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2018/03/29

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 餅白鳥に化する話 一

 

 餅白鳥に化する話

 

     一

 

 正月が來るたびに、いつも思ひ出すばかりでまだ根原は知らぬのだが、伏見の稻荷樣の一番古い記錄に、餅が鳥になつて飛び去つたといふ話がある。

 都が山城國に遷された以前、今の稻荷山の麓の里に秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)の一族が住んで居た。その家の先祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)の時に、有つた事として其話は傳へられる。伊呂具富裕にして粟米充ち溢るゝままに、餅を用ひて的としたところ、其餅白き鳥に化して飛び翔りて山の峰に居り、そこに稻が成生した。社の名も之に由つて起り、更に山を隔てゝ北の方、島部野島部山の鳥部と云ふ地名も、其餅の鳥が飛んで來て、とまつた森の跡だからと謂ふのであつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「伏見稲荷大社」によれば、『京都府京都市伏見区深草にある』、同社(旧称・稲荷神社)は『稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする』とし、「歴史」の項に『「秦氏の祖霊として創建」の縁起』として、本社の本来の神名「イナリ」の縁起としては、「山城国風土記」に『あったとされるものが有名である』とあって引用される。ここでは所持する岩波文庫「風土記」武田祐吉編の逸文にある「山城國風土記」で独自に示す。私が添えた「-」は二字熟語で以下の読みであることを示す。

   *

  伊奈利(いなり)の社

山城風土記に曰はく、伊奈利社、いなりと稱(い)へるは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等(ら)が遠祖(とほつおや)、伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稻-粱(いね)を積みて富-裕(とみ)を有(たも)ちき。すなはち、餅を的と爲ししかば、白鳥と化-成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峰に居り、稻(いね)なり生(お)ひき。遂に社の名と爲しき。その苗-裔(はつこ)に至り、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこじ)にして、家に殖ゑて禱(の)み祭りき。今、その木を殖ゑて蘇(い)きば福(さきはひ)を得、その木を殖ゑて枯れば福あらじとす。

   *

『この秦氏について』は、「日本書紀」の「欽明紀」に『秦大津父』として、『もともと』、『山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え』、また、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」にも、

   *

秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂縣主、久治良ノ末子和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]二月壬午、稻荷明神鎭座ノ時、禰宜トナル、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]八月八日卒。

   *

『とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し』、『祈請すると加護があって』、『山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ』、『とも伝えている』とある。以上の「山城国風土記」に『見られるように、「イナリ」の表記は』、本来は「伊奈利」の字が当てられていたが』、「類聚国史」にある淳和天皇による天長四(八二七)年『正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた』。以降、「延喜式神名帳」では、

   *

山城國紀伊郡 稻荷神社三座

   *

『と記載され』るようになったという。『なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている』とする。なお、戸原氏の個人サイト内の「稲荷信仰/稲荷神顕現伝承」には、この『その創建に関する伝承には大きく』見て、『秦氏系と荷田氏系のふたつの流れがある。ここでは、前者を「伊奈利伝承」後者を「稲荷伝承」と区別して記す。なお、どちらもイナリと読む』として、以上の縁起と、今一つの「稲荷伝承」(イナリ神の顕現を「稲を荷なう老翁」に求める伝承で、伏見稲荷で秦氏とともに神官を勤めた荷田氏系の伝承とされるものという)を併記するので参照されたい(但し、そちらでは白鳥への変異は語られていない)。

「都が山城國に遷された以前」桓武天皇が延暦三(七八四)年に乙訓郡長岡に長岡京を造営する以前。

「秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)」「伏見稲荷大社」公式サイト内のこちらによれば、秦中家忌寸は次に示される伊呂具から数えて九代目に相当する人物で、『賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥三年[やぶちゃん注:八五〇年。]三月從六位上』と記録されているという。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜一名であったが、彼の代にその弟の「森主」が『祝(はふり)、嘉祥三年三月從六位下』と記録されていることから、この頃から、禰宜・祝の二員制に移行したことが判るとある。

「秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)」秦中家忌寸らの祖先。秦氏は半島から渡来して山城国を本拠にした一族である。]

 

 此話の永く世に傳はつた理由、卽ち此物語が古代の人々に供した繪樣[やぶちゃん注:「ゑやう(えよう)」。イメージされた映像。]は、今我々が之に由つて感受するものと、大分の相異があつたので無いかと思ふ。所謂白い鳥の何鳥であつたか、何故に不思議が其鳥の形を假りて、能く人間の驚歎を深くし得たかといふことは、既に日本武尊の御墓作りの一條に於ても、決しかねた問題であつたが、此場合はことに其點がはつきりせぬと、昔の心持を辿りにくいやうな感じがする。

 

 宮城縣[やぶちゃん注:底本は『福島縣』であるが、誤りであるので、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]の苅田嶺神社は、近世の學者によつて、日本武尊を祀ると説明せられて居るが、土地の口碑を聽けば明白に滿能長者同系の物語で、天子の御寵愛を受けた玉世姫と、その王子の尊靈とを神に仰いだものである。さうして此神の御使はしめの白い鳥は、ハクテウ卽ち Swan であつた。豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間の草原には、以前は年每に二羽の鶴來たり遊び、それを長者が飼つて居た鶴だと謂うた爲に、或は豐後風土記の中にもある同じ話、卽ち餅が化して成つたと云ふ白い鳥を、鶴では無いかと思ふ人も有るかも知れぬが、勿論之に由つて卽斷をすることは出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「苅田嶺神社」刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)と称する知られた神社は現在、三つあるが、孰れも宮城県内にある。一つは、宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、別に宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町にある里宮の刈田嶺神社と、その奥宮である宮城県刈田郡七ヶ宿町の刈田岳(標高千七百五十八メートル)山頂にある刈田嶺神社である。後者の二者は修験道系で、ここで柳田國男が言っているのは、最初に挙げた、別名を「白鳥大明神」と称する宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場にある刈田嶺神社(蔵王町宮)で、現在、同神社は祭神を日本武尊とする同神社のウィキによれば、『当社がある刈田郡や隣接する柴田郡では「白鳥信仰」があり、当社には奉納された白鳥の絵馬がいくつも伝えられて』おり、『また、境内に「白鳥古碑群」がある』とある。

「滿能長者」各地に伝わる長者伝説で、他に「真名野(まなのの)長者」「万の長者」などとも称する。特に豊後(大分県)の「まんのう長者」伝説が名高い。以下、小学館の「日本大百科全書」から引く。『前半は、炭焼きから身をおこして長者になったという炭焼き長者譚(たん)として語られている。京に玉津姫といって顔に黒痣(あざ)のある姫がいたが、神のお告げによって豊後の炭焼き小五郎と夫婦になる。小五郎は、妻にもらった小判を鴨(かも)に投げつけて失うが、驚く妻に』、「あのようなものならば、炭焼き竈(がま)のそばにいくらでもある」『と話す。そのことばどおりに黄金を発見し、のちに真名野長者になったという話で、すこしずつ』、『変化して各地に分布している。後半は、この長者には子がなかったので』、『観音様に祈願して美しい女児を授かり玉依姫(たまよりひめ)と名づける。姫の評判を時の用明(ようめい)天皇が聞き、勅使を遣わすが』、『意に従わない。怒った帝は「芥子(けし)を万石差し出せ」「両界の曼荼羅(まんだら)を織れ」といった難題を出すが、ことごとく解決してしまう。帝は自ら身をやつし、山路と名のって長者の牛飼いとして働いて姫を迎える。大分県竹田(たけた)市蓮城寺(れんじょうじ)は真名野長者の跡と伝え、長者堂のほか、用明天皇の腰掛け石などが残っている』。中世の舞の本である「烏帽子折(えぼしおり)」に『みえる山路の牛飼いの挿話は、この伝説のもっとも古い記録として知られ、以前に「流され王」の中で注した近松の「用明天皇職人鑑」の成立にも『大きな影響を及ぼしている。長者の名については、富を表現しているとする説のほか、これらの説話を持ち歩いた巫女(みこ)の名に由来するとの説がある』とある。

「豐後の田野(たの)長者」は「まんのう長者」伝説の変形譚の一つ。個人のページと思われる「大分の伝説」の「朝日長者伝説」の「夕日を呼び戻す」を参照されたい。他の記事も同系列譚なので、全文を読まれることを強くお薦めする。

「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」恐らくは大分県玖珠(くす)郡九重町田野千町無田(せんちょうむた)附近と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、直近の西北に「白鳥神社」があるのが判る。

「豐後風土記の中にもある同じ話」以下(【 】は二行割注)。引用底本は前に同じ。

   *

田野【郡の西南に在り。】

この野は廣く大きに、土地(つち)沃-腴(こ)えたり。開墾(あらき)の便(たより)、この土(くに)に比(たぐ)ふものなし。昔-者(むかし)、郡内(くぬち)の百姓(おほみたから)、この野に居りて多く水田を開き、糧(かて)に餘(あま)して畝(うね)に宿(とゞ)め、已(はなは)だ富みて大(いた)く奢り、餅(もちひ)を作りて的(まと)と爲しき。時に餅(もちひ)、白鳥と化(な)りて發(た)ちて南に飛びき。當年(そのとし)の間に、百姓(おほみたから)死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廢(う)てたりき。時(それ)より以降(このかた)、水田に宜からず。今、田野(たの)といへるはその緣(ことのもと)なり。

   *]

 

 豐後風土記の餅白鳥に化する物語は、之を繰り返す必要も無いほど、最初に擧げた山城風土記の逸文とよく似ている。この二つの風土記は文體から判斷しても、出來た年代に若干の差が有るらしいから、一方の話が弘く世に行はれて、後に九州の方でも之を説くに至つたのかも知れぬが、それにしてはあまりに根強く、新しい風土に適應し、且つ年を追うて成長して居る。或は今一つ古い時代から、此民族に持ち傳へた空想が、何ぞの折には斯うしてそちこちに、芽を吹き花を咲かせる習はしであったのではないか。

 二國の物語の最も著しい差別は、山城の方では秦氏の子孫再び神に宥されて[やぶちゃん注:「ゆるされて」。許されて。]故の地に繁榮し、自ら家の奇瑞を述べて居るに反して、豐後に於ては田野は永く荒廢し、偶〻其地を過ぐる者が、色々に聞き傳へ語り繼いだ昔だけが遺つて居る點である。田野(たの)とは田に似たる荒野と云ふ意味で、附けられた地名であつた。今の玖珠郡飯田村の中に、千町牟田[やぶちゃん注:前の段落の私の「豐後の田野(たの)長者の、故跡と稱する山間」の注とリンク先を参照。]と稱する廣いムタがあるのを、所謂田野長者の耕地の跡としてあるが、果して風土記以來の田野は是なりや、また[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『まだ』。]少しばかりの疑ひは有る。風土記には速見郡田野里とあるのに、右の千町牟田は分水嶺を越えて更に西、筑後川の水系に屬する玖珠郡の地であり、且つ速見郡の方面にも、南北由布村の如く、田野とも名づくべきムタ卽ち水濕の地はいくらもあるからである。

[やぶちゃん注:「ムタ」小学館の「日本国語大辞典」によれば、「草の生い茂った沼」の意で、方言としては「湿地・沼地」(大分等の九州地方)、「沼田・泥田」(長崎・鹿児島)の意があるとある。

「速見郡田野里」「田野里」は不詳であるが、旧速見郡郡域で「南北由布村」=北由布村・南由布村となると、大分県由布市湯布院町のこの中心(グーグル・マップ・データ)附近と思われる。先の千町無田より十一キロメートル以上、東北に当たる。]

 

 ムタは關東・東北でヤチといい、中部ではクゴともフケとも稱して、排水の六かしい[やぶちゃん注:「むつかしい」。難しい。]平衍[やぶちゃん注:「へいえん」。平らな所で水があふれて広がっていること。]なる濕地のことである。海川に近い低地であるならば、何としてなりとも水田に開くが、山中に在つては温度其他の條件が具備せず、打棄てゝ置かれて禾本科[やぶちゃん注:「くわほん(かほん)」。単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae の種群。]の雜草が野生する故に、地面を大切に思ふ農民たちは、之を見る每に心を動かし、神の田又は天狗の田などゝ名づけて、色々の奇異を附會した例が多い。豐後の田野でも其に近い事情の下に、有りもしない大昔の長者を想像する樣になつたのであらう。千町牟田なども豐日誌の記事に由れば、今も畦畝儼として存し、春夏は草離々[やぶちゃん注:「りり」。草が繁茂しているさま。]として畝每に色を異にす、或は蒼く或は赤く、禾苗早晩の狀を爲すとあるのである。餅が白い鳥になつて飛ん往つたと云ふ昔話に、似つかはしい舞臺であつた。

[やぶちゃん注:「ヤチ」谷地。沼沢・湿地などの草生ひ茂るところを指し、また、アイヌ語では「沼沢」と女性の生殖器とは同一語であって、やはり「やち」と呼ぶ。後、「女陰」の隠語として無頼漢の間の隠語となった。

「クゴ」所持する増補改訂版の松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊の「日本民俗文化資料集成第十三・十四巻)を見るに、これは「クボ」の転訛で「窪」と思われる。関東では「クボ」は「谷合」、信州南部では「山の窪んだところ」を指し、そこは概ね湿地であるからである。また、アイヌ語では「ク」は「クッ」ならば「(水の)流れ」で、「ホ」は「末端」や「端」を意味するから、水源地で、これも「谷合」などと極めて親和性が強いと私は感じる。

「フケ」小学館の「日本国語大辞典」を見るに、これは「深」ではないか? 方言では「沼沢地・沼地・湿地」(静岡・和歌山)、「大きな沼」(福島)、「泥深い田・深田」(東京都南多摩郡・佐渡・三重・和歌山・徳島・愛媛・大分)などとある。

「豐日誌」不詳。古代氏姓制度研究家大田亮の著作か。ちくま文庫版全集では『ほうにっし』とルビする。識者の御教授を乞う。

「禾苗早晩」イネ科の植物類の苗の出始めたものやかなり伸びたものの意。]

 

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