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2018/03/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 六

 

       六

 

 江戸の二つの話では、簡單に麥飯と片付けられて居るが、是はもと必ずしも魚とその化けた人との合致を、立證する材料として借りられたものでは無かつた。團子や小豆飯等の變つた食物を調製し、集まつてそれを食ふ式日、卽ち古く節供と稱する改まつた日で無ければ、斯ういふ大切な事件は起ることが無いやうに、昔の人が考へて居た名殘でもあれば、同時に又其日の晴の膳に向ふ度每に、一年に一度は想ひ起す機會があつたことを意味するのでもあるが、其事を説かうとすると餘りに長くなる。たゞ一點だけ之に伴のうて述べたいことは、過去の記念物に對する我々の祖先の、敬虔なる態度である。彼等がウソを構へ出すに巧みであり、且つ又之を守持するに頑強であつたやうな誤解は、不幸にして主として是に基いて居るのであつた。古人は性靈の大いなる刺衝[やぶちゃん注:「ししよう」。突き刺すことから転じて、刺激すること。]に遭ふ每に、文士を傭うて之を金石に勒[やぶちゃん注:「ろく」。刻み彫ること。]せしむるが如き技術は知らなかつた。だから一家一郷の間に於ても、永く保存し得る場處又は地物[やぶちゃん注:「ぢ・ぶつ」と読みたい。土地や対象物の意である。]を指定して、日を期し相會して當時を追念し、更に感激を新たにしたのであつた。是が祭と名くる公けの行爲の、根源を爲すものと私などは信じて居る。少なくとも我々の靈地はそれぞれの傳説を持ち、又傳説のあるといふことが靈地の條件であつた。然るに人生は決して平和なる親子孫曾孫の引續きでなかつた。飢饉や動亂の間には記憶は屢〻絶え、獨り外形の最も貴とげなる遺蹟のみが、累々として空しく里閭[やぶちゃん注:「「りりよ」。村里。村落。]に滿ちたのであつた。新たなる傳説の來つて之に據らんとすることは自然である。しかも世上には職業として之を運ぶ者が、昔ほ今よりも遙かに多かつたのである。巫覡[やぶちゃん注:「ふげき」。神に仕えて祈禱や神降ろしをする者。「巫」は女性に(巫女(みこ))、「覡」は男性に使う。]遊行僧の妄談は必ずしもすべて信ぜられはしない。土地に住む人たちが周圍の事情、殊に内心の表示し得ない感覺によつて、受持し又信賴すべしとするもののみが、再び根を下し蔓をからみ、花咲き茂ることになつたのである。我々の語り物の沿革は、文字に現われた部分だけは、所謂國文學の先生も知つて居る。以前は此資料が概して單純であり、土地で養はれた知識經驗が、たゞ無意識に組合はされて出たゞけであつたが、後次第に其供給の源が複雜となつて、其大部分は是を昔通りの傳説として、乾いた海綿の水を吸ふように、受取ることが出來なくなつた。併し根本の需要はもと缺乏の補充に在つたが故に、永い間には比較的殘り易いものが殘つたのである。一旦京を通つて來た外國の文學が、假に一隅に於いて再び傳説となつて信ぜられて居ようとも、其を以て直ちに上古諸種族の親近を證明することが出來ぬのは勿論だが、さりとて唯偶然の誤謬とばかりも解することは許されぬ。恐らくは是も亦磁石と鐵との關係であつて、種は外から來ても牽く力は兼て内に潛んで居たのである。さうで無いか否かを檢する爲に、少なくとも話を日本人にわかり易く、又覺え易くした手順を究めて見る必要がある。所謂要點の比較だけによつて、無造作に説話の一致を説くことの、徒らに大きな混迷の渦卷を起すに過ぎなかつたことは、我々は既に例の羽衣式、又三輪式傳説などの研究と稱するものに由つて、經驗させられて居るのである。

[やぶちゃん注:「羽衣式、又三輪式傳説などの研究」羽衣伝説が視覚的外形の類似から白鳥伝説と結び付けられ、汎世界的な異類婚姻譚の一種である白鳥処女説話として安易な包括的拡大解釈が出ていること、三輪山伝説の活玉依姫に通う男が龍蛇の体を成す神であったことから、やはり広汎な異類婚姻譚の中に取り込まれ、比較神話学者の格好の餌食となっていったことを指すのであろう。次に出る「蠶神」「名馬と美姫」といった「おしらさま」伝承も同じく異類婚姻譚である。]

 

 中古以來の輸入説話にして、まだ最初の衣裳を脱ぎ盡して居ない爲に、この國へ來てからの變化の痕の、幾分か尋ね易いものも段々ある。東北地方に行はれて居る蠶神の由來、名馬と美姫とが婚姻して天に昇つたというのもそれかと思つて居るが、この大魚の飯を食つたといふ話などもそれと近い。之を土地に適用して居る昔からの約束と繋ぎ合せ、幽かに遺つた住民の感覺と、相反撥せぬものに引直して行くことは、隨分と面倒な仕事であつたらうと思ふが、幸ひに聽衆の多數が大まかであつたために、初期の歐羅巴の耶蘇教徒はそれに成功し、日本でも田舍巡りの布教僧たちは、古くは曼荼羅や三十番神の思想に據り、近くは又物々しい緣起の漢文などを以て、どうにか斯うにか目的を達していた。今の人の目から見るとをかしな事も多い。本地物(ほんぢもの)などゝ謂つたのは、途方もない外國風の奇談を述べたて、末に只一句此人後に何々明神となる、實は何如來の化身であつて、衆生に物の哀れ世の理[やぶちゃん注:「ことわり」。]を示したまふべく、假の姿を見せられたなどと謂つて居る。そんな事でも一應はまず濟んだのである。その代りには永くは榮えなかつた。やがて忘れられ又は只の昔話に化し、或はえせ文人の小説の趣向になつた。併し斯うして居るうちにも、少しづゝ沈澱して此島の土に混じ、分つべからざるに至つたものもあつた筈で、私が是れから尚色々の諸國の例を集めて見ようとして居るのも、目的は結局何が殘り、何が國風と調和せずして、消え去るべき運命を有つて[やぶちゃん注:「もつて」持って。]居たかを知りたいからである。

[やぶちゃん注:「三十番神」(さんじゅうばんしん:現代仮名遣)国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

 

 例へば三河の寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚、昔大鰻が僧に化けて來て、田村將軍に射殺された。其屍を埋めたといふ言ひ傳へになつて居る。腹から飯が出て來たといふ話はもう落ちて居るが、其後此沼の水を汲む者が、皆疫病になつたとも稱して、鰻を殺したのが悔ゆべき所業であつたことだけは察せられる。毒蛇退治の他の多くの物語と同じく、それが追々と英雄及び靈佛の功績の方に移つて來たのである。實際飯を魚腹に探るの一條などは、後の耽奇派には何でも無いことだが、昔の常の人の想像力には、稍荷が勝ち過ぎて居たのである。次には下總銚子の白紙明神の由來譚にある鮭と蕎麥、是は同僚鈴木文四郎君などが詳しく知つて居るが、單に一個の長者沒落物語の、前景を作る爲に利用せられて居た。今の松岸の煙花卷に近く、昔は垣根の長者という宏大なる富豪が住んで居た。利根の流れに簗(やな)を打つて、鮭を漁して此樣な長老にはなつたのである。或日一人の旅僧來たつて、殺生の業報を説いて諫めたけれども、それを聽かずして蕎麥を食はせて歸した。是も後に大いなる鮭の魚を獲て、腹を開けば卽ち蕎麥が出たといふのである。長者最愛の一人娘延命姫、其祟を受けて生れながらにして白髮であつた。折ふし此土地に流寓していた安倍晴明を戀ひ慕ふとあつて、日高川と同系の話が傳はつて居る。晴明は姫を欺いて、帶掛の松に帶を解きかけ、何とかの濱に下駄を脱ぎ置き、身を投げた如く裝うて遠く遁れた。姫はその跡を逐ひ歎き悲しんで海に入り、其亡骸が漂うてこの磯邊に上つたといふのである。是だけの細かな又美しい哀話が、曾て一たび遊女の扇拍子に乘つたもので無いといふことは、恐らくは一人も之を斷言し得る者はあるまい。しかも其結構には右の如く、彼等の與かり知らざる由緒があつたのである。だから私どもは記錄を超脱して居る民間口承の文藝にも、やはり後遂に尋ね究め得べき興味深き沿革あることを信じて居るのである。もつと率直にいふならば、今日殘つて居るだけの僅かなテキストに基いて、一國の文學史を説こうとする人の迂拙[やぶちゃん注:「うせつ」。うかつで世渡りの下手なこと。愚かで拙(つたな)いこと。]を嘲けるのである。

[やぶちゃん注:「寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚」「寶飯」は「ほい」ろ読む。「長澤村」は現在の愛知県豊川市長沢町であるが、「泉龍院」という寺は現認出来ない。「鰻塚」は成田三河守氏のサイト「城郭写真記録」の中の「三河 鰻塚城」に、鰻塚城跡として愛知県豊川市長沢町西千束を指示おられ、その解説で鰻塚城は標高百十メートルの『丘陵斜面に築かれ、長沢本城の西の砦として造ったものと思われる。坂上田村麻呂が巨大鰻を退治し、里人が祟りを恐れて鰻塚を築いたという伝説があることから、鰻塚城と称されたと云われる。現在は宅地、道路に変わり、遺構は無い』とあることから、この附近(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。また、この附近のを流れる音羽川下って見たところ、約四・七キロメートル下流の豊川市赤坂町東裏に, 真言宗の「龍泉院」という寺を見出せた(グーグル・マップ・データ))。しかし、同寺の創建年代や「鰻塚」がここにあるかどうかはネット上では捜し得なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「下總銚子の白紙明神」現在の千葉県銚子市川口町にある川口(かわぐち)神社のこと。ウィキの「川口神社によれば、寛和二(九八六)年の『創建と伝えられる。この神社には陰陽師安倍晴明と地元の長者の娘との言い伝えが残り、長者の娘が晴明と結ばれないことを苦に入水し、その歯と櫛を祀ったことから歯櫛明神(はくしみょうじん)とよばれ、白紙明神とも書かれるようになった。明治に入り』、『現在の川口神社と改められた』とある。同外部リンクにある、コミュニティ・サイト「きらっせネット歴史館」の「川口神社」には、『銚子市川口町の松に囲まれた丘の上にあるこの神社は銚子大漁節にも出てくる漁師の守り神』で、『速秋津姫(はやあきつひめ)を祀ってい』るとし、『この白紙という名前は悲しい物語に由来するようで』、『銚子近在の娘に延命姫という娘がいた。非常に醜いむすめだったそうな。陰陽師の安部清明と夫婦になったが』、『清明は姫を嫌って』、『長者の家を逃げ出し、飯岡上永井村の向後主水宅の大仏壇の中に隠れた。追いかけてきた姫は主水に「清明はいない」と断られた。屏風ヶ浦西端近い通連洞(銚子市、飯岡町)に行ってみると』、『清明の脱ぎ捨てた衣類などがあったため、姫も間違えて』、『身を投げて死んだ。川口に流れ着いた姫の歯や櫛をこの岡に埋め祠を建てた。だから白紙(歯櫛)神社なのだという。川口神社←白神明神←白紙神社←歯櫛明神と』四『度の名前換えがあったよう』であるとする(この名前の変遷を見ると、当初は「齒櫛」で「はぐし」で、それが「はくし」となり、白紙を「しらがみ」と読み換えて「白神」となったように読めるが、柳田國男の謂いからすれば、川漁殺生(主体たる御霊は鮭)の祟りのために「白髮」(しらがみ)となって生まれた姫所縁ということなら、「齒櫛」とは異なる命名ルーツ説があることになる。面白い)。『現在で』も『漁業者の信仰が厚』いとされ、『安部清明の伝説に関して言えば、この御話しの信憑性は非常に高い。これは晴明が銚子にやってきた際に宿泊したとされる家が分かっている』からであるともある。それは『初めは下総国小南村(香取郡東庄町小南)の笹本太夫三、次に笹本の紹介で海上郡三宅郷垣根村(銚子市垣根)の長者・根本右兵衛義貞に匿われていたと言う。上記の延命姫はその子供である。清明ゆかりの場所はほかに』も『銚子市陣屋町』に『清明稲荷大明神、清明堂(銚子市親田町)があ』るとある。そういやぁ、鎌倉にも安倍清明の屋敷跡と称する怪しいものも実はある(現在の北鎌倉駅から建長寺に向かって横須賀線の踏切を渡った右手)。

「鈴木文四郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二六(一九五一)年)はジャーナリスト。ペン・ネームは文史朗。千葉県銚子生まれ。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語科卒業。大正六(一九一七)年、東京朝日新聞に入社し、外報部に勤務、翌年、シベリア出兵従軍を皮切りに、パリ講和会議やロンドン・ワシントン両軍縮会議に特派員として活躍、国際記者として名を馳せた。社会部長・整理部長などを歴任した後、昭和一五(一九四〇)年には取締役となって社の経営に参画した。第二次世界大戦後、重役一斉退陣により、昭和二〇(一九四五)年十一月に退社。翌年には『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長に就任している。昭和二四(一九四九)年NHK理事。翌年六月の参議院議員に当選し、「緑風会」で講和問題に取り組もうとした矢先、癌で倒れた。名文家として世に知られ、「米欧変転記」「文史朗随筆」など著書も多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

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