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2018/03/07

御伽百物語卷之二 宿世の緣

 

    宿世(すくせ)の緣(ゑん)

 

Sukusenoen

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いたが、図は左右見開きで分離しており、しかも悩ましいことに、連続していない(どう合成しても、弁天の祠が繋がらない)。そこで、連続性を感じさせる位置まで近づけたものを合成し、ズレを感じさせてしまう上下左右の枠を完全に除去し、加えて、絵図内の汚損と思われる箇所を可能な限り、清拭するという特別な仕儀に打って出た。ご批判もあろうかとは存ずるが、現在見ることの出来る、本図の挿絵としては、最も見易く、綺麗なものに仕上がった、と秘かには思っている。拡大して、ご覧あれ。本文中の和歌の前後は一行空けた。和歌の二行表示は原典に拠った。なお、本作は小泉八雲が明治三三(一九〇〇)年に刊行した作品集Shadowings(「影」)の中でThe Sympathy of Benten(弁天の同情」として英訳している。如何にも優しい小泉八雲好みの作品に仕上がっているる。原典は“Internet archives”こちら(四十一ページより)で、田部隆次の訳(正字正仮名)「辨天の同情」はこちらPDF)で読める。なお、標題は底本では「宿世(すぐせ)」であるが(濁音でもよい)、原典及び別二本の翻刻に従った。「宿世の緣」で、「前世からの因縁・宿縁・宿命」の意である。]

 

 西八条遍昭心院大通寺は、世に尼寺と號して、そのかみ、淸和天皇第五の王子貞純親王の宅地にて、六孫王(ろくそんわう)經基も相つゞいて住み給ひたりけるが、終にこゝに葬りけるよしにて、その墳墓、うづ高く殘り、古き名うづもれずして星霜を經し所に、去る元祿十四の冬、あらたに宮社造營の事あり。神寶社務、めづらかに改(あらたま)り、甍(いらか)、花をかざり、軒は、玉を磨きて、二たび榮(さかふ)るの光り、世に隈(くま)なかりければ、洛中の貴賤、袖をつらね、跟(くびす)をつき、我も我もと、あゆみを運びたりし中(なか)に、京極の西、冷泉(れいぜい)の北、何某(なにがし)の坊とかやいひけるが許(もと)に宿りをしめつる、花垣梅秀(はながきばいしう)といへる書生、かりそめに此地に來たり、かなた此方(こなた)と見めぐりける序(ついで)、

「彼(か)の寺の前にありける湧泉(ゆうせん)はいかゞなりけん。」

と尋ねしに、是れも、今は門内に引き入れて、廻(めぐ)りを四角に堀(ほり)わたし、池の心(こゝろ)に造りかまへて、正しく井の上と思ふ所に、禿倉(ほこら)をたて、

「誕生水」

といふ札をたてたり。社の内をさしのぞけば、辨天の像をおさめたり。

 梅秀、もとより、天女に歸依し、つねに渴仰(かつごう)のかうべをかたぶけしかば、しばらく拜前にかうべをかたぶけ、法施(ほつせ)を參らせける所に、いづくよりふきおちたりともしらず、小さき短册の風にひるがへりて、梅秀がまへに落ちたるを、何となくとり上げて見れば、歌あり、

 

 しるしあれといはひそ初るたまはゝき

 とるてばかりのちぎりなりとも

 

と俊成卿のよみ給ひし初戀のうたを、女の手して、うつくしく書きたり。

「さても、世にはかゝる能書もありけるや。其さま、おさなげなる筆ながら、文字うつり、墨色、心ありける書きやうかな。」

と見しより、しづ心なく身にしみて、

「哀れ、此ぬしのあり家はいづくにか。」

と、しらまほしく思ひそめしより、明暮(あけくれ)の物思ひとなりて、學問の道にも疎く、讀書のひまも、露(つゆ)、わすられねば、かゝる時にやと、うちうそぶきがちにて、日をおくりける。

[やぶちゃん注:「西八条遍昭心院大通寺」現在の京都府京都市南区西九条比永城町にある(旧所在地は別。引用参照)真言宗万祥山遍照心院大通寺。通称「尼寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大通寺(京都市)」によれば、『鎌倉幕府第』三『代将軍源実朝の未亡人である坊門信子が夫の暗殺後に京都に戻り、真空を招いて出家し、自邸を尼寺としたことに由来する。創建時には現在の南区八条町付近にあり、南隣にはかつて貞純親王・源経基の邸宅があり、経基を祀った六孫王社』(ろくそんのうしゃ:この場所が貞純と経基の八条亭であったとされるようである)『があり、同社を寺の鎮守とした。清和源氏嫡流の祖である源経基と最後の当主である源実朝双方ゆかりの寺院であるということで、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の代々の将軍によって保護された。江戸時代には真言宗・律宗・三論宗兼学の寺院として知られ、多くの塔頭と寺領』『を有した。元禄期には能書家・作庭家として知られた南谷が居住し』ている。明治四五(一九一二)年に『東海道本線の移設工事によって現在地に移転した』。絹本著色善女竜王像・「醍醐雑事記」第九巻と第十巻は『重要文化財に指定され、源実朝木像など貴重な寺宝を多く所有している』。また、「十六夜日記」の作者「阿仏尼の墓」とされる『「阿仏塚」も現在地に移転され、境内に現存している』とある。本文では「西八条」とし、以上の引用からも現在の八条町(グーグル・マップ・データ。中央)が当時の位置と推定される。

「淸和天皇」(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)は第五十六代天皇。

「第五の王子貞純親王」(貞観一五(八七三)年?~延喜一六(九一六)年)。上総・常陸の太守や中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となっている。但し、先の引用の通り、大通寺=「宅地」だったのではなく、寺の南隣りに彼の邸宅があったのである(以上はウィキの「貞純親王」に拠った)。

「六孫王(ろくそんわう)經基」貞純親王の子源経基(?~応和元(九六一)年)。母は右大臣源能有の娘。皇族であった頃はここに冠されてある「六孫王」を名乗ったとされるが、当時の文献には見られない(清和天王の六人目の孫の皇子(皇子)の意ではあろう)。経基流清和源氏の初代(以上はウィキの「源経基」に拠った)。先の引用に出た、現在の京都府京都市南区壬生川通八条角にある六孫王神社は、源経基を祭神とする(多田神社(兵庫県川西市)・壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の一つとされる)が、この地はかつて経基の墓であったとも伝える。ここ(グーグル・マップ・データ)。旧大通寺の位置がより限定される。この北側である。マジ、東海道本線の真下である。「終にこゝに葬りけるよしにて、その墳墓、うづ高く殘り、古き名うづもれずして星霜を經し所」とは今はとても言えない有様ではないか!

「元祿十四」一七〇一年。本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年開版。またしても、直近のアーバン・レジェンド!(京都だから、真正のアーバン!) なお、「オフィシャルサイト京都観光Navi」の大通寺の解説に、『徳川氏代々も大いに興隆につとめ、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数』、『建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあ』い、明治四四(一九一一)年には『旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して』、『現地に移転し』、『逼塞』『した』とあるから(下線やぶちゃん)、この記載の正確さが判る。しかも、この、それ以後の話を読むに、ウィキの記載などには感じられなかった、近代の国策による激しい過酷な扱いを受けた寺であることが、よく判る

「跟(くびす)」踵(かかと)のこと。

「京極の西、冷泉(れいぜい)の北」この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「花垣梅秀(はながきばいしう)」不詳。

「今は門内に引き入れて廻(めぐ)りを四角に堀(ほり)わたし、池の心(こゝろ)に造りかまへて、正しく井の上と思ふ所に禿倉(ほこら)をたて」境内整備が徹底的に成されて、かつては素朴な自然の湧水であったものが、寺の庭に引き込まれて、人工的に池塘化された感じになっており(「心」とは意識的にそのような景観に拵えたことを指す)、湧水源は四角に掘られて井戸状に整備された上、その上を土で盛って塞ぎ、祠(ほこら)を建ててあるのである。正直言うと、こういう仕儀は私は「イヤな感じ」、である。

「誕生水」これは現在の六孫王神社の方に現存する、源経基の嫡男で多田源氏の祖である、源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)の産湯に使った「誕生水」の意京子ちゃんのブログ「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」の「六孫王誕生水」で知ることが出来た。御礼申し上げる(私はともかく全く以って京には疎いのである)。それによれば、『古くから京都七ツ井の』一つ『に数えられた名水で、源満仲』『の誕生水でもある』とあり、そもそもこの現在の六孫王神社は、『経基が亡くなった際に息子の満仲が霊廟を建てて六孫王神祠(しんし)とした事に始まる』とも言われるらしい。『六孫王誕生水は』『六孫王神社境内末社である誕生水弁財天社』にあり、『経基が息子の満仲が産まれる際』、『無事に誕生するようにと』、『滋賀県の琵琶湖』『北部に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)から』、『弘法大師空海の作と伝わる弁財天像を請来』、『満仲誕生産湯の井戸の側に祀った事が始まりと』伝えているようである。『源満仲が産まれる際には産湯に使われたとされ』、『その事から『安産の水』として親しまれている』という。現在の『こちらの井戸は』(リンク先に写真有り)二『代目な』の『だそうで』、『初代の井戸は、新幹線の高架橋の下になり枯渇してしまった』らしい。しかし、『初代のものと水源は同じ』ともある。後の「三ツ矢サイダー」は実は源満仲由来とする話も目から鱗である。一読をお薦めする。

「しるしあれといはひそ初るたまはゝきとるてばかりのちぎりなりとも」藤原俊成の「長秋詠藻」の下の「右大臣家百首」に見出せる。整序すると、

 

 驗(しるし)あれと祝ひぞ初(そ)むる玉箒(たまははき)取る手ばかりの契りなりとも

 

だが、和歌嫌いの私にはよく意味が判らぬのだが、妻の協力を得て、「牽強」付会に解釈してみると、まずは取り敢えず、「玉箒(たまははき)」の「玉」は単なる美称ととっておき、「箒」はまさに「箒(ほうき)」で、幼い子が悪戯に「ははき取る手」、箒を互いにその手に握って引っ張り合うような「ばかり」、だけの、他愛のない無邪気な「契り」(初恋の別な属性としての「はかない縁(えにし)」の意も含むか。いや、だからこそ汚れなき初恋の象徴とも言えよう)であったとしても、「驗あれ」と――私の恋に、どうか相手の方が、答えて呉れますように――と「祝ひぞ初むる」――恐らくは、ここには本来の「玉箒」(たまばはき(たはははき):正月の初子(はつね)の日に大切なお蚕さまのいる蚕室を掃くのに用いた玉の飾りをつけた「祝ひぞ初むる」箒)という年初の祝祭の祭具の意が込められているように私には感じられる――といった意味か? 大方の御叱正を俟つ。

「學問の道にも疎く」学問をするのにも、気が入らなくなって。

「讀書のひまも」読書をしていても、その読んでいる最中にあっても。「読書の合間」などの意では、如何にも、つまらぬ。

「かゝる時にやと、うちうそぶきがちにて」彼は京に上って、書生として出世のために必死に学問を重ねている、いなければならぬ身であるから、前者は、「このような大事な時に、こんな風に切ない恋の思いに心が奪われてしまうなんて、とんでもないことだ。でも、それはとてものことに思いきれぬ確かな事実だ、だから、どうにも、しようがない」というアンビバレントな心理を指すか。後者は、そうした恋い焦がれた思いが募りに募って、学問のため、沈着冷静に平静な読書や考察を成す余裕も全くなく、ただただ、外を徘徊しては、詩歌などを小声に吟じ勝ちになってしまって、の意であろう。]

 中にも、つねづね、信じなれたる業(わざ)とて、「誕生水」の辨天にあゆみを運び、

「哀れ、此筆のぬしに一たび引きあはせ給へ。」

と、ねんごろに祈りつゝ、七日まいりをはじめ、滿ずる夜(よ)ごとに、かならず、こもりて、終夜(よもすがら)、ねんじけるに、ある夜、此(この)尼寺に通夜(つうや)したりけるが、夜ふけ、人しづまりて後(のち)、惣門(そうもん)の外に人音(ひとおと)して、案内をこふもの、あり。内より、

「やゝ。」

と、答へて、門をひらく音、す。

『あやし。』

とおもひて、見やりしれば、其さま、けだかく、あてやかなる翁の、年は七十ばかりにやと見ゆるが、水干に、さしぬき、かしらの雪に烏帽子引きこみ、沓音(くつおと)ゆるく、あゆみ入り給へば、梅秀も宮の前を立ちしりぞき、傍(かたはら)にしのび、事のやうをうかゞひけるに、此雲客(うんかく)、誕生水のまへにひざまづき、敬(うやま)ひて、事を待つてい也、と見る時、やしろの扉、おしひらきて、びんづらゆひたる兒(ちご)一人、玉の翠簾(みす)、なかば捲きて立ち出で、この雲客にのたまひけるは、

「『爰(こゝ)に似氣(にげ)なき戀を祈るものゝさふらふが、不便(ふびん)に候ふ程に、あまり思召(おぼしめし)しなげきて召されつる也。宿世のえにしもあらば、よろしく引きあはせ給(た)び候へ』との仰せ事あり。」

と、高らかにのたまひければ、彼のうへ人、かしこまりたる體(てい)にて、左のたもとより、赤き繩を、一すじ、出だし、梅秀が居たる方にむかりて、しばらく、引きむすぶやうにしたまひて後、その繩をさゝげて、御灯(ごとう)の火に燒き上げ、三たび、手をあげてまねき給へば、本堂の方(かた)より、物音して、しづかにあゆみ來たるもの、あり。ちかづくまゝによく見れば、年の程、十四、五と見えつる女の、容顏、いつくしく、髮のかゝり、額つき、たぐひなき美人なるが、いとはづかしげに、扇、さしかくして、梅秀が左に、少し、そばみて、居よりたり。

[やぶちゃん注:「七日まいり」正確な歴史的仮名遣では「なぬかまゐり」。ある特定の祈願を目的として、七日間、毎日、社寺に参詣すること。本来は毎日七度ずつ、合計四十九度、参詣することを指したが、彼の宿坊などから見て、これは古式の厳密なそれではない。

「雲客」殿上人。風体からかく言った。

「事を待つてい也」何事かを待ち受けている様子だ。

「びんづら」「鬢頰」。少年の髪型の一つ。髪を頭の中央から左右に分けて、それぞれ両耳の辺りで輪の形に束ねたもの。

「似氣(にげ)なき」身分不相応の。

「赤き繩」所謂、「運命の赤い糸」である。ウィキの「運命の赤い糸」によれば、『中国に発し』、『東アジアで広く信じられている、人と人を結ぶ伝説の存在で』、『中国語では「紅線」』『と呼ばれる』。『いつか結ばれる男と女は、足首を赤い糸(赤い縄)で結ばれているとされる。この赤い糸をつかさどるのは月下老人』『(「月老(ユエラオ)」とも)という老人で、結婚や縁結びなどの神だという。「太平広記」(宋代の類書。全五百巻・目録十巻。九七七年に、宋の太宗の命で李昉(りぼう)らが撰を開始し翌年に成立した。漢から北宋初期までの説話を採取し、神仙・道術・異人・異僧など、九十余部に分類したもの)に記された、この神に纏わる奇談「定婚店」から』、『仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになった(後述)。日本では、「足首の赤い縄」から、「手の小指の赤い糸」』などの描写があるとする。『赤い糸に力があるという考えは世界各地に見られる。ユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣(セグラ segula)があり、アメリカなどにも幸運のお守りとして広まっている。トーラー』(ユダヤ教の聖書(タナハ)における最初の「モーセ五書」)やハラーハー(ユダヤ法)・カバラ(ユダヤ教の伝統に基づいた神秘主義思想)にも、『こうした習慣への直接の言及はないが、一般にはカバラに基づいた伝承とされ、ベツレヘム近郊のラケル』(旧約聖書「創世記」に登場するヤコブの妻)『の墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところもある。日本では千人針に赤い糸が使われた』とも言う。『決して切れることのない「運命の赤い糸」は、現在でも西洋での「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの言い伝えと同じ様に東アジアで言い伝えられている』ともされるが、『「見えない」のに「赤い」のは形容矛盾で』はある。「定婚店」の話は以下。『唐の時代の韋固(いこ)という人物が旅の途中、宋城の南の宿場町で不思議な老人と会う。この老人は月光の下、寺の門の前で大きな袋を置いて冥界の書物(「鴛鴦譜」)を読んでいた。聞くと』、『老人は現世の人々の婚姻を司っており、冥界で婚姻が決まると赤い縄の入った袋を持って現世に向かい、男女の足首に決して切れない縄を結ぶという。この縄が結ばれると、距離や境遇に関わらず』、『必ず二人は結ばれる運命にあるという』。『以前から縁談に失敗し続けている韋固は、目下の縁談がうまくゆくかどうかたずねるが、老人はすでに韋固には別人と結ばれた赤い縄があるため破談すると断言する。では赤い縄の先にいるのは誰かと聞けば、相手は』、『この宿場町で野菜を売る老婆が育てる』三『歳の醜い幼女であった。怒った韋固は召使に幼女を殺すように命令し、召使は幼女の眉間に刀を一突きして逃げたが』、『殺害には失敗』する。縁談が纏まらぬまま、十四年が『過ぎ、相州で役人をしていた韋固は、上司の』十七『歳になる美しい娘を紹介され』、『ついに結婚した。この娘の眉間には傷があり、幼い頃、野菜を売る乳母に市場で背負われていると』、『乱暴者に襲い掛かられて傷つけられたという。韋固は』十四『年前のことを全て打ち明け』、『二人は互いに結ばれ、この話を聞いた宋城県令は宿場町を定婚店と改名した』とある。原典は「中國哲學書電子化計劃」のここで読める(巻第一百五十九の「定数」の「十四(婚姻)」の内)。この他、「開元天宝遺事」(盛唐の遺聞を集めた類書。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕 (八八〇年~九五六年) 撰。後唐の荘宗の時に秦州節度判官となった彼が長安にあって民間の故事を採集し,百五十九条を得、本書に纏めたとされるが、南宋の洪邁は本書は王仁裕の名に仮託したものと断じている)には『次のような話がある』。『郭元振は若い時に容姿美しく、才能もあった。宰相の張嘉貞が婿にとろうとしたところ、元振は「公の家には五人の娘がいるそうですが、その美醜を知りません。あわてて間違いがあったらいけないので、実見を待って判断したく思います」と答えた。宰相は、「私の娘はどれも容色に優れています。あなたにふさわしいのが誰か私にはわかりません。あなたの風貌は並の方ではありません。わたしは娘たちに糸を持って幕の前に座らせますから、あなたがどれかの糸を引いてください。その糸を持つ娘を差し上げます」と答えた。元振は喜んでこれに従った。結局一本の「紅絲線」を引くと、三女が当たった。大そう美しい女性で、夫の出世に伴い彼女も尊い地位を得た』。同じく「中國哲學書電子化計劃」のここで読める(巻一の内)。]

 其時、最前の兒(ちご)、梅秀にのたまうやう、

「誠に、汝、此あいだ、心をつくし、及ばぬ戀に身をくるしめ、一筋に歎きぬる心ざしの程も捨てがたくて、月下の老をめしよせ、かくまで、短册のぬしにひきあはするぞ。」

と、のたまひすてゝ、いらせ給へば、客人(まろうど)も御いとま給(たまは)り、門外にいづると見えて、夢のさめたる心ちせしが、はや、寺々の鐘の音(ね)、ひゞきわたり、夜(よ)、ほのぼのとあかねさす、東(ひがし)しらくも過ぎゆけば、神前にかへり申して、立ち歸る心もいさましう、我が宿へと、いそぎける。

[やぶちゃん注:「いらせ給へば」「入らせ給へば」。誕生水の傍に建てられた弁天の祠の中へお入りになられたので。

「客人(まろうど)」かの雲客風の老人、実は月下老人。

「しらくも」「白雲」。東雲(しののめ)の雲。]

 道にては彼の現(うつゝ)に見えつる女、また、朝あけのほのくらきに、むかふより出でむかひ、むつましげに、梅秀を見て、會釋(ゑしやく)しけるを、

『こはいまだ夢か。』

と、あやしくおもひながらも、あひ見る事のうれしく、とかくかたらひよりて、いざなひかへるに、露ばかりもいとふ氣色なく、打ちとけつゝ隨ひ行きぬ。

 梅秀も始(はじめ)のほどは、

『もし、人や見とがむる尋ね求むる人やある。』

と、深く愼みて、しのびあひけれども、又、異人(ことひと)の、いかに、といふもなく、外(ほか)に尋ぬるの噂もなければ、今は心やすくもてなし、馴るにつけて、心ばヘ、やさしく、繪かき、花むすび、織り縫ふわざ迄も人にすぐれ、萬(よろづ)、心のまゝなりければ、いと嬉しくかたらひわたりぬ。

[やぶちゃん注:「もし、人や見とがむる尋ね求むる人やある」或いは、もしかすると、突如添い現れた妻を、誰かが不審に思って見咎めたり、女を知れる者や尋ね人を探して尋ね来る人もあるかも知れない」。

「深く愼みて、しのびあひけれども」宿所の奥に押し隠して、十分に用心し、出来得る限り、こっそりと忍び逢うようにしていたけれども。

「異人(ことひと)の、いかに、といふもなく」別段、誰かが、「何だか変だ、誰だ? あの娘は?」などと言いかけることもなく。

「外に尋ぬるの噂もなければ」特段、外部から訊ねて、言いかけて来る者もなく、また、二人の関係が噂になることも全くなかったので。

「花むすび」「花掬び」。ここで切って読んだ。美しい花弁を左右の掌を合わせて掬(すく)たりする仕草の可愛らしく、の意で採る。「花むすび織り縫ふわざ」(美しい花模様を織物に結び縫う裁縫の業(わざ))と採るには、前の、絵を描いたり、という並列表現とのバランスが悪いからである。]

 或る冬、梅秀は用の事ありて、假初(かりそめ)に出でける序(ついで)、冷泉(れいぜい)を西へ、洞院を南へ、六角のかたへとあゆみけるに、とある家より、人をはしらせ、梅秀を呼ぶものあり。

『いかにぞや。此あたりに、我を知れる人はなきを。』

と思ひつゝ、さし入りて見るに、主(あるじ)とおぼしき人、おもてに出で、梅秀にむかひ、

「近比(ちかごろ)、率爾(そつじ)なる申し事に候へども、是れ、偏(ひとへ)に辨天の御告(おつ)げによりて、たしかに、見とがめ、呼びいるゝなれば、すべなき事に候はず。我にひとりの娘あり。ことし、十五才になり候ふが、かたのごとく、手をも書き、縫針のわざも恥づかしからず。生れつきとても、人なみなりけるゆへ、『あはれ、いかなるかたへも然るべくは、さいわいあれかし』と、明暮、いのり、殊に辨天を信じ候ふゆへ、洛中にあるとある辨天のやしろに、此むすめが書きたる詩歌の短册を祈願のために、おさめさせ候ふ所に、ある夜の夢に辨天の御告げをかうふり候ふやう、『汝がむすめには宿緣の事ありて、早(はや)、引きあはせ置きしぞ。此冬、かならず、こゝに來たるべし』と、のたまひたりしを、心もとなくて、あかしくらし候ふ所に、こよひ、又、ありありと御示現(ごじげん)ありしは、『あすの暮、此(この)すがたして、こゝを通る人、あるべし。それを呼びて、婿にせよ。末は、かならず、立身の人なり』と。すなはち、人相、年のほど迄、細やかにおしへさせ給ひし也。」

と語るに、梅秀も怪しさを忘れ、

「此(この)うへは。」

と、心は落ちつきながら、

『今迄、我がかたにありし人は、いかゞせむ。』

と思ひつゝ、先づ、此人のいふに隨ひて、此家(いへ)の娘にあはん、と、おくに行けば、きのふけふ迄、彼(か)の東寺(とうじ)より、つれ歸りてそひし人なり。

 梅秀も、二度(たび)、肝をつぶしけるが、後(のち)によくきけば、天女の方便にて、此女のたましゐを通(かよ)はせ、夜ごとに逢はせ給ひけりとぞ。

[やぶちゃん注:「假初(かりそめ)に」ちょっと。

「六角のかた」現在の京都府京都市中京区六角町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「洞院を南へ」はいいとしても、「冷泉を西へ」ではなく、南である。ともかくも、彼女の実家は実は彼の宿坊のかなり近かったことは判る。

「率爾(そつじ)」突然にして軽率で失礼なこと。

「見とがめ」見とめてそれと知り。目に留めて気づき。

「すべなき事に候はず」あまりいい使い方ではない。「すべなき」は「仕方がない・どうしようもない」の意だからで、ここは意味は呼び止め申し上げたのは「いい加減な仕儀にてが御座いませぬ」の謂いである。「詮無き」、無益な、意味のない、の方が腑には落ちる。

「かたのごとく」世間一般の娘の通りに。

「手をも書き」手筆もそこそこにものし。

「此冬、かならず、こゝに來たるべし」「この冬、必ず、その宿縁の婿はここにやって来るはずじゃ。」。

「心もとなくて」「心許無くて」。待ち遠しく、また、不安で落ち着かず、気がかりで。

「あかしくらし候ふ所に」日々を(そうした気持ちで)過ごしておりましたところに。

「こよひ」昨夜、或いは、今朝未明の意。

「此(この)すがたして」かくかくの風体・顔つきをしている。

「此(この)うへは」かくなる上は。そこまで霊験のあったとなれば。そうした霊異なればこそ、取り敢えずは「心は落ちつ」くのである。しかし無論、かの迎えた妻への内心忸怩たる思いはあればこそ、次の新内語が彼を襲うのである。

「東寺(とうじ)より」これは現在の京都府京都市南区九条町にある東寺((グーグル・マップ・データ))の方からの意で、ロケーション位置から大体の方位を指すために、知られた真言宗八幡山東寺をランドマークに使ったのである(東寺は梅秀の宿坊やこの娘の実家位置からは南西に当たる)。東寺の北西直近に当時の大通寺はあったからである(前の注を参照)。

「此女のたましゐを通(かよ)はせ、夜ごとに逢はせ給ひけりとぞ」とあるからには、娘の魂が夜になって忍び通って来る形で夫婦生活は行われていたと読める。或いは、彼女は既に子ができているかも知れない、などと要らぬ幸せの夢想を添えて私の注の終りとしよう。]

 

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