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2018/03/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)

 

 自分が何かの折に述べてみたいと思つて居たことは、右の類の猶多くの話が、史學者の側から受くべき待遇を受けて居なかつたことである。等しく村に傳はつた無邪氣な舊話なるに、誤つて一步を踏み越えると直ちに荒唐無稽として却けられ、中に立つ者などがあつて僅かの折合ひをすれば、乃ち史書の逸文の如く尊重せられる。しかも故老の心持から言へば、二者の間には是と云ふ差異も無かつたのである。近松門左が用明天皇職人鑑、古くは又舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話は、固より突如として文章の徒の結構に浮び出るやうな事件で無い。併し何が故に儼乎たる正史の文面に背いて、天皇潛幸のおほけ無き物語を傳へたかを尋ねると、やはり亦誤謬にも一定の徑路のあつたことを知るのである。用明天皇を祀り奉ると云ふ傳は、攝州玉造の森之宮にもあつた(葦乃若葉卷二上)。式内の苅田嶺神社に當ると云ふ磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神にも、用明天皇の御后宮を齋ふと稱して、その御名は豐後と同じく玉世姫である上に、此地に來たつて皇子を生ませたまふと云ふ話もあり、近世の學者には白鳥に依つて日本武尊の誤傳だと、改訂を試みんとした人もあつたが失敗した(神社覈錄卷三三)。自分の觀る所を以てすれば、用明天皇と申し奉る理由は至つて簡明で、神の第一の王子をやはり太子と喚ぶ慣習がもと有つた爲に、其の御父の神を日本で最も有名なる太子の、御父帝なりと解したものに他ならぬ。殊に豐後の眞野長者の傳奇に於て、長老の姫の玉世姫を、宇佐の申し兒とも謂へば、八幡神の放生會の日の弓の式に、微賤の身に隱れたまふ至尊の御上を神託によつて知つたと謂ひ、一方には亦姫嶽の由來をさへも傳へて居るのを見ると(豐後遺事卷上)、神子神巫の大神氏古傳が姫嶽から宇佐まで一貫して、久しく且つ弘く物語られて居たことも想像せられる。東日本に於ては陸中鹿角郡小豆澤の五宮權現、繼體天皇第五の王子を祀ると云ふ古傳が、長者のまな娘召されて御后となつたと云ふ點まで、豐後の例と偶合して居る上に、金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふと云ふ一條は、最も甲斐の黑駒の話に近く、京近くの寺々で大切にして居る太子の緣起が、古いながらに更に由つて來る所あるを知らしめる。其金丸は又丹後では金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だなどゝも傳へるのは、又多くの固有名詞が全然出鱈目ではなかつた證據と謂へば證據である。

[やぶちゃん注:「近松門左が用明天皇職人鑑」近松門左衛門(脚本は竹田出雲)が書いた「用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)」は宝永二(一七〇五)年に竹本義太夫による初演の、全五段から成る人形浄瑠璃。ウィキの「用明天皇職人鑑」によれば、『近松門左衛門の代表作として有名な』「曽根崎心中」が『世間に広く知れ渡るようになり、それを機に竹本義太夫が引退するのを竹田出雲が留まらせ』、宝永二(一七〇五)年に『この脚本を担当したのが』、『作品の始まりであ』った。『楽譜が失われていたため』、『上演は長く途絶えていたが、近年になって三段までの楽譜が大阪から発見され、鶴澤清治の復元により』二〇〇九年に『紀尾井ホールで上演され』ている。内容は、花人親王(はなひとしんのう)と『呼ばれる後の用明天皇が、仏教を厚く信仰し、敏達天皇の息子で仏教廃仏派の山彦王子と対立していくあらすじで』、『経緯としては、最終的に仏教を崇める花人親王が、廃仏派の山彦王子を疎外するといった展開である』。『この作品は主人公のモデルとなった用明天皇が、同じく飛鳥時代の皇族である聖徳太子の父であるという逸話から、後代に伝えられた聖徳太子にまつわる伝説を取り入れているのが特徴である』。『具体的には、用明天皇(花人親王)と、玉世姫』(たまよひめ)『のあいだにできた子が聖徳太子になったというのが、この物語の結末である』(このシノプシスはちょっと荒過ぎる。判りにくいと感じられる方は「文化デジタルライブラリー」のこちらを見られたい)。『この玉世姫とは、大分県に伝わる』「真名野長者伝説」(ウィキの「真名野長者伝説」を参照されたい)に『取材したものであり、「般若姫」というのが本名で、その娘・玉絵姫は、父の用明天皇に会えないまま私生児になったとされているが、一方で、この私生児こそ聖徳太子であるという異説も伝わっている』。『近松門左衛門は、この伝承を蘇えらせたものであり、後者の説を採っている』とある。

「舞の本の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話」「舞の本」は幸若舞(こうわかまい:主として室町時代に流行した舞曲。桃井(もものい)直詮(幼名・幸若丸)の創始という。語りを主とし、扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う)の詞章を記した本。今日では五十曲を数え、「平治物語」「平家物語」「曽我物語」「義経記」「太平記」などの軍記物に取材したものが多いが、他に説話に基づくものもある。古浄瑠璃に大きな影響を与えた。その「烏帽子折」(ゑぼしをり)という曲は、作者・成立年次不詳であるが、題名の初出は天文二〇(一五五一)年(「陰徳太平記」)で、上演記録の初出は永禄六(一五六三)年(「言継卿記」に拠る)。ストーリーは、鞍馬を出た牛若丸が金売吉次一行に加わって東国に下る途中、鏡宿で烏帽子を折らせるが、烏帽子折職人の妻が父義朝の郎等鎌田正清の妹であることを知る。その夜、牛若は独りで元服し、その後、青墓宿に泊まるが、宿の長者は義朝の妾満寿で、牛若の吹いた笛のことから、用明天皇の草刈笛の由来を語り、牛若を義朝を祀る光堂に案内する。牛若はそこでまどろみ、夢中に義朝・兄悪源太義平(義朝の長男)・兄朝長(義朝の次男)の三名が現われ、熊坂長範が率いる盗賊が吉次を襲うことを告げる。夢から醒めた牛若は独りで盗賊を討ち滅ぼす。草刈笛の由来はこの作品では劇中劇のように挿入されているが,内容は真野(まの)長者伝説に拠っている。同材の謡曲に「烏帽子折」「熊坂」「現在熊坂」がある(粗筋は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。後に作られたものであるが、「京都大学電子図書館 貴重資料画像」の「挿絵とあらすじで楽しむお伽草子」の「烏帽子折草子」がよい。「山路」は「さんろ」と読む。

「儼乎」「げんこ」。厳(おごそ)かで厳(いか)めしいさま。厳密な由々しき事実性を属性とすること。

「おほけ無き」畏れ多い。或いは、語り出す話者が「身のほど知らずだ・身分不相応である」の意。

「攝州玉造の森之宮」現在の大阪府大阪市天王寺区玉造元町から大阪市中央区森ノ宮附近。大阪城の東南から東方に当たる地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葦乃若葉」太田南畝の享和元(一八〇一)年の、大坂銅座御用として大坂赴任中の日記。「摂津名所図会」を参考に市中を歩き廻り、当時の大阪の風物を描写した随想風のもの。当該内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「蜀山人全集」の画像のこで視認出来る(左上)。

「式内」「延喜式」の巻九及び十の「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」に記載された式内神社のこと。

「苅田嶺神社」「かつたみねじんじや」。

「磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神」宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場の刈田嶺(かったみね)神社。現在も別号を「白鳥大明神」と称する。「宮城県神社庁」公式サイト内の同神社の解説によれば(地図有り)、『当社は往古倭建尊東征の折、在陣された地を尊崇して、日本武尊を祭り、別号を白鳥大明神と称え奉る』。西暦八五二年、第十四代『仲哀天皇元年冬』十一『月、白鳥社を創設したといわれる。第』五十『代桓武天皇』の延暦二〇(八〇一)年に、『田村麿将軍が中興し、延喜式内名神大に列し、古来、皇室よりの御信仰厚く、藩主伊達家、領主片倉家累代の祈願神社である。当初、大刈田山(青麻山)頂上に鎮座していたが』この延暦二十年に『西の宮の若宮に合祀され』、『その後、永正年中』(一五〇四年~一五二一年)『に現在地に遷宮された。その後、数度の兵火に罹るも、享保』三(一七一八)『年、願主片倉小十郎、村休(領主)、白鳥社一宇を造営奉り、現在の社殿』が『これである』とある。

「用明天皇の御后宮を齋ふ」ウィキの上記の神社の記載に、『穴穂部間人皇女(聖徳太子の母)が当地で斃れたという伝承を創建とするものもある』とあるのが、それ。

「神社覈錄」「じんじやかくろく」と読む。「覈」は「調べる・明らかにする」の意。式内社を始めとする古社を考証した書物で、江戸末期の神官・国学者であった鈴鹿連胤(すずかつらたね 寛政七(一七九五)年~明治三(一八七一)年)著(詳細事蹟はウィキの「鈴鹿連胤」を参照)。全七十五巻。天保七(一八三六)年起稿、明治三(一八七〇)年完成。参照したウィキの「神社覈録によれば、『体裁は、式内社や国史見在社、その他著名な神社を、六国史を始めとする諸書から各神社に関係する記述を引用しながら、社名の訓み・祭神・鎮座地等を考証しているが、当時の状況から引用諸書の中に偽書とされるものも混じるなどの問題がある。また、後日を期して空欄とした箇所も見られるものの』、当時、知られていた限りの「国内神名帳」の『全文を参考として掲げるなど、類書中では最も要領を得たものと評価されていた』とある。

「姫嶽」臼杵市東神野(ひがしこうの)にある標高約六百二十メートルの臼杵市で最も高い姫岳。ここ(グーグル・マップ・データ)。「臼杵市」公式サイト内のこちらに、『真野長者伝説によると、長者の一人娘であった般若姫が欽明天皇(第二十九代)の皇子橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと・後の用明天皇)の妃となって上洛をするときに、長者夫妻が、この山に登って姫を見送ったので、この山を姫見ヶ岳、後に転訛して姫岳と呼ぶようになったと伝えられてい』るとあり、先にリンクしたウィキの「真名野長者伝説」の伝承の骨子の「22」にも、『長者夫婦は山の上から船を見送り、その山は姫見ヶ岳と呼ばれるようになった。また、姫の一行は、途中豊前国の小さな島に立ち寄り、これが現在の姫島(大分県)である』とある。

「豐後遺事」加藤賢成著になる明治十八(一八八五)年刊の大分地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、探すのが面倒。悪しからず。

「神子神巫」「みこ・かんなぎ」。

「大神氏古傳」「おほみわしこでん」。ウィキの「大神氏」より引く。基本的には、『大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。古代氏族の研究』によれば、『三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが』、天武天皇一三(六八四)年十一月に『朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。また』、『三輪氏は元海人族の系譜であって、本願は北部九州の博多平野から、大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であると』もされる(下線やぶちゃん)。「日本書紀」では『神代第八段、一書(異伝)に大三輪神(大物主神)の子は甘茂君・三輪君などと記されており、また巻第五に崇神天皇』八年十二月の条にも『大物主神の子大田田根子は今の三輪君などの祖であると記述されている』。「古事記」でも、『意富多多泥古(おおたたねこ)命は神君(大神)・鴨君(加茂)の祖と記載されているので、大神氏は大物主神の後裔として同神の祭祀をつかさどる有力氏族だったことがわかる』。「新撰姓氏録」の『大和国神別の大神朝臣条によれば、大神氏は素佐能雄命(スサノオ)』六『世孫の大国主の後裔とする』。「日本書紀」によれば、垂仁天皇三年三月、『天日槍が来朝したとき、三輪君の祖の大友主命が遣わされ』、『尋問したという』(以下、後裔の中古の具体的記載が載るが、煩瑣なだけなので省略する)。『中世には大神氏の子孫と称する地下官人の大神氏(おおがし)があり、代々楽人として活躍して、後に家名を山井家(やまのいけ)と称した。南北朝時代に活躍した山井景光(大神景光)は笛の名人として知られ、後醍醐・光明両天皇に笛を伝授し、その功績から雅楽頭を経て従五位上安芸守まで昇った』とある。

「陸中鹿角」(かづの)「郡小豆澤」(あづきさは)「の五宮權現」秋田県鹿角市八幡平にある五の宮嶽(ごのみやたけ)標高千百十五メートルの山頂にある「五の宮権現神社」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「繼體天皇」(允恭天皇三九(四五〇)年?~継体天皇二五(五三一)年?)は第二十六代天皇。在位は継体天皇元(五〇七)年から没年まで。

「第五の王子」実際の皇子に照らし合わせて見ると、後に似た名が出る、椀子皇子(まろこのみこ)丸高王のことか。三国真人(みくにのまひと)姓の祖とされる人物である。母は倭媛(やまとひめ)で三尾君堅楲の娘である。はたまた、この妃やその「第五の王子」なる人物は養老泉に纏わるだんぶり長者伝説とも関与する(リンク先はウィキ)。当話の主人公である夫婦の間の、一人娘が後に継体天皇に仕え、「吉祥姫」と呼ばれ、父母の夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」(「だんぶり」は蜻蛉(とんぼ)のこと。理由はリンク先を参照のこと)と呼ばれたという話である。これの変形した別な話柄が盛岡タイムスサイト内記事にあり、そこでは、この「吉祥姫」は敬体天皇の后(きさき)となったが、亡くなったら、『故郷の小豆沢に戻りたいと言い残したため、大日堂を建立し、近くに墓をつくり吉祥院という寺が建てられ』とされる。そして、吉祥姫の産んだ五番目の五の宮の皇子は『母を慕』って、『鹿角までやってきて、大日堂の後ろにそびえる山へ登り、そのまま姿を隠した。そのとき乗った馬は「ばくだ石」、お供の兄、一の皇子が「皇子石」、あとから皇子を捜しにきた乳母夫婦が「夫婦石」に変わったと伝えられている』(下線やぶちゃん)とあるのである。

「金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふ」ここでの馬の口取りの「金丸兄弟」というのは不詳であるが、この話、前の最後の伝承の下線部の後半と非常に強い親和性が強く感じられる。

「甲斐の黑駒の話」古代、甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられている伝承。甲斐からは朝廷へ駿馬が貢上されたが、それが原話を創り、後に聖徳太子に付会された話となった。詳しくはウィキの「甲斐の黒駒を参照されたい。

「金麿親王と謂ひ、或は聖德太子の御弟椀子親王の御事だ」既出既注であるが、再掲しておく。サイト「丹後の地名」の「筆石(ふでし) 京丹後市丹後町筆石」に、「丹後國竹野郡誌」の「犬ヶ岬」の条に、

   *

「丹後一覽集」、府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王當國へ下向ありて三鬼退治の時、鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて、犬の蹲りたる形狀をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王、比地へ下向の事を誤るなるべし。

   *

とあるという。聖徳太子の弟とあるが、私は聴いたこともない。]

 

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