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2018/03/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 物言ふ魚 三

 

     三

 

 それから今一つも同じ郡の隣村、勝田村大字余野での出來事で、是は尚一段と實話らしく誌されて居る。享保年中に此村に道善といふ者があつて、大鯰の背に負うて尾が土の上を引きずるほどのを釣り上げた。是も途中で背の上から道善道善と我名を呼び立てるので、怖ろしくなつて路傍の古井戸の中に投げ込んだと稱して、其の井戸がつい近頃までも有つた。二つも同じ話が有るのが變だと言つたところで、山一つ彼方の伯州のハンザケ、もしくは是から列記しようとする島々の話なども、引比べてみた上で無ければ、本家爭ひは實は出來なかつたのである。私は寧ろ三休だの道善だのと、特殊な固有名詞の伴のうて居るのを將來注意すべきことのやうに思つて居る。

[やぶちゃん注:最後の柳田國男の注意喚起には非常に共感する。

「勝田村大字余野」現在の岡山県美作市余野。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の古吉野から四キロメートルほど東北東の直近である。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。]

 

 但し三休が背の鯰にたゞ驚かされたといふだけで、其名が三休淵の名になるのは少しをかしい。是は事によると淵の主であつた恠魚の名であるのを、後に傳へる者が釣人の名の如く解したのかも知れない。鯰に名があるのも稀有なことに相異ないが、問答でもしようといふには名が無くては濟まなかつたらう。さうして九州には其樣な例もあるのである。大分縣直入郡柏原村の話は、さきに 「民俗學」の一卷五號に、長山源雄氏がこれを報告した。此村嶋田部落の小字網掛の下に、黑太郎淵といふ淵があつた。ある時ヒロトといふ處の者が、爰で網を打つて大きな魚を得た。それを携へて網掛の坂まで上つて來ると、不意に下の淵から、

    黑太郎公、貴公はどけえ行くんか

と、豐後方言で喚びかけた聲がした。すると網の主の魚は之に應へて

    ヒロトさに背の甲あぶりに行く

と言つたさうで、その人も肝をつぶして、網のまゝ其魚を松の木の枝の間に置いて遁げ還つたとある。網掛といふ坂の名は其時からといふらしいが、黑太郎淵の名も當然に其以前には人が知らう筈は無かつた。

[やぶちゃん注:「大分縣直入郡柏原村」「の嶋田」「小字網掛」現在の大分県竹田市荻町柏原附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長山源雄」「ながやまもとお」と読む。明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一年)。愛媛の郷土史研究家。「愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会」公式サイト内のこちらによれば、北宇和郡吉田町本町生まれで、東京錦城中学校卒業後、松山第二十二連隊で軍曹に進んだ後、『自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟』し、大正五(一九一六)年に『「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した』。『さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他』六十余篇を発表、『またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる』。『晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した』とある。]

 

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