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2018/03/05

御伽百物語卷之二 岡崎村の相撲

 

御伽百物語卷之二

   岡崎村の相撲(すまふ)

Okazakinosumou

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 筑前の博多・黑崎などゝ聞へたるあたりは、よき相撲のあまたある所なり。過ぎし元祿十二のとし、京都岡崎の村にて、勸進相撲を取りむすび、諸國に人をつかはし、ぬき手のものどもをゑらみ、かゝゆるの沙汰ありしかば、當國の男どもには兩國梶の介・金碇仁太夫(かないかりじんだゆふ)などいふ者どもをはじめ、さまざまの相撲ども、こゝぞ、と力を挑み譽(ほまれ)をほこりて、我さきと、のぼらん支度をなしけるより、こゝかしこの取手ども、あまた聞き傳へに寄りあつまりける。

[やぶちゃん注:「岡崎村」現在の京都府京都市左京区の南部の「岡崎」を町名に冠する地区。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。しかし、この話、岡崎はロケーションにない。その肩すかしも、恐らくは筆者の悪戯っぽい仕掛けなのかも知れぬ。

「筑前の」「黑崎」博多の東北方向、旧福岡県遠賀郡黒崎町(くろさきまち)周辺。現在の北九州市八幡西区北東端及び八幡東区の北西端の鹿児島本線黒崎駅の周辺附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「元祿十二のとし」一六九九年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年の開版であるから七年前。またしても直近のアーバン・レジェンドである。

「勸進相撲」寺社の建築・修繕などの募金を目的とした興行相撲。鎌倉末から室町にかけて発生したとされ、江戸時代に入ってからは職業的に基盤が出来た。但し、後には勧進は名目だけとなり、都会や繁栄地で盛んに興行されるようになった。やがて、この元禄期からの勧進相撲は年中行事として流行った(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ぬき手」元来は「ぬきで」で「抜き出」「抜出」。平安時代の宮中儀式であった「相撲(すまい)の節会(せちえ)」の翌日、前日の勝負で勝(すぐ)れていた者を選んで取組を行うことを指したが、ここは相撲の名手・達人の意。

「かゝゆる」お抱えにする、の意。

「兩國梶の介」この当時、実在した名力士で、初代の両國梶之助(寛文四(一六六四)年~宝永五(一七〇八)年)。因幡国気多郡宝木村(現在の鳥取県鳥取市気高町(けたかちょう))出身の大相撲力士。本名は澤山彌太郎。現存する最古の勧進相撲の番付である元禄一二(一六九九)年(京都)及び大坂で初めて行われた勧進相撲の番付である元禄一五(一七〇二)年に大関として名を載せている。参照したウィキの「両國梶之助(初代)によれば、『鳥取藩の』お抱え力士で、初め、「浮舟」を名乗ったが、『取り組む相手がいなくなるほど強くなったので「汲む人もなき山の井の水」の古歌から』「山の井」と『名付けられ、さらに因幡国・伯耆国の因伯二州にたてつくものなし』、『と藩主池田光仲から』「両國」の『名が与えられた』という。『上記のように京・大坂の他、江戸の弁天町牛込七軒町の末弁天社に奉納された番付絵馬にも「相関」(大関と同格)として名があり各地で活躍した強豪であったとされる』。身長も高く、一メートル八十六センチメートル、体重は百五十キログラムと伝えられる。『晩年は但馬国(兵庫県)の湯村温泉にて接骨を業とし』、『その術は後世にまで伝えられたという。大変な怪力だったようで、ある時、御用木無次右衛門(同時期に活躍した巨漢・大関)が外で風呂に入っていたところ、馬が通れぬと騒ぎになり、これを聞きつけた両國が御用木が浸かったままの風呂桶ごと抱え上げ』て『移動させたという逸話が残されている』とある。

「金碇仁太夫(かないかりじんだゆふ)」これも実在した名力士。元禄一三(一七〇〇)年の大関の中に見出せる。飯田昭一編「資料集成 江戸時代相撲名鑑」の広告見本PDF)にある「歴代三役一覧」に前の両國梶之助とともに名が出る。本「御伽百物語」刊行のすっと後ではあるが、手柄山仁大夫(てがらやまじんだゆう 生没年不詳)というまさに筑前国(現在の福岡県)出身の大相撲力士(最高位は小結)がおり、ウィキの「手柄山仁大夫」によれば、『彼は大坂相撲で初土俵を踏み』「金碇仁大夫」の初名で宝暦四(一七五四)年五月場所で、いきなり、『関脇に附け出され、以降幕内上位を維持』し、宝暦八(一七五八)年には、『江戸相撲への進出と前後して姫路藩の抱えとなり、改名』した、とある。或いは、この金碇仁太夫というのも、筑前の出身であったかも知れない。青木鷺水のリアリズム風の緻密な仕立て振りが窺われる部分である。]

 中に捻鉄九太夫(ねぢかね〔く〕だゆふ)といひしは、年いまだ卅にたらずして、力、中國にたぐひなく、其比(そのころ)の妙手にて、およそ四十八の習(ならひ)はいふにたらず、さまざまの手どりなりしかば、人みな、師とし、兄ともてなし、あへて是れが上にたゝんとするものなければ、

「此たび、上(かみ)がたのすまふは中絶して、久しく沙汰なかりしを、珍しう取り立てるは、われわれが日比(ひごろ)の大望(たいもう)、都は殊に諸國の重んずる所といひ、文は藝に長じて恥かしき所と聞き、いざ、我もうちまじりて、萬人の目を驚かさばや。」

と心おごりして、是れも關の數に極まりける。

[やぶちゃん注:「捻鉄九太夫(ねぢかね〔く〕だゆふ)」不詳。「鉄」が後で一部、「鐡」となっているのは総てママである。

「上(かみ)がたのすまふは中絶して、久しく沙汰なかりし」ウィキの「大坂相撲」を見ると、事実に反して、やや時制が前倒しされてしまっていることが判る。そこには『江戸時代初期、相撲興行は観客同士の暴力沙汰が絶えず』、『禁止状態が続き、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の堀江で』元禄一五(一七〇二)年に解禁となり、以後、『力士らが勧進元となり』、『全国の力士を大坂へ招いて試合を行うようになった』。『公の許可で相撲興行ができることと』、『大坂商人の後援とを背景に』十八『世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。しかし、寛政年間に江戸相撲が谷風、雷電らの活躍で盛り返すと、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が抱え力士を江戸相撲に出場させることを好む様になり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった』とあるからである。]

 生得、この捻鉄は、肉食(にくじき)、人にこゑて、幼少より獵をこのみ、山野にかけり、海河(うみかは)に渡りて、終日終夜、魚鳥(うをとり)を驅けとり、中にも狗(いぬ)を食ひ、猫を好きて、猥(みだり)に人の祕藏し愛するをも構はず、押し取り奪ひ、殺して喰(くら)ひける程に、其邊(そのへん)、かつて、犬猫を飼はず。たまさかも飼ふ事あるものは、深く繼(つな)ぎ、遠くかくして、聲をだに聞かせじと、侘(わ)びあへりけるゆへ、九太夫が第一の好物を斷(たゝ)れ、あるひは、東國北國の商人にあつらへ、又は、相撲の弟子に乞ひて、食ふ事、あまたなりしが、早、四、五日が程には都へのぼるべければ、

「嬉しや。上がたにのぼらば、おもふさま、先づ、この好物に飽くべし。けふは宗像(むなかた)の山に、人づて、鳥をおとさせて慰めん。」

とおもひ、鷂(はいたか)ひともと、手にすゑ、宗像へと、いそぎける所に、惣髮(さうはつ)のさぶらひ二人、そのさまけだかく引きつくろひ、うらつけの上下(かみしも)おりめ高(だか)に着なし、大小、さはやかに指しこなして、むかふより來たるは、『いかさま、隣國の太守に近習の人か。扨は、聞きふる巡見の上使か、ともいふベき骨骸(こつがら)なるが、供人(ともびと)の纔(わづ)か一兩人なるもいぶかし』と思ひつゝ行くに、程なく、九太夫がそばに立ち寄り、

「汝は、きこふる當國の相撲とり、捻鉄といふものなりや。」

とあれば、九太夫、おもはず地に跪づきて、

「なるほど。それがしが事に候ふ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「こゑて」「こ(越)えて」が正しい。

「猫を好きて」ウィキの「猫食文化」(「びょうしょくぶんか」と読む)によれば、『日本では幕末までネコが食されることもあった』。『沖縄県では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにしたマヤーのウシルなどが食べられていた』。『戦後の食糧難の時期、広島市の闇市ではネコのおでんが売られており』、「はだしのゲン」で知られる漫画家『中沢啓治は「あれは本当においしかった」と記憶している』とある。

「繼(つな)ぎ」「繫ぎ」。

「あつらへ」「誂へ」。人に頼んで、自分の思う通りに注文して作らせる。

「宗像(むなかた)の山」宗像四塚連山(むなかたよつづかれんざん)。現在の福岡県宗像市と同県遠賀郡岡垣町との間に位置する四つの山。現在の福岡教育大学から鐘崎漁港にかけて城山(じょうやま)・金山(かなやま)・孔大寺山(こだいしやま)・湯川山(ゆがわやま)の順番に連なる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「好日山荘」公式サイト内のこちらが地図入りで判り易い。

「鷂(はいたか)」猛禽類でオオタカ(鳥綱タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)とともに鷹狩りに用いる、ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisusウィキの「ハイタカ」によれば、『日本では、多くは本州以北に留鳥として分布しているが、一部は冬期に暖地に移動する』。全長はオスで約三十二センチメートル、メスで約三十九センチメートル、『オスは背面が灰色で、腹面には栗褐色の横じまがある。メスは背面が灰褐色で、腹面の横じまが細かい』。「疾(はや)き鷹(たか)」が『語源であり、それが転じて「ハイタカ」となった。かつては「はしたか」とも呼ばれていた』元来、『ハイタカとは、ハイタカのメスのことを指す名前で、メスとは体色が異なるオスはコノリと呼ばれた』。「大言海」に『よれば、コノリの語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという』とある。

「ひともと」「一本」鷹狩り鷹を連れて行く際の古い数え方。

「惣髮(さうはつ)」「總髪」とも書く。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世、主に儒者・医師・山伏などが結った。しかし、挿絵の二人の武士は月代を剃っているのは不審。

「うらつけの上下(かみしも)」単衣(ひとえ)ではなく、裏地を附けた裃(かみしも)。

「おりめ高(だか)」衣服の折り目が、悉くくっきりと高く現れていること。挿絵は確かに裃の全箇所がそう描かれてある。

「大小」言わずもがな、長刀と脇差。

「さはやかに」すっきりと。くっきりと。見栄えよく。余り奥まで腰に指さず、前に威圧的に突き出すようにしていることを言っていよう。挿絵もそうなっている。

「いかさま」いかにも(以下のように見える)の意。

「隣國」宗像四塚連山の位置からすると、豊前。

「太守」藩主。

「聞きふる」「聞き觸る」よく話には聞いている。

「巡見の上使」巡見使。江戸時代、将軍の代替りに五畿七道の幕領や大名領の民情・政情を視察するために派遣された役人。通常は使番一人に小姓組番・書院番の者二人を差添え、定員は 三五名であった。但し、都合によっては小人数の幾組にも分れても、巡視した。元和元 (一六一五)年に始まったとされ、第五代将軍綱吉の頃から整備された。この話柄の後の享保年間 (一七一六年~一七三六年)辺りまでは効果を上げたが、それ以降は形式化し、第十三代将軍家定の時、以後延期若しくは中止された。寛文年間 (一六六一年~一六七三年)以降は沿海視察に重点が移った(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「骨骸(こつがら)」「骨柄」。人柄・風采だが、ここは所謂、「人品骨柄いやしからぬ人物」で、人としての品格。特に身形(みなり)・顔立ち・態度などを通して感じられる、その人物の高い品位を指している。

「供人(ともびと)の纔(わづ)か一兩人なるもいぶかし」先の巡見使の注を参照されたい。同一の年齢で同一の服装で二名しかいないというのは、噂に聴いている巡見使一行とは合わないのである。

「おもはず地に跪づきて」遜っているのは、巡見使であった場合のことを考慮しているのである。]

 時に彼の武士、

「しからば、是れより、二、三町あなたへ參るべし。密々(みつみつ)に申すべきむね、あり。」

と、のたまふに任せ、心ならず、そゞろに御供(おんとも)し、いづくともなく、行くほどに、晴々(はればれ)しく、見なれざる野に、出でたり。

[やぶちゃん注:「二、三町」二百十八~三百二十七メートルほど。

「晴々(はればれ)しく、見なれざる野に、出でたり」これこそ怪異の装置が起動し、異界が現出したのである。ただ、だとすると、私なら、九太夫の腕にとまっている鷂(はいたか)を暴れさせるシーンを挿みたくなる。]

 こゝにおゐて、兩人のさぶらひ、九太夫にいふやう、

「我々は人間にあらず。誠は當國宗像の神使(しんし)なり。汝、あまたの生類(しやうるい)を殺す。その罪、もつとも輕からず。冥官、いま、『此つみのかはりに、汝が百年の命數を縮め、はやく黃泉(くわうせん)の底にひかへて、彼の殺されし生類の怨みをむくはしめよ』との鐡札(てつさつ)、すでに極〔きはま〕り、われわれは、汝をむかひに來たりたるなり。」

といふを、九太夫、かつて承引せず、

「何ぞや、其(その)幽冥の事、人と鬼(き)と、道、殊(こと)なり。汝らは、正しく人なり。僞るとも、相手によるべし。」

といひて、なかなかに請合(うけあ)はざれば、兩使、ふところより、たて文(ふみ)のやうなる物を出だし、九太夫に渡せば、不思議ながら、ひらき見るに、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

天(あめ)、なり、地(つち)、あらはれ、神、その中にあれましてより此かた、山をうみ、川をうみ、木草(きくさ)、もろもろの翅毛(つばさけ)生(お)ひ、角(つの)をいたゞくのたぐひ、種々(くさぐさ)のものを生みまして、廣く遠く大日本(おほやまと)の國の御寶(みたから)と見そなはし、惠みます吾が國のあらふる物は、みな、是れ、天神(あまつかみ)の手支(たなすへ)の物なり。地祇(くにつかみ)のいとおしみ給ふ御子(おんこ)なり。されば、天地(あめつち)も同じき根(ね)さし、萬物一體(ばんもつひとつかたち)の語(ご)なり。宗源(そうげん)の名の起る所、唯一(ゆいいち)の立つる所以(ゆゑん)、神道(しんだう)、みだりに行なはんや。しかるに、此(この)博多の津(つ)の民、九太夫、よこしまの心をもて、所爲(しわざ)、あぢきなく、纔かの食に口を甘くせんと、むさぼり、餘多(あまた)の物の命を傷(そこな)ふ。それが中(なか)にも、犬猫の肉を食はんがために殺す事、四百六十頭(かしら)、魚鳥(うをとり)、數をしらず。悉く載せて鉄札(てつさつ)にあり。しかのみならず、己(おの)が身のちからを賴み、弱きをあなどり、國中(くになか)の百姓神(おほんたからがみ)の御奴(みやつこ)を、いためそこなふ事、不可勝斗(かげてかぞふべからず)。幽冥の簿(ぼ)、すでにきはまり、命算を奪ひ、ちゞめられ、世に交はるの限り、けふにあり。急ぎ冥使に仰せて、速かに九太夫をめし取り、殺生の罪を畜生のうらみに、むくはしむべし。仍而(よつて)命簿くだんのごとし

 

と書きたる、墨色(すみいろ)・朱印などもぬれぬれとして、只今、したゝめたりと見ゆるに、九太夫は、身の毛よだちて恐しく悔(くや)しくなりしかば、鷹をも捨てて、地にひれふし、泣く泣く、兩人にむかひていふやう、

「誠に、かくまで、惡業を積みける事、今さら悔みても甲斐なきながら、報(むくひ)ある事をしらず、『地獄はなき物ぞ、鬼神は心をいましむる假(かり)の的(めあて)ぞ』と思ひこなせし。愚癡(ぐち)よりなせし事なれば、是非もなき事ながら、暫時(しばし)の命を延べて給はるまじや。人をたすくるは、菩薩の行(ぎやう)とかや。せめて一遍の稱名(せうめう)をも唱へばやと存(ぞんず)るなり。先づこなたへ。」

と、兩人を強いて町につれ行き、とある酒屋に請(しやう)じ入れ、さまざまと訴訟し、扨(さて)、酒を買いとゝのへ、天目(てんもく)九つにつぎわけ、我も三盃引きうけて吞み、兩使にも、おのおの三盃づゝのませけるに、兩使の内、壹人がいふやう、

「何(なに)さま、九太夫が心ざしの程も不便なり。殊には、かゝる饗應にあひたる芳志(はうし)もあり。我、今、汝がために命を乞ひて得さすべし。しばらく、こゝに待つべし。」

と、いひて立つと見えしが、瞬(またゝき)の間に歸りていふやう、

「汝、いのち惜しくば、錢四百貫文を認(したゝ)めて出(いだ)すべし。三年の命を假(かし)て延ぶべし。」

といひけるに、九太夫、なのめならず、よろこび、

「明日(あす)の晝まで。」

と、やくそくして、兩使は歸しぬ。

[やぶちゃん注:「當國宗像の神使(しんし)」現在の福岡県宗像市にある宗像大社の神の使者。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際に生まれたと伝えられている宗像三女神、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)・湍津姫(たぎつひめ)神・田心姫(たごりひめ)神(三宮はそれぞれ別な場所)を祀る。鎮座地が九州本土から朝鮮に至る海上交通の要衝に位置していたことから、古くから海上交通者や漁業従事者などの信仰を受けていた。

「鐡札(てつさつ)」閻魔の庁に於いて、浄玻璃(じょうはり)の鏡に写して、善人と悪人を見分け、悪人はその名を記して地獄に送るとされた鉄製の札。「金札」とも呼ぶ。宗像大社の使者ではあるが、神仏習合だから問題はない。それよりも、通常は死んで亡者になってより行われる審判が、既に生前に行われて執行役が通告に来るというのは、余程の悪行三昧(ここは殺生戒を犯した肉食(にくじき)の程度が犬猫にまで及ぶという大悪食(あくじき)故であろう)ということになる。

「あれまして」古代語の連語。ラ行下二段動詞「生(あ)る」の連用形に、尊敬の補助動詞「坐(ま)す」(後の「惠みます」の「ます」もこれ)が附いたもの。「お生まれになる」の意。

「もろもろの翅毛(つばさけ)生ひ」鳥類や獣類の一部(次の類を除く)。

「角(つの)をいたゞく」牛や鹿などの角を持つ、残りの獣類。

「見そなはし」ご覧になり。「見る」の尊敬語。

「あらふる」「あらゆる」の意であろう。誤字というよりも、しばしばこうした異界から齎された文書や神言では見受けるのであるが、冥界の語だから、敢えて変えてある可能性もある

「手支(たなすへ)」古代語。「手(たな)末(すへ)」で、「手の先・指の先」の意。

「宗源(そうげん)」本源。万物の濫觴。

「名の起る所」神が名づけることによって現存在が認められる。「唯一(ゆいいち)の立つる所以(ゆゑん)」も同じ意であろう。

「神道(しんだう)、みだりに行なはんや」反語。神のなされる正しき道(行為や禁忌)に、いい加減な部分は一つもない。

「博多の津(つ)の民、九太夫」博多の浦湊(うらみなと)の民である、九太夫。

「百姓神(おほんたからがみ)」田の神の別称。

「御奴(みやつこ)」神の子である民草、農民(だから前の山の神が百姓神となっていると考えてもよい)のことであろう。九太夫が力自慢をいいことに、乱暴狼藉を彼らに加えたり、彼らの可愛がって飼っていた犬猫を奪い取って食ったことなど諸々を指す。

「世に交はるの限り、けふにあり」この世に生きて居られる時間は、今日を限りとしてある。

「仍而(よつて)くだんのごとし」「よつて」二字へのルビ。前記の通りである。証文や公用文書などの末尾に用いる決まり文句であり、本決裁書の正当性や威厳を表わしている。

「地獄はなき物ぞ、鬼神は心をいましむる假の的(めあて)ぞ」地獄なんざ、ありゃしねえもんだぞ! 鬼神なんどというが、それも人の弱い心を仮に戒めることを目的とした、方便も方便! 大嘘だあ!」。

「思ひこなせし」「熟(こな)す」には幾つかの意味があるが、「見下げる・けなす」があり、ここはそれでも意味が通じる。ただ、これを接尾語として考えると、動詞の連用形に付いて、「自分の思いのままにする」「うまく~する」「完全に~する」(現在の「使いこなす」「乗りこなす」等)の用法もあるから、ここは「そういう風に自分に都合のいいように思い込んでき続けてきた」の謂いとも採れ、私はそれが訳としてはいいように感ずる。

「愚癡(ぐち)」これは仏教用語で三毒(人の善心を害する三種の煩悩である貪 (とん:対象を激しく貪(むさぼ)り求めようとすること)・瞋 しん:自分の心に逆らう対象を怒って恨むこと)・痴 (ち)の「痴」。心性が愚かで、一切の道理に冥いこと。

「暫時(しばし)」当て訓。

「菩薩の行(ぎやう)」菩薩行は菩薩(正法(しょうぼう)を求める修行者)として成すべき宗教的実践を指す。特に、他者に対する慈悲を最も重視することによって最高の悟りに到達しようとすることを言う。対語は自分自身の成仏を目的とする対自己に限定した修行を指す「自利行(じりぎょう)」。

「稱名(せうめう)」南無阿弥陀仏を称えること。九太夫は浄土宗か浄土真宗の信徒であったことが判る。

「訴訟」命乞いの哀訴をすること。

「天目(てんもく)」茶の湯で使う、すりばち形の抹茶茶碗。

九つにつぎわけ、我も三盃引きうけて吞み、兩使にも、おのおの三盃づゝのませけるに、兩使の内、壹人がいふやう、

「何(なに)さま、九太夫が心ざしの程も不便なり。」「まあ、本当のところは、この九太夫の哀願する心根の内は、正直、不憫な感じもする。」の意。

「芳志(はうし)」相手の親切な心遣いや気持ちを敬っていう語。

「錢四百貫文」一貫は一千文で、江戸中期の標準的な換算では二万五千円ほどに当たるから、一千万円ほどにはなろう。安いか、高いか、それは、それ。

「なのめならず」「斜めならず」。並一通りでなく。格別に。

「やくそく」約束。]

 酒屋には、且(かつ)て、此兩使を見る事、なし。只、『九太夫ひとり狂氣したり』とぞ思ひけるに、彼(か)のそなへたる六盃の酒はそのまゝにてありながら、悉く、水とぞ成りたりけるとかや。

[やぶちゃん注:第三者を登場させて、映画で言えばマルチ・カメラで描く。怪談手法としては高度なテクニックである。酒が水となっているというのも上手い。酒屋がこれ幸いと、そのまんまの六杯をうまうま飲もうとして、ぱっと吐き出し、「水じゃ?!」と叫ぶのが聴こえるようだ。

 扨、彼(か)のやくそくの如く、錢を才覺するに足らず。家財を沽却(こきやく)し、身を都の岡崎に請けあひて、先銀(さきがね)を取りなどし、漸(やうやう)四百貫文の都合をとゝのへ、午(むま)の時にいたりて、佛前に備へけるを、昨日の兩使、また、來たり、此錢を取つてかへる、とぞ見えし。

[やぶちゃん注:「沽却」「賣却」に同じい。売り払うこと。

「身を都の岡崎に請けあひて、先銀(さきがね)を取りなどし」筑前に京の岡崎からの勧進相撲の興行主の営業担当者が現金を相応に持った状態で、丁度、まだ居たのであろう(そうでなければ、翌日に間に合わない)。そこで出場に際して、自分の向後の身柄をそちらに任す代わりに、その出場報酬や雇われ賃金の前借りを頼んだのである。]

 九太夫、これに少し心なぐさみけるに、程なく、三日過ぎて、例のさむらひ、此家(このいへ)に來たり、

「汝、わすれたりや。今日は冥途へ來るやくそくぞ。三年といひしは、娑婆の三日なりけるぞ。」

と、いひて、引きたつると見えしが、終(つい)に九太夫も死しけるとかや。

[やぶちゃん注:地獄の現世との時間換算は一定しないが、仏教及びそれに基づいた偽経(地獄思想は中国で形成されたもの。ブッダは地獄は永遠の闇の世界とするだけで、具体的な内容を述べていない)は数学的にきっちりと計算された世界ではある。ウィキの「八大地獄」によれば、九太夫のような、食通故に生き物の命を奪う殺生をしたものが墜ちるとされる、八大地獄でも最も程度の軽い「等活地獄」では、そこでの亡者の寿命は五百歳とするものの、これは現世の五百年ではなく、現世の五十年を『第一四天王(四大王衆天)の一日一夜とした場合の』五百年が『等活地獄の一日一夜であり、それが』五百『年にわたって続くので、人間界の時間に換算すると』一兆六千六百五十三億千二百五十万年に『わたって苦しみを受けることになる』(一年を三百六十五日とした場合の計算とある)とあるから、これだと、等活地獄では、たった一時間が、人間世界の二十一年弱に相当することになってしまう。三年が三日の方が判りはいいし、怪談を楽しむ読者にも分かり易く、腑にも落ちる。]

 

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