ・データ)。後者の「緝鱗」はびっしりと「集まった」「光り輝く」(「緝」には以上の二義がある)鱗(うろこ)。「鏤甲」飾られたような煌びやかな背甲部(亀なら甲羅であるが、魚形であるから、超巨大個体も珍しくないチョウザメのような魚で。硬い背面(硬化して突き出た鱗)を有していたのかも知れぬ)を有していたらしい。「錦質」全体がくすんだ部分がなく、錦を織りなしたような極彩色であったらしい。「寶章」目出度い宝を表わすような文様をも皮膚に有していたようだ。

「法苑珠林」唐代に道世が著した仏教典籍・類書。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は仏教のみならず、儒家・道教・雑書など四百種を超え、また現在は散逸してしまった「仏本行経」「菩薩本行経」「観仏三昧経」「西域誌」「中天竺行記」などを引用しており、インドの歴史地理研究の上で重要な史料となっている。

「廣古今五行記」唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集。

「長七八丈(尺?)」唐代のスケールは一丈は三・一一メートルであるから、二十二~二十五メートル弱となり、余りにも巨体過ぎる。柳田國男の「?」も腑に落ちる。

「朝野僉載」「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。]

 

 此話が直接に日本へ移植せられた元の種で無いことは想像し得られる。さうして現に又二國以外の民族の間にも行はれて居るのである。何か總論の書で頭を養はれた人は、必ず待ち兼ねて居たやうにして、源は印度と言はんとすることであろう。勿論それも亦決して不自然なる推量では無かつた。何にしても斯ういふ現實に遠い話は、非常に古く始まり且つ弘く旅行をして居たものと見なければ、第一に人の信じたことを説明し得ないのである。しかも果して天竺の雲の彼方より、漂泊して爰に到つたものと假定すれば、更に日本以外の古い一國に於ても、人に説話を傳説化せしめんとする傾向あり、珍聞を我地に固著させ、努めて之を信じ易い形にして信じようとする無意識の希望があつたことを、明瞭にした結果になつて面白いのである。我々の昔話は信じ得ないのを一つの特徴にして居る。ウソの最も奔放なるものならんことを、寧ろ要求さへしたのである。それが流傳の間に何度と無く、傳説を欲する人々、卽ち郷土を由緒あるものにしたい念慮ある者に執らへられて、恰かも歷史の一部を構成するかの如く、取扱はれようとして居たのは奇異であるまいか。是をしも旅の藝術家の説話の妙に歸して、土人はたゞ均しく之に欺かれ了り[やぶちゃん注:「おはり(おわり)」。終り。]たるものと解する説には、自分一人は斷乎として與[やぶちゃん注:「くみ」。]しない。發育する者には食物の自然の要求がある。さうして教へられずして養分の何れに在るかを知つて居る。國土山川は廣く連なり、浮説は數限りも無く其上を去來して居た中に、獨りその或一つが斯うして或一處と結合したといふのには、もつと特別な原因が無くてはならぬ。古人は之を察してしかも名くるの途を知らず、たゞ漫然として因緣と稱して居た。我々の新たなる學問は是非とも其因緣を精確にすべきである。魚の人間に化けて飯を食つた話は、又サンチーヴの聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)にも一つ出て居ることを、近頃松本信廣君によつて注意せられた。ランドの安南傳説集(一八八六年)に、昔一人あり兒無し。或大川の落合に棲む鰻魚を捕りて食はんとす。そこに來合せたる僧あつて、切に助命を乞ふも肯ぜず。去るに臨んで佛法の式によつて調理せられた無鹽の蔬食を供した。後に愈〻此流れに毒揉みをして其大魚を捕殺し、腹を割いて見たところが、前に法師に供したる食物が其儘にあつたので、僧は卽ち鰻の假形[やぶちゃん注:「げぎやう(げぎょう)」と読んでおく。]なることを知つたと云ふ。しかも此男が鰻を食うて程無く、妻身ごもりて男兒を産み、それが彼の家の沒落の原因となつたことは、下總銚子の垣根長者と同じであつて、人は是を鰻の亡靈の報讎に出でたものと認めたと言つて居る。鰻の精分と生誕との關係、殊に此魚の形態が男子の或生理機關を聯想せしめることが、果して最初からの此話の本意であつたかどうか。此問題を外國の學者と共に論ぜんことは、到底私などの趣味では無い。爰には單に我々の搜索が、まだまだ進んでより古き民族に及び得ること、さうして必ずしも一つの大陸の間には限らず、或は猶遠く洋海の地平の外まで、分布して居ないとは極められぬことを説きたいのである。日本だけでさへもこゝにははや十に近い變化が算へ得られた。今後さらに頻々たる類例の發見に逢うても、猶最初の一定説を固守するまでに、西洋の學者は普通には頑陋ではない。それ故にその學説の早期の受賣は日本の爲に有害である。我々は其前に先づ十分に、自分の中の事實を知るべきである。

        (昭和五年一月、改造)

[やぶちゃん注:「サンチーヴ」民俗学者でその系列の出版社も経営していたエーミール・ヌリー(Émile Nourry 一八七〇年~一九三五年のペン・ネーム、ピエール・サンティーヴ(Pierre Saintyves)。

「聖母論(Les Vierges Mères kes Naissances Miraculeuses ; P. 116)」一九〇八年刊行。「聖母の奇跡の誕生」。

「松本信廣」(明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。沖縄・東南アジア研究の先覚者としても知られ、伊波普猷・柳田國男・上田万年・新村出・折口信夫・金田一京助らと共に「南島懇話会」を組織した。戦後は日本民族学協会理事長・日本歴史学協会委員長・東南アジア史学会会長・日本学術会議会員などを歴任した。参照したウィキの「松本信廣によれば、『日本人の東洋学者として最初の文学博士の国家学位を受けた人物である』とある。

「ランド」フランスの民俗学者・中国学者(インドシナを専門とした)アントニー・ランズ(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)。

「安南傳説集(一八八六年)」恐らくは原題はContes et légendes annamites(「安南(現在のベトナム)のコント(昔の小話)と伝説」) である。

「昭和五年」一九三〇年。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 六

 

       六

 

 江戸の二つの話では、簡單に麥飯と片付けられて居るが、是はもと必ずしも魚とその化けた人との合致を、立證する材料として借りられたものでは無かつた。團子や小豆飯等の變つた食物を調製し、集まつてそれを食ふ式日、卽ち古く節供と稱する改まつた日で無ければ、斯ういふ大切な事件は起ることが無いやうに、昔の人が考へて居た名殘でもあれば、同時に又其日の晴の膳に向ふ度每に、一年に一度は想ひ起す機會があつたことを意味するのでもあるが、其事を説かうとすると餘りに長くなる。たゞ一點だけ之に伴のうて述べたいことは、過去の記念物に對する我々の祖先の、敬虔なる態度である。彼等がウソを構へ出すに巧みであり、且つ又之を守持するに頑強であつたやうな誤解は、不幸にして主として是に基いて居るのであつた。古人は性靈の大いなる刺衝[やぶちゃん注:「ししよう」。突き刺すことから転じて、刺激すること。]に遭ふ每に、文士を傭うて之を金石に勒[やぶちゃん注:「ろく」。刻み彫ること。]せしむるが如き技術は知らなかつた。だから一家一郷の間に於ても、永く保存し得る場處又は地物[やぶちゃん注:「ぢ・ぶつ」と読みたい。土地や対象物の意である。]を指定して、日を期し相會して當時を追念し、更に感激を新たにしたのであつた。是が祭と名くる公けの行爲の、根源を爲すものと私などは信じて居る。少なくとも我々の靈地はそれぞれの傳説を持ち、又傳説のあるといふことが靈地の條件であつた。然るに人生は決して平和なる親子孫曾孫の引續きでなかつた。飢饉や動亂の間には記憶は屢〻絶え、獨り外形の最も貴とげなる遺蹟のみが、累々として空しく里閭[やぶちゃん注:「「りりよ」。村里。村落。]に滿ちたのであつた。新たなる傳説の來つて之に據らんとすることは自然である。しかも世上には職業として之を運ぶ者が、昔ほ今よりも遙かに多かつたのである。巫覡[やぶちゃん注:「ふげき」。神に仕えて祈禱や神降ろしをする者。「巫」は女性に(巫女(みこ))、「覡」は男性に使う。]遊行僧の妄談は必ずしもすべて信ぜられはしない。土地に住む人たちが周圍の事情、殊に内心の表示し得ない感覺によつて、受持し又信賴すべしとするもののみが、再び根を下し蔓をからみ、花咲き茂ることになつたのである。我々の語り物の沿革は、文字に現われた部分だけは、所謂國文學の先生も知つて居る。以前は此資料が概して單純であり、土地で養はれた知識經驗が、たゞ無意識に組合はされて出たゞけであつたが、後次第に其供給の源が複雜となつて、其大部分は是を昔通りの傳説として、乾いた海綿の水を吸ふように、受取ることが出來なくなつた。併し根本の需要はもと缺乏の補充に在つたが故に、永い間には比較的殘り易いものが殘つたのである。一旦京を通つて來た外國の文學が、假に一隅に於いて再び傳説となつて信ぜられて居ようとも、其を以て直ちに上古諸種族の親近を證明することが出來ぬのは勿論だが、さりとて唯偶然の誤謬とばかりも解することは許されぬ。恐らくは是も亦磁石と鐵との關係であつて、種は外から來ても牽く力は兼て内に潛んで居たのである。さうで無いか否かを檢する爲に、少なくとも話を日本人にわかり易く、又覺え易くした手順を究めて見る必要がある。所謂要點の比較だけによつて、無造作に説話の一致を説くことの、徒らに大きな混迷の渦卷を起すに過ぎなかつたことは、我々は既に例の羽衣式、又三輪式傳説などの研究と稱するものに由つて、經驗させられて居るのである。

[やぶちゃん注:「羽衣式、又三輪式傳説などの研究」羽衣伝説が視覚的外形の類似から白鳥伝説と結び付けられ、汎世界的な異類婚姻譚の一種である白鳥処女説話として安易な包括的拡大解釈が出ていること、三輪山伝説の活玉依姫に通う男が龍蛇の体を成す神であったことから、やはり広汎な異類婚姻譚の中に取り込まれ、比較神話学者の格好の餌食となっていったことを指すのであろう。次に出る「蠶神」「名馬と美姫」といった「おしらさま」伝承も同じく異類婚姻譚である。]

 

 中古以來の輸入説話にして、まだ最初の衣裳を脱ぎ盡して居ない爲に、この國へ來てからの變化の痕の、幾分か尋ね易いものも段々ある。東北地方に行はれて居る蠶神の由來、名馬と美姫とが婚姻して天に昇つたというのもそれかと思つて居るが、この大魚の飯を食つたといふ話などもそれと近い。之を土地に適用して居る昔からの約束と繋ぎ合せ、幽かに遺つた住民の感覺と、相反撥せぬものに引直して行くことは、隨分と面倒な仕事であつたらうと思ふが、幸ひに聽衆の多數が大まかであつたために、初期の歐羅巴の耶蘇教徒はそれに成功し、日本でも田舍巡りの布教僧たちは、古くは曼荼羅や三十番神の思想に據り、近くは又物々しい緣起の漢文などを以て、どうにか斯うにか目的を達していた。今の人の目から見るとをかしな事も多い。本地物(ほんぢもの)などゝ謂つたのは、途方もない外國風の奇談を述べたて、末に只一句此人後に何々明神となる、實は何如來の化身であつて、衆生に物の哀れ世の理[やぶちゃん注:「ことはり(ことわり)」。]を示したまふべく、假の姿を見せられたなどと謂つて居る。そんな事でも一應はまず濟んだのである。その代りには永くは榮えなかつた。やがて忘れられ又は只の昔話に化し、或はえせ文人の小説の趣向になつた。併し斯うして居るうちにも、少しづゝ沈澱して此島の土に混じ、分つべからざるに至つたものもあつた筈で、私が是れから尚色々の諸國の例を集めて見ようとして居るのも、目的は結局何が殘り、何が國風と調和せずして、消え去るべき運命を有つて[やぶちゃん注:「もつて」持って。]居たかを知りたいからである。

[やぶちゃん注:「三十番神」(さんじゅうばんしん:現代仮名遣)国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

 

 例へば三河の寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚、昔大鰻が僧に化けて來て、田村將軍に射殺された。其屍を埋めたといふ言ひ傳へになつて居る。腹から飯が出て來たといふ話はもう落ちて居るが、其後此沼の水を汲む者が、皆疫病になつたとも稱して、鰻を殺したのが悔ゆべき所業であつたことだけは察せられる。毒蛇退治の他の多くの物語と同じく、それが追々と英雄及び靈佛の功績の方に移つて來たのである。實際飯を魚腹に探るの一條などは、後の耽奇派には何でも無いことだが、昔の常の人の想像力には、稍荷が勝ち過ぎて居たのである。次には下總銚子の白紙明神の由來譚にある鮭と蕎麥、是は同僚鈴木文四郎君などが詳しく知つて居るが、單に一個の長者沒落物語の、前景を作る爲に利用せられて居た。今の松岸の煙花卷に近く、昔は垣根の長者という宏大なる富豪が住んで居た。利根の流れに簗(やな)を打つて、鮭を漁して此樣な長老にはなつたのである。或日一人の旅僧來たつて、殺生の業報を説いて諫めたけれども、それを聽かずして蕎麥を食はせて歸した。是も後に大いなる鮭の魚を獲て、腹を開けば卽ち蕎麥が出たといふのである。長者最愛の一人娘延命姫、其祟を受けて生れながらにして白髮であつた。折ふし此土地に流寓していた安倍晴明を戀ひ慕ふとあつて、日高川と同系の話が傳はつて居る。晴明は姫を欺いて、帶掛の松に帶を解きかけ、何とかの濱に下駄を脱ぎ置き、身を投げた如く裝うて遠く遁れた。姫はその跡を逐ひ歎き悲しんで海に入り、其亡骸が漂うてこの磯邊に上つたといふのである。是だけの細かな又美しい哀話が、曾て一たび遊女の扇拍子に乘つたもので無いといふことは、恐らくは一人も之を斷言し得る者はあるまい。しかも其結構には右の如く、彼等の與かり知らざる由緒があつたのである。だから私どもは記錄を超脱して居る民間口承の文藝にも、やはり後遂に尋ね究め得べき興味深き沿革あることを信じて居るのである。もつと率直にいふならば、今日殘つて居るだけの僅かなテキストに基いて、一國の文學史を説こうとする人の迂拙[やぶちゃん注:「うせつ」。うかつで世渡りの下手なこと。愚かで拙(つたな)いこと。]を嘲けるのである。

[やぶちゃん注:「寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚」「寶飯」は「ほい」ろ読む。「長澤村」は現在の愛知県豊川市長沢町であるが、「泉龍院」という寺は現認出来ない。「鰻塚」は成田三河守氏のサイト「城郭写真記録」の中の「三河 鰻塚城」に、鰻塚城跡として愛知県豊川市長沢町西千束を指示おられ、その解説で鰻塚城は標高百十メートルの『丘陵斜面に築かれ、長沢本城の西の砦として造ったものと思われる。坂上田村麻呂が巨大鰻を退治し、里人が祟りを恐れて鰻塚を築いたという伝説があることから、鰻塚城と称されたと云われる。現在は宅地、道路に変わり、遺構は無い』とあることから、この附近(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。また、この附近のを流れる音羽川下って見たところ、約四・七キロメートル下流の豊川市赤坂町東裏に, 真言宗の「龍泉院」という寺を見出せた(グーグル・マップ・データ))。しかし、同寺の創建年代や「鰻塚」がここにあるかどうかはネット上では捜し得なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「下總銚子の白紙明神」現在の千葉県銚子市川口町にある川口(かわぐち)神社のこと。ウィキの「川口神社によれば、寛和二(九八六)年の『創建と伝えられる。この神社には陰陽師安倍晴明と地元の長者の娘との言い伝えが残り、長者の娘が晴明と結ばれないことを苦に入水し、その歯と櫛を祀ったことから歯櫛明神(はくしみょうじん)とよばれ、白紙明神とも書かれるようになった。明治に入り』、『現在の川口神社と改められた』とある。同外部リンクにある、コミュニティ・サイト「きらっせネット歴史館」の「川口神社」には、『銚子市川口町の松に囲まれた丘の上にあるこの神社は銚子大漁節にも出てくる漁師の守り神』で、『速秋津姫(はやあきつひめ)を祀ってい』るとし、『この白紙という名前は悲しい物語に由来するようで』、『銚子近在の娘に延命姫という娘がいた。非常に醜いむすめだったそうな。陰陽師の安部清明と夫婦になったが』、『清明は姫を嫌って』、『長者の家を逃げ出し、飯岡上永井村の向後主水宅の大仏壇の中に隠れた。追いかけてきた姫は主水に「清明はいない」と断られた。屏風ヶ浦西端近い通連洞(銚子市、飯岡町)に行ってみると』、『清明の脱ぎ捨てた衣類などがあったため、姫も間違えて』、『身を投げて死んだ。川口に流れ着いた姫の歯や櫛をこの岡に埋め祠を建てた。だから白紙(歯櫛)神社なのだという。川口神社←白神明神←白紙神社←歯櫛明神と』四『度の名前換えがあったよう』であるとする(この名前の変遷を見ると、当初は「齒櫛」で「はぐし」で、それが「はくし」となり、白紙を「しらがみ」と読み換えて「白神」となったように読めるが、柳田國男の謂いからすれば、川漁殺生(主体たる御霊は鮭)の祟りのために「白髮」(しらがみ)となって生まれた姫所縁ということなら、「齒櫛」とは異なる命名ルーツ説があることになる。面白い)。『現在で』も『漁業者の信仰が厚』いとされ、『安部清明の伝説に関して言えば、この御話しの信憑性は非常に高い。これは晴明が銚子にやってきた際に宿泊したとされる家が分かっている』からであるともある。それは『初めは下総国小南村(香取郡東庄町小南)の笹本太夫三、次に笹本の紹介で海上郡三宅郷垣根村(銚子市垣根)の長者・根本右兵衛義貞に匿われていたと言う。上記の延命姫はその子供である。清明ゆかりの場所はほかに』も『銚子市陣屋町』に『清明稲荷大明神、清明堂(銚子市親田町)があ』るとある。そういやぁ、鎌倉にも安倍清明の屋敷跡と称する怪しいものも実はある(現在の北鎌倉駅から建長寺に向かって横須賀線の踏切を渡った右手)。

「鈴木文四郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二六(一九五一)年)はジャーナリスト。ペン・ネームは文史朗。千葉県銚子生まれ。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語科卒業。大正六(一九一七)年、東京朝日新聞に入社し、外報部に勤務、翌年、シベリア出兵従軍を皮切りに、パリ講和会議やロンドン・ワシントン両軍縮会議に特派員として活躍、国際記者として名を馳せた。社会部長・整理部長などを歴任した後、昭和一五(一九四〇)年には取締役となって社の経営に参画した。第二次世界大戦後、重役一斉退陣により、昭和二〇(一九四五)年十一月に退社。翌年には『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長に就任している。昭和二四(一九四九)年NHK理事。翌年六月の参議院議員に当選し、「緑風会」で講和問題に取り組もうとした矢先、癌で倒れた。名文家として世に知られ、「米欧変転記」「文史朗随筆」など著書も多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 五

 

     五

 

 但し國民としてそれをどの程度までに意識して居たかは、又別箇の問題に屬する。自分等だけでは全く新しい出來事かと思ひ、或は極端な場合にはウソをつく積りで話された話でも、それが偶然に國民の兼て信ぜんと欲した條件に合致すれば、意外な力を以て保存せられ、傳承せられる例はいつの世にもある。誰がしたとも知れぬ傳説の部分的改訂、風土と歷史に調和させようとする新らしい衣裳附け、それから又アタビズム[やぶちゃん注:atavism。先祖返り。生物学上の進化や遺伝の用語から、比喩的に一度は廃(すた)れた思想や現象(ここでは広義の信仰形態や風俗習慣)が再び取り上げられることを意味する。]に類した各地方の分布狀態なども、何れもこの隱れたる我々の趣味傾向、もしくは鑑別標準とも名くべきものを認めなければ、之を解説することが恐らくは出來なかつたのである。殊に物語を昔々の其昔の、物蔭多き曉闇の中に留め置かずして、強ひて暴露の危險ある我々の眼前まで、持つて出て樂しまうとした態度に至つては、是を國柄とまでは言ふことが出來ずとも、少なくとも近世日本の一つの時代風であつた。支那はどうあるか知らぬが、他の多くの文明民族には、さういふ例は有りさうにも思はれない。前に引用した木曾と惠那との岩魚なども、現にたゞ一人を仲に置いて、共に山で働いて居た者の集まり見た話になつて居るが、次に述べようと思ふ山口縣豐浦郡瀧部村の一例の如きも亦、つい近頃の事件のやうに傳へられて居るのである。瀧部では一夏非常な大旱魃があつて、村を流れる栗野川の骨(こつ)ケ淵(ふち)の水を、いよいよしやくつて田に入れるということに評議一決し、村民總掛りになつて汲み上げて居ると、やはり中食の時に一人の見知らぬ坊主が遣つて來て、どうか賴むから淵の水をかへ出すのを止めてくれと言つた。必死の場合だから一同はうんと言はなかつたが、其中の一人が辨當の小豆飯を分けて與へると、僧は默つてそれを食べてしまふと、突如として骨ケ淵の水中に飛び込んで見えなくなつた。不思議に思いつつも尚水を汲んで行くと、追々に澤山の川魚が捕れたが、坊主の姿はどうしても見付からず、後に其魚類を片端から料理して行くうちに、いちばん大きな怖ろしい鰻があつて、その腹を割いてみると先刻の小豆飯が現れた。此鰻もまた淵の主が化けて出て來たのであつたことが、是で明らかになつたと謂つて居る。

[やぶちゃん注:以上の収録元は不明。民俗学関連雑誌の民話・噂話の採録集に載るものか。

「山口縣豐浦郡瀧部村」「瀧部村」は滝部村(たきべそん)。現在の下関市豊北町滝部。ここ(グーグル・マップ・データ)。この滝部地区を通って、東北方へ流れる川があり、これが東で「栗野川」(水源は下関市豊田町金道の勇山から南へ伸びる丘陵部)に合流し、日本海に注いでいる。この場合、この支流が旱魃で干上がってしまい、東隣りの村(現在の下関市豊北町)の許可を得て、実測で村から三キロメートルほど離れた粟野川の水を汲み取ったものであろう。「骨(こつ)ケ淵(ふち)」は不詳であるが、私の以上の推理が正しいとすれば、現在の下関市豊北町のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)ではなかろうか?]

 

 鰻は他の民族にも氣味惡がつて之を食はぬ習はしが多い。最近耳にした例は臺灣紅頭嶼の島民であるが、單にその形のぬらぬらと長い爲ばかりで無く、別に其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない。日本では盛んに食つて居るにも拘はらず、群の中のすぐれたる只一つだけは、靈物として屢〻其奇瑞を説かれて居た。神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る。或は年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか。久しく日本に駐まつて學問をしたニコライ・ネフスキイ君は、曾て南海の諸島を歷遊して後に、斯んな意見を發表した。日く支那では虹を蛇[やぶちゃん注:正確には「龍蛇」である。]の屬に入れて居るが、日本各地の虹の語音は最も鰻に近い。例へば羽後の一部では虹をノギ、琉球の諸島も中央部のヌーヂ、ノージから、端々に向へばノーギ、ノーキ又はモーギ等になつて居て、鰻を意味するウナジ・ウナギと似て居る。蛇も本土の古語にはノロシ、ナフサがあるから、二者はもと差別しなかつたのかも知らぬが、兎に角に水底の靈怪のヌシという語を以て呼ばるゝものが、蛇とよく似た又別種の大動物と想像せられていたのは、少なくとも基づく所は鰻であつたらうと云ふのである。アナゴとウナギの本來は一語であつたことだけは成程もう誰にも承認せられる。宮城縣の上部には鱧(ハモ)をアナゴ、穴子をハモと謂ふ海岸があることは私も知つて居る。何にもせよNGとの子音を用いて、表示しなければならぬ水中の靈物があつたことは、我々がまだ池沼の岸を耕さず、山川の淵の上に家居せざる前から、既に此世には知られて居たので、それが坊主になつて近頃又出て來たのである。

[やぶちゃん注:「臺灣紅頭嶼」「たいわんこうとうしよ(しょ)」は台東県蘭嶼郷に属する、台湾本島の南東沖合にある周囲約四十キロメートルの孤島蘭嶼(らんしょ)の旧称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「其習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめて居るらしく感ぜられるが、まだ確實で無い限りは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない」私が思うに、ここで柳田國男が言葉を濁してその理由を語らないのは、それを語ると、「蒲燒屋の怨みを買ふ」ほどに日本人が皆、鰻を食わなくなるような、おぞましい話であることを意味していると考えてよい。さらに、後で述べている通り、古く本邦でもそうであったならば、周辺の中国・台湾でも同じであったと考えられる、ウナギ(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla に属する種。本邦で元来食されているのはニホンウナギ Anguilla japonica。日本・朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布している。なお、近年、中国発で安価なことで本邦でも広がっている(時にニホンウナギとして偽って)のは、中国が日本の市場をターゲットとしてヨーロッパから輸入して養殖している Anguilla Anguilla で別種であり、味は数段劣る)と同じウナギ目Anguilliformes のアナゴ(ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridae のアナゴ類。一般にはアナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster を指すことが殆んど)やハモ(ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus)の混同が柳田國男も言うように、昔から、そして現在でも日本各地で事実、行われている(例えば、私が羅臼へ行った時に料理屋で食った美味い「ハモ丼」であったが、これは現地では実は「黒アナゴ」と称する大型のアナゴの蒲焼であった。私の「忘れ得ぬ人々22 ウトロの純」を読まれたい)ことを考えると、私は高い確率で水死体を彼ら(アナゴは実際に食うことは知られている)が食うことを指していると考える。

「神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院(ふゆゐん)には傳はつて居る」大分県由布市には宇奈岐日女(うなぐひめ/うなきひめ/うなぎひめ)神社があるが、ウィキの「宇奈岐日女神社」によれば、「延喜式」『神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている』(現在は別な六柱を祀る)。『「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている』『一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある』とし、『由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある』とあるので、その古伝承を指しているように私には感じられる。

「年功を經た大鰻のみは、耳を生じて居るといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか」鰻料理の名所と知られる静岡県三島の三島大社の池には耳のある鰻が神の使いとして住んでいたという伝承があり、東京都練馬区にも同じような話が残る。江戸後期の博物学者高木春山(?~嘉永五(一八五二)年)の名著「本草図説」に載る以下の図がよく知られている(画像は原版不詳のQ&Aサイトに張られたものを使用した。キャプションは『一種』『耳あるもの』)。荒俣宏監修の「本草図説 水産」(一九八八年リブロポート刊)の解説には『阿波の国の母川』(ははがわ:徳島県海部郡海陽町を流れる河川。一部流域では、最大全長二メートル、体重二十キログラムにも達する天然記念物オオウナギ(ウナギ属オオウナギ Anguilla marmorata)がその棲息北限として保護されている)『には大きなウナギが住み、多くは耳が生えていたという』とある。生態学上はオオウナギ Anguilla marmorata や他のウナギ類でも、このような耳状の突出物は観察されない。一部の記載では体外寄生虫の誤認或いは体内寄生虫による異常な腫物とも、また、オオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus)の誤認とする記載もあった

 

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「ニコライ・ネフスキイ」ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者であったニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキー(Николай Александрович Невский/ラテン文字転写:Nikolai Aleksandrovich Nevsky 一八九二年~一九三七年)。ウィキの「ニコライ・ネフスキー」によれば、ロシアの『ヤロスラヴリ出身』で一九一四年、『ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後、日本に留学するが、ロシア革命によって帰国を断念して小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)・大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)で教鞭を執る。その間、柳田國男・折口信夫・中山太郎・石浜純太郎らと親交を結び、日本民俗学・アイヌ語・宮古島方言・ツォウ語・西夏語などの研究を行った』大正一四(一九二五)年に北海道出身の萬谷イソと結婚』した。本論文初出(『改造』昭和五(一九三〇)年発表)の前年の昭和四年に、『ソビエト連邦共和国となった祖国に帰国し、レニングラード大学(旧ペテルブルク大学)の教授とな』ったが、一九三七年十月四日、『日本のためにスパイ活動を行ったとして妻とともに逮捕され、翌月』、『レニングラードにおいて夫妻は「国家叛逆罪」により粛清(銃殺刑)された』。『その後のスターリン批判によって』、一九五七年十一月、『夫妻の名誉回復がなされ』、一九六二年には『生前の業績に対してレーニン賞が授与され』ている。]

 

 岩魚は鰻とは違つて必ずしも薄暗い淵の底にのみは居らず、時あつて淺瀨にも姿を現はすであらろうが、其代りには擧動の猛烈さ、殊に老魚の眼の光の凄さを認められて居た。鳥や獸に比べると成長したものゝ形に、非常な大小の差のあることが、恐らく魚の親方の特に畏敬せられた理由かと思ふが、よくよくの場合でないとさういふ偉大なものゝ目に觸れることは無い爲に、是も常には深い淵の底に、一意の龍宮を構へて居るものと考へたのであらう。水の神の信仰の基調をなしたものは怖畏である。人は泉の惠澤を解する前、既に久しく其災害を體驗して居た。水の災の最初のものは奪掠[やぶちゃん注:「だつりやく」。掠奪に同じい。]であつて、就中物の命の失はれた場合に、其事件の場處近く姿を見せた動物を、あらゆる水の威力の當體[やぶちゃん注:「たうたい(とうたい)」仏教用語。ありのままの本性。本体。]と信じたのでは無からうか。兎に角に古く我々が畏れ又拜んだのは、水その物では無く水の中の何物かであり、それが又常に見る一類の動物の、想像し得る限りの大いなるもの、又は強力なるものであつたのである。岩魚とよく似た川魚で怪をなすものを、紀州などではコサメといつて居る。大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ。紀の川支流の一たる野上川の落合に近く、また同類の話があつてこれは鯉であつた。前の半分は會津只見川の昔語に近くたゞ其期日が一方は盆であり、是は五月の節供であつた。紀州の殿樣が端午の日に大川狩をしようと企てたところ、前の晩の夜更けて、其奉行の宿へ、白衣の一老翁あつて訪ひ來ると言つて居る。私は山崎の淵の主であります。此度の御漁には所詮殿樣の網は免れ難い。願はくば一族の小魚を助けたまへと謂つた。何故に夜の内に遠く遁れて、此厄難を避けぬのかと問ふと、私が遁れると外の小魚が皆捕はれるからと答へたというのは、早くも近世道義律の潤色を見るのである。併し相手の奉行のみは依然として古風に、別れに臨んでボロソ餅といふ團子を食はしめて歸して居る。ボロソは此邊の五月節供の晴の食物で、小麥を粒のまゝに交へた特色ある團子であつた。翌日の川狩には果して一尾の小魚もかからなかつたが、最後に野上川の山崎の淵に於て、長さ六尺にも餘る大鯉を獲て、試みに體内を檢すれば昨夜のボロソ餅が出て來たといふ。是は城龍吉氏の報告によつて知つたのであるが、今でも淵の上の小倉といふ村に、鯉の森と稱する小さな社がある。當時この奇恠に感動した人々が、鯉を葬つて供養した遺跡といふさうで、卽ち是などは明白に一つの傳説となつて保存せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「コサメ」ウィキの「コサメ小女郎」によれば、『小女郎(コサメこじょろう)は、紀州日高郡龍神村(現・和歌山県日高郡田辺市)に伝わる妖怪。龍神村小又川の二不思議といわれる怪異の一つで、南方熊楠の著書』「南方閑話」『に記述がある』。『龍神村にあるオエガウラ淵という淵に住む妖怪であり、何百年という歳月を経たコサメ(魚)が妖怪と化したもの。人間の美女に化け、山に入って来たり淵に近づいたりする人間を誘惑し、水中に誘い込んで殺して食らっていたという』。ある時、『小四郎という男に出会ったコサメ小女郎が、薪の灯りのもとで』七『年間飼い続けた鵜には敵わないと漏らしたため、小四郎がそのような鵜に淵を探らせたところ、目を抉られた大きなコサメの死体が浮かび上がった。その腹を割いたところ、中には木こりの鉈が』七『本あったため』、七『人の木こりがすでにコサメ小女郎に食べられ、すでに溶けてしまっていたことがわかったという』。江戸後期の本草学者で紀州藩藩医であった畔田伴存(源伴存 みなもとともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年)の「水族志」には、『コサメとは紀州安宅(現・和歌山県西牟婁郡白浜町)でアメノウオ(ビワマス)』(脊椎動物亜門条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ) 亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus であるが、本種は現在、琵琶湖にのみに棲息する固有種の和名であり、当時の紀州に本種がいた可能性はゼロであるから、この部分は問題がある)『を指す方言とあることから、熊楠はコサメ小女郎のコサメもアメノウオのことと推測しているが』、『近年の文献ではコサメ小女郎の正体をヤマメ』(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)『としているものもある』(この方が正しいと私は思う)『類話として和歌山県熊野川町(現・新宮市)で、淵に住む大きなアメノウオが人間に化け、村人たちに毒入りの酒や食べ物をすすめて人々を困らせていたが、ある者が長年飼いならされた鵜に淵を探らせて退治したという話がある』とある。以上の話は大体、大正一五(一九二六)年二月坂本書店刊の「南方閑話」の「巨樹の翁の話」(原論文は大正一二(一九二三)年二月発行の『土の鈴』十七輯に纏められたもので、初出時の当該箇所は『土の鈴』十三輯であり、そこでは「巨樹の叟」の題で初出している)の冒頭の「一」の部分に出るもの。「南方閑話」は電子化されていないようなので、その「一」パートだけ(後半は関係のない伝承だが、面白いので電子化しておく)を平凡社の選集を底本として、以下に示す。

   *

 紀州旦高郡上山路村大字丹生川の西面導氏より大正九年に聞いたは、同郡竜神村小又川の二不思議なることあり。その地に西のコウ、東のコウとて谷二つあり。西のコウに滝あり、その下にオエガウラ淵あり。むかしこの淵にコサメ小女郎という怪あり。何百年経しとも知れぬ大きな小サメあって美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵辺へ来るを見れば、オエゴウラ(一所に泳ぐべし)と勧め水中で殺して食う。ある時小四郎なる男に逢って、運の尽きにや、七年通(とお)スの鵜をマキの手ダイをもって入れたらわれも叶(かな)わぬと泄(もら)した。小四郎その通りして淵を探るに、魚大きなゆえ鵜の口で噉(くわ)ゆるあたわず、嘴もてその眼を抉る。翌日大きなコサメが死んで浮き上がる。その腹を剖くとキザミナタ七本あり。樵夫が腰に挿したまま呑まれ、その身溶けて鉈のみ残ったと知れた、と。

 畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅(あたぎ)の方言アメノ魚をコサメと言う、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。七年通スの鵜とは七年通しの鵜で、すべてこの鳥陽暦の六月初より九月末まで使い、已後は飼い餌困難ゆえ放ち飛ばす。されど絶好の逸物は放たず飼い続く。しかし、七年も続けて飼う例はきわめて少なし。マキの手ダイはマキの手炬(てだいまつ)で、マキを炬に用ゆれば煙少なくはなはだ明るし。キザミナタは樵夫が樹をハツルに用ゆる鉈である。

 第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。

 夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。(以上、西面氏直話)

   *

「大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎其參考書を人に借りられて引くことができぬ」柳田國男にしては不親切で書名が記されていないので、当該書が何であるかも判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野上川の落合」「野上」は「のかみ」と清音で読み、和歌山県北部の旧海草(かいそう)郡にあった旧町名でもある(野上町(のかみちょう)で、現在は紀美野(きみの)町の西部を占める地域)。この地域は紀ノ川の支流野上川(貴志(きし)川)上流域を占め、旧町名はこれに由る。生石ヶ峰(おいしがみね)北麓から貴志川北岸にわたる山間地であり、中世の頃は石清水八幡宮領であり、その別宮である野上八幡神社がある。「落合」は海草郡紀美野町のバス停として残る。(マピオン・データ)であろう。

「ボロソ餅」語源は不詳。紀州以外では、奈良県葛城市太田の海積(わだつみ)神社の記載に見られる程度(「葛城市」公式サイト内の海積神社のボロソを参照されたい。そこには『小麦餅を酢で練ったもの』とある)であるが、葛城のそこは怪猿人身御供伝承のあった地であり、この「ボロソ餅」は紀州で「五月節供の晴の食物」であったように、何らかの神聖なもの、神人共食の食物であると推察出来る。

「山崎の淵」不詳。先の「落合」周辺には見当たらない。

「城龍吉」不詳。

「淵の上の小倉」不詳。]

 

2018/03/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 四

 

     四

 

 美濃惠那郡の川上付知(つけち)加子母(かしも)の三ケ村、又武儀郡板取川の谷などでも、岩魚(いはな)は坊主に化けて來るものだと謂つて居たさうである。さうして現に化けて來た實例が每度あつた。惠那の山村では山稼ぎの若者ども、あたりの谷川に魚多きを見て、今日は一つ晝休みに毒揉みをして、晩の肴の魚を捕つてやろうと、朝から其支度をして居た。其邊でも辛皮と稱して山椒の樹の皮を使ふが、是に石灰と木灰とを混じて煎じつめ、小さな團子に丸めて水底に投ずる。僅か二粒か三粒もあれば、淵に居る魚の限りは皆死ぬといふ。但し小便をしこむと其毒が一時に消えてしまふなどゝも謂つて居る。さて愈〻用意も整うて、一同が集まつて中食をして居ると、何處からとも無く一人の僧が遣つて來た。御前たちは毒揉みをするらしいが、是は無體な事だ。他のことで魚を捕るのはともあれ、毒もみだけはするもので無いと言つた。いかにも仰せの通りよくない事かも知れません、以來は止めましようと挨拶をするとかの坊主、毒揉みばかりは魚としては遁れやうもなく、まことに根絶やしとなる罪の深い所業ぢや。もうふつゝりと止めたがよいと、尚念を入れて教訓をするので、連中も少しは薄氣味惡くなり、もう愼みましようと言ひながら食事をして居たが、其僧は直ぐにも立去らず、側にたゝずんで居るので、折から人々團子を食つて居たのを、これ參らぬかと進めると旨さうに食べた。それから飯も出し汁も澤山にあるので、汁掛飯にして與へると少し食べにくい樣子であつたが、殘らず食べてしまつて其うちに出て行つた。跡で一同顏を見合せ、あれはどういう人であらう。此山奧は出家の來べき處で無い。山の神の御諫めか、又は弘法大師では無からうか。どうだ、もう毒操みは止めようでは無いかと言ふ者もあつた。併し氣の強い人々は承知せず、山の神や天狗が怖ろしくば、始から山稼ぎなどはせぬがよいのだ。心の臆した者はどうともせよ。おれたちばかりで遣つてのけると、屈強の二三名が先に立つて、たうとう其日も毒揉みをした。果して獲物の多かつた中に、岩魚の大いさ六尺餘もあるのがまじつて居た。坊主の意見を聽いて居たら、此樣な魚ほ得られまいなどゝ、悦んで村へ持還つて多くの見物の前で、其大魚の料理に取かゝると、こは如何に晝間旅僧に與へた團子を始め、飯なども其儘岩魚の腹の中から現れた。是には最前の元氣な男どもゝ、流石に氣おくれがして其魚は食はずにしまつたさうである。

 尾張の旅行家の三好想山は、久しく惠那の山村に在勤していた友人の、中川某から此話を聞いた。さうして兼々岩魚は僧に化けて來るといふ言ひ傳へのあるのも、偶然ならざるを知つたと言つて居る。それから他國をあるいて居る際には、常に注意して同じ例の、有り無しを尋ねて見たとも記して居る。ところが文政三年の夏の頃に、信州木曾の奈良井藪原のあたりで、人足の中に岩魚の坊主になつて來た咄を、知つて居る者を二人見つけたさうである。是も同じ御嶽山(おんたけさん)の麓ではあるが、美濃とはちやうど裏表になつた此近くの山川で、やはり毒流しをして大岩魚を捕つたことがあつた。一尾は五尺以上、他の一尾は今少し小さくて五尺ほどあつたが、腹の中から團子が出て來たそうである。それが其日山中に於て、見知らぬ坊主に與へた覺えのある團子なので、大いなる不思議に打たれたといふことであつた。皆々甚だ恐れ候との咄は慥に承候共、我々は少し處ちがひ候故、其魚は得見申候と謂つたさうである。

[やぶちゃん注:以上も既に私は原典を電子化注している「想山著聞奇集 卷の參」「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」を参照されたい。]

 

 勿論是は魚の腹に團子の殘つて居るのを、見たとか見なかつたとかの問題では無いのである。我々に取つては三好想山を始とし、斯ういふ話を聽いてさも有りなんと、信じ得た者がどれ位、又どの時代まであつたかゞ興味ある問題となるのである。今日の生物學を出發點とすれば、人は唯訛言[やぶちゃん注:「くわげん(かげん)」。誤って伝えられた評判。]造説が世上を走る速力、若くは之を移植繁茂せしむべき要件を問うて止むかも知れぬが、我々の自然知識には當初今一つ、別に濃厚緻密にして系統立ち且つ頗る誤つて居たものがあつて、過去の文化は之に導かれて、終に今見る如き形態にまで成長して居たのであつた。それが斯ういふ稍奇なる説話の殘片に由つて、少しづゝ元の力の働きを理解させてくれるとすれば、たゞ笑つてばかりも聽いて居るわけには行かない。殊に巨大なる鰻又は岩魚が、時々は人に化けて來るといふ信仰が前からあつて、それが腹中に小豆飯團子を見出したという珍聞を、他のいろいろの不思議話よりもより多く信じ易いものとしたといふことは、日本人に取つては好箇[やぶちゃん注:「かうこ(こうこ)」。近年は「好個」と書くことが多い。丁度よいこと。適当なこと。]の記念である。異魚の奇瑞を實驗したやうに考へる老は、必ず始め洋海のほとりに住み、または大湖の岸に往來していた種族でなければならぬが、それが山深く分け入つて細谷川の水源に近く、所謂壺中の天地に安居して後までも、尚六尺の岩魚や一丈有半の鰻を、夢幻の中に記憶して居たということは、意味の深い現象といつてよいのである。佛教が公式に輸入せられ、その几上の研究が是ほど迄進んで居ても、尚日本の島には此島らしい佛教のみが發達した。あらゆる經典のどの個條でも、説明することの出來なかつた地藏や閻魔や馬頭觀音、さては弘法大師の村巡りといふ類の特殊なる言ひ傳へが、實は多數民衆の信仰の根を固めて居た。だから私などは世の所謂傳播論者のやうに、單なる二種族の接觸に因つて、直ちに一方の持つものを他の一方に持運び得たと、解することを躊躇するのである。此點に關しては、説話と傳説との分界を、明かにすることが殊に必要である。説話は文藝だから面白ければ學びもし眞似もしよう。傳説に至つては兎に角に信仰である。萬人が悉く欺かれ又は強ひられて、古きを棄てゝ新しきに移つたとは思へぬ。外國の教法が此土に根づく爲に、多くの養分日光を爰で攝取した如く、傳説も亦之を受容れて支持する力が、最初から内に在つたが故に、是だけの發展を遂げることが可能であつたかも知れぬのである。

 

2018/03/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 三

 

     三

 

 江戸で此話をし始めたよりずつと以前、寛保二年の序文ある老媼茶話といふ書に、昔蒲生(がまふ)飛彈守秀行會津を領する頃、是とよく似て今少しく公けなる事實があつたといふことを話して居る。時は慶長十六年辛亥の七月、殿樣只見川の毒流しを試みたまはんとて、領内の百姓に命じて、柿澁薤[やぶちゃん注:「にら」。]山椒の皮を舂[やぶちゃん注:「つ」。]きはたいて家々より差出させた。其折節に藤といふ山里へ、旅の僧夕暮に來り宿かり、主を喚んで此度の毒流しの事を語り出し、有情非情に及ぶまで、命を惜しまざる者は無い。承はれば當大守、明日この川に毒流しをなされる由。是何の益ぞや。果して業報を得たまふべし。何とぞ貴殿其筋へ申し上げて止めたまへかし。これ莫大の善根なるべし。魚鼈の死骨を見たまふとて、太守の御慰みにもなるまいに、誠に入らぬことをなされると深く歎き語つた。主人も旅僧の志に感じ、御僧の善根至極ことわりながら、もはや毒流しも明日の事である。其上に我々しきの賤しい者が申上げたとて御取上げもありますまい。此事は先だつて御家老たちも諫言せられたれども、御承引が無かつたと聞いて居りますと言つた。それから私方は御覽の通りの貧乏で、何も差上げるべき物とても有りませぬ、侘びしくとも是を御上り下さいと言つて、柏の葉に粟の飯を盛つて其旅僧にもてなしたが、夜明けて僧は深く愁ひたる風情にて立去り、村では愈〻用意の毒類を家々より運んで來て、それを川上の方から流し込む。さうすると無數の魚鼈、死にもやらずふらふらとして浮び出る中に、長さ一丈四五尺の大鰻が一匹出て取られる。其腹が餘りに太いので恠しんで割いて見ると、中には粟の飯がある。昨夜の亭主進み出でゝ仔細を語り、さては坊主に化けたのは此大鰻であつたかということに歸著したのである。

[やぶちゃん注:三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」も実は私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇の電子化注を終えている。ここと次の段に示されたものは「老媼茶話卷之弐 只見川毒流」である。そちらの本文及び私の詳細注を参照されたい。]

 

 さうして此話には更に若干の後日談があつた。同じ秋八月二十一日、大地震山山崩れがあつて會津川の下流を塞ぎ、洪水は忽ち四郡の田園を浸さうとしたのを、蒲生家の長臣町野岡野等、多くの役夫を集めて辛うじて是を切り開いたが、山崎の湖水は此時に出來、柳津虛空藏の舞臺も此地震に崩れて落ち、其他塔寺の觀音堂も新宮の拜殿も皆倒れ、それから次の年の五月には太守秀行は早死をしてしまつた。是併しながら河伯龍神の祟なるべしと、諸人をのゝき怖れたと記してあるのである。此大事件があつてから、話が書物になる迄に百三十年ほど經つて居る。けれども柳津の御堂は人もよく知る如く、數多の遊魚を放生した淸き淵に臨んで居る。この寺に參詣して舞臺の上から、只見川の流れを見下して居た人々には、この昔話は思ひ出す場合が多かつた筈である。さうして又それが物哀れに成長して行く機會も、決して乏しくはなかつたのである。藤といふ山里も爰からは遠くない。話は恐らくはこの虛空藏菩薩の信仰圈内に於て發生したものなのである。

[やぶちゃん注:「藤」私は先の「老媼茶話卷之弐 只見川毒流」で、福島県河沼郡柳津町藤ではないかと推定比定した。(グーグル・マップ・データ)。福満虚空藏菩薩圓藏寺の北直近で柳田國男の謂いがすこぶる腑に落ちる。]

 

 東北は一帶に神佛の使令として、氏子が生物を尊信して居る例が多い。八幡の鳩とか辨天の蛇とかいうのは、他の地方でも屢〻言ふことであるが、奧州には其以外にも、色々の魚の忌がある。虛空藏を社に祀つて居る二三の村に就いて聞いて見ると、信者が一生の間決して食はぬ魚、若し捕へたら必ず境内の他に放す魚は、何れも鰻であつたのは偶然で無い樣である。江戸で麥飯を振舞はれたといふ大鰻などは、二つとも何でも無い男に化けて來て居るのだが、或は是が僧であつたといふ方が、形は一つ古いのではあるまいか。最近佐々木喜善君が採集した岩手縣の一例は、聽耳草紙といふ題で昨年九月の三田評論に載つて居るが、是も亦旅僧になつて居る。盛岡の町から近い瀧澤といふ村で、是も七月盆の頃に、若い者が集まつて臼で辛皮[やぶちゃん注:原著では「カラカ」。「からかは(からかわ)」。山椒の若い小枝の皮。香辛料や薬用にするが、ここは毒揉(どくも)み用。]を舂いて居る處へ、一人の汚ない旅僧が來てそれを何にするかと訊いた。細谷地の沼さ持つて行つて打つてみると言ふと、悲しさうな顏をして、さうか、其粉で揉まれたら大きな魚も小さいのも、あれなかれみな死ぬべ。小魚などは膳の物にもなるまいし、思ひ止まりもせといつた。若者等は口を揃へて、なに此乞食坊主が小言をぬかせや。けふは盆の十三日だ。赤飯をけるからそれでも食らつて早く行けと言ふと、旅僧は何も言はずに、其小豆飯を食つて立去つた。それから沼へ辛皮を入れて揉むと、やがて多くの魚が浮いて來て、その中の大きな鰻の、體はごまぼろになつて居るのが出た。それを捕つてづぶ切りに切つて煮ようとすると、腹の中から赤飯が出たので、先刻の旅僧は池の主であつたことを知つた。といふばかりで後の崇の話の無いのは、多分跡を弔うたことを意味するのであらう。是なども結末の方から振り返つてみると、僧寶を敬ふべしといふ教訓が、若者等の反語の中に含まれて居るやうな氣がする。東北の説話の主要なる運搬者は、ボサマと稱する遊行の盲法師であつたが、彼等の遺した昔話には、ボサマを輕蔑し又は虐待して、損をしたといふ類のものが多かつた。彼等は笑つてもそんな話をしやべり、又眞面目にも色々の因緣話をしたかと思はれる。それから類推して鰻の旅僧の話も、やはり亦さういふきたない旅僧が、折々此あたりをあるいて居たことを、暗示するものでないかと私は思つて居る。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

以上の佐々木喜善氏の「聽耳草紙」(ききみにざうし(ききみみぞうし))の話も、私は既に柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲A Matter of Custom原文及び田部隆次訳で電子化している。宵曲の「ナマズ」はまさに本「魚王行乞譚」をベースにして書かれた一篇なので、是非、読まれたい。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二

 

     二

 

 卽ち二つの話の少なくとも一方だけは、誰かゞ所謂換骨奪胎したことが、もう聽く人々にも認められて居たのである。江戸には此頃風説の流布といふことを、殆ど商賣にして居たかと思ふやうな人が何人もいた。たとへば兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話もウソであつた。其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある。同じ書物には、ある夜二十騎町の通りを、鳶職體の暑が二人提灯を下げて、女の生首の話をしながら、通つて行くのに逢つたといふ記事がある。今市ケ谷の燒餅坂の上で、首を前垂に包んで棄てに來た者がある。番人に咎められて何れへか持ち去つたが、門先に棄首があつては迷惑なので、はや方々の屋敷でも見張りの者を出して居ると言つた。辻番所の者も之を聽いて、それは油斷がならぬと夜明しをして騷いだが、翌朝尋ねてみると丸ウソであつた。さうして小石川巢鴨本郷から、淺草千住王子在までも、一晩のうちに其噂が傳はつて居たといふことである。板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな。是などは大よそ成功の部であつたといふが、しかも其思ひ付きたるや、少しばかり有りふれて居たのである。盆栽の土の底に珍とすべき一物あるを知つて、わざと植木が氣に入つた樣な顏をして値(ね)をつける。さうして明日また來ると言つて還つて行く。持主はなんにも知らないから、御化粧をさせた積りで別の立派な鉢へ栽え換へておく。あの鉢の土はどうした。もう何處へかぶちまけてしまつた。實は欲しかつたのは此木の根に在つたこれこれの品物なのである。あつたら稀世の珍寶を種無しにしたと、足摺りをして殘念がる。これがわが邦では長崎の魚石の話として弘く行はれ、又最近には胡商求寶譚の名の下に、石田幹之助氏などが徹底的に研究しておられる、途法もなく古い昔話の系統に屬するものであつた。江戸の落語の天才が精々苦心をして、是に新たなる衣裳を着せようとしたのが、猿と南蠻鐵との話などであつたかと思ふ。海道の、とある掛茶屋の柱に、きたない小猿が二匹繋いである。その鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の三四尺ほどのものが、南蠻鐵であることを知つた男、一計を案じてこれを猿ぐるみ安く買い取ろうとする。或は母親が此猿に生まれかはつて居るといふ夢を見たとも謂いひ、若くは死んだ我兒に似て居ると稱して泣いて見せるなどの、可笑味を添へても話すのである。結局賣り渡す段になつて茶屋の亭主が、新しい紐を持つて來て結はへ直すので、これこれどうして其鏈を附けて置かぬかといふと、いや是は又次の猿を繋いで、賣らなければなりませんといふのが下げになつて居る。しかも是などもまだ人によつては、曾て其頃藤澤小田原あたりの松並木の蔭に於て、實際あつたことの樣にも考へて居た人があるのである。

[やぶちゃん注:「兎園小説其他の隨筆に、盛んに書いて居る常陸國藤代(ふじしろ)村の少女、八歳にして男の兒を生んだという話」「其他の隨筆」は例えば、前に出た「耳囊」。私の「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」を参照されたい。地名にやや齟齬があるが、完全に同一の話である。「常陸國藤代村」は現在の牛久沼の南方、茨城県取手市藤代周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここに語られているのは、滝沢馬琴の編に成るアンソロジー随筆「兎園小説」(文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える)の第二集(文政八年二月八日開催の兎園会での報告集)の中の海棠庵(書家関其寧の孫の関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号)の発表の一篇であるが、実はその「耳囊 卷之十 幼女子を産し事」の注で、当該部分を電子化し、私の上申書の書き下し文と詳細な語注も添えてあるので、ここでは繰り返さない。そちらを参照されたい。

『鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』儒者鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:名は成虁(せいき)。幕府書物奉行であった鈴木白藤(はくとう)の子。天保一〇(一八三九)年には昌平坂学問所教授となった。射術を好み、画にも優れた)の書いた随筆「反古(ほご)のうらがき」の「卷之一」の三番目に載る「〇八歳の女子(こ)を産む」である。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の朝倉治彦氏校訂のそれを用いた。一部に〔 〕で推定で歴史的仮名遣で読みを足した。

   *

 松平冠山老公の采地〔さいち〕は常州とか聞〔きき〕し、百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戸にての評判甚し、板木〔はんぎ〕となして市〔いち〕に責るものも有〔あり〕けり。老公家臣を召して尋〔たづね〕給ひしに、さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなしといひけり、老公獨り信じ給はず、或日駿足を命じ、一騎乘りにて家を出〔いで〕、三十里計〔ばかり〕の路程を一日に馳付〔はせつけ〕、名(な)所(ところ)の如く尋行〔たづねゆき〕て、家を求めしに、絶〔たえ〕て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣〔かやう〕なるものなるべし、幸に三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり、若〔もし〕數百里の外の事ならば、疑を解くに緣(よし)なく、終生疑ひおもふべし、人々多く疑ひて、後に實〔げ〕に恠〔あや〕しきことも有者也〔なり〕といはれしよし、老公は予が翁と同〔おなじく〕甲子生〔うまれ〕にて、同庚會(どうこうくわい)に合(がう)せし人也、其後も余が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

   *

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。この場合の「采地」とは若桜藩の現地の藩領とは別に飛び地として拝領している領地を指す。「甲子」ここは干支の意。「同庚會」は底本の朝倉氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載がある。

 また、後に続く同書からの話は、やはり「卷之一」に載る「○訛言」(くわげん(かげん):「誤って伝えられた評判」の意)。前と同じ仕儀で以下に示す。

   *

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺にのせて持出〔もちいだ〕し事ありしに、何者か申出〔まうしいだ〕しけん、此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨〔すつ〕る者あり、人々用心し給へといゝけること、市谷柳町へんより初〔はじま〕りしよし。江戸中大體一面に行渡り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆屋敷々々に番人を出〔いだ〕し、高張り挑燈にて守りしに、二三日にして止〔やみ〕けるとなん。其後一二年過〔すぎ〕て秋の末つかた、月殊に明らかなりし夜、予門外に出で、舍弟と供に月を賞し居〔をり〕しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲に語りて來〔きた〕る人あり、音羽と書〔かき〕たる永挑燈〔ながぢやうちん〕をともし、とびの者體(てい)なる人二人也。其(その)語(かたる)に、世には殘忍なる人も有る者かな、あの女の首はいづこにて切〔きり〕たるか、前だれに包みたれば、親しきものゝ妻にてもあるべし、切たるは定〔さだめ〕て其夫なるべし、間男などの出入と覺へたり、今捨〔すて〕んとして咎められ、又持去〔もちさ〕りしが、何〔いづ〕れへか捨つべし、其所〔そのところ〕は迷惑なる者なりといふ語〔かたり〕なり。予是を聞て呼留〔よびと〕め、何(いづ)こにての事と問へば、扨は未だ知り玉はずや、こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり、夜深〔よふけ〕て門外に立(たち)玉ふは、定て其捨首の番人かと思ひしに、左〔さ〕にはあらざりけり、こゝより先は皆家々に門外に出で番をするぞかしといゝて、打連〔うちつれ〕てさりけり。予もおどろきて前なる辻番所に右の趣〔おもむき〕申付〔まうしつけ〕、よく番をさせ置〔おき〕、入〔いり〕て眠りたりしが、兎角心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが耳に入て寢られず、立出〔たちい〕で見れば、最早九つ今の拍子木を打〔うち〕、番所の話を聞けば、組合より申付られたれば眠る事能はず、左ればとていつはつべき番とも覺へず、もし油漸して捨首にてもある時は、申分に辭〔ことば〕なし、如何にせましといひあへり、予も餘りにはてし無き事なれば、最早程も久し、捨首あらば是非なし、先〔まづ〕休むべしと申渡し、入て寢けり。明〔あく〕る日あたりを聞〔きく〕に、其事絶〔たえ〕てなし、口惜哉〔きちをしや〕あざむかれぬといゝてやみけり。此訛音も小石川・巢鴨へん、本郷より淺草・千住・王子在などの方に廣がりて、北の方いづこ迄かしらねども、大〔おほい〕におどろきさわぎたるよし、予親しく聞〔きき〕たれども、誰〔たkれ〕にも告〔つげ〕されば[やぶちゃん注:「告げざれば」であろう。]、此あたりは却〔かへつ〕てしる人なし、音羽といへる挑燈なれば、是水へかへりかへり申觸たるか、其先迄申傳へたるなるべし。

   *

「文政の中年」文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となる。しかし、これ、或いは「申年」かも知れぬ。とすれば、文政七年に特定出来るのだが。「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。「九つ今」だいたい午前一時丁度。「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。「是水」不詳。識者の御教授を乞う。

「板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度此ウソを流布させてみたいと思つて、永い間心がけて居たさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換えようとすると、其根の下から五寸ばかりの眞黑な土のかたまりの如きものが現れた。其形が魚に似て居るので、よく見て居ると少しづゝ動き、眼口髭なども段々にわかり、水へ入れてみると全くの鯉であつた。之を櫻田あたりの濠内に放したと言つて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな」この「板谷桂意」(板谷広長(宝暦一〇(一七六〇)年~文化一一(一八一四)年:江戸中・後期の大和絵住吉派の幕府御用絵師。同じ御用絵師板谷慶舟の次男であったが、住吉派板谷家第二代を継いだ)の大嘘にマンマと騙された人物がいる。江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)である。彼の代表作で動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集した、全五巻から成る「想山著聞奇集」(没年の嘉永三(一八五〇)年に板行。私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇の電子化注を終えている)の「卷の壹」の「菖蒲の根、魚と化する事」に、ご丁寧に板谷の絵を忠実に模写した絵も添えて出る。ちょっと誠実な想山が可哀想だが、参照されたい。

「長崎の魚石の話として弘く行はれ」私の「耳囊 卷之三 玉石の事」(注で木内石亭の奇石書「雲石志」の「生魚石(せいぎよいし) 九」も電子化してある)、或いは、『柴田宵曲 妖異博物館 「魚石」』を参照されたい。

「胡商求寶譚」かの「石田幹之助」(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四):東京帝国大学文科大学史学研究室の後身である財団法人「東洋文庫」の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。因みに彼は芥川龍之介とは一高時代の同級生である)が「徹底的に研究して」いる「途法」(ママ)「もなく古い昔話の系統に屬するもの」とすれば、「胡商」とは中国人にとっての西方のシルク・ロードの彼方の西洋の商人という意味になり、「今まで見たこともない異国の商人が宝を求めてやって来る話群」としての胡商求宝譚(こしょうぐほうたん)の原型は当然、中国が濫觴と考えてよい。柴田宵曲も『妖異博物館 「魚石」』では最後に、『「長崎の魚石」の原産地は支那であらう。話の中の登場人物に、唐人や紅毛人が出て來るのでも、その消息は推せられる。石を四方から磨り減らし、赤魚の遊ぶのを見て、養心延壽を樂しむなども、支那人の理想にぴつたり當て駿まるやうな氣がするが、さういふ原話はまだ見付からない。「金華子雜編」に徐彦なる者、海を渡るに先立つて、淺瀨の中で小さな琉璃瓶を發見した。大きさは赤子の掌ぐらゐ、長さ一寸ばかりの龜の子がゐて、瓶の中を往來旋轉し、暫時もぢつとして居らぬ。瓶の口は極めて小さいので、その龜がどうして入つたものかわからぬが、とにかく珍しいと思つて、拾つて自分のものにした。然るにその夕方から、何かの重みが船にかかるやうなので、起きて見たら、幾百とも知れぬ龜が、船に上つて來る。徐彦は恐ろしくなつて、これから大海を渡らうとするのに、どんな事が起らぬでもないと、例の瓶を取り上げて、海の中へ拗り込んだ。龜はそれを見て、皆どこへか行つてしまつた。後にこの話を多年航海を續けてゐる胡人に話したところ、それは龜寶といふもので、まことに稀世の靈物である、たまたまこれにめぐり合つても、福分の薄い者は仕方がない、もしこの寶を家に藏し得たら、無限の富を有するところであつたのに、と頻りに殘念がつた。魚でなしに龜であり、外からその動くのが見えるあたり、魚石とは趣を異にするけれど、一たびこれを手に入れれば無限の富に住し得るといふのだから、似たところがないでもない。魚石譚の特色は、まさにこれを所有しようとして失ふ點に在る。徐彦の龜寶もそこに此較對照すべきものがあるやうに思はれる』と述べている。

「猿と南蠻鐵との話」個人の落語のページの『古今亭志ん生の噺、「猫の皿」(ねこのさら)』の注で、この話を元ネタとし、元話は意外に古く、文化年間(一八〇四年~一八一七年)刊行の『滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に「猿と南蛮鎖」として出てくる』とある。「大山道中膝栗毛」は弥次喜多ならぬ徳郎兵衛と福七の二人旅を描いた滑稽道中記で、イネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「猫の皿」の原話などに詳細な記載と原文(画像)があるので是非、参照されたい。]

 

 世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿[やぶちゃん注:「てんめん」。絡みついて離れないでいること。]し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか。古人の根氣は幾らでも新たに創造するに足り、後人の技能は僅かに追隨踏襲を限度として居たのであらうか。或は西洋で謂ふインデイヤニストのように、根源を求めて或一團の種族の、特殊の才分に感謝して居ればよいのであらうか。乃至は又ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか。此疑問を一通り解決してからで無いと、我々は到底明日の文學を豫言することが出來ぬのである。奇妙なことではあるが我々の大事にして保存して居た話、時々取出して人を驚かして居た話には、魚に關したものがどういうものか多い。前に掲げた長崎の魚石もそれであるが、別に尚一つ有名なる物を言ふ魚の話がある。是がグベルナチスなどの夙に注意した笑ふ魚の系統に屬することは比較を進めて行くうちには判つて來るやうに思ふが、餘り長くなるから他の機會まで殘して置く。差當り自分の集めて見たいと思ふのは、飯を食つて歸つたといふ魚の話の、内外の多くの例である。現在私はまだほんの僅かしか聽いて居ない。併し斯うして話して居ると、それならば今少し搜して見ようといふ人が、追々出て來るだらうといふことだけは信ずるのである。

[やぶちゃん注:「世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故に斯く際限なく前代の滑稽に纏綿し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか」「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」私はここに非常な興味を惹かれる。柳田國男が定義した「噂話」――比較的新しい近過去に起こったとされること、或いは近未来に起こるであろうされることで、内容の一部或は大部分に事実らしさが感じられる話――が、何故、ある種、周期性を持って、核心に於いては全く同一の話柄内容(それは当然、事実らしさをプラスするために、今現在前後の新しい風俗的或は学術的科学的知見や技術によって粉飾・武装されてはいるが)として、長い歴史のサイクルの中で繰り返し再発生するのかという問題である。これは今現在の「噂話」である「都市伝説(アーバン・レジェンド)」の属性としても、全く本質的には変化していないからである。ここで柳田の言う「ウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが斯うして末永く我々を欺き得たのであらうか」というところに秘鑰(ひやく)はある。ユングが「集団的無意識」と仮称した冥い深層にこそ、私はその真意があると考えている人間である。

「インデイヤニスト」不詳。“Indianist”か。所謂、本来の南アメリカの原住民であるアメリカ・インディアンの文化復興運動支持者の謂いか。

「グベルナチス」イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)。「笑ふ魚」というのはよく判らぬが、南方熊楠がよく彼の作品として引用する一八七二年の著Zoological Mythology(「動物学的神話」)か。なお、本章「魚王行乞譚」の終わった次は「物言ふ魚」であるが、少なくとも柳田國男は、そこでは、グベルナーティスの話を全く挙げていない。

 

御伽百物語卷之三 七尾の妖女

 

    七尾の妖女

 

Nanaonoyoujyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。和歌の上句と下句の一マス空けは底本による。原典では総て上句と下句が分かち書きとなっている。]

 

 能州七尾といふ所にちかき片在所に住みける、杉岡の團助とかやいひけるは、そのかみ、名ある武士の果(はて)なりしが、今ほどは農家に業(わざ)なれて瑣細(ささい)なる菜園に身をくるしめ、濱路(はまぢ)に魚を乞ひて渡世のたすけとなし、幽(かす)かなるくらしなりけれども、さすがに取り傳へし弓矢のかた氣(ぎ)は失はず。万(よろづ)に心を付け、仁義正しく、すなほなるものから、郷民(ごうみん)も心をき、情をかはしける程に、何事につけても、さのみ不自由なる事なくて暮しけりとぞ。

[やぶちゃん注:「能州」能登国。

「弓矢のかた氣(ぎ)」「武士氣質(ぶしかたぎ)」。如何にも武士らしい本来の気風。

「心をき」「心置(こころお)き」(歴史的仮名遣は誤り)。何くれとなく気遣いしてやり。]

 

 ある日、彼(かれ)が家に井を掘りかゆる事ありしに、底より一つの木の根を掘り出だせり。そのかたち、臂(ひぢ)のごとくにして、節の所などのあら皮を見るに、茯苓(ぶくれう)などの類(たぐひ)に見えて、香氣、また白朮(びやくじゆつ)に似たり。

[やぶちゃん注:「井を掘りかゆる」井戸を浚って、さらに底を掘り、井戸替えをする。

「茯苓(ぶくれう)」歴史的仮名遣「ぶくりやう」が正しい(現代仮名遣は「ぶくりょう」)。アカマツ・クロマツなどのマツ属の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核の外層をほぼ取り除いた生薬名。利尿・鎮静作用がある。

「また白朮(びやくじゆつ)」キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。生薬。健胃・利尿効果がある。]

 

 團助夫婦、是れを見て、

「如何さま、故ある木にてこそあるらめ。」

とはおもひながら、何に遺ふべしとも辨(わきま)へ得ず、只うち捨てても置きがたくて、佛壇のうへなる棚にあげて、人にもかたらず、あやしとも思ひたらねば、また尋ね見る事もなかりけり。

 其家、殊更に佛法を信じけるほどに、ひとりありける娘に、持佛堂の世話を任せ、花を折り、香をもらせけるに、此むすめ、いまだ十六、七なりしが、親の心ざしをつぎて、是れも佛法に信(しん)ふかく、朝も疾く起きて香花(かうげ)をとり、暮るれば御灯(みあかし)をかゝげて、念誦、おこたらず。

 器量、人に超え、容顏、花をあざぶくほどの生れなるに、身をえうなきものにおもひとり、世をはかなきならひに見なしつゝ、ゆくゆくは尼にもと迄、つねづねにいひもし、心にもかけゝるほどに、父母も時おりふしはとかく教訓し、云ひなだめなどして、尼になさん事をぞ、悲しみあひけるほどまで、つよかりし心のむすめなりしが、ある日、佛壇に入りて香をとらんとせしに、佛壇の間(ま)に、人あり。

「こはいかに。」

と、さしのぞきて見れば、年のほど廿ばかりなる男の、器量、世にすぐれたるが、折(をり)えぼし・直垂(ひたゝれ)して、いとなれがほに、此むすめを見て、さしまねくなりけり。

 娘も見馴れざる姿に、

「はつ。」

と氣(き)をのぼらせ、むなさはぎしけれど、又、さありとて、此やんごとなきさましたる人を、つれなくあらゝかに恥かしめんも、かたはらいたくて、

『よしよし、何人にもあれ、かゝる方に忍び入りたらん人の、よもや、盜みなどいふ事する程には、あらじ。とかくすかしたてゝ歸しこそせめ。』

など、さまざまにおもひさだめて、やをら、さしよれば、此おのこ、彼のむすめの袖をひかへて、

 

 むさし野の草葉なりともしらすなよ かゝるしのぶのみだれありとは

                                                  

とかや、なれなれしげなり。

 娘は、いとおもはずなる事に顏うちあかめ、

「こはいつの程いかなる風(かぜ)の傳(つて)にか。花すゝき、ほの見えし色は思ひしみ給ひし。そも御身はたぐひなき御事と見まいらせしうへ人の、かくあまざかるひなの我しも、かくおぼしよりけるにか。いと心えずこそ。」

といへば、彼のおのこ、いふやう、

「いやとよ、かゝる戀路には高き賤しきのへだといなきを。さのみ、ないひおとしめ給ひそ。五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人もあるものを。木の丸殿(まるどの)ならずとも、いさや、ゆくゆくは名乘りこそせめ。」

とて、

 

 あさからぬこゝろのほどをへだつなと かずならぬ身ぞおもひそめぬる

 

といひつゞくるに、むすめも、

 

 かねてより人のこゝろもしらぬ世に ちぎればとてもいかゞたのまん

 

と、やうやうにつらね出でて、いとはづかしげなり。

[やぶちゃん注:「へだとい」不詳。「隔て」の意ではあろう。或いは「隔てといふはなきを」か。

「五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人」言わずもがな、光源氏。夕顔を見染めてなにがしの院へ誘ったことを指す。

「木の丸殿」「き(こ)のまる(まろ)どの」。丸太で造った粗末な殿舎の謂いであるが、特にここは歌枕として知られる、現在の福岡県朝倉市の山中に、天智天皇が亡くなった母斉明天皇の喪に服すため、伐り出したままの丸太(黒木)で建造した「黒木の御所」を指すものと思われる。「十訓抄」の「第一」の二番目にある「天智天皇の木の丸殿 朝倉やの御歌」に、

   *

 天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前國上座の上毛郡朝倉といふところに、山中に黑木の屋を造りておはしけるを、「きのまろどの」といふ。まろ木にてつくる故なり。

 今、大嘗會の時、黑木の屋とて小野の斎場所に造る、かの時の例(ためし)也。民を煩はさず、宮つくりも倹約を旨とせられけるなり。唐堯の宮に、土の階(はし)を用ゐ、茅(かや)の軒をきらざりける例なり。

 扨、かの「きのまろ」には、用心をし給ひければ、入り來る人、必ず、名のりをしけり。

 

 朝倉や木のまろどのにわがをれば名のりをしつつ行くは誰(た)が子ぞ

 

これ、天智天皇の御歌なり。これを民ども聞きて、うたひそめたりける也。

  *

という話の「名のり」を掛けたのであろう。]

 

 又、おとこ、

 

  をろかにはわれもちぎらじいときなき 心にたのむいろを見るより

 

などなぐさめて、持佛すへたるかたには屛風を物のけぢめにて、しどけなくそひぶしの夢をぞ見る。

 まだふみも見ぬ戀路なれば、娘も心あはたゞしく、はづかしうおもひて、ふしゐたり。

 おとこは、此ほど、心をつくし、神に祈りなどせしありさま、ゆくすゑ迄のあらまし事、何かといひつゞけつゝ、いとむつましう美しとおもへるさま也。

 かくて逢ふほどに、けふと暮れ、明日とかはりゆく日數(ひかず)の、半年ばかり、人しらぬ逢瀨、うれしく、たがひに心をかよはし、やさしきちなみ、あさからずありけるほどに、今は此むすめも人の目たつる迄、替りたる心いれとなり行きけるを、二人の親も、

「如何にぞや。」

とおもへど、終に人の通ひ來て、かゝるわりなき交りをすべき覺えもなければ、さのみ、心をつけて窺ふべき氣もつかざりしに、いつとなく、身もちにさへ、なりぬ。

 娘も今はしのびはつべき態(わざ)にもあらず思ひかねて、母の親に語りけるにぞ、始めて、忍び妻(つま)[やぶちゃん注:「夫(つま)」。]ありとは、しりける。

 されども、此男、つねに持佛の間にのみありて、行き返る躰(てい)もなし。まして、はかなきく菓物(くだもの)[やぶちゃん注:仏壇の供物のそれ。]をだにくふとも見えねば、母もあやしさの數のみ增さりながら、獨りあるむすめの名をいかにせんなど思ひ煩ひける内、いつも、秋のころは請(しやう)じいれて齋(いつ)き參らする寺より、例の祥月(しやうつき)とて僧の來たりけれども、持佛の間には、さきだちてやごとなき人の入り來たりて、深く隱れたるにや、と見えて、入るべき方の戸を堅くおさへけり、と覺えしかば、先づ、しりぞきて俳諧居(ためらひゐ)たりし隙(ひま)に、娘は母の親とつれて、寺まいりを仕(し)たりける。

 跡にて、父の親、この僧と心をあはせ、持佛の間に立ち入りける時、鴿(はと)壹羽(いちは)ありて、俄に、

「はたはた。」

と翥(はゞたき)して飛び去りぬ。

 其ゆふべより、又、この娘、ふたゝび彼のしのび妻を見ず。

 さびしき閨(ねや)にひとりねの枕ものうく、人しれず、

「戀し。」

と歎きおもひながらも、猶、人めつゝみの高ければ、それとだにゑいひもやらず、あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし、親、さけにけん時、

『いかばかり、我を「うし」とや見たまふらん。』

と、おもへば、いとゞ手枕(たまくら)も、うくばかり、淚、こぼれて、

 

 けふはまたつらさをそへてなげくかな ねたくぞ人にもらしそめぬる

 

など、ひとりどちて、おきふしなやみがちなりしが、七月といふころ、けしからぬなやみおこりて、産のやうす、ありけるまゝに、親ども、あはたゞしく悲しみいたはりて生ませけるに、人にはあらで、彼の井戸よりあがりたる木に、すこしもたがはざるものを、三節まで、産みたり。

「さればよ。怪しかりける事を。」

とて、彼の持佛のうへの棚に上げたりし古木(ふるき)を取りおろして見けるに、はや、さんざん、蟲つゞりて、くだけたりしかば、持たせやりて[やぶちゃん注:下男辺りに、であろう。]捨てつ。

 今、この娘のうみたる木は、廣庭(ひろには)に出だし、芥(あくた)をつみて、燒きつくしけるが、其後(そのゝち)、何の事もなかりけるとかや。

[やぶちゃん注:しかし、この怪談、考えてみると、標題、ヘンくね? 「妖女」ではないべ?! 奇体な腕みたような木片を産んだからって、それじゃ、余りに、この娘が可哀想じゃ! 彼女に憑いた木霊か何だか(鳩に変じて出て行った得体の知れぬ物の怪は何だ? 神鳥の鳩と物の怪は親性がかなり良くないぜ)は何よ? それに信心深い彼女がかくも不幸になるのは杉岡団助の前世の因縁かなんかかい? その辺をまるで語らずに聴いたような尻のムズムズするような和歌を並べておいてカタストロフに持ち込むという構成は、儂は、嫌いだね!!!

「あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし」「万葉集」の「卷第十四」「上野國相聞徃來歌廿二首」の中の一首(三四二〇番歌)、

 

 上野(かみつけ)の佐野の舟橋(ふなはし)とりはなし親は離(さ)くれど吾(あ)は離かるがへ

 

に基づく。「上野の佐野」は現在の群馬県高崎附近。「舟橋」舟を繫いでおいて、その上に板を置き渡して作った橋のことで、その結ばれた綱を「取り放す」から、下句の「離くる」(解き放させる・仲を裂く)を引き出すための序詞。「がへ」は「かは」の訛りで、強い否定を伴った疑問。私はどうしてあなたと離れましょうか、いえ、決して、離れませぬ。

「人めつゝみ」「人目包み」人の見る目を憚って殊更に隠れる、或いはあることを隠すこと。ここは男への激しい恋情。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 一

 

   魚王行乞譚

 

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚」は「ぎよわうぎやうこつたん(ぎょおうぎょうこつたん)」と読む。平凡社の「世界大百科事典」によれば、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話群である、とする。「行乞」とは僧侶が布施として物乞いをして歩くこと、托鉢のことを指すが、本譚ではしばしば長命を経た魚(「魚」の「王」)が「行」脚の僧と変じて、物「乞」いをするとともに、ある懇請(これも「『乞』うこと」である)をすることから、かく(恐らくは柳田國男が)名づけたものであろう。]

 

     一

 

 江戸は音羽町の邊に、麥飯奈良茶などを商ひする腰掛茶屋の亭主、鰻の穴釣りに妙を得て、それを道樂に日を送つて居る者の店へ、或日一人の客來たつて麥飯を食ひ、彼是と話の序に、漁は誰もする事ながら、穴に潛んで居る鰻などを釣り出すのは罪の深いことだ。見受ける所御亭主も釣が好きと見えて、釣道具が色々置いてあるが、穴釣りだけは是非止めなさいと、意見して歸つて行つた。ところが其日もちやうど雨大いに降り、穴釣りには持つて來いといふ天氣なので、好きの道は是非に及ばず、やがて支度をしてどんどん橋とかへ行つて釣りをすると、いかにも大いなる一尾の鰻を獲た。悦び持ち還つてそれを例の通り料理して見ると、右鰻の腹より、麥飯多く出でけると也といふ話。

 根岸肥前守守信著はす所の耳囊卷一に、是が當時の一異聞として錄せられて居る。耳囊は今から百年ばかり前の、江戸の世間話を數多く書き集めた面白い本である。是とよく似た書物はまだ他にも幾つかあるやうだが、あの頃の江戸といふ處は、特に斯ういふ不思議な現象の起り易い土地であつたらうか。但しは又單に筆豆の人が當時多かつたから書き殘されたといふだけで、以前もそれ以後もまた他の町村でも、平均に同じ樣な奇事珍談は絶えず發生して居たのであらうか。兩者何れであらうとも、問題は一考の價値があると私は思ふ。我々の文藝は久しく古傳實錄の制御を受けて、高く翔り遠く夢みることを許されなかつた。それが所謂根無し草の、やや自由な境地に遊ばうとして居たかと思ふと、忽ち引き返して現實生活の、各自の小さな經驗に拘束せられる結果になつたのである。空想は畢竟する所この島國の民に取つて、一種鐵籠中の羽ばたきに過ぎなかつたのか。はた或は大いに養はるべきものが、未だ其機會を得ずして時を經たのであるか。日本の所謂浪漫文學には未來があるか否か。之を決する爲にも今少しく近よつて、自分たちの民間文藝の生ひ立ちを、觀察しておく必要があるやうである。耳囊の同じ條には更に右の話に續いて、それに似たる事ありと謂つて、又次のやうな話も載せて居る。

[やぶちゃん注:私は既に旗本根岸肥前守鎭衞(しずもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年:「守信」は彼の別名。佐渡奉行・勘定奉行・南町奉行を歴任した)の「耳囊」(みみぶくろ:天明(一七八一年~)から文化にかけて三十余年に亙って書き継いだ随筆。同僚や古老から聞き取った珍談奇談などが記録されている。全十巻一千編を収録)を全電子化訳注(二〇〇九年九月開始、二〇一五年四月完遂。一部はサイト版もある)している。以上で柳田國男が挙げたもの及び次段に紹介されている虎の門門前外濠の浚(さら)いでの奇談は、 之八 鱣魚の怪の事である。そちらの私のオリジナル語注と現代語訳を参照されたい。なお、柳田が『耳囊卷一に、是が當時の一異聞として錄せられて居る』と述べているのは、本「耳囊」が幾つかの異なった写本で伝わるものの一つが、これを「卷一」に載せていたものかも知れない(実際、伝本によって巻数・話数が異なり、話の順列にも錯雑がある)。]

 

 昔虎の御門のお堀浚へがあつた時、其人足方を引受けたる親爺、或日うたゝ寢をして居ると、夢とも無く一人の男が遣つて來た。仲間も多勢あること故其内の者であらうと心得、起き出して四方山の話から、堀浚への事なども話し合つた。やゝあつて其男の言ふには、今度の御堀浚へでは定めて澤山の鰻が出ることであらうが、其中に長さが三尺、丸みも之に準じた大鰻が居たならば、それは決して殺してはいけません。其他の鰻もあまり多くは殺さぬやうにと賴んだ。それを快く受け合つて有合せの麥飯などを食はせ、明日を約して別れたさうである。ところが次の日は此親爺差支へがあつて、漸く晝の頃に場所に出かけ、昨日の賴みを思ひ出して、鰻か何か大きな生き物は出なかつたか。若し出たならばそれを此親爺にくれと言ふと、出たことは確かにすさまじく大きな鰻が出たが、もう人足たちが集まつて打殺してしまつたあとであつた。さうして是も腹を割いて見ると、食はせて歸した麥飯が現れたので、愈〻昨日來て賴んだのが此鰻であつたことがわかり、其後は鰻を食ふことを止めたといふ話である。さうして筆者根岸氏は之に對して、兩談同樣にて何れが實、いずれが虛なることを知らずと記して居る。

 

2018/03/20

栗本丹洲 魚譜 銀ザメ (ギンザメ♀)

 

Ginzame

 

[やぶちゃん注:図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングし、合成した。左上辺で尾の一部が切れているのと、キャプションの「銀」の字の頭の一部が切れてしまっているのも、原巻子本のママ。国立国会図書館デジタルコレクションの原画像は頭頂部と本体が切断されて撮られており、しかも二枚の画像の角度が微妙に異なっているために、頭頂部画像を僅かに回転させて接合した。そのようにして出来上がったものをトリミングしたため、左右が狭まってしまい、しかも若干のキャンバスの白さが左右に出てしまったのはお許し戴きたい(私のショボい画像処理ソフトでは、たったこれだけのことをするのにさえ三十分以上かかるのである)。頭の「尾鯊」の上の字などは、完全に切り捨てられてある。後で述べるが、この標題魚名は「劔尾魚」とあったものと推定する。]

 

□翻刻1(原典のママ。■は巻子本化するに際して、カットされてしまったと推定する字。【 】は二行割注)

■尾鯊【九州方言ツノジ】

銀ザメ

  寒月ヨリ春初ヘ

  掛テ出ル味軽ク

  邵陽魚ノ如シ骨

  軟カナリ但カグサキ

  臭氣アリ凡鯊ノ

  類肉ヲキリヨク

  湯煮ヲナシ骨ニ付

  テ竹ノ筋ニテ

  アイノ如キ処ヲ通

  シ新汲水ニテ

  洗浄シテ煮啖

  ヘハ臭氣去リ毒

  ナシト云

  此物總身銀箔ヲ

  ハリタルガ如ク光アリ

  因テ勢州ニテハク

  ザメト云

 

□翻刻2(今まで通り、読み易く整序変更した。切除された「■」は「劔」と推定してそれを〔 〕で補った。推定根拠は後注を参照されたい)

「〔劔〕尾鯊(けんびざめ)」【九州方言、「ツノジ」。】

「銀ザメ」

寒月より春初めへ掛けて出る。味、軽く、邵--魚(えい)の如し。骨、軟かなり。但し、かぐさき臭氣あり。凡そ、鯊(さめ)の類ひ、肉をきり、よく湯-煮(ゆに)をなし、骨に付けて、竹の筋(すぢ)にて、「ちあい」の如き処を通し、新たな汲み水にて能く洗浄して、煮て啖(く)へば、臭氣去り、毒なしと云ふ。此の物、總身(さうしん)、銀箔(ぎんぱく)をはりたるが如く、光りあり。因りて勢州にて、「ハクザメ」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:今回は、尾鰭と区別可能な尻鰭がないという点と、棘の後ろが鋸状になっており、尾鰭の後端が糸状に著しく伸びるという点で

ギンザメ科アカギンザメ属アカギンザメ Hydrolagus mitsukurii 

としたい。

「「〔劔〕尾鯊(けんびざめ)」切除されてしまった部分は痕跡もないのであるが、後半でギンザメ上科 Chimaeroidea のテングギンザメ科 Rhinochimaeridae・ギンザメ科 Chimaeridae ギンザメ類に丹洲は「閩書南産志」から「劔尾魚」として名を与えており、何より、本図と酷似した後に出る図(国立国会図書館デジタルコレクションの)に「劍尾魚」と標題しているからである(或いは同一個体を別に描いたものかも知れない。その可能性はそこで再度、考証する)。

『九州方言、「ツノジ」』この異名は確認は出来なかったが、感覚的には「キンザン」とも親和性を感じる。この「ツノ」は背鰭前縁にある危険な棘を「角」と言ったものと私には思われる博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載で既に述べたが、ギンザメ類の♂の頭額部には交尾の際に♀を押さえつけるのに用いられる鉤状突起があるから、それを「ツノ」と言った可能性もあるかも知れぬが、本図には、そもそも、それがない。当時の漁民は♂と♀を区別して同一種とするよりも、違った魚としてそれを捉えた可能性の方が私は高いと思うのである。【2018年3月27日追記:後の剣尾魚 (ギンザメの♀或いはニジギンザメの♀)で丹洲が『此物半身以下漸〻細長ナリ然レトモ直ナラスシテ下ノ方ヘ曲ルコトつノ字ノ如シ故ニツノジノ名アリ』と述べていた。これは目から鱗!】

「寒月」特に旧暦月の特定呼称にはないが、寒さが木々しくなる旧暦十一月十二月と採ってよかろう。

「邵--魚(えい)」ネットを始めた当初からお世話になっているMitsuru Nakajima 氏の魚類サイト内の「真名真魚字典」のに、「邵陽魚(しょうようぎょ)」で『邦名:(1)エイ(「水産俗字集」「水産名彙」)。(2)コメ・オオトビウオ(「水産名彙」)』とあり、そこにあるリンク先の記載を見ても、これは肉の味であるからして、同じ軟骨魚類の「エイ」と採り、かく読んだ。

「かぐさき」この「か」は「香」ではなく(それでは如何にもな畳語表現である)、形容詞について語調を調える接頭語と採る。

「臭氣」不快な臭い、特に生臭い場合に、「かざ」(「氣」だけでも)などと読む場合もあるが、ここはルビがないのでそのまま「しうき(しゅうき)」と読んでおく。

「湯-煮(ゆに)」湯で煮ること。臭み抜きとして正しい第一段階である。正確には湯引きを何度かするのが、効果的である。御存じのように特にサメ・エイの類は浸透圧調整のために体内に多量の尿素を溜め込んでおり、死後はそれが分解してアンモニアとなるからである。

「骨に付けて」骨につけたままで、の謂いであろう。血合い部分を見易くするためと、肉を骨から剝す際に細胞を壊して、肉に血やアンモニア臭が沁み移ってしまうのを防ぐためであろう。

「竹の筋(すぢ)」竹の細い串。

「ちあい」血合い。

「新たな汲み水にて能く洗浄して」非常によろしい適切な第二段階の処理である。

「煮て啖(く)へば」最終処理として完璧。但し、油はすっかり落ちてしまって、淡白過ぎてしまうように思える。少し臭いぐらいが、私は美味いと思うけどなぁ。

「毒なし」ギンザメの肉には毒性はない。

「總身(さうしん)」「さうみ(そうみ)」と読んでも構わぬ。

「勢州」伊勢。

「ハクザメ」箔鯊。箔鮫。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十九年 三十而立

 

   明治二十九年

 

     三十而立

 

 明治二十九年は居士三十の年である。「孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり」 といった居士三十歳の年頭には

 

  三十而立(にしてたつ)と古の人もいはれけん

 今年はと思ふことなきにしもあらず

 

の一句がある。新春劈頭の雑誌『日本人』に「新年二十九度」を寄せて、幼時からの新年の思出を略叙したのも、自ら而立の年を記念するに外ならぬのであった。

[やぶちゃん注:「新年二十九度」は全文ではないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の「子規の正月/新年二十九度」がよい。是非、参照されたい。]

 

 この年の『日本』における活動は、「真率体(しんそつたい)」「即興体」などの俳句を掲げることからはじまる。一体各十二句、四季の順に並べてはあるけれども、何々十二カ月の称は用いてない。前後二十四体に及び、四月に入って漸く了った。最も多く材料に用いられたのは二十八年の句であるが、新に作り足したものも相当あり、一体悉く新作に属するものさえないではない。

 一月中居士は「従軍紀事」を『日本』に掲げて陣中生活を細叙すると共に、新聞記者に対する当局の待遇の一定せざることを論じたりしたが、この年に入って注目すべきものは、「三十棒」をはじめとし、「めさまし草一批評」「桐一葉」「作家評家」など、文芸批評の筆を執りはじめたことである。「戯曲類と四季」などという研究も、人事の葛藤を主とする戯曲について、その背景たる季節に著眼(ちゃくがん)したところに、居士らしい用意の窺われるものであった。

 居士の健康は年を越して思わしからず、一月中は僅に歩行し得て、久松伯凱旋の祝宴にも列している位であったが、二月頃から左の腰が腫れて痛み強く、横臥したまま身動きも出来なくなった。三月十七日医師の診察を受けたら、僂麻質斯(ロイマチス)でないという宜告を受けた。「僂麻質斯にあらぬことは僕も略〻仮定し居たり、今更驚くべきわけもなし。たとひ地裂(ちさけ)山摧(やまくだ)くとも驚かぬ覺悟を極め居たり。今更風聲鶴唳(ふうせいかくれい)に驚くべきわけも無し。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臟の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず、醫師に對していふべき言葉の五秒間おくれたるなり」といい、「世間野心多き者多し。然れども余(わ)れほど野心多きはあらじ。世間大望(たいまう)を抱(いだ)きたるまゝにて地下に葬らるゝ者多し、されど余れほどの大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならず。縱(よ)し俳句に於て思ふまゝに望(のぞみ)を遂げたりともそは余の大望の殆んど無窮大(むきゆうだい)なるに比して僅かに零を値するのみ」という感慨を虚子氏宛に洩している。

[やぶちゃん注:「僂麻質斯(ロイマチス)」rheumatism。骨・関節・筋肉などの運動器の疼痛と、硬直(こわばり)と変形を主徴症状とする疾患の総称。代表的な疾患にリウマチ熱・慢性関節リウマチがあるが、現在も多くは原因不明である。

「風聲鶴唳(ふうせいかくれい)」怖じ気づいた人が、僅かのことにも恐れ慄(おのの)くことの譬え。風の音や鶴の鳴き声を聞いた敗残兵が敵兵かと思い、驚き恐れたという「晋書」「謝玄伝」の故事に基づく。]

 

 四月初(はじめ)には僅に立つことが出来るようになったので、杖にすがって庭を徘徊し、「萩桔梗撫子なんど萌えにけり」一八の一輪白し春の暮」というような風物の変化にいうべからざるよろこびを感じた。じつと寝ていると、花時の上野のざわめきが「ごおごお」と聞えて来る。好晴に乗じて車を雇い、上野を一廻りして帰ったりしたこともあった。四月二十日から『日本』に掲げはじめた「松蘿玉液」は庭前徘徊と上野一周の記事からはじまっている。『松蘿玉液』は長期間にわたる居士の随筆の最初で、後の『墨汁一滴』『病牀六尺』と共に三幅対の観をなすものである。

 雨の降る日は庭に出ることも出来ない。訪客もない徒然の時は、臥遊紀行と称して七年前の水戸行のことなどを思い浮べ、「空中の幻華(げんくわ)」を捉えて俳句にする。柱にかけた裏から、過去の旅中の春雨を回想して、それを俳句にする。病牀を天地とする居士の文学は、漸くその特色を発揮せんとするに至った。

 四月十九日、不忍弁天僧房において藤野古白一周忌の追悼句会が催されたが、当日雨天であったのと、気分がすぐれなかったためとで居士は出席しなかった。四月二十日の「松蘿玉液」には古白に関する一条があり、「春雨のわれまぼろしに近き身ぞ」の一句を以て結んである。

 五月に入ってから居士は『日本』に「俳句問答」を掲げ出した。居士を中心とする新派俳句の陣容が整うに伴い、種々の展開を提出する者がある。「われは世の毀譽に關せず。自ら行かんと欲する道を行く者、敢て門戸の見(けん)を張らんとも思はず、敢て俳宗信仰者を增さしめんとも思はず。とはいへ疑問を發する人に向つては答辯を與へ、誤り想へる人に向つては其誤りを正すこと、亦吾等の義務なるべきか」という見地からこれに答えたもので、俳句を作ろうとする人に向って進むべき道を明にすると共に、外聞からの嘲罵に答え、その惑を解こうとしたものであった。「俳句問答」は質問の来るに従って筆を執ったものの如く、爾後九月頃まで断続的に紙上に現れた。

[やぶちゃん注:「門戸の見」自分の主義主張。]

 

御伽百物語卷之三 猿畠山(さるはたやま)の仙

 

   猿畠山(さるはたやま)の仙

Osarubatakenosen

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。]

 

 相州鎌倉の地に御猿畠といふ山あり。此うへに六老僧の窟といふ窟あり。いにしへ、日蓮の徒(と)の中(うち)、六老僧といはれて、尤(もつとも)上足(じやうそく)の名を得し僧の住みける岩窟なりとぞ。

[やぶちゃん注:現在の逗子の日蓮宗猿畠山法性寺(えんばくさんほっしょうじ)の裏手及び鎌倉と逗子の間の名越(なごえ)切通しの奥にある「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれるところが本話のロケーションである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編鎌倉志卷之七」の「御猿畠山」に(リンク先は私の電子化注。〔 〕は二行割注。絵図も添えた)、

   *

 

Osaru

 

○御猿畠山〔附山王堂の跡〕 御猿畠山(ヲサルバタケヤマ)、名越(ナゴヤ)の切り通しの北の山、法性寺の峯(ミネ)也。久野谷村(クノヤムラ)の北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越(ナゴヤ)の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。賤(イヤ)しみ憎(ニク)んで一飯をも不送(送(ヲク)らず)。其の時此の山より猿(サル)ども羣(ムラガ)り來て畑(ハタ)に集り、食物(シヨクモツ)を營(イトナ)んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其 後日蓮、猿(サル)どもの我を養(ヤシナ)ひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山(エンハクサン)畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟(イハヤ)は、堂の後(ウシ)ろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟(イハヤ)相並(ナラ)んで六(ムツ)あり。此(コ)れ六老僧の居たる岩窟(イハヤ)也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。

   *

とある(太字下線はここでの私の仕儀)。「山王の御利生」とは猿が山王権現(日吉山王)の御使いとされることによる(神仏習合であるから、日蓮を助けるのである)。別に日蓮の「松葉ヶ谷(やつ)の法難」の際に白猿が彼を導き、ここへと逃がしたとも伝える。「六老僧」は日蓮六老僧のこと。日蓮が死を前に後継者として示した直弟子の日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指す。絵図を見て驚くのは、ここにあるやぐらが有意に六つの形状を示しており、そこに『六老僧巖窟』と記されていることである。ここは日蓮の弟子である彼等の羅漢堂でもあった(少なくともそのようなものとして認識されていた)のである。何故、私が「驚く」と書いたかと言えば、現在の当該地にはこのような六穴は確認出来ないからである。或いは現在、「まんだら堂」と呼ばれる、名越の切通し方向のやぐら群と混同している可能性もないとは言えないが、鎌倉のやぐらは砂岩の鎌倉石をただ掘ったもので容易に風化するから、現在は消滅したと考える方が自然ではある。現況は鎌倉観光サイトの「たのしい鎌倉」の「自然と歴史が交わる散策路[お猿畠の大切岸]」がよい。同ページの『▲崖に沿って散策路が整備されています。崖の下と上部に、ぐるりと道が続いています』というキャプションがある切岸にある痕跡は、この『六老僧巖窟』の跡らしくは見える。因みに、ここで述べた名越の「まんだら堂」には曾て妙行寺という奇体な寺があった(現在はない)。私は二十一の時、まだ今のように整備されていなかった名越切通を四苦八苦で踏破し、辿り着いたその妙行寺の小山白哲老師から伝授された、宇宙創造の真相を語る直筆である文書も「新編鎌倉志卷之七」の「名越切通」に附注してあるが、これ、今読んでみても、なかなかに凄い。私のブログの「小山白哲老師 藪野直史伝授 宇宙創造之仏説 (肉筆)」にも掲げてあるので、是非、御一見あられたい。

「上足」弟子の中でも特に優れた者のこと。高弟。高足。]

 

 其後(そのご)、能州惣持寺(さうぢじ)の沙門、鶯囀司(わうてんす)といひしは、洞家(どうけ)におゐて希有の人なりければ、一山(さん)の崇敬(すうげう)、他(た)に異(こと)に智辯なるゝがごときに愛(め)で、學業のいさぎよきを慕ひ、衆議一同して鶯囀司を舉げ進め、後任せしめんと議(はか)りけるを、此僧、たゞ浮雲流水(ふうんりうすい)の思ひあり、轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して住職をのぞまず。さまざまと人の勸め擧げもてはやし、

「和尚、和尚。」

と崇(あが)むるに飽きて、夜、ひそかに寺を出で、いづくをそこと、心かくる態(わざ)もなく、身にそゆる物とては、三衣袋(〔さん〕えふくろ)・鉄鉢(てつはち)・錫杖(しやくでう)より外に貯へたる物なければ、朝(あした)に托鉢し、夕(ゆふべ)に打飯(だはん)を乞ひ、かなたこなたと吟(さまよ)ひありき、渇しては水を吞み、疲れて石に枕し、待つ事なく、急ぎもやらぬ道を、一ツの里にだに三宿(みとまり)と逗留せず。ある日は都に出で、市にうそぶき、または難波津(なにはづ)に杖をたて、心に感ある時は詩を賦し、歌を吟じ、諸國にいたらぬ隈なく、尋ねぬ名所もなかりしかども、

『こゝぞ禪定と、膝を屈し、觀念の眼(まなこ)こらすべき地もなし。』

と、撰びありきて、今年、元祿六年の秋は、此猿畠山に分け入り、かの巖窟に、しばらく憩(いこ)ひ、かりそめに立ちやすらひ給ひけるが、何となく心澄み、うき世の外のたのしみをも極めつべく思はれしかば、

『よしや、住みつかばこゝとても、かしがましかるべき所ながら、いづくも假のやどりなるを。』

と、禪衣をときて、襖(ふすま)とし、鐵鉢を枕にあて、そこらの風景、暮れゆく色をながめ出だしておはしけるに、此窟のほとりは、皆、大きなる桐の木はらにて、枝老ひ、梢(こずゑ)たれて、地をはらふかとみゆるばかりなるが、秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば、彼の西行の、

 

 秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに

 

などながめくらして、その夜は洞の内に蹲(うづくま)り居(ゐ)てあかし給ひなんとするに、十四夜(まつよひ)の月、木(こ)の間(ま)よりほのめきそめて、むしのね、近く遠く、ひらきあひて、松のしらべをもてなしたる、さながら塵外(ぢんぐわい)のたのしび・無何有(むかう)の里・朱陳(しゆちん)の民ともやいはんなど、觀じ居給ふ折から、異(こと)なる蜂どもの、あまた、何ともなく、むらがり來て、此桐の林に飛びかけりて鳴くあり。

[やぶちゃん注:「能州」能登。

「惣持寺(さうぢじ)」現在の石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸岳山總持寺祖院。曾ては曹洞宗大本山總持寺であったが、明治四四(一九一一)年十一月、本山機能が横浜市鶴見へ移転する際、移転先が大本山總持寺となり、ここはかく改称されて別院扱いとなった。参照したウィキの「總持寺祖院」によれば、『元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗』『)』であったが、元亨元(一三二一)年に『当時の住持である定賢が』、『霊夢を見て』、『越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった』。『翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問』十『問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている』。正中元(一三二四)年、『瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって』五『ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた』。その後も『室町幕府や地元の能登畠山氏・長谷部氏の庇護を受け』、江戸時代になってからも、明暦三(一六五七)年に寺領四百石が『与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた』。『また、江戸幕府は』元和元(一六一五)年、『永平寺・總持寺を』、『ともに大本山として認めるとともに』、『徳川家康の意向』によって、一千両が『寄付され』、『幕府祈願所に指定された。住持の地位は』五『つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られた』とある。

「鶯囀司(わうてんす)」不詳。実在したとすれば、特定職種を統括する「司」と称していること、「洞家(どうけ)におゐて希有の人」(当時の曹洞宗の僧侶の中でも稀れに見る名僧)とされていた以上、名が残らないのはおかしい。架空の人物であろう。

「他に異(こと)に智辯なるゝがごときに」その知識と弁舌は他に比肩し得る者がいないほどに。

「愛(め)で」称讃され。

「いさぎよき」道に反するところがく、精錬にして潔白である。

「後任」總持寺の後任住持。

「轉蓬(てんはう)の癖(くせ)を具して」「轉蓬」は風に吹かれて飛ぶ蓬(よもぎ)で、漂泊の身の上に譬える語。「癖」はそうした性質・属性。それを「具して」とは、生涯を行雲流水の行脚による悟達の覚悟を具(そな)えて、堅持して、の意。

「和尚」住職以上の僧への敬称。

「三衣袋(〔さん〕えふくろ)」「三衣」は「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣で、さらにそれ以外の最小限の身の回りのものを入れる袋のことである。

「打飯(だはん)」「打飯料(だはんりやう)」(「たはんりやう」とも読む)で、僧の食事の素材や費用の意。布施の意。

「一の里にだに三宿(みとまり)と逗留せず」一所無住は洋の東西を問わず、本来あるべき宗教者の修業の哲理である。

「市にうそぶき」市井に詩歌を吟じ。

「難波津(なにはづ)」大阪の湊の古名。

「元祿六年」一六九三年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版されている。

「かしがましかるべき所」人の声や物音が五月蠅く感じられる、騒々しい所。江戸時代の鎌倉は産業地としては僻地の漁村であったが、江戸への魚類の主要な供給地の一つであり、漸く、鎌倉時代の古跡巡りなども流行り始めていたから、必ずしも奇異な表現ではないと私は思う。

「襖(ふすま)」ここは夜具の意。

「桐の木はら」「桐の木原」。桐の林。

「秋來(こ)ぬと目には見えぬものから、風の音づれを、桐の葉の零(お)ちてぞ、折からのあはれも身にしみてしられしかば」次の西行の和歌の枕のこれは、「古今和歌集」の「巻之四 秋歌上」の劈頭を飾る藤原敏行の一首、

 

   秋立つ日、よめる

 秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどかれぬる

 

に基づく。

「秋たつと人は告げねどしられけりみやまのすその風のけしきに」「山家集」の「秋」の二首目、

 

   山居初秋

 秋立つと人は告げねど知られけりみ山のすそ野の風の氣色に

 

である。

「十四夜(まつよひ)の月」「翌日の八月十五夜の月を待つ宵」の意で、陰暦八月十四日の夜。小望月(こもちづき)。これが先に提示された、元禄六年のことであったとすれば、グレゴリオ暦一六九三年九月十三日で、月の出は午後四時五十八分、正中は午後十一時五十二分、月没は翌日の午前四時五十四分である。以上はいつもお世話になっている「暦のページ」での計算に拠った。

「ひらきあひて」「開き合ひて」。一面に広く鳴き合って。或いは、辺り一帯に広く鳴き渡って。

「松のしらべ」松籟。

「もてなしたる」主語は虫の声。

「塵外(ぢんぐわい)のたのしび」穢土としての現世の外の楽しみ。

「無何有(むかう)の里」「何有」は「何か有らむ」と読み、仮象の愚かな対象など「何物もない」の意。自然のままで何の作為もない憂いのない仙境。桃源郷(パラダイス)。

「朱陳(しゆちん)の民」朱陳村(そん)の村人。朱陳村とは白居易の「朱陳村」(八一〇年頃の作)に描かれているユートピアとしての村で、ここは世間とはほぼ関係が絶たれており、人情風俗が純朴で、村中には「朱」と「陳」の二つの姓だけを持った人々が暮し、村人はここの民として生まれ、ここで安らかに死んでゆく。代々、互いに婚姻を結んでその土地に安住して生活を楽しみ、誰もが皆、長命である、と記された桃源郷のような村である。モデルとしては詩に「徐州古豐縣」であるが、「去縣百里」とあり、これは現在の江蘇省の北の境にある豊県(漢の高祖の出生地として知られる)内に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の同県には「朱陳路」の名は残る(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「異(こと)なる蜂ども」見かけない奇体な姿形をした蜂たち。

「鳴くあり」鳴いている。ここでは読者はただの羽音を「鳴く」と採る。しかし――]

 

「こはいかに。折しもこそあれ、日暮(ひぐれ)、雲おさまる山中に、蜂のかく飛びかふは、若(も)し、蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を。」

と、しばし、ながめいりてきくに、蜂どものこゑは、人の物いふやうに、

「ひた。」

と吟詠するなり。

「何をかいふや。」

と聞けば、

 

 すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん

 

と、うたふなり。

「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ。」

と、さしのぞき給へば、やうやう、其たけ、一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も、翅(つばさ)あり。

[やぶちゃん注:「蜜(みつ)するとかやいふなるもありとは聞けど、それさへ晝のみぞ出づるなる物を」よく意味が判らない。「花の蜜を吸うとかいう蜂があるとは聴くけれども、それも絵にばかり描かれたものしか私は知らぬのに……」の謂いか? 蜜蜂が元禄期に知られていないかった、しかも善知識の彼が知らなかったというのは解せない。識者の御教授を乞う。

「ひた」「無暗に」「頻りに」「一途に」の意か。

「すむ身こそみちはなからめ谷の戸に出で入る雲をぬしとやはみん」不詳。筆者の創った一首か。

「誠に彼の京極太政大臣宗輔と申せし人の、蜂をあまた飼はせ給ひ、何丸(なにまる)角丸(かまる)などゝ名を付けて呼び給ひ、召しに隨ひて御まへに參りたるに、『何丸、あの男さして來たれ』と仰せられつれば、いつも仰せにしたがひしとか、十訓(くん)といふものに注されしも、實(げ)にかゝる蜂にこそ」「十訓」は鎌倉時代の説話集「十訓抄(じっきんしょう)」のこと(全三巻。序は建長四 (一二五二) 年のクレジットを持つ。作者は、写本の一つである妙覚寺本奥書からは「六波羅二臈(ろくはらにろう)左衛門入道」なる者とするのが通説で、彼は鎌倉幕府の御家人湯浅宗業(むねなり)の通称ともされるが、一方では鎌倉初期の公家の学者菅原為長とする説もある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下十条の教訓の下に分類配列して、各説話ごとに著者の評言を加えたものであるが、先行する平安期の説話集に拠ったものが多い)。ここに示された「京極太政大臣宗輔」及び「十訓抄」の当該話は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」』で注釈し、当該原文を引用してあるので、参照されたい

「其たけ一寸あまりある生身(いきみ)の人にて、然も翅(つばさ)あり」仙人の形象であろうが、蜂に見紛う三センチほどの背丈の生ま身の人間の姿、となると、これはもう、西洋のフェアリー(fairy妖精)みたようなものの方がイメージし易い。]

 

 鶯囀司も、あやしく珍らかなる蟲のさまかなと思ひ、扇をひろげて、柱杖(しゆでう)のさきに括(くゝ)りつけ、此蜂を、ひとつ、うちおとし、房子(もし)の袋にいれ、鉢の子の上にすえ置きぬ。

「桐の木にむれつゝ遊びけるは、もし、露をや愛しけん。」

と桐の葉、露ながら、折(をり)て、其かたはらにうち置き、ながめ居たりしに、しばらくして、此むし、傍(かたはら)にそはみ居て、すこし吁嗟(なげ)くこゑあり。

[やぶちゃん注:「房子(もし)」これは「綟」「綟子」で「もぢ」、麻糸で目を粗く織った布(通常は夏の衣や蚊帳(かや)などに使う)のことではなかろうか。

「鉢の子」仏道修行者の食器及び僧尼が托鉢の際に所持する鉄鉢。ここは後者。「応量器(おうりょうき)」とも呼ぶ。後で「袋の口をほど」くというシーンが出るので、綟子(もじ)で出来た小さな小物入れにそっと包み捕って、袋の中のゆとりを大きくとった上で口を縛り、鉄鉢の中に入れ置いたものであろう。

「傍(かたはら)にそはみ居て」綟子(もじ)の縁の辺りに寄り、横(外)の方を向いて凝っとして。

「吁嗟(なげ)く」「吁嗟」は通常、歎き叫ぶ「ああ!」という感動詞として使われる。]

 

 忽ちに、人かたちなる蜂ども、數(す)十、飛び來たり、彼(か)の袋のあたりに集まりつゝ、そのさま慰(なぐさむ)るに似たり。

 あとより、おしつゞきて、其たぐひ、あまた、あるひは、いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり。

 此むしをとぶらひけるを聞くに、ほそく、ちいさきこゑなり。

 鶯囀司、寢たるさまして聞き居たるに、主人と見えつる者の名を、

「伏見の翁。」

といひけるが、此とらはれし蜂にむかひていふやう、

「吾(われ)、君が此(この)不祥(ふしやう)のために筮(めと)をとりて、占ひてまいらすべし。君、よろしく無有(むう)を觀じたまへ。君、既に死籍を除(ぢよ)して命(いのち)のあやぶみなき身ならずや。何のなげく事かあらん。これ、天心造化(てんしんざうくわ)のしばしば移る所也。」

となぐさむ。

[やぶちゃん注:「いとちいさき車に乘り、あるひは輦(てぐるま)して、いり來たり」この「車」と「輦」の違いがイメージ出来ない。前の「車」は独り乗りの指南車のようなもので、誰も牽くことなく、自動的に動いてくる(仙人ならば可能である)もの、後者は所謂、高貴な者が乗用する屋形に車を付けて手で引く牛車様・輿(こし)様のようのものか。後者も、しかし、誰かが牽くのではなく、自ずと動いてくると見たい。

「寢たるさまして」寝たふりをして。

「伏見の翁」「此とらはれし蜂」がその訪ねて来た一人をかく呼んだのであろう。

「不祥(ふしやう)」不運。

「筮(めと)」「めど」で「めどぎ」「めどき」であろう。易で占筮(せんぜい)のために用いる五十本の細い棒のこと。もとは蓍萩(めどはぎ双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属変種メドハギLespedeza juncea var. subsessilisの茎を使ったが、のちには多く竹で作ったので、現行のように筮竹(ぜいちく)と言うようになった。

「無有(むう)を觀じたまへ」「実在と非実在を観想なされよ。」。

「天心造化(てんしんざうくわ)」天然自然。]

 

 又、

「增翁(ましてのおきな)。」

と、いふあり。

 かれがいふは、

「此ごろ、我、白箸翁(しらはしのおきな)と博奕(ばくえき)して琅玕紙(らうかんし)十幅を勝ち得たり。君、此難をのがれ出でたまはゞ、禮星子(れいせいし)の辭をつくりて給はるべし。」

など、揔(すべ)てみな、人間世(にんげんよ)の知るべき事にあらず。

[やぶちゃん注:「琅玕紙(らうかんし)」「琅玕」(ろうかん)」は暗い緑色をした半透明の宝玉のこと。硬玉の一つで、装飾材や高級硯材とされ、後に、この色から転じて、「美しい竹」を譬える語でもあるが、ここは前者で採る。この世にあり得ない硬玉の宝玉で出来た薄い薄い紙である。

「禮星子(れいせいし)の辭」不詳。「人間世(にんげんよ)の知るべき事にあら」ざれば、私には到底、判らぬ。]

 

 終宵(よもすがら)、かたりあかして、去りぬ。

 鶯囀司、ふしぎの思ひをなし、夜あけしかば、袋の口をほどきて、放ちやりぬ。

 みづからも、其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり。

 そのたけ、三尺ばかりなるが、黃なる衣服して、空より、下だり、

「我は三淸(せい)の使者、上仙の伯(はく)といふ官(くわん)にいたりたるもの也。名は民(たみ)の黑人(くろびと)といふもの也。今宵、君が前に來たりあつまりし人々は、皆、「本朝豚史(ほんてうとんし)」などにいひつたへし、日本の仙人たちなり。難にあひしは、彼の遊仙窟の讀みを傳へし賀茂の翁なり。今、君がなさけによりて、二たび、上淸(じやうせい)の天にのぼりし禮のために、我をくだして謝せしめらる。君、また、學業いたりたるゆへ、その身ながら、仙骨を得て、近き内に登天あるべし。」

と、いふかと見えしが、たちまち消えて、行きかたを失ひけるとぞ。

 其後(そのゝち)、鶯囀司も、また、修行して、諸國の名山勝地にあそびけるが、終に此僧もそのゆくかたをしらず、といへり。

[やぶちゃん注:「其窟(いはや)を出でて、極樂寺の切通しを小坪にと心ざして出でし所に、ふと、人に行きあひたり」青木鷺水は鎌倉に行ったことがないと見た。法性寺から、遙か西方、由比ヶ浜の反対の稲村ケ崎の根元にある極楽寺切通しを通って、由比ヶ浜の真反対の東方の小坪へ向かうというのは、物理的に話が通じないからである。

「三淸(せい)」道教の最高神格のこと。ウィキの「より引く。『「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱』。『それぞれ』、『道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ』。

「上仙の伯(はく)」後に出る通り、天界・仙界の「官」名。仙人の最上クラスの「上仙」の、その中でも「伯」と称するからには、最上級官僚であろう。

「本朝豚史(ほんてうとんし)」昨日の公開時には「本朝」を中国と誤釈し、「豚史(とんし)」を不詳として注したところ、以前にも北越奇談」でお世話になったH・T氏から、これは林読耕斎の「本朝遯史」である旨の御教授を戴いたので(昨夜に発信して下さったが、私は近日、夕食後早くに就寝してしまうため、開封は今朝に遅れた)、ここに新たに注することとした。かの林羅山の四男で江戸前期の儒者であった林読耕斎(はやし どく(どっ)こうさい 寛永元(一六二四)年~寛文元(一六六一)年)の主著とされる日本の隠者たちの叢伝である「本朝遯史(ほんちょうとんし)」のこと。「遯」は「遁れる」「隠れる」「ある場(世界)から逃げ出す」の意で「遁」に同じい。「本朝遯史」は寛文四(一六六四)年四月刊で、上下二巻、古代から室町時代までの隠遁者計五十一人の各小伝を漢文で纏めたものである。参照した『放送大学研究年報』(十四・一九九六年刊)の島内裕子論文『本朝遯史』と『扶桑隠逸伝』にみる隠遁像(PDF)によれば、後のリンク先で見て戴いても判るが、『現代でもよく知られている猿丸や蟬丸、西行・長明・兼好などの歌人・文学者もいるが、多くは今ではほとんど無名の人々』である。筆者林読耕斎は「朝日日本歴史人物事典」によれば、初名を守勝、後に靖又は春徳とした。読耕斎は号。京都に生まれ、後に江戸に移った。幼時より兄鵞峰から読書を、又、堀杏庵・那波活所ら羅山門人などに学んだ。博覧強記で、父や水戸家の蔵書を読破し、詩歌連句に勤しみ、「豊臣秀吉譜」「中朝帝王譜」の編選などでは父の代作を務め、朝鮮通信使とも筆談を交わせるほどであったという。しかし、病弱で官事を好まず、叔父方分家の相続を幕閣から、再三勧められるたにも拘わらず、それに従わず、正保三(一六四六)年になって老中らの要請を受けて、已む無く剃髪して幕儒となった。明暦二(一六五六)年には法眼となっているが、三十八歳で没した。本「本朝遯史」は、そうした彼自身の中の隠逸志向がよく現われた作品と言え、「詩仙堂三十六詩仙」の選出をはじめとして、その文事は初期林家の享楽的な一面をも表していると言われる。ここに登場する「民(たみ)の黑人(くろびと)」なる人物はまさに、その「本朝遯史」の劈頭に配された隠者で、幸い、サイトTaiju's Notebookの「本朝遯史の抄電子化で、その目録と冒頭三人(民黑人・藤原麻呂・猿丸)の部分が載り、読めるので参照されたい(これもH・T氏に教えて頂いた)。そこには彼の漢詩が奈良時代に成立した、現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」(撰者不明の序文によれば、天平勝宝三年十一月(ユリウス暦七五一年十二月十日から翌年一月八日まで)に完成)に彼の二篇の詩が載ることから、「此書之所錄、自天智之世、至孝謙之時。然則黑人亦其際之人也」(此の書の録する所、天智の世より、孝謙の時に至れり。然らば則ち、黑人も亦、其の際の人ならんや)としつつも(この謂いを額面通りの治世と採るなら、六六八年から七五八年の間となる。なお、訓読は自然流で行った。以下も同じ)、この「民黒人」という名が如何にも不審であり、「未審黑人何自之出乎」(未だ黑人は何れより出ずるか審らかにせず)と言い添えている。島内氏は先の論文の中でも彼を採りあげておられ、そこに『奈良時代に正立した漢詩集『懐風藻』の末尾近くに掲載されている漢詩の作者で、『懐風藻』では「隠士民黒人」となっている。彼は「幽棲」と「独坐山中」という二編の漢詩を残している』として、その漢詩二篇(本朝遯史」でも両篇全詩を引用してある)を訓読したものを掲げられて鑑賞された後、『作者民黒人がどのような経歴の人であるかも、生没年も詳しいことは何もわからない』が、これら二篇の詩を読むと『おのずからなる気韻が、それこそ「松下清風」のように、読む者の心を吹き抜け、彼が感じた心ののびやかさがこちらに伝わってくる。この詩を読む人間の中に、隠遁の別天地が生まれ、息づく。世間の煩わしさをよそにして、自然とともに心豊か暮らすという隠遁の理想の姿が、民黒人の詩から垣間見られる』とされ、本書巻頭に彼が『置かれているのも、編者である読耕斎が、彼の生き方に深く共鳴したからであろう』と述べておられる。最後に、改めて語釈指摘と御教授をして下さったH・T氏に御礼申し上げるものである。

「遊仙窟」知られた、唐代伝奇の一書。作者は張鷟(ちょうさく 生没年未詳)と伝えられる。ウィキの「遊仙窟」によれば、作者と同名の張文成なる『主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の十娘、その兄嫁の五嫂たちと、一夜の歓を尽くすというストーリーで』、『文章は当時流行した』四六駢驪体『によって書かれている』。『唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚』『書となり、存在したという記録すら残っていない。しかし日本では遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが多く流行し』、『後に魯迅によって日本から中国に』逆輸出されている。

「讀み」話の意で採る。]

 

2018/03/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9) / 流され王~了

 

 薩摩・大隅の天智天皇にも、豐後の玉世姫とよく似た玉依姫の話が傳つて居る。是と同時に王子の神を主として祭つた場合には、或は牛根郷の居世(こせ)神社には欽明天皇の第一皇子と謂ひ(地理纂考卷二一)、佐多郷の十三所大明神では忍熊王子と傳へて、何れも神船漂著の口碑の存することは、北海岸で半島の國王を説くものに近い(三國神社傳記卷中)。忍熊王子は越前丹生郡にもあるが、十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る。而も熊野には限らず越前では氣比白山、東國では香取鹿島、さては西州の阿蘇も宇佐も、王子卽ち苗裔神を以て遠國を經略せられた神々は、指を屈するも猶足たらず、三輪と賀茂とは申す迄も無く、播磨の荒田里、常陸の哺時臥山(くれふしやま)の如き、或は又美濃の伊那波神、上總の玉前神(たまさき)等、神が御子を産ませられて神德を永く傳へたまふと云ふ話は殆ど日本國教の第一の特色と謂つてもよい。それが我國の民心に浸染したことは、後世の佛徒も之を無視することが出來ず、如何に謙遜なる念佛聖の宗旨でも、御一方くらゐは無名の皇族を我本山にかくまひ申さぬは無く、思ひ掛けぬ田舍の寺にも每に流され王の物語は釀成せられつゝあつたのである。自分は古風土記に記された世々の天皇の御遺趾乃至は國史の綾を爲す英邁なる皇子の御事蹟まで、祖先民人が信仰の美しい夢であつたとは言はぬが、少なくとも今日尚我々を迷はしめる國々の平家谷、小松寺や惟盛後裔の舊記の類だけは、斯う云ふ立場から一應精細なる比較研究をして後に、それがどう云ふ意味で、我々も史料なるかを決定してみたいと思ふのである。そつとして置いて次第に忘れさせようとか、又はごく内々で手を振るとか云ふ態度が、之に由つて行く行く改まつたら、それこそ武州の高麗王等が、無意識に世に遺す所の大なる恩惠である。

        (大正九年七月、史林)

[やぶちゃん注:「玉依姫」例えば、鹿児島県志布志市志布志町安楽(やすら)にある安楽神社の由緒について、「鹿児島県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間』、『此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した』。『また』、『天智天皇が当所より頴娃』(えい:鹿児島県(離島部を除く)の南部にあった地名。現在、南九州市頴娃町(ちょう)。開聞岳の西方)『の里へ行幸され、五ヶ月御滞留の後当安楽へ還御されたが、舟磯の宿主の老翁老婆の世話により』、『ここに仮殿を営み置かれ、御心安楽であったため』、『地名を安楽という。天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間』、『此所に霊社を建立した』とある。

「牛根郷の居世(こせ)神社」鹿児島県垂水(たるみず)市牛根麓(うしねふもと)にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「垂水市観光協会」公式サイト内の「居世神社」によれば、『神社帳には欽明天皇の皇子である敏達天皇が祭神として書かれて』おり、『その関わりを示すとされる金箔で覆われた菊の御紋が、社殿の梁に飾られて』ある。『源氏に敗れた安徳天皇をお祭りしているという説もあ』るとする。『居世(こせ)と読むが』、『伊勢とも読める。平家は伊勢神宮を崇拝し』、『権威を誇ってきたが、都を追われた身ゆえ、公に伊勢とはなのれなかったので』、『隠語を用いたのではないか』とも『言われている。他にも』この辺りには、『都を偲ばせる地名が多く残っている。宮崎大路、東大路、中大路御所の尾,御前,おぜん原いつかは都へ帰れると信じて』、『山深いこの地に名づけたのだろうと言われ』ているとある。

「欽明天皇の第一皇子」実は欽明天皇には渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと:後の敏達天皇)の前に第一子として、同母(石姫皇女(いしひめのひめみこ:宣化天皇の皇女))兄の箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ:八田王)がいる。欽明天皇一三(五五二)年に薨去している。死因は不詳。柳田國男が言っているのは、欽明天皇皇子敏達天皇ではなくて、この謎の若死にを遂げた「第一皇子」である。

「地理纂考」既出既注であるが、再掲しておく。明治四(一八七一)年に刊行された鹿児島県私立教育会編「薩隅日地理纂考」(さつぐうにちちりさんこう)。本格的な最初の鹿児島県地誌。

「佐多郷の十三所大明神」現在の肝属郡南大隅町佐多辺塚(へっか)にある邊塚神社に合祀されて今は存在しない。参考にしたのは、細谷章夫著(一九九六年)とする「第六章 佐多町の信仰風土」と称するPDF文書で、そこの「第3節 その他の神社」に、この合祀は戦後の昭和二四(一九四九)年に行われたとあり、合祀されたのは、この十三所大明神の他に、枝若宮(若宮)・厳島神社(弁財天)・鹿児島神社(八幡様)・鎮守神社(熊之細家氏神)の五社である。最早、それらの元の由緒縁起は全く不詳となっているらしく、リンク先には『野田千尋氏』、『その著書「佐多岬」で「辺塚川の上流にズゴラ(洞ケ原)というところがある。ここへ行く途中の中腹に高さ』二『メートル以上もある二つの供養石と元禄の年号のある高野山』『真言宗系の僧侶のお墓が二』、『三十基ある。」と記している。そしてこの墓に「小石に経文を一字ずつ書いて(一字一石経)埋めたという」こと』、『その墓は』、『むかし』、『流行病で死んだ平家の落人たちの墓だといわれている』、『と記している。真言宗系の僧侶と平家の落人との関係』、『僧侶の墓地が二』、『三十基もあるとするなら』、『寺があったとみるほうが常識。それらすべて不明である』と擱筆されてある。

「忍熊王子」「おしくまわうじ」。ウィキの「忍熊皇子」によれば、生年不詳で没したのは神功皇后元年三月とする、『記紀に伝わる古代日本の皇族』とする。「日本書紀」では「忍熊皇子」「忍熊王」、「古事記」では「忍熊王」、他文献では「忍熊別皇子」とも表記されるとあり、第十四代『仲哀天皇皇子で』第十五代『応神天皇との間での対立伝承で知られる』とする。「日本書紀」に『よれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした』。『皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現在の兵庫県明石市』『)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが』、『菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した』。『一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊』(たけふるくま:和珥(わに)臣の祖)『を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた』とする(「古事記」では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績としている)。『逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという』。『以上の反乱伝承は』「日本後紀』「新撰姓氏録」「住吉大社神代記」など『でも言及されている』。『一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と麛坂王・忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれる。これに対し』、四『世紀後半のヤマト王権中枢である佐紀(奈良県北部:佐紀古墳群)の正統な後継者が麛坂王・忍熊王であったと見て、実際に反乱を起こしたのは神功皇后・応神天皇の側(元は山城南部の佐紀政権支持勢力か』『)で、勝利後に応神勢力によって佐紀から河内(大阪府東南部:古市古墳群・百舌鳥古墳群)に中枢が移されたとする説がある』。『また』、『忍熊皇子らが播磨赤石(明石)に御陵造営と偽って陣地を構築したという伝承は、五色塚古墳(兵庫県神戸市)に基づくと見られ』、『この五色塚古墳は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)の相似形で佐紀政権とのつながりを示す大型古墳であるが、一帯での古墳築造は』五『世紀代に停止する』四『世紀代勢力の衰退は』、『同じく佐紀陵山古墳相似形の網野銚子山古墳(京都府京丹後市)を含む丹後地方でも見られることから、ヤマト王権の中枢が佐紀から河内に移動する』四『世紀末において、在地首長層の盛衰をも引き起こす内乱が生じていた可能性が考古学的にも示唆されている』とある。『福井県丹生郡越前町の劔神社(式内社論社、伝越前国二宮)では、忍熊皇子が「劔御子神」の神名で同地開拓の祖として祀られている。劔神社に関しては』宝亀二(七七一)年という『全国でも早い段階で神階奉叙の記事が見えるが、これは祟る性質を持つ「敗者の霊」として祭神の忍熊皇子が重要視されたため』、『とする説がある。また、劔神社では早い時期に神宮寺も設置されており(』八『世紀初頭と推定)、やはり仏道の面から忍熊皇子の霊を慰撫する必要があったとも考えられている』とある。御霊扱いの部分に非常に興味が惹かれる。

「三國神社傳記」文化五(一八〇八)年成立。よく判らぬが、一之宮神社・鹿児島神社・川上天満宮の「鹿児島三社」についての書ではないかと推察する。

「越前丹生郡」福井県丹生(にゅう)郡。現在は越前町一町であるが、旧郡域はウィキの「丹生郡」を参照されたい。

「十三所と謂ふに至つては略其起源の熊野權現なることを示して居る」通常、熊野三所権現以外の神々を含めて「熊野十二所権現」と称し、各地の十二所神社の名もそれに由来するが、熊野那智大社では「瀧宮」を第一殿として、以下、一殿ずつ、繰り下げとして、中四社・下四社の八神を第六殿(八社殿)に祀り、合わせて「十三所権現」として祀っている

「氣比」福井県敦賀市曙町にある氣比(けひ)神宮。式内社(名神大社)で越前国一宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「氣比神宮」によれば、『敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった』とある。

「播磨の荒田里」「あらたのさと」。現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。久々に本単行本のメイン・テーマだった「一つ目」が出てきた

「常陸の哺時臥山(くれふしやま)」底本は実は「ねふしやま」であるが、ちくま文庫版全集は『くれふしやま』となっており、現行でも「くれふしやま」が正しいので誤植と断じて特異的に訂した。ウィキの「晡時臥山より引く。「常陸国風土記」の『那珂郡の条に記された山。この山について』は『いくつかの民話・伝承が残されている。茨城県水戸市、笠間市および、城里町に跨る朝房山』(茨城県笠間市池野辺。ここ(グーグル・マップ・データ))『であるとされる』。『常陸の国学者である中山信名編の』「新編常陸国誌」には『晡時臥山について「茨城郡牛伏村の北ニアリ、(中略)、今アサボウ山ト云フ、牛伏ハ即晡時臥也」と記され』ている。「常陸国風土記」の「晡時臥山伝承」は以下の通り。『茨城の里の北にある高い丘に晡時卧山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏』(つき:古代の飲食物を盛る器で、椀よりも浅く、皿よりも深いもので蓋を持つものもあった)『に蛇を入れ』、『祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので』、『父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより』、『天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている』(以下、リンク先には「常陸国風土記」原文が載る)。『この夜毎に現れて求婚をする正体不明な男や、生まれた子が問題となる伝承は、古事記に伝わる三輪山の伝承や』、「山城国風土記」逸文に『伝えられる賀茂の伝承』(賀茂神社の縁起譚で、山城の賀茂建角身(かもたけつのみ)命には玉依日子(たまよりひこ)・玉依姫の二子があったが、玉依姫のが瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)の畔りに遊んだ時、丹塗りの矢が川上より流れ下り、これを取って床の辺(べ)に挿し置くうち、遂に孕んで男子を産んだ。長ずるに及び、七日七夜の宴を張り、建角身がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ、酒杯を捧げて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天したというもの。ここは平凡社の「世界大百科事典」に拠った)『など類似するものが多い』。また、「肥前国風土記」の褶振山の伝承でも夜毎に通う蛇の説話が伝えられる』。『水戸市大足では晡時臥山はダイダラボウ伝説とも結びついて』おり、『これは、かつては西南にあったこの山が日陰を作って日暮れが早く、これに困りダイダラボウに山を動かしてもらったというもので、クレフシの名はすなわち、日暮れを防ぐことを意味するというものである』という。

「美濃の伊那波神」岐阜県岐阜市伊奈波通りにある伊奈波(いなば)神社。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「伊奈波神社によれば、『垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を主祭神とし、妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)、臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)を配祀する。これらの神を伊奈波大神と総称する』。『社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという』とある伝承を、柳田國男は指しているのであろう。

「上總の玉前神(たまさき)」千葉県長生郡一宮町一宮玉前(たまさき)神社。(グーグル・マップ・データ)。同神社公式サイト由来・由緒」神」に、『玉依姫命(たまよりひめのみこと)』とし、「古事記」には『海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産の後、妹の玉依姫命に』、『その御子の養育を託して海へ去られたことが記されています』。彼女は、

 赤玉は緒さへ光れど白玉の君が裝ひし貴くありけり

という『祝いの歌を添えて』、『御子を玉依姫命に託されました。玉依姫命は陰となり日向となって赤ちゃんを守りお育てになる乳母(老いては姥)神様となられました』とある。因みにここは、ああ、あの芥川龍之介の若き日の思い出の地だ。

「小松寺」不詳。前後から見ると、以下の平維盛が行き着いたとされる伝承を持つ寺のことらしい。

「惟盛」平重盛の嫡子で小松中将を称した平維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年?)。の別表記。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。享年二十八。

「大正九年」一九二〇年。

「史林」史学研究会会誌。大正五(一九一六)年創刊。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)

 

 自分が何かの折に述べてみたいと思つて居たことは、右の類の猶多くの話が、史學者の側から受くべき待遇を受けて居なかつたことである。等しく村に傳はつた無邪氣な舊話なるに、誤つて一步を踏み越えると直ちに荒唐無稽として却けられ、中に立つ者などがあつて僅かの折合ひをすれば、乃ち史書の逸文の如く尊重せられる。しかも故老の心持から言へば、二者の間には是と云ふ差異も無かつたのである。近松門左が用明天皇職人鑑、古くは又舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話は、固より突如として文章の徒の結構に浮び出るやうな事件で無い。併し何が故に儼乎たる正史の文面に背いて、天皇潛幸のおほけ無き物語を傳へたかを尋ねると、やはり亦誤謬にも一定の徑路のあつたことを知るのである。用明天皇を祀り奉ると云ふ傳は、攝州玉造の森之宮にもあつた(葦乃若葉卷二上)。式内の苅田嶺神社に當ると云ふ磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神にも、用明天皇の御后宮を齋ふと稱して、その御名は豐後と同じく玉世姫である上に、此地に來たつて皇子を生ませたまふと云ふ話もあり、近世の學者には白鳥に依つて日本武尊の誤傳だと、改訂を試みんとした人もあつたが失敗した(神社覈錄卷三三)。自分の觀る所を以てすれば、用明天皇と申し奉る理由は至つて簡明で、神の第一の王子をやはり太子と喚ぶ慣習がもと有つた爲に、其の御父の神を日本で最も有名なる太子の、御父帝なりと解したものに他ならぬ。殊に豐後の眞野長者の傳奇に於て、長老の姫の玉世姫を、宇佐の申し兒とも謂へば、八幡神の放生會の日の弓の式に、微賤の身に隱れたまふ至尊の御上を神託によつて知つたと謂ひ、一方には亦姫嶽の由來をさへも傳へて居るのを見ると(豐後遺事卷上)、神子神巫の大神氏古傳が姫嶽から宇佐まで一貫して、久しく且つ弘く物語られて居たことも想像せられる。東日本に於ては陸中鹿角郡小豆澤の五宮權現、繼體天皇第五の王子を祀ると云ふ古傳が、長者のまな娘召されて御后となつたと云ふ點まで、豐後の例と偶合して居る上に、金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふと云ふ一條は、最も甲斐の黑駒の話に近く、京近くの寺々で大切にして居る太子の緣起が、古いながらに更に由つて來る所あるを知らしめる。其金丸は又丹後では金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だなどゝも傳へるのは、又多くの固有名詞が全然出鱈目ではなかつた證據と謂へば證據である。

[やぶちゃん注:「近松門左が用明天皇職人鑑」近松門左衛門(脚本は竹田出雲)が書いた「用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」は宝永二(一七〇五)年に竹本義太夫による初演の、全五段から成る人形浄瑠璃。ウィキの「用明天皇職人鑑」によれば、『近松門左衛門の代表作として有名な』「曽根崎心中」が『世間に広く知れ渡るようになり、それを機に竹本義太夫が引退するのを竹田出雲が留まらせ』、宝永二(一七〇五)年に『この脚本を担当したのが』、『作品の始まりであ』った。『楽譜が失われていたため』、『上演は長く途絶えていたが、近年になって三段までの楽譜が大阪から発見され、鶴澤清治の復元により』二〇〇九年に『紀尾井ホールで上演され』ている。内容は、花人親王(はなひとしんのう)と『呼ばれる後の用明天皇が、仏教を厚く信仰し、敏達天皇の息子で仏教廃仏派の山彦王子と対立していくあらすじで』、『経緯としては、最終的に仏教を崇める花人親王が、廃仏派の山彦王子を疎外するといった展開である』。『この作品は主人公のモデルとなった用明天皇が、同じく飛鳥時代の皇族である聖徳太子の父であるという逸話から、後代に伝えられた聖徳太子にまつわる伝説を取り入れているのが特徴である』。『具体的には、用明天皇(花人親王)と、玉世姫』(たまよひめ)『のあいだにできた子が聖徳太子になったというのが、この物語の結末である』(このシノプシスはちょっと荒過ぎる。判りにくいと感じられる方は「文化デジタルライブラリー」のこちらを見られたい)。『この玉世姫とは、大分県に伝わる』「真名野長者伝説」(ウィキの「真名野長者伝説」を参照されたい)に『取材したものであり、「般若姫」というのが本名で、その娘・玉絵姫は、父の用明天皇に会えないまま私生児になったとされているが、一方で、この私生児こそ聖徳太子であるという異説も伝わっている』。『近松門左衛門は、この伝承を蘇えらせたものであり、後者の説を採っている』とある。

「舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話」「舞の本」は幸若舞(こうわかまい:主として室町時代に流行した舞曲。桃井(もものい)直詮(幼名・幸若丸)の創始という。語りを主とし、扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う)の詞章を記した本。今日では五十曲を数え、「平治物語」「平家物語」「曽我物語」「義経記」「太平記」などの軍記物に取材したものが多いが、他に説話に基づくものもある。古浄瑠璃に大きな影響を与えた。その「烏帽子折」(ゑぼしをり)という曲は、作者・成立年次不詳であるが、題名の初出は天文二〇(一五五一)年(「陰徳太平記」)で、上演記録の初出は永禄六(一五六三)年(「言継卿記」に拠る)。ストーリーは、鞍馬を出た牛若丸が金売吉次一行に加わって東国に下る途中、鏡宿で烏帽子を折らせるが、烏帽子折職人の妻が父義朝の郎等鎌田正清の妹であることを知る。その夜、牛若は独りで元服し、その後、青墓宿に泊まるが、宿の長者は義朝の妾満寿で、牛若の吹いた笛のことから、用明天皇の草刈笛の由来を語り、牛若を義朝を祀る光堂に案内する。牛若はそこでまどろみ、夢中に義朝・兄悪源太義平(義朝の長男)・兄朝長(義朝の次男)の三名が現われ、熊坂長範が率いる盗賊が吉次を襲うことを告げる。夢から醒めた牛若は独りで盗賊を討ち滅ぼす。草刈笛の由来はこの作品では劇中劇のように挿入されているが,内容は真野(まの)長者伝説に拠っている。同材の謡曲に「烏帽子折」「熊坂」「現在熊坂」がある(粗筋は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。後に作られたものであるが、「京都大学電子図書館 貴重資料画像」の「挿絵とあらすじで楽しむお伽草子」の「烏帽子折草子」がよい。「山路」は「さんろ」と読む。

「儼乎」「げんこ」。厳(おごそ)かで厳(いか)めしいさま。厳密な由々しき事実性を属性とすること。

「おほけ無き」畏れ多い。或いは、語り出す話者が「身のほど知らずだ・身分不相応である」の意。

「攝州玉造の森之宮」現在の大阪府大阪市天王寺区玉造元町から大阪市中央区森ノ宮附近。大阪城の東南から東方に当たる地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葦乃若葉」太田南畝の享和元(一八〇一)年の、大坂銅座御用として大坂赴任中の日記。「摂津名所図会」を参考に市中を歩き廻り、当時の大阪の風物を描写した随想風のもの。当該内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「蜀山人全集」の画像のこで視認出来る(左上)。

「式内」「延喜式」の巻九及び十の「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」に記載された式内神社のこと。

「苅田嶺神社」「かつたみねじんじや」。

「磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神」宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場の刈田嶺(かったみね)神社。現在も別号を「白鳥大明神」と称する。「宮城県神社庁」公式サイト内の同神社の解説によれば(地図有り)、『当社は往古倭建尊東征の折、在陣された地を尊崇して、日本武尊を祭り、別号を白鳥大明神と称え奉る』。西暦八五二年、第十四代『仲哀天皇元年冬』十一『月、白鳥社を創設したといわれる。第』五十『代桓武天皇』の延暦二〇(八〇一)年に、『田村麿将軍が中興し、延喜式内名神大に列し、古来、皇室よりの御信仰厚く、藩主伊達家、領主片倉家累代の祈願神社である。当初、大刈田山(青麻山)頂上に鎮座していたが』この延暦二十年に『西の宮の若宮に合祀され』、『その後、永正年中』(一五〇四年~一五二一年)『に現在地に遷宮された。その後、数度の兵火に罹るも、享保』三(一七一八)『年、願主片倉小十郎、村休(領主)、白鳥社一宇を造営奉り、現在の社殿』が『これである』とある。

「用明天皇の御后宮を齋ふ」ウィキの上記の神社の記載に、『穴穂部間人皇女(聖徳太子の母)が当地で斃れたという伝承を創建とするものもある』とあるのが、それ。

「神社覈錄」「じんじやかくろく」と読む。「覈」は「調べる・明らかにする」の意。式内社を始めとする古社を考証した書物で、江戸末期の神官・国学者であった鈴鹿連胤(すずかつらたね 寛政七(一七九五)年~明治三(一八七一)年)著(詳細事蹟はウィキの「鈴鹿連胤」を参照)。全七十五巻。天保七(一八三六)年起稿、明治三(一八七〇)年完成。参照したウィキの「神社覈録によれば、『体裁は、式内社や国史見在社、その他著名な神社を、六国史を始めとする諸書から各神社に関係する記述を引用しながら、社名の訓み・祭神・鎮座地等を考証しているが、当時の状況から引用諸書の中に偽書とされるものも混じるなどの問題がある。また、後日を期して空欄とした箇所も見られるものの』、当時、知られていた限りの「国内神名帳」の『全文を参考として掲げるなど、類書中では最も要領を得たものと評価されていた』とある。

「姫嶽」臼杵市東神野(ひがしこうの)にある標高約六百二十メートルの臼杵市で最も高い姫岳。ここ(グーグル・マップ・データ)。「臼杵市」公式サイト内のこちらに、『真野長者伝説によると、長者の一人娘であった般若姫が欽明天皇(第二十九代)の皇子橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと・後の用明天皇)の妃となって上洛をするときに、長者夫妻が、この山に登って姫を見送ったので、この山を姫見ヶ岳、後に転訛して姫岳と呼ぶようになったと伝えられてい』るとあり、先にリンクしたウィキの「真名野長者伝説」の伝承の骨子の「22」にも、『長者夫婦は山の上から船を見送り、その山は姫見ヶ岳と呼ばれるようになった。また、姫の一行は、途中豊前国の小さな島に立ち寄り、これが現在の姫島(大分県)である』とある。

「豐後遺事」加藤賢成著になる明治十八(一八八五)年刊の大分地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「神子神巫」「みこ・かんなぎ」。

「大神氏古傳」「おほみわしこでん」。ウィキの「大神氏」より引く。基本的には、『大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。古代氏族の研究』によれば、『三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが』、天武天皇一三(六八四)年十一月に『朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。また』、『三輪氏は元海人族の系譜であって、本願は北部九州の博多平野から、大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であると』もされる(下線やぶちゃん)。「日本書紀」では『神代第八段、一書(異伝)に大三輪神(大物主神)の子は甘茂君・三輪君などと記されており、また巻第五に崇神天皇』八年十二月の条にも『大物主神の子大田田根子は今の三輪君などの祖であると記述されている』。「古事記」でも、『意富多多泥古(おおたたねこ)命は神君(大神)・鴨君(加茂)の祖と記載されているので、大神氏は大物主神の後裔として同神の祭祀をつかさどる有力氏族だったことがわかる』。「新撰姓氏録」の『大和国神別の大神朝臣条によれば、大神氏は素佐能雄命(スサノオ)』六『世孫の大国主の後裔とする』。「日本書紀」によれば、垂仁天皇三年三月、『天日槍が来朝したとき、三輪君の祖の大友主命が遣わされ』、『尋問したという』(以下、後裔の中古の具体的記載が載るが、煩瑣なだけなので省略する)。『中世には大神氏の子孫と称する地下官人の大神氏(おおがし)があり、代々楽人として活躍して、後に家名を山井家(やまのいけ)と称した。南北朝時代に活躍した山井景光(大神景光)は笛の名人として知られ、後醍醐・光明両天皇に笛を伝授し、その功績から雅楽頭を経て従五位上安芸守まで昇った』とある。

「陸中鹿角」(かづの)「郡小豆澤」(あづきさは)「の五宮權現」秋田県鹿角市八幡平にある五の宮嶽(ごのみやたけ)標高千百十五メートルの山頂にある「五の宮権現神社」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「繼體天皇」(允恭天皇三九(四五〇)年?~継体天皇二五(五三一)年?)は第二十六代天皇。在位は継体天皇元(五〇七)年から没年まで。

「第五の王子」実際の皇子に照らし合わせて見ると、後に似た名が出る、椀子皇子(まろこのみこ)丸高王のことか。三国真人(みくにのまひと)姓の祖とされる人物である。母は倭媛(やまとひめ)で三尾君堅楲の娘である。はたまた、この妃やその「第五の王子」なる人物は養老泉に纏わるだんぶり長者伝説とも関与する(リンク先はウィキ)。当話の主人公である夫婦の間の、一人娘が後に継体天皇に仕え、「吉祥姫」と呼ばれ、父母の夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」(「だんぶり」は蜻蛉(とんぼ)のこと。理由はリンク先を参照のこと)と呼ばれたという話である。これの変形した別な話柄が盛岡タイムスサイト内記事にあり、そこでは、この「吉祥姫」は敬体天皇の后(きさき)となったが、亡くなったら、『故郷の小豆沢に戻りたいと言い残したため、大日堂を建立し、近くに墓をつくり吉祥院という寺が建てられ』とされる。そして、吉祥姫の産んだ五番目の五の宮の皇子は『母を慕』って、『鹿角までやってきて、大日堂の後ろにそびえる山へ登り、そのまま姿を隠した。そのとき乗った馬は「ばくだ石」、お供の兄、一の皇子が「皇子石」、あとから皇子を捜しにきた乳母夫婦が「夫婦石」に変わったと伝えられている』(下線やぶちゃん)とあるのである。

「金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふ」ここでの馬の口取りの「金丸兄弟」というのは不詳であるが、この話、前の最後の伝承の下線部の後半と非常に強い親和性が強く感じられる。

「甲斐の黑駒の話」古代、甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられている伝承。甲斐からは朝廷へ駿馬が貢上されたが、それが原話を創り、後に聖徳太子に付会された話となった。詳しくはウィキの「甲斐の黒駒を参照されたい。

「金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だ」既出既注であるが、再掲しておく。サイト「丹後の地名」の「筆石(ふでし) 京丹後市丹後町筆石」に、「丹後國竹野郡誌」の「犬ヶ岬」の条に、

   *

「丹後一覽集」、府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王當國へ下向ありて三鬼退治の時、鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて、犬の蹲りたる形狀をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王、比地へ下向の事を誤るなるべし。

   *

とあるという。聖徳太子の弟とあるが、私は聴いたこともない。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(7)

 

 しかも無謀なる確信家たちは、單に一人の皇族では滿足し得ずに、曾て又高倉天皇の行幸を説いた者もあつたやうであるが、今では到頭讓步し得るだけの讓歩をして、略高倉宮説に統一せられて居る。處が此類の歷史との調和が、したくとも迚も出來ない古傳がなお若干ある。その中の最も甚しい二三を擧げると、甲州の西山卽ち南巨摩郡の奈良田附近には、いつの頃からか孝謙天皇を説いて居る。神の御名の奈良王であつたことの外に、今一つの原因らしいものは、畏(かしこ)いから茲には公表せぬ。若くして御かくれなされた文武天皇も、二三の地にその御遺跡を傳へて居るが、是は簡單に大寶天王と云ふ神の名から誤つたので、其名が今尚現實の信仰に生きて居る大梵天王の轉訛であることは、自分等には殆ど些しの疑も無い。上總君津郡の俵田、及び其附近一帶の村々には、弘文天皇の御跡を傳へ、今では鼻であしらふことも些し憚る程に、御陵と稱する古墳などさへも指示せられて居る。これはバルバロサ實は死せずの傳説などとも少し異なり、正統の天つ日嗣が、さう凡人と同じやうな御最後を遂げたまふ道理が無いと云ふ、一種しをらしい春秋的論理も下に含まれ、甚だ珍重すべき口碑とは思ふが、しかも何が故にかゝる東國の果の一地域に限つて、此迄の發達を見たかということは研究の値がある。又信ぜられぬの一言を以て解決すべき問題でも無い。此地方で注意すべき點は、所謂大友皇子の話には必ず蘇我殿の名が之に伴ひ更に又田の神祭の由來談の存することである。蘇我は上總の古い郷名であるが、俵田などでは皇子の隨從に蘇我大炊と云ふ人物を説き、田植の時に入日を招き返したと言ふ話などもあつて、村に依つては四月十六日又は五月一日、俵田では五月七日を、蘇我殿の田植日と謂つて忌んで居る。卽ち蘇我の方が一段と古い固有名詞で、其から王子の神の名が出たやうでもある。村岡氏などは大伴の族人此地方に蕃衍して、其祖神を天皇に附會したやうに辯じて居られるが、それも亦一説である。日吉神社の創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王の如きも、漠然たることに掛けては上總と弟兄するに拘らず、土地が偶然に前朝の宮址にも、又御最後の地にも近かつたばかりに、吉田博士の如きすら略之を信ぜられんとした。併し御諱を忌まなかつたと云ふことが、既に此傳説の新しいことを證して居る。名古屋の市内撞木町とかに、或は大友皇子の古墳かとも謂つたオトモ塚の有つたなども(名古屋市史地理篇六四七頁)、やはり其附會説の古くないことは同じである。而もそのオトモと云ふ語に、何等か信仰又は儀式と關係の有る意味があつて、特に此天子の口碑を發達させる緣となつたのでは無いかと思はせる。四國では伊豫喜多郡の粟津森神社に、王子吉良喜命及び其御妃來たつて牛頭天王を祀り、後に己も祭神の中に列したまふと云ふ傳へがあつて、王子は大友皇子の十世の孫と舊記に見えて居るそうだが(明治神社誌料)、十世とはあまりに謙遜であつた。次に九州でも南端大隅薩摩の數箇所に、大友皇子を祀つた社があるが、是は何れも主神を天智天皇と傳へるために、其王子の神として御名を掲げたこと、八幡の若宮と云ふ所から仁德天皇菟道稚郎子を説くのと同じである。天智天皇は暫く御駐輦なされた筑後川右岸の朝倉の外、土佐の朝倉にも盛んに御遺跡を主張して居るが、鹿兒島縣のは又更に別樣の事情が有るやうで、或は彦火々出見尊の御